木暮 力三(こぐれ りきぞう、1923年2月21日 - 没年… 木暮 力三(こぐれ りきぞう、1923年2月21日 - 没年不詳)は、群馬県桐生市出身のプロ野球選手。左投左打。西鉄などでプレーした木暮英路は実弟。 桐生中学(現群馬県立桐生高等学校)では、1939年の夏の甲子園に一塁手として出場。1942年に読売ジャイアンツに入団。強打者として期待され、1943年には応召した川上哲治に代わって一塁手のレギュラーとなり、巨人の第9代4番打者も務めた。 戦後の1946年に、かつて巨人監督だった藤本定義が監督に就任したパシフィックに入団。外野手のレギュラーとなり、打率.246を打ってリーグ33位に入った。しかし、同年限りでパシフィックを退団して、1947年は全桐生に参加し、都市対抗野球にも出場している。
宮澤 清治(宮沢 清治、みやざわ せいじ、1923年2月21… 宮澤 清治(宮沢 清治、みやざわ せいじ、1923年2月21日 - 2011年7月18日)は、日本の気象解説者。 長野県長野市出身。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、1942年気象技術官養成所(現在の気象大学校)本科卒業。長野地方気象台、新潟地方気象台を経て福岡管区気象台予報課長。1968年運輸大臣表彰(豪雪機構の解明)。1969年「豪雪に関する中気候学的研究」で東京教育大学理学博士。1972年気象庁天気相談所長。1980年広島地方気象台長。1982年神戸海洋気象台長。1983年気象庁を退官。1983年から2010年6月まで、NHKテレビ・ラジオの「気象情報」の解説を担当した。1993年日本気象学会評議員。
中村 妙子(なかむら たえこ、1923年2月21日 - )は… 中村 妙子(なかむら たえこ、1923年2月21日 - )は、東京府出身の日本の翻訳家。
中川 正輔(なかがわ まさすけ、1923年2月21日 - 1… 中川 正輔(なかがわ まさすけ、1923年2月21日 - 1993年1月21日 )は、日本の経営者。 福岡県北九州市出身。1948年に九州大学法文学部を卒業し、同年に九州配電(のちの九州電力)に入社。鹿児島支店長、理事を経て、1977年6月に取締役に就任し、常務を経て、1983年6月に副社長に就任。1988年6月に九州旅客鉄道会長に就任し、福岡県公安委員会委員長も務めた。 1988年4月に藍綬褒章を受章。
坊城 としあつ(ぼうじょう としあつ、1922年2月21日 … 坊城 としあつ(ぼうじょう としあつ、1922年2月21日 - 2010年4月10日)は、東京府出身の俳人。本名俊厚。 東京市牛込区(現新宿区)生。旧華族坊城家の分家の家柄であり、父は貴族院議員を務めた男爵坊城俊賢。東京帝国大学理学部卒業。地質学を修め、通商産業省地質研究所に入所した。 俳句は20代より父母から指導を受けたが、1950年に高浜中子と結婚してより本格的に俳句を志す。『ホトトギス』同人。3年間のトルコ滞在をはじめ、仕事の関係で各地を旅しているため、国際色豊かな句風である。また野鳥に造詣が深い。2010年4月10日、脳梗塞により死去した。88歳。句集に『坊城としあつ句集』がある。 妻坊城中子、息子の坊城俊樹も俳人である。
川橋 猛(かわはし たけし、1921年(大正10年)2月21… 川橋 猛(かわはし たけし、1921年(大正10年)2月21日 - 2013年(平成25年)2月21日)は日本の実業家、元NEC副社長、元東洋通信機(現・宮崎エプソン)社長、元日本ロケット協会会長。長崎県出身。
大路 三千緒(おおじ みちお、本名:神山 美知子(かみやま … 大路 三千緒(おおじ みちお、本名:神山 美知子(かみやま みちこ)、1920年〈大正9年〉2月21日 - 2021年〈令和3年〉1月12日) は、日本の女優。元宝塚歌劇団花組・雪組組長で宝塚歌劇団卒業生。東京都出身。愛称は「ミッちゃん」(本名から)。 1937年、立教高等女学校を卒業。 卒業後、宝塚少女歌劇団に宝塚歌劇団27期生として入団(同期生は越路吹雪、乙羽信子、東郷晴子、月丘夢路など)。宝塚入団時の成績は93人中70位。 1939年、初舞台を踏む。宝塚時代は男役を多く演じているが、娘役(とりわけ中年女性役)も初舞台当時より演じることが多かった。 終戦を経て、宝塚再興後の1951年 - 1952年に花組組長、1961年 - 1975年に雪組組長を歴任。
深海 正治(ふかうみ まさはる、1920年(大正9年)2月2… 深海 正治(ふかうみ まさはる、1920年(大正9年)2月21日 - 2021年(令和3年)5月28日)は、日本の技術者。 オリンパス光学工業専務、オリンパス精機社長。 佐賀県出身。久留米高等工業学校(現 : 九州大学工学部)精密機械科を卒業後、旧海軍の技術士官に採用され、大尉に任官。終戦まで機銃や零式艦上戦闘機の同調発射装置の設計を担当。 終戦後の1948年(昭和23年)にオリンパス光学工業に入社。1949年(昭和24年)、諏訪工場から杉浦睦夫が主任技師を務める研究所に異動。東京大学医学部附属病院副手の宇治達郎から胃の内部を撮影するカメラの製作を杉浦とともに依頼され、海軍時代に銃身内部の検査を行う装置を研究していたことを活かし、食道よりも細い管の中にカメラの全ての機能を詰め込む設計を考案。
小座間 泰蔵(おざま たいぞう、1920年(大正9年)2月2… 小座間 泰蔵(おざま たいぞう、1920年(大正9年)2月21日 - 1985年(昭和60年)1月15日)は、日本の政治家。山形県天童市長(1期) 。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 山形県出身。東北帝国大学工学部卒。山形県庁に入り、新庄、米沢の各建設事務所長、土木砂防課長、土木部次長を経て、1975年、天童市助役となる。1981年、天童市長に当選。市長時代は山形県社会教育振興会副会長、県農地管理公社監事、県治山林道協会理事、県自然環境保全審議会委員、国鉄利用成美強化促進期成同盟会常任理事、奥羽本線全線複線化早期完成期成同盟会監事、日本道路協会評議員、県住宅協会監事、県都市計画協会副会長などの公職を兼務した。
矢島 保男(やじま やすお、1920年2月21日 - 200… 矢島 保男(やじま やすお、1920年2月21日 - 2008年10月15日)は、日本の経済学者。 東京出身。早稲田大学商学部卒、1964年「消費者金融論」で商学博士。早大商学部助教授、教授。1990年定年となり、名誉教授。割賦販売審議会会長を務めた。銀行・金融などが専門。
石垣 りん(いしがき りん、女性、1920年(大正9年)2月… 石垣 りん(いしがき りん、女性、1920年(大正9年)2月21日 - 2004年(平成16年)12月26日)は、日本の詩人。東京府東京市赤坂区(現在の東京都港区)生まれ。銀行員として働きながら、詩を次々と発表。主な詩集として、『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』(1959年)、『表札など』(1968年)、『略歴』(1979年)、『やさしい言葉』(1984年)。代表作に「表札」。「断層」「歴程」同人。 第19回H氏賞、第12回田村俊子賞、第4回地球賞受賞。教科書に多数の作品が収録されており、また合唱曲の作詞でも知られる。
安永 英雄(やすなが ひでお、1920年〈大正9年〉2月21… 安永 英雄(やすなが ひでお、1920年〈大正9年〉2月21日 - 2003年〈平成15年〉6月8日)は、日本の政治家、参議院議員(4期、日本社会党)。 福岡県鞍手郡若宮町(現宮若市)出身。1940年福岡師範学校(現・福岡教育大学)卒。小中学校の教諭になり、福岡県教組委員長や県労組評議会議長を歴任する。1968年の第8回参議院議員通常選挙で全国区から日本社会党公認で立候補して初当選した。2期務めた後1980年の第12回参議院議員通常選挙で落選。1983年の第13回参議院議員通常選挙では比例区から立候補して当選した。1995年春の叙勲で勲二等旭日重光章受章。同年引退。国会内では建設委員長や決算委員長を歴任し、党内では参院国対委員長や参議院議員会長などを務めた。
カン・タガミ(Kan Tagami、漢字:田上 寛、1918… カン・タガミ(Kan Tagami、漢字:田上 寛、1918年2月21日 - 2005年11月24日)は、アメリカ合衆国の軍人。連合国軍占領下の日本において、ダグラス・マッカーサーの個人通訳を務め、昭和天皇と一人で謁見した唯一の日系2世として知られる。 また、樫葉章(英語版)付きの青銅星章をはじめとして、アメリカ従軍記章、アジア・太平洋従軍章(英語版)、進駐軍記章(英語版)、第二次世界大戦戦勝記念章、戦闘歩兵バッジ(英語版)、朝鮮従軍記章(英語版)、国土防衛従軍章、国連朝鮮戦争従軍章(英語版)、予備軍年功記章(英語版)、キャリア・インテリジェンス・メダル(英語版)など、全部で11の勲章を授与された。
久慈 義巳(くじ よしみ、1917年(大正6年)2月21日 … 久慈 義巳(くじ よしみ、1917年(大正6年)2月21日 - 1979年(昭和54年)2月16日)は、日本の政治家。岩手県久慈市長、岩手県議会議員(自由民主党所属)。 岩手県久慈市生まれ。1937年麻布獣医専門学校(現在の麻布大学)卒業。同4月農林省獣疫調査所(現在の動物衛生研究所)技手、1948年侍浜町農協組合長および侍浜町漁協組合長、1949年久慈市農業委員を歴任。1951年侍浜村議となり、1954年久慈市議会議員となる。1967年岩手県議会議員に当選する。 岩手県議3期を務めた後、1978年(昭和53年)に久慈市長選に自民党、社会党、公明党、民社党の推薦を得て立候補し、市制施行以来6期連続で市長を務めていた保守系無所属の現職、山内堯文を破り初当選した。
重枝 琢巳(しげえだ たくみ、1917年2月21日 - 20… 重枝 琢巳(しげえだ たくみ、1917年2月21日 - 2009年2月18日)は、昭和から平成時代の労働運動家。全日本労働総同盟(同盟)書記長。 山口県生まれ。1943年九州帝国大学法文学部経済学科卒業。九大では波多野鼎に師事。1946年三井化学工業に入社。同年日本労働組合総同盟(総同盟)九州連合会執行委員。1948年日本炭鉱労働組合連合会(炭労)事務局長。1951年9月加藤閲男、星加要、古賀専らと民主労働運動研究会(民労研)を結成、同会幹事。同年12月民主社会主義連盟(民社連)評議員。1953年2月全国民主主義労働運動連絡協議会(民労連)幹事。1954年全国石炭鉱業労働組合(全炭鉱)書記長兼総同盟副会長。
加藤 哲太郎(かとう てつたろう、1917年(大正6年)2月… 加藤 哲太郎(かとう てつたろう、1917年(大正6年)2月21日 - 1976年(昭和51年)7月29日)は、日本の元陸軍中尉・新潟の東京捕虜収容所第五分所長。英語塾経営者。東京に生まれる。父は作家・評論家の加藤一夫、母は加藤小雪。 父の一夫は神田豊穂らと春秋社を興し、日本初の『トルストイ全集』を刊行して成功を収めた。また、アナキズムに傾倒していた。 1923年9月1日、関東大震災が起こると、9月5日に一夫は巣鴨警察に留置され、9月7日、東京退去を条件にようやく釈放された。このため加藤一家は兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)への転居を余儀なくされた。 1928年、神奈川県横浜市に転居。 1940年、哲太郎は慶應義塾大学を卒業。
嘉悦 康人(かえつ やすと、1917年(大正6年)2月21日… 嘉悦 康人(かえつ やすと、1917年(大正6年)2月21日 - 2009年(平成21年)3月27日)は日本の教育者。元学校法人嘉悦学園学園長・理事長。 1917年(大正6年)2月、東京に生まれる。1943年(昭和18年)に嘉悦学園秘書課長、1946年(昭和21年)に同学園総務部長、1950年(昭和25年)に財団法人嘉悦学園理事長、1951年(昭和26年)に学校法人嘉悦学園理事長に就任する。1953年(昭和28年)に法政大学経済学部経済学科を卒業する。1966年(昭和41年)に日本女子経済短期大学(のち嘉悦大学短期大学部)学長、1972年(昭和47年)に嘉悦女子高校校長及び嘉悦女子中学校校長に就任する。
山田 明吉(やまだ あきよし、1915年2月21日 - 19… 山田 明吉(やまだ あきよし、1915年2月21日 - 1994年11月25日)は、日本の鉄道官僚。帝都高速度交通営団総裁を務めた。愛知県安城市出身。 1937年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に鉄道省に入省した。監督局事務官、東京鉄道局旅客課長を経て、1949年から1953年までに内閣官房総務課長を務めた。国鉄常務理事、関西支社長を経て、1964年に帝都高速度交通営団理事に就任し、1969年から1973年までに国鉄副総裁を務めた。 1975年に帝都高速度交通営団副総裁に就任し、1978年には総裁に昇格し、1983年からは顧問を務めた。 1987年に勲一等瑞宝章を受章した。 1994年11月25日心不全のために死去。
上林 猷夫(かんばやし みちお、1914年2月21日 - 2… 上林 猷夫(かんばやし みちお、1914年2月21日 - 2001年9月10日)は、日本の詩人。 北海道札幌市出身。旧姓は高垣。生後6ヶ月で伯父の養子となり、大蔵省専売局官吏だった養父に従って全国を転々とする。同志社高等商業学校卒。大阪地方専売局を経て、高砂香料工業に勤務。取締役総務部長を務めた。 1936年池田克己、佐川英三らと『豚』を創刊。戦後は『花』を創刊、『日本未来派』に参加。1952年『都市幻想』で第3回H氏賞受賞。1963年から日本現代詩人会理事長として、事務的手腕を発揮した。1987年日本現代詩人会会長。
平田 源一(ひらた げんいち、1913年2月21日 - 19… 平田 源一(ひらた げんいち、1913年2月21日 - 1995年9月10日)は、日本の経営者。ブラザー工業社長を務めた。広島県出身。 1934年に山口高等商業学校を卒業し、1943年1月にブラザー工業に入社。1946年6月に取締役に就任し、1962年7月に常務、1975年1月に副社長を経て、1979年2月には社長に就任。1981年2月から1987年2月までに監査役を務めた。 1983年3月に勲三等瑞宝章を受章。 1995年9月10日肺炎のために死去。82歳没。
中井 正一(なかい まさかず、1913年 <大正2年> 2月… 中井 正一(なかい まさかず、1913年 <大正2年> 2月21日 - 1993年 <平成5年> 7月30日)は、日本の経営者、銀行家。北國銀行頭取を務めた。位階は従五位。 香川県出身。1935年に早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業し、同年4月に日本銀行に入行。1958年11月に北國銀行に転じ、専務に就任し、1964年11月に副頭取を経て、1968年11月には頭取に昇格した。1978年12月に会長を経て、1984年6月には顧問に退いた。 1976年11月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1993年7月30日、北アルプスで下山途中で遭難し、死亡。80歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
時任 正夫(ときとう まさお、1912年2月21日 - 19… 時任 正夫(ときとう まさお、1912年2月21日 - 1994年11月2日)は、日本の教育者。学校経営者。元学校法人北星学園理事長。 北海道札幌市生まれ。1935年北海道帝国大学農学部卒業。同年、札幌光星商業学校教諭。1946年北星高等女学校教諭。1948年北星学園高等部部長(学校長)。1951年北星学園理事。北星学園女子短期大学副学長。1956年北星学園幼稚園園長。北星学園女子短期大学学長。1969年北星学園第2代理事長に就く。1987年学校法人稚内北星学園初代理事長。1991年高齢のため同理事長退任。北星学園名誉理事長に就く。
久保 昌二(くぼ まさじ、1911年〈明治44年〉2月21日… 久保 昌二(くぼ まさじ、1911年〈明治44年〉2月21日 - 1994年〈平成6年〉12月4日)は、日本の化学者。京城帝国大学、第一高等学校、名古屋大学教授。専門は物理化学。 1932年(昭和7年)、東京帝国大学卒業。1938年、理学博士。 台北帝国大学講師、東京帝国大学講師、京城帝国大学教授、第一高等学校教授を歴任。 1948年(昭和23年)、名古屋大学教授。
廣幡 憲(ひろはた けん、1911年2月21日 - 1948… 廣幡 憲(ひろはた けん、1911年2月21日 - 1948年10月9日)は、昭和時代に活動した日本の洋画家である。主に抽象画を描いた。残されている作品は少ない。 1911年(明治44年)2月21日、秋田県仙北郡中仙町字大清水(現・大仙市)に高橋幸之助、エシの二男として生まれた。本名は憲太郎である。4人兄弟である。 1918年(大正7年)に清水尋常小学校(現・大仙市立清水小学校)に入学、その後、小学2年の夏に養子話が持ち上がり、1919年(大正8年)9月19日、養子縁組の手続きがとられた。これは、母の妹で男鹿市脇本の本明寺に嫁いだ叔母のトヨに子がなかったためである。養父は廣幡耕道、憲太郎は養子に入ってから名前を憲導と改めた。
加藤 艮六(かとう こんろく、1911年(明治44年)2月2… 加藤 艮六(かとう こんろく、1911年(明治44年)2月21日 - 2002年(平成14年)5月8日)は、日本の医師。伊勢市長(3期)。 大分県出身。1934年(昭和9年)日本医科大学卒。京都大学耳鼻咽喉科教室を経て、日本赤十字社三重支部山田病院に勤務し、同病院副院長兼耳鼻咽喉科長などを務める。1972年(昭和47年)5月、伊勢市長選挙に当選、老人医療費無料化を実現させた。市政では医療、福祉面での政策に力を入れ、市内の小中学校の鉄筋化、清掃工場の建設、スポーツ施設の整備などあらゆる政策を遂行した。さらにモットーである「市民のための市政」を推進し、産業、教育、福祉の充実に力点を置いた。1984年(昭和59年)5月に市長を退任。
和村 幸得(わむら こうとく、1909年 <明治42年> 2… 和村 幸得(わむら こうとく、1909年 <明治42年> 2月21日 - 1997年 <平成9年> 10月18日)は日本の政治家。岩手県普代村長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 普代村出身。盛岡中学(現岩手県立盛岡第一高等学校)から慶應義塾大学に進むが、健康を害して中退、普代に戻った。 1933年、普代村で約600人の死傷者を出した昭和三陸地震の津波を体験した。後に著した回想録『貧乏との戦い四十年』では「阿鼻叫喚とはこのことか。堆積した土砂の中から死体を掘り起こしている所を見た時にはなんと申し上げてよいか、言葉も出なかった」と述懐している。 普代村役場で働いたのち、1947年に村長選挙に出馬して当選し、以後1987年まで10期40年に亘り務める。
小野木常(おのぎ つね/じょう、1909年2月21日 - 1… 小野木常(おのぎ つね/じょう、1909年2月21日 - 1991年2月19日)は、日本の法学者。専門は破産法。学位は法学博士(京都大学・論文博士・1947年)。大阪大学名誉教授。山田正三門下。弟子に中野貞一郎など。 大阪市出身。1932年京都帝国大学法学部卒、1947年 法学博士の学位を取得。広島地方裁判所検事局検事、京都大学法学部助教授、京都大学法学部教授、大阪大学法学部教授兼任(のち大阪大学専任)、1971年大学紛争により退職、名誉教授。
飯田 汲事(いいだ くめじ / くみじ、1909年 <明治4… 飯田 汲事(いいだ くめじ / くみじ、1909年 <明治42年> 2月21日 - 2000年 <平成12年> 7月17日)は、日本の地震学者・地球科学者。学位は、理学博士(東京大学・論文博士・1944年)。名古屋大学名誉教授。1980年勲三等旭日中綬章。位階は正四位。 1939年(昭和14年)6月に石本巳四雄と共同で、「ある観測点で記録された地震動の最大振幅と出現頻度との関係についての式」(石本・飯田の式)を発表した。 津波研究の世界的権威として知られる。今村明恒とともに設定した津波等級は現在でも広く使われている。また、過去に起こった地震の調査を多数行った。とくに濃尾地震の研究は有名。 そのほか、公害、都市計画、物理探査、温泉など、幅広い分野で活躍した。
野島 正城(のじま まさなり、1909年2月21日- 199… 野島 正城(のじま まさなり、1909年2月21日- 1997年12月2日)は、日本のドイツ文学者。 大分県生まれ。1935年東京帝国大学文学部独文科卒、東京大学教養学部教授、1969年定年となり明治大学教授を務めた。ドイツ文学、特にシラー、トーマス・マンを訳した。
禹 甲麟(ウ・ガムニン、朝鮮語: 우갑린、1909年2月21… 禹 甲麟(ウ・ガムニン、朝鮮語: 우갑린、1909年2月21日 - 2000年3月11日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、労働運動家、ジャーナリスト、政治家。第6代韓国国会議員。本貫は丹陽禹氏。 ソウル出身。中学校中退、早稲田大学法政学部卒。新幹会代議員、朝鮮日報記者、朝鮮青年総同盟調査部次長、大韓独立促成国民会創立委員・宣伝委員、反託闘争国民総動員委員、米ソ共同委員会団体代表、大韓労働総連盟事務総長、自由党訓練部長、民政党組織委員長・選挙対策委員会副委員長、新民党指導委副議長を務めた。 2000年3月11日、ソウルの新村セブランス病院で持病により死去。享年93。 柳津(朝鮮語版)と林次周が新民党を離党したことにより第6代国会議員職を喪失した後、禹は1967年6月26日に繰り上げ当選したが、任期満了日は同月30日だったため、議員を5日間しか務めなかった。
里井 達三良(さとい たつさぶろう、1908年(明治41年)… 里井 達三良(さとい たつさぶろう、1908年(明治41年)2月21日 - 1998年(平成10年)12月21日)は、昭和期の経営者である。 大阪府泉佐野市出身。九州大学経済学部卒業。大阪商工会議所の勤務を経て、関西国際空港ビルディング株式会社社長、大阪商工会議所副会頭など歴任し、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会、1974年(昭和49年)には中国展覧会の運営に中枢的役割を果たす。 また、インターグループ株式会社設立時の顧問、大阪ロータリークラブ会長、文楽協会の評議員、大阪府「なにわ塾」創始時の委員など、多くの文化団体の役員や委員として大阪の文化の振興発展に精力的に活躍する。1984年(昭和59年)、大阪文化賞を受賞。
山田 憲太郎(やまだ けんたろう、1907年2月21日 - … 山田 憲太郎(やまだ けんたろう、1907年2月21日 - 1983年2月3日)は、香料研究者、東西交渉史学者。 長崎県諫早市出身。1932年神戸商科大学(現神戸大学)卒。小川香料(香料会社)勤務、1950年「中世のアラビヤ人が初めて東方に伝えた龍涎香とジヤスミン」で國學院大學文学博士。1954年近畿大学経営学部教授。1958年桃山学院大学経済学部教授、名古屋学院大学教授、77年定年、名誉教授。東アジアの香料史および東西交通史を研究し、1977年「東亜香料史研究」で日本学士院賞受賞。78年、奈良県明日香村のマルコ山古墳で出土した人骨から発した芳香について、古代中国から伝わった「竜脳」だと鑑定した。
横超 慧日(おうちょう えにち、1906年2月21日 - 1… 横超 慧日(おうちょう えにち、1906年2月21日 - 1996年1月17日)は、日本の仏教学者。専門は中国仏教。 1906年(明治39年)2月21日に愛知県丹羽郡千秋村浮野の真宗大谷派願行寺の住職である横超日南の次男として生まれる。 第八高等学校卒業後、東京帝國大学(印度哲学科)に入学。常盤大定に師事した。1928年(昭和3年)に大学院に進学。1931年(昭和6年)に卒業。東方文化学院(終戦後の昭和23年に東京大学東洋文化研究所に改組)の研究員となる。 1934年(昭和9年)に選ばれて中国の地を初めて踏む。この時の同行者に仁井田陞・青山定雄らがいた。 1939年(昭和14年)に小島常次郎の長女多祢子と結婚。
古曳 保正(こびき やすまさ、1906年2月21日 - 20… 古曳 保正(こびき やすまさ、1906年2月21日 - 2003年2月6日)は、日本の柔道家(講道館9段)、教育者。 鳥取県西伯郡法勝寺村(現・南部町)出身。小学校高等科まで剣道に励み、旧制米子中学校(現・県立米子東高校)でも剣道部に入部するが上級生に気の合わない者がいて退部、阿部信文の勧誘もあり柔道部へ転入部した。阿部や山根英師など諸先輩の胸を借りて学業成績が下がるほど柔道に熱中し、親や兄弟が柔道をやめるよう言ったが親の目を盗んでは稽古に励んだ。1924年、旧制松江高校主催の山陰中学校大会の選手に選ばれて出場、旧鳥取一中学校(現・県立鳥取西高校)相手に2人勝ち抜き、選手としての地位は確立された。
木場 貞寿(こば さだひさ)、1906年2月21日 - 19… 木場 貞寿(こば さだひさ)、1906年2月21日 - 1996年8月14日)は、実業家。
古賀 進(こが すすむ、1906年2月21日 - 1996年… 古賀 進(こが すすむ、1906年2月21日 - 1996年9月22日)は、日本の経営者。住友セメント(現在の住友大阪セメント)社長、会長を務めた福岡県出身。 1930年に九州帝国大学工学部採鉱学科を卒業し、同年に住友石炭鉱業に入社。1950年3月に取締役に就任し、1956年3月に常務、1960年8月に専務を経て、1963年5月に磐城セメント(のちの住友セメント)副社長に就任し、1970年4月には社長に昇格。1974年5月に会長、1978年6月に取締役相談役を経て、1980年6月に相談役に就任。 1996年9月22日脳梗塞のために死去。90歳没。
松木 治三郎(まつき じさぶろう、1906年2月21日 - … 松木 治三郎(まつき じさぶろう、1906年2月21日 - 1994年5月24日)は、日本の牧師、神学者。 福井県敦賀生まれ。1934年日本神学校を卒業後、日本基督教会木更津教会(1941年より、日本基督教団)、熊本坪井教会牧師を経て、1951年に関西学院大学文学部神学科教授、翌1952年から同大神学部教授として、聖書釈義、新約学を講義。1968年から神学部長を務めた。1974年に定年退職後は聖書解釈研究所を主宰した。 このほか、日本新約学会会長(1960年 - 1986年)、日本基督教団塚口教会主任牧師(1953年 - 1991年)を務めた。
木村 義雄(きむら よしお、1905年(明治38年)2月21… 木村 義雄(きむら よしお、1905年(明治38年)2月21日 - 1986年(昭和61年)11月17日)は、将棋棋士。十四世名人。棋士番号は2。東京府東京市本所区本所表町(現:東京都墨田区)出身。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 最初の実力制による名人、かつ最初の永世名人である。 江戸っ子である下駄屋の職人の子として育ち、幼い頃から囲碁と将棋が強く、大人にも負けなかったという。父は弁護士か外交官になることを望んでいたが、知人の説得に負けて義雄に囲碁の道場に通うことを許した。しかし生家の職業上糊として使うことから白米を常食としていた義雄は、囲碁の師匠の家である日出された麦飯を二口と食べられなかった。
牧野 周一(まきの しゅういち、1905年2月21日 - 1… 牧野 周一(まきの しゅういち、1905年2月21日 - 1975年5月3日、本名:宇野主一)は、日本の映画説明者、漫談家。東京演芸協会第2代会長。
北村 義男(きたむら よしお、1905年(明治38年)2月2… 北村 義男(きたむら よしお、1905年(明治38年)2月21日 - 1979年(昭和54年)12月1日)は、日本の医学者。石川県七尾市出身。第四高等学校(現:金沢大学)、東京帝国大学(現:東京大学)医学部卒業。 1930年(昭和5年)に東京帝国大学医学部卒業後、1930年(昭和11年)に医学博士号を取得。1936年(昭和28年)に徳島大学教授となる。1954年(昭和29年)から1956年(昭和31年)までは同大学医学部付属病院(現:徳島大学病院)の院長も兼任していた。その後は医学部長を経て1970年(昭和45年)に同大学学長に就任。 1977年(昭和52年)に四国女子大学(現:四国大学)学長に就任したが、1979年(昭和54年)に満74歳で逝去。
中島 健蔵(なかじま けんぞう、1903年(明治36年)2月… 中島 健蔵(なかじま けんぞう、1903年(明治36年)2月21日 - 1979年(昭和54年)6月11日)は、フランス文学者、文芸評論家。ヴァレリーやボードレールなどを翻訳紹介する一方、当時まだ無名だった宮澤賢治の作品に光を当て、戦後はいわゆる進歩的知識人の一人として反戦平和運動に貢献すると共に、日本文芸家協会の再建や著作権保護、日中の文化交流に尽力した。中国切手の世界的なコレクターとしても有名である。
篠井 恵四郎(しのい えしろう、1902年(明治35年)2月… 篠井 恵四郎(しのい えしろう、1902年(明治35年)2月21日 - 1965年(昭和40年))は、日本の政治家。長野県飯山市長。 長野県下水内郡飯山町(現飯山市)生まれ。1919年(大正8年)3月、旧制飯山中学(現長野県飯山高等学校)卒業。飯山町議会議員、同町消防団長、同町助役を経て、1953年(昭和28年)9月、飯山町長に当選し、昭和の大合併では1町6村の新設合併を実現した。 1954年(昭和29年)飯山市制施行に伴い初代市長となり、1958年(昭和33年)9月まで1期務めた。在任中は市庁舎の竣工や照岡ダムの建設、市内有線放送の整備などに力を入れた。
川村 和嘉治(かわむら わかじ、1901年(明治34年)2月… 川村 和嘉治(かわむら わかじ、1901年(明治34年)2月21日 - 1968年(昭和43年)2月19日、満66歳没)は日本の政治家。高知県知事を務めた。 高知県長岡郡本山町出身。1930年京都帝国大学農学部卒業。『大阪毎日新聞』で農政記者として、戦時下の農政団体で活躍する。1947年(昭和22年)の第1回高知県知事選挙に出馬し当選。およそ半年後の1947年(昭和22年)7月25日に公職追放が決定し、解職。追放解除後の1951年(昭和26年)に国民民主党、日本社会党、社会革新党の推薦を得て、現職の桃井直美を約2万票の差で破り当選。1955年(昭和30年)まで再び知事を務めた。1955年の高知県知事選挙では新人の溝渕増巳に敗れて知事を退任。
藤野 忠次郎(ふじの ちゅうじろう、1901年2月21日 -… 藤野 忠次郎(ふじの ちゅうじろう、1901年2月21日 - 1985年7月23日)は、日本の経営者。三菱商事社長、会長を務め、「三菱商事の中興の祖」でもある。埼玉県出身。 1925年に東京帝国大学法学部を卒業し、三菱商事に入社。1956年5月に常務に就任した。戦後直後に渉外部長として、財閥解体でGHQとの折衝役を務めた 1947年に取締役に就任し、1964年5月に副社長に就任した。1966年4月に社長に就任し、1967年に三井物産を抜き、総合商社トップの座につくことを実現させた。1974年に会長に就任した。東京商工会議所副頭取、三菱電機取締役、三菱倉庫取締役、三菱重工業取締役、金曜会の代表世話人なども歴任した。
永田 耕衣(ながた こうい、1900年(明治33年)2月21… 永田 耕衣(ながた こうい、1900年(明治33年)2月21日 - 1997年(平成9年)8月25日)は、俳人。本名軍二(ぐんじ)。別号、田荷軒主人。禅的思想に導かれた独自の俳句理念に基づき句作。また諸芸に通じ書画にも個性を発揮、90歳を超えた最晩年に至るまで旺盛な創作活動を行った。
家倉 悌二郎(いえくら ていじろう、1900年〈明治33年〉… 家倉 悌二郎(いえくら ていじろう、1900年〈明治33年〉2月21日 - 1956年〈昭和31年〉9月6日)は、昭和時代の台湾総督府官僚。 福井県に生まれる。1927年(昭和2年)3月、同志社大学法学部経済学科を卒業し、台湾総督府財務局に奉職する。1940年(昭和15年)10月、地方理事官に進み、基隆市助役に就任し、1942年(昭和17年)4月、新竹州桃園郡守に転じた。 戦後は敦賀市収入役を務めた。
村上 藤太郎(むらかみ とうたろう、1895年〈明治28年〉… 村上 藤太郎(むらかみ とうたろう、1895年〈明治28年〉2月21日 - 2004年〈平成16年〉7月30日)は、男性長寿日本一だった人物。 兵庫県八鹿町(現・養父市)生まれ。1910年ごろ病気を機に金光教に入信。1946年から朝来教会教会長を務めた。2002年までは朝の祈祷を日課としていた。2003年ごろからは自室で休むことが多く、2004年6月から体調を崩し入院していた。 2004年7月、腎不全のため兵庫県和田山町(現・朝来市)の病院で死去。109歳160日没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
勝目 清(かつめ きよし、1894年2月21日 - 1971… 勝目 清(かつめ きよし、1894年2月21日 - 1971年7月11日)は、日本の政治家。第14代鹿児島市長。鹿児島県出身。 鹿児島市下竜尾町生まれ。父覚衛は鉄道院職員。1898年鶴山学舎入舎。1900年鹿児島県師範学校附属幼稚園卒園。同年鹿児島市立大龍小学校入学。1904年鹿児島県師範学校附属小学校高等科入学。1907年鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)入学、1912年第七高等学校造士館 (旧制)入学。1915年東京帝国大学法学部法律学科入学。1916年病気休学。1917年鹿児島県学務課勤務。1920年東京帝国大学卒業。1921年東京市電気局工務課勤務。1924年、30歳で伊集院俊鹿児島市長に請われて鹿児島市助役に就任した。
神田 茂(かんだ しげる、1894年〈明治27年〉2月21日… 神田 茂(かんだ しげる、1894年〈明治27年〉2月21日 - 1974年〈昭和49年〉7月29日)は、日本の天文学者。元横浜国立大学教授。大阪府出身。アマチュア天文家の指導者として有名。 1894年(明治27年)大阪に生まれる。麻布中学、二高を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学理学部天文学科を卒業、東京天文台(国立天文台の前身)の技手となる。同じ年の8月20日にはくちょう座に新星を発見している。 東京天文台では『理科年表』や日本天文学会の会誌『天文月報』の編集に当たった。また星の古記録を組織的に収集し『日本天文史料綜覧』(1934年)や『日本天文史料』(1935年)をまとめた。 1943年(昭和18年)に天文台を退官すると湯河原に移住し、1945年(昭和20年)「神田天文学会」を創立、翌年には日本天文研究会と改称した。
中村 知(なかむら さとる、1893年2月21日 - 197… 中村 知(なかむら さとる、1893年2月21日 - 1972年3月1日)は、日本のボーイスカウトの黎明期から、第二次世界大戦前の拡大期、戦後の再建期にわたって活躍したボーイスカウト指導者。「ちーやん」の愛称で親しまれた。筆名に東野通義。 ボーイスカウト日本連盟の功労章である「はと章」「やたがらす章」の受賞者。 『ちーやん夜話集』や多くのスカウトソングの作詞作曲、スカウト運動の基礎となる書籍類の翻訳で知られる。 1893年、愛媛県松山市に生まれる。 1909年、広島高等師範学校(現・広島大学)付属中学校に在学中、当時の校長だった北条時敬より英国ボーイスカウトについての知識を得、生徒同志30名と日本最初のスカウティング集団「城東団」を結成し班長となる。