佐藤 通次(さとう つうじ、1901年5月26日 - 199… 佐藤 通次(さとう つうじ、1901年5月26日 - 1990年7月3日)は、日本の独文学者、哲学者。学位は文学博士(九州帝国大学・1944年)。皇學館大学学長。皇學館大学名誉教授。 山形県川西町生まれ。旧制山形高等学校を経て、1926年に京都帝国大学文学部独文科卒。九州帝国大学法文学部助教授、文部省教学錬成所員、大日本言論報国会理事。1944年に「ゲーテノ生命体験」で九州帝国大学より文学博士の学位を取得。 戦後は、『皇道哲学』を著したことから公職適否審査会の調査対象となり、言論報国会理事であったことで公職追放となり、追放解除後の1955年に亜細亜大学教授、1965年に皇學館大學教授、1973年から1980年まで同学長、名誉教授。
長 守善(ちょう もりよし、1900年(明治33年)5月26… 長 守善(ちょう もりよし、1900年(明治33年)5月26日 - 1971年(昭和46年)6月8日)は、日本の経済学者。中央大学名誉教授、松商学園短期大学第4代学長。 1900年、愛媛県松山市生まれ。第四高等学校から、東京帝国大学経済学部に進み、1926年に卒業した。大学院在籍ののち満鉄調査部へ勤務。ベルリン大学留学。 戦後は1948年に中央大学教授となり、経済学部長、経済学研究所長(1964年 - 1966年)などを歴任した。その間、1959年に「福祉国家イギリスの研究:その理念、形成、政策」を一橋大学に提出し、経済学博士の学位を取得。 中央大学を退職して名誉教授となり、1970年4月1日から松商学園短期大学の第4代学長に就任して、4年制大学への昇格を目指すに取り組みに着手したが、在職中の1971年6月8日に急逝した。
藤原 道子(ふじわら みちこ、1900年5月26日 - 19… 藤原 道子(ふじわら みちこ、1900年5月26日 - 1983年4月26日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)、参議院議員(4期)。衆議院議員時代は、山崎 道子(やまざき みちこ)で活動した。 1900年5月26日、岡山県児島郡(旧宇野町、現玉野市)出身。幼少期に生家が没落したため小学校を5年で中退して印刷女工などをしながら後に上京、1915年看護婦試験に合格。賀川豊彦の影響を受けてクリスチャンとなる。派出看護婦、巡回産婆も経験し1925年日本労農党の山崎釼二と結婚、夫婦で貧困と戦いながら農民運動に勤しんだ。1946年の総選挙で静岡県(大選挙区の全県1区)から日本社会党より「山崎道子」として立候補して初当選。
中山 源夫(なかやま もとお、1899年(明治32年)5月2… 中山 源夫(なかやま もとお、1899年(明治32年)5月26日 - 1979年(昭和54年)12月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県出身。東京で陸軍大尉・中山左源二の長男として生まれる。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊付となる。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し歩兵第7連隊中隊長に就任した。 1931年(昭和6年)5月、東京警備参謀に就任し、参謀本部員を務め、1935年(昭和10年)8月、歩兵少佐に進級した。
打越 顕太郎(うちこし けんたろう、1898年5月26日 -… 打越 顕太郎(うちこし けんたろう、1898年5月26日 - 1962年6月29日)は、日本の教育者。鳥取県鳥取市出身。協同組合短期大学(1973年廃止)の創設者でもある。 宮部一郎 | 打越顕太郎 | 美土路達雄 | 湯河元威 | 江上繁一
鍋島 紀雄(なべしま ただお、1897年5月26日 - 19… 鍋島 紀雄(なべしま ただお、1897年5月26日 - 1968年2月19日)は、日本画家。 大阪市北区福島番外413番地に生まれる。父熊太郎(1865年(慶応元年)生まれ)、母ミチ(旧姓牧、1876年(明治9年)生まれ)の長男。鍋島熊太郎は旧佐賀蓮池藩連枝。 1915年(大正4年)東北学院中等部卒業。4月、東京美術学校日本画科に入学。4月から7月まで予備科、8月から本科に進む。川合玉堂、結城素明、松岡映丘の指導を受ける。 1921年(大正10年)東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業。卒業制作は、東京芸術大学収蔵品として保管されているが、一般公開はされていない。[要出典] 恩師・川合玉堂の言葉「塵汚の渦中に巻込まれる勿れ、一意我が道に精進せよ」を受けて中央画壇に背を向け、大阪南部の羽曳野市に住み、人知れず「己が魂」を描き続けた。
瀧川 政次郎(たきかわ まさじろう、1897年5月26日 -… 瀧川 政次郎(たきかわ まさじろう、1897年5月26日 - 1992年1月29日)は、日本の法学者。専門は法制史。大阪府大阪市西区出身。法律学の立場から法制史の体系化に尽力する。学位は法学博士。國學院大學名誉教授。
谷川 徹三(たにかわ てつぞう、1895年〈明治28年〉5月… 谷川 徹三(たにかわ てつぞう、1895年〈明治28年〉5月26日 - 1989年〈平成元年〉9月27日)は、日本の哲学者、翻訳家、評論家。法政大学総長などを務めた。日本芸術院会員。常滑市名誉市民。 ジンメル、ゲーテの翻訳や、文芸、美術、宗教、思想などの幅広い評論活動を行った。 1895年5月26日、煙草の元売りの店を営む谷川米太郎の三男として愛知県知多郡常滑町(現:常滑市保示町)に生まれた。旧制愛知県立第五中学校(現:愛知県立瑞陵高等学校)卒業。1913年、旧制第一高等学校に入学。在学中は真宗大谷派僧侶の近角常観が主宰していた求道学舎に寄宿する。西田幾多郎に影響され、1918年に京都帝国大学文学部哲学科へ入学し、西田に師事する。
斎藤 清衛(さいとう きよえ、1893年5月26日 - 19… 斎藤 清衛(さいとう きよえ、1893年5月26日 - 1981年3月4日)は、日本の国文学者。筆名・伎世江。 1893年、山口県熊毛郡で生まれた。徳山中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学国文科に進学。1918年に卒業。 大学卒業後は教諭となり、埼玉師範学校に勤務。次いで1920年より広島高等師範学校教授、1933年に退職し、欧米を訪ねた。1938年、学位論文『応永永享時代文芸意識の研究』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。1940年、北京師範大学教授として中国に赴任。1942年、京城帝国大学教授に就いた。 1946年、広島文理科大学教授に就いた。1953年、旧・東京都立大学教授に転じた。
市岡 寿(いちおか ひさし、1893年5月26日 - 196… 市岡 寿(いちおか ひさし、1893年5月26日 - 1963年2月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
及川 規(おいかわ ただし、1893年(明治26年)5月26… 及川 規(おいかわ ただし、1893年(明治26年)5月26日 - 1981年(昭和56年)11月26日)は、大正から昭和期の教育者、弁護士、政治家。衆議院議員。 岩手県江刺郡岩谷堂町(江刺町、江刺市を経て現奥州市)で生まれる。岩手師範学校を経て、1917年(大正6年)東京高等師範学校(のち東京教育大学)を卒業。 岩手県師範学校教諭、島根県立杵築中学校(現島根県立大社高等学校)教諭を歴任。1920年(大正9年)高等試験行政科試験に合格。神奈川県視学官に就任。その後、横浜市で弁護士を開業し、横浜弁護士会副会長も務めた。その他、私立本牧中学校(のち現在の横浜中学校・高等学校に合併)校長兼理事長となった。
勝亦 干城(かつまた たてき、1892年〈明治25年〉5月2… 勝亦 干城(かつまた たてき、1892年〈明治25年〉5月26日 - 1953年〈昭和28年〉6月12日)は、昭和時代の政治家。漁業家。実業家。静岡県沼津市長。 静岡県出身。県立沼津中学校を経て、1916年(大正5年)明治大学商科卒業。 歩兵第18連隊へ一年志願兵として入隊し、陸軍三等主計に進んだ。千本浜で定置網漁を営む傍ら、1939年(昭和14年)9月に沼津市会議員に当選。1943年(昭和18年)9月には同議長に推挙された。ほか、駿東地方事務所参与、沼津漁業会長、静岡県水産業会副会長を歴任した。 1945年(昭和20年)11月、沼津市の最後の官選市長に就任。戦後の混乱期にあって復興部を設け庶務・土木・都市計画・建設・水道の5課を置き戦災復興を進めた。
生田 蝶介(いくた ちょうすけ、1889年5月26日 - 1… 生田 蝶介(いくた ちょうすけ、1889年5月26日 - 1976年5月3日)は、日本の歌人、小説家。本名・調介。雑誌に初めて短歌欄を設けた人物である。 山口県豊浦郡長府町(現在の下関市)の田嶋家に生まれる。13歳で京都の叔父の養子となり、生田姓となる。早稲田大学英文科に入学。 1909年、博文館の社員となり、『講談雑誌』を出版した。この雑誌は、日本で初めて雑誌に短歌欄を設けたものだった。1916年、歌集『長旅』を刊行。 1924年には歌誌『吾妹(わぎも)』を創刊する。『聖火燃ゆ』などの小説や批評も発表した。 1976年5月3日没。行年88歳。戒名は皐月院芙氿泉光蝶歌聖禅居士。墓所は青山霊園。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
新井 京太(あらい きょうた、1887年〈明治20年〉5月2… 新井 京太(あらい きょうた、1887年〈明治20年〉5月26日 - 1969年〈昭和44年〉5月19日)は、大正・昭和期の実業家・政治家。衆議院議員(3期)。位階は正五位。 群馬県多野郡保美濃山村(現・藤岡市保美濃山)出身。17歳のとき医学を志して上京、建築業に従事しながら苦学する。1920年(大正9年)協調会社会政策学院を卒業。土木建築請負業を営む。田島応用加工(株)顧問を務めた。 千住町会議員、足立区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員、同参事会員、同社会委員長、東京都議会議員、同参事会員を務めた。 第24回衆議院議員総選挙(1949年(昭和24年)1月執行)東京都第6区から選出された聴濤克巳の公職追放、中島守利の死去に伴い1952年(昭和27年)3月に実施された補欠選挙で初当選。
牧野 良三(まきの りょうぞう、1885年(明治18年)5月… 牧野 良三(まきの りょうぞう、1885年(明治18年)5月26日 - 1961年(昭和36年)6月1日)は、日本の政治家。 岐阜県大野郡高山町上向町(現・高山市)に旅館主・牧野伊平の三男として生まれた。斐太中学、旧制山口高等学校(旧旧山高)を経て東京帝国大学法科大学に進学し、卒業後、官界・法曹界を経て政界に入った。総選挙に通算12回立候補し、10回当選した。 戦前は立憲政友会に所属した。政友会内にあっては自由主義の立場に立ち、1939年(昭和14年)の政友会の分裂に際しては自由主義的な正統派(総裁・久原房之助)に所属し、翌1940年(昭和15年)に反軍演説による斎藤隆夫除名問題に際しても同じ政友会正統派所属の芦田均や宮脇長吉らとともに斎藤除名に対し反対票を投じた(反対票は7票のみ)。
金沢 正雄(かなざわ まさお、1884年〈明治17年〉5月2… 金沢 正雄(かなざわ まさお、1884年〈明治17年〉5月26日 - 1945年〈昭和20年〉4月27日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。政友会系官選県知事、衆議院議員。 大阪府交野郡倉治村(北河内郡交野村、交野町を経て現交野市倉治)で、金沢楢松の長男として生まれる。第三高等学校を卒業。1910年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し栃木県属となる。 以後、栃木県警視、同事務官、熊本県理事官、長崎県理事官、愛媛県警察部長、群馬県警察部長、沖縄県内務部長、岐阜県内務部長、長崎県書記官・内務部長、新潟県書記官・内務部長、神奈川県書記官・内務部長などを歴任。
木村 鋭市(きむら えいいち、1879年(明治12年)5月2… 木村 鋭市(きむら えいいち、1879年(明治12年)5月26日 - 1947年(昭和22年)7月21日)は、日本の外交官。駐チェコスロバキア公使。 島根県出身。1906年(明治39年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。1908年(明治41年)、外交官及領事官試験・高等文官試験に合格し、外交官補となった。外務省参事官、ベルギー公使館三等書記官、フランス大使館二等書記官を務めた。1919年(大正8年)、パリ講和会議全権委員随員を務め、帰国後は亜細亜局の課長となった。ワシントン会議でも全権委員随員を務め、1923年(大正12年)からアメリカ合衆国大使館一等書記官、同参事官を歴任した。1925年(大正14年)より亜細亜局長となり、1927年(昭和2年)に駐チェコスロバキア公使に転じた。
西野 忠次郎(にしの ちゅうじろう、1878年〈明治11年〉… 西野 忠次郎(にしの ちゅうじろう、1878年〈明治11年〉5月26日 - 1961年〈昭和36年〉7月6日)は、日本の医学者、内科医。学位は医学博士(1914年・文部大臣)。日本学士院会員、慶應義塾大学名誉教授。内閣恩給局顧問医。 1878年山形県南置賜郡南原村(現・米沢市)に生まれる。山形県立米沢中学校興譲館を経て、第四高等学校から東京帝国大学医科大学に入学。1903年に卒業し、翌年同大学理学科教室助手になる。1909年から山形市立病院済生館に勤務し内科部長から館長になる。1913年山口県立病院長に就任、次いで日本赤十字山口支部病院長になる。1920年慶應義塾大学教授になる。1944年同大学医学部長兼病院長に就任、1946年同大学名誉教授になる。
徳田 昂平(とくだ こうへい、1878年(明治11年)5月2… 徳田 昂平(とくだ こうへい、1878年(明治11年)5月26日 - 1951年(昭和26年)10月5日)は、日本の実業家、相場師。徳田商会(のちの内外証券、東海東京証券)社長、日本証券取引所総裁、貴族院議員、大蔵省証券取引委員会委員長等を務めた。 山梨県出身。旧制甲府中学(のちの山梨県立甲府第一高等学校)を経て、東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業。 山梨銀行等を経て、1897年徳田商会入社。入社後頭角を現し、3年後に支配人就任。徳田商会創業者の徳田孝平の婿養子となり、ロンドンに3年間留学。その後ニューヨークのウォール街の仲買店で株式仲買を学ぶ。 1918年株式会社徳田商会に改組し社長に就任。
荒木 貞夫(あらき さだお、1877年〈明治10年〉5月26… 荒木 貞夫(あらき さだお、1877年〈明治10年〉5月26日 - 1966年〈昭和41年〉11月2日)は、日本の陸軍軍人、政治家。犬養内閣・齋藤内閣の陸軍大臣、第1次近衛改造内閣・平沼内閣の文部大臣。位階勲等功級爵位は従二位勲一等功四級男爵。最終階級は陸軍大将。 陸軍発の社会の革新を訴える派閥「一夕会」の領袖として陸軍省を掌握。一夕会の分裂後は昭和維新を掲げる急進的な青年将校に担がれるが、二・二六事件後の異動により予備役編入。 文相就任時の「皇道教育」導入等を理由として、極東国際軍事裁判においてA級戦犯として起訴され、終身禁固刑を言い渡された。 1877年(明治10年)5月26日、東京都狛江市(出生当時は神奈川県多摩郡和泉村)に、小学校校長で、旧一橋家家臣だった荒木貞之助の長男として生まれる。
田子 勝彌(たご かつや、1877年(明治10年)5月26日… 田子 勝彌(たご かつや、1877年(明治10年)5月26日 - 1943年(昭和18年)12月23日) は、日本の動物学者。 福島県石城郡三阪村(現在のいわき市)に生まれる。東京帝国大学の学生時代からサンショウウオを研究していた。内務省時代に史蹟名勝天然記念物調査の考査員を務めた。
草間 八十雄(くさま やそお、1875年(明治8年)5月26… 草間 八十雄(くさま やそお、1875年(明治8年)5月26日 - 1946年(昭和21年)1月28日)は、明治から昭和前期の公吏、新聞記者、作家。東京市幼年少年保護所長を歴任。 筑摩県筑摩郡(現・長野県松本市)に生まれる。松方デフレで家業の米穀商が傾き一家で上京。1898年に和仏法律学校を卒業。翌年から警視庁勤務、1903年に退職し、中央新聞・東京日日新聞・日本新聞・大正通信等の記者、内務省嘱託を経て、1922年(大正11年)に東京市社会局嘱託、1928年(昭和3年)に東京市主事、東京市社会局保護課、1933年(昭和8年)に東京市幼少年保護所長に就任する。終戦直後の1946年(昭和21年)に世田谷区の被災者用バラックで死去した。
仙石 政敬(せんごく まさゆき、1872年5月26日〈明治5… 仙石 政敬(せんごく まさゆき、1872年5月26日〈明治5年4月20日〉- 1935年〈昭和10年〉9月16日)は、明治時代から昭和初期にかけての官僚・政治家。子爵。 1872年(明治5年)、旧出石藩主・仙石政固の長男として生まれる。1891年(明治24年)7月、学習院高等学科を卒業。1893年(明治26年)、久邇宮朝彦親王の六女・素子女王と結婚した。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科を卒業。1899年(明治32年)11月、高等文官試験に合格。その後、一時志願兵として近衛師団に入営したが、1900年(明治33年)、足疾のために現役を免除された。 宮内省諸陵頭などを務めたのち、1923年(大正12年)賞勲局総裁、1925年(大正14年)宗秩寮総裁を歴任した。
永田 新之允(ながた しんのじょう、明治4年4月8日(187… 永田 新之允(ながた しんのじょう、明治4年4月8日(1871年5月26日) – 昭和46年(1971年)6月21日)は、日本の衆議院議員(憲政会→中正倶楽部→新正倶楽部)。岩国市長。ジャーナリスト。 周防国玖珂郡岩国(現在の岩国市)出身。扶桑新聞社で活版職工として勤務。1888年(明治21年)より名古屋逓信管理局、東京逓信管理局、横浜郵便電信局、東京郵便電信局で勤務した。1896年(明治29年)に読売新聞社記者、編集局長となる。その後、国民新聞社に転じ、1902年(明治35年)には理事・編集長となった。さらに1904年(明治37年)に実業之日本社に移り、理事、編集長、営業部長、総務部長を歴任した。
斎木 逸造(さいき いつぞう、明治4年4月8日(1871年5… 斎木 逸造(さいき いつぞう、明治4年4月8日(1871年5月26日) - 昭和30年(1955年)11月1日)は、山梨県出身の政治家。甲府市長(官選第16代)。号は天民。 甲府県巨摩郡牧原村(現在の山梨県北杜市)に漢方医の父「良斎」、母「たけ」の長男として生まれる。明治18年(1885年)頃、山梨県北巨摩郡祖母石村の漢学者菊島茂村が開いた茂村塾に入門し漢学、書道を学び、明治21年(1888年)に武里村(明治8年(1875年)に牧原村、新奥村及び宮脇村が合併して成立)の冨里尋常小学校の授業生として採用された。この頃、当時の思想的主流であった自由民権運動に関心を示し、特に中江兆民に心酔した斎木は、存分に自由民権運動に挺身することを決意し、受業生を辞して北海道に渡り一旦は巡査に採用されたものの、内務省巡査採用規程による採用年齢に達していないため不採用となった。
平山 午介(ひらやま うますけ、1870年5月26日(明治3… 平山 午介(ひらやま うますけ、1870年5月26日(明治3年4月26日)- 1959年(昭和34年)7月11日)は、明治から昭和期の逓信官僚、実業家、政治家。衆議院議員。 常陸国茨城郡、のちの茨城県水戸市赤沼町で平山貞吉の三男として生まれた。1891年(明治24年)6月に家督を相続した。青弘塾で漢籍を修め、経済学者塩澤昌貞と同門で共に将来を嘱望された。1886年(明治19年)に上京して苦学しながら普通学を修めた。 逓信省に入省し、通信事務官補、通信事務官、大阪郵便為替貯金管理支所長、郵便貯金局事務官、大阪貯金支局長などを歴任。この間、記帳の様式にルーズリーフ式を採用するなど貯金事務の改善に貢献した。
内田 魯庵(うちだ ろあん、1868年5月26日(慶応4年閏… 内田 魯庵(うちだ ろあん、1868年5月26日(慶応4年閏4月5日) - 1929年(昭和4年)6月29日)は、明治期の評論家、翻訳家、小説家。本名貢(みつぎ)。別号不知庵(ふちあん)、三文字屋金平(さんもんじやきんぴら)など。明治文壇を代表する批評家として知られ、旺盛な好奇心と広範な知識は文学を超えて、民族学や文明論的な拡がりを持った。江戸下谷車坂六軒町(現・東京都台東区)生まれ。洋画家内田巌は長男。孫(巌の娘)に翻訳家の内田莉莎子。 旧幕臣の子・貢(幼名・貢太郎)として下谷車坂三軒町に生まれる。父・正には7人の妻がおり、魯庵は最初の妻との子。はじめは政治・実業に関心を持ち、1882年(明治15年)に15歳で築地の立教学校(現立教大学)に入学して英語を学んだほか、東京専門学校(現早稲田大学)英語部などでも英語を学び、東京大学予備門にも入ったが、家が貧しく結局どこも中退し、文部省編輯局翻訳係であった叔父(継母の姉妹の夫)・井上勤のもとで下訳や編集の仕事をする。
池口 慶三(いけぐち けいぞう、1867年5月26日〈慶応3… 池口 慶三(いけぐち けいぞう、1867年5月26日〈慶応3年4月23日〉 - 1933年〈昭和8年〉12月1日)は、日本の薬学者。薬学博士。正四位勲三等。日本薬局方調査会会長。日本薬剤師会顧問。東京薬学専門学校長。族籍は兵庫県平民。 但馬国七美郡(のち兵庫県美方郡村岡町、現香美町)出身。池口吉兵衛の三男。旧村岡藩士である。1885年、家督を相続する。1890年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業し、薬学士の称号を得た。 警視庁技師、衛生試験所技師、内務技師、特許局技師同検査官等歴任。1907年11月、薬学博士の学位を授与された。内国製薬常務取締役兼技師長をへて1927年、東京薬専校長となった。著作に『日本薬局方通解』がある。
熊谷 喜一郎(くまがい きいちろう、1866年5月26日(慶… 熊谷 喜一郎(くまがい きいちろう、1866年5月26日(慶應2年4月12日) - 1949年(昭和24年)10月9日)は、日本の内務官僚。樺太庁民政長官、官選県知事。 熊谷禎蔵の長男として江戸で生まれる。1892年、帝国大学法科大学を卒業。同年7月、内務省試補となり社寺局に配属された。 1893年11月、北海道庁参事官に就任。以後、内務書記官、拓殖務省書記官、農商務省・陸軍省・内務省の各参事官、兼台湾総督府事務官などを歴任。1905年8月、樺太民政署が設置されると民政長官に就任。1907年4月、樺太民政署が樺太庁に改編され、引き続き民政長官を務めた。 樺太庁では長官の楠瀬幸彦と不仲になり、第1次西園寺内閣の内務大臣である原敬は1908年4月24日に両名を更迭し、熊谷は同年6月12日付けで山梨県知事に就任した。
松下 牧男(まつした まきお、1865年5月26日(慶応元年… 松下 牧男(まつした まきお、1865年5月26日(慶応元年5月2日) - 1926年(大正15年)5月15日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 駿河国、のちの静岡県富士郡須津村(吉原市を経て現富士市)出身。漢学を学ぶ。煙草製造業を営む傍ら、ツルチュック醸造監査役を務めた。1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
前田 元敏(まえだ もととし、安政4年5月4日(1857年5… 前田 元敏(まえだ もととし、安政4年5月4日(1857年5月26日) - 1927年(昭和2年)1月24日)は戦前日本の英学者。土佐藩出身。岐阜県立岐阜県尋常中学校大垣分校初代校長、日本中学校教頭、郁文館中学校教頭。 安政4年(1857年)5月4日土佐国高知城下(高知県高知市廿代町11番地)に土佐藩槍指南前田元幸の嫡男として生まれた。文久3年(1863年)寺子屋に学び、慶応3年(1867年)5月15日祖父及と藩主山内豊範に御目見した。 明治2年(1869年)藩校致道館に入学して漢学を学び、明治5年(1872年)7月から英学を学び、廃館後、明治6年(1873年)5月共立学舎英語学校に入学して引き続き英学を学んだ。
君塚 省三(きみづか / きみつか せいぞう、1856年5月… 君塚 省三(きみづか / きみつか せいぞう、1856年5月26日(安政3年4月23日)- 1906年(明治39年)5月20日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、千葉県会議長、千葉県夷隅郡総野村長。幼名・道太郎。 上総国夷隅郡芳賀村(千葉県夷隅郡芳賀村、総野村芳賀、勝浦町を経て現勝浦市芳賀)で、農業・君塚勘解由左衛門芳高(のち傳に改名)の長男として生まれた。1874年(明治7年)自ら省三に改名。大喜多の私塾・大泉堂で学び、その後、大多喜藩校・明善校で漢学を修めた。 1875年(明治8年)第6大区第1小区副戸長に就任した。1879年(明治12年)以文会の結成に参画し、1881年(明治14年)自由党が結党されるとこれに加わった。
大石 正巳(おおいし まさみ、正しくは「まさき」、安政2年4… 大石 正巳(おおいし まさみ、正しくは「まさき」、安政2年4月11日(1855年5月26日)- 1935年(昭和10年)7月12日)は、日本の政治家。衆議院議員・農商務大臣などを務めた。土佐国(高知県)出身。 土佐国長岡郡池村東孕(高知県長岡郡三里村を経て現高知市大石谷)で、高知藩士・大石良則の二男として生まれる。戊辰戦争では迅衝隊鼓手として従軍し会津戦争に参戦した。 1874年(明治7年)に板垣退助の立志社に参加し、自由民権運動に従事。1881年(明治14年)自由党幹事。三菱商業学校(明治義塾)卒業。1882年(明治15年)板垣の洋行に反対して離党。1887年(明治20年)には後藤象二郎の大同団結運動に参加。
阿部 勇治(あべ ゆうじ、1855年5月26日(安政2年4月… 阿部 勇治(あべ ゆうじ、1855年5月26日(安政2年4月11日)- 1919年(大正8年)8月29日)は、明治から大正期の地主、政治家。衆議院議員。 陸奥国稗貫郡、のちの岩手県稗貫郡宮野目村(現花巻市)で、農業・大地主の家に生まれた。 1887年(明治20年)4月、村会議員に選出された。以後、岩手県会議員、稗貫郡会議員、同参事会員なども務めた。1901年(明治34年)10月、日本赤十字社特別社員となる。 1904年(明治37年)3月の第9回衆議院議員総選挙で岩手県郡部区から帝国党所属で出馬して初当選。その後、第11回総選挙(中央倶楽部所属)では落選したが、1915年(大正4年)3月の第12回総選挙で立憲同志会から出馬して再選され、その後憲政会に所属して衆議院議員に通算2期在任した。
浅野 一摩(あさの かずま、1852年5月26日〈嘉永5年4… 浅野 一摩(あさの かずま、1852年5月26日〈嘉永5年4月8日〉 - 1934年〈昭和9年〉10月30日)は、日本の剣道家。流派は津田一伝流。称号は大日本武徳会剣道範士。 一伝流浅野庄太夫重賢の二男として、現在の福岡県久留米市荘島町に生まれる。重賢が若くして病没後、一門とともに津田一左衛門正之に合流、津田一伝流の極意印可巻を授かる。 1883年(明治16年)、福岡県警察本部教習所の剣道教授となる。 1894年(明治27年)、日清戦争中の広島大本営で開かれた天覧試合に出場する。 1896年(明治29年)、第2回武徳祭大演武会に出場。高野佐三郎に敗れる。 1897年(明治30年)、大日本武徳会から精錬証を授与される。
初代野村 徳七(のむら とくしち、1850年5月26日(嘉永… 初代野村 徳七(のむら とくしち、1850年5月26日(嘉永3年4月15日) - 1907年(明治40年)9月30日)は大阪の両替商。野村徳七 (二代)、野村元五郎の父。 1850年(嘉永3年)4月15日、河内国渋川郡久宝寺村(現在の大阪府八尾市久宝寺)に生まれる。幼名は徳松。11歳から大阪屋弥兵衛の大弥両替店に丁稚奉公する。1871年(明治4年)2月、大阪屋弥兵衛の養子となるが、8月に主人の弥兵衛が他界し、さらに翌1872年(明治5年)8月に、弥兵衛の妻さくも他界した。明治維新後の1869年(明治2年)には、東京、大阪に為替会社が設立され、1872年(明治5年)の「国立銀行条例」によって国立銀行が設立され、幣制の改革も行われて、両替店の機能は次第に低下した。
采野 友啓(うねの ともひろ、5月26日 - )は、西日本放… 采野 友啓(うねの ともひろ、5月26日 - )は、西日本放送の社員(ラジオセンター長)。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。 Category:西日本放送のアナウンサーを参照
松山 薫(まつやま かおる、5月26日 - )は、日本の女性… 松山 薫(まつやま かおる、5月26日 - )は、日本の女性声優、タレント。所属はフリー。以前はオオヴァス、大平プロダクション(2004年所属)に所属していた。大平透声優ゼミナール出身。 兵庫県出身。龍谷大学文学部卒。手塚治虫の姪。2児の母。 この項目は、声優(ナレーターを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJ:アニメ/PJ:声優)。
林 脩己(はやし のぶみ、1874(明治7)年5月26日-1… 林 脩己(はやし のぶみ、1874(明治7)年5月26日-1945(昭和20)年3月13日)は、日本の園芸家。造園家、園芸・造園教育者。 明治時代に大隈重信や三菱岩崎家のために園芸栽培と邸宅庭園の管理を担当。英国の園芸と庭園を調査、研修のために留学し欧米の園芸を知る当時の最高レベルの園芸家・庭園家。明治前半期から終戦の直前まで日本の園芸と庭園に関わり、貢献した人生を送る。また千葉県立園芸専門学校(現・千葉大学園芸学部)設立時講師として園芸造園教育にも参画し幾多の園芸家・庭園家を育てる。 以下は林脩己 先生のこと (PDF) , 林脩己 先生のこと② (PDF) ,林脩己 先生と花卉園芸 (PDF) を参照している。