笹沢 左保(ささざわ さほ、1930年〈昭和5年〉11月15… 笹沢 左保(ささざわ さほ、1930年〈昭和5年〉11月15日 - 2002年〈平成14年〉10月21日)は、日本の小説家。本名は笹沢 勝(ささざわ まさる)。 テレビドラマ化されて大ヒットした『木枯し紋次郎』シリーズの原作者として知られ、推理小説、サスペンス小説、恋愛論などのエッセイ他、歴史書等も著し、380冊近くもの著書を残した。 詩人笹沢美明の三男として東京府淀橋町(現・東京都新宿区)にて出生。その後、神奈川県横浜市に移った。父は貿易商だった祖父の遺産を受け継いだが、財産を使い果たして貧困の中で育つ。子供の頃から探偵小説を愛読し、雑誌『ロック』の懸賞小説にも応募した。 横浜では関東学院高等部に通うが、家出を繰り返し、中退(資料によっては1948年卒とも記される)。
米谷 ふみ子(こめたに ふみこ、1930年11月15日 - … 米谷 ふみ子(こめたに ふみこ、1930年11月15日 - )は、日本出身の作家・画家。本名は富美子。ロサンゼルス近郊パシフィック・パリセイズに在住。 大阪市に生まれる。大阪府立夕陽丘高等女学校、大阪女子大学(現在の大阪府立大学)国文科卒業。1957年、油絵を二科展に出品して関西女流美術賞を受ける。1960年に奨学金を受けて渡米。抽象画家としてアメリカ合衆国ニューハンプシャー州の芸術家村マクダウェル・コロニー(MacDowell Colony)に移住したとき、ジョシュ・グリーンフェルドと出会う。 ニューヨークでジョシュと結婚し、夫との間に二人の息子を持つ(長男のカール・タロウは現在文筆家)。 自閉症の次男ノアの子育てと画家活動が両立困難になったことから文筆活動に転じた。
堀部 美行(ほりべ みゆき、1930年(昭和5年)11月15… 堀部 美行(ほりべ みゆき、1930年(昭和5年)11月15日 - 2013年(平成25年)9月13日)は、日本の美容家であり、教育家でもある。韓国・又松大学校客員教授、山野美容芸術短期大学客員教授を務めた。岡山県倉敷市出身。 1930年(昭和5年)岡山県浅口郡玉島町(現:倉敷市)にて誕生する。その後、1943年(昭和18年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学し、東京都渋谷区長とつとめる小倉基、学問分野で流行学の創始をした宮本悦也がいた。1948年(昭和23年)同校を卒業する。 堀部の学生時代は、旧制中学と新制高校との切替えと戦争直後の混乱時期が重なり世の中が安定しなかった。
鷲見 禎彦(すみ よしひこ、1930年〈昭和5年〉11月15… 鷲見 禎彦(すみ よしひこ、1930年〈昭和5年〉11月15日 - 2024年3月29日)は、日本の実業家。元日本原子力発電社長。 滋賀県出身。鷲見健康・菊枝の二男。1953年(昭和28年)京都大学工学部電気工学科を卒業し、関西電力に入社する。副支配人中央送変電建設事務所長、支配人北陸支社長、同福井原子力事務所長、取締役、常務、専務、副社長を経て、1999年(平成11年)日本原子力発電社長に転じた。2004年(平成16年)6月、同相談役となった。社長在任中は敦賀3、4号機の増設計画など、原子力発電開発の推進に取り組んだ。 2024年3月29日に老衰のため死去。93歳没。
阿部 政康(あべ まさやす、1930年(昭和5年)11月15… 阿部 政康(あべ まさやす、1930年(昭和5年)11月15日 - 2021年(令和3年)4月2日)は、日本の政治家。北海道伊達市長。 北海道静内郡静内町(現新ひだか町)出身。北海道庁立苫小牧工業学校卒業。 1948年(昭和23年)伊達町役場に奉職し、税務課長、農政課長、水道課長、総務課長、総務部長を経て、1983年(昭和58年)伊達市議会事務局長に就任。1987年(昭和62年)伊達市長に当選した。3期務めた。 2002年(平成14年)勲五等双光旭日章受章。 2021年(令和3年)4月2日、老衰のため死去、90歳。
小畠 郁生(おばた いくお、1929年11月15日 - 20… 小畠 郁生(おばた いくお、1929年11月15日 - 2015年9月19日)は、日本の古生物学者。 もともとアンモナイトを中心とする無脊椎動物の研究者であるが、日本国内の数少ない中生代(特に白亜紀)の動物の研究者として多数の恐竜関連の書籍の監修、翻訳を行った。また、1993年に日本における恐竜研究についての現状、方法をまとめた『恐竜学』を編纂、神流町恐竜センターの名誉顧問を行うなど日本における恐竜研究の普及に尽力した。 1929年、福岡県に生まれる。旧制逗子開成中学校から1945年、海軍兵学校に第78期生として入学するも、敗戦により退校。九州大学理学部地質学科を卒業後、1956年に九州大学大学院理学研究科博士課程中退。
鈴木 治(すずき おさむ、1926年11月15日 - 200… 鈴木 治(すずき おさむ、1926年11月15日 - 2001年4月9日)は日本の陶芸家。馬や鳥、雲や太陽などをモチーフにした抽象的フォルムの詩情あふれる作品で高く評価される。戦後の陶芸界をリードした走泥社の創立メンバー。京都市立芸術大学名誉教授。 1926年千家十職の永樂工房で轆轤(ろくろ)職人をしていた鈴木宇源治の三男として京都市五条坂に生まれ、早くから父に轆轤の手ほどきを受ける。1943年京都市立第二工業学校(現・京都市立伏見工業高等学校)窯業科を卒業。 戦後1946年中島清を中心に、京都の若手陶芸家が集まって結成された青年作陶家集団に参加。1948年解散。 同1948年八木一夫、山田光らとともに、陶芸による新しい造形表現を目指す前衛陶芸家集団走泥社を結成。
新盛 辰雄(しんもり たつお、1926年〈大正15年〉11月… 新盛 辰雄(しんもり たつお、1926年〈大正15年〉11月15日 - 2025年〈令和7年〉7月24日)は、日本の政治家。元日本社会党衆議院議員(5期)。 鹿児島県鹿児島市出身。1943年(昭和18年)、鹿児島実業学校(現在の鹿児島実業高等学校)土木科卒。翌年、鹿児島鉄道に入社。1948年(昭和23年)社会党に入党し、国労鹿児島地本書記長、同執行委員長を経て、鹿児島県総評議長を3期務める。1976年の総選挙で鹿児島1区から立候補して初当選。通算5期務めた。1993年の総選挙で落選し、政界から引退した。 1997年(平成9年)4月の春の叙勲で勲二等瑞宝章を受章する。 2025年(令和7年)7月24日14時27分、老衰のため、鹿児島市内の病院で死去した。
田中 明子(たなか あきこ、1926年11月15日 - 20… 田中 明子(たなか あきこ、1926年11月15日 - 2020年12月9日)は、日本の翻訳家。 児童文学作家・瀬田貞二の盟友で、主に児童文学の翻訳を行った。代表作にJ・R・R・トールキンの『指輪物語』(瀬田による翻訳の改訂)、『シルマリルの物語』などがある。 中世仏教文化史の研究者であった田中久夫は、明子の夫にあたる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
内山 知也(うちやま ちなり、1926年11月15日 - 2… 内山 知也(うちやま ちなり、1926年11月15日 - 2018年7月29日)は、日本の漢文学者、筑波大学名誉教授。斯文会常務理事、漢字文化振興会常務理事。専門は漢文小説。 1926年、新潟県生まれ。東京文理科大学漢文学専攻で学んだ。卒業後は同大学研究科へ進んだが、太平洋戦争の戦局悪化により応召し、1945年に復学。 その後は、新潟大学教育学部講師に着いた。大東文化大学助教授・教授を経て、1976年より筑波大学教授となった。1980年に学位論文『隋唐小説研究』を筑波大学に提出して文学博士号を取得。1992年に筑波大学を定年退官し、名誉教授となった。同年より大東文化大学教授となり、1997年に退職した。
利根 はる恵(とね はるえ、本名:飯野 静子(いいの しずこ… 利根 はる恵(とね はるえ、本名:飯野 静子(いいの しずこ)、1924年〈大正13年〉11月15日 - 2005年〈平成17年〉4月27日)は、日本の元女優。演技派の脇役。利根 はるゑとも表記される。千葉県千葉市出身。 1924年、東京府生まれ。松竹少女歌劇団の松竹少女歌劇学校を1年で中退し、松竹大船入社。芸名は池上鶴代。 丸山定夫の苦楽座を経て、1947年、新宿ムーラン・ルージュに入り、1949年東宝『今日われ恋愛す』でデビュー。 1950年、新東宝入社、『熱泥地』で初主演。 1952年、大映と本数契約。山本薩夫監督の『真空地帯』の娼婦を演じた。 1953年、現代俳優協会に参加、『ひめゆりの塔』などに出演。
清水 望(しみず のぞむ、1924年(大正13年)11月15… 清水 望(しみず のぞむ、1924年(大正13年)11月15日 - 2014年(平成26年)12月3日[要出典])は、日本の法学者、早稲田大学名誉教授。 内村鑑三の弟子・清水繁三郎の子として長崎県長崎市に生まれる。1948年早稲田大学政経学部政治学科卒、助手、講師、助教授、1960年教授。1970年「西ドイツの政治機構」で政治学博士(早稲田大学)。1995年定年退任、名誉教授。妻の義弟が松澤弘陽。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
上崎 美恵子(こうざき みえこ、1924年11月15日 - … 上崎 美恵子(こうざき みえこ、1924年11月15日 - 1997年9月2日)は、日本の児童文学作家。福島県二本松市出身。本名・美枝子。 1924年11月15日、福島県二本松市に生まれる。6歳の時に一家で上京。青山学院高等女子部(現・青山学院中等部・高等部)を1940年に卒業し、青山学院女子専門部(現・青山学院女子短期大学)に進学(のち1年次修了後に休学、中退)。東京大空襲のため故郷の二本松に疎開。戦後まもなく結核に罹り、国立中野療養所に6年間入所。その間に児童文学を読み耽り、自身も1972年から自作童話を書き始める。1976年「魔法のベンチ」「ちゃぷちゃっぷんの話」で第6回赤い鳥文学賞受賞。
池田 善蔵(いけだ ぜんぞう、1923年11月15日- )は… 池田 善蔵(いけだ ぜんぞう、1923年11月15日- )は、広島県出身の元プロ野球選手(投手)。
弓削 三男(ゆげ みつお、1922年(大正11年)11月15… 弓削 三男(ゆげ みつお、1922年(大正11年)11月15日 - 2002年(平成14年)1月26日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 福岡県八女市出身。1950年(昭和25年)に九州大学文学部仏文学科を卒業し、同年に九州大学大学院の特別研究生として在学。翌1951年(昭和26年)に九州大学専任講師となる。1956年(昭和31年)にはフランスのストラスブール大学に、次いで翌1957年(昭和32年)にパリ大学に留学した。 1962年(昭和37年)に九州大学の教授となったのち、1964年(昭和39年)に早稲田大学第一文学部の専任講師となった。さらに翌1965年(昭和40年)に早稲田大学第一文学部の助教授となると、以降1969年(昭和44年)から1970年(昭和45年)まで早稲田大学大学院文学研究科を兼任した。
西八條 實(にしはちじょう みのる、1922年11月15日-… 西八條 實(にしはちじょう みのる、1922年11月15日- 2015年2月1日 )は、日本の経営者、工学博士。島津製作所社長、会長を務めた。 京都府京都市出身。1945年に京都帝国大学工学部を卒業し、京大大学院に進学したが、1947年7月に中退し、島津製作所に入社。1973年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1985年3月に副社長に就任し、翌年6月には社長に昇格した。1992年6月から会長を務め、1998年6月から相談役を務めた。 1986年11月には藍綬褒章を受章し、1993年4月には勲二等瑞宝章を受章した。 1996年1月から1999年5月まで関西経済連合会の副会長。 2015年2月1日、老衰のために死去。
渡辺 絢吾(わたなべ じゅんご、1921年11月15日 - … 渡辺 絢吾(わたなべ じゅんご、1921年11月15日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。
古濱 庄一(ふるはま しょういち、1921年11月15日 -… 古濱 庄一(ふるはま しょういち、1921年11月15日 - 2002年1月10日)は、日本の工学者、教育者。武蔵工業大学(現東京都市大学)名誉教授、元学長。水素エネルギー協会元会長。工学博士。 レシプロエンジンのピストンリング研究の大家。ピストンリングの動的潤滑理論の確立や実働状態におけるピストンとピストンリングの温度、潤滑油消費量、シリンダー変形などの実験方法を開発する。1970年代頃より日本で初めて水素エンジンの研究に取り組み、水素自動車の基礎研究と試作を行った。実験を重視する研究姿勢で水素エンジン特有のバックファイア問題の解決に尽力した。また、研究の傍ら一般や青少年向けの本を執筆し普及に努めた。
武内 文平(たけうち ぶんぺい、1921年11月15日 - … 武内 文平(たけうち ぶんぺい、1921年11月15日 - )は、日本の俳優。本名同じ。別名義:五藤 雅博(ごとう まさひろ)。 岡山県備前町出身 。日本大学芸術科卒業。 日本統治時代の朝鮮の全羅南道光陽郡で生まれる。大学卒業後、1947年、劇団文化座の創立に参加。その後は、劇団創造座を経て、劇団七曜会に入団、1957年に退団した後はグループ・てえぶらに所属し、活動の中心をラジオに移す。その後、富士放送プロ、つくしグループ創立参加。風の会、エヌ・エー・シー、楡プロダクション、サン・プロモーションに所属していた。北海道深川市在住。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
下山 順一(しもやま じゅんいち、1921年11月15日 -… 下山 順一(しもやま じゅんいち、1921年11月15日 - 2014年10月26日)は、日本のアナウンサー。 大正10年(1921年)11月15日、東京市下谷区下根岸に生まれる。早稲田大学卒業後、昭和24年(1949年)日本放送協会(NHK)にアナウンサーとして入局。名古屋中央放送局、静岡放送局、新潟放送局、大阪中央放送局でアナウンス業務に従事した。特にスポーツ実況中継に多く携わり、大相撲、高校野球、プロ野球、ラグビー、国民体育大会等の幅広い種目で、ラジオ実況さらに放送が開始されたテレビでの実況中継を担当した。昭和33年12月、民間放送テレビ局の1社として新たに開局した名古屋市東区に本社を置く東海テレビ放送(THK)にアナウンス室長として移籍。
小堀 鐸二(こぼり たくじ、1920年11月15日 - 20… 小堀 鐸二(こぼり たくじ、1920年11月15日 - 2007年9月5日)は、日本の建築構造学者。構造家。京都大学名誉教授。(株)鹿島建設最高技術顧問。専門は、耐震工学・地震工学。 京都大学教授、建設省・通産省の建築部会長、鹿島建設代表取締役副社長を歴任、1986年11月株式会社小堀鐸二研究所を設立。高層ビルの制震構造を開発、実用化した。 1950年代に「制震理論」を提唱、「制震」という言葉を世に広めた。小堀は関東大震災を2歳9カ月で被災している。小堀は、地震に対して受け身の姿勢でなく、能動的に対処していく必要を説き、「難度が最も高い地震を制御できれば、風による振動や機械振動など他の振動の制御はよりたやすくなる」「制御技術の難易度からすれば、むしろ『制震』が『制振』を包含するとみなければならない」と述べている。
渡辺 健三(わたなべ けんぞう、1919年11月15日 - … 渡辺 健三(わたなべ けんぞう、1919年11月15日 - 2011年3月5日)は、日本の経営者、銀行家。北越銀行頭取を務めた。 新潟県出身。1943年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年10月に横浜正金銀行に入行した。1946年3月に長岡中学校に奉職し、1949年8月に北越銀行に転じ、1968年11月に取締役に就任し、1970年5月に常務、1976年10月に専務を経て、1981年6月には頭取に就任。1987年6月に会長、1993年6月に取締役相談役を経て、1995年6月には相談役に就任。 1986年11月に藍綬褒章を受章し、1991年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 2011年3月5日、心不全のために死去。
大内 照子(おおうち てるこ、1918年11月15日 - 没… 大内 照子(おおうち てるこ、1918年11月15日 - 没年不詳)は、日本の女優である。本名、大内 幸香(おおうち ゆきこ)。 1918年(大正7年)11月15日、愛媛県伊予郡砥部町大字原町に生まれる。4歳上の兄に俳優の大内弘(本名・大内一郎)がいる。 1936年(昭和11年)3月、愛媛県立松山高等女学校(現在の愛媛県立松山南高等学校)を卒業すると同時に、兄の在籍するマキノ正博の新会社マキノトーキー製作所に入社する(第二期入社)。同年4月29日に公開された根岸東一郎・マキノ正博共同監督による『加賀見山』に出演して、満17歳で映画界にデビューした。同社は1937年(昭和12年)4月末には解散しており、葉山純之輔や兄の大内弘ら大半の俳優は新興キネマ京都撮影所(現在の東映京都撮影所)に移籍、マキノ正博、澤村國太郎、光岡龍三郎、照子と同期の水原洋一、田村邦男、團徳麿、志村喬、大倉千代子、大久保清子らは日活京都撮影所に移籍していくが、照子は、同社跡地に、甲陽映画から独立して今井理輔が設立した「今井映画製作所」に移籍した。
沢田 広(澤田 廣、さわだ ひろし、1918年11月15日 … 沢田 広(澤田 廣、さわだ ひろし、1918年11月15日 - 2002年2月10日)は、日本の政治家。衆議院議員。 埼玉県大宮市(現さいたま市)出身。 1941年(昭和16年)日本大学文理学部(高等師範)卒業。国鉄職員から国鉄労働組合役員、大宮市議会議員を経て、1959年から大宮市選出の埼玉県議会議員を4期務める。 1972年総選挙に日本社会党公認で旧埼玉1区から立候補するが落選。 旧1区から旧埼玉5区が分離独立した1976年総選挙では旧5区から立候補し、初当選を果たした。以後衆議院議員を6期務める。 この間1979年(昭和54年)11月に衆議院交通安全対策特別委員会理事・1989年(平成元年)に衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長を務める。
打吹 美砂(うちぶき みさ、本名:藤本 千栄子、旧名:知江子… 打吹 美砂(うちぶき みさ、本名:藤本 千栄子、旧名:知江子、旧姓:米本、1918年(大正7年)11月15日 - 2010年(平成22年))は、元宝塚歌劇団(元花組主演男役および娘役クラス、元花組組長。)の人物である。鳥取県倉吉市出身。芸名は同郷の上級生である高砂松子が故郷の打吹公園の名前をとって命名した。宝塚歌劇団時代の公称身長は160cm。宝塚歌劇団時代の愛称はヨネちゃん(旧姓の米本から)。改名前は打吹 たもとであった。 1931年、21期生として、宝塚音楽歌劇学校(現在の宝塚音楽学校)に入学し、宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)に入団。当時は入学イコール入団で学校と劇団は一体であった。 1948年 - 1951年・1953年 - 1960年、花組組長。
浅井 礼三(あさい れいぞう、1917年11月15日 - 1… 浅井 礼三(あさい れいぞう、1917年11月15日 - 1985年5月26日)は、千葉県印旛郡成田町成田(現在の成田市本町)出身の野球選手、実業家、馬主。早稲田大学在籍時には「100万ドルの名外野手」と謳われた。 旧制成田中学校を経て1935年に早稲田大学に入学した。全国中等学校優勝野球大会での実績がないなか同大学の野球部に入部し、中堅手としてレギュラーに選出された。1938年に早稲田大学専門部商科を卒業。1939年には現役の選手でありながら、唐津中学の監督に就任。これは、同校野球部の強化を望んでいた学校関係者が、同校卒業生で当時早大野球部に在籍していた下尾勝馬を通しての依頼であるという。当初は1週間ほどの予定であったが、指導に熱が入ったため、最終的には45日間にもわたる熱心な指導となった。
山本 尚敏(やまもと ひさとし、1916年11月15日 - … 山本 尚敏(やまもと ひさとし、1916年11月15日 - 生死不明 )は、神奈川県出身のプロ野球選手(内野手、外野手)。 関東中学校では、1934年の夏の甲子園に出場。卒業後は日本大学に入学するが、中退して簡易保険局でプレーした。 1936年の大東京軍結成に参加する。1937年は兵役に就いていたが、復帰後の1938年秋になると大友一明に代わって正二塁手に入り、1939年には松岡甲二との併用であったが遊撃手としてチーム最多の61試合に起用され、打率.189ながら規定打席に到達した(リーグ55位)。この年の10月20日の対阪急軍戦では日本プロ野球記録となる同一守備位置(遊撃手)での5失策を犯している。
岡村俊民(おかむら としたみ、1916年(大正5年)11月1… 岡村俊民(おかむら としたみ、1916年(大正5年)11月15日 - )は、日本の農学者。学位は、農学博士(北海道大学・論文博士・1960年)。北海道大学名誉教授。元北海道拓殖短期大学学長。広島県出身。 1934年(昭和9年)広島県立広島第一中学校卒業。1941年(昭和16年)北海道帝国大学農学部農学科卒業。 間もなく兵役のため入隊。1946年(昭和21年)復員。 1947年(昭和22年)北海道帝国大学農学部助手。1949年北海道大学農学部付属農林専門部教授。酪農学園短期大学酪農科助教授を経て、1963年(昭和38年)帯広畜産大学畜産学部教授。1965年(昭和40年)北海道大学農学部教授。1973年(昭和48年)同附属農場長。
大森 正男(おおもり まさお、1916年11月15日 - 2… 大森 正男(おおもり まさお、1916年11月15日 - 2002年5月14日)は、日本の経営者。淀川製鋼所社長、会長を務めた。高知県出身。 1940年に立命館大学専門部を卒業し、同年に淀川製鋼所に入社。1962年5月に取締役に就任し、1965年5月に常務、1969年5月に専務を経て、1977年3月に副社長に就任し、同年6月には社長に昇格。1995年6月に会長に就任。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1987年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年5月14日呼吸不全のために死去。85歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
浜田 台児(はまだ たいじ、旧字体: 濱田 臺兒、1916年… 浜田 台児(はまだ たいじ、旧字体: 濱田 臺兒、1916年(大正5年)11月15日 - 2010年(平成22年)9月1日)は、鳥取市出身の日本画家。本名は浜田 健一(はまだ けんいち)。 鳥取県気高郡正条村(現・鳥取市気高町浜村)に生まれる。伊東深水、橋本明治に師事する。1935年(昭和10年)、19歳の時に深水に入門、日展に出品を重ねる。鮮明な色彩による人物・花鳥画を得意とする。1975年(昭和50年)日展文部大臣賞、1980年(昭和55年)日本芸術院賞受賞、1989年(昭和59年)日本芸術院会員。日展顧問。1990年(平成2年)気高町名誉町民。 画集に『浜田台児画集』(邦画会、1961年)がある。
金 光俊(キム・グァンジュン、朝鮮語: 김광준、1915年1… 金 光俊(キム・グァンジュン、朝鮮語: 김광준、1915年11月15日 - 1971年2月24日または3月)は、大韓民国の警察公務員(警監)、政治家、弁護士。第3代春川警察署長、制憲・第2・5代韓国国会議員を歴任した。 本貫は義城金氏(朝鮮語版)。元国会議員の金命潤は弟、呉俊碩は妹の夫。 日本統治時代の江原道(現・慶尚北道)蔚珍郡平海出身。中央大学専門部法科卒。朝鮮弁護士試験合格、総督府普通文官試験合格、日本高等文官試験司法科・行政科合格。全羅南道道属・警務課長、第3代春川警察署長(1946年7月18日~1947年10月25日)、弁護士、無所属の国会議員、国会内務治安委員、憲法起草委員、高試司法行政両科委員、自由党党員、民主党所属の国会議員、民政党結党全党大会副議長を務めた。
中沢 洽樹(なかざわ こうき、1915年11月15日- 19… 中沢 洽樹(なかざわ こうき、1915年11月15日- 1997年6月18日)は、日本の聖書学者。立教大学名誉教授。 高知県生まれ。1938年東京帝国大学文学部宗教学科卒業。1950年から1952年までニューヨークのユニオン神学校に留学。1954年立教大学文学部キリスト教学科助教授、のち教授。1962年「第二イザヤ研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。1980年定年退任、名誉教授。
桜庭 信之(さくらば のぶゆき、1915年11月15日 -2… 桜庭 信之(さくらば のぶゆき、1915年11月15日 -2011年10月25日)は、日本の英文学者、東京教育大学・国際短期大学名誉教授。櫻庭信之が正しい表記。 中華民国・ハルビン市生まれ。秋田県で育つ。1937年東京高等師範学校英語科卒業。1943年(旧制)東京文理科大学英文科卒業。1945年東京文理科大学大学院修了後、1946年東京高等師範附属小学校教諭。1948年東京文理科大学附置東京高等師範学校教授。1952年東京教育大学文学部助教授。1954年ロンドン大学留学(1955年まで)。1967年1月「絵画と文学 ホガース論考」で東京教育大学で文学博士取得。1967年4月東京教育大学文学部教授。
宮口 精二(みやぐち せいじ、1913年〈大正2年〉11月1… 宮口 精二(みやぐち せいじ、1913年〈大正2年〉11月15日 - 1985年〈昭和60年〉4月12日)は、日本の俳優。本名は宮口 精次。身長159 cm。 築地座を経て文学座に参加し幹部座員として多くの舞台に立ち、文学座退団後は東宝演劇部に所属し商業演劇に出演した。戦後から映画にも多く出演、巨匠監督の作品に立て続けに起用され脇役として活躍した。主な出演映画に『七人の侍』『張込み』『日本のいちばん長い日』など。亡くなるまで約15年間、編集兼発行人として季刊『俳優館』を出し続けた。 1913年(大正2年)11月15日、東京府東京市本所区緑町(現:墨田区緑)に、大工の父・周市と母・もとの6人兄弟の次男として生まれる。
大佐古 一郎(おおさこ いちろう、1912年(大正元年)11… 大佐古 一郎(おおさこ いちろう、1912年(大正元年)11月15日 - 1995年(平成7年))は、昭和時代のジャーナリスト・著作家。広島市での原爆被災をはさむ長い時期にわたって、在広島の地方紙である中国新聞の記者を務めた。 広島県山県郡壬生町(現・北広島町)生まれ。1933年に(旧制)山陽中学を卒業したのち日本大学予科に入学。同大学文学部に学んだのち、標準教科書出版協会・哈爾濱日日新聞社を経て、1939年中国新聞社に入社。この間、中国大陸で兵役に就く。県政(広島県庁・中国総監府)担当記者であった33歳時、1945年8月6日に原爆に被災した。同社が壊滅して幹部・同僚記者が多数被爆死し、また敗戦後の枕崎台風によって疎開先の印刷工場も機能停止に陥るなか、辛くも生き延びて戦後の再建に参加した。
滝田 菊江(たきた きくえ、1912年11月15日 - 19… 滝田 菊江(たきた きくえ、1912年11月15日 - 1949年8月6日)は、昭和時代の声楽家。 東京府立第二高等女学校を経て、東洋音楽学校(本科声楽科)卒。ソプラノを専攻。日本ビクター入社後、同社合唱団の一員となり、1936年(昭和11年)からビクター専属歌手としての経歴が始まる。藤原歌劇団のプリマドンナとして活躍したが、三十代で病没した。 父は総合雑誌『中央公論』の名編集者として知られる滝田樗陰で、その三女。滝田菊江の「デビューのときは、かつて樗陰の庇護を受けた文壇大家が、こぞって後援したので、舞台より客席のほうが豪華版だと評判になった」という。 1943年の東宝映画「音楽大進軍」(渡辺邦男監督)に藤原義江(本人役)の妻という設定で出演していて、藤原義江とともに「愛国行進曲」とプッチーニ「トスカ」二重唱を歌唱する姿を見ることができる。
北楯 修哉(きただて しゅうや、1912年11月15日 - … 北楯 修哉(きただて しゅうや、1912年11月15日 - 1997年1月31日)は、将棋棋士、九段。木村義雄十四世名人門下。棋士番号は24。山形県鶴岡市出身。 (棋士番号の割り当てがない棋士 → 「template:日本将棋連盟引退棋士」参照) この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
伊藤 喜久井(いとう きくい、1911年(明治44年)11月… 伊藤 喜久井(いとう きくい、1911年(明治44年)11月15日 - 2002年(平成14年)6月8日)は、日本画家。山形県鶴岡市七日町出身。
内藤 雅喜(ないとう まさよし、1911年(明治44年)11… 内藤 雅喜(ないとう まさよし、1911年(明治44年)11月15日 - 1988年(昭和63年)12月3日)は、昭和時代の日本の経営者 、実業家。 内藤節爾・タケの長男として東京に生まれる。1934年(昭和9年)大阪帝国大学機械工学科卒。現・三井化学の前身である東洋高圧工業に入社。東洋高圧工業化工事業開発室長を経て、1961年(昭和36年)東洋エンジニアリング設立とともに専務となる。1965年(昭和40年)同社副社長、1968年(昭和43年)社長、1982年(昭和57年)会長に就任。1987年(昭和62年)6月相談役となる。尿素を原料とした肥料プラントの輸出振興に努め同社の経営基盤を築いた。身障者への奉仕活動に尽力する。
津田 松苗(つだ まつなえ、1911年(明治44年)11月1… 津田 松苗(つだ まつなえ、1911年(明治44年)11月15日 - 1975年10月9日)は、兵庫県出身の昆虫学者。男性。とりわけ水生昆虫学、汚水生物学の日本への導入とその研究で知られる。日本陸水学会元会長。 主な著書に『水生昆虫学』『水質汚濁の生態学』、『汚水生物学』がある。 1911年、兵庫県尼崎市に生まれた。京都に移り住み、旧制第三高等学校に進学、ドイツ語を専攻した。当初医学を志望していたが、健康を損ねて断念し、1932年に京都帝国大学(現:京都大学)理学部に進学、動物学を専攻した。動物学教室で川村多実二に師事し、水生昆虫の研究を行った。 1935年に同大を卒業し、大学院に進学した。1937年、交換留学生としてドイツのミュンヘン大学に留学、デモル教授(1882-1960)に師事した。
松本 七郎(まつもと しちろう、1911年11月15日 ‐ … 松本 七郎(まつもと しちろう、1911年11月15日 ‐ 1990年5月15日)は、日本の政治家。位階は従三位。元衆議院議員(11期)。 福岡県北九州市出身。実業家・松本健次郎の七男。1937年、慶應義塾大学法学部政治科を卒業。同大法学部助手、高等部講師、時事新報記者、黒崎窯業社員を経て1946年、戦後初の総選挙で福岡2区から初当選した。日本社会党では教宣局長、国際局長などに就いた。 1949年、妻であった松尾千代子と離婚。松尾は文化放送でプロデューサーを務めながら引き取った子供を育てた。 日本社会党に属し、1960年の安保国会では飛鳥田一雄・石橋政嗣・岡田春夫・戸叶里子らとともに「安保7人衆」の一人として政府追及の先頭に立った。
籠山 京(篭山 京、かごやま たかし、1910年11月15日… 籠山 京(篭山 京、かごやま たかし、1910年11月15日 - 1990年6月16日)は、日本の衛生学者。 長崎県南高来郡小浜町(現・雲仙市)出身。1934年慶應義塾大学医学部卒。1938年「煖房に関する衛生気象学的研究」で医学博士。慶大講師、満鉄衛生研究所員、1944年同衛生試験所長。引き上げ後、中央労働学園大学教授、法政大学教授、1952年北海道大学教授。1969年上智大学教授。1981年定年、名誉教授。社会保障制度審議会委員など。1976年、著書の『戦後日本における貧困層の創出過程』について日本生活学会賞受賞、1983年勲二等瑞宝章受勲。著作集全8巻がある。 貧困層を調査、最低生活費について研究した。
品川 司(しながわ つかさ、戸籍名:藤戸 光秀、旧名:韓 光… 品川 司(しながわ つかさ、戸籍名:藤戸 光秀、旧名:韓 光秀、1910年〈明治43年〉11月15日 - 1992年〈平成4年〉12月3日)とは、朝鮮忠清南道燕岐郡出身の政治運動家、平和運動家、頭山満門下の右翼である。 私財をつぎこんで授産所や診療所の運営を行っていた。 原水協に先んじて、原水爆実験禁止運動を手がけて、100万人の署名運動を起こした。 世論新聞社社主、平和公論社社主、財団法人平和厚生会理事長、国民民主党総裁、日本民主党総裁。 自称していた略歴は下記の通り。 本籍東京都、広島県出身。1938年誠進會設立、1940年専修大学経済専科卒。1945年国弘通信社社主、誠進會を政経社に改組。
マキノ 光雄(マキノ みつお、明治42年(1909年)11月… マキノ 光雄(マキノ みつお、明治42年(1909年)11月15日 - 昭和32年(1957年)12月9日)は、日本の映画プロデューサー。「日本映画の父」として知られる牧野省三の第六子(次男)であるが、母方の姓を継いだので本名は多田 光次郎(ただ みつじろう)である。子役時代の芸名は牧野 光次郎、別名として多田 満男、牧野 満男、マキノ 満男がある。父の没後のマキノ・プロダクション御室撮影所総務部長、日活京都撮影所製作部次長、同多摩川撮影所企画部長、満洲映画協会娯楽映画部長、東横映画撮影所長、東映東京撮影所長、同社専務取締役製作部長を歴任した。 1909年(明治42年)11月15日、京都市西陣に生まれる。
大島 里喜(おおしま りき、1909年11月15日 - 19… 大島 里喜(おおしま りき、1909年11月15日 - 1986年)は、日本の歌手(民謡歌手)。本名は大久保 里喜(おおくぼ りき)。 大島里喜は、東京都・伊豆大島・大島町の民謡「大島節」や「あんこ節」の歌い手、第一人者で、大島節を日本全国に広げ、伊豆大島の観光資源化に寄与貢献した。また、大島民謡という郷土芸能・郷土文化を、後世に口承・伝承する役目を担った。大島御神火太鼓を創始したのも大島里喜である。 1909年(明治42年)、11月15日、大島里喜(本名・大久保里喜)は、東京都伊豆大島・元村(現在の大島町・元町)に生まれる。父・大久保虎吉、母・柳瀬志げ(伊豆大島志考記載)。 1925年(大正14年)、唄の神様と言われた柳瀬シズに唄を勧められ、大島民謡を本格的に習い始める。
橘 直治(たちばな なおじ、1908年11月15日 - 19… 橘 直治(たちばな なおじ、1908年11月15日 - 1997年9月10日)は、日本の実業家。政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)。長男は橘康太郎(衆議院議員)、孫は橘慶一郎(高岡市長、衆議院議員)。 富山県射水郡守山村(現:高岡市)出身。実業家橘林太郎の二男として生まれる。1931年早稲田大学商学部卒。伏木海陸運送社長、守山村議、高岡市議、同議会議長を務め、1946年の第22回衆議院議員総選挙において日本進歩党で富山県から出馬し初当選。翌年より富山2区となり、衆議院議員を3期務めた。1949年第3次吉田内閣で賠償政務次官。1959年より高岡市商工会議所会頭。1969年春の褒章で長年、海陸運送業に携わって貿易関係団体要職に就いて特にソ連との貿易尽力し輸出の振興に寄与したとして藍綬褒章受章。
対馬 勝雄(つしま かつお、1908年(明治41年)11月1… 対馬 勝雄(つしま かつお、1908年(明治41年)11月15日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中尉。 二・二六事件の反乱部隊に参加した青年将校の一人で、事件当日に首相官邸襲撃を実行し、事件後に死刑判決を受け、銃殺刑に処せられた。 青森県南津軽郡田舎館村垂柳の貧農の生まれ。 1915年(大正4年)春から青森師範学校附属尋常小学校に通い始め、成績優秀で3年から終業式の度に運動が優等として壇上に呼ばれたり、全科目の成績は10段階評価でほとんどが10であった。勉強好きで本を好んでいたが家計のことを考えて買って欲しいと頼むことはなかった。卒業式では総代となり、褒章に国漢文辞書を貰った。
蝋山 芳郎(ろうやま よしろう、1907年〈明治40年〉11… 蝋山 芳郎(ろうやま よしろう、1907年〈明治40年〉11月15日 - 1999年〈平成11年〉9月30日)は、日本のジャーナリスト、国際問題評論家。 筆名は高山五郎。蠟山政道、山田勝次郎、小山長四郎の弟。息子は高岡短期大学学長などを務めた蝋山昌一。 群馬県高崎市歌川町に生まれる。1925年(大正14年)に旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業し、旧制第一高等学校理科乙類へ進学するが1929年(昭和4年)に中退。1936年(昭和11年)同盟通信社に入社し、特派員としてインド、ビルマに滞在。1946年(昭和21年)に帰国し、共同通信社東亜部長を務める。1960年(昭和35年)に同社を退職し独立。
松平 一郎(まつだいら いちろう、1907年(明治40年)1… 松平 一郎(まつだいら いちろう、1907年(明治40年)11月15日 - 1992年(平成4年)12月24日)は、日本の銀行家。会津松平家の分家当主で、東京銀行、カリフォルニアファーストバンクの各会長。 秩父宮雍仁親王妃勢津子は妹、徳川宗家第18代当主の徳川恒孝は次男。 松平容保の六男松平恆雄、鍋島直大の四女信子の長男としてイギリスのロンドンで生まれる。成蹊中学、水戸高を経て、1932年(昭和7年)に東京帝国大学文学部支那哲学科を卒業。さらに同大学経済学部にも学ぶ。この間の1928年(昭和3年)に勢津子(節子)が秩父宮雍仁親王に嫁いだ。1934年(昭和9年)、横浜正金銀行に入行し本店勤務となるが、近衛歩兵第1連隊で兵役に就き、陸軍少尉に任官している。
飛田 多喜雄(ひだ たきお、1907年11月15日 - 19… 飛田 多喜雄(ひだ たきお、1907年11月15日 - 1991年2月8日)は、日本の国語教育学者。成蹊大学文学部教授を歴任。 千葉県山武郡豊成村(現・東金市)生まれ。1928年千葉県師範学校卒、市川尋常高等小学校訓導となる。1939年成蹊小学校教諭、1947年成蹊中学校教諭。1949年『実践国語』編集長となる。1963年成蹊高等学校教諭。1970年成蹊大学文学部教授、1978年定年退任。1965年『国語教育方法論史』で垣内松三賞、1974年博報賞、1985年著作集『国語科教育方法論大系』全10巻で石井賞(全国大学国語教育学会賞)受賞。