伊勢 正義(いせ まさよし、1907年2月28日 - 198… 伊勢 正義(いせ まさよし、1907年2月28日 - 1985年11月18日)は、日本の洋画家。 秋田県鹿角郡小坂町出身。1931年東京美術学校西洋画科卒。藤島武二に師事した。1933年の第20回光風会展でK夫人賞を受け、1934年に光風会会員となった。1934年の第15回帝展に出品した「カルトン」が初入選した。1935年の第22回光風会展で初の光風特賞を受賞した。同年、第二部会展で特選、文化賞を受賞した。 1936年に猪熊弦一郎などとともに新制作派協会(後の新制作協会)を結成した。その後は、同協会の中心会員として活躍した。 1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画種目に「フットボール」という作品を出品した。
高橋 長太郎(たかはし ちょうたろう、1907年2月28日 … 高橋 長太郎(たかはし ちょうたろう、1907年2月28日 - 1991年3月29日)は、日本の経済学者。経済学博士(一橋大学・1960年)。一橋大学名誉教授。一橋大学経済研究所長、専修大学学長等を歴任。正四位勲二等瑞宝章。東京生まれ 1927年旧制東京商科大学(現一橋大学)予科修了。1930年同大学学士。1932年同大学研究科修了。哲学者の山内得立教授に師事した。1934年法政大学商業学校教諭。1947年大蔵省内閣統計官。1949年東京商科大学経済研究所教授。一橋大学経済研究所国民所得・再生産研究部門主任教授として倉林義正らと国民経済計算を行い、1959年から小原敬士の後任として第6代一橋大学経済研究所長を務めた。
佐藤 保三郎(さとう やすさぶろう、1906年2月28日 -… 佐藤 保三郎(さとう やすさぶろう、1906年2月28日 - 1998年8月6日)は、日本の経営者。キリンビール社長、会長を務めた。新潟県長岡市出身。 1926年に福島高等商業学校を卒業し、明治屋での勤務を経て、1927年にキリンビールに入社した。1965年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1973年に社長に就任した。1978年に会長に就任し、1981年から相談役を務めた。 1978年に勲三等旭日中綬章を受章した。 1998年8月6日肺炎のために死去。92歳没。
築山 治三郎(つきやま じさぶろう、1905年2月28日 -… 築山 治三郎(つきやま じさぶろう、1905年2月28日 - 1989年6月27日)は、日本の東洋史学者。 京都府京都市生まれ。京都府立第二中学校(現京都府立鳥羽高等学校)卒、東京高等師範学校地歴科卒、1934年東京文理科大学東洋史学科卒、群馬県立高崎中学校(現群馬県立高崎高等学校)教諭、神戸市立第一中学校(現神戸市立葺合高等学校)教諭、岩手県師範学校教授、北海道第三師範学校教授、青森師範学校教授、弘前大学助教授、1968年「唐代政治制度の研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。西京大学助教授、1953年京都府立大学教授、1969年定年退官、名誉教授、園田学園女子大学教授、京都産業大学教授。
秋山 龍(あきやま とおる、1905年2月28日 - 200… 秋山 龍(あきやま とおる、1905年2月28日 - 2000年1月3日)は、日本の運輸官僚。海運総局長官・運輸事務次官を務めたのち、日本空港ビルデング初代社長や東京モノレール社長を歴任した。通産官僚の秋山收は子。 岡山県岡山市出身。1924年第六高等学校 (旧制)文科甲類卒業。1928年京都帝国大学法学部卒業。逓信省に入省(淀橋郵便局)。海運局次長、運輸省参事官、海運局長などを経て、1948年海運総局長官。1949年6月運輸事務次官。1952年1月退官。日本空港ビルデングの設立に参加、民間資本を集めて1953年に初代社長に就任した。のち相談役。このほか、東京モノレール社長(1965年)、東京シティ・エアターミナル会長、ロイヤルパークホテル社長、国際港湾協会初代事務総長、日本航空協会会長(1991年)も務めた。
浅野 進治郎(あさの しんじろう、1904年2月28日 - … 浅野 進治郎(あさの しんじろう、1904年2月28日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名同じ。旧芸名浅野 信二郎、浅野 進二郎、浅野 象二郎(あさの しょうじろう)ほか、表記の揺れがある。 東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川地区)に生まれる。 新劇を志し、開校された新国劇付属演劇研究所に第1期生として入所、澤田正二郎(1892年 - 1929年)らの指導を受け、1923年(大正12年)8月に同所を卒業している。同研究所の同期には草間実、根本淳、第2期生には金平軍之助らがいた。まもなく関東大震災を経験し、1924年(大正13年)には、水谷竹紫、初代水谷八重子らが同年に設立した第二次芸術座に参加する。
佐藤 正二(さとう しょうじ、1903年(明治36年)2月2… 佐藤 正二(さとう しょうじ、1903年(明治36年)2月28日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、海軍司政官。 福井県福井市に生まれる。静岡高等学校を卒業。1929年(昭和4年)3月、京都帝国大学法学部を卒業し、同年10月高等試験行政科に合格する。1932年(昭和7年)12月、府属に任ぜられ、1937年(昭和12年)11月、地方理事官に進み、高雄州潮州郡守に就任。 その後は、高雄税関監視部長、外事部第二課勤務、台南州教育課長、同州地方課長、同州総務課長などを歴任した。1943年(昭和18年)3月31日、海軍司政官に任じられ南西方面艦隊ボルネオ民政部部員に発令された。
野村 章恒(のむら あきちか、1902年2月28日 - 19… 野村 章恒(のむら あきちか、1902年2月28日 - 1985年3月13日)は、日本の精神科医。 1902年高知県生まれ。1909年栃木県へ転居。旧制・栃木県立栃木中学校を経て、1928年東京慈恵会医科大学卒業。東京帝国大学医学部、松沢病院勤務、35年藤沢病院長。38年「心因性精神病殊に拘禁性精神病に関する臨床的知見」で東京帝国大学医学博士。42年根岸国立病院副院長、57年東京慈恵会医科大学教授、67年退任。森田療法を研究、雑誌『神経質』の編集に従事した。別名・野村章吾。
松野 賢吾 (まつの けんご、1902年2月28日 - 19… 松野 賢吾 (まつの けんご、1902年2月28日 - 1993年11月9日)は、日本の経済学者。松野新次郎の長男。熊本県八代市生まれ、神奈川県湯河原で逝去。
甲斐 政治(かい まさはる、1902年(明治35年)2月28… 甲斐 政治(かい まさはる、1902年(明治35年)2月28日‐ 1979年(昭和54年)9月13日) は、昭和期の満洲国官僚、放送関係者、政治家。衆議院議員(3期)。 宮崎県東臼杵郡北方村(北方町を経て現延岡市)で生まれた。城小学校、延岡中学校(現宮崎県立延岡高等学校)、第五高等学校を経て、1929年(昭和4年)3月、九州帝国大学法文学部法律科を卒業した。 同年3月、満洲に渡り鉄嶺自治指導委員長を経て、満洲国国務院民政部事務官、総務庁人事科長、遼陽県参事官兼地籍整理局事務官、瀋陽県支局弁事、遼陽副県長、瀋陽副県長、総務庁参事官、黒河省開拓庁長、拝泉県副県長、総務庁参事官・官房弁事、中華民国山西省顧問などを務めた。
伊藤 五郎(いとう ごろう、1902年〈明治35年〉2月28… 伊藤 五郎(いとう ごろう、1902年〈明治35年〉2月28日 - 1992年〈平成4年〉6月4日)は、日本の弁護士、政治家。参議院議員(2期)、衆議院議員(3期)。 山形県北村山郡常盤村(尾花沢町を経て現尾花沢市)出身。1928年中央大学法学部卒。弁護士となり、1936年横浜弁護士会副会長に就任。翌1937年の第20回衆議院議員総選挙で山形2区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選する。次の1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選した。大麻唯男国務大臣秘書官、鈴木貫太郎内閣文部参与官を歴任。戦後、推薦議員のため公職追放となる。追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙で山形2区から改進党公認で立候補して以降落選続きで(1955年の保守合同以後は自由民主党)、1960年の第29回衆議院議員総選挙で再選された。
市川 白弦(いちかわ はくげん、1902年(明治35年)2月… 市川 白弦(いちかわ はくげん、1902年(明治35年)2月28日 - 1986年(昭和61年)6月7日)は、臨済宗の僧侶、社会運動家。 哲学者市川浩は長男。
常安 弘通(つねやす ひろみち、1902年2月28日 - 1… 常安 弘通(つねやす ひろみち、1902年2月28日 - 1988年10月3日)は、日本のジャーナリスト、新聞編集者、郷土史家。 佐賀県唐津市出身。1923年3月福岡県立中学修猷館を経て、1929年3月早稲田大学文学部哲学科を卒業。 1929年4月朝日新聞社大阪本社に入社。1936年3月中華民国北平(北京)特派員となる。1937年7月7日勃発した盧溝橋事件において、事前にその情報を掴み、現場に一番乗りして取材し、7月9日の朝日新聞朝刊の一面を飾るスクープをものにした。1939年10月西部本社編集局東亜課、1941年東京本社を経て、1942年3月中華民国済南支局長兼青島支局長、1944年9月奉天支局長を歴任するが、ここで終戦を迎え、抑留された後、1946年7月帰国。
植竹 圓次(うえたけ えんじ、1901年(明治34年)2月2… 植竹 圓次(うえたけ えんじ、1901年(明治34年)2月28日 - 1977年(昭和52年)11月16日)は、ジャーナリスト・政治家。第16 - 18代八王子市長を務めた。 1901年(明治34年)2月28日東京府八王子町元子安(現八王子市子安町)で三男として生まれる。町立第三尋常小学校(現八王子市立第三小学校)、攻玉社中学校、早稲田高等学院を経て1927年(昭和2年)早稲田大学政治経済学部を卒業。在学中に高等文官試験行政科に合格するも東京日日新聞社(現毎日新聞社)に入社。1936年(昭和11年)には整理部長、1948年(昭和23年)には毎日小学生新聞部長、1954年(昭和29年)には地方部長兼地方版編集長となり1956年(昭和31年)定年退職。
尾形 昭二(おがた しょうじ、1901年2月28日 - 19… 尾形 昭二(おがた しょうじ、1901年2月28日 - 1967年3月14日)は、日本の外交官、外交評論家。 熊本県生まれ。京都府立京都第一中学校卒。1924年東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省に入り、パリ、モスクワ、新京大使館、ペトロパヴロフスク領事館などで勤務。その後、本省調査局ソビエト課長、調査局長などを歴任。退官後、外交評論家となり、日ソ協会常任理事を務めた。
清棲 幸保(きよす ゆきやす、1901年〈明治34年〉2月2… 清棲 幸保(きよす ゆきやす、1901年〈明治34年〉2月28日 - 1975年〈昭和50年〉11月2日)は、日本の鳥類学者。位階は正五位。宇都宮大学教授。 東京帝国大学卒業。学位は理学博士(京都大学)。 爵位は伯爵。位階は正五位。伊達政宗の男系子孫である。旧姓・真田(真田伯爵家)。清棲家は、2代当主が幸保である。 幸保は、鳥類の渡り、繁殖、食性、日本アルプス、中国、朝鮮などの鳥の生態を研究、特に野鳥の写真を撮影し、貴重な資料とした。日本における野鳥撮影の第一人者である。14年をかけたて完成させた「清棲図鑑」と呼ばれる『増補改訂版・日本鳥類大図鑑全3巻、増補版1巻』は戦後最高の鳥類図鑑で名著と名高く、黒田長禮による『鳥類原色大図説』、山階芳麿による『日本の鳥類と其の生態』と並び、日本鳥類三大図鑑と呼ばれ、多くの鳥類学者に影響を与えた。
滝 清彦(たき きよひこ、1901年2月28日 - 1972… 滝 清彦(たき きよひこ、1901年2月28日 - 1972年7月27日)は、日本の経営者。 東京都出身。1925年に行文行政科に合格し、1930年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に鉄道省に入省。東京鉄道管理局総務部長、勤労部長、東京鉄道管理局局長などを歴任し、1946年に退官。その後は鉄道弘済会会長を務めた 1971年に勲二等瑞宝章を受章。 1972年7月27日心筋梗塞のために死去。71歳没。墓所は多磨霊園。
池崎 勇(いけざき いさむ、1901年 <明治36年> 2月… 池崎 勇(いけざき いさむ、1901年 <明治36年> 2月28日 - 1976年 <昭和51年> 7月10日)は、日本の経営者。日魯漁業社長を務めた。 熊本県出身。1928年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に日魯漁業に入社。 1955年に取締役に就任し、1957年1月に常務、1960年4月に専務、1964年1月に副社長を経て、1968年1月に社長に就任。1972年1月から1974年1月までに会長を務めた。 1971年5月に藍綬褒章を受章。 1976年7月10日、尿毒症のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山田 六左衛門(やまだ ろくざえもん、1901年2月28日 … 山田 六左衛門(やまだ ろくざえもん、1901年2月28日 - 1978年3月24日)は、共産主義活動家。 鹿児島県熊毛郡南種子村(現在の南種子町)字平山生まれ。早稲田高等学院政経科中退。1927年(昭和2年)に日本労働組合評議会に加盟。1928年(昭和3年)に日本共産党に入党。同じ年の3月15日の三・一五事件などで検挙。 戦後は1946年(昭和21年)日本共産党に再入党。1949年1月、第24回衆議院議員総選挙において和歌山県第1区から日本共産党公認で立候補して落選した。1950年(昭和25年)の日本共産党の分裂時に関西の「国際派」の指導者となったため、除名された。1955年(昭和30年)に日本共産党が統一した際に復党し、1958年(昭和33年)に中央委員となった。
篠山 千之(ささやま せんし / しのやま かずゆき、190… 篠山 千之(ささやま せんし / しのやま かずゆき、1900年〈明治33年〉2月28日 - 1976年〈昭和51年〉7月18日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 岡山県出身。篠山常太郎の六男として生まれる。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、第六高等学校を卒業。1923年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。1924年、内務省に入省し警視庁警部となる。 以後、内務属・地方局勤務、地方警視・新潟県警察部勤務、同県建築監督官、鳥取県書記官・経済部長、福岡県書記官・学務部長、新潟県書記官・警察部長、兵庫県書記官・警察部長、東京府内務部長などを歴任。
遠藤 仁郎(えんどう にろう、1900年2月28日 - 19… 遠藤 仁郎(えんどう にろう、1900年2月28日 - 1997年6月2日)は、日本の内科医である。青汁健康法の提唱者として知られる。 1900年(明治33年)2月28日、岡山県英田郡福本村で誕生する。津山中学校を経て、1921年(大正10年)に第三高等学校を卒業する。1925年(大正14年)に京都帝国大学医学部を卒業し、1930年(昭和5年)に『血中ビリルビン、ヒヨレステリン及胆汁酸の相互的関係に就ての臨床的並に実験的研究』で医学博士を取得する。1931年(昭和6年)に京都帝国大学講師、1932年(昭和7年)に大阪女子高等医学専門学校助教授を勤める。1934年(昭和9年)に同学校内科教授となる。
藤原 啓(ふじわら けい、1899年2月28日 - 1983… 藤原 啓(ふじわら けい、1899年2月28日 - 1983年11月12日)は、日本の陶芸家。本名は敬二。同じく陶芸家の藤原雄は長男、藤原敬介は次男。岡山県名誉県民。1970年に人間国宝に認定。 岡山県備前市穂浪(当時の和気郡伊里村穂浪)出身。農業藤原伊三郎、世為の三男として生まれる。 少年期から俳句や小説の才能を発揮しており、1915年に博文館が手がける『文章世界』に応募した短編が1等を獲得する。これを機に1919年に上京し博文館編集部に勤務、『文章世界』の編集を担当する。同郷の正宗白鳥、徳富蘆花の影響を強く受け詩の執筆も始める。そのかたわら早稲田大学英文科の聴講生となり、ロシア・ドイツ文学やシェイクスピアを学ぶが1年あまりで中退。
石濱 金作(いしはま きんさく、1899年(明治32年)2月… 石濱 金作(いしはま きんさく、1899年(明治32年)2月28日 - 1968年(昭和43年)11月21日)は、日本の小説家、推理作家。 東京市京橋木挽町出身。父は時事新報記者の石浜鉄郎、兄は経済学者の石浜知行。子ども時代は大阪府で育ち、第一高等学校を経て、1924年に東京帝国大学英文学科を卒業。 1921年、22歳のとき川端康成らと第6次『新思潮』を創刊。その後『文藝春秋』の編集同人となる。1924年に『文藝時代』の創刊に携わり、新感覚派の新人作家として活躍。戦後の作品に、旧友である川端康成との交友について書いた「青春修業記―無常迅速」(『文芸読物』1950年5月号)などがある。多くの作品を文芸誌に発表したが、単行本化されておらず、現在多くの作品は初出誌にあたる他ない。
小金 義照(こがね よしてる、1898年2月28日 – 19… 小金 義照(こがね よしてる、1898年2月28日 – 1984年2月11日)は、日本の政治家・官僚。郵政大臣。 神奈川県足柄上郡酒田村(現・開成町)に、酒造業・小金仁左衛門の四男として生まれる。神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、一高を経て、1922年東京帝国大学法学部を卒業、農商務省に入省する。特許局属。商工省鉱山局長、鉄鋼局長、燃料局長官を歴任した。 戦後の1949年第24回衆議院議員総選挙に旧神奈川3区から無所属で立候補し当選する(当選同期に佐藤栄作・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・木村俊夫・藤枝泉介・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・有田喜一など)。
石井 政一(いしい まさかず / せいいち、1898年(明治… 石井 政一(いしい まさかず / せいいち、1898年(明治31年)2月28日 - 1997年(平成9年)2月24日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選福島県知事。 奈良県出身。石井庄太郎の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し京都府属となる。 以後、大阪府監察官、岡山県書記官・警察部長、内務事務官兼内務書記官、内務省土木局港湾課長、同道路課長、大臣官房文書課長、神社局総務課長などを歴任。 1944年4月、福島県知事に就任し終戦を迎えた。1945年10月27日、知事を依願免本官となり退官。1946年1月に公職追放となった。
河原田 巌(巖、かわらだ いわお、1898年(明治31年)2… 河原田 巌(巖、かわらだ いわお、1898年(明治31年)2月28日 - 1951年(昭和26年)2月28日)は、大正から昭和期の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。 茨城県東茨城郡吉田村吉沢(現水戸市堀町 )で、河原田太三郎の三男として生まれる。東京世田谷自動車学校を卒業した。 福島自動車学校教授を経て、東洋自動車学校を設立して校長兼教員となる。1940年(昭和15年)自動車学校を廃校し貨物自動車運送業を営む。1944年(昭和19年)茨城県北部貨物自動車運送、茨城県南部自動車運送の各取締役社長に就任。1945年(昭和20年)平潟町定置網漁業の網元となる。1946年(昭和21年)茨城水産工業取締役社長に就任。
鈴木 一司(すずき いちじ、1897年(明治30年)2月28… 鈴木 一司(すずき いちじ、1897年(明治30年)2月28日 - 1997年(平成9年)3月24日)は、大正から昭和期の獣医師、政治家。参議院議員(1期)。 茨城県多賀郡高萩村(松原町、高萩町大字高萩を経て現高萩市)で生まれる。1916年(大正5年)青森県畜産学校(現青森県立三本木農業高等学校)を卒業した。 高萩町会議員、茨城県獣医師協会長などを務めた。1947年(昭和22年)茨城県会議員に選出され5期在任。県議会では、農地委員長、議会運営委員長、副議長、議長(2期)、行政機構調査特別委員長、農業基本問題調査特別委員長、原子力開発特別委員長を歴任した。その他、茨城県教育委員、県監査委員なども務めた。
京口 元吉(きょうぐち もときち、1897年(明治30年)2… 京口 元吉(きょうぐち もときち、1897年(明治30年)2月28日 - 1967年(昭和42年)9月3日)は、日本の日本史学者。 兵庫県姫路市出身。朝鮮で小学校教師ののち早稲田高等学院卒。1926年早稲田大学文学部史学科卒。学生時代は尾崎一雄らと同人誌をやっていた。1929年早大附属高等学院講師、1933年教授、1940年早稲田大学文学部助教授。この間明治文化研究会で活動。 警視庁から「反軍国的なマルキスト」「自由主義的」であると問題視され、1941年3月11日付で大学を引責辞職する。1946年2月1日付で文学部講師として復職する。同年5月から助教授となる。1947年教授、1967年定年退職。
森田 恵三郎(もりた けいざぶろう、1897年2月28日 -… 森田 恵三郎(もりた けいざぶろう、1897年2月28日 - 1972年5月21日)は、日本の経営者。日鉄鉱業社長を務めた。 群馬県出身。1919年に高文行政科に合格し、1920年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に三井物産に入社。1923年に八幡製鉄所、1934年に日本製鉄を経て、1946年6月に日鉄鉱業社長に就任し、1963年11月には会長に退いた。 1972年5月21日、心衰弱のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
浅原 健三(あさはら けんぞう、1897年〈明治30年〉2月… 浅原 健三(あさはら けんぞう、1897年〈明治30年〉2月28日 - 1967年〈昭和42年〉7月19日)は、大正・昭和時代の日本の労働運動家、政治家。 福岡県嘉穂郡穂波村(穂波町を経て現飯塚市)の小さな炭鉱主の家に生まれる。父の経営失敗により、炭鉱倒産後は渡り鉱夫となりクズ石炭・クズ鉄拾いなどをして生活を送った。 1919年、川瀬徳太郎らと日本労友会を設立し、翌1920年、八幡製鉄所の大労働争議を指導。争議自体は成功に終わったが、浅原自身は治安警察法違反で逮捕された。出獄後上京し、新聞の印刷工をしながら日本大学専門部法科の夜学に通い学んだ。無政府主義者の大杉栄としばしば会ってその弟子和田久太郎の影響も受けた。
大島 秀一(おおしま ひでいち、1897年〈明治30年〉2月… 大島 秀一(おおしま ひでいち、1897年〈明治30年〉2月28日 - 1965年〈昭和40年〉4月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(3期)、主婦と生活社創業者。 新潟県西蒲原郡峰岡村(巻町を経て現新潟市西蒲区)で生まれる。1922年(大正11年)信愛学院を卒業した。 1921年(大正10年)太陽印刷を設立。太陽印刷工業取締役社長に就任。1946年(昭和21年)太陽印刷を新元社に変更し『主婦と生活』を創刊。1948年(昭和23年)新元社を主婦と生活社に改名し社長に就任。1957年(昭和32年)河出書房(現河出書房新社)から『週刊女性』を引き継いだ。その他、主婦と生活文化学園長、日本出版販売取締役、日本出版協会会長などを務めた。
栗原 光沢吉(くりはら つやきち、1897年2月28日 - … 栗原 光沢吉(くりはら つやきち、1897年2月28日 - 1996年3月)は、日本の盲目の盲学校教師で、大正から昭和にかけての盲教育事情についての著作を多く著した。 1897年(明治30年)2月28日に、群馬県南橘村(現前橋市)で生まれた。両親は従兄妹どうしの結婚だったが、婚家の小姑が多かったりして、早期に離婚にいたる。その離婚時の条件として、光沢吉は最初の1年間を母親に養育されたが、その後は父親の家で育つ。1900年に群馬県北橘村の小学校教師栗原又一とハツ夫妻の養子になる。小学校入学前から夜にはよく見えない状態となり、小学生のころには、弱視がしだいに進む。高等小学校を卒業した後は、小さな字が読めないため旧制中学への進学もできず、職業訓練もできず、悶々と過ごす。
松田 弘俊(まつだ ひろとし、1896年〈明治29年〉2月2… 松田 弘俊(まつだ ひろとし、1896年〈明治29年〉2月28日 - 1972年〈昭和47年〉11月17日)は、昭和日本の実業家・政治家である。新潟県長岡市にあった電力会社北越水力電気や同社から派生した北越電化工業(現・北越メタル)の常務取締役を務めたのち、1947年(昭和22年)に初代の公選長岡市長に当選し2期8年在職した。 松田弘俊は、1896年(明治29年)2月28日、水落要松の次男として新潟県中魚沼郡下条村(現・十日町市)に生まれた。実家・水落家は江戸時代に代々庄屋を務めた家で、父・要松は下条村長や新潟県会議員にもなった。1914年(大正3年)に新潟県立加茂農林学校を卒業し、初め三菱合資会社新潟事務所に勤務した。
木内 高音(きうち たかね、1896年〈明治29年〉2月28… 木内 高音(きうち たかね、1896年〈明治29年〉2月28日 - 1951年〈昭和26年〉6月7日)は、大正から昭和時代にかけて活動した日本の編集者、児童文学者。赤い鳥社、中央公論社で編集者として優れた作品を世に送り出す一方、雑誌『赤い鳥』などで多くの童話を発表した。 1896年(明治29年)2月28日、広島県尾道市で生まれた。鉄道技師だった父の仕事の都合で、神戸、小樽と移り住み、10歳から父の故郷である長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市志賀)で過ごす。野沢中学校(現・長野県野沢北高等学校)卒業後、早稲田大学文学部英文科に進学する。大学在学中に、鈴木三重吉の作品と出会い、傾倒。三重吉の門を叩き、三重吉宅へ出入りするようになる。
今井 耕(いまい こう、1896年〈明治29年〉2月28日 … 今井 耕(いまい こう、1896年〈明治29年〉2月28日 - 1976年〈昭和51年〉1月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期、自由民主党)。 滋賀県蒲生郡岡山村(現近江八幡市)で、農業・今井吉太郎の長男として生まれた。長浜農学校卒。卒業後は同校教諭や栗太農学校教諭を務める。1946年の第22回衆議院議員総選挙で滋賀県から無所属で立候補して当選し、それから国民協同党に入った(その後、国民民主党→改進党→日本民主党→自由民主党に所属)。以来当選6回。第2次鳩山一郎内閣建設政務次官、衆議院決算委員長などを歴任した。1960年の第29回衆議院議員総選挙で落選、政界から引退した。 1966年4月の春の叙勲で勲二等に叙され、瑞宝章を受章する。
長谷川 春子(はせがわ はるこ、1895年(明治28年)2月… 長谷川 春子(はせがわ はるこ、1895年(明治28年)2月28日 - 1967年(昭和42年)5月7日)は、明治時代から昭和時代にかけての洋画家。文筆家としても活動し『戯画漫文』などの著作がある。またモダンガールと呼ばれた女性の一人とも、毒舌家としても知られ、エッセイに政治家から落語家、歌舞伎役者、柔道家の人物評、藤田嗣治とパブロ・ピカソの対照などをしたためた。 東京日本橋通油町(現・中央区)出身。父の長谷川深造は天保13年旧暦5月25日生まれ(1842年)で東京市参事会員、長谷川時雨は16歳離れた姉に当たる。25歳の時に姉の勧めにより画家を志し、鏑木清方に師事して日本画を学ぶが、梅原龍三郎から洋画も学んだ。
志熊 三郎(しくま さぶろう、1895年〈明治28年〉2月2… 志熊 三郎(しくま さぶろう、1895年〈明治28年〉2月28日 - 1978年〈昭和53年〉)は、日本の検察官、弁護士、公証人。 広島県広島市出身。志熊直人の息子。広島市段原町(現・比治山町)の比治山神社社掌・志熊三郎が1915年に亡くなり、当主の三郎がその後を継承する。 高等師範学校附属中学校を経て、1916年に第三高等学校大学予科を卒業、1919年に東京帝国大学法学部英法科を卒業。三菱造船に入る。 1922年、司法官試補に任ぜられる。1924年、検事に任ぜられる。1925年、釧路地方裁判所検事に補せられる。1929年、台湾総督府検察官に任ぜられ、台北地方法院検察官に補せられる。台中地方法院検察官、台南地方法院嘉義支部上席検察官、高雄地方法院検察官長を経て1943年、新竹地方院検察官。
石原 憲治(いしはら けんじ、1895年(明治28年)2月2… 石原 憲治(いしはら けんじ、1895年(明治28年)2月28日 - 1984年(昭和59年)7月11日)は、日本の都市計画学者、都市計画家、建築家。工学博士。 日本都市計画学会第五代会長を務めた都市計画学者である一方、民家建築研究家、農民建築研究のパイオニアでもあったが、同時に日本で1920年代に開始された都市美運動の立役者でもあった。さらに旧・東京都立大学工学部建築工学科教授で、1952年に東京都立大学建設工学科ではじめて都市計画の講義をした人物でもある。建築家としては旧東京市建築技師で退職後は石原建築設計事務所を主宰。新興建築家連盟主力メンバー名を連ねる。キリスト教徒で基督教世界平和同盟、愛隣会に属した。
森 友一(もり ともかつ、1893年〈明治26年〉2月28日… 森 友一(もり ともかつ、1893年〈明治26年〉2月28日 - 1959年〈昭和34年〉1月23日)は、日本海軍の軍人。操艦の名手といわれ、太平洋戦争において重巡洋艦・「羽黒」艦長として歴戦。のち第一水雷戦隊司令官を務めた海軍少将である。 石川県出身。父は第三高等学校や京都一中の校長を務めた森外三郎である。草鹿龍之介は石川師範学校附属小学校の同級生であった。京都一中を経て海軍兵学校42期を117名中62番で卒業した。森は水雷学校高等科学生を修了した水雷科専攻士官である。大尉で「有明」駆逐艦長、「葦」駆逐艦長に就任して以来、6艦の艦長、2隊の駆逐隊司令などを経て、「羽黒」艦長として太平洋戦争を迎えた。
棟居 俊一(むねすえ しゅんいち、1893年(明治26年)2… 棟居 俊一(むねすえ しゅんいち、1893年(明治26年)2月28日 – 1954年(昭和29年)1月3日)は、日本の拓務官僚。樺太庁長官。 山口県出身。斎藤吉五郎の三男として生まれ、棟居保の養子となった。1917年(大正6年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。大蔵属、司税官、亀戸税務署長、永代橋税務署長、税務事務官、横浜税関総務課長、門司税関監視部長・総務課長、神戸税関総務課長を務めた。その後、拓務省に転じ、書記官、殖産局第二課長、同第一課長、朝鮮総督府事務官、警務局保安課長を歴任。1936年(昭和11年)には朝鮮総督府専売局長に、1937年(昭和12年)には拓務省管理局長に、1938年(昭和13年)に樺太庁長官に就任した。
磯田 三郎(いそだ さぶろう、1892年〈明治25年〉2月2… 磯田 三郎(いそだ さぶろう、1892年〈明治25年〉2月28日 - 1979年〈昭和54年〉10月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 群馬県多野郡万場町生利(現・神流町)出身。農業・磯田芳十郎の息子として生まれる。日本中学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第17連隊付となる。1916年(大正5年)11月、陸軍砲工学校高等科を卒業。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)卒業し、野砲兵第17連隊中隊長に就任。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を経て、1925年(大正14年)5月、アメリカ大使館付武官補佐官に発令。
福田 平八郎(ふくだ へいはちろう、1892年2月28日 -… 福田 平八郎(ふくだ へいはちろう、1892年2月28日 - 1974年3月22日)は、大分県出身の日本画家。
中村 文夫(なかむら ふみお、1892年 <明治25年> 2… 中村 文夫(なかむら ふみお、1892年 <明治25年> 2月28日 - 1982年 <昭和57年> 9月20日)は、日本の経営者。日本板硝子社長を務めた。位階は従四位。 兵庫県出身。1916年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に住友総本店に入社。1921年に日本板硝子に転じ、1933年に取締役に就任し、1942年に常務を経て、1943年12月に社長に就任。1968年11月に相談役に退いた。 1959年に藍綬褒章を受章し、1965年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1982年9月20日老衰のために死去。90歳没。死没日付をもって従四位に叙され、勲三等旭日中綬章を追贈された。
菅 晴次(かん はるじ、1891年(明治24年)2月28日 … 菅 晴次(かん はるじ、1891年(明治24年)2月28日 - 1985年(昭和60年)4月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓は石塚。評論家の菅孝行は息子。 滋賀県の没落農家に生まれる。滋賀県立膳所中学校を経て、1913年(大正2年)5月26日、陸軍士官学校(25期)を卒業。士官学校の教官だった菅孝の養子となり石塚姓から改姓する。同年12月25日、陸軍砲兵少尉に任官。1916年(大正5年)11月30日、陸軍砲工学校高等科を首席で卒業し、東京帝国大学工学部造兵学科に派遣された。1920年代後半からフランスの軍需工場に5年派遣されてフランス語を習得する。 1936年(昭和11年)8月1日陸軍砲兵大佐に昇格すると共に陸軍造兵廠東京砲兵工廠精機製造所長に就任、同年12月1日陸軍省兵器局鉄砲課長となり、1939年(昭和14年)3月9日陸軍少将・陸軍省兵器局長兼大本営野戦兵器長官に就任した。
奥瀬 英三(おくせ えいぞう、1891年2月28日 - 19… 奥瀬 英三(おくせ えいぞう、1891年2月28日 - 1975年11月23日)は、三重県出身の洋画家。浦和画家の一人。示現会代表。瑞宝章受章者。 三重県上野村(現:伊賀市)に生まれ、画家を目指して上京。太平洋美術学校の教授になった。帝展にて連続して特選を受賞し、1929年には審査員となった。1931年には埼玉県浦和市に移住し、終生居住したことから浦和画家として知られている。戦後は山岳風景画を多く残している。新光洋画会や槐樹社、示現会の結成者の一人。蕨画塾講師。勲四等瑞宝章のほか埼玉新聞社から埼玉文化賞が贈られている。
森山 武市郎(もりやま たけいちろう、1891年(明治24年… 森山 武市郎(もりやま たけいちろう、1891年(明治24年)2月28日 - 1948年(昭和23年)2月29日)は、日本の検察官。 福岡県三潴郡大善寺村(現・久留米市)出身。1912年、明治大学法学部卒業。1916年、判事検事登用試験に合格して司法官試補となり、1918年に東京地方裁判所判事となる。1920年に退職してヨーロッパに留学し、スイスのベルン大学、ドイツのハイデルベルク大学で民法、商法、労働法を研究し、1923年帰国。検事に任じられ、司法省刑事局・行刑局に勤務。1932年法学博士の学位を取得。また、明治大学政経学部教授に就任。 検察官時代は、東京控訴院検事、宮城控訴院検事局検事長、大審院判事などを歴任。
内山 岩太郎(うちやま いわたろう、1890年〈明治23年〉… 内山 岩太郎(うちやま いわたろう、1890年〈明治23年〉2月28日 - 1971年〈昭和46年〉11月19日)は、日本の外交官・政治家。神奈川県知事(官選、公選第1・2・3・4・5代)、テレビ神奈川初代社長。位階は正三位。日本の国際連合加盟に貢献をした人物として知られる。元丸紅ブラジル会社副社長の内山勇は三男。 1890年(明治23年)、群馬県前橋市天川原町に、父・内山岩吉、母・ちか子の三男として生まれる。1902年(明治35年)、群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学。1905年(明治38年)に校長排斥の同盟休校を起こし放校となり、正則英語学校を経て立教学院に編入、1907年(明治40年)卒業。
2代 古荘 健次郎(古莊、ふるしょう けんじろう、1890年… 2代 古荘 健次郎(古莊、ふるしょう けんじろう、1890年(明治23年)2月28日 - 1948年(昭和23年)2月6日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・清七。 熊本県熊本市古川町(現:熊本市中央区古川町)で、繊維問屋・初代古荘健次郎の二男として生まれる。1909年(明治42年)熊本県立商業学校(現熊本県立熊本商業高等学校)を卒業した。1926年(大正15年)家督を相続し2代健次郎を襲名した。 1917年(大正6年)金貨メリヤス(大阪市淀川区)を買収し、1918年(大正7年)5月、金貨莫大小 (株) を設立して社長に就任。1933年(昭和8年)12月、持ち株会社・古荘合資会社を設立して代表社員となる。
岡野 豪夫(おかの たけお、1890年2月28日 - 196… 岡野 豪夫(おかの たけお、1890年2月28日 - 1964年8月22日)は、日本の経営者、銀行家。駿河銀行頭取を務めた。静岡県出身。 1912年に慶應義塾理財科を卒業し、後に駿河銀行に入行。1932年に取締役に就任し、1942年に副頭取を経て、1957年11月には頭取に就任した。 1964年8月22日心筋梗塞のために在任中に死去。74歳没。
矢崎 邦次(やさき くにじ、1890年 <明治23年> 2月… 矢崎 邦次(やさき くにじ、1890年 <明治23年> 2月28日 - 1977年 <昭和52年> 1月23日)は、日本の経営者。長野県伊那市出身。位階は正五位。 1916年に東京高等商業学校を卒業し、同年に第一銀行に入行。1941年7月に取締役に就任し、1945年3月に澁澤倉庫専務を経て、1949年5月には社長に就任。1956年5月から1958年5月までに会長を務めた。 1971年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1977年心臓発作のために死去。87歳没。死没日付をもって正五位に叙された。