徐 寅洪(ソ・イノン、朝鮮語: 서인홍、1917年9月25日… 徐 寅洪(ソ・イノン、朝鮮語: 서인홍、1917年9月25日 - 2009年5月26日)は、大韓民国の実業家、政治家。第3代韓国国会議員。本貫は達城徐氏、号は鳳谷(ポンゴク、봉곡)。 日本統治時代の慶尚南道晋州郡(現・晋州市)出身。裕福な家庭の出身で、大阪高等学校、大阪帝国大学(現・大阪大学)工学部応用化学科卒。日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)技師、米軍政庁慶尚南道商工二局勤務、釜山水産大学講師、朝鮮製油工場長・理事長、朝鮮化学工業創業者、南鮮化学工業社長、朝鮮汽船副社長、大韓石油公社理事、韓国化学工業会社社長、湖南精油理事・監事、韓日開発社長、第一船舶社長などを務めた。1954年の第3代総選挙では晋州市選挙区から無所属で当選したが、その後は自由党に入党した。
楠田 久男(くすだ ひさお、1916年9月25日 - 202… 楠田 久男(くすだ ひさお、1916年9月25日 - 2020年2月26日)は、日本の機械工学者、佐賀大学元学長。専門は伝熱工学。 鳥栖市出身。旧制佐賀高等学校を経て、1939年9月に九州帝国大学工学部機械工学科卒業。熊本大学工学部教授、佐賀大学理工学部教授、同学部長などを経て、1986年から1990年まで佐賀大学学長を務めた。サガン鳥栖の前身である鳥栖フューチャーズの設立に尽力した。 2020年2月26日、老衰のため鳥栖市の特別養護老人ホームで死去。103歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
長谷川 靑澄(はせがわ せいちょう、1916年9月25日 -… 長谷川 靑澄(はせがわ せいちょう、1916年9月25日 - 2004年7月23日)は、日本の美術家、日本画家。本名は義治(よしはる)。 精密な描写をもとにしたデフォルム、また琳派や西洋の油彩絵画とも一線を画したマチエールに強いこだわりをもった独特な画風を確立した。作品は専ら日本美術院展覧会への出品作であり、日本美術院同人、同評議員となった。 1916年(大正5年) 9月25日、長野県下水内郡飯山町(現飯山市)に生まれる。旧制飯山中学(長野県飯山北高等学校)卒業。 15歳で地元の細野順耳(菊池契月の兄)に学び、1933年(昭和8年)上京し、18歳で松岡映丘門の吉村忠夫に入門し大和絵を専攻。1952年(昭和27年)36歳の時に吉村忠夫の急逝をうけ、日本美術院・同人の中村貞以(なかむらていい、1900年 - 1982年)に入門し、日本美術院展覧会を目指し研鑽を重ねる。
前田 豊(まえだ ゆたか、1915年9月25日 - 1997… 前田 豊(まえだ ゆたか、1915年9月25日 - 1997年1月11日)は、日本のバレーボール選手(日本代表)、指導者。バレーボール日本男子代表監督、バレーボール日本女子代表初代監督、日本バレーボール協会副会長、国際バレーボール連盟(FIVB)副会長、アジアバレーボール連盟会長、日本体育協会理事、日本文化出版創業・社長など多くの要職に就き“バレー界の天皇”とも言われた。戦後日本のバレーボールの、国際舞台での活躍と底辺の広がり、両輪の発展に大きな役割を果たしたバレーボール指導者、日本のバレーボール育ての親。広島県佐伯郡廿日市町地御前(現廿日市市)出身。 全国家庭婦人バレーボール連盟(ママさんバレー)名誉会長を務めた前田琴子は妻、JOCマーケティング副委員長などを務めた元電通社員・前田実は長男、イトーヨーカドープリオール監督などを務めた前田健は三男。
三門 順子(みかど じゅんこ、1915年〈大正4年〉9月25… 三門 順子(みかど じゅんこ、1915年〈大正4年〉9月25日 - 1954年〈昭和29年〉4月4日)は、栃木県佐野市出身の歌手。本名:富山 静子。 長唄を習い、18歳の時、NHKのオーディションを受け合格。NHK文芸部、久保田万太郎の推薦でキングレコードに入る。 1935年(昭和10年)7月にキングレコードから「水兵節」でデビューしこの年から専属制度を設けたキングレコードの第一号歌手となる。1937年(昭和12年)「さくら道成寺」「祇園絵日傘」、1939年(昭和14年)「暁の決死隊」、1941年(昭和16年)「筑紫の明月」、1947年(昭和22年)「それで良いのよ」などがヒット。1938年(昭和13年)に児玉好雄と吹き込んだ「愛馬行」(愛馬進軍歌のB面)が大ヒットする。
窪 徳忠(くぼ のりただ、1913年〈大正2年〉9月25日 … 窪 徳忠(くぼ のりただ、1913年〈大正2年〉9月25日 - 2010年〈平成22年〉10月2日)は、日本の宗教民俗学者、東京大学名誉教授。 1913年(大正2年)東京生まれ。[1937年(昭和12年)東京帝国大学東洋史学科卒業。東京府立豊島師範学校教諭。1938年(昭和13年)応召され、1942年(昭和17年)召集解除となる。東方文化学院研究員、1949年(昭和24年)東京大学東洋文化研究所助教授。 40歳のころ、庚申信仰の起源を巡り中国伝来の道教三尸説起源説を主張し、それまで日本固有説を取っていた他の民俗学者たちと激論となり、国内の実地調査に入りまとめて論証した。 1962年(昭和37年)東京大学文学博士。
三輪 貞治(みわ さだはる、1913年〈大正2年〉9月25日… 三輪 貞治(みわ さだはる、1913年〈大正2年〉9月25日 - 1988年〈昭和63年〉1月31日)は、昭和期の農民運動家、政治家。参議院議員(1期)。 宮崎県児湯郡都農村(現都農町)出身。宮崎県立高鍋農学校(現宮崎県立高鍋農業高等学校)、宮崎青年師範学校を卒業した。大東亜省嘱託、満洲国興農部勤務、満洲拓殖公社勤務、開拓団団長などを務めた。 戦後、宮崎県農民連盟書記長、同委員長、宮崎県農地委員、宮崎県議会議員などを歴任。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で宮崎県地方区に日本社会党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。この間、社会党宮崎県連会長、同党中央執行委員、同会計部長、参議院商工委員長などを務めた。
北 二郎(きた じろう、1912年9月25日 - 1999年… 北 二郎(きた じろう、1912年9月25日 - 1999年7月26日)は、日本の実業家。阪和興業創業者。大阪府出身。 1934年に和歌山高等商業学校を卒業。大阪税関、安宅産業での勤務を経て、1947年4月に阪和興業を創業し、社長に就任。1983年6月に会長に就任し、1994年2月に取締役相談役を経て、1997年6月には名誉会長に就任。 1976年3月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1999年7月26日に肺炎のために死去。86歳没。
小牧 正英(こまき まさひで、1911年9月25日 - 20… 小牧 正英(こまき まさひで、1911年9月25日 - 2006年9月13日)は、日本のバレエダンサー、振付家である。 本名を菊池榮一といい、1911年に岩手県江刺郡岩谷堂町(江刺市を経て、現在の奥州市)の素封家に生まれた。1928年に上京し、翌1929年、目白商業学校2年編入。中学生の頃、大田黒元雄著『ロシア舞踊』という本に出会い、感動する。1933年21歳のとき、目白商業を卒業し画家を志してパリ留学を計画し、シベリア鉄道に乗り込もうと大連まで行き貨車に忍び込むが、その企図は失敗に終わり強制送還された。翌1934年彼はハルピンでバレエ学校のハルピン音楽バレエ学校に入学し、キャトコフスカヤ女史のクラスで1939年の卒業まで研鑽を積む。
中山 恒明(なかやま こうめい、1910年9月25日 - 2… 中山 恒明(なかやま こうめい、1910年9月25日 - 2005年6月20日)は、日本の外科医、外科医学者。 山梨県白州町に医師中村進の長男として生まれる。東京出身。旧制新潟高等学校卒。1934年、千葉医科大学卒。瀬尾貞信の元で学ぶ。1936年、同助手。1938年、医学博士。1947年、千葉医科大学教授、のち組織改編により千葉大学医学部教授。1964年、国際外科学会の「世紀の外科医賞」を受賞。1965年、東京女子医科大学客員教授。同大に消化器病センターを設立。同年中山癌研究所を創設。1966年ベルツ賞1等賞を受賞。日本消化器外科学会会長、国際外科学会会長。1991年、がん医学の中山恒明賞を創設。
杉谷 雅文(すぎたに まさふみ、1910年9月25日 - 1… 杉谷 雅文(すぎたに まさふみ、1910年9月25日 - 1991年5月7日)は、日本の教育学者。広島大学名誉教授。 兵庫県美方郡浜坂町(現・新温泉町)出身。姫路師範学校卒、広島高等師範学校卒、1937年広島文理科大学教育学科卒、福井師範学校教授、鹿児島師範学校教授、鳥取師範学校教授、1947年広島文理科大学講師、1949年助教授、1952年「生命哲学と教育学」で広島文理科大学文学博士。1953年教授、広島大学教育学部教授、1961-1964年広島大学教育学部附属小学校校長、1974年広島大を定年退官、名誉教授、親和女子大学教授。1983年勲三等旭日中綬章を受章。
久保 勘一(くぼ かんいち、1910年9月25日 - 199… 久保 勘一(くぼ かんいち、1910年9月25日 - 1993年11月23日)は、日本の政治家。長崎県知事(公選第7-9代)、参議院議員(2期)。愛称は「クボカン」。元五島市長の中尾郁子は娘。 長崎県五島列島の三井楽町(現五島市)で生まれる。長崎県師範学校(現長崎大学)を卒業後、五島の農協組合長を経て長崎県議会議員に当選。1961年から1962年に同議会議長。 1962年の第6回参議院議員通常選挙に出馬し、長崎地方区で初当選。参議院文教委員長などを務め、2期目途中の1970年に長崎県知事選挙に出馬。4選をめざす佐藤勝也に挑戦し、地元生え抜きの久保と官僚出身の佐藤という構図の対決となり、自民党県連が2つに割れた。
横山 光雄(よこやま みつお、1909年9月25日 - 20… 横山 光雄(よこやま みつお、1909年9月25日 - 2010年10月20日)は、日本の造園家、造園学者。大学教員として造園都市計画教育に関わり、他方で戦前の旧満洲国の各都市の都市計画、千里ニュータウン計画、駒沢オリンピック公園建設、旧運輸省観光支援策・離村再生・レクリエーション整備、など関与。千葉大学、東京大学、日本大学で教鞭を執る。1969年から1971年まで、日本造園学会会長を務めた。 神奈川県横浜市出身。1930年(昭和5年)、駒場時代の東京帝国大学農学部農学科に入学、丹羽鼎三の園芸第二研究室に入り、1933年(昭和8年)大学院に進学、造園学を学ぶ。 1935年(昭和10年)大学院修了後、埼玉県に2年間奉職し、また東京緑地計画協議会に関与し、東京緑地計画の立案作業に従事。
小林 清周(こばやし せいしゅう、1909年9月25日 - … 小林 清周(こばやし せいしゅう、1909年9月25日 - 1994年)は、日本の建設官僚、建築生産・建築計画学者。建設省営繕局計画課長・技官、大阪工業大学工学部建築学科元教授、建築学教室担当。日本建築学会建築経済委員会専門委員、鴻池組取締役を歴任した。 専門は、建築生産・建築物維持管理、建築計画。 新潟県高田市(現・上越市)出身。1934年に東京工業大学建築学科を卒業後、海軍技師に。小林の就職時の逸話として「清水建設を30秒で落ち、 海軍省を30秒で合格」して海軍省に入った、というのがある。これは清水建設の面接の際に途中で社長が入ってきたときだれだかわからず、挨拶をしなかったところ、専務から「君は請負に向かない」と断られ、その話を海軍省の面接でするとその場で合格となったということからきている。
中橋 基明(なかはし もとあき、1907年(明治40年)9月… 中橋 基明(なかはし もとあき、1907年(明治40年)9月25日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中尉。 1936年の二・二六事件に決起部隊将校として参加し、軍法会議で死刑判決を受けて処刑された。 東京牛込に、陸軍少将の父と華族の母の間に生まれる。本籍地は佐賀県。四谷第二小学校を首席で卒業。父の意向で東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)、麻布中学を受けるも不合格。結局、名教中学(現・東海大学付属浦安高等学校・中等部)を経て東京陸軍幼年学校に入った。 陸軍士官学校第41期生となり、同期には栗原安秀、対馬勝雄がいる。この2人とは二・二六事件の同志となるが、この頃交友があったかは不明。
井上 良雄(いのうえ よしお、1907年9月25日 - 20… 井上 良雄(いのうえ よしお、1907年9月25日 - 2003年6月10日)は、日本の文芸評論家、翻訳家、神学者。 東京府生まれ。東京府立第一中学校(現:東京都立日比谷高等学校)、第一高等学校を経て、1930年京都帝国大学文学部独文科卒。 神保光太郎、北川冬彦らと同人誌『磁場』などで文芸評論を書く。『磁場』1932年4月に「芥川龍之介と志賀直哉」を発表。1939年法政大学で教える。 1935年治安維持法違反で検挙、不起訴。 1936年日本大学講師。1945年3月東京信濃町教会で洗礼を受ける。1947年東京神学大学専任講師、1951年教授、1971年定年退任。 1997年、これらの功績が認められ、日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける。
山下 清孟(やました きよはる、1907年9月25日 - 1… 山下 清孟(やました きよはる、1907年9月25日 - 1991年10月6日)は、日本の吹奏楽指導者である。世界的打楽器奏者、ツトム・ヤマシタの父。上京中学校吹奏楽部を創部。生徒には北村源三が所属。 京都府南丹市美山町鶴ヶ岡出身。東京音楽学校選科ピアノ研究科修了。京都市上京中学校教員を勤める。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
小橋 確治(こばし かくじ、1906年〈明治39年〉9月25… 小橋 確治(こばし かくじ、1906年〈明治39年〉9月25日 - 1978年〈昭和53年〉3月23日)は、日本の実業家である。京都府警を経て、京都市観光局長を務めた後、京都社寺信用組合(現・京都信用金庫)理事長となる。岡山県岡山市出身。位階は正五位。 1906年(明治39年)岡山県上道郡西大寺町(現:岡山市東区)で生れる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、ロサンゼルス高野山別院第4代主監を務める高橋成通がいた。1925年(大正14年)に同校を卒業し、旧制第六高等学校へ進学する。1928年(昭和3年)同校を卒業し、東京帝国大学法学部に進学する。1931年(昭和6年)3月、東大法学部法律学科を卒業する。
山田 欽一(やまだ きんいち、1906年(明治39年)9月2… 山田 欽一(やまだ きんいち、1906年(明治39年)9月25日 - 1974年(昭和49年)11月25日)は、日本の数学者。一橋大学名誉教授。「一橋の数学」の育成に尽力し、今日の一橋大学における数学教育の基盤を築いた。東京市出身。 東京市日本橋区で生れる。旧・永田町小学校(現・麹町小学校)などを経て、府立四中(現・東京都立戸山高等学校)を卒業。1930年に東京商科大学、1933年には東京文理科大学数学科をそれぞれ卒業し、東京商科大学予科数学講師となる。1936年に予科教授、1949年一橋大学が新制大学として発足するとともに経済学部教授として、数理経済学やゼミナールを担当。大学時代からブール代数に関心をもち、現代数学の社会科学への応用に尽力した。
柴田 白葉女(しばた はくようじょ、1906年9月25日 -… 柴田 白葉女(しばた はくようじょ、1906年9月25日 - 1984年6月24日)は、俳人。本名は初子。 兵庫県出身、東北帝国大学文学部国文科卒。父井上白嶺の指導を受け、1932年より飯田蛇笏に師事。蛇笏の「雲母」同人となり、高橋淡路女と並んで同誌の代表的女性俳人として活躍。1954年、加藤知世子などとともに「女性俳句」創刊。1962年、「俳句女園」を創刊、主宰。1983年、第七句集『月の笛』により第17回蛇笏賞を受賞。他の句集に『冬椿』『遠い橋』など、また評論集に『女流の俳句』がある。代表的な句に「水鳥のしづかに己が身を流す」「春の星ひとつ潤めばみなうるむ」など。 1984年、千葉県市川市の自宅に一人でいた際に強盗に襲われ殺害された。
栂井 義雄(とがい よしお、1906年9月25日 - 198… 栂井 義雄(とがい よしお、1906年9月25日 - 1983年6月27日)は、日本の経営史学者。 台湾台南市生まれ。東京商科大学(現一橋大学)卒。1976年「三井物産会社の経営史的研究」で中央大学商学博士。東洋経済新報社をへて専修大学経営学部教授、学部長、77年定年、名誉教授、松山商科大学教授。日本経営史研究所理事。
臼田 金太郎(うすだ きんたろう、1906年9月25日 - … 臼田 金太郎(うすだ きんたろう、1906年9月25日 - 1980年5月27日)は、日本のアマチュアボクシング選手、プロボクサー。東京都大田区出身。1928年アムステルダムオリンピックウェルター級日本代表。初代および第2代日本ライト級、第8代日本ウェルター級王者(いずれも戦前の王座)。日本拳闘倶楽部、大森拳闘倶楽部、国際拳、臼田ジム所属(所属順)。東京植民貿易語学校、明治大学卒業。邱永漢の姉・素娥と結婚。 植民貿易語学校時代は当初、相撲の選手だった。 以下はプロとして行った試合の判明分。
松枝 茂夫(まつえだ しげお、1905年9月25日 - 19… 松枝 茂夫(まつえだ しげお、1905年9月25日 - 1995年9月23日)は、日本の中国文学者。東京都立大学 (1949-2011)名誉教授。 1905年、佐賀県西松浦郡有田町に生まれた。幼時から母方の姓である松枝を名乗った。東京帝国大学支那文学科で学び、竹内好、武田泰淳、増田渉、周作人らと親交を結んだ。1930年、東京帝国大学を卒業。 1939年、九州帝国大学専任講師に採用された。1941年、助教授に昇進。1940年から岩波文庫で『紅楼夢』の刊行を始めるが、3冊を刊行したところで戦争のため中止となった。 戦後の1947年、東京大学文学部助教授となったが、翌1948年の妻の病没に衝撃を受けて退職し、九州へ戻った。
牧野 吉晴(まきの よしはる、1904年9月25日 - 19… 牧野 吉晴(まきの よしはる、1904年9月25日 - 1957年12月21日)は、日本の美術評論家・小説家。 愛知県名古屋市生まれ。本名・勝彦。父は軍人。東海中学校(現∶東海中学校・高等学校)卒。冨澤有爲男が中学の先輩にいた。さらに東京植民貿易語学校、川端画学校に学ぶ。 金子光晴、赤松月船に師事して詩作、ついで小茂田清樹に師事して日本画を描く。1930年「猿猴図」が聖徳太子奉賛展で入選。また、正岡容と浪曲の巡業をし、吉井勇に師事してともに関西北陸を放浪。 1936年に放浪生活をやめ、中西悟堂の推薦で美術雑誌『東陽』を編集、美術評論を書く。同誌の創作欄に掲載された冨澤有爲男「地中海」が同1936年、芥川賞を受賞。
鹿島 俊策(かしま しゅんさく、1902年9月25日 - 没… 鹿島 俊策(かしま しゅんさく、1902年9月25日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は恵良 俊二郎(えら しゅんじろう)で、旧芸名は鹿島 陽之助(かしま ようのすけ)。一部に鹿島 俊作という表記もみられる。 1902年(明治35年)9月25日、東京市日本橋区(後の東京都中央区日本橋)に生まれる。 旧制・大分県宇佐中学校(後の大分県立宇佐高等学校)を卒業して上京すると、相羽有が主催する蒲田の日本飛行学校に入学。航空機制作の理論や技術を学んだ。その後は欧州航路の高級船員を務めたこともあったとされる。自動車やオートバイの運転、ダンスも得意とし、変わり種と評された。牧野省三が日活から独立して設立した牧野教育映画製作所に1923年(大正12年)に入社、「鹿島 陽之助」として脇役出演を開始する。
進藤 孝二(しんどう こうじ、1902年9月25日 - 19… 進藤 孝二(しんどう こうじ、1902年9月25日 - 1973年9月23日)は、日本の実業家。大阪商船三井船舶(現商船三井)代表取締役社長や、日本船主協会会長を務めた。 兵庫県出身。神港商業学校(現神戸市立神港高等学校)を経て、1925年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒業。三井物産船舶部入社後、船舶部が三井船舶として独立すると、同社企画課長、営業部長、常務取締役、専務取締役を歴任。1960年から代表取締役社長を務め、大阪商船との合併を行い、合併後の大阪商船三井船舶初代代表取締役社長に就任した。この間、日本船主協会会長も務めた。
浅井 亨(あさい とおる、1902年〈明治35年〉9月25日… 浅井 亨(あさい とおる、1902年〈明治35年〉9月25日 - 1986年〈昭和61年〉4月16日)は、昭和期の歯科医師、政治家。参議院議員。 福井県福井市で生まれる。1928年(昭和3年)東京歯科医学専門学校(現東京歯科大学)を卒業し、さらに1946年(昭和21年)東京慈恵会医科大学を卒業。歯科医を開業した。 堺市議会議員に選出され2期在任した。1962年(昭和37年)7月の第6回参議院議員通常選挙に全国区から立候補して初当選。1968年(昭和43年)7月の第8回通常選挙に兵庫県地方区から公明党公認で立候補して再選され、参議院議員に連続2期在任した。この間、参議院法務委員長、同懲罰委員長などを務めた。
安藤 博(あんどう ひろし、1902年〈明治35年〉9月25… 安藤 博(あんどう ひろし、1902年〈明治35年〉9月25日 - 1975年〈昭和50年〉2月21日)は、滋賀県滋賀郡膳所町(現・大津市膳所)出身の発明家で、日本におけるエレクトロニクスの開拓者。日本のエジソン、東洋のマルコーニなどと呼ばれた。放送関連の研究に従事し、英語のブロードキャスト (broadcast) に「放送」という訳語を付けた。 1947年の第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補したが落選した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
北沢 直吉 (きたざわ なおきち、1901年9月25日 - … 北沢 直吉 (きたざわ なおきち、1901年9月25日 - 1981年7月19日)は、日本の外交官、政治家。衆議院議員、外務省参与、内閣官房副長官を務めた。 茨城県筑波郡大穂村大字長高野(現在のつくば市長高野)生まれ。茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)から東京商科大学(現在の一橋大学)に進学し、1925年に卒業すると外務省に入る。入省して直ぐアメリカに赴任しプリンストン大学でM.A.の学位を取得(1927年)、斎藤博大使の下で対米交渉の一員として加わるが斎藤大使の死去に伴い帰国する。その後は香港で中華民国との和平工作に従事するが、1941年に在中華民国(汪兆銘政権)大使館一等書記官兼北京総領事となり、1943年にはビルマ大使館に参事官として赴任し、ビルマ首相のバー・モウが日本軍の敗走と共に亡命する際に案内役となった。
渡辺 一夫(渡邊 一夫、わたなべ かずお、1901年(明治3… 渡辺 一夫(渡邊 一夫、わたなべ かずお、1901年(明治34年)9月25日 - 1975年(昭和50年)5月10日)は、日本のフランス文学者・評論家。東京大学名誉教授、日本学士院会員。ルネサンス期フランスのフランソワ・ラブレーやエラスムスなどの研究、及び『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の日本語訳で知られる。 1901年、銀行家の長男として東京府で生まれた。暁星中学校でフランス語を始め、少年時代は巖谷小波や夏目漱石、芥川龍之介、十返舎一九、式亭三馬、『三国志』『西遊記』などを愛読し、詩や和歌も読む文学少年だった。第一高等学校文科丙類を経て、東京帝国大学文学部仏文学科に進学。辰野隆に師事し、鈴木信太郎、山田珠樹、豊島與志雄らの薫陶を受ける。
梅田 良忠(うめだ りょうちゅう、ポーランド語:Ryochu… 梅田 良忠(うめだ りょうちゅう、ポーランド語:Ryochu Umeda、1900年9月25日 - 1961年12月7日)は日本の僧、歴史学者。 1922年(大正11年)駒澤大学卒業後、ポーランドに留学し、ワルシャワ大学卒業。同大学講師。同国の「東洋学院」の教授にも任命され、日本語、日本文化を担当した。日本大使館の文化関係の委託業務を行った。戦時中は朝日新聞社ソフィア駐在嘱託。東欧諸国語の権威。1955年関西学院大学教授。1960年「ヴォルグ・ブルガール史の研究」で関西学院大学 文学博士。 梅田良忠は日本橋槙町で弁護士、梅田貞次の長男として生まれた。生まれた時の名前は梅田芳穂であったが、これは彼の長男と同じ名前である。
荒牧 鉄雄(あらまき てつお、1900年9月25日 - 19… 荒牧 鉄雄(あらまき てつお、1900年9月25日 - 1992年3月8日)は、日本の英文学者・英語教育者。青山学院女子短期大学名誉教授。 福岡県八幡市出身。1918年福岡県立東筑中学校卒業、親を失い母校で教える。1923年東京外国語学校卒業、西南学院高等学部教授兼中学部教諭。1925年武蔵高等学校教授。1943年東海大学の創立に参加し教授。1951年青山学院女子短期大学教授。1971年定年退任、名誉教授。武蔵高等学校在職中から多くの受験参考書を執筆した。 長男の荒牧重雄(1930年- )は火山学者(東大、北大、日大教授)。
吉田 吉太郎(よしだ よしたろう / きちたろう、1900年… 吉田 吉太郎(よしだ よしたろう / きちたろう、1900年(明治33年)9月25日 - 1968年(昭和43年)1月22日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 大阪府出身。1924年(大正13年)関西大学専門部法律科を卒業した。 大阪市役所勤務を経て、映画興業、不動産業を経営し、摂津怛産取締役社長、新大阪土地開発取締役社長、阪神土地興業取締役社長を務めた。 政界では、尼崎市会議員(1940年-1947年)、兵庫県会議員(1947年-1948年)を務めた。1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に兵庫県第1区から日本自由党所属で立候補して落選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に兵庫県第2区から民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
矢後 嘉蔵(戸籍名は嘉藏、やご かぞう、1900年(明治33… 矢後 嘉蔵(戸籍名は嘉藏、やご かぞう、1900年(明治33年)9月25日 - 1984年(昭和59年)3月24日)は、大正から昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。富山市会議員。富山県の農民運動、無産運動の草分け。 富山県婦負郡倉垣村荒屋(和合町を経て現富山市四方荒屋)で、海産物商・矢後六蔵、とき の12姉弟妹の第四子、長男として生まれる。1913年(大正2年)3月、倉垣尋常小学校(現富山市立倉垣小学校)を卒業。北海道寿都郡寿都町で父が経営する海産物商兼船問屋で働く。 1919年(大正8年)9月に上京し東京主計学校夜間部で学んだ。1923年(大正12年)ニシンの不漁、肥料販売不振のため東京に移ったが、同年、単身で北海道に戻る。
曺 奉岩(チョ・ボンアム、そう ほうがん、朝鮮語: 조봉암、… 曺 奉岩(チョ・ボンアム、そう ほうがん、朝鮮語: 조봉암、1899年9月25日または1898年9月 - 1959年7月31日)は、朝鮮の独立運動家、のちに韓国の政治家。本貫は昌寧曺氏(朝鮮語版)、号は竹山(チュクサン、죽산)。社会民主主義者で、第一共和国時代における革新政党である進歩党の委員長を務めた。 妻は活動家の金祚伊。姓の「チョ」は真ん中の部分が曲の「曹」ではなく由の「曺」。 京畿道江華郡(現在の仁川広域市)出身。農業補習学校を卒業し江華郡庁の職員として働くが、三・一独立運動に参加して投獄される。釈放後の1921年に日本へ留学し、正則英語学校を経て中央大学で一年間政治学を学び、朴烈らと共に在日朝鮮人による社会主義団体「黒濤会」を結成した。
木村 幸一郎(きむら こういちろう、1896年(明治29年)… 木村 幸一郎(きむら こういちろう、1896年(明治29年)9月25日(または10月8日) - 1971年(昭和46年)9月18日)は、日本の建築学者。 京都市生まれ。早稲田大学などにおいて、環境工学の基本的研究と教育にあたった。また、積雪荷重など雪害対策の基礎的研究方向を確立したほか、日本空気清浄協会、日本建築積算事務所協会の設立と運営にも尽力した。 日本建築設計事務所協会初代会長(l971年まで)。
内ヶ﨑 贇五郎(うちがさき うんごろう 1895年(明治28… 内ヶ﨑 贇五郎(うちがさき うんごろう 1895年(明治28年)9月25日 – 1982年(昭和57年)9月22日)は、日本の実業家。 宮城県黒川郡富谷町(現・富谷市)に造り酒屋の家に生まれる。父は富谷村長を務めた内ヶ崎儀左衛門。一族には、政治家で衆議院議長を務めた内ヶ崎作三郎がいる。 旧制第二高等学校から東京帝国大学工学部電気工学科に進み、1919年(大正8年)に大阪電燈に入社。大阪電燈が大阪市営になって後は大同電力に移り、第二次世界大戦時に設立された日本発送電東北支店長・東北配電社長を歴任し電力事業に一貫して携わった。 1951年(昭和26年)5月1日、第二次世界大戦後の電力事業再編に伴う、日本発送電・東北配電の解体・改組に伴い設立された東北電力の初代社長に就任。
谷口 茂寿(たにぐち しげとし、1895年9月25日 - 1… 谷口 茂寿(たにぐち しげとし、1895年9月25日 - 1973年6月25日)は、日本の牧師。 1895年、大阪で生まれる。組合派の大阪天満教会にて受洗を務めながら、1916年に京都帝国大学入学。在学中に内村鑑三主筆の「聖書の研究」に触れ、内村鑑三の教えを受けることを願って東京帝國大学へ転入して上京。1918年1月より内村鑑三の集会である今井館に出席を許される。1920年、転入した東京帝國大学を卒業。三菱造船株式会社(現三菱重工業株式会社)に入社、神戸造船所に赴任。その後三菱合資会社に転任するが、再び上京し本郷駒込追分町に住む。1923年、三菱合資会社退社。文書伝道者としての活動を開始する。本郷神の教会牧師に就任し、教会内に日本聖書学校を設立、校長に就任。
有馬 正文(ありま まさふみ、1895年〈明治28年〉9月2… 有馬 正文(ありま まさふみ、1895年〈明治28年〉9月25日 - 1944年〈昭和19年〉10月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1895年9月25日、鹿児島県日置郡中伊集院村(現日置市伊集院地域)に生まれる。1902年4月1日、鹿児島県立師範学校附属尋常小学校入学。1906年(明治39年)4月1日、伊集院村立伊集院尋常高等小学校入学。1908年(明治41年)4月1日、鹿児島県立第一鹿児島中学校入学。1912年(大正元年)8月31日、鹿児島県立第一鹿児島中学校の5年次に中途退学。9月9日、海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第51位。同期生の高木惣吉を終始兄のように慕い、有馬の長女百合子の結婚(相手は後に第9代海上幕僚長となる石田捨雄)では、高木夫妻を半ば強引に口説き落とし仲人を依頼した。
田村 栄太郎(たむら えいたろう、1893年〈明治26年〉9… 田村 栄太郎(たむら えいたろう、1893年〈明治26年〉9月25日 - 1969年〈昭和44年〉11月29日)は、日本の歴史研究家。在野の学者という立場を貫き、学会の官僚主義やエリート意識を批判した。遊廓街で育ったことから幼少時から遊女らと交渉を持った。風俗関係に関する研究で知られ、数多くの著書を出した。 1893年(明治26年) 群馬県高崎市嘉多町に生まれる。生家は人力車宿・履物屋を営んでいた。高崎尋常小学校を経て、高崎商業学校に学ぶ。病気のため同校を卒業間際に中退し、その後上京して明治薬学校(現・明治薬科大学)に入るがほどなく中退する。台湾に渡り、漢方薬の研究をするがほどなく帰国。 郷里で農民運動に参加、建設者同盟にも加わる。
東 善作(あずま ぜんさく、1893年〈明治26年〉9月25… 東 善作(あずま ぜんさく、1893年〈明治26年〉9月25日 - 1967年〈昭和42年〉10月11日)は石川県出身の飛行家。1930年にアメリカ西海岸から欧州を経て日本まで、三大陸横断飛行を敢行した。 石川県羽咋郡南大海村字中沼(かほく市中沼)で東長松・八重夫妻の二男として生まれる。母の実家がある一ノ宮村へ移住。伯父・義学が住職を務める西教寺に預けられ、従兄の義圓と共に育った。1908年(明治41年)春に羽咋高等小学校を卒業。同年8月、満14歳で一ノ宮村役場の給仕として働き始めたが、翌1909年に事業家を夢見て朝鮮半島の馬山浦新同洞へと渡る。そこで学問の必要性を感じた善作は2年ほどで日本に戻り、1912年(大正元年)京都中学校の4年に編入。
三野 昌治(みの しょうじ、1893年9月25日 - 197… 三野 昌治(みの しょうじ、1893年9月25日 - 1978年7月20日)は、日本の法学者、弁護士、裁判官、教育者。 1893年(明治26年)、香川県に生まれる。1919年京都帝国大学法学部卒業。東京地方裁判所、東京控訴院の判事や秋田地方裁判所所長などを務めた後、1948年より弁護士として活動。東洋大学で博士号を取得後、同大学で教授となる。1967年に東洋大学学長に就任。学生運動の最中ということもあり、学生の強い反発を受ける中で教養課程の川越キャンパスへの移転、図書館、学生会館建設の問題収拾にあたった。1969年に学長を辞任した。 1978年7月20日、老衰のため東京都大田区の自宅にて死去。84歳。
田村 宣武(たむら のぶたけ、1893年(明治26年)9月2… 田村 宣武(たむら のぶたけ、1893年(明治26年)9月25日 - 1988年(昭和63年)7月27日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1893年(明治26年)に愛媛県で生まれた。陸軍士官学校第27期を卒業し、1922年(大正11年)3月に陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部冶金学科を卒業した。1937年(昭和12年)8月に陸軍技術本部仏国駐在官に就任し、1938年(昭和13年)3月に陸軍砲兵大佐に進級した。1939年(昭和14年)7月に大阪陸軍造兵廠研究所長に就任し、1940年(昭和15年)4月に兼技能者養成所長となった。 1941年(昭和16年)6月23日に陸軍技術本部附となり、8月25日に陸軍少将に進級して、1942年(昭和17年)に第8陸軍技術研究所長に就任した。
草鹿 龍之介(くさか りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉… 草鹿 龍之介(くさか りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉9月25日 - 1971年〈昭和46年〉11月23日)は、日本の海軍軍人、剣道家。海軍兵学校41期生。海軍大学校24期。最終階級は海軍中将。一刀正伝無刀流第4代宗家。 1892年(明治25年)9月25日、住友本社理事・草鹿丁卯次郎の長男として東京で生まれる。本籍は石川県。草鹿家は加賀大聖寺藩に仕えた一族である。 石川県師範学校附属小学校を経て、大阪天王寺中学校を卒業。 草鹿龍之介著「一海軍士官の半生記」によると石川師範学校附属小学校時代には、陸軍中将青木重誠(陸士25期首席)と同級であり成績は草鹿が1番で青木が2番だったと回想している。
津田 健治(つだ けんじ、1891年(明治24年)9月25日… 津田 健治(つだ けんじ、1891年(明治24年)9月25日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 山口県吉敷郡宮野村(現山口市)に生まれる。1909年(明治42年)3月、山口県立農業学校農科を卒業し、1910年(明治43年)3月、山口県農事試験場研究科を修了する。同年4月、宮野村農会技手兼書記を拝命し、11月、現役志願兵として入隊する。1915年(大正4年)2月、台湾総督府巡査となり、1918年(大正7年)府施行の普通文官試験に合格。嘉義庁警務課勤務、嘉義庁庶務課勤務、台南州斗六郡勤務、新化郡、曽文郡、嘉義郡各庶務課長、台南州地方課地方係長、同州文書課長を経て、1940年(昭和15年)3月、台南市助役に就任し、1941年(昭和16年)6月、台北州文山郡守に就任した。
柳沢 七郎(やなぎさわ しちろう、1890年〈明治23年〉9… 柳沢 七郎(やなぎさわ しちろう、1890年〈明治23年〉9月25日 - 1978年〈昭和53年〉1月25日)は、元住友金属工業社長。 1890年宮城県大崎市の小松家に生まれ、のちに東京都の柳沢家の養子となる。宮城県古川高等学校、東北大学卒業。 1916年 住友製鋼所入社。1921年住友金属工業設立により住友金属工業に移籍。 1945年11月30日に専務取締役に就任し、1946年1月21日に取締役社長に就任、公職追放により1947年4月21日に取締役社長を辞任した。 1967年勲三等瑞宝章を受章。1978年に死去した。
早田 福蔵(はやた ふくぞう、1890年〈明治23年〉9月2… 早田 福蔵(はやた ふくぞう、1890年〈明治23年〉9月25日 - 没年不詳)は、日本の検事。朝鮮総督府官僚。弁護士。税理士。 長崎県上県郡佐須奈村(現在の対馬市)出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業。大邱地方法院司法官補、同判事、平壌地方法院検事、平壌地方法院新義州支庁検事、京城地方法院水原支庁検事、同春川支庁検事、清津地方法院検事、大邱覆審法院検事、全州地方法院検事、京城地方法院検事、公州地方法院検事正、大田地方法院検事正、釜山地方法院検事正、大邱地方法院検事正を歴任。1943年(昭和18年)、朝鮮総督府法務局長に就任した。 戦後は弁護士および税理士を開業し、静岡地方裁判所、同家庭裁判所各判事、裁判所調停委員、保護司、静岡県保護司連盟会長を歴任した。
河辺 虎四郎(かわべ とらしろう、1890年(明治23年)9… 河辺 虎四郎(かわべ とらしろう、1890年(明治23年)9月25日 - 1960年(昭和35年)6月25日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は中将。富山県出身。 1890年(明治23年)9月、富山県礪波郡東野尻村大字苗加(東礪波郡東野尻村、砺波町を経て現砺波市)に河辺純三の四男として生まれる。河辺正三大将(陸士19期歩兵科)は兄、瀧田俊吾軍医大佐は弟である。1905年(明治38年)に正三、虎四郎兄弟は陸軍士官学校、名古屋陸軍幼年学校に合格している。兄弟は草鞋ばきでそれぞれの受験地金沢までの往復を共にした(草地貞吾著『将軍32人の「風貌」「姿勢」』p.42,43)。 その後、1912年(明治45年)5月に陸士第24期砲兵科を卒業。
森田 米治(もりた よねじ、1888年(明治21年)9月25… 森田 米治(もりた よねじ、1888年(明治21年)9月25日 - 1972年(昭和47年)6月8日)は、日本の実業家。奈良県山辺郡都祁村(現・奈良市都祁小山戸町)出身。1917年(大正6年)に回効散本舗森田製薬所を創業した。 1973年(昭和48年)に、一時は再建を果たした回効散本舗森田製薬も石油ショックや社長になっていた長男、森田重太郎の高齢化もあり、1998年(平成10年)、ライセンスを「龍角散」に売却。廃業した。しかし「龍角散」では、「処方が古く現在の製造規格にあっていない為にラインに乗せることが出来ず、販売する予定はない。」とのこと。 森田米治は80歳を過ぎてから脳梗塞を数回発症。1972年(昭和47年)6月8日、満83歳で逝去した。
天野 藤男(あまの ふじお、1887年(明治20年)9月25… 天野 藤男(あまの ふじお、1887年(明治20年)9月25日 - 1921年(大正10年)10月10日)は、日本の社会事業家、教育者。処女会創設者。 1887年(明治20年)、静岡県庵原郡庵原村(現・静岡市)に生まれる。1907年(明治40年)、静岡県立静岡中学校卒業。庵原小学校の代用教員を務める。宮内省に出仕していた漢詩人国府種徳(犀東)に才能を認められて内務省嘱託となり、同省の地方局に勤務。青年団や処女会の指導に当たり、1918年(大正7年)、処女会中央部を結成して雑誌「処女の友」や「青年団及び処女会」「大正新処女読本」などを発行・編集。 また、映画「都に憧れて」(監督:金森萬象)を製作し好評を博すなど、処女会の普及・発展に大きく貢献した。