金 鍾珞(キム・ジョンナク、朝鮮語: 김종락または김종낙、1… 金 鍾珞(キム・ジョンナク、朝鮮語: 김종락または김종낙、1920年5月16日 - 2013年8月22日)は、大韓民国の実業家。 第9・12代大韓野球協会(現・大韓野球ソフトボール協会)会長を歴任した。兄は金鍾翊、弟は金鍾泌。 日本統治時代の忠清南道扶余郡出身。公州高等普通学校(現・公州高等学校(朝鮮語版))、日本大学商経学部経済科卒。韓一銀行(現・ウリィ銀行)専務、大韓卓球協会副会長、第9・12代大韓野球協会(現・大韓野球ソフトボール協会)会長(1966年~1980年および1989年~1992年)、ソウル銀行(現・KEBハナ銀行)銀行長、コリアタコマ設立者兼会長(1970年~1991年)、国際野球連盟副会長(1980年~1996年)、アジア野球連盟会長(1983年~1995年)などを務めた。
上野 裕久(うえの ひろひさ、1918年5月16日 - 19… 上野 裕久(うえの ひろひさ、1918年5月16日 - 1997年10月8日)は、日本の憲法学者。 宮崎県北諸県郡高城町(現・都城市)出身。本籍・熊本県。1942年東京帝国大学法学部卒、宮崎大学助教授、佐賀大学助教授、1966年岡山大学教授となり、1984年定年退官、名誉教授、広島修道大学教授を務めた。1991年勲三等旭日中綬章受勲。
塚越 敏(つかごし さとし、1917年5月16日 - 200… 塚越 敏(つかごし さとし、1917年5月16日 - 2008年2月25日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。慶應義塾大学名誉教授。 1917年、東京生まれ。東京帝国大学文学部独文科卒業。慶應義塾大学文学部独文科教授を務め、定年退任し名誉教授。 2008年2月25日、慢性呼吸不全のため死去。 リルケを研究テーマとした。『書簡集』、『作品集』訳に多く参加した。1996年に『リルケとヴァレリー』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
紺野 陽吉(こんの ようきち、1913年5月16日 - 19… 紺野 陽吉(こんの ようきち、1913年5月16日 - 1945年10月3日)は、山形県生まれの作曲家。 1913年、山形県西置賜郡東根村大字畔藤(現白鷹町畔藤)で生まれる。紺野家は祖父の代からの医者の家で、陽吉は男3人女3人の6人兄弟の次男であった。県立長井中学校 (現山形県立長井高等学校) を1931年に卒業し、上京する。親は医学の道を望んだが、本人は自分の好きな音楽の道へ進む。立教大学交響楽団やコンセール・ポピュレール (後の青年日本交響楽団) というセミプロ楽団でヴァイオリンを弾く。生活の糧は、当時さかんに発売されていたポピュラー音楽のレコード録音の伴奏者として得ていたものと考えられる。
瀧内 正(たきうち ただし、1913年(大正2年)5月16日… 瀧内 正(たきうち ただし、1913年(大正2年)5月16日 - 2006年(平成18年)6月11日)は、日本の政治家。都城市長を2期歴任した。 福岡県浮羽郡、のちの浮羽町(現うきは市)で生まれた。1934年(昭和9年)福岡師範学校を卒業。さらに1943年(昭和18年)明治大学法科を卒業。 1944年(昭和19年)1月、都城市役所に入所した。同市職組合長、資材課長、厚生課長、庶務課長、総務課長を歴任。1953年(昭和28年)都城市議会議員に選出され2期在任。1976年(昭和51年)都城市長に選出され2期在任した。 1976年、前市長の堀之内久男が衆議院議員総選挙出馬に無所属で出馬を表明したために、後任の市長を選出するための選挙を行う。
藤間 生大(とうま せいた、1913年5月16日 - 201… 藤間 生大(とうま せいた、1913年5月16日 - 2018年12月10日)は、日本の歴史学者、考古学者で、古代日本史から近代東アジア史まで幅広く研究を行った。 広島市生まれ。1936年、早稲田大学文学部史学科卒。1938年、日本評論社入社、戦前には教育科学研究会生活教育研究部会に参加。1945年7月、埼玉県立浦和中学校教諭、1949年、民主主義科学者協会事務局常任書記長、1951年まで務める。1952年の第25回衆議院議員総選挙及び1953年の第26回衆議院議員総選挙に埼玉1区から出馬するが落選。1971年、熊本商科大学教授、同付属海外事情研究所長、1982年、退職。 日本共産党に属し、戦後しばらく、マルクス主義歴史学者として、井上清、石母田正と並んで盛名を馳せ、当時の学生の必読書となった。
正示 啓次郎(しょうじ けいじろう、1911年5月16日 -… 正示 啓次郎(しょうじ けいじろう、1911年5月16日 - 1994年4月17日)は、日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員、経済企画庁長官。
東伏見 慈洽(ひがしふしみ じごう、1910年〈明治43年〉… 東伏見 慈洽(ひがしふしみ じごう、1910年〈明治43年〉5月16日 - 2014年〈平成26年〉1月1日)は、日本の僧侶。旧皇族。旧華族。久邇宮邦彦王の第3王子。旧名邦英王(くにひでおう)。香淳皇后の弟。第125代天皇・明仁(上皇)は甥、第126代天皇・徳仁(今上天皇)は大甥にあたる。妻は伯爵・亀井茲常の次女・東伏見保子。元衆議院議員・亀井久興は妻の甥。後述の経緯により1931年に皇族の身分ではなくなったが、皇族出身者としては記録に残る限りで一番長寿であった人物である(死去時点で103歳7か月16日、37851日)。 1910年(明治43年)、久邇宮邦彦王の第三男子として誕生。東伏見宮依仁親王・同妃周子より実子のように可愛がられており、子女がなかった同夫妻は、邦彦王と相談の上、当時9歳であった邦英王を東伏見宮に永く預かりの形で迎えることとなり、邦英王は、1919年(大正8年)10月26日の吉辰を卜して東伏見宮邸に移った。
近盛 晴嘉(ちかもり はるよし、1910年5月16日 - ?… 近盛 晴嘉(ちかもり はるよし、1910年5月16日 - ?)は、日本のジャーナリスト、歴史家。 兵庫県出身。早稲田大学政治経済学部卒。大阪毎日新聞記者をへて、大阪読売新聞社勤務。1965年定年退職、帝塚山学院短期大学教授を務め、78年定年退職。ジョセフ彦記念会会長を務めた。
島田 伊平次(しまだ いへいじ、1908年〈明治41年〉5月… 島田 伊平次(しまだ いへいじ、1908年〈明治41年〉5月16日 - 没年不詳)は、日本の実業家。元高島副社長、同社相談役。 1908年、東京都生まれ。高千穂高等商業学校第13回卒業。 1937年高島屋商店に入社。その後監査役に選ばれ、1942年高島屋工業取締役資材部長に就任。 工機営業各部長、日本染色監査役を経て常務取締役になり、後副社長に推され1972年定年退職をした。 その他、タカシマビルデング、日本騒音コンサルタント社長を務めた。 妻は高島創業者の高島幸太吉の娘・静枝。
砂原 茂一(すなはら しげいち、1908年5月16日 - 1… 砂原 茂一(すなはら しげいち、1908年5月16日 - 1988年6月15日)は、日本の医師。 明治41年生まれで三重県阿山郡大山田村(現伊賀市)出身。1933年に東京帝国大学医学部を卒業後に1943年に医学博士。1933年(昭和8年)から国立療養所に勤め、結核薬の効用、手術成績などを研究。1957年(昭和32年)から国立療養所化学療法共同研究班班長として、結核薬の科学的薬効検定結果を発表した。国立東京療養所長を経て1961年から国立療養所東京病院長。1967年に厚生省薬事審議会に入り、1973年に同省の医事紛争に関する研究班班長を務めた。1978年に名誉院長となる。1965年に人類遺伝学会賞を受賞、1987年(昭和62年)にスモン基金賞を受賞する。
立石 春美(たていし はるみ、明治41年(1908年)5月1… 立石 春美(たていし はるみ、明治41年(1908年)5月16日 - 平成6年(1994年)4月27日)は昭和時代から平成時代のかけての日本画家。 明治41年(1908年)に佐賀県佐賀郡大和町(現・佐賀市)に生まれる。本名は春美(はるよし)。清方の作品に接して画家を志し、昭和2年(1927年)に上京、洋画家の梶原貫五の紹介により清方に入門を願うがかなわず、翌昭和3年(1928年)に深水画塾に入り、伊東深水に師事、日本画を学ぶ。昭和6年(1931年)に第12回帝展に「淑女」を出品、初入選を果たす。以降、帝展や新文展で活躍する。昭和26年(1951年)、朝倉賞を受賞する。その後、日展の委嘱を経て昭和38年(1963年)、日展審査員となった。
杉本 勲(すぎもと いさお、1907年5月16日 - 199… 杉本 勲(すぎもと いさお、1907年5月16日 - 1991年4月28日)は、日本の歴史学者。 東京府豊多摩郡大久保村(現・東京都新宿区)生まれ、岐阜県出身。1932年東京帝国大学文学部国史学科卒。宮内省図書寮編修員、日本大学助教授、教授、九州大学九州文化史研究施設教授を経て、1969年九大文学部教授、1971年定年退官、名誉教授、高知県立大学教授、武蔵工業大学教授を務めた。近代日本技術史が専門。 1991年4月28日、脳梗塞のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
恒憲王妃 敏子(つねのりおうひ としこ、1903年〈明治36… 恒憲王妃 敏子(つねのりおうひ としこ、1903年〈明治36年〉5月16日 - 1995年〈平成7年〉3月23日)、のちに賀陽 敏子(かや としこ)は、日本の旧皇族。賀陽宮恒憲王の妃。九条道実公爵令嬢。貞明皇后は叔母、昭和天皇は従兄にあたる。戦後皇籍離脱。
太田 耐造(おおた たいぞう、1903年(明治36年)5月1… 太田 耐造(おおた たいぞう、1903年(明治36年)5月16日 - 1956年(昭和31年)3月21日)は、日本の検察官、司法官僚、弁護士。 東京出身。東京帝国大学法学部卒業。 東京地方裁判所検事、司法省刑事局第六課長、司法省会計課長、甲府地方裁判所検事正、満州国司法部刑事司長を歴任し、1944年、大審院検事となった。 この間、司法省刑事局第六課長時代の1941年、治安維持法改正に関わり、長年の懸案事項であった予防拘禁制を立案し盛り込んだ。さらに国防保安法の立案立法化も手がけた。また、ゾルゲ事件捜査に関わった。 塩野季彦を頂点とする思想検事の主流「塩野閥」において、佐藤祥樹、岸本義広、佐野茂樹らとともに「塩野閥四天王」の一人に数えられ、戦後も岸本派はその実、太田派とされた。
野副 鉄男(のぞえ てつお、1902年5月16日 - 199… 野副 鉄男(のぞえ てつお、1902年5月16日 - 1996年4月4日)は、日本の化学者、理学博士。台北帝国大学教授を経て、戦後、東北大学理学部教授、同大学名誉教授。文化勲章受章者、日本学士院会員、仙台市名誉市民(本籍地は東京都新宿区)。 宮城県仙台市に生まれる。旧制仙台一中、旧制二高を経て、1926年(大正15年)に東北帝国大学理学部化学科を卒業。同年7月当時日本領であった台湾に渡り台湾総督府専売局に勤務する。1927年(昭和2年)工業部に籍を置き、台湾総督府中央研究所助手となる。1929年(昭和4年)台湾に台北帝国大学が新設されると理農学部化学科助教授に就任し、有機化合物の構造研究や大学の教育に尽力した。
平井 弥之助(ひらい やのすけ、1902年(明治35年)5月… 平井 弥之助(ひらい やのすけ、1902年(明治35年)5月16日 - 1986年(昭和61年)2月21日)は日本の電力土木技術者、電力事業経営者。昭和時代の電力開発に卓越した見識と強い使命感をもって貢献したと伝承されている。また女川原子力発電所等の建設にあたっては貞観地震、慶長三陸地震による大津波を考慮した適切な技術的助言を与えた。平井彌之助とも書く。 主な経歴は『土木史研究』第18号による。 平井は次に示す伝承のように、技術者としての合理性と電気事業者としての責任感に基づいて地震・津波対策の重要性を説いた。地震・津波の恐ろしさを実感していたと云われ、「貞観大津波(869年)は岩沼の千貫神社まで来た」と語っていたという。
湯浅 与三(ゆあさ よぞう、1902年(明治35年)5月16… 湯浅 与三(ゆあさ よぞう、1902年(明治35年)5月16日 - 1977年(昭和52年)12月17日)は、日本の牧師である。 湯浅治郎と湯浅初子の第13子として京都府に生まれる。1910年(明治43年)に東京府に移り、日本組合基督教会霊南坂教会に通う。1919年(大正8年)11月16日、霊南坂教会牧師小崎弘道から洗礼を受ける。その後、青山学院(旧制)高等学部を卒業して米国へ留学し、オーバリン大学神学部を卒業、1931年(昭和6年)に帰国する。1940年(昭和15年)、按手礼を受け牧師になる。佐久、沼田の教会の牧師をした後、初台教会に移った。墓所は多磨霊園。
小川 一平(おがわ いっぺい、1902年(明治35年)5月1… 小川 一平(おがわ いっぺい、1902年(明治35年)5月16日 - 1982年(昭和57年)8月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 政治家小川平吉の長男として長野県諏訪郡富士見村(現富士見町)に生まれる。東京高等師範付属小学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学政治学科卒業。昭和4年(1929年)三菱銀行に入行、同17年(1942年)に退社、同年戦時生活相談所常任理事に就任し、岡谷市に支所を設けて、首都圏から諏訪地方への工場疎開を推進した。 同21年(1946年)第22回衆議院議員総選挙に長野県から出馬し当選。同26年(1951年)後楽園スタヂアム取締役、同32年(1957年)常務、同42年(1967年)副社長、同46年(1971年)花月園観光社長を歴任した。
石川 善助(いしかわ ぜんすけ、1901年〈明治34年〉5月… 石川 善助(いしかわ ぜんすけ、1901年〈明治34年〉5月16日 - 1932年〈昭和7年〉6月27日)は、日本の詩人。 宮城県仙台市国分町芭蕉の辻(現・青葉区内)に生まれる。生家は小間物問屋だった。幼少時に柿の木から落下する事故に遭い、片足が不自由となる。1914年(大正3年)に市立仙台商業学校(現・仙台市立仙台商業高等学校)へ入学。商業学校時代から詩作を始める。一方、入学翌年に生家が破産した。 商業学校卒業後、酒販店の勤務を経て、1920年から藤崎呉服店計算課に勤める。1923年に同人誌『感触』を友人とともに発行する。1924年には『日本詩人』に初めて詩が掲載された。この年、前年廃刊にした『感触』のメンバーも含める形で『北日本詩人』を創刊する。
里見 明(さとみ あきら、1901年〈明治34年〉5月16日… 里見 明(さとみ あきら、1901年〈明治34年〉5月16日 - 1972年〈昭和47年〉12月27日)は、日本の俳優である。サイレント映画時代の映画スターである。本名は松本 米三(まつもと よねぞう)。「浅草オペラ」のスターから映画俳優に転向した。旧芸名小松 明(こまつ あきら)。 1901年(明治34年)5月16日、東京府東京市本所区向島須崎町(現在の東京都墨田区向島4-5丁目のあたり)に生まれる。兄はのちの映画監督の松本英一である。築地工手学校(現在の工学院大学)予科を修了後、太平洋画会(現在の太平洋画会研究所)で洋画を学んだが、兄同様に芝居に転向していく。 佐藤紅緑の劇団「日本座」に入団し函館で初舞台を踏み、浅草公園六区の「観音劇場」、新日本劇団を経て、「浅草オペラ」の根岸大歌劇団に入団、「小松明」名で一躍人気を集めた。
児玉 正雄(こだま まさお、1899年5月16日 - 199… 児玉 正雄(こだま まさお、1899年5月16日 - 1997年7月25日)は、日本の経営者。関西ペイント社長を務めた。山口県出身。 1923年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、後に関西ペイントに入社。1937年に取締役に就任し、1945年9月に顧問、1947年12月に再び取締役、1955年5月に常務、1964年5月に副社長を経て、1966年5月から1969年11月までに社長を務めた。1972年11月には名誉顧問に就任。 1964年9月に藍綬褒章を受章し、1969年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1997年7月25日心不全のために死去。98歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
辻山 治平(つじやま じへい、1897年5月16日 - 19… 辻山 治平(つじやま じへい、1897年5月16日 - 1974年7月29日)は、日本の内務官僚。官選県知事、茨城県教育委員長。 岩手県胆沢郡水沢町(現在の奥州市)出身。盛岡中学、第一高等学校を経て、1922年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1923年、内務省に入り福岡県属となる。 以後、福岡県朝倉郡長、同県糟屋郡長、同県社寺兵事課長、栃木県書記官・経済部長、山形県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、神奈川書記官・警察部長などを歴任。 1941年5月、徳島県知事に就任。1942年10月、茨城県知事に転じた。1943年7月、茨城県知事を退任。
山田 良秀(やまだ よしひで、1893年5月16日 - 19… 山田 良秀(やまだ よしひで、1893年5月16日 - 1978年1月7日)は、日本の経営者。 佐賀県佐賀市出身。1919年に行文行政科に合格し、1920年に東京帝国大学法学部英法学科を卒業し、同年に逓信省に入省し、岡山郵便局長、経理局長、航空局長官などを歴任。1943年に退官し、北海道配電(のちの北海道電力)社長に就任。北海道放送取締役、北日本航空社長なども歴任。 1978年1月7日老衰のために死去。84歳没。
石川 興二(いしかわ こうじ 1892年5月16日 - 19… 石川 興二(いしかわ こうじ 1892年5月16日 - 1976年3月25日)は、昭和時代に活動した日本の経済学者、教育者。経済学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授。 第六高等学校を経て、1917年に京都帝国大学法科大学政治経済科を卒業。在学時には西田幾多郎の指導を受け、日本では先例のない経済哲学を研究した。経済学は河上肇を師として慕った。1920年より京都帝国大学経済学部講師、彦根高等商業学校教授を務め、1926年から京都帝国大学経済学部助教授、次いで1930年には教授となった。同年、同大学経済学博士。1937年から評議員として大学運営に参画、1939年に経済学部長に就任。1943年には著書『新体制の指導原理』(1940年)の記述内容が帝国議会に於いて問題視され休職処分を受けている(いわゆる石川事件)。
松尾 長造(まつお ちょうぞう、1891年(明治24年)5月… 松尾 長造(まつお ちょうぞう、1891年(明治24年)5月16日 - 1963年(昭和38年)5月21日)は、日本の文部官僚。広島女子高等師範学校校長。 長崎県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。1920年(大正9年)、第八高等学校教授となる。ついで文部事務官、督学官・書記官、宗教局宗教課長・保存課長、社会教育局成人教育課長・庶務課長などを歴任し、1937年(昭和12年)に宗教局長となり、1940年(昭和15年)には図書局長に転じた。同年日語文化協会内に日本語教育振興会が設置され、同協会理事長の阪谷芳郎の依嘱により、松尾が委員長に就任。 戦争末期の1945年(昭和20年)、新設された広島女子高等師範学校校長に就任した。
佐竹 哲雄(さたけ てつお、1890年5月16日 - 198… 佐竹 哲雄(さたけ てつお、1890年5月16日 - 1981年3月26日)は、広島県出身の哲学者。主な専門は現象学。勲四等瑞宝章受賞。 広島県出身。第四仏教中学卒業後。1916年、東京帝国大学文学部哲学学科卒業。1919年、第八高等学校教授に就任。1945年、同職を退職。1949年、熊本大学教授に就任。1951年、東京都立大学教授に就任。1957年、東洋大学教授に就任。 1981年3月26日、逝去。享年90歳。墓所は青山霊園。
竹内 克巳(たけうち かつみ、1890年(明治23年)5月1… 竹内 克巳(たけうち かつみ、1890年(明治23年)5月16日 - 1973年(昭和48年)2月22日)は、大正から昭和期のジャーナリスト、出版業者、政治家。衆議院議員。号・夏積。鳥居素川の愛弟子として知られた。「克己」と表記される場合がある。 福井県福井市出身。京都で成長した。京都帝国大学文科大学文学科で学んだ。 大阪朝日新聞社に入社し、記者として務め、その後、海外特派員となった。鳥居に抜擢され1919年(大正8年)大正日日新聞社販売部長となるが、販売不振のため退職。その後、満州日報社取締役主筆を務めた。戦時下、外務省の外郭団体(文化団体)「聞人会」を主宰し理事長となり銀座のビルに事務所を置いていた。
野澤 一郎(のざわ いちろう、1888年5月16日 - 19… 野澤 一郎(のざわ いちろう、1888年5月16日 - 1978年5月20日)は、日本の発明家、実業家。巴コーポレーションの創業者。紫綬褒章や藍綬褒章を受章。 栃木県河内郡本郷村(現上三川町本郷地区)東汗出身。本郷小学校(現本郷中学校)を経て、1906年真岡中学校(現栃木県立真岡高等学校)卒業。1910年東京高等工業学校(現東京科学大学)機械科卒業、千代田瓦斯入社。1917年巴組鐵工所を創立。立体構造建築の研究開発に従事し、1932年ダイヤモンドトラスを発明。1933年建築組成材骨組法を発明。1938年全国発明表彰大賞受賞。1944年藍綬褒章受章。1948年日本鉄塔協会設立、会長。1956年紫綬褒章受章。
村田 三郎(むらた さぶろう、1888年5月16日 - 19… 村田 三郎(むらた さぶろう、1888年5月16日 - 1968年以降没)は福岡県出身の実業家。田中鉱山の社員を経て流山鉄道の社長及び会長を務めた。義兄に中大路氏道。 福岡県、後の小倉市で1888年(明治21年)5月16日に村田政之助の三男として生まれる。1914年(大正3年)に東京高等商業学校(後の一橋大学)を卒業すると、東京市京橋区北紺屋町(中央区八重洲)の田中本店に入社した。三郎は千澤専助の四女・経子を妻とし、義父の千澤が1896年(明治29年)に創設した下谷銀行及び東洋貯蓄銀行の取締役にも1920年(大正9年)就任している。社長・田中長兵衛のもと最盛期には国内鉄需要の過半数を生産した釜石製鉄所にも不景気の波が押し寄せ、1920年3月には戦後恐慌が発生。
久保田 不二子(くぼた ふじこ、1886年〈明治19年〉5月… 久保田 不二子(くぼた ふじこ、1886年〈明治19年〉5月16日 - 1965年〈昭和40年〉12月17日)は、明治 - 昭和時代の歌人。島木赤彦の二人目の妻でもある。 1886年(明治19年)に長野県下諏訪町高木で生まれた。父は政信、母はぬい。10歳上に姉のうたが居た。 1902年(明治35年)1月、不二子が同年7月、16歳の時に姉のうたが亡くなる。その後彼女の子ども(長男)の面倒を見るため、後妻として島木赤彦に嫁ぐ。1903年(明治36年)に島木との間に二女、初瀬(はつせ)が生まれた。島木との年齢差は10歳であったが、妻として夫を支えようと努めていた。島木が東筑摩郡広丘村(現在の塩尻市)で小学校の校長として勤めている間も、下諏訪にて子育てと家事、農作業に勤しんでいた。
2代板谷 宮吉(いたや みやきち、1885年(明治18年)5… 2代板谷 宮吉(いたや みやきち、1885年(明治18年)5月16日 - 1962年(昭和37年)12月22日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、小樽市長。旧名・真吉。 北海道出身。実業家、初代・宮吉の長男として生まれる。1909年(明治42年)早稲田大学商科を卒業。 1912年、板谷商船取締役に就任。1924年(大正13年)先代の死去により家督を相続して2代・宮吉を襲名し、板谷商船社長、樺太銀行頭取に就任。その他、板谷生命保険社長、 (株) 十合呉服店会長、北海貯蓄銀行頭取、尾張時計監査役、黒姫汽船 (資) 代表社員、肥料調査委員会委員、北海道拓殖計画調査会委員などを務めた。 1926年(大正15年)北海道多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年6月25日に就任し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
安藤 緑山(あんどう ろくざん / りょくざん、明治18年(… 安藤 緑山(あんどう ろくざん / りょくざん、明治18年(1885年)5月16日 - 昭和34年(1959年)5月6日)は、大正から昭和初期にかけての彫刻家。本名は和吉(わきち)。主に象牙彫刻(牙彫)の分野で活動し、萬蔵、萬造、萬象の号を使用した。 明治18年(1885年)、浅草で父・小澤卯之助と母・せんの次男として生まれる。父の死後、3歳で安藤家に養子に入った。 高等小学校卒業後に象牙彫刻を習って独立した。師匠は大谷光利とされ、東京彫工会に所属。明治43年(1910年)、大正10年(1921年)とその翌年には、下谷御徒町(現・台東区西部)に住んでいた。大正12年(1923年)の関東大震災で自宅を焼失したことを機に雑司が谷に転居し、昭和14年(1939年)には板橋区向原に転居した。
工藤 十三雄(くどう とさお、1880年(明治13年)5月1… 工藤 十三雄(くどう とさお、1880年(明治13年)5月16日 – 1950年(昭和25年)12月17日)は、衆議院議員(政友本党→立憲政友会)、ジャーナリスト。 弘前市出身。東京帝国大学法科大学独法科を中退後、時事新報の記者となった。東洋拓殖株式会社嘱託を経て、郷里で陸奥日報社や弘前新聞社の経営にあたった。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。6期連続当選を果たした。その間、平沼内閣で鉄道政務次官を務めた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。戦後、公職追放となる。1951年(昭和26年)追放解除。 その他、石川島飛行機製作所顧問を務めた。
古賀 十二郎(こが じゅうじろう、1879年(明治12年)5… 古賀 十二郎(こが じゅうじろう、1879年(明治12年)5月16日 - 1954年(昭和29年)9月6日)は、日本の郷土史家。長崎学の基礎を築いた人物として知られる。 黒田藩長崎屋敷の御用達「万屋」の12代目として生まれる。1895年、長崎市立商業学校を首席卒業。在学中、菅沼貞風『大日本商業史』と呉秀三『シーボルト』を読み、長崎の歴史に興味を持つ。1901年、高商附属外国語学校英語学科(現在の東京外国語大学)を卒業する。東京外国語学校の同級生に永井荷風(中退)がいた。 広島で3年間ほど英語教師を務めた後、長崎に帰郷して家業を継ぐ。1912年に『長崎批評』を創刊し、1913年に第1期長崎史談会を設立するなど、長崎研究を本格化させる。
高木 藤太郎(たかぎ とうたろう、1870年5月16日〈明治… 高木 藤太郎(たかぎ とうたろう、1870年5月16日〈明治3年4月16日〉 - 1945年〈昭和20年〉3月4日)は、日本の地主・家主、資産家。 愛知県海部郡津島町(現・津島市)出身。野口米次郎の兄。高木益喜の養子となる。1893年、慶應義塾別科を卒業する。地家主で、貸地貸家業を営む。 商業人であったが、和歌、和文、書道が堪能だった。宗教は真宗。趣味は和歌、漢詩。住所は東京市日本橋区大伝馬塩町・同区本町4丁目、京橋区京橋1丁目・同区大鋸町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
土居 通博(どい みちひろ、1868年5月16日(慶応4年4… 土居 通博(どい みちひろ、1868年5月16日(慶応4年4月24日) - 1939年(昭和14年)12月8日)は、岡山県出身の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 美作国(現岡山県)出身。明治法律学校卒業後、実業界に進む。 1897年(明治30年)、土居銀行の創立に関わり、勝間田銀行、久世銀行、武藤銀行、備前加茂銀行等を合併させて、作備銀行を設立。その後、津山銀行を加えて1924年(大正13年)に山陽銀行を設立し、頭取に就任。以降も、阿哲銀行、足守銀行、鞆銀行、丸亀銀行、倉敷大橋銀行など県内外の銀行を合併吸収。1930年(昭和5年)には、第一合同銀行と合併し、中国銀行創立に関与。 津山製糸取締役、中国鉄道取締役などにも就任。
大橋 翠石(おおはし すいせき、慶応元年4月22日〈1865… 大橋 翠石(おおはし すいせき、慶応元年4月22日〈1865年5月16日〉- 1945年〈昭和20年〉8月31日)は、明治中期から昭和前期にかけて日本で活動した日本画家。虎の絵を多く描き、パリ万国博覧会 (1900年)において日本人で唯一の金牌を受けるなど欧米でも高く評価された。 出身地は美濃国安八郡大垣町内(現・岐阜県大垣市新町2丁目)。本名は 大橋 卯三郎( - うさぶろう)。通称として宇一郎(ういちろう)を用いた。著名な親族として、大橋万峰こと実兄の大橋鎌三郎(日本画家)と娘婿で弟子の大橋翠邦(大橋翠峰)がいる。 世に「虎の翠石」として名高い。特に長い冬毛が美しいアムールトラを多く画題に選び、その描くところの虎は毛の描写の細かさ、威風堂々とした体躯、生きているように鋭い眼光や動きを表現していると評価されている。
諫早 家崇(いさはや いえたか、1854年5月16日〈嘉永7… 諫早 家崇(いさはや いえたか、1854年5月16日〈嘉永7年4月20日〉 - 1912年〈明治45年〉1月24日)は、明治時代の華族(男爵)、長崎県の大地主、長崎県多額納税者。14代諫早邑主諫早茂孫の長男。叔父諫早一学(茂孫の次々代邑主)の養子。千吉郎。勲等は勲四等。 肥前国高来郡諫早に生まれる。1871年(明治4年)にドイツに留学し、1880年(明治13年)より外務省、太政官、参事院等に勤務する。 1893年(明治26年)10月10日に貴族院多額納税者議員として、選出された。1898年(明治31年)8月4日、貴族院議員を辞任した。この時は、会派には所属せず、無所属だった。 1897年(明治30年)には養父の功により男爵に叙爵された。
入江 文郎(いりえ ぶんろう / ふみお、1834年5月16… 入江 文郎(いりえ ぶんろう / ふみお、1834年5月16日(天保5年4月8日) - 1878年(明治11年)1月30日)は江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本のフランス学者。旧松江藩士。旧名・泉、字を原伯といい、観寮(かんりょう)と号した。本姓は劉。 幕末におけるフランス学先駆者の1人であり、幕府の蕃書調所(のち開成所)教授方となってフランス語の翻訳と指導に従事。明治に入ると新政府の大学教官としてフランスに派遣され、研究のかたわら留学生総代を務めたが、病のためパリで客死した。 天保5年4月8日(1834年5月16日)、松江藩医入江元範の子として出雲国島根郡松江に生まれる。支藩広瀬藩の藩儒山村黙斎、次いで松江藩儒妹尾謙三郎(雨森精斎)に学び、嘉永7年(1854年)から江戸に遊学。
西郷 頼母(さいごう たのも、1830年5月16日(文政13… 西郷 頼母(さいごう たのも、1830年5月16日(文政13年閏3月24日) - 1903年(明治36年)4月28日)は、幕末の会津藩の家老。名は近悳(ちかのり)、幼名龍太郎、字を汝玉(じぎょく)、明治維新後は保科 近悳(ほしな ちかのり)と改名。号を栖雲(せいうん)、酔月軒(すいげつけん)、晩年は八握髯翁(やつかぜんおう)と称した。 西郷家は、もとは「保科」姓で、信州高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町一帯)藩主保科正直の弟三河守正勝から始り、後に会津藩主となった保科家の分流である。保科家は高遠城主で清和源氏頼季流に属し、正俊の代に武田氏に従い、正直の代から徳川氏に従った名家である。 近悳は、文政13年閏3月生まれ。
鈴木 もえみ(すずき もえみ、旧姓:古内もえみ、旧芸名:木の… 鈴木 もえみ(すずき もえみ、旧姓:古内もえみ、旧芸名:木の内もえみ、(誕生日昭和37年5月16日)は日本のフリーアナウンサー、司会者。大阪府生まれ、北海道札幌市豊平区出身。血液型はO型。 北海道札幌月寒高等学校時代は放送部に在籍。高校生時代にNHK杯全国放送コンクールで北海道代表となり、全国大会で入賞。札幌大谷短期大学幼児教育学科卒。大学時代には北海道放送のラジオ番組『いきいきいい朝』のパーソナリティーや「札幌雪祭り」など多数のローカル枠のTV司会を担当。 1984年、ニッポン放送・地方民間放送共同制作協議会主催「全国番組コンクール」にて最優秀グランプリパーソナリティを受賞。ニッポン放送の番組飛び出せ!全国DJ諸君にてこの模様が紹介され、それがきっかけとなりスカウトされ上京。
広江 美奈(ひろえ みな、5月16日 - )は、日本の女優、… 広江 美奈(ひろえ みな、5月16日 - )は、日本の女優、声優。所属:エムキューブ・デザイン。東京都立川市出身。 太字はメインキャラクター。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
竜山 さゆり(たつやま さゆり、5月16日生まれ )は、日本… 竜山 さゆり(たつやま さゆり、5月16日生まれ )は、日本の漫画家、イラストレーター。大阪府出身、金沢美術工芸大学油絵科卒業。 『ぷくぷく天然かいらんばん』で2001年度、第47回小学館漫画賞児童向け部門を受賞。血液型A型。愛称は「さるり先生」。趣味は香港旅行、三線など。 1989年、『少女コミック』4号に発表した「夢見る筋肉姫」でデビュー。 その後『少女コミック』、『少女コミックCheese!』、『ちゃお』(いずれも小学館)と掲載誌を変えながら創作活動を続けている。『ちゃお』移籍後は「ぷくぷく天然かいらんばん」「はぴはぴクローバー」など、動物を主役に据えた作品が多い。[独自研究?] このほか、漫画執筆の傍らで児童向け小説の挿絵も手がけている。
斎藤 和之(さいとう かずゆき、5月16日 - )は、群馬テ… 斎藤 和之(さいとう かずゆき、5月16日 - )は、群馬テレビ営業局事業部長、元同局のアナウンサー。 群馬県勢多郡富士見村(現・前橋市)出身。身長180センチメートル、体重74キログラム(2001年時点)。好きなスポーツは野球、卓球、バドミントン、テニス、ゴルフなどの、ラケットやクラブで打つタイプの球技全般。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:アナウンサー)。