井上 昭文(いのうえ しょうぶん、1927年8月22日 - … 井上 昭文(いのうえ しょうぶん、1927年8月22日 - 2013年1月28日)は、日本の俳優。本名は同じ。 愛知県名古屋市出身。中京商業高等学校卒業。劇団新人会を経て、六芸社、グループ71に所属していた。 妻は女優の第1回紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞した馬場恵美子。 俳優座養成所2期生。養成所卒業後、劇団新人会の創立メンバーの一員となる。 色川武大の『浅草葬送譜』によれば、名古屋から家出をして清水金一の付き人をしていたという。中京商業が母校。 東宝で若干のキャリアを積んだ後、1957年に『幕末太陽傳』で日活デビュー。1961年から1965年までは日活と専属契約を結び、名バイプレイヤーとして数多くの作品に出演し、石原裕次郎、小林旭、吉永小百合らのスターを引き立てながら、日活映画の黄金期を支えた。
谷村 友一(たにむら ともいち、1927年8月22日 - 2… 谷村 友一(たにむら ともいち、1927年8月22日 - 2022年7月31日)は、日本のプロ野球審判員。所属はセントラル・リーグ。京都府出身(出生地はアメリカ・ニューヨーク)。 1927年、父親の駐在先であるニューヨークで生まれる。5歳で帰国した。 旧制同志社中学(現:同志社高校)、同志社大学から極東商事(現:三菱商事入社。選手時代は二塁手で、甲子園出場は無いが、大学では4年生時に主将を務め、1950年秋のリーグ優勝に貢献し、最高殊勲選手賞を受賞している。また、1952年に社会人野球チーム・京都クラブで第23回都市対抗野球大会への出場経験がある。 大学卒業後、24歳から旧関西六大学野球と高校野球で審判員を務め、1955年から甲子園大会も担当。
稲田 祐二(いなだ ゆうじ、1927年8月22日 - 201… 稲田 祐二(いなだ ゆうじ、1927年8月22日 - 2012年3月2日)は、日本の生化学者。専攻はタンパク質工学。東京工業大学名誉教授。 神戸市出身。2012年3月2日、悪性リンパ腫により死去。84歳没。
堀 幸夫(ほり ゆきお、1927年〈昭和2年〉8月22日 -… 堀 幸夫(ほり ゆきお、1927年〈昭和2年〉8月22日 - 2024年〈令和6年〉7月5日)は、日本の機械工学者。東京大学名誉教授、金沢工業大学学事顧問。日本学士院会員。オイルウィップ、潤滑、プラスチック材料の研究で知られる。東京府出身。
下飯坂 菊馬(しもいいざか きくま、1927年8月22日 -… 下飯坂 菊馬(しもいいざか きくま、1927年8月22日 - 2008年4月10日)は、日本の脚本家。 東京都世田谷区生まれ。父は裁判官の下飯坂潤夫。子供の頃、父の転勤に伴って鳥取県へ転校するも、その後再び東京へ戻る。 旧制麻布中学校、東京外国語大学ロシア語科卒。大学4年生の時から約4年間結核を患って闘病生活をしていた。役所勤務、ロシア語教師を経て、大学の同窓生の脚本家・山内久の勧めで大映シナリオ作家養成所に入所。1955年大映シナリオ作家養成所卒業(同所の同期に野上龍雄、安倍徹郎らがいる)、5年間専属ライターとして勤務の後フリー。女を主人公としたアクション映画、やくざ映画などを得意とした。映画のほか、テレビドラマのシナリオも多数執筆した。
飯田 清悦郎(いいだ せいえつろう、1927年8月22日 -… 飯田 清悦郎(いいだ せいえつろう、1927年8月22日 - )は、日本のジャーナリスト。 北海道爾志郡熊石町(現・二海郡八雲町)生まれ。筆名・富岡良介。1953年法政大学社会学部卒、北海道経済新聞、産経新聞経済部記者をへて、フリージャーナリスト。1976年北海道乙部町でブドウ栽培とワイン生産を始めた。
富樫 淳(とがし じゅん、1924年8月22日 - 1986… 富樫 淳(とがし じゅん、1924年8月22日 - 1986年10月26日)は兵庫県武庫郡鳴尾村(現:西宮市)出身の元プロ野球選手。
岩瀬 剛(いわせ つよし、1924年8月22日 - )は、熊… 岩瀬 剛(いわせ つよし、1924年8月22日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手。
合田 茂(ごうだ しげる、1924年8月22日 - 2023… 合田 茂(ごうだ しげる、1924年8月22日 - 2023年1月16日)は、日本の経営者。住友重機械工業社長、会長を務めた。 香川県出身。1948年に東京大学経済学部を卒業し、同年に住友機械工業(現在の住友重機械工業)に入社した。1974年11月に取締役に就任し、1978年2月に常務、1979年6月に専務、1982年6月に副社長を経て、1983年6月に社長に就任。1989年6月に会長に就任し、1995年6月に相談役を経て、2000年7月から名誉顧問を務めた。 1993年11月に藍綬褒章を受章。 2023年1月16日、老衰のために死去。98歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高野 よしてる(たかの よしてる、本名:高野義輝、1923年… 高野 よしてる(たかの よしてる、本名:高野義輝、1923年8月22日 - 2008年11月15日)は、日本の雑誌編集者・漫画家である。九州生まれ。関東商業学校(現・関東第一高等学校)、法政大学出身。漫画家としては1950 - 1970年(昭和25 - 45年)頃まで月刊・週刊の漫画雑誌で活躍した。代表作は『赤ん坊帝国』『黒帯くん』『13号発進せよ』など。 1923年(大正12年)、九州に生まれる。4歳の頃に家族ともども東京に移り、以後東京で育つ。 中学の頃から漫画家を目指し、志を同じくする友人たちと共に「新世紀漫画集団」という名のグループを結成。日曜日になっては漫画について討論や研究、デッサンをしていた。
臼淵 磐(うすぶち いわお、1923年(大正12年)8月22… 臼淵 磐(うすぶち いわお、1923年(大正12年)8月22日 - 1945年(昭和20年)4月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少佐。 海兵71期。太平洋戦争末期の天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加して戦死。個人的に親交があり、同作戦に参加して生還した作家の吉田満(当時・海軍少尉)の著書『戦艦大和ノ最期』や、その列伝作品『臼淵大尉の場合――進歩への願い』で取り上げられたことによって、戦後、広く知られるようになった。 なお、吉田満『戦艦大和ノ最期』を出典として広く知られている臼淵の発言 は、吉田満の創作である(→人物/エピソード/戦艦大和出撃時の挿話〈吉田満の創作〉)。 1923年(大正12年)8月22日、臼淵清忠・海軍機関中佐の長男として東京府東京市青山(現:東京都青山)に生まれる。
木川 かえる(きがわ かえる、本名:木皮 一夫〈きがわ かず… 木川 かえる(きがわ かえる、本名:木皮 一夫〈きがわ かずお〉、1923年〈大正12年〉8月22日 - 2005年〈平成17年〉3月4日)は、日本の元漫画家、ジャズ漫画家。滋賀県近江八幡市出身。日本漫画家協会参与 京都支部長。1992年から1999年まで京都精華大学芸術学部漫画学科の講師を務めていた。 父は銀行員でヴァイオリン、尺八を演奏するなど風流人であった。自身もそんな縁で演芸などに興味を持つ。子供の頃から絵を描く事も好きで学生時代から新聞等に投稿をしていた。滋賀県立八幡商業高等学校卒業後、父の勧めで銀行員になる。戦時中は従軍、終戦を中国で迎え、復員。戦後は進駐軍でジャズや映画音楽をBGMに米軍相手に絵を描く漫画ショウを始める。
北沢 郁子(きたざわ いくこ、1923年8月22日- )は、… 北沢 郁子(きたざわ いくこ、1923年8月22日- )は、歌人。
印東 太郎(いんどう たろう、英: Tarow Indow、… 印東 太郎(いんどう たろう、英: Tarow Indow、大正12年(1923年)8月22日 - 平成19年(2007年)9月22日)は、日本またはアメリカの数理心理学者、計量心理学者、実験心理学者、文学博士。慶應義塾大学及びカリフォルニア大学アーバイン校名誉教授。国際色彩学会(AIC) の会長も務めた。
徳永 功(とくなが いさお、1923年8月22日 - 200… 徳永 功(とくなが いさお、1923年8月22日 - 2005年6月25日)は、日本の検察官、弁護士。熊本県生まれ。 短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、1944年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年9月に主計中尉に進んで予備役に編入された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
山辺 英彦(やまべ ひでひこ、1923年8月22日 - 19… 山辺 英彦(やまべ ひでひこ、1923年8月22日 - 1960年11月20日)は、日本の数学者である。 位相群、リー群の構造を研究しヒルベルトの第5問題の解決に貢献したことで知られる。その後、偏微分方程式、力学系、微分幾何学の研究に移る。微分幾何学では共形幾何学における変分問題である「山辺の問題」が有名である。また山辺不変量、山辺フロー、山辺定数などに名を残す。 山辺は1923年8月22日に兵庫県芦屋市で山辺武彦、レイの六男として生まれた。芦屋市立山手小学校、神戸第一中学校を経て、1944年9月に第三高等学校を卒業後、東京帝国大学数学科に入学した。1947年9月に東京大学を卒業して理学士の学位を得た。
緋縅 力弥(ひおどし りきや、1922年8月22日 - 19… 緋縅 力弥(ひおどし りきや、1922年8月22日 - 1970年1月2日)は、秋田県南秋田郡昭和町(現役当時、現・同県潟上市)出身で錦嶋部屋に所属した大相撲力士。本名は鎌田 全吉(かまた ぜんきち)。得意手は左四つ、寄り、吊り。現役時代の体格は179cm、120kg。自己最高位は、東前頭10枚目(1954年1月場所)。 18歳の時に上京して錦嶋部屋へ入門し、1941年1月場所で初土俵を踏んだ。 当初の四股名は、若大蛇(わかおろち)。間も無く、緋縅(ひおどし)と改名した(下の名は初めは新太郎、のち、力弥)。 序ノ口に付いてから、1度も負け越す事無く、1946年11月場所で十両昇進を果たした。 その後、1950年1月場所にて新入幕。
熊木 令次(くまき れいじ、1922年(大正12年)8月22… 熊木 令次(くまき れいじ、1922年(大正12年)8月22日 - 2015年(平成27年)10月24日)は、日本の地方公務員、政治家。東京都東村山市長(4期)。 東京府北多摩郡東村山村(東村山町を経て、現・東村山市)生まれ。旧制東亜商業学校(現東亜学園高等学校)を経て、脇田簿記学校卒。戦後、東村山町役場に入る。役場では収入役、総務課長、助役を務め、助役時代の1964年(昭和39年)に東村山町は市制施行により東村山市となった。市制施行後も助役として初代市長の小山林平を補佐した。 1967年(昭和42年)東村山市長選挙で当選。市内に都立高校の設置、保健所や税務署の誘致、水道事業を都に一元化させ、都市基盤と生活環境の整備、福祉の充実と、市民の健康増進、教育文化の向上などに積極的に取り組んだことにより、市民の信頼を得た。
土田 晃透(つちだ てるみち、1921年(大正10年)8月2… 土田 晃透(つちだ てるみち、1921年(大正10年)8月22日 - 2008年(平成20年)10月20日)は、日本の経営者。元明治生命保険社長・会長。元生命保険協会会長。大分県出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
福田 勇一(ふくだ ゆういち、1920年8月22日 - )は… 福田 勇一(ふくだ ゆういち、1920年8月22日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手。ポジションは二塁手。
有馬 洪(ありま こう、1917年8月22日 - )は、日本… 有馬 洪(ありま こう、1917年8月22日 - )は、日本の薬学研究者、経営者である。また、サッカー選手としてもプレーし、日本代表として1951年アジア競技大会など国際Aマッチ3試合に出場した。名前の読みを「ひろし」とする資料もある。 1941年3月、東京帝国大学医学部薬学科を卒業。 1947年3月、三共(現:第一三共)に入社。1969年12月に同社醗酵研究所の所長に就任。 1972年5月より同社取締役、1978年6月より同社常務取締役、1982年6月より同社監査役 をそれぞれ歴任した。なお、1990年を以て同社監査役を退任した。 東京帝国大学在学中はア式蹴球部に所属し、ハーフバックとしてプレー。
宮谷 重雄(みやたに しげお、1917年(大正6年)8月22… 宮谷 重雄(みやたに しげお、1917年(大正6年)8月22日 - 1991年(平成3年)3月6日)は日本の建築家、建築積算士。建築積算設計事務所の二葉積算を創設。元日本積算協会会長。旧満州・大連生まれ。昭和30年代から積算業を日本に根付かせ、また英国の積算士(QS:w:Quantity surveyor)の業務を日本に広く紹介した人物。 父親は南満州鉄道大連駅助役。この関係で、内地(日本本土)に渡るまで旧満州で暮らす。 1935年(昭和10年)、早稲田大学理工学部建築学科に入学。同級生には吉阪隆正がいる。 1941年(昭和16年)、大学卒業。満州拓殖公社建築技師補になるが、程なくして応召して騎兵集団隷下の工兵中隊に配属される。
小西 甚一(こにし じんいち、1915年〈大正4年〉8月22… 小西 甚一(こにし じんいち、1915年〈大正4年〉8月22日 - 2007年〈平成19年〉5月26日)は、日本の文学者(日本中世文学、比較文学)。文学博士(東京文理科大学・論文博士・1954年)。筑波大学名誉教授。 東京高等師範学校、東京文理科大学国語国文科、同研究科を卒業後、東京教育大学教授、筑波大学教授、筑波大学副学長を歴任。米国に長く滞在し、日本文学の国際化や学問の輸入に貢献した。『古文研究法』の執筆など、大学受験指導の啓蒙でも知られる。 1951年(昭和26年)、『文鏡秘府論考』により日本学士院賞を受賞。1987年(昭和62年)、勲二等瑞宝章。1999年(平成11年)、文化功労者。 三重県宇治山田市船江町(現・三重県伊勢市船江)に生まれる。
斎藤 玄(さいとう げん、1914年8月22日 - 1980… 斎藤 玄(さいとう げん、1914年8月22日 - 1980年5月8日)は、北海道出身の俳人。本名・俊彦。 北海道函館市春日町(現青柳町)に生まれる。祖父斎藤又右衛門は末広町で呉服屋を営み、函館銀行初代頭取や函館商工会議所初代会長などを務めた地元財界の大物だった。父俊三は咀華と号した画家で、二科展に属し川端龍子や斎藤五百枝らと交流があったが、4歳のときに死別した。親類に上田敏がいる(祖父の妹の夫)。 函館中学校、早稲田大学商科卒。大学在学中、新興俳句に惹かれたことから従兄の杉村聖林子に誘われて「京大俳句」に参加し西東三鬼に師事。当初は三樹雄と号した。1938年、旧北海道銀行に入社。1940年、郷里で「壷」を創刊するが、4年後に休刊。
徳末 知夫(とくすえ ともお、1914年8月22日 - 20… 徳末 知夫(とくすえ ともお、1914年8月22日 - 2006年1月29日)は、日本の実業家。帝人代表取締役社長を務めた。 日本統治時代の台湾で生まれる。1938年神戸商業大学(現神戸大学)卒業、帝国人造絹絲入社。戦時中は陸軍主計大尉。戦後復帰し 1957年帝国人造絹絲テトロン販売部次長。1959年帝国人造絹絲テトロン販売部長。1961年帝国人造絹絲企画部長。1962年帝人ニューヨーク出張所長。1965年帝人取締役。1969年帝人常務取締役。1980年から帝人代表取締役社長を務めた。それまでの拡大路線で積み上がった不採算事業の整理を実施。一気に二十件以上の事業や海外案件から撤収するとともに、医療・医薬事業を次世代の成長事業として位置づけ、現在の事業構造の原型を築いた。
金原勇(きんぱら いさむ、1914年8月22日- )は、日本… 金原勇(きんぱら いさむ、1914年8月22日- )は、日本の陸上競技選手・体育学者、筑波大学名誉教授。 旧姓・加島。東京文理科大学卒。1936年全日本陸上競技選手権大会走高跳優勝。1973年「筋の力の出し方に関する基礎的研究 Eccentricな筋力の特性について」で東邦大学医学博士。東京教育大学助教授、教授、スポーツ研究所長、筑波大学体育科学学系長。78年定年退官、筑波大学名誉教授。武蔵野体育研究所主宰。体育原理、バイオメカニクス、陸上競技、トレーニング、コーチングほか。
権 逸(クォン・イル、ごん いつ、朝鮮語: 권일/權逸、19… 権 逸(クォン・イル、ごん いつ、朝鮮語: 권일/權逸、1911年8月22日 - 2001年4月3日)は、在日本大韓民国居留民団(現・在日本大韓民国民団)中央団長。在日本大韓民国居留民団顧問。満州国で裁判官、日本で弁護士、韓国で政治家としても活動していた。第8・9代大韓民国国会議員。日本名は権藤嘉郎で、権赫周(권혁주)の名前も使用した。 独立運動家・映画監督の権赫朝は弟。俳優のイム・ドンジン(朝鮮語版)は姪の夫(弟の赫朝の娘婿)。 - 권일(權逸)[リンク切れ] - 国史編纂委員会
半田 亘理(はんだ わたり、1911年(明治44年)8月22… 半田 亘理(はんだ わたり、1911年(明治44年)8月22日 - 1948年(昭和23年)10月21日)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 操練19期。最終階級は中尉。黒岩利雄とならび、単機格闘戦の名手と謳われた撃墜王である。 福岡県久留米市に生まれる。1928年(昭和3年)、海軍を志し佐世保海兵団入団。艦船勤務を経て1932年(昭和7年)10月、第19期操縦練習生となる。同期生に磯崎千利、高橋憲一、田中平、五島一平。1933年(昭和8年)3月、同課程を修了し、戦闘機専修。空母「龍驤」飛行機隊に配属される。 その後、大村に転属。在任中、愛国号献納式典で祝賀飛行に参加した。当時部下だった田中国義はその練習中、編隊スローロール等で苦労していたが、半田機は「定位置を微動だにしない、ついて行くのに汗をかいた」と回想する。
近藤 恒次(こんどう つねじ、1910年8月22日 - 19… 近藤 恒次(こんどう つねじ、1910年8月22日 - 1978年8月16日)は、愛知県豊橋市中柴町出身の教育者・郷土史家。文学博士(東洋大学、1972年)。 1910年に豊橋市中柴町に生まれた。建具商である近藤宇一の長男であり、生家は大手通りから諏訪神社に曲がる角にあった。松山尋常小学校(現・豊橋市立松山小学校)、愛知県豊橋中学校(現・愛知県立時習館高等学校)を卒業。教員志望だったため、1928年(昭和3年)には東洋大学専門部倫理学東洋文学科に入学し、1931年(昭和6年)に卒業した。 1934年(昭和9年)に花田尋常小学校(現・豊橋市立花田小学校)代用教員となったのが教職の始まりである。豊橋市立商業学校(現・愛知県立豊橋商業高等学校)、豊橋市立工業学校(現・愛知県立豊橋工業高等学校)、愛知県立時習館高等学校の教員を務め、1971年(昭和46年)に時習館高校で定年を迎えた。
玉木 泰男(たまき やすお、1910年8月22日 - 200… 玉木 泰男(たまき やすお、1910年8月22日 - 2007年3月21日)は、日本の経営者。横浜ゴム社長、会長を務めた。東京都出身。 1935年に東京帝国大学法学部法科を卒業し、同年に第一銀行に入行。1963年3月に横浜ゴムに転じ、1963年8月に取締役に就任し、1965年8月に常務、1967年8月に専務、1971年8月に副社長を経て、1977年12月に社長に就任。1981年3月に会長に就任し、1983年3月に取締役相談役を経て、1985年に相談役に就任。 1984年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2007年3月21日、心不全のために死去。96歳没。
金谷 鮮治(かなや せんじ、1910年8月22日 - 197… 金谷 鮮治(かなや せんじ、1910年8月22日 - 1977年11月30日)は、日本の実業家、鬼怒川温泉ホテル元代表取締役社長、日本旅行協定旅館連盟元会長、日本ホテル協会元理事長、内閣観光政策審議会元専門委員。 1910年8月22日、日光金谷ホテル創業者、金谷善一郎の長女・金谷多満と婿養子・正生の長男として栃木県日光で誕生する。 1934年、立教大学卒業。大学在学中は、アイスホッケー部の金谷三兄弟の長兄として活躍する。 箱根富士屋ホテル、帝国ホテルで修業した後、金谷ホテル・日光物産商会取締役に就任。 1953年、父・正生が初代館長に就任していた鬼怒川温泉ホテルを日光金谷ホテル(本店)より独立し、鬼怒川温泉ホテル株式会社を設立、初代社長に就任。
木村 栄一(きむら えいいち、1909年8月22日 - 19… 木村 栄一(きむら えいいち、1909年8月22日 - 1985年6月16日)は、日本の実業家、株式会社木村屋總本店元代表取締役社長(5代目)、全日本パン協同組合連合会初代会長、日本パン工業会元会長。 1909年、東京生まれ。1933年、立教大学商学部(現・経済学部)卒業。大学在学中は体育会ラグビー部に所属。 大学卒業後、家業である木村屋總本店へ入社。1947年、木村屋總本店取締役社長(5代目)に就任。 1956年、全日本パン協同組合連合会設立にあたり初代会長に就任。 母校、立教大学のラグビー部監督も務めた 木村屋總本店の本社、工場、店舗に、額に入れて掲げられている『五つの幸福』 『四大目標』は、栄一が繰り返し口にしていた言葉であり、木村屋の根幹をなす企業理念となっている。
細川 泉一郎(ほそかわ せんいちろう 1908年8月22日 … 細川 泉一郎(ほそかわ せんいちろう 1908年8月22日 - 2000年5月1日)は、元日本国有鉄道常務、技師。元日本車輌製造副社長。
川本 忠雄(かわもと ただお、1907年〈明治40年〉8月2… 川本 忠雄(かわもと ただお、1907年〈明治40年〉8月22日 - 没年不明)は、日本の実業家。フジ運動具店社長。華道衡山流三世家元。 奈良県大和郡山市出身。1927年、郡山中学校を卒業する。1932年、立教大学経済学部を卒業する。1937年、応召。1943年、除隊後日本国際航空工業に入社する。1946年、退職する。 1947年、ノダ運動具店に勤務する。1948年、有限に改組、取締役に就任する。1962年、フジ運動具店を設立、社長に就任する。行政相談委員、大和郡山市監査委員を兼任する。郡山信用金庫監事をつとめる。 江戸時代栄えた遊廓の跡、洞泉寺町に木造三階の川本忠雄宅がある。「旧川本家住宅」は2014年10月7日に国の登録有形文化財に登録され、2018年1月10日に「町家物語館」として生まれ変わり、一般公開が開始される。
長尾 雅人(ながお がじん、1907年8月22日 - 200… 長尾 雅人(ながお がじん、1907年8月22日 - 2005年3月13日)は、日本の仏教学者・チベット学者。京都大学名誉教授。日本学士院会員。仏典に対する文献学的な研究を推し進め、また、チベット学の樹立に対しても貢献した。 1907年、宮城県仙台市生まれ。父雲龍は広島の寺院住職であった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
丸山 和歌子(まるやま わかこ、1905年〈明治38年〉8月… 丸山 和歌子(まるやま わかこ、1905年〈明治38年〉8月22日 - 1945年〈昭和20年〉)は、戦前に活動した日本の女性歌手。ステージからレコードで活動し、その分野では珍しく広い音域(特に高音のソプラノ)を持つ歌手だった。浅草オペラ館で活躍した。 東京・神田で篠原幼稚園を営む丸山和太郎の次女として生まれる。女子学院を経て、東洋音楽学校本科声楽部を卒業。永井郁子らに師事。 卒業後は、姉とともに実家の幼稚園経営を引き継いだ。1931年に浅草の金龍館で歌手デビューし、同年にはレコードもリリースされた。ステージに立つと「ワカちゃーん」というかけ声が上がったという。 1937年(昭和12年)にレコード歌手を引退した後はステージでの歌手活動を続け、戦争中は慰問活動で歌声を披露した。
大島 一衛(おおしま いちえ、1905年8月22日 - 19… 大島 一衛(おおしま いちえ、1905年8月22日 - 1961年9月23日)は、昭和時代前期に活動した日本の新聞編集者。 1905年(明治38年)、石川県で山中一兵の長男として出生。1928年(昭和3年)に京都帝国大学経済学部を卒業し、新愛知新聞社に入社する。入社後に新愛知の創業者・大島宇吉の次男で愛知県守山町の第6代町長を務めた大島藤次郎の婿養子となり、1935年(昭和10年)に新愛知傘下の国民新聞社へ営業局長として出向した。 翌1936年(昭和11年)、新愛知編集主幹兼国民新聞代表取締役の田中斉が読売新聞の正力松太郎から職業野球への参入を持ち掛けられたことを契機として「大日本野球連盟」と称する独自のリーグ設立構想を立て、新愛知傘下で名古屋軍(大日本野球連盟名古屋協会)、国民新聞傘下で大東京軍(大日本野球連盟東京協会)をそれぞれ発足させたが、この時は一衛が大東京軍の監査役と名古屋軍の取締役を兼ねていただけでなく田中が両球団の専務、義兄(妻の実兄)の大島一郎が名古屋軍副会長兼大東京軍取締役、新愛知の社外から名古屋軍会長に迎えられた弁護士の大野正直が大東京軍の取締役を兼ねる名実共に「兄弟球団」の体制であった。
友田 三八二(ともだ みやじ、1905年8月22日 - 20… 友田 三八二(ともだ みやじ、1905年8月22日 - 2002年2月9日)は、日本の経営者、工学博士。横河電機製作所(現在の横河電機)社長を務めた。広島県出身。 1927年に広島高等工業学校電気工学科を卒業し、同年に横河電機製作所(現在の横河電機)に入社。1940年7月に取締役に就任し、1949年12月に常務、1960年11月に副社長を経て、1966年11月に社長に就任し、1971年6月までに務めた。 1958年4月に紫綬褒章を受章し、1975年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年2月9日肺炎のために死去。96歳没。
瀧川 勝二(たきがわ かつじ、1904年8月22日 - 19… 瀧川 勝二(たきがわ かつじ、1904年8月22日 - 1993年11月28日)は日本の実業家。元兵庫トヨタ自動車会長。 兵庫県神戸市出身。第二神戸中学校卒業(同窓会理事長)、第六高等学校卒業、京都大学卒業。父親は瀧川儀作で神戸トヨペットの前身であるカネキ商店を経営していた。 1946年商工省陸運管理局の指示で兵庫県自動車整備配給株式会社が解体され兵庫トヨタ販売が設立。瀧川勝二は取締役に就任する。 1963年運輸大臣表彰。1965年厚生大臣表彰。1967年藍綬褒章受章。1973年トヨタ自動車販売店協会理事長に就任。1975年勲三等旭日中綬章受章。1977年日本自動車販売協会連合会会長に就任。1979年トヨタ自動車販売店協会会長に就任。
歌川 八重子(うたがわ やえこ、1903年8月22日 - 1… 歌川 八重子(うたがわ やえこ、1903年8月22日 - 1943年9月13日)は、日本の女優。本名、深川 政江[5]。
安里 積千代(あさと つみちよ、1903年8月22日 - 1… 安里 積千代(あさと つみちよ、1903年8月22日 - 1986年9月30日)は、八重山群島政府及び琉球政府の政治家。元衆議院議員(沖縄社会大衆党→民社党)。
宮幡 靖(みやはた やすし、1900年(明治33年)8月22… 宮幡 靖(みやはた やすし、1900年(明治33年)8月22日 - 1959年(昭和34年)5月13日)は、日本の政治家、計理士。 静岡県生まれ。1918年(大正7年)、静岡県立静岡中学校卒業。中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)に在籍した。1923年(大正12年)に明治大学商学部卒業後、富士身延鉄道(現・身延線)に入社後、1929年(昭和4年)に計理士・税理士となり、静岡県計理士会長、名古屋地方税務代理士会長等を歴任。 鷹岡町(現・富士市)議、同町長を経て、1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で静岡県から立候補したが次点で落選。1947年(昭和22年)、第23回衆議院議員総選挙で静岡2区から衆議院議員に当選して以降、3回連続当選。
糸魚川 祐三郎(いといがわ ゆうざぶろう、1897年8月22… 糸魚川 祐三郎(いといがわ ゆうざぶろう、1897年8月22日 - 1967年11月17日)は、日本の商学者、教育者。横浜高等商業学校(後の横浜国立大学の前身のひとつ)校長、和歌山大学学長、松商学園短期大学(後の松本大学松商短期大学部)学長などを歴任した。 岐阜県恵那郡坂下町に生まれ、1915年に松本商業学校(後の松商学園高等学校)、1918年に小樽高等商業学校(後の小樽商科大学)、1922年に東京高等商業学校(後の一橋大学)専攻部を、それぞれ卒業した。 1923年に、小樽高等商業学校教授となり、1924年から1928年まで、簿記・商業学研究を目的として留学し、イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国を回り、帰国後は、小樽高等商業学校に戻ったが、後には文部省督学官、さらに1942年の制度改正により教学官となった。
阿部 孝(あべ たかし、1895年8月22日- 1984年)… 阿部 孝(あべ たかし、1895年8月22日- 1984年)は、英文学者、高知大学名誉教授。岩手県花巻川口町(現:花巻市)出身。 現在の花巻市鼬弊(いたちべい)にある稲荷神社神主の家に生まれる。花城尋常小学校(現・花巻市立花巻小学校)から旧制岩手県立盛岡中学校に進学。小学校では宮沢賢治より1学年上、中学校では同窓で、中学時代には親交を結んだ。賢治が詠んだ短歌には「這ひ松のなだらを行きて息吐ける 阿部のたかしは がま仙に肖る」という一首がある。 第一高等学校を経て、東京帝国大学英文科卒、旧制高知高等学校教授、戦後高知大学教授、学長を務めた。1966年『ばら色のばら』で日本エッセイストクラブ賞受賞。
澤田 政廣(さわだ せいこう、1894年〈明治27年〉8月2… 澤田 政廣(さわだ せいこう、1894年〈明治27年〉8月22日- 1988年〈昭和63年〉5月1日)は、日本の彫刻家。静岡県熱海市生まれ。本名は寅吉。日本彫塑会名誉会長。 1894年(明治27年)に澤田小兵衛と妻とくの三男として静岡県熱海町(現在の熱海市)に生まれる。幼年期に実家は「亀屋」という屋号で廻船業を営み、少年期には製材業を営んでいた。 1913年(大正2年)、旧制静岡県立韮山中学校(現在の静岡県立韮山高等学校)を中退後、澤田の遠縁で高村光雲の高弟でもある山本瑞雲を頼って上京し内弟子となる。1918年(大正7年)東京美術学校彫刻科別科卒業。その後仏像彫刻を行う。 1931年(昭和6年)帝展審査員となる。
飯田 清三(いいだ せいぞう、1894年8月22日 - 19… 飯田 清三(いいだ せいぞう、1894年8月22日 - 1976年9月24日)は、日本の実業家。野村證券第2代社長。 鹿児島県出身。1919年東京帝国大学卒業。野村證券常務取締役を経て、1940年野村證券専務取締役。1941年9月から1947年8月まで野村證券社長を務め、本店の東京移転などを行った。1942年野村信託取締役。1944年野村銀行取締役。1945年野村生命保険監査役。その後公職追放となり、1950年(昭和25年)に追放解除。1976年(昭和51年)に死去。墓所は多磨霊園。
塩川 正三(しおかわ しょうぞう、1893年〈明治26年〉8… 塩川 正三(しおかわ しょうぞう、1893年〈明治26年〉8月22日 - 1958年〈昭和33年〉3月6日)は、日本の政治家。大阪府布施市(現・東大阪市)長(初代、5代、6代、3期)。財務大臣、衆議院議員を務めた塩川正十郎は長男。 大阪府渋川郡布施村(のち中河内郡布施町→布施市、現・東大阪市)出身。大阪府立八尾中学校(現・大阪府立八尾高等学校)卒。1915年(大正4年)、共栄組社長となり、1929年(昭和4年)、布施町会議員となる。同年3月から1932年(昭和7年)7月まで布施町助役を務めた。同月、布施町長となる。1937年(昭和12年)3月に町長を退任した。同年4月1日、布施市が発足した。同年7月10日、市長に就任した。
北 謙治(きた けんじ、1893年8月22日 - 1956年… 北 謙治(きた けんじ、1893年8月22日 - 1956年7月25日)は、日本の経営者。広島県広島市出身。 1916年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1945年8月に退職し、山陽パルプ常任監査役を経て、1953年6月に富士重工業社長に就任。 1956年7月25日在職中に脳出血のために死去。62歳没。
柳井 平八(やない へいはち、1888年(明治21年)8月2… 柳井 平八(やない へいはち、1888年(明治21年)8月22日- 1945年(昭和20年)2月15日)は、大日本帝国の陸軍省建築技師。最終階級は高等官一等。靖国神社『遊就館』や陸軍大臣宇垣一成邸、閑院宮載仁親王別邸の設計をした。岡山県井原市出身。 1888年(明治21年)8月22日、岡山県小田郡堺村(現:井原市)の柳井儀三郎の次男として出生。この後、備中成羽藩士である柳井勝太郎の長女・志保と結婚する。1902年(明治35年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学。同期には、同志社大学教授になる中島重や俳優の加藤精一がおり、先輩には、藤岡郊二がいた。特に、藤岡郊二は、後に陸軍省で柳井の上司となる薬師寺主計の第六高等学校・東大時代の友人であり、藤岡郊二邸は薬師寺によるアール・デコ建築が取り入れられており、柳井の建築にも影響を与えることになる。
出光 佐三(いでみつ さぞう、1885年〈明治18年〉8月2… 出光 佐三(いでみつ さぞう、1885年〈明治18年〉8月22日 - 1981年〈昭和56年〉3月7日)は、明治から戦後にかけての日本の実業家・石油エンジニア・海事実業家・慈善家。石油元売会社出光興産の創業者。貴族院多額納税者議員。フランス共和国文化勲章コマンドール受章。 神戸高等商業学校(現・神戸大学)卒業。同校で水島銕也校長に師事し「士魂商才」の理念に感化を受ける。同期に高畑誠一、永井幸太郎、和田恒輔。内池廉吉教授の「商業概論」の講義で受けた「商売は金儲けではない」との教えから、1940年に出光興産創業後、大地域小売業を展開した。 弟(六男)・出光計助は1966年10月から1972年1月まで第2代社長。