阪下 圭八(さかした けいはち、1927年11月23日 - … 阪下 圭八(さかした けいはち、1927年11月23日 - 2012年)は、日本文学研究者、東京経済大学名誉教授。専門は古代日本文学。 東京生まれ。1950年、鎌倉アカデミア文学科卒業。1953年、法政大学文学部日本文学科卒業。1953年からの日本文学協会勤務を経て、1959年に法政大学文学部助手。1962年、法政大学大学院博士課程単位取得満期退学。西郷信綱に師事。1963年、東京経済大学専任講師。1966年、助教授を経て、1972年に教授。1998年、定年退職、名誉教授。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
横山 修二(よこやま しゅうじ、1925年(大正14年)11… 横山 修二(よこやま しゅうじ、1925年(大正14年)11月23日 - 2018年(平成30年)5月6日)は、日本の実業家、馬主。株式会社大京創業者であり、同社初代社長・会長を務めた。東京都出身。 東京都生まれ。麹町小学校 - 芝浦高等工学校卒業。戦後はシベリアに抑留されるが、1949年(昭和24年)にようやく帰国。 田辺工機で勤務などを経て、1960年(昭和35年)に大京商事、1964年(昭和39年)には大京観光を相次いで創業し、同社社長に就任した。 ライオンズマンションの名称で高層住宅の建設及び分譲により業績を伸ばした。 1997年(平成9年)には同社会長に就任し、その他、社団法人住宅産業開発協会(現・社団法人日本住宅建設産業協会)会長や第6代日本体操協会会長などを歴任した。
川畑 博(かわばた ひろし、1924年11月23日 - 没年… 川畑 博(かわばた ひろし、1924年11月23日 - 没年不明)は、香川県出身のプロ野球選手(投手、捕手)。 志度商業学校から1942年に巨人軍(現・読売ジャイアンツ)へ入団する。入団年の1942年シーズンには、登板・先発登板・完投など巨人軍における球団最年少記録を数多く記録した。もともと捕手だったが、戦時中で人不足のため投手も兼任していた。巨人軍では1944年のシーズンに4番打者としての先発出場もあった。 1945年に軍に徴兵され、レイテ島戦線で戦った後、1946年に復員し、四国鉄道局、丸亀南海興業でプレーした後に1949年に大映スターズから球界へ復帰したが、戦争で肩を痛めたこともあり思うような成績を残せずに同年限りで現役を引退した。
小林 桂樹(、1923年〈大正12年〉11月23日 - 20… 小林 桂樹(、1923年〈大正12年〉11月23日 - 2010年〈平成22年〉9月16日)は、日本の俳優。サラリーマン喜劇から社会派ドラマまで幅広く活躍し、その生涯において253本の映画に出演した。 『裸の大将』の山下清の演技で1958年第13回毎日映画コンクール主演男優賞を受賞。『黒い画集 あるサラリーマンの証言』の石野貞一郎の演技では1960年の第15回毎日映画コンクール主演男優賞およびキネマ旬報男優賞およびブルーリボン大衆賞(つまり3つの賞)を受賞。『白と黒』の落合克巳(東京地検捜査検事)の演技および『江分利満氏の優雅な生活』の江分利満の演技により1963年第18回毎日映画コンクール主演男優賞を、『われ一粒の麦なれど』の坂田昌義(農政省官吏)の演技で1964年第15回ブルーリボン賞主演男優賞を受賞。
利光 松男(としみつ まつお、1923年11月23日 - 2… 利光 松男(としみつ まつお、1923年11月23日 - 2004年11月8日)は、日本の実業家。東京都出身。日本航空株式会社元名誉顧問・相談役・代表取締役社長。一般社団法人日本航空協会元会長。公益財団法人日本棋院元理事長。勲二等旭日重光章受章。日本国際ツーリズム殿堂入り。 遠藤周作との深く長い親交で知られる。貧乏時代の遠藤が住む家を無くしていた際、利光が遠藤の生活を世話した。 1999年、自宅に銃弾が打ち込まれる。以降、総会屋・暴力団などの反社会的勢力とJALの決別の推進への報復を警戒し、2004年10月まで利光家は24時間体制で警察の警備を受けた。 2004年、警察の警備が解除されて約1か月後、利光は首をつった状態で発見された。
川喜多 雄二(かわきた ゆうじ、本名:脇 猷二、1923年 … 川喜多 雄二(かわきた ゆうじ、本名:脇 猷二、1923年 11月23日- 2011年5月9日)は日本の俳優、歯科医師。初期の芸名は川喜多小六。 父が満州鉄道病院の歯科医をしていた関係で、中国の奉天に生まれる。 東京歯科大学卒業後、父の後を継いで歯科医をしていたが、画家の岩田専太郎の知遇を得て、青柳プロに入社。市川崑監督の映画『夜来香』でデビュー。当時の芸名は川喜多小六。1952年(昭和27年)、松竹に移籍し、「川喜多雄二」に改名。 1950年代である昭和20年代後半から昭和30年代前半にかけて多くの松竹映画に出演し、佐田啓二(中井貴一の父)・高橋貞二らとともに『新・松竹三羽烏』と称された。昭和40年代前半(1960年代後半)に俳優を引退。
上口 利男(かみぐち としお、1923年(大正12年)11月… 上口 利男(かみぐち としお、1923年(大正12年)11月23日 - 2018年(平成30年)7月18日)は、日本の弁護士・元地方公務員。上口利男法律事務所所長。北海学園大学出身の生え抜き法曹の一人。札幌弁護士会所属。専門は民事全般。 北海道石狩郡当別町出身。旧制中学校卒業後、1941年(昭和16年)札幌地方裁判所に入所。1943年(昭和18年)札幌地方裁判所書記官に就任。1956年(昭和31年)北海学園大学経済学部2部中退。1959年(昭和34年)司法試験に合格。1962年(昭和37年)弁護士登録。1977年(昭和52年)北海道収用委員会委員。1981年(昭和56年)同委員長。1982年(昭和57年)札幌弁護士会会長に就任。
白井 義男(しらい よしお、1923年〈大正12年〉11月2… 白井 義男(しらい よしお、1923年〈大正12年〉11月23日 - 2003年〈平成15年〉12月26日)は、日本の元プロボクサー。東京市(現東京都)荒川区出身。元世界フライ級王者で、日本人として初めての世界王者となった。現代とは違い、世界王座までの距離が比べ物にならないほど遠かった時代のチャンピオンとして高い評価を得ている。最優秀選手賞に5度選ばれた記録を持つ。 小学6年生時の夜祭りの余興で行ったカンガルーとのボクシングに負けて以後、ボクシングにのめり込んだという。プロデビューは戦時下の1943年。8戦全勝の成績を残すが招集されて海軍に従軍し、整備士として終戦を迎える。復員後、ボクシング界へ復帰したものの海軍時代に特攻機を整備した際の労災により腰痛となり、引退寸前の危機に追い込まれた。
大成 正雄(おおなり まさお、1921年11月23日 - 1… 大成 正雄(おおなり まさお、1921年11月23日 - 1993年4月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期、新自由クラブ)。 埼玉県北足立郡三橋村(のち大宮市、現・さいたま市)出身。浦和商業学校(現埼玉県立浦和商業高等学校)を経て、中央大学専門部経済科中退。国鉄大宮工場(現大宮総合車両センター)に入るが、間もなく召集され、陸軍中尉で終戦を迎える。終戦後は大宮工場に復帰し、同工場の労働組合の書記長になり、日本社会党に入る。1947年、大宮市議会議員に当選し、2期務める。その後、労働組合を脱退し、社会党を離党し、衆議院議員福永健司の秘書になる。1959年、埼玉県議会議員に当選し、3期務め、同議長となる。
厚見 峻(あつみ たかし、1921年(大正10年)11月23… 厚見 峻(あつみ たかし、1921年(大正10年)11月23日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。第2期海軍甲種飛行予科練習生。空母「蒼龍」戦闘機搭乗員として真珠湾攻撃に参加。戦死による二階級特進で最終階級は海軍飛行特務少尉。 埼玉県北葛飾郡幸松村(現・春日部市)に、7男3女の末っ子として生まれた。 粕壁小学校を経て埼玉県立粕壁中学校(現・埼玉県立春日部高等学校)に学び、1938年(昭和13年)4月1日、第2期海軍甲種飛行予科練習生として横須賀海軍航空隊に入隊した。海軍航空隊への入隊に先立ち、厚見は母に「母さん、これで僕の第一希望は達せられた。この上は戦闘機に乗りたいと思います。
南部 正太郎(なんぶ しょうたろう、男性、1918年11月2… 南部 正太郎(なんぶ しょうたろう、男性、1918年11月23日 ‐ 1976年11月5日)は、日本の漫画家。昭和20年代の関西漫画界の第一人者で、代表作に焼け跡派の4コマ漫画「ヤネウラ3ちゃん」がある。生前は大阪読売新聞夕刊の「マンガアンデパンダン」選者、日本漫画家協会関西支部所属。 1918年11月23日、岐阜県大垣市生まれ。すぐ大阪府高槻市に移住。 1937年、都島工業学校建築科卒業後、大阪の建築事務所で働きはじめる。一時的に大映京都撮影所で助監督を務めるが、建築事務所に復帰。 1945年、勤めていた建築事務所が解散。漫画を描きはじめ、大阪新聞社の雑誌『漫画日本』や『読物と漫画』(『大阪パック』改題)で作品を発表。
横山 薫範(よこやま しげのり、1917年(大正6年)11月… 横山 薫範(よこやま しげのり、1917年(大正6年)11月23日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍特務少尉。 鳥取県出身。横山家は農業を営み、三男一女の末子である。小学校高等科を卒業し、海軍を志願したが一度目は失敗し、二度目の挑戦で合格した。1934年(昭和9年)6月呉海兵団に入団。同期生に同じく九軍神とされた稲垣清がいる。 海軍水兵としての基礎訓練を受け、戦艦「扶桑」乗組となる。水雷学校及び潜水学校を卒業。横山は成績優秀で、水雷学校は優等卒業であり、懐中時計を授与された。
黒田 長久(くろだ ながひさ、1916年11月23日 - 2… 黒田 長久(くろだ ながひさ、1916年11月23日 - 2009年2月26日)は、日本の鳥類学者・軍人・外務官僚。 侯爵で鳥類学者だった黒田長礼(黑田長禮)の長男。母は閑院宮載仁親王二女・茂子女王。妻は海軍中将の醍醐忠重侯爵の娘・和子。黒田家19代当主である。明仁上皇ははとこに当たる。同じ鳥類学者である山階芳麿は義理の従兄弟でもある。父と同じく日本鳥学会会長を務めた。 幼時より父に鳥への関心を育まれる。学習院高等科を経て、1937年、東京帝国大学理学部動物学科に入学し、鎌田武雄教授に師事する。卒業後は外務省に入るが半年で徴兵され、5年間を近衛師団で過ごし陸軍中尉となった。軍隊では伝書鳩を扱う鳩班長を務めていたという。
土屋 敦博(つちや あつひろ、1916年11月23日 - 2… 土屋 敦博(つちや あつひろ、1916年11月23日 - 2002年10月6日)は、日本の保健学者。専門は障害児病理、スポーツ医学。博士(医学)。 長野県上田市出身。日本体育大学(旧制日本体育専門学校)卒業。信州大学教授を経て、長野大学教授。1972年から学長代行を務め、1977年正式に学長を歴任。 その他、1964年から1968年まで長野県サッカー協会会長を歴任。1960年上田市体育協会功労賞受賞。1964年長野県スポーツ協会スポーツ振興功績者有功賞受賞。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
江﨑 真澄(えさき ますみ、1915年〈大正4年〉11月23… 江﨑 真澄(えさき ますみ、1915年〈大正4年〉11月23日 - 1996年〈平成8年〉12月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(17期)、総務庁長官、通商産業大臣、自治大臣、防衛庁長官などを歴任した。位階は正三位。 愛知県一宮市出身。旧制私立東邦商業学校から旧制第八高等学校(現・名古屋大学)に入学。八高に入ってすぐに肺結核にかかり、闘病生活中に小説を書き始める。1934年、雑誌『改造』の懸賞小説に、恋愛小説『長良』を応募し佳作となる。また、禅寺で修行するなどし、八高を中退する。その後、日本大学経済学部に進学する。作家を目指し、横光利一や菊池寛に紹介されるが、結局母校である東邦商業学校で教師となった。
江崎 真澄(えさき ますみ、1915年11月23日 - 19… 江崎 真澄(えさき ますみ、1915年11月23日 - 1996年12月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(17期)、総務庁長官、自治大臣、防衛庁長官などを歴任した。
木村 瑞雄(きむら みずお、1915年11月23日 - 19… 木村 瑞雄(きむら みずお、1915年11月23日 - 1989年7月1日) は、日本の電気工学者。東北大学教授を経て、第4代東北工業大学学長を務めた。 1940年東北帝国大学工学部電気工学科卒業、東洋通信機入社。1941年東北帝国大学工学部通信工学科助手。1946年東北大学電気通信研究所助教授。1958年東北大学工学博士。信州大学工学部教授、東北大学工業教員養成所教授を経て、1968年東北工業大学教授。1969年日本音響学会東北支部長。1971年学校法人東北工業大学理事。1976年東北工業大学学長。1989年従四位勲三等瑞宝章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
桜井 光堂(さくらい こうどう、1915年11月23日 - … 桜井 光堂(さくらい こうどう、1915年11月23日 - 没年不明)は、日本の国際法学者、駒澤大学名誉教授。 山口県宇部市生まれ。旧制松江高等学校を経て1941年東京帝国大学文学部国文科卒、同大学院に進む。1942年同法学部政治学科に入学し1944年卒業、1946年東北大学法学博士。 1953年九州大学助手、1955年北九州大学商学部助教授、1958年麗澤短期大学助教授、1961年国士舘大学政経学部助教授、1964年教授、1966年駒澤大学法学部教授、1992年定年退職。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
稲垣 清(いながき きよし、1915年(大正4年)11月23… 稲垣 清(いながき きよし、1915年(大正4年)11月23日 - 1941年(昭和16年)12月8日?)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍兵曹長。 三重県一志郡川合村(現・津市)生まれ。1934年(昭和9年)6月に広島県呉市の呉海兵団に入団し、同所での訓練修了後に駆逐艦「早苗」乗組。海軍水雷学校に入校、駆逐艦「呉竹」に着任。その後、海軍水雷学校高等科水雷術練習生課程を修了した。1941年(昭和16年)11月18日にアメリカ太平洋艦隊の根拠地であったハワイ真珠湾への特別攻撃隊員として潜水艦「伊24」に乗り込み、倉橋島を出撃する。
福冨 芳美(ふくとみ よしみ、1914年11月23日 - 1… 福冨 芳美(ふくとみ よしみ、1914年11月23日 - 1992年4月22日)は、昭和~平成初期のファッションデザイナー、教育者。旧姓は小田。 岡山県生まれ。兵庫県立第一神戸高等女学校を卒業後、婦人服の仕立て職人に弟子入り。その後上京して杉野学園ドレスメーカー女学院で学び、1937年に神戸ドレスメーカー女学院(現・神戸ファッション専門学校)開校。戦後は大丸神戸店の顧問デザイナーに招聘され、パリやニューヨークへ出かける機会を得る。また、神戸在住のまま飛行機で日本大学芸術学部美術学科に通い、1961年に卒業した。 1967年に明石女子短期大学を創立し、学長兼教授となる。日本家政学会、人間工学会、日本デザイナークラブ、ザ・ファッション・グループ(本部ニューヨーク)等の会員。
大嶽 俊郎(おおたけ としろう、1914年 <大正3年> 1… 大嶽 俊郎(おおたけ としろう、1914年 <大正3年> 11月23日 - 1998年 <平成10年> 2月1日)は、日本の経営者。小糸製作所社長、会長を務めた。静岡県出身。位階は正五位。 1932年に東京電機学校を卒業し、同年に小糸製作所に入社。 1961年に取締役に就任し、1968年に常務、1972年に専務を経て、1976年6月に副社長に就任し、1979年6月には社長に昇格。1985年6月から1992年7月までに会長を務めた。 1982年11月に藍綬褒章を受章し、1987年11月に勲三等瑞宝章を受章。。 1998年2月1日糖尿病性昏睡のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
大塚 君代(おおつか きみよ、1914年11月23日 - 1… 大塚 君代(おおつか きみよ、1914年11月23日 - 1996年2月1日)は、日本の女優。1930年に東京松竹楽劇部(後の松竹歌劇団)に6期生として入る。同期に逢初夢子、水久保澄子がいる。 以下の公開年、作品名、製作会社、役名は特に記載がない限りKINENOTEに従った。
江口 きち(えぐち きち、1913年〈大正2年〉11月23日… 江口 きち(えぐち きち、1913年〈大正2年〉11月23日 - 1938年〈昭和13年〉12月2日)は、大正時代から昭和時代前期にかけての女流歌人。 河井酔茗と島本久恵に師事し、貧困の中で多くの歌を詠んだが最期は自殺した。「薄幸の天才歌人」「女啄木」と呼ばれた。ただし作風は啄木とは大きく異なり万葉調であった。 群馬県利根郡川場村大字谷地に、1913年(大正2年)11月23日に父熊吉、母ユワの長女として生まれる。父は博徒で生活能力がなく、兄廣寿は幼時の脳膜炎の後遺症で知的障害があった。母が飲食店を切り盛りして三人の子どもを育てた。川場村尋常高等小学校での学業成績は優秀だったが進学は諦めた。 1930年(昭和5年)2月から沼田の郵便局に勤めるが、6月3日に母が急逝したため帰郷し家族の世話のために家業を継ぐ。
河田 誠一(かわだ せいいち、1911年〈明治44年〉11月… 河田 誠一(かわだ せいいち、1911年〈明治44年〉11月23日 – 1934年 〈昭和9年〉2月3日)は、香川県出身の日本の詩人であり小説家。 早稲田大学第二高等学院では田村泰次郎と出会い、深い交流があったほか井上友一郎や坂口安吾などと文学活動を行った。文芸誌『東京派』や『桜』を創刊し、豊かな才能を認められながらも、結核により22歳で没した。 あまり知られた存在ではないが、詩人・作家として昭和初期に期待されたホープであった。代表作は「新城榛名の手記」『河田誠一詩集』。 1911年(明治44年)に香川県三豊郡仁尾町中津賀(現在の三豊市)に父武治、母マスノの間に4人兄弟の次男として生まれる。生まれてすぐ叔母の家に預けられるものの5歳ごろに実家に戻る。
光岡 良二(みつおか りょうじ、1911年11月23日 - … 光岡 良二(みつおか りょうじ、1911年11月23日 - 1995年4月29日)は、ハンセン病の歌人。 兵庫県生まれ。東京帝国大学文学部哲学科2年修了時にハンセン病を発病、1933年、多磨全生園に入院、北条民雄と知り合う。1936年、山室のぶ子(光岡芳枝)と結婚。戦中戦後一時社会復帰するものの、1948年再発し、再入院。文芸活動のほか、全患協などで活動。多磨全生園の生活記録を集めた『倶会一処 患者が綴る全生園の七十年』の編纂の中心となった。厚木叡(あきら)、岸根光雄の筆名を用いた。
阿部 三亥(あべ かずい、1911年11月23日 - 196… 阿部 三亥(あべ かずい、1911年11月23日 - 1964年7月9日)は、日本の保健医療学者である。医学博士。 福島県に生まれ、1940年東京文理科大学心理学科卒。1943年東京慈恵会医科大学医学科卒。東京教育大学教授。学校保健に関して様々な著作を残す。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
金子 登(かねこ のぼり、1911年11月23日 - 198… 金子 登(かねこ のぼり、1911年11月23日 - 1987年7月6日)は、日本の指揮者、東京芸術大学名誉教授。 1934年に東京音楽学校ピアノ科を卒業し、ヨゼフ・ローゼンシュトックに指揮を学び、1936年に東京音楽学校研究科を修了した。また副科でファゴットを学び、紀元二千六百年奉祝交響楽団にもファゴット奏者として参加している。 1936年に服部正が創設したコンセール・ポピュレール(後の青年日本交響楽団)にファゴット奏者として参加し、1942年には指揮者も務めた 。 1943年から1945年に東京交響楽団常任指揮者を務めた。1945年にはアーニーパイル交響楽団を組織している。 1952年から1956年にウィーンへ留学し、クレメンス・クラウス、カール・ベームらに師事する。
小西 英雄(こにし ひでお、1911年(明治44年)11月2… 小西 英雄(こにし ひでお、1911年(明治44年)11月23日 - 1964年(昭和39年)12月8日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(3期)。 愛媛県新居郡神郷村(現新居浜市)で生まれた。別子銅山で働き、鷲尾勘解治の自彊舎で学び1927年(昭和2年)に卒業した。優秀工員として評価され満州に派遣された。その後独立して康徳金属会社を設立し社長となる。戦時下では、関東軍嘱託、軍需省生産隊本部長などを務めた。 戦後、1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で愛媛県第2区から日本自由党公認で出馬したが落選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
森田 雄蔵(もりた ゆうぞう、1910年(明治43年)11月… 森田 雄蔵(もりた ゆうぞう、1910年(明治43年)11月23日 - 1990年(平成2年)1月29日)は日本の小説家。 1910年(明治43年)11月23日に東京府京橋で生まれる。1935年(昭和10年)に法政大学文学部英文学科を卒業する。 戦後、本格的な作家活動に入り、1953年(昭和28年)に『はがゆい男』で第30回芥川賞候補になる。 『法政文学』『一座』『小説と詩と評論』などに小説を発表し、1958年(昭和33年)に『岳父書簡撰』を発表、1967年(昭和42年)に代表作『料亭の息子』を発表する。 また、丹羽文雄の後を受けて、全国同人雑誌作家協会会長を務めたほか、木々高太郎主宰の同人誌『小説と詩と評論』を継承し、新人作家の発掘に貢献した。
佐倉 直男(さくら なおお、1909年11月23日 - 没年… 佐倉 直男(さくら なおお、1909年11月23日 - 没年不明)は、日本の数学者。信州大学名誉教授。専門は微分積分学。 長野県東筑摩郡塩尻町(現・塩尻市)出身。旧制松本第二中学(現・長野県松本県ヶ丘高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1932年(昭和7年)東北帝国大学卒業。旧制上田中学(現・長野県上田高等学校)教諭を経て1938年(昭和13年)京城高等工業学校教授。1944年海軍兵学校教官。1946年松本高等学校教授、1950年信州大学文理学部助教授、1966年理学部教授を務めた後、1970年(昭和45年)定年退官、名誉教授。 佐倉の名「直男」は「ただお」ではなく「なおお」と読む。彼の教え子の一人で、信州大学文理学部最後の入学生でもある猪岐(いのまた)英夫は、信州大学理学部同窓会報の中で佐倉の想い出をこう記している。
谷口 鉄雄(たにぐち てつお、1909年11月23日 - 1… 谷口 鉄雄(たにぐち てつお、1909年11月23日 - 1995年3月17日)は、日本の美術史学者。専門は東洋美術。 福岡県八幡市(現在の北九州市八幡西区)に生まれる。旧制福岡高等学校文科を経て、1933年に九州帝国大学法文学部哲学科を卒業。卒業後は、法文学部の副手に採用され、1935年助手、1948年九州大学文学部講師、1951年助教授を経て、1955年に教授に就任する。1966年 - 1968年に文学部長を務めた。1973年に定年退官し、名誉教授となる。 退官後は、九州産業大学教授に就任。学外では、1973年 - 1978年北九州市立美術館長、1982年 - 1988年石橋美術館(ブリヂストン美術館)長を兼任した。
馬場 啓之助(ばば けいのすけ、1908年11月23日 - … 馬場 啓之助(ばば けいのすけ、1908年11月23日 - 1988年11月2日)は、日本の経済史学者、一橋大学名誉教授。一橋大学経済学部長、一橋大学学長(事務取扱)、社会保障研究所所長等を務めた。 福井市生まれ。横浜育ち。福井市足羽小学校、横浜小学校、第二横浜中学校(現神奈川県立横浜翠嵐高等学校)を経て、1931年東京商科大学(現一橋大学)本科卒。山内得立に師事。 東亜研究所副調査員などとして研究。外務省嘱託として香港への派遣や、大日本帝国陸軍比島軍政監部付を務め、村田省蔵の比島調査委員会で杉村広蔵委員の下、補助委員として調査に従事した。 杉村が理事を務めた交易営団で総務部総務課長代理などを経て、戦後は農林省農業総合研究所計画部長を経て、1952年学習院大学教授、56年一橋大学教授、61年経済学部長、「近代経済学方法論」で一橋大経済学博士。
松原 泰道(まつばら たいどう、1907年11月23日 - … 松原 泰道(まつばら たいどう、1907年11月23日 - 2009年7月29日)は、日本の臨済宗の僧侶。東京都港区の龍源寺住職。 東京府生まれ。早稲田大学文学部卒。岐阜県の瑞龍寺で修行したのち、臨済宗妙心寺派教学部長を務める。 1972年出版の「般若心経入門」(祥伝社刊)は記録的ベストセラーとなり、第一次仏教書ブームのきっかけを作った。1989年仏教伝道文化賞受賞。1999年禅文化賞受賞。著書は百冊を超える。 宗派を超えた仏教者の集い「南無の会」前会長。南無の会は1984年に正力松太郎賞を受賞した。 2009年、肺炎のため101歳で死去。 息子に龍源寺住職の松原哲明、婿に元花園大学学長、元妙心寺派宗務総長の細川景一。
山本 清(やまもと きよし、1907年11月23日 - 20… 山本 清(やまもと きよし、1907年11月23日 - 2001年12月29日)は、日本の考古学研究者、島根大学名誉教授。 島根県八束郡生馬村(現・松江市西生馬町)に生まれる。旧制松江高等学校(8期文甲)を経て、1934年、京都帝国大学文学部史学科(国史学専攻)卒業。島根県八束郡本庄村尋常高等小学校代用教員、島根県立松江中学校講師、同教諭、島根師範学校教授を経て、1950年、島根大学教育学部助教授、1951年、島根大学文理学部助教授。1965年、島根大学文理学部教授。1971年退官。1972年島根大学名誉教授。 1947年、梅原末治博士と金崎1号墳(島根県松江市)の発掘調査を行い、本格的に山陰の考古学研究に取り組む。
高橋 鐵(高橋 鉄、たかはし てつ、1907年11月23日 … 高橋 鐵(高橋 鉄、たかはし てつ、1907年11月23日 - 1971年5月30日)は、日本の小説家、性風俗研究家。 東京出身。日本大学卒業。小説を書き、社会主義に関心を抱くが、のちフロイトに関心を抱く。第二次世界大戦後は性科学の研究を始め、1950年に日本生活心理学会を設立、『あるす・あまとりあ』がロングセラーとなる。また同年に『人間探求』(第一出版社、1950年5月~53年8月)を創刊する。日本生活心理学会の機関誌『Seishin report』を刊行した。 性風俗、性科学に関する多数の著作は一世を風靡してよく売れ、1950年代~1980年代は高橋の著作が古書店にも多数並べられていた。戦前は阿部定事件に関する著作もある。
鈴木 喜政(すずき きせい、1906年〈明治39年〉11月2… 鈴木 喜政(すずき きせい、1906年〈明治39年〉11月23日 - 1984年〈昭和59年〉11月28日)は、福島県内郷市(現・いわき市)長。福島県議会議員。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 福島県石城郡夏井村出身。福島県立磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)に入り、陸上部で活躍する。1930年日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)卒。内郷村(のち内郷町→内郷市、現・いわき市)で歯科医を開業する。1942年4月内郷村議となり、同年7月町制施行により内郷町議となる。 戦後は内郷町商工会長の傍ら、福島県陸上競技会会長・東北陸上競技会長を歴任。1955年に石城郡選挙区から福島県議会議員に立候補して当選、県議会土木委員長を務めた。
石井 照久(いしい てるひさ、1906年(明治39年)11月… 石井 照久(いしい てるひさ、1906年(明治39年)11月23日 - 1973年(昭和48年)7月16日 )は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1962年)(学位論文「労働法総論」)。東京大学名誉教授。成蹊大学長。田中耕太郎門下。弟子に鴻常夫、谷川久、佐藤庸、保原喜志夫、花見忠など。 佐賀県小城市出身。生家の石井家は佐賀藩の重臣の家柄で、初代藩主鍋島勝茂の従兄石井忠明(石井賢次の長男)の次男忠正(小城藩士)の子孫とされる。父は台湾総督府法務部長をつとめた石井為吉。兄に石井悟一陸軍中佐がいる。 戦後はGHQの占領行政下の法制審議会商法部会委員として、アメリカ会社法の制度を大幅に導入した商法改正を主導した。
永岡 俊一(ながおか としかず、1906年〈明治39年〉11… 永岡 俊一(ながおか としかず、1906年〈明治39年〉11月23日 - 没年不明)は、日本の実業家。南房総エンタープライズ社長。横浜ゴム元専務。講道館元評議員。全日本柔道少年団元理事長。父は柔道家で講道館10段の永岡秀一。 永岡秀一・久代の長男に生まれる。1930年に慶應義塾大学経済学部を卒業後、横浜護謨製造(現・横浜ゴム)に入社。1938年仙台出張所主任となり上海出張所主任、興亜ゴム工業取締役支配人、横浜護謨営業部次長兼東京支店長、総部・人事各部長を経て、1955年8月取締役に就任。1957年8月常務に推され、翌年8月に専務就任。 柔道は六段の腕前。趣味は謡曲・仕舞。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
川上 喜久子(かわかみ きくこ、1904年(明治37年)11… 川上 喜久子(かわかみ きくこ、1904年(明治37年)11月23日 - 1985年(昭和60年)12月4日)は、日本の小説家。旧姓は篠田。
二宮 善基(にのみや よしもと、1904年11月23日 - … 二宮 善基(にのみや よしもと、1904年11月23日 - 1984年10月9日)は、日本の実業家。経済同友会代表幹事、日本興業銀行(現みずほ銀行)副総裁、東洋曹達工業(現東ソー)社長。
中村健児(なかむら けんじ、1903年11月23日 - 19… 中村健児(なかむら けんじ、1903年11月23日 - 1984年7月30日)は、日本の生物学者(動物学・発生生物学・細胞生物学)。京都大学名誉教授。理学博士。 男爵中村雄次郎の六男。中村貫之の弟。 細胞分裂時の染色体に関する研究、爬虫類の分類学的研究を行った。
米山 美雄(よねやま よしお、1903年11月23日 - 1… 米山 美雄(よねやま よしお、1903年11月23日 - 1987年5月19日)は、日本の経営者。三井生命保険社長を務めた。 東京都出身。1927年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三井生命保険に入社した。1947年7月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1963年5月に副社長に就任し、1965年5月には社長に就任。1971年5月に会長に就任し、1977年7月から相談役を務めた。 1970年に藍綬褒章を受章し、1976年に勲三等瑞宝章を受章。 1987年5月19日肺炎のために死去。83歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高倉 新一郎(たかくら しんいちろう、1902年11月23日… 高倉 新一郎(たかくら しんいちろう、1902年11月23日 - 1990年6月7日)は、日本の農業経済学者・歴史学者。北海道大学名誉教授。農業経済学・北海道史・アイヌ文化史で業績がある。 1902年、北海道帯広市で実業家・高倉安次郎の子として生まれた。札幌中学校(現北海道札幌南高等学校)で学び、1920年に北海道帝国大学入学した。農学部教授であった高岡熊雄に師事し、農政学植民学を学んだ。1926年、北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業。 卒業後は同年より、北海道帝国大学農学部副手に就き、1927年に助手、1936年に植民学講座の助教授に就任した。1945年、北海道帝国大学に学位論文『アイヌ政策史』を提出して農学博士号を取得。
山口 長男(やまぐち たけお、1902年11月23日 - 1… 山口 長男(やまぐち たけお、1902年11月23日 - 1983年4月27日)は、洋画家。日本の抽象絵画の先駆者である。武蔵野美術学園長を務めた。 京城府(現・韓国ソウル)出身。1921年に19歳で日本に来るまでを京城ですごした。 本郷洋画研究所で岡田三郎助に学び、20歳になった1922年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。1927年、同校卒業と共に渡仏。フランスではパブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、それに当時渡仏中だった佐伯祐三にも刺激を受ける。また、彫刻家のオシップ・ザッキンのアトリエにも出入りし、立体的な造形をも習得に努めた。戦後、二科展の再結成にあたり会員として参加し、1962年まで二科展1953年、日本アブストラクト・アート・クラブの創立に参加し、1954年に会員としてニューヨークでのアメリカ抽象美術展に出品。
村井 米子(むらい よねこ、1901年11月23日 - 19… 村井 米子(むらい よねこ、1901年11月23日 - 1986年12月19日)は、日本の大正 - 昭和時代の女性登山家、随筆家。日本の女性登山家の草分けとして著名。村井弦斎と村井多嘉子の長女で、『食道楽』、『釣道楽』などに解説を執筆している。神奈川県出身。東京女子大学卒。婚姻中は黒田姓を名乗った。 1917年(大正6年)16歳で富士山に初登頂し、その後、登山家として全国の山々を歩き、マタギの人々とも交わり、彼らの食文化について執筆している。富士山、北アルプスなどにしたしみ、日本の女性登山家の草分けとなる。1923年(大正12年)、黒田鎮夫(黒田正夫の弟)と結婚(のち離婚)。1926年、日本自然保護協会の設立に参加した。
富谷 栄(とみたに えい、1901年〈明治34年〉11月23… 富谷 栄(とみたに えい、1901年〈明治34年〉11月23日 - 1983年〈昭和58年〉4月24日)は、日本の政治家。鳥取県西伯郡余子村長(11代)。余子村会議員。境港町議会議員。境港市議会議長(3代、7代)。旧姓・嵯峨里。 鳥取県西伯郡余子村(現・境港市)出身。嵯峨里長太郎の三男。余子小学校卒業後、富谷家養嗣子となる。農業に従事する。 1933年、余子村会議員に当選する。松江連隊に服役後支那事変及び大戦に再度応召。1945年11月に朝鮮から復員した。 1947年、余子村長に就任する。村長として中浜村との組合立誠道中学校の開校建設、保育所開設と移転新築、小学校増築等次代を担う子供たちの育成に努める。
坂田 啓造(さかた けいぞう、1900年(明治33年)11月… 坂田 啓造(さかた けいぞう、1900年(明治33年)11月23日 - 1976年(昭和51年)12月16日)は、静岡県浜名郡可美村東若林(現・浜松市中央区東若林町)出身の政治家。第11代浜松市長(1947年4月16日-1951年4月15日)。 1900年(明治33年)11月23日、静岡県浜名郡可美村東若林(現・浜松市中央区東若林町)に生まれた。父の坂田喜三郎は浜名郡会議員や磐田郡浅羽村長を務める地域の名士だった。 1923年(大正12年)、高等試験行政科に合格し、翌年に東京帝国大学法学部政治科を卒業した。三井物産に勤務した後、岡山県警視・保安課長、北海道庁警視・外事課長、栃木県特高課長、広島県事務官・学務課長、富山県書記官・学務部長、長崎県学務部長、新潟県学務部長、大分県内政部長を歴任した。
北野 弥一郎(きたの やいちろう、1899年〈明治32年〉1… 北野 弥一郎(きたの やいちろう、1899年〈明治32年〉11月23日 - 没年不明)は、日本の政治家。大阪府貝塚市長(2代 - 5代)。紀泉鉄道取締役。 大阪府泉南郡麻生郷村(現・貝塚市)出身。北野弥太郎の長男。泉南郡麻生郷村島村組合役場に勤務する。麻生郷村組合書記同収入役代理を経て1935年に貝塚町戸籍課長となる。また財務課長、戸籍兵事課長を歴任する。 1946年3月、第2代貝塚市長に就任する。1947年4月、改めて第1回市長選挙に出馬、当選を果たして初代公選市長となる。同年7月に市役所分課条例を制定し、総務・教育・経済・民生・戸籍・衛生・税務・水道・土木の9課と市内の東・西・南・北・木島・葛城に市の出張所を置く。
松本 長兵衛(まつもと ちょうべえ、1896年〈明治29年〉… 松本 長兵衛(まつもと ちょうべえ、1896年〈明治29年〉11月23日 - 1978年〈昭和53年〉8月2日)は、日本の政治家。元山形県上山市長(2期)。位階は正六位。 山形県南村山郡上山町十日町の吉野屋本家松本長兵衛家に生まれる。東京帝国大学農学部卒業。 1931年に上山町議会議員に初当選。1946年からは、上山町議会議長を務めた。 1947年に上山町長に就任。上山市制施行まで職務を務め、新制中学校の建設整備や、都市計画道路の新設などに尽力した。また、山形県の町村合併審議会会長をつとめ、合併の推進役を担った。山形県町村会長、全国町村会副会長なども務めた。 1954年10月の上山市長選挙に日本社会党公認で出馬し、高橋熊次郎と一騎打ちとなるが、約7,100票の差をつけられて落選(松本長兵衛5,997票、高橋熊次郎13,107票) 1958年9月に上山市長選に出馬し、鈴木行男(遠藤利明の叔父)との一騎打ちを制して初当選。
寺田 雅雄(てらだ まさお、1895年(明治28年)11月2… 寺田 雅雄(てらだ まさお、1895年(明治28年)11月23日 - 1988年(昭和63年)4月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福井県出身。小浜中学校(現福井県立若狭高等学校)卒業を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる。1921年(大正10年)4月から翌年10月までシベリア出兵に従軍。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を首席で卒業し歩兵第36連隊中隊長に就任した。 陸軍省軍務局付勤務、同局課員、イギリス駐在、参謀本部員などを務め、1936年(昭和11年)8月、歩兵中佐に昇進。1937年(昭和12年)10月、第10軍参謀に発令され日中戦争に出征。