寺本 広作(てらもと こうさく、1907年〈明治40年〉8月… 寺本 広作(てらもと こうさく、1907年〈明治40年〉8月29日 - 1992年〈平成4年〉4月7日)は日本の政治家、官僚。熊本県知事(公選第4-6代)、参議院議員(2期)、労働事務次官。 熊本県宇土郡不知火町(現宇城市)出身。旧制熊本県立宇土中学校(現熊本県立宇土中学校・高等学校)、旧制第五高等学校を経て、1932年に東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入省。高知県属。内務大臣(兼任)東條英機の秘書官や、情報局の新聞課長などを務め、終戦後は1950年8月1日に労働事務次官に就任した。次官時代の1952年2月、女子及び年少者の人身売買に関する件で衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。情報局時代に上司だった緒方竹虎との交流もあり、1953年に官僚を辞して改進党より参議院議員選挙に出馬、熊本県地方区で初当選。
相沢 巌夫(あいざわ いわお、1906年8月29日 - 19… 相沢 巌夫(あいざわ いわお、1906年8月29日 - 1945年10月2日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。陸軍司政官。 石川県金沢市生まれ。金沢の第四高等学校に入学。四高在学中の192年11月3日、神宮競技大会の100m走で10秒8を出し、当時の日本記録に並んだ。 京都帝国大学法学部に進む。1927年10月9日、近畿選手権の100m走で10秒7を記録し、日本記録を更新。日本陸上競技選手権大会では1927年に200m走で日本記録(21秒9)に並び優勝。 1928年5月中旬の日本陸上競技選手権大会では200mで21秒6の日本記録を更新し2連覇、100mでも優勝した。5月下旬に開催された第1回日本学生陸上競技対校選手権大会(インカレ)で100m、200m、4x400mリレーで優勝した。
長谷川 正彦(はせがわ まさひこ、1906年(明治39年)8… 長谷川 正彦(はせがわ まさひこ、1906年(明治39年)8月29日 - 没年不詳)は、日本の政治家。大阪府松原市長(2期)。 彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)卒業。柏原製油に入り、常務となったが退社。その後、河内信用組合設立委員会委員長を経て、専務理事となり、大伸金属顧問、同会長となった。このほか松原市公安委員長、大阪府公安委員会連合協議会会長、松原市教育委員長などを歴任した。 1967年(昭和42年)松原市長に当選。市長就任後は急増する市の人口に対応するため、道路や教育施設の整備、生活環境の改善、社会教育と福利厚生の充実など次々と施策を遂行した。在任中に清掃工場や老人福祉センター、青少年会館の開設、ゴミの定時収集の開始などがあり、市勢発展に力を尽くした。
島 茂雄(しま しげお、1906年8月29日-1993年12… 島 茂雄(しま しげお、1906年8月29日-1993年12月4日)は日本のトランジスタ技術者。日本カーバイド株式会社 元常務取締役。 鉄道技術者で新幹線の開発に携わった島安次郎の次男。元日本国有鉄道(国鉄)技師長の島秀雄は兄。一般社団法人FEA農研 代表理事である糸永季生を曾孫にもつ。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
村社 講平(むらこそ こうへい、1905年8月29日 - 1… 村社 講平(むらこそ こうへい、1905年8月29日 - 1998年7月8日)は、日本の陸上競技選手、指導者、毎日新聞記者。ベルリン五輪代表。 宮崎県宮崎市出身。小柄ながらも力強い走法で選手として活躍、引退後も毎日マラソンの設立や後進の育成など陸上界の発展に尽力した。 旧制宮崎中学校テニス部時代にロードレース大会で優勝したことをきっかけに長距離走を本格的に始めた。 1925年(大正14年)中学卒業後、都城歩兵第23連隊に入隊。1927年(昭和2年)に除隊し宮崎県立図書館に勤務。仕事のかたわら陸上競技を続けているうちに素質を認められ、1932年、27歳のときに中央大学法学部法律学科に進学。 中央大学在学中の1936年ベルリンオリンピックに日本代表として出場。
庄司 光(しょうじ ひかる、1905年8月29日 - 199… 庄司 光(しょうじ ひかる、1905年8月29日 - 1994年11月23日)は、日本の環境衛生学者。専門は、環境衛生学・公衆衛生学。学位は、医学博士(京都帝国大学・1942年)。京都大学名誉教授。1975年勲三等旭日中綬章受章。京都府生まれ。 厚生省生活環境審議会委員、日本学術会議・公害問題特別委員会委員、日本学術会議・環境問題特別委員会委員、大阪府公害審査会委員、大阪府総合計画審議会委員、大阪府公害対策審議会委員、京都府公害対策審議会委員、京都市公害対策審議会会長、神戸市公害対策審議会委員、神戸市環境影響評価専門委員会会長、大阪市公害対策審議会委員などを歴任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
田鶴浜 弘(たづはま ひろし、1905年8月29日 - 19… 田鶴浜 弘(たづはま ひろし、1905年8月29日 - 1991年8月15日)は、日本のスポーツライター、プロレス評論家。 日本ボディビル協会の副会長も務めた。 早稲田大学卒業。報知新聞記者を皮切りにスポーツ記者として広く活躍し、とりわけプロレスでは「プロレス評論家の草分け的存在」と称される。日本初のプロレス専門誌『月刊プロレス』の創刊にも携わった。 1972年の全日本プロレス創立から1985年頃まで、日本テレビの『全日本プロレス中継』で解説者を務める。なおメインの解説者は田鶴浜より28歳若い山田隆で、田鶴浜は二番手のポジションだった。1975年に全日本で行われたオープン選手権では準備委員会の委員を務めた。
福山 郷太郎(ふくやま ごうたろう、1904年8月29日 -… 福山 郷太郎(ふくやま ごうたろう、1904年8月29日 - 1982年5月27日)は日本の政治家。宮崎県串間市長(第2代、2期)、串間市議会議長などを歴任。 宮崎県出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)にて学び、小山長規と同級で親しかった。1932年旧制第五高等学校(現熊本大学)文科卒業。1935年九州帝国大学法文学部法科(現九州大学法学部)政治専攻卒業。満洲綿花協会勤務を経て、1936年4月から1937年12月まで満洲国産業部農政課嘱託。 1959年4月串間市議会議員に当選し、1962年5月まで務める。そのうち1960年5月23日から1962年5月30日は、串間市議会議長の任にあった。
野田 稲吉(のだ とうきち、明治36年(1903年)8月29… 野田 稲吉(のだ とうきち、明治36年(1903年)8月29日 - 平成9年(1997年)9月29日)は、日本の応用化学者。名古屋大学名誉教授、三重大学名誉教授(元学長)。 山梨県出身。1927年東京帝国大学応用化学科卒業。1929年東京工業大学講師、1930年助教授を経て、1941年名古屋帝国大学教授、1961年年名古屋大学工学部長、1967年三重大学学長。1953年年フルブライト・プログラム交換教授として渡米した。天然雲母の不足から合成雲母の研究と試作をおこない、透明大型の結晶の製造に成功し、その特性を解明した。1973年勲二等旭日重光章受章。 妻のうめは甲野棐の二女。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
森田 優三(もりた ゆうぞう、1901年8月29日 - 19… 森田 優三(もりた ゆうぞう、1901年8月29日 - 1994年2月7日)は、日本の経済学者。一橋大学教授・内閣統計局長・日本統計学会会長を歴任。1974年勲一等瑞宝章受章。 指導学生に溝口敏行(一橋大学名誉教授)、宮川公男(一橋大学名誉教授)など。
牛島 憲之(うしじま のりゆき、1900年8月29日 - 1… 牛島 憲之(うしじま のりゆき、1900年8月29日 - 1997年9月16日)は、洋画家。熊本県熊本市二本木町生まれ。 世田谷区在住であったが、多摩川近郊、特に府中によくスケッチに出かけた縁から、東京都府中市の府中市美術館に遺族が寄贈した作品100点が収蔵されている。 風景画の作品が多く、柔らかな線と穏やかな色彩を特徴とする。牛島の描くモティーフの種類はある程度限定され、同じ風景が数多く繰り返し描かれる。 熊本の裕福な地主の息子に生まれ、東京芸大の講師になるまで勤め人になったことが無かったという。日展に入選後も絵を売らず、また華やかな場に参列することも少なく、画家とは名誉ではなく描き続けることであるという立場を貫いた。
田口 寛(たぐち ゆたか、1900年8月29日 - 1979… 田口 寛(たぐち ゆたか、1900年8月29日 - 1979年)は、昭和時代後期の日本で活動した作曲家、教育者。 1900年(明治33年)、岡山県に生まれる。1928年(昭和3年)に東京音楽学校甲種師範科を卒業した後、1931年(昭和6年)から1949年(昭和24年)まで兵庫県の尼崎市立高等女学校(現在の尼崎市立尼崎高等学校)で音楽教諭を務める。学制改革に伴い兵庫県立尼崎高等学校へ転籍し、同校の校歌を作曲した。 1952年(昭和27年)11月、香川大学学芸学部(のち教育学部)教授に着任。在職中は1954年(昭和29年)1月に制定された「香川県民歌」並びに、岡山・香川両県内の小中学校の校歌を作曲する。
成田 米蔵(なりた よねぞう、1900年8月29日 - 19… 成田 米蔵(なりた よねぞう、1900年8月29日 - 1975年4月4日)は日本の実業家、教育者。 名古屋市出身。1923年東京商科大学(現一橋大学)卒業する。同年に愛知銀行へ入行する。1941年に東海銀行へ勤務する。1946年に東海銀行監査役となる。その後、1956年王子製鉄取締役会長、東京化工取締役、東海製線代表取締役、東京溶接棒取締役、大同不動産取締役、名古屋臨海鉄道取締役、大同製鋼取締役副社長などを歴任する。1969年-1971年には、大同工業大学(現大同大学)学長を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岡 俊二(おか しゅんじ、1899年(明治32年)8月29日… 岡 俊二(おか しゅんじ、1899年(明治32年)8月29日 - 1974年(昭和49年)10月22日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。 医師・岡玄卿の長男として生まれる。父の死去に伴い、1925年(大正14年)5月1日、男爵を襲爵した。 1925年、東京帝国大学経済学部を卒業した。同年、第一生命保険に入社し、その後、同社秘書役を務めた。 1945年(昭和20年)10月27日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に属して活動し、1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。
小松 直治(こまつ なおじ、1897年〈明治30年〉8月29… 小松 直治(こまつ なおじ、1897年〈明治30年〉8月29日 - 1985年〈昭和60年〉)は、日本の政治家。長野県諏訪市長。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)で、小松直助、ゑひ の長男として生まれた。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1919年(大正8年)東京高等商業学校専攻科を卒業した。 1928年(昭和3年)上諏訪町会議員(3期)に選出され、1929年(昭和4年)同町名誉職助役(3期)に就任。1939年(昭和14年)長野県会議員(4期)となり、1947年(昭和22年)から昭和24年(1949年)までと、1951年(昭和26年)から同28年(1953年)まで副議長を務めた。 1955年(昭和30年)に諏訪市長選挙に当選し、1963年(昭和38年)4月まで2期務めた。
桑原 幹根(くわはら みきね、1895年 <明治28年> 8… 桑原 幹根(くわはら みきね、1895年 <明治28年> 8月29日 - 1991年 <平成3年> 4月11日)は、日本の政治家、内務官僚。1946年に官選愛知県知事に任じられ、公職追放された後、公選で当選し、同知事を6期24年にわたって務めた。1987年愛知県名誉県民。勲一等旭日大綬章受章。位階は正三位。 山梨県南都留郡明見村(後に明見町を経て、現・富士吉田市)で養蚕農家の七男として生まれた。兄は大審院判事を務めた桑原龍興。山梨県第一中学校都留分校(現・山梨県立都留高等学校)、旧制第一高等学校から東京帝國大学(現・東京大学)法学部を経て、内務省に入省。1935年、福島県書記官・経済部長、同年に内閣東北振興事務局書記官に就任。
依光 好秋(よりみつ よしあき、1894年8月29日 - 1… 依光 好秋(よりみつ よしあき、1894年8月29日 - 1968年1月10日)は、日本のジャーナリスト・政治家。衆議院議員総選挙に通算3回当選した。 依光重義の三男として高知県幡多郡奥内村(現・大月町)泊浦に生まれた。芳の沢小学校を卒業した後弘見小学校高等科に入学、同校卒業後は高知県立第三中学校(現・高知県立中村中学校・高等学校)に入学した。県立三中の4年次を修了後専修大学政治経済科に入学し、同大学卒業後読売新聞社に入社し、のちに同社政治部長に就任した。1927年12月に時の内閣総理大臣・田中義一の内閣書記官長だった鳩山一郎らに認められ、朝鮮総督・山梨半造の秘書官に就任。だが山梨の側近らと意見が合わず秘書官を辞して帰郷。
野元 為輝(のもと ためき、1894年(明治27年)8月29… 野元 為輝(のもと ためき、1894年(明治27年)8月29日 - 1987年(昭和62年)12月19日)は、日本の海軍軍人。第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に空母・「瑞鶴」艦長として参戦した。最終階級は海軍少将。
永野 芳夫(ながの よしお、1894年8月29日 - 196… 永野 芳夫(ながの よしお、1894年8月29日 - 1967年12月22日)は、日本の哲学・教育学者、広島大学名誉教授。 大分県生まれ。東京帝国大学哲学科卒。大正大学教授、広島大学教授、1950年「デューイ教育学の基本諸原理」で広島大文学博士。1958年定年退官、玉川大学教授。1957年日本デューイ学会初代会長。笹山三次の名で蘭の研究もおこない、日本蘭協会会長。
本名 文任(ほんな ふみのり、1891年(明治24年)8月2… 本名 文任(ほんな ふみのり、1891年(明治24年)8月29日 - 1968年(昭和43年)4月20日)は、日本の医学者、防衛官僚である。京城帝国大学教授、警察予備隊本部医務局長、防衛庁衛生監を歴任。「Ueber die Noma」で東京帝大医学博士、日本大腸肛門病学会会長。日本の膿胸手術における先駆者である。 福島県南会津郡大宮村(現・南会津町)出身。会津中学、一高を経て、東京帝国大学を卒業。医学部首席の井深健次は一高、大学とも同級生であった。東大第二外科局員、東京女子医専講師を経て台湾入りし、台湾総督府医院外科医長兼台北医学専門学校教授、日本大学専門部医学科教授を歴任。この間フランス留学を経験している。
田中 亮一(たなか りょういち、1890年(明治23年)8月… 田中 亮一(たなか りょういち、1890年(明治23年)8月29日 - 1945年(昭和20年)12月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)、佐賀県神埼郡千歳村(のち千代田村→千代田町、現・神埼市)長。 佐賀県出身。1915年早稲田大学政治経済科卒。卒業後は佐賀県に戻り農業を営む傍ら千歳村長、同農会長、神埼郡会議員、同農会長、佐賀県会議員、同参事会員、肥前麺業(株)社長、肥筑軌道取締役などを経て、1928年の第16回衆議院議員総選挙で立憲政友会公認で立候補して初当選。1930年の第17回衆議院議員総選挙で落選したが、1932年の第18回衆議院議員総選挙で復帰して以来4回連続当選した。1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では非推薦で立候補して当選した。
大内 兵衛(おおうち ひょうえ、1888年〈明治21年〉8月… 大内 兵衛(おおうち ひょうえ、1888年〈明治21年〉8月29日 - 1980年〈昭和55年〉5月1日)は、大正・昭和期の日本のマルクス経済学者。法政大学総長(第8代)、社会保障制度審議会会長(初代)、統計審議会会長(初代)などを歴任。 東京大学経済学部が特に優れた卒業論文に贈る大内兵衛賞の由来にもなっている。 兵庫県三原郡高田村(町村制後:松帆村、現:南あわじ市松帆脇田)出身。旧制洲本中学校(当時の在校生に川路柳虹、高木市之助がいた)、第五高等学校を経て東京帝国大学法科大学経済学科(現:経済学部)を首席で卒業(1913年に銀時計受領)。 東京帝大卒業後は大蔵省に書記官として入省(大臣官房銀行課〈後:銀行局、現:金融庁監督局〉配属)。
三川 軍一(みかわ ぐんいち、1888年〈明治21年〉8月2… 三川 軍一(みかわ ぐんいち、1888年〈明治21年〉8月29日 - 1981年〈昭和56年〉2月25日)は、日本の海軍軍人。海兵38期・海大22期。最終階級は海軍中将。 広島県佐伯郡高田村(能美町を経て現:江田島市)で生まれる。広島一中を経て、1910年(明治43年)7月、海軍兵学校38期を3位/149名の好成績で卒業。1912年(大正元年)12月、戦艦「金剛」乗組。1913年(大正2年)7月、巡洋艦「宗谷」乗組。同年12月、海軍中尉に進級、水雷学校普通科学生。1914年(大正3年)5月、砲術学校普通科学生。12月、巡洋艦「阿蘇」乗組。1916年(大正5年)2月、駆逐艦「杉」乗組。 1916年、海軍大尉に進級。
永井 照雄(ながい てるお、1888年(明治21年)8月29… 永井 照雄(ながい てるお、1888年(明治21年)8月29日 - 1942年(昭和17年)1月4日)は、朝鮮総督府官僚。 広島県豊田郡吉名村(現在の竹原市)出身。1917年(大正6年)に鹿児島高等農林学校を卒業し、朝鮮総督府営林廠に勤務した。1923年(大正12年)、京都帝国大学経済学部を卒業し、朝鮮総督府属となる。1925年(大正14年)に高等試験行政科に合格。咸鏡北道学務課長、同視学官、慶尚南道地方課長、同産業課長などを歴任した。1932年(昭和7年)、木浦府尹に就任し、1933年(昭和8年)に仁川府尹に転じた。在任中の1941年(昭和16年)12月20日に仁川神社で行われた戦捷奉告祭に風邪で40度の高熱がありながら参加、帰宅後に急性肺炎を併発、1942年(昭和17年)1月4日に死去、53歳。
勝田 信(かつた しん、1888年 <明治21年> 8月29… 勝田 信(かつた しん、1888年 <明治21年> 8月29日 - 1989年 <平成元年> 9月16日)は、日本の経営者、銀行家。鹿児島銀行頭取を務めた。位階は従五位。 東京都出身。1911年に東京高等商業学校専攻部銀行科を卒業し、同年に日本銀行に入行。1944年2月に鹿児島興業銀行(のちの鹿児島銀行)頭取に就任し、1960年5月には相談役に退いた。鹿児島商工会議所会頭も務めた。 1956年5月に黄綬褒章を受章し、1965年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1989年9月16日、心不全のために死去。101歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
中村 順平(なかむら じゅんぺい、1887年8月29日 - … 中村 順平(なかむら じゅんぺい、1887年8月29日 - 1977年5月24日)は日本の建築家。建築教育者。 大阪府大阪市生まれ。三男二女の末子。旧制天王寺中学(現・大阪府立天王寺高等学校)に進学。同校を経て、1910年に名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)を卒業。曾禰達蔵・中條精一郎の曾禰中條建築事務所に入所する。1910年12月から大阪高槻工兵第四大隊第一中隊入営。1914年には東京大正博覧会第一会場の設計を委ねられ、また1919年には一ツ橋如水会館の設計を担当。1920年に、岩崎財団の助成をうけ、フランスに渡る。1921年、エコール・デ・ボザールに、33歳にして留学。クロモール&エクスペールのアトリエに所属。
李 範昇(イ・ボムスン、朝鮮語: 이범승、1887年8月29… 李 範昇(イ・ボムスン、朝鮮語: 이범승、1887年8月29日 - 1976年9月3日)は、日本統治時代の朝鮮の公務員、大韓民国の警察署長、弁護士、政治家、実業家。京城図書館(現・鍾路図書館(朝鮮語版))の設立者であり、初代楊州警察署長、初代京城府尹、第2・5代韓国国会議員(第5代は参議員)を歴任した。 同じく第2代国会議員を務めた李肯鍾は甥。 忠清南道燕岐郡(現・世宗特別自治市)または漢城府出身。京都帝国大学(現・京都大学)法科卒、同大学院で奨学生として法制史の研究を行って修了。1921年に京城図書館(現・鍾路図書館(朝鮮語版))を設立し、1923年から民立大学期成準備会発起人、普成専門学校(現・高麗大学校)講師を務め、その後は親日団体の同民会で活動した。
土居 光知(どい こうち、1886年8月29日 - 1979… 土居 光知(どい こうち、1886年8月29日 - 1979年11月26日)は、日本の英文学者、古典学者。 1886年(明治19年)、高知県長岡郡十市村(現・南国市)生まれ。第三高等学校を経て、1910年(明治43年)東京帝国大学英文科卒業。イギリス、フランス、イタリアに留学。 立正大学教員、東京女子大学教授、東京高等師範学校教授を経て、1924年(大正13年)に東北帝国大学教授となった。1948年(昭和23年)、東北大学を退職。その後は津田塾大学教授をつとめた。日本英文学会会長。1949年(昭和24年)に日本学士院会員に選出された。 1962年(昭和37年)1月8日、皇居での講書始の儀で「英国詩人ラーフ・ホジソンの鳥の詩について」の題で進講を行った。
三好 英之(みよし ひでゆき、旧名栄次郎、明治18年(188… 三好 英之(みよし ひでゆき、旧名栄次郎、明治18年(1885年)8月29日 - 昭和31年(1956年)2月14日)は、日本の実業家、政治家。元衆議院議員、参議院議員。元国務大臣北海道開発庁長官。鳥取県米子市名誉市民。三好家第10代当主。鳥取県平民。 大正13年(1924年)衆議院議員に初当選し、戦前に6回の当選を重ねた。地元振興の貢献としては、山陰鉄道開通記念の博覧会に尽力したのをはじめ、山陰実業銀行を設立、戦後はラジオ山陰(現山陰放送)の開局に携わるなど調整能力、行動力は抜群であった。家系は清和源氏、小笠原氏の支流・三好氏。 米子道笑町の商家に生まれる。三好常次郎の次男。 県立第二中学校(現米子東高校)、東京の京華中学を経て明治39年(1906年)に早稲田大学政治経済科を卒業。
海野 普吉(うんの しんきち、1885年(明治18年)8月2… 海野 普吉(うんの しんきち、1885年(明治18年)8月29日 - 1968年(昭和43年)7月6日)は、昭和戦前・戦後の社会派、自由人権派の弁護士。 多くの思想裁判・政治裁判の弁護をする。戦後は社会運動も行う。戦後初の最高裁判事も受けず、親友の片山哲内閣の法務大臣も受けず、一貫して在野の弁護士であることを貫く。
山井 基清(やまのい もときよ、1885年8月29日 - 1… 山井 基清(やまのい もときよ、1885年8月29日 - 1970年12月8日)は、日本の雅楽師、ヴァイオリニスト、ヴィオリスト、作曲家、音楽教師。 山井基万(もとかず)の三男として生まれる。1898年より宮内省式部職雅楽部楽生となり、式部職雇音楽教師ヴィルヘルム・ドゥブラヴチッチ(1901年に来日)、安藤幸、アウグスト・ユンケルにヴァイオリンを師事する。楽生として左舞、笛、箏、ヴァイオリン、ヴィオラを担当した。1908年に東京音楽学校器楽科を卒業し、同年に式部職楽部楽手、1909年に楽師となる。1922年に長男の山井清雄(すみお)が生まれる。1922年に芝忠重とともにドイツに留学して1924年に帰国。
中谷 秀(なかたに しゅう、1885年(明治18年)8月29… 中谷 秀(なかたに しゅう、1885年(明治18年)8月29日 - 1973年(昭和48年)9月11日)は、日本の内務官僚。官選鳥取県知事。 島根県那賀郡渡津村(江津町を経て現江津市)出身。中谷初十郎の四男として生まれる。1913年(大正2年)に明治大学法科を卒業し、高等文官試験に合格。愛媛県属、愛媛県理事官、山口県理事官、長崎県理事官、奈良県警察部長、富山県警察部長、石川県内務部長、岩手県内務部長、愛知県内務部長などを歴任。1934年(昭和9年)に第28代鳥取県知事に就任し、室戸台風復興に尽力した。1936年(昭和11年)、退官。退官後は出雲電気株式会社専務、同副社長に就任した。のち全国購買販売組合連合会専務理事、農村科学研究所所長、日本澱粉株式会社監査役、東洋組網工業株式会社顧問、大隈鉄工所株式会社顧問を務めた。
永野 清(ながの きよし、1884年〈明治17年〉8月29日… 永野 清(ながの きよし、1884年〈明治17年〉8月29日 - 1935年〈昭和10年〉9月8日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚。官選大分県知事、別府市長。 大分県西国東郡玉津村(現豊後高田市)出身。永野俊吉の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、朝鮮総督府警部に任官。 以後、朝鮮総督府試補、同警視、鍾路警察署長、朝鮮総督府事務官・咸鏡南道第三部長、同府税関長・仁川税関在勤、江原道内務部長などを歴任し、1924年5月に休職。1927年5月、鹿児島県書記官・警察部長に就任。熊本県書記官・警察部長に転じ、1929年7月に休職。
内藤 伝禄(ないとう でんろく、1883年8月29日 - 1… 内藤 伝禄(ないとう でんろく、1883年8月29日 - 1952年11月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1904年、愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)卒。のちに経済学を専攻する。内海町(現・南知多町)会議員、愛知県会議員、知多銀行重役、愛知県有恒会長、知多郡信用購買販売組合連合会会長、尾三農工銀行、愛知実業銀行各頭取、名古屋商業会議所議員、中央製糸、東亜キネマ各(株)取締役となる。 1918年の衆議院愛知県郡部の補欠選挙において憲政会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1920年の第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1952年死去。
伊東 二郎丸(いとう じろまる、1883年(明治16年)8月… 伊東 二郎丸(いとう じろまる、1883年(明治16年)8月29日 - 1969年(昭和44年)11月2日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 東京府で海軍中将・伊東祐麿の二男として生まれた。父の死去に伴い、1906年(明治39年)3月14日、子爵を襲爵した。 学習院高等学科を経て、1910年(明治43年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1912年、日本製鋼所に入社し室蘭に転居。その後、イギリスに2年間留学し、帰国後、高砂商工銀行取締役に就任。電気化学工業取締役なども務めた。 水野直子爵の導きで政界を志し、東京帝大在学中に尚友会に入会。1923年(大正12年)8月11日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属。
武者小路 公共(むしゃこうじ きんとも、1882年(明治15… 武者小路 公共(むしゃこうじ きんとも、1882年(明治15年)8月29日 - 1962年(昭和37年)4月21日)は、日本の華族、外交官、武者小路家第10代当主。爵位は子爵。位階は正二位。作家・武者小路実篤の兄。 子爵・武者小路実世の三男として東京府東京市麹町区(のち東京都千代田区)に生まれた。1887年(明治20年)に父・実世が肺結核で死去したため、武者小路家の家督と子爵位を継承した。 学習院高等科を経て、1907年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、外務省入省。上海総領事館勤務をふりだしにルーマニア兼ユーゴスラビア、デンマーク兼スウェーデンの各公使に就任。さらに1933年(昭和8年)に駐トルコ大使に就任。
秋田 清(あきた きよし、1881年〈明治14年〉8月29日… 秋田 清(あきた きよし、1881年〈明治14年〉8月29日 - 1944年〈昭和19年〉12月3日)は、日本の政治家。第30代衆議院議長、厚生大臣、拓務大臣を務めた。 徳島県出身。旧制徳島中学(現:徳島県立城南高等学校)、日本法律学校(現:日本大学)、東京法学院(現:中央大学)卒業。高知地方裁判所の判事、二六新報の編集および社長職を経て政界入り。1932年(昭和7年)、衆議院議長に就任。1937年(昭和14年)、内閣参議に就任。1939年(昭和14年)、阿部内閣で厚生大臣に就任。1940年(昭和15年)、第2次近衛内閣で拓務大臣に就任。1944年(昭和19年)12月3日死去。
山下 新太郎(やました しんたろう、1881年〈明治14年〉… 山下 新太郎(やました しんたろう、1881年〈明治14年〉8月29日 - 1966年〈昭和41年〉4月11日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。二科会および一水会創立者のひとり。 画風はオーギュスト・ルノワールの影響を受けた美しい色彩が特徴である。また、パリ滞在中に表具師の家に生まれたことから敦煌から招来された仏画の修理を手がけたのを切っ掛けに、油彩画の修復や保存も学び、この分野の日本に於ける草分けとなった。同時に留学中から額縁を蒐集し、自作の額装にも配慮を欠かさなかった。 1881年(明治14年)東京・根岸の表具師の長男として生まれる。 幼少時から絵画に親しみ、また特に天神像を好んだことで実父と懇意にしていた狩野芳崖に天神図を依頼、その図画を手本として過ごした。
片山 孤村(かたやま こそん、1879年〈明治12年〉8月2… 片山 孤村(かたやま こそん、1879年〈明治12年〉8月29日 - 1933年〈昭和8年〉12月18日)は、明治から昭和前期にかけての日本のドイツ文学者・評論家。本名は正雄(まさお)。 1897年、山口県佐波郡八坂村(現:山口市)で生まれた。山口高等学校在学中に登張竹風の影響を受けてドイツ文学を志し、東京帝国大学文科大学独文科に進んだ。1902年に卒業。 卒業後は、第七高等学校造士館教授などを務めた。1905年に「神経質の文学」を発表して評論家として注目を集め、1907年にはオットー・ワイニンゲルの『男女と天才』の翻訳、1908年に『最近獨逸文学の研究』を著してドイツ文学の紹介にも努めた。1909年から1913年にかけてドイツに留学し、帰国後はドイツ語辞書の編纂に専念した。
井上 達三(いのうえ たつぞう、1877年〈明治10年〉8月… 井上 達三(いのうえ たつぞう、1877年〈明治10年〉8月29日 - 1950年〈昭和25年〉7月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 井上成美海軍大将の実兄。妻は荒城二郎海軍中将(海兵29期、米内光政海軍大将とクラスメートかつ親友)の妹。井上達三の家族関係については、井上成美#親族を参照。 本記事の出典は、特記ない限り、井上成美伝記刊行会編著 『井上成美』 井上成美伝記刊行会、1982年(昭和57年)、17-19頁。 宮城県仙台に生まれる。小学校時代は山梨勝之進海軍大将と同級。 東北学院を経て、陸軍士官学校に進んだ。士官候補生(士候)11期、1899年(明治32年)11月卒業。陸軍砲兵少尉に任官。
依仁親王妃 周子(よりひとしんのうひ かねこ、1876年〈明… 依仁親王妃 周子(よりひとしんのうひ かねこ、1876年〈明治9年〉8月29日 - 1955年〈昭和30年〉3月4日)は、日本の旧皇族。東伏見宮依仁親王の妃。岩倉具定公爵令嬢。母は澤為量子爵令嬢・久子。旧名は、岩倉 周子(いわくら かねこ)。皇籍離脱前の身位は親王妃で、皇室典範における敬称は殿下。皇籍離脱後の名は、「東伏見 周子(ひがしふしみ かねこ)」。 1876年(明治9年)8月29日、岩倉具定公爵の長女として誕生。はじめ華族女学校に学ぶが、東京女学館に転校して卒業。安井春子(広瀬武夫夫人)に漢学を、西川清子(西川虎之助の長女、ヴィッカース慶大教授夫人)に英語とピアノを、中島歌子に和歌を、野口小蘋に絵画を、それぞれ師事した。
関口 八重吉(せきぐち やえきち、1875年8月29日 - … 関口 八重吉(せきぐち やえきち、1875年8月29日 - 1949年12月24日)は、日本の機械工学者。東京工業大学機械工学科教授や、衛生工業協会会長、日本機械学会会長を務めた。 東京府出身。1896年東京高等工業学校(現東京工業大学)機械科卒業。1898年同校助教授。1902年からイギリス、アメリカ合衆国に留学し機械製作を研究し、コーネル大学大学院修了、修士。1905年に帰国し、教授に昇格。1921年工学博士。1929年東京工業大学機械工学科教授。1933年衛生工業協会会長。1935年日本機械学会会長。1943年蔵前工業会理事長、蔵前工業会館代表取締役会長。1949年勲二等旭日重光章受章。門下に中田孝東京工業大学名誉教授など。
田宮 嘉右衛門(たみや かえもん、1875年8月29日 - … 田宮 嘉右衛門(たみや かえもん、1875年8月29日 - 1959年4月13日)は、日本の実業家。初代神戸製鋼所支配人、第5代神戸製鋼所社長。 愛媛県新居郡立川山村(現:新居浜市)出身。1890年、別子山村の小足谷尋常高等小学校卒業。1904年、鈴木商店入社。1905年、神戸製鋼所支配人となり、1911年、神戸製鋼所が鈴木商店から分離独立して株式会社となると、常務取締役に就任。1928年に専務取締役、1934年に取締役社長となり、1945年に社長を退いて相談役となった。戦後の1947年に公職追放指定を受けたが、1951年の解除後は再び相談役に就任した。また、播磨造船所社長、神戸銀行取締役などを歴任し、経済同友会名誉会員、神戸商工会議所顧問などもつとめた。
木子 幸三郎(きご こうざぶろう、1874年(明治7年)8月… 木子 幸三郎(きご こうざぶろう、1874年(明治7年)8月29日 - 1941年(昭和16年)2月14日)は、日本の建築家。皇室関係の建築を多く手がけたことで知られる。族籍は東京府士族。 1874年(明治7年)、宮内省内匠寮技師の木子清敬の二男として東京市赤坂区に生まれた。 1901年(明治34年)、東京帝国大学工科大学建築学科選科を修了し、大阪の住友本店臨時建築部、に入る。 1902年(明治35年)、一年志願兵として入隊。除隊後、東宮御所造営局勤務となる。その一方で1905年(明治38年)からは工手学校で講師を開始し和洋建築の講義もおこなっていた。1911年(明治44年)宮内省内匠寮技師となる。
佐野 善作(さの ぜんさく、1873年(明治6年)8月29日… 佐野 善作(さの ぜんさく、1873年(明治6年)8月29日 - 1952年(昭和27年)5月1日)は、日本の会計学者、経済学者、教育家。商業教育に大きな功績があるとして、1952年に勲一等瑞宝章を受章した。 1873年、現在の静岡県富士市中島に生まれる。1895年高等商業学校(現・一橋大学)卒業。同期に石井健吾(元第一銀行頭取)、岡崎久次郎(日米富士自転車創業者)などがいた。 卒業後はコロンビア大学、ロンドン大学に留学し、研究を深める。帰国後は母校の高等商業学校助手となり、1896年より同助教授、1900年より同教授。1903年より附属商業教員養成所主事。1911年、法学博士号を取得。1914年、東京高等商業学校校長、1920年に同校が大学へ昇格すると東京商科大学(現・一橋大学)初代学長を務めた。
大森 禅戒(おおもり ぜんかい、明治4年7月14日(1871… 大森 禅戒(おおもり ぜんかい、明治4年7月14日(1871年8月29日) - 昭和22年(1947年)2月4日)は、日本の曹洞宗の僧侶。旧姓は八木。号は活龍。山梨県慈照寺住職・駒澤大学教授・曹洞宗管長・永平寺70世貫首・總持寺独住11世貫首。 福井県坂井郡丸岡町出身。明治18年(1885年)に地元の台雲寺住職大森董戒の下で出家。明治29年(1896年)に曹洞宗大学林(現、駒澤大学)を卒業後、比叡山・高野山・東大寺に内地留学。29歳で曹洞宗大学林学監兼教授となった。 その後、明治37年(1904年)2月からアメリカ・イギリス・ドイツの大学に留学し、最後はインドに立ち寄って明治44年(1911年)8月に帰国。
池田 十三郎(いけだ じゅうざぶろう、1870年8月29日〈… 池田 十三郎(いけだ じゅうざぶろう、1870年8月29日〈明治3年8月3日〉 - 1947年12月21日)は明治から大正にかけての逓信官僚。朝鮮総督府逓信局長官を務めた。 1870年8月29日、肥前国佐賀で、長崎県士族・池田陽雲の四男として生まれ、叔父・玄泰(1836年9月生)の養子となる。1892年、東京帝国大学法科大学独法学科を卒業し、法学士を取得。官吏になり、同年7月、東京郵便電信学校教授に就任。同年11月の茨城県出張、1895年の京都府出張などを経て、1906年1月10日より統監府通信管理局長、1910年に朝鮮総督府通信局長官、のち改称に伴い逓信局長官。1917年6月6日まで逓信局長官を務めて退官し、日本染料会社取締役社長に就任、1919年に退任。
小林 八右衛門(こばやし はちえもん、1869年8月29日(… 小林 八右衛門(こばやし はちえもん、1869年8月29日(明治2年7月22日) - 1939年(昭和14年)1月1日)は、明治から昭和時代初期の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。前名は八重郎。 小林小太郎の長男として、のちの山梨県南巨摩郡増穂村(増穂町を経て、現在の富士川町)に生まれる。1901年(明治34年)2月、家督を相続する。山梨県立甲府中学校、早稲田専門学校を経て、東京法学院を卒業し、増穂村学務委員となる。ついで所得税調査委員、増穂村会議員、山梨県会議員、小林銀行頭取、山梨農工銀行監査役、山梨貯蓄銀行取締、有信銀行監査役、同取締役を歴任する。ほか、南巨摩郡立第一養蚕伝習所長などを務めた。
大林 森次郎(おおばやし もりじろう、慶応3年8月1日(18… 大林 森次郎(おおばやし もりじろう、慶応3年8月1日(1867年8月29日) – 昭和5年(1930年)1月4日)は、衆議院議員(立憲政友会)、医師。 讃岐国綾歌郡富熊村(現在の香川県丸亀市)の松井家に生まれ、大林三斎の養子となった。第三高等中学校医学部を卒業し、医師となった。香川県医師会副会長、香川県医師会会長、綾歌郡医師会会長を歴任した。 また郡会議員、郡参事会員、県会議員、県参事会員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回衆議院議員総選挙でも再選された。
谷ノ音 喜市(たにのおと きいち、1867年8月29日(慶応… 谷ノ音 喜市(たにのおと きいち、1867年8月29日(慶応3年8月1日) - 1921年(大正10年)7月16日)は、出雲国意宇郡揖屋村(のちの島根県意宇郡揖屋村→八束郡揖屋村→同郡揖屋町→同郡東出雲町→島根県松江市)出身で雷部屋に所属した大相撲力士。本名は深田 久市。最高位は関脇。身長176cm、体重86kg。7代高島。 初めは大阪相撲の朝日山部屋に入門し、序二段まで上がったが、1886年に東京相撲に転じ雷部屋に入る。1887年1月場所に幕下付出で初土俵を踏む。1888年5月場所新十両。1890年1月場所新入幕。内掛け、外掛けなどの掛け技を得意としたが、その一方でもつれる相撲が多く引き分けや預かりが多かった。