間宮 武(まみや たけし、1915年10月20日 - 200… 間宮 武(まみや たけし、1915年10月20日 - 2000年1月6日)は、日本の心理学者。横浜国立大学名誉教授。 神奈川県生まれ。東京文理科大学心理学科卒。東京府立桜町高等女学校教諭、東京都立第七中学校教諭、神奈川師範学校教授、1950年横浜国大助教授、1961年「性差に関する心理学的研究」で広島大学より文学博士の学位を取得。1962年教授、1981年定年退官、名誉教授、共立女子大学教授、1986年退職。1989年日本心理学会名誉会員。2000年1月6日、肺炎のため死去。 性差心理学専攻、純潔教育を推進した。
野村 義一(のむら ぎいち、1914年10月20日 - 20… 野村 義一(のむら ぎいち、1914年10月20日 - 2008年12月28日)は、北海道ウタリ協会理事長。 1914年、胆振の白老村に生まれる。幼少期から父親はおらず、母の野村ミツの元で育つ。母方の野村家は、白老の『コタンコロクル』(首長)の家系である。 1935年(昭和10年)、日本軍の第7師団月寒歩兵第25連隊に入隊する。1936年、白老漁協会に就職する。1939年、再び日本軍に徴兵されたが、1940年、除隊となった。1943年(昭和18年)、3度目の徴兵を受けた。1945年、樺太にてソ連軍に抑留されたが、1948年、引き揚げた。1949年に、白老漁業協同組合の専務理事となる。 1955年に、白老町議会議員に当選する。
宮澤 俊彌(みやざわ としや、1913年10月20日 - 2… 宮澤 俊彌(みやざわ としや、1913年10月20日 - 2012年12月12日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。長野県松本市生まれ。
熊田 為宏(くまだ ためひろ、1913年10月20日 - 1… 熊田 為宏(くまだ ためひろ、1913年10月20日 - 1993年)は、日本の作曲家、フルート奏者。 福島県出身。下総皖一と山口正男に師事し、1941年3月に東京音楽学校甲種師範科を卒業。富山師範学校教諭、土浦高等女学校教諭、NHK仙台放送合唱団・管弦楽団常任指揮者、山形大学音楽科、宮城学院女子大学にて教鞭を取る。日本指揮者協会会員、日本フルート協会理事を歴任。NHKラジオのインターバルシグナル音楽を作曲。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
九州山 義雄(きゅうしゅうざん よしお、1913年10月20… 九州山 義雄(きゅうしゅうざん よしお、1913年10月20日 - 1990年5月30日)は、福岡県山田市(現嘉麻市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は大坪 義雄。最高位は西小結。現役時代の体格は身長176cm、体重88kg。 昭和5年(1930年)1月場所で初土俵を踏み、負け越しなしで昭和7年(1932年)5月場所に十両昇進、春秋園事件からの帰還組との対戦でもまれたために十両では時間がかかったが、昭和9年(1934年)1月場所、大正生まれとして初の幕内力士となった。激しく動き回る相撲で相手を撹乱するのが得意であった。昭和13年(1938年)1月場所には小結昇進、その場所大負けはしたものの、横綱玉錦を素首落としで破る殊勲の星を挙げた。
足立 護(あだち まもる、1912年10月20日 - 199… 足立 護(あだち まもる、1912年10月20日 - 1993年10月21日)は、日本の経営者。川崎汽船社長、会長を務めた。兵庫県出身。 1937年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に川崎汽船に入社。 1958年5月に取締役に就任し、1961年6月に常務、1964年11月に監査役、1966年11月に再び取締役、1968年5月に専務を経て、1969年5月に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格。1976年5月に相談役に就任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲二等瑞宝章を受章。。 1993年10月21日心不全のために死去。81歳没。
石津 謙介(いしづ けんすけ、1911年10月20日 - 2… 石津 謙介(いしづ けんすけ、1911年10月20日 - 2005年5月24日)は、20世紀に活動した日本のファッションデザイナー。株式会社ヴァンヂャケット創業者。日本メンズファッション協会最高顧問。 高度経済成長期にあたる1960年代の日本に登場した男性ファッション「アイビールック」の生みの親で、“メンズファッションの神様”と呼ばれた。岡山県岡山市出身。石津祥介は長男、ファーストサマーウイカは曽姪孫。 岡山の紙問屋の次男として生まれる。岡山師範学校附属小学校から旧制第一岡山中学(現・県立岡山朝日高校)を経て、明治大学専門部商科に入学。スポーツ万能であるとともに流行の先端をいく遊びに長け、明大在学中はオートバイ・クラブ、自動車部、航空部などを創部した他、ローラースケート、乗馬、水上スキーなどにも興じた。
杉山 寧(すぎやま やすし、1909年10月20日 - 19… 杉山 寧(すぎやま やすし、1909年10月20日 - 1993年10月20日)は、日本画家、日本芸術院会員、文化勲章受章者。三島由紀夫の岳父。 東京府東京市浅草区浅草西三筋町(現在の東京都台東区三筋一丁目、二丁目西側辺り)に文房具店を営む杉山卯吉の長男として生まれる。本籍・神奈川県。父親が早くに他界したため母親に育てられる。浅草育英小学校、東京府立第三中学校を経て、1928年(昭和3年)、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学、松岡映丘に師事する。山本丘人、髙山辰雄らと「瑠爽画社」(るそうがしゃ)を結成、日本画の革新をめざす運動に携わる。1929年(昭和4年)、帝展に出品、1931年(昭和6年)、美校日本画科卒、結城素明に師事。
石本 省吾(いしもと せいご、1909年〈明治42年〉10月… 石本 省吾(いしもと せいご、1909年〈明治42年〉10月20日 - 1985年〈昭和60年〉6月24日)は、日本の酒造家。石本酒造2代目社長。幻の酒「越乃寒梅」を造り上げる。 新潟県中蒲原郡大江山村大字北山新田(現 新潟市江南区北山)の蔵元・石本酒造に生まれる。 1928年(昭和3年)3月に新潟中学校を卒業、4月に明治大学予科に入学、中学校の時に引き続き端艇部に入部、アムステルダムオリンピックのボート競技の国内予選で敗退、端艇部を退部、山岳部に入部。 1933年(昭和8年)3月に明治大学政治経済学部を卒業、石本酒造2代目社長に就任、1944年(昭和19年)から新潟中学校の先輩で新潟財務局技手の田中哲郎の指導を受け、太平洋戦争後、銘酒「越乃寒梅」の改良を開始。
廣田 宗(ひろた そう、1909年(明治40年)10月20日… 廣田 宗(ひろた そう、1909年(明治40年)10月20日 - 1986年(昭和61年)11月29日)は、日本の実業家。小田急電鉄社長、日本民営鉄道協会会長等を務めた。 大分県出身。1932年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業後、三菱銀行入行。 四日市、熱田各支店長を経て、本店営業部長、審査第二部長、福岡支店長、取締役、審査第一部長を歴任。 1963年にその人格・識見を見込んだ小田急電鉄社長の安藤楢六が、当時の三菱銀行頭取だった宇佐美洵に懇請し、小田急グループに迎えられ、小田急百貨店専務に就任。 1964年、小田急電鉄に転じ取締役、翌年専務、1969年社長。 1981年には会長に退き、ホテル小田急社長を兼務した。
鏡山 猛(かがみやま たけし、1908年 <明治41年> 1… 鏡山 猛(かがみやま たけし、1908年 <明治41年> 10月20日 - 1984年 <昭和59年> 10月24日)は、日本の考古学者。位階は正五位。 福岡県浮羽郡田主丸町(現・久留米市)生まれ。1932年九州帝国大学法文学部史学科卒。1934年九州帝大法文学部助手、1936年講師。その後兵役につき、1946年公職追放、1951年解除。1952年九州大学文学部助教授を経て、1958年九州大学考古学講座初代教授。1972年に定年退官、名誉教授、太宰府に新設の九州歴史資料館の館長に就任、約10年間務めた。1965年レジオン・ドヌール勲章、1972年西日本文化賞受賞、1980年勲三等瑞宝章受勲。1984年死去。
山添 三郎(やまぞえ さぶろう、1908年〈明治41年〉10… 山添 三郎(やまぞえ さぶろう、1908年〈明治41年〉10月20日 - 2007年〈平成19年〉1月15日)は、日本の生化学者、エスペラント学者、医師。医学博士。群馬大学名誉教授、世界エスペラント協会名誉会員。元日本エスペラント学会参与。 新潟県新潟市田中町(現 新潟市中央区田中町)出身。1925年(大正14年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1928年(昭和3年)3月に新潟高等学校を卒業、1932年(昭和7年)3月に新潟医科大学を卒業。 1932年(昭和7年)4月に新潟医科大学医化学教室助手に就任、1937年(昭和12年)1月に日本労働科学研究所に入所、4月に新潟医科大学から医学博士の学位を取得、1939年(昭和14年)9月に満州の満鉄開拓科学研究所に入所、1942年(昭和17年)2月に北京大学衛生学教授に就任、1945年(昭和20年)に太平洋戦争に陸軍軍医として応召、青島で終戦、最終階級は陸軍軍医少尉、1947年(昭和22年)11月に北海道の三菱美唄労働科学研究所に主任として入所。
大伴 麟三(おおとも りんぞう、1907年10月20日 - … 大伴 麟三(おおとも りんぞう、1907年10月20日 - 1944年12月9日)は、日本の映画監督、脚本家である。本名小島 武夫(こじま たけお)、大伴 龍三(おおとも りゅうぞう、新漢字表記大伴 竜三)とも名乗った。 1907年(明治40年)10月20日、佐賀県杵島郡(現在の同県武雄市)に生まれる。 旧制・福岡県立中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)卒業後、帝国キネマ演芸に入社、古海卓二に助監督として師事する。 1927年(昭和2年)、20歳にして、奈良の市川右太衛門プロダクションあやめ池撮影所製作の市川右太衛門主演作『笑ふな金平 後篇』で監督としてデビュー、同作は同年9月15日に公開された。
齋藤 求(さいとう もとむ、1907年〈明治40年〉10月2… 齋藤 求(さいとう もとむ、1907年〈明治40年〉10月20日 - 2003年〈平成15年〉12月24日)は、日本の画家。
桜井 奎夫(櫻井、さくらい けいお、1907年(明治40年)… 桜井 奎夫(櫻井、さくらい けいお、1907年(明治40年)10月20日 - 1991年(平成3年)12月23日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。 長崎県南高来郡、現在の島原市出身。1932年(昭和7年)早稲田大学文学部英文科を卒業。 新潟県立相川高等学校教諭、新潟県立巻高等学校教諭、新潟県立新潟南高等学校教諭などを務めた。労働運動に加わり、新潟県教職員組合執行委員長、新潟県全官公庁労働組合協議会長、日教組北陸協議会会長に就任。 1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙で新潟県第1区から左派社会党公認で出馬して落選。1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙に出馬して初当選し、以後1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
荒木 克業(あらき かつなり、1907年(明治40年)10月… 荒木 克業(あらき かつなり、1907年(明治40年)10月20日‐1932年12月3日)は、日本陸軍の軍人。 陸士41期。熊本県旧飽託郡内田村(現・熊本市南区)出身。最終階級は工兵中尉、死後大尉。 昭和4年(1929年)7月17日、陸軍士官学校(41期)を卒業、同年10月25日より千葉の鉄道第1連隊第2中隊の所属となる。 1932年9月27日、満州国軍の人事配置に不満を持った旧張学良軍の蘇炳文少将ら満州国軍黒龍江省駐留軍の軍人数千人が『東北民衆救国軍』を名のり満州里で挙兵、満州里領事や特務機関長、国境警察署長、民間人ら在留邦人数百名を人質とし、ホロンバイル独立を宣言した。世にいうホロンバイル事件である。
坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月… 坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。 第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した、近現代日本文学を代表する小説家の一人である。純文学のみならず、歴史小説や推理小説、文芸や時代風俗から古代史まで広範に材を採る随筆、囲碁・将棋におけるタイトル戦の観戦記などの多彩な活動を通し、無頼派、新戯作派と呼ばれる地歩を築いた。 新潟県新潟市出身。東洋大学印度哲学倫理学科(現・文学部 東洋思想文化学科)卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。 戦前はファルス的ナンセンス作品『風博士』で文壇に注目され、一時低迷した後、終戦直後に発表した『堕落論』『白痴』により時代の寵児となり、太宰治、織田作之助、石川淳らと共に、無頼派・新戯作派と呼ばれ地歩を築いた。
金田 繁(かねだ しげる、1906年10月20日 - 196… 金田 繁(かねだ しげる、1906年10月20日 - 1966年3月15日)は、日本の映画監督、脚本家。 1906年(明治39年)、京都府京都市下京区に生まれる。妹・みねは、のちに東亜キネマの助監督時代に金田が師事した広瀬五郎の妻となった。 旧制・京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業し、東亜キネマ等持院撮影所助監督部に入社した。仁科熊彦、広瀬五郎の作品におもに助監督として就いた。同社は1931年(昭和6年)に製作部門が崩壊し、同社が新設した東活映画社に移り、同年12月5日に公開されたサイレント映画『閃影双刃録』で、満25歳で監督に昇進した。同社は翌1932年(昭和7年)10月に解散しており、同社が製作し、金田が大伴麟三と共同で監督したサイレント映画『決戦荒神山』は、同年12月31日、新設の宝塚キネマ興行が配給して公開された。
伊達 興宗(だて おきむね、1906年(明治39年)10月2… 伊達 興宗(だて おきむね、1906年(明治39年)10月20日 - 1947年(昭和22年)7月2日)は、日本の華族(伯爵)。伊達宗家第32代当主。 1919年(大正8年)3月、学習院初等科を卒業。1923年(大正12年)5月、父の死去により伊達伯爵家を継いだ。その後、東京農業大学に進学する。没後、夫人が伊達家の所有する山林を勝手に売却するなど横暴な振る舞いをして、親族と争いごとに発展したとされ、世間で「新伊達騒動」と言われ注目された。 朝宗 - 宗村 - 義広 - 政依 - 宗綱 - 基宗 - 行宗 宗遠 - 政宗 - 氏宗 - 持宗 - 成宗 - 尚宗 - 稙宗 - 晴宗 - 輝宗 政宗 - 忠宗 - 綱宗 - 綱村 - 吉村 - 宗村 - 重村 - 斉村 - 周宗 - 斉宗 - 斉義 - 斉邦 - 慶邦 - 宗基 邦宗 - 興宗 - 貞宗 - 泰宗 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
陳 耕元(ちん こうげん、1905年10月20日 - 195… 陳 耕元(ちん こうげん、1905年10月20日 - 1958年11月27日)、日本名上松 耕一(あげまつ こういち)は、台湾原住民のプユマ族出身で、嘉義農林学校(現国立嘉義大学)の野球チーム選手として甲子園に出場した人物。後に台東農校(現国立台東専科学校)校長。 陳耕元は1921年(大正10年)卑南公学校(現在の南王小学校)に進学。1925年(大正14年)台東公学校(現台東大学付属実験小学)高等科在籍時に野球部へ勧誘される。嘉義農林学校進学時も野球部へ入り、1931年の第17回全国中等学校優勝野球大会に史上最年長(27歳)で参加。凖優勝となった。 1932年に日本へ留学し、横浜専門学校(現神奈川大学)に進学。
関谷 勝利(せきや かつとし、1904年〈明治37年〉10月… 関谷 勝利(せきや かつとし、1904年〈明治37年〉10月20日 - 1987年〈昭和62年〉7月6日)は、日本の実業家、政治家。自由民主党・衆議院議員(11期)。元参議院議員関谷勝嗣の父。 1922年(大正11年)松山中学校卒業。海運業、土木建築請負業に従事。 伊予運送、松山商興、伊予造船各取締役。柳瀬座興行、松山港湾荷役作業、松山港運、勝山土建各社長。愛媛機帆船海運組合理事長。三津浜町会議員、愛媛県会議員、日本進歩党幹事を歴任。 1946年(昭和21年)初当選以来11期30年間衆議院議員を務め1976年(昭和51年)引退。党交通部会長、衆院内閣委員長などを歴任。運輸族として活躍、「陰の運輸大臣」といわれた。
芥田 武夫(あくた たけお、1903年10月20日 - 19… 芥田 武夫(あくた たけお、1903年10月20日 - 1987年9月5日)は、日本のアマチュア野球選手・プロ野球監督・プロ野球球団経営者、スポーツ記者、野球解説者。兵庫県加東市出身(姫路市野里町とする資料もあり)。旧姓:氷室(ひむろ)。 兵庫県立姫路中学校卒業後、1922年に早稲田大学へ入学。早大野球部では飛田忠順監督の「精神野球」に鍛練され、外野手として活躍。1925年秋季には東京六大学リーグ最初の首位打者を獲得した(当時は「氷室武夫」)。1926年には主将を務めた。大学時代の通算成績は65試合出場、240打数63安打、打率.263、2本塁打(六大学リーグ以前も含む)。卒業後、満洲国へ渡り南満洲鉄道に入社し満洲倶楽部(大連市)の選手として活動。
吉川 清一(よしかわ せいいち、1902年10月20日 - … 吉川 清一(よしかわ せいいち、1902年10月20日 - 1990年9月20日)は日本の実業家。清水建設元社長。長野県松本市生まれ。
松浦 晋(まつうら すすむ、1902年10月20日 - 19… 松浦 晋(まつうら すすむ、1902年10月20日 - 1968年4月29日)は、日本の文部官僚、実業家、パシフィック・リーグ元会長。愛媛県出身。 1924年に上智大学を卒業し、文部省に入省した。社会教育官、教学官、内閣情報局情報官を歴任した。1950年に永田雅一社長の強い意向により、大映に転職し、取締役、監査役を務めた。1955年に大映スターズ球団代表に就任し、1960年に東京オリオンズ代表に就任した。 1965年にパシフィック・リーグ会長に就任した。 しかし、会長在職中に交通事故に合い、1968年4月29日、東京都の病院で65歳で死去した。
山口 保治(やまぐち やすはる、1901年10月20日 - … 山口 保治(やまぐち やすはる、1901年10月20日 - 1968年7月24日)は、愛知県豊川市出身の作曲家。 愛知県立第四中学校(現愛知県立時習館高等学校)卒業、1923年東京音楽学校甲種師範科(現東京藝術大学)入学。福井高等師範学校教員などを経て、1941年「さよなら三丁目」で童謡として初めての文部大臣賞を受賞した。1944年(昭和19年)豊川市国府町に疎開し、国府高等女学校(現愛知県立国府高等学校)教員。1961年「かかしのねがいごと」で日本レコード大賞童謡賞を受賞する。
前田 七之進(まえだ しちのしん、1901年10月20日 -… 前田 七之進(まえだ しちのしん、1901年10月20日 - 1989年1月16日)は、日本の経営者。富士電機製造社長、会長を務めた。 三重県出身。1925年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に富士電機製造(現在の富士電機)に入社。1947年12月に取締役に就任し、1958年11月に常務、1962年11月に専務を経て、1966年11月に副社長に就任し、1968年11月に社長に昇格。1974年11月に会長を就任し、1978年6月に取締役相談役、1981年6月に常任相談役を経て、1983年6月には相談役に就任。 1969年11月に藍綬褒章を受章し、1975年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年1月16日心筋梗塞のために死去。
初代雷門福助(かみなりもん ふくすけ、1901年(明治34年… 初代雷門福助(かみなりもん ふくすけ、1901年(明治34年)10月20日 - 1986年(昭和61年)6月11日)は、落語家。本名は川井初太郎。通称「落語界のシーラカンス」。 東京の深川の芝居道具師の家に生まれた。生年月日は口伝えでは2月3日の初午の日で、それゆえに初太郎と名付けられた。 奉公に出た後は陸軍省大臣・田中義一の運転手の助手をしたり、徳川夢声の元で活動弁士の下働きなどをしていた。 1922年(22歳)頃から幇間をしていた友人の薦めで六代目雷門助六に入門して福助を名乗る。二つ目のときに師匠が名古屋に「助六興行部」を設立したので同行した。関東大震災が起こった際は東京に戻らずそのまま名古屋に住み着いた。
赤堀 四郎(あかほり しろう、1900年10月20日 - 1… 赤堀 四郎(あかほり しろう、1900年10月20日 - 1992年11月3日)は、日本の生化学者(生物有機学)。勲等は勲一等。学位は理学博士(東北帝国大学・1931年)。大阪大学名誉教授。日本学士院会員、大阪大学総長、理化学研究所理事長などを歴任した。 苦学しながら醤油の香り成分の研究などで業績を残した。日本学士院会員、大阪大学総長、理化学研究所理事長を歴任し、勲一等を贈られた。日本学士院、ドイツ自然科学アカデミー・レオポルディーナ、ソビエト連邦科学アカデミーなどの会員に選ばれている。また、アメリカ生化学会名誉会員、静岡県小笠郡大東町名誉市民などの称号を贈られている。 1900年(明治33年)、静岡県小笠郡千浜村(現・掛川市千浜)で小学校教師の赤堀秀雄と妻・しのの息子として生まれた。
寺田 弥吉(てらだ やきち、明治33年(1900年)10月2… 寺田 弥吉(てらだ やきち、明治33年(1900年)10月20日 - 昭和46年(1971年)9月12日)は、日本の思想史家。 兵庫県揖保郡新宮村(のち新宮町、現在のたつの市)生まれ。旧制龍野中学校(現・兵庫県立龍野高等学校)を経て、1922年東京商科大学(現・一橋大学)予科修了。1936年第一書房教育部主任。1938年大日本帝国陸軍参謀本部主任研究員。1940年日本学研究所副所長兼任。1942年総力戦学会常務理事。第二次世界大戦後公職追放され、1951年に解除。親鸞などの日本思想史を研究し、孤高の哲学者と称された。たつの市の東山公園に寺田弥吉記念碑が建つ。
高橋 均(たかはし ひとし、1900年10月20日 - 19… 高橋 均(たかはし ひとし、1900年10月20日 - 1978年2月10日)は、愛媛県出身の音楽評論家、雑誌編集者。 筆名古久 文治、K・T生。父はプロテスタントの牧師高橋鷹藏。16歳頃から信時潔に師事。東京音楽学校においてヴァイオリンを専攻するも2年で中退。また在学中教えを受けた乙骨三郎の知遇を得る。日本プロレタリア音楽家同盟に所属し、1922年(大正11年)日本共産党結党の際、結党式において、翻訳された革命歌インターナショナルの足踏みオルガンを弾き、鉛筆で指揮をしての歌唱指導に参加した。1923年(大正12年)中に信時の斡旋のもとに雑誌『音樂研究』を編集し、5冊を音樂研究社より発行。この頃、大山郁夫の書生となる。
風間 彦男(かざま ひこお、1899年10月20日 - 19… 風間 彦男(かざま ひこお、1899年10月20日 - 1945年2月3日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中尉、酒田風間氏分家・東美家第八代当主。
信濃 成繁(しなの なりしげ、1898年〈明治31年〉10月… 信濃 成繁(しなの なりしげ、1898年〈明治31年〉10月20日 - 1948年〈昭和23年〉5月16日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 富山県出身。1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校第32期卒業。陸軍砲工学校第29期を優等で卒業。東京帝国大学航空学科卒業。 1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進む。同年10月、陸軍航空技術研究所調査課長を経て、陸軍航空審査部員兼第2陸軍航空技術研究所員となる。1945年(昭和20年)4月、第2陸軍航空技術研究所長に就任したのち、同年6月、陸軍少将に進級した。
古川 伝一(ふるかわ でんいち、1897年(明治30年)10… 古川 伝一(ふるかわ でんいち、1897年(明治30年)10月20日 - 1967年(昭和42年)1月7日)は、福島県勿来市(現・いわき市)長。 福島県石城郡鮫川村(のち植田町→勿来市、現・いわき市)出身。酒造業を営み、その傍ら、地方自治に参加し、福島県議会議員、植田町長、勿来市長を歴任した。植田町は1955年に合併により、勿来市となり、合併後の市長選挙に立候補して当選した。鮫川の水利開発に力を入れ、また、常磐地区の低品位石炭の利用を主張し、常磐共同火力発電所の開設を基礎づけた。勿来市長は1期務め、いわき市誕生後の1967年に死去した。
吉田 正(よしだ ただし、1896年10月20日 - 196… 吉田 正(よしだ ただし、1896年10月20日 - 1969年8月19日)は、日本の政治家。実業家。
福田 千里(ふくだ ちさと、1896年 <明治29年> 10… 福田 千里(ふくだ ちさと、1896年 <明治29年> 10月20日 - 1992年 <平成4年> 12月26日)は、日本の経営者。大和証券社長、会長を務めた。東京都出身。位階は従四位。 1921年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に藤本ビルブローカー銀行(のちの大和証券)に入社した。台北支配人、取締役、常務、専務を経て、1954年11月に副社長に就任し、1957年11月に社長に昇格。1963年4月には会長に就任した。 1963年から1968年までに日本証券業協会連合会会長を務め、日本教育テレビ取締役、日本経営者団体連盟・経済団体連合会各常任理事も務めた。 1964年に藍綬褒章を受章し、1968年に勲三等旭日中綬章を受章した。
吉田 正(よしだ ただし、1896年〈明治29年〉10月20… 吉田 正(よしだ ただし、1896年〈明治29年〉10月20日 - 1969年〈昭和44年〉8月19日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。 長野県北安曇郡池田町村(現池田町)生まれ。旧制大町中学(現・長野県大町高等学校)卒業。1918年(大正7年)、上海東亜同文書院商務課卒業。一旦は岩井産業(現日商岩井)に入社するが、すぐに帰郷し、1925年(大正14年)、旧制池田実科中学(現・長野県池田工業高等学校)教諭となる。 その後、農業界に転身し、全国農業会の常務理事として活躍する。同時に「協同党」を結成した。1942年(昭和17年)、長野県第4区から第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会推薦候補で立候補して、当選する。
初代納富 寿童(のうとみ じゅどう、1895年(明治28年)… 初代納富 寿童(のうとみ じゅどう、1895年(明治28年)10月20日 - 1976年(昭和51年)2月24日)は、日本の尺八演奏家、作曲家。流派は琴古流荒木派。本名は納富安治(のうとみ やすじ)。後に芸名を納富寿翁(のうとみ じゅおう)に改名。 1895年10月20日、佐賀県三養基郡土井内(当時南茂安村、後に三根町、現みやき町)で納富孫三郎の次男として生まれる。海軍中将・松永貞市(旧姓・納富)とその妻・イツヨとは親戚。イツヨは女学校生時代に中学生の寿童と叔母の家で一緒に過ごし、寿童について「尺八は中学生のころから吹いていました。上手か下手かはわかりませんでしたが、割合におとなしいほうで、私にも親切にしてくれました。
芳川 赳(よしかわ たけし、1895年10月20日 - 19… 芳川 赳(よしかわ たけし、1895年10月20日 - 1951年7月9日)は、美術評論家、作家。 長崎県島原市生まれ。長崎県立島原中学校(現長崎県立島原高等学校)、明治大学卒業、出版界に入り小説、評論などを書く。美術春秋社を興し、『美術春秋』『日本画傑作年鑑』等の編輯発行者となる。戦後は「美術鑑賞」を発行した。
瀬川 清子(せがわ きよこ、1895年(明治28年)10月2… 瀬川 清子(せがわ きよこ、1895年(明治28年)10月20日 - 1984年(昭和59年)2月20日)は日本の民俗学者。元大妻女子大学教授。秋田県出身。日本の女性民俗学者の草分けのひとり。 1895年(明治28年)に秋田県鹿角郡毛馬内町(現鹿角市)で岩船源太郎、スケ夫妻の長女として誕生する。本名はキヨ。母は、産後の肥立ちが悪く、キヨが1歳になる前に亡くなった。里子に出されたが、父が後妻を迎え、実家に戻った。その後は、同居している叔母や祖父がキヨの教育を行い、1909年(明治42年)、14歳の時に毛馬内尋常高等小学校を卒業。準教員検定準備場を経て、母校の小学校などに勤務したのち、1915年に尋常小学校本科正教員の免許を取得し,毛馬内小学校はじめ、いくつかの学校で訓導として働きながら、1917年(大正6年)には、同じく教師として働いていた瀬川三郎と結婚した。
竹内 勝太郎(たけうち かつたろう、1894年〈明治27年〉… 竹内 勝太郎(たけうち かつたろう、1894年〈明治27年〉10月20日 - 1935年〈昭和10年〉6月25日)は日本の詩人。日本の象徴詩を確立したと評される。 京都府京都市生まれ。私立清和中学校(立命館中学の前身)を中退。東京へ出て、三木露風に師事。独学で自然科学、哲学などを学び、文学を一生の業と考える。フランスの象徴派詩人ステファヌ・マラルメに影響を受け象徴詩の世界へ。 1915年から京都基督教青年会の夜学でフランス語を学ぶ。その後、日出新聞社の市政記者、大正日日新聞社の市政・美術担当記者、大阪時事新報の記者となる。 1928年には知友の支援を受けフランスに渡る。ポール・ヴァレリーに傾倒し、その詩技法は「美を破壊する美」へと変化していく。
渡辺 武次郎(わたなべ たけじろう、1894年(明治27年)… 渡辺 武次郎(わたなべ たけじろう、1894年(明治27年)10月20日 - 1997年(平成9年)12月4日)は日本の実業家。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問 。三菱地所の社長や会長を22年間務め、三菱地所中興の祖と呼ばれた。 岡山県矢掛町出身。1918年東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、三菱合資会社入社。 1937年三菱地所に転籍し、経理部長、取締役、常任監査役等を経て、1952年から1969年まで社長、1969年から1974年まで会長、1974年から1988年まで取締役相談役、1988年から1997年まで相談役を務めた。会長退任後も、中興の祖として実質的な人事権を握っていたとされる。
都築 正男(つづき まさお、英語:Masao Tsuzuki… 都築 正男(つづき まさお、英語:Masao Tsuzuki、1892年(明治25年)10月20日 - 1961年(昭和36年)4月5日)は、日本の医学者、海軍軍医。最終階級は海軍軍医少将。「原爆症研究の父」と呼ばれる。 兵庫県姫路市に開業医の長男として生まれた。兵庫県立姫路中学校を経て、1910年(明治43年)に旧制第一高等学校に入学。一高では芥川龍之介や矢内原忠雄らと同期だった。1917年(大正6年)に東京帝国大学医科大学医学科を卒業、海軍に進んだ。海軍軍医学校選科学生として東大に再度入学し、塩田広重のもとで外科学を学んだ。1926年(大正15年) 東京大学 医学博士 論文の題は 「硬レントゲン線の生物学的作用に関する実験的研究」。
森 昇三郎(もり しょうざぶろう、1892年〈明治25年〉1… 森 昇三郎(もり しょうざぶろう、1892年〈明治25年〉10月20日 - 1967年〈昭和42年〉4月21日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県新居郡中萩村(現・新居浜市)生まれ。1918年(大正7年)、明治大学法律科卒。経済学研究のため、欧米諸国に留学する。帰国後十五銀行(現・みずほ銀行、三井住友銀行)に入るが、東明銀行清算人となる。朝日土地(株)取締役、千代田商事(株)社長、日本肥料工業(株)専務取締役、帝国商事(株)取締役社長となる。 1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員総選挙において愛媛2区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選。1期務めた。1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙でも立候補したが途中で立候補を取り下げた。
村島 歸之(むらしま よりゆき、1891年10月20日 - … 村島 歸之(むらしま よりゆき、1891年10月20日 - 1965年1月13日)は、日本のジャーナリスト。 自由党衆議院議員滝口帰一の三男として奈良県に生まれる。早稲田大学政治経済学部を卒業する前に母方の姓を継ぎ、村嶋姓となる。1915年、大阪毎日新聞社に入社、売春、風俗、労働問題などに関心を持ち多くのルポルタージュをものする。1925年『歓楽の墓』を上梓して自身の買春を懺悔し、賀川豊彦により洗礼を受ける。以後、廃娼運動家、社会主義者として論陣を張る。谷崎潤一郎が「蓼食ふ蟲」を連載した際は担当記者。1946年賀川とともに平和学園を創設。近年著作選集全5巻が刊行された。長男は社会評論家の村嶋健一。
田辺 定義(たなべ さだよし、明治21年(1888年)10月… 田辺 定義(たなべ さだよし、明治21年(1888年)10月20日 - 平成12年(2000年)1月18日、旧字体: 田邊 定義)は、男性長寿日本一だった現在の鳥取県日野郡多里村(現在の日南町)出身の男性。 広島県の高等小学校卒業後、郵便局に勤め、のちに公務員となる。その後、東京市職員、東京市政調査会常務理事、公明選挙連盟理事、明るい選挙推進協会顧問などを歴任した。 1999年4月29日より日本人男性の国内最高齢者(男性長寿日本一)となる。 2000年1月18日、神奈川県川崎市で111歳と90日で死去。新聞など大手メディアで訃報の報道はされなかった。墓所は多磨霊園。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
福森 白洋(ふくもり はくよう、本名:憲一、1887年10月… 福森 白洋(ふくもり はくよう、本名:憲一、1887年10月20日 - 1942年3月3日)は、日本の写真家。芸術写真系統を代表する人物のひとり。 高知県香美郡赤岡町に生まれる。高知商業学校卒業(1904年)。 英語を生かして、大阪商船、米井商店、中島商会などで、それぞれ貿易に携わった。 1910年代後半に写真を始め、1921年に、浪華写真倶楽部に入会。1922年には、米谷紅浪らとともに、天弓会を結成。浪華写真倶楽部にとって、昭和戦前期における代表的な会員であり、小林鳴村など後進を多く育てた。 作品としては、ブロムオイル印画法による芸術写真が主ではあり(中でも特に風景写真)、ブロムオイル印画の名手とも言われた。
黒上 泰治(くろかみ たいじ、旧姓:三木、1887年〈明治2… 黒上 泰治(くろかみ たいじ、旧姓:三木、1887年〈明治20年〉10月20日 - 1974年〈昭和49年〉12月2日)は、日本の農学者。徳島県松茂町出身。東京帝国大学(現・東京大学)卒業。 大阪府や神奈川県の農事試験場長などを歴任し、1929年(昭和4年)に千葉高等園芸学校(現・千葉大学)教授に就任。 第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)に宇都宮高等農林学校校長に就任。1947年(昭和22年)9月4日、昭和天皇の戦後巡幸があり、天皇に学校の概況を奏上した。1948年(昭和23年)に旧制香川県立農業専門学校の校長に就任。その後、香川大学農学部の初代学部長となる。1953年(昭和28年)に香川園芸研究協議会の初代会長に就任。
紅露 昭(こうろ あきら、1887年10月20日 - 19… 紅露 昭(こうろ あきら、1887年10月20日 - 1967年6月15日)は日本の政治家、弁護士。衆議院議員(当選4回、立憲政友会→日本進歩党)。 1887年(明治20年)10月20日、徳島県那賀郡桑野村(現・阿南市桑野町)にて生まれる。1914年(大正3年)に法政大学、1916年(大正5年)に日本大学法律科高等専攻科を卒業。税務署に勤めた後、弁護士および弁理士として従事する。 1932年(昭和7年)に第18回衆議院議員総選挙に当選し、立憲政友会に所属する。戦後、日本進歩党に入り、幣原喜重郎内閣で農林政務次官を務める。1946年(昭和21年)に公職追放される。 日本弁護士協会理事、日本大学評議員、日満法曹協会理事、サンケエ株式会社社長などを歴任し、1955年(昭和30年)に日本住宅福祉協会を設立する。
飯島 雷輔(いいじま らいすけ、1887年(明治20年)10… 飯島 雷輔(いいじま らいすけ、1887年(明治20年)10月20日 - 1964年(昭和39年)2月21日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、貴族院勅選議員、茨城県旧古河市長。 茨城県西葛飾郡古河町(現:古河市)で、製糸業・飯島政吉の長男として生まれる。1909年(明治42年)家業を継承した。 武州銀行相談役、飯島商店社長、日本特殊合金鋳工社長、長島製糸所代表、古河町農会長、日本赤十字社特別社員、済生会特別会員などを務めた。 1936年(昭和11年)4月、古河町長に就任し同年11月まで在任。1939年(昭和14年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ、1941年(昭和16年)10月2日に辞任した。
島津 忠重(しまづ ただしげ、1886年〈明治19年〉10月… 島津 忠重(しまづ ただしげ、1886年〈明治19年〉10月20日 - 1968年〈昭和43年〉4月9日)は、日本の海軍軍人、貴族院議員。 島津氏第30代当主。島津忠義の四男であるが、兄たちの早世によりその嫡男(跡取り)となる。海軍少将正二位勲一等公爵。神号は「島津忠重命」。幼名は秀丸。 姉は邦彦王妃俔子で、香淳皇后の叔父にあたり、第125代天皇明仁の大叔父にあたる。 仙巌園で生まれ、幼少時代を過ごし、島津家庭尋常小学校(忠重とその兄弟が通うための学校)に通う。1898年(明治31年)2月1日、父・忠義の薨去により家督を相続し、公爵を襲爵する。叔父の島津珍彦が後見人となる。ほどなく鹿児島より上京し、学習院に編入学する。