加藤 猛夫(かとう たけお、1896年1月31日 - 197… 加藤 猛夫(かとう たけお、1896年1月31日 - 1976年1月21日)は、日本の英文学者。大阪大学名誉教授。 岡山県倉敷市出身。別名・東知。1922年東京帝国大学文学部英文科卒。1949年「十七世紀英国社会思想の史的考察」で法政大学文学博士。1924年日本大学教授、東洋大学教授、法政大学教授、1951年お茶の水女子大学教授、1955年大阪大学文学部教授、1959年定年退官、名誉教授、武庫川女子大学教授、南山大学教授。
永井 叔(ながい よし、1896年1月29日 - 1976年… 永井 叔(ながい よし、1896年1月29日 - 1976年11月30日)は、日本の詩人。裏町の「大空詩人」と呼ばれバイオリンまたはマンドリンを奏でながら自作の歌・童謡・讃美歌などを歌って喜捨を求める行乞の生活を送った。 1896年(明治29年)1月29日、愛媛県松山市唐人町三丁目三番に医師・永井甃一、妻・関子の四男(末子)として誕生。 地元の松山幼稚園、第三尋常小学校、松山中学と進んだ。8歳の頃には既に上野の音楽学校で優秀な成績をおさめていた兄・漸のバイオリンを盗み弾きした。中学時代は昆虫に深い興味を抱き友人と語らって研究会を作り、その活動は地元の新聞に報道されたという。学業成績は優秀で副級長を務めていたが、兄・漸の縊死や厳格だった父親の急死(1910年(明治43年))などから宗教に関心を強め、クリスチャンだった母親の影響もあり中学4年の時に受洗した。
有坂 与太郎(ありさか よたろう、1896年1月27日 - … 有坂 与太郎(ありさか よたろう、1896年1月27日 - 1955年6月8日)は日本の郷土玩具研究者・収集家。本名は正輔。(旧字表記は「與太郎」) 1896年1月27日に南品川に生まれる。「郷土玩具の普及」「玩具則生活描写」を提唱()し、郷土玩具の出版を勢力的に行い、郷土玩具運動のリーダー的存在となった。三田平凡寺らと交遊、『我楽他宗』に参加、第四番与太山玩狐寺と号し、狐に関するものを収集した。 1925年(昭和初め)ごろから興った郷土玩具収集の新たな高まりは、西洋的な事物を排除し、日本的な事物を評価しようという当時の国策にそったものでもあった。これまでの名士などいわゆる趣味人の特殊な階層の趣味を越えて,一般家庭主婦や若いサラリーマン,学生層にまで愛好熱が広まった。
森 悌次郎(もり ていじろう、 1896年1月25日 - 1… 森 悌次郎(もり ていじろう、 1896年1月25日 - 1969年7月13日)は、山形県鶴岡市出身の体育学者、大学教授、サッカー選手。 1916年3月に山形県立荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)を卒業。東京高等師範学校に入学し、蹴球部に入部した。在学中の1921年6月に開催された第5回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、2試合に出場した。 1923年3月に東京高師本科体育科甲組を卒業し、同年4月より東京高師の助手兼助教諭に任じられた。1925年4月に東京女子体操音楽学校の講師となり、1926年から1年間体操の研究のためにドイツ国に留学した。1927年8月に東京高師の助教授兼助教諭となった。
佐竹 義履(さたけ よしふみ、1896年(明治29年)1月2… 佐竹 義履(さたけ よしふみ、1896年(明治29年)1月25日 - 1958年(昭和33年)3月2日)は、昭和期の技官、政治家、華族。貴族院男爵議員、佐竹氏一門の佐竹西家20代当主。旧名・竹田良治。 秋田県士族・竹田富之助の二男として生まれる。佐竹西家の当主で兄・佐竹義度(富之助長男)の死跡を相続し、1914年(大正3年)4月23日、男爵を襲爵。その後、義履と改名した。 1924年(大正13年)東京農業大学大学部を卒業。1929年(昭和4年)帝室林野局技手に就任。その後、1944年(昭和19年)3月10日に同技師に就任した。 同月30日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
川崎 俊一(かわさき しゅんいち、1896年(明治29年)1… 川崎 俊一(かわさき しゅんいち、1896年(明治29年)1月24日 - 1943年(昭和18年)1月19日)は、日本の大正から昭和期における地球物理学者。 京都帝国大学理学部宇宙物理学教室の最初の卒業生で、水沢緯度観測所第二代所長を務めた。 滋賀県栗太郡治田村(現在草津市と栗東市にまたがる)に生まれる。姉の英子は、天文学者で京都帝国大学教授山本一清の妻となる。京都府立第二中学校、1912年(大正3年)広島高等師範学校に入学し、京都帝国大学理学部に1917年(大正8年)入学、1920年(大正11年)京都帝国大学理学部宇宙物理学教室第一期生として卒業する。 1920年(大正11年)京都帝国大学卒業後水沢緯度観測所に技師として入所する。
中澤 誠一郎(なかざわ せいいちろう、1896年(明治29年… 中澤 誠一郎(なかざわ せいいちろう、1896年(明治29年)1月24日-1986年(昭和61年)8月29日)は、日本都市計画学会は発起人としても関与し、日本都市学会や近畿都市学会は会長を歴任した都市計画家、建築行政官、都市研究者。大阪市立大学名誉教授。日本建築学会名誉会員で、大阪市政研究所にも所属した。京都市生まれ。 旧制第三高等学校を経て1920年(大正9年)7月東京帝国大学工学部建築学科を卒業。ただちに内務省大臣官房都市計画課勤務。1921年大阪府警察部技師。中の島大阪市庁舎新築工事などを担当。 1924年愛知県警察部建築課長。1931年愛知県土木部建築課長。1932~39年:大阪府警察部建築課長と、都市計画並びに建築行政の分野で業務を歴任。
蓮見 三郎(はすみ さぶろう、1896年1月23日 - 没年… 蓮見 三郎(はすみ さぶろう、1896年1月23日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手(中距離走)・指導者、歯科医師。1920年アントワープオリンピックに出場。名はのちに宏。 埼玉県北足立郡大砂土村(現在のさいたま市北区本郷町)出身。生家は素封家。明治39年に大砂土小学校を卒業、旧制浦和中学校(埼玉県立浦和高等学校の前身)を経て、日本歯科医学専門学校(日本歯科大学の前身)に進学した。 少年時代よりスポーツを愛好し、中距離走に秀でた成績を残した。日本歯科医専在学中に、1920年アントワープオリンピックに参加し、男子800メートル競走および1500メートル競走に出場した。日本国内のオリンピック予選会では800m走(2分05秒0)・1500m走(4分25秒0)の日本記録を残している。
宮田 喜代蔵 (みやた きよぞう、1896年1月23日 - … 宮田 喜代蔵 (みやた きよぞう、1896年1月23日 - 1977年7月7日)は、日本の経済学者。神戸大学名誉教授。元日本学術会議会員。 1896年、岡山市で生まれた。1914年に金川中学校(現・岡山県立金川高等学校)を卒業し、神戸高等商業学校(現・神戸大学)本科に進んだ。在学中は坂西由蔵に師事した。1918年に卒業。その後は東京商科大学(現・一橋大学)専攻部領事科に進み、1921年に卒業。福田徳三ゼミに所属し、福田ゼミの同期には赤松要、大熊信行、梅田政勝がいた。 卒業後は名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)教授となった。1922年から2年間欧州留学を命じられ、イギリス、ドイツ、アメリカに留学。
木内 曽益(木内 曾益、きうち つねのり、1896年1月22… 木内 曽益(木内 曾益、きうち つねのり、1896年1月22日 - 1976年6月30日)は、日本の検察官。血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件で主任検事を務め、戦後東京地方検察庁検事正、最高検察庁次長検事などを歴任した。「血盟団事件」という名称を命名したことで知られる。 福井生まれ。福井県立大野中学校(現福井県立大野高等学校)、第四高等学校 (旧制)出身。1920年7月東京帝国大学法学部卒業、台湾銀行入行・東京支店総務部業務第1課。 1921年10月、司法官試補。1923年6月、東京地裁兼区裁予備判事。1923年8月、福岡地裁小倉支部予備判事。1924年1月、千葉地裁検事。1925年12月、横浜地裁検事。
里見 甫(さとみ はじめ、1896年1月22日 - 1965… 里見 甫(さとみ はじめ、1896年1月22日 - 1965年3月21日)は、ジャーナリスト、実業家。関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。中国名李鳴。
横山 重(よこやま しげる、1896年1月22日 - 198… 横山 重(よこやま しげる、1896年1月22日 - 1980年10月8日)は、日本の国文学者。専門は中世文学。 1896年、長野県東筑摩郡片丘村北内田(現松本市)で生まれた。慶應義塾大学文学部で学び、1922年に卒業。 1924年、慶應義塾大学予科教員に採用された。1940年三田文学賞を受賞。1942年に退任し、以後在野で活動。島木赤彦に師事して『万葉集』を研究。のち琉球史料、室町時代物語、古浄瑠璃へと研究対象をひろげてゆき、多数の校本を刊行した。大岡山書店と関係が深くほぼ専属出版社の趣があった。1933年から1942年まで『三田文学』に「書物捜索」を連載した。 戦後は1953年から1961年『新文明』に連載継続。
川澄 農治(かわすみ のうじ、1896年(明治29年)1月2… 川澄 農治(かわすみ のうじ、1896年(明治29年)1月22日 - 1992年(平成4年)1月23日)は、日本の政治家。新潟県高田市長(2期)、直江津市長(1期)。 新潟県中頸城郡大倉村(のち和田村→高田市、現・上越市)大字石沢(旧石沢村)に生まれる。1914年、矢代川改修工事書記、1917年、和田村書記、1922年、西頸城郡書記、1924年、中頸城郡書記となったが、1926年の郡役所廃止により新潟県属となり、地方課勤務になる。1928年に退職し、高田市役所に入り、書記となった。1936年、庶務課長、1944年、助役となり、1946年、川上大造市長の辞職により5ヶ月間市長代理を務めた。 1947年、直江津町長選挙に立候補して当選、1951年に再選され、1954年の直江津市制施行に伴い、市長に就任した。
政岡 壹實(新字体:壱実。まさおか かつたね、1896年〈明… 政岡 壹實(新字体:壱実。まさおか かつたね、1896年〈明治29年〉1月19日 - 1973年〈昭和48年〉7月9日)は、日本の武道家。段位は全日本剣道連盟居合道範士九段、剣道範士七段。居合の流派は無双直伝英信流。 高知県吾川郡小川村(現・いの町小川柳野)で生まれる。高知県立第一中学校に入学し、吾川郡の中学生用の寄宿舎で生活しながら、剣道を川崎善三郎に学ぶ。寄宿舎の先輩で高知県立第二中学校5年生の森繁樹から、第二中学校で大江正路という剣道教師が希望者に居合(無双直伝英信流)を教えていると聞いた政岡は、居合を習ってみたいと思うようになる。その翌年、第二中学校は第一中学校に合併され、大江は第一中学校に赴任した。
住谷 悌(すみや てい、1896年〈明治29年〉1月18日 … 住谷 悌(すみや てい、1896年〈明治29年〉1月18日 - 1959年〈昭和34年〉2月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 茨城県出身。水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍経理学校(11期)を卒業。同年12月、三等主計に任官し歩兵第16連隊付となる。1921年(大正10年)4月、二等主計に、1926年(大正15年)3月、一等主計にそれぞれ昇進。1927年(昭和2年)12月、第1師団経理部員(参謀本部付)に就任。1930年(昭和5年)8月、関東陸軍倉庫付に転じ、1932年(昭和7年)4月、関東軍司令部付(満州国軍軍事顧問)となる。
竹内 俊一(たけうち しゅんいち、1896年1月17日 - … 竹内 俊一(たけうち しゅんいち、1896年1月17日 - 1976年10月26日)は日本の実業家。三菱石油(現ENEOSホールディングス)社長・会長や、石油連盟会長を務めた。 大阪府出身。津山中学校(現岡山県立津山高等学校)を経て、1917年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、三菱合資会社入社。三菱商事を経て、1941年から三菱石油。 1946年三菱石油社長、1936年同会長。社長就任後、各ポストの職名を変え、責任を明確化。方針決定は、合議制で行われるように組織改編を行った。 石油連盟会長や、日経連常任理事、東京ロータリークラブ会長等も歴任。 趣味はゴルフと歌舞伎鑑賞。
中原 和郎(なかはら わろう、1896年1月16日 - 19… 中原 和郎(なかはら わろう、1896年1月16日 - 1976年1月21日)は、日本の生化学者。医学博士。日本学士院会員。がんの生化学的研究で知られる。 鳥取県河村郡(現・湯梨浜町)生まれ。1918年にコーネル大学を卒業後、ロックフェラー医学研究所、理化学研究所、東大伝染病研究所などで研究を進める。1923年、医学博士(京都大学)(学位論文「淋巴球に関する研究 」)の学位を取得。 1948年から財団法人癌研究会所長を務め、1962年、国立がんセンター研究所初代所長となる。所長時代には、がん細胞からトキソホルモンの抽出に成功するなど、研究所の存在を確立。1965年に福岡文子との共同研究で学士院賞を受賞。
新居 善太郎(あらい ぜんたろう、1896年1月16日 - … 新居 善太郎(あらい ぜんたろう、1896年1月16日 - 1984年1月12日)は、日本の内務官僚。官選府県知事。公園緑地施策にも多く関わった。 栃木県足利市出身。染料商・新居倉造の四男として生まれる。 佐野中学、第一高等学校を経て、1921年6月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1922年2月、内務省に入り東京府属となり、内務部庶務課に配属。同年11月、高等試験行政科試験に合格。 1923年3月、広島県佐伯郡長に就任。1926年5月復興局建築部に事務官として在勤。さらに同局建築部庶務課長を務め、市街地建築物法の法文案を起草、土地区画整理事業の実施に寄与する。以後、内務事務官・土木局勤務、兼内閣総理大臣秘書官(斎藤実総理)、兼文部大臣秘書官(斎藤総理、大臣兼務)を歴任。
原 コウ子(はら こうこ、1896年1月15日 - 1988… 原 コウ子(はら こうこ、1896年1月15日 - 1988年6月25日)は、俳人。本名・コウ。旧姓・志賀。 大阪府貝塚町(現貝塚市)出身。泉南高等女学校(現大阪府立和泉高等学校)卒。1916年より「ホトトギス」投句。原石鼎選の入門欄だった縁で1918年に石鼎と結婚。1951年、石鼎の死没により「鹿火屋」主宰を継承。1974年、高齢のため養子の原裕に同主宰を譲る。句集に『昼顔』『胡卉』『胡色』、著書に『石鼎とともに』がある。
尾形 郷一(おがた ごういち、1896年〈明治29年〉1月1… 尾形 郷一(おがた ごういち、1896年〈明治29年〉1月13日 - 1992年〈平成4年〉)は、日本の剣術家。流派は無雙神傳英信流、無双神伝抜刀術兵法第18代宗家、神伝流始祖宗家、貫心流剣道免許皆伝、全国居合道連盟初代会長。全日本居合道連盟3代会長。居合道十段、剣神位。剣道九段範士。 徳島県鳴門市大津町大代生まれ。幼少の頃から剣道の修行に励み、貫心流剣道の免許皆伝を允可される。45歳のとき無双神伝抜刀術兵法17代宗家植田平太郎竹生より本格的に居合道を学び始める。昭和19年12月31日、大日本武徳会会長東條英機から居合道練士の称号を拝受する。 1949年(昭和24年)7月25日、無双神伝抜刀術兵法18代宗家を継承する。
吉屋 信子(よしや のぶこ、1896年〈明治29年〉1月12… 吉屋 信子(よしや のぶこ、1896年〈明治29年〉1月12日 - 1973年〈昭和48年〉7月11日)は、1920年代から1970年代前半にかけて活躍した日本の小説家。初め『花物語』などの少女小説で人気を博し、『地の果まで』で文壇に登場。以後家庭小説の分野で活躍し、キリスト教的な理想主義と清純な感傷性によって女性読者の絶大な支持を獲得。戦後は『徳川の夫人たち』が大奥ブームを呼び、女性史を題材とした歴史物、時代物を書き続けた。同性愛者であったと言われており、50年以上パートナーの千代と共に暮らした。 父・雄一が新潟県警務署長を務めていた折、新潟市営所通にあった新潟県庁官舎で生まれた。父はその後行政職に転じ、新潟県内を佐渡郡長として佐渡市(旧相川町)、北蒲原郡長として新発田市(当時は新発田町)に赴任したのち栃木県に転じ、芳賀郡長として真岡市(当時は真岡町)へ、次いで下都賀郡長として栃木市(当時は栃木町)に赴任した。
諸井 貫一(もろい かんいち、1896年1月11日 - 19… 諸井 貫一(もろい かんいち、1896年1月11日 - 1968年5月21日)は、東京府(現東京都)生まれの実業家。セメント製造事業の開拓を手掛けた諸井恒平(渋沢栄一とは親類関係に当たる)の長男で、東諸井家12代当主。秩父セメント(現太平洋セメント)社長、秩父鉄道会長、埼玉銀行(現埼玉りそな銀行)会長、日本煉瓦製造会社会長を歴任し、経済団体連合会(経団連)の創設など日本の近代化に深く貢献した。従三位勲一等。
箱木 一郎(はこぎ いちろう、Ichiro Hakogi、 … 箱木 一郎(はこぎ いちろう、Ichiro Hakogi、 1896年〈明治29年〉1月9日 - 1971年〈昭和46年〉1月23日)は日本の発明家。元社団法人発明協会本部理事。元財団法人科学技術連盟参与。日本曲面印刷機株式会社創立者、元社長。位階は従五位。 「負圧力利用曲面印刷体印刷方法」特許により製作した陶磁器自動印刷機 KURBA GRAVO を1937年のパリ万国博覧会に出品。11月25日にフランス政府より科学「グランプリ」賞を授与される。 関西学院学生時代、神戸新川の貧民窟で活動する賀川豊彦の元へ通った。また、神戸YMCAにて末包敏夫と共に会員向けに市民大学講座を企画し、一郎は知名の士との交渉を担当した。
石橋 犀水(いしばし さいすい、1896年〈明治29年〉1月… 石橋 犀水(いしばし さいすい、1896年〈明治29年〉1月9日 - 1993年〈平成5年〉2月15日)は日本の書家、書道教育家。本名は啓十郎。新吉富村名誉村民。正五位。文学博士。公益財団法人日本書道教育学会会長で書家の石橋鯉城は息子、書家の松本子游は娘、書家の松本筑峯は女婿(子游の夫)。 日下部鳴鶴・西川萱南・比田井天来に師事し、戦後は財団法人日本書道教育学会を設立するなど、書道教育の確立に尽力した。楊守敬が日下部鳴鶴を介して日本に伝えた廻腕法(廻腕執筆法)を受け継いだ。東京美術学校講師。新潟大学書道科初代教授。昭和を代表する書家であり、書道教育の第一人者である。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
田中 啓一(たなか けいいち、1896年(明治29年)1月8… 田中 啓一(たなか けいいち、1896年(明治29年)1月8日 – 1977年(昭和52年)6月10日)は、日本の農林官僚、政治家。富山県知事、衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)。 岐阜県出身。田中喜三郎の長男として生まれる。東京高等師範学校を経て、1925年、京都帝国大学経済学部を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。大学卒業後、京都師範学校教諭を経て農商務省に入省し農務局属となる。 以後、農林事務官、東京競馬倶楽部書記長兼理事、日本競馬会理事、農林省山林局木炭第一課長、農林大臣秘書官、米穀管理局第一部長、食品局長、九州地方行政協議会参事官、九州地方総監府第二部長などを歴任。戦後、1946年1月、富山県知事に就任し、同年7月まで在任。
永井 直邦(ながい なおくに、1896年〈明治29年〉1月7… 永井 直邦(ながい なおくに、1896年〈明治29年〉1月7日 - 1950年〈昭和25年〉9月10日)は、大正・昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・戸田、旧名・邦光。位階は従三位。 子爵・戸田康泰の五男として生まれ、子爵・永井直諒の養子となる。養父の死去に伴い家督を継承して直邦と改名し、1920年(大正9年)1月6日に子爵を襲爵した。 1921年(大正10年)東京帝国大学文学部を卒業。1923年(大正12年)臨時帝室編修官補に就任。以後、文部省嘱託、東京府主事・社会教育課勤務、理研電具嘱託などを務めた。 1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和21年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
日高 忠男(ひだか ただお、1896年(明治29年)1月6日… 日高 忠男(ひだか ただお、1896年(明治29年)1月6日 - 1974年(昭和49年)5月31日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(当選1回)、医学博士。 島根県邑智郡、後の出羽村(瑞穂町を経て現邑南町)で生まれる。旧制島根県立杵築中学校、旧制第六高等学校を経て、1922年(大正11年)京都帝国大学医学部を卒業。その後、同大学院で研修し、1929年(昭和4年)医学博士を取得した。興仁会病院(浜田市)勤務、浜病院(新宮市)勤務を経て、1931年(昭和6年)松江市で日高医院を開業した。 1947年(昭和22年)島根県医師会長に就任。1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙に島根県全県区から自由党から立候補して3位で当選。
大池 眞(おおいけ まこと、1896年1月5日 - 1990… 大池 眞(おおいけ まこと、1896年1月5日 - 1990年7月5日)は、日本の官僚。 長野県東筑摩郡山形村生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て東京帝国大学法学部政治学科卒業。農商務省から1925年衆議院書記官に転じ、1945年書記官長を経て、1947年新憲法下での初代衆議院事務総長となった。1956年から1962年まで土地調整委員会委員長を務めた後、西武グループの株式会社「池袋地下駐車場」に転じ、1966年同社長。同年従四位勲一等瑞宝章を受勲した。
鈴川 寿男(すずかわ としお、1896年(明治29年)1月5… 鈴川 寿男(すずかわ としお、1896年(明治29年)1月5日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。朝鮮総督府官僚。 山口県都濃郡戸田村(現在の周南市)出身。第五高等学校を卒業。1919年(大正8年)10月、高等試験行政科に合格し、翌年に東京帝国大学法学部政治科を卒業した。内務属、愛知県警視、石川県理事官、警察講習所教授、岐阜県書記官・学務部長、山形県警察部長を歴任。1932年(昭和7年)、朝鮮総督府事務官に転じ、全羅南道内務部長、忠清北道内務部長、農林局林政課長、総督官房文書課長・臨時国勢調査課長を歴任した。1937年(昭和12年)、専売局長に就任し、さらに京畿道知事、司政局長・中枢院書記官長を務めた。
増地 庸治郎(ますち ようじろう、1896年1月5日 - 1… 増地 庸治郎(ますち ようじろう、1896年1月5日 - 1945年3月10日)は、日本の経営学者。東京商科大学教授兼東京帝国大学教授を務めたが、東京大空襲で死去した。 1896年、京都府で生まれた。東京高等商業学校(現・一橋大学)で学び、上田貞次郎に師事した。1919年に専攻部商工経営科を卒業。 卒業後は住友総本店へ入社するも、1921年に退社して母校へ戻り助手となった。1923から1925年までベルリン高等商業学校(現・フンボルト大学ベルリン経済学部)に留学を命じられた。当時はちょうど東京高商の大学昇格に合わせて拡充がなされていた時期であり、多くの教員が留学に出ていた。在外研究中の研究者には東京高等商業学校同僚の本間喜一、渡邉大輔、大塚金之助、金子鷹之助、井藤半彌、吉田良三や、神戸高等商業学校から留学していた八木助市、坂本彌三郎、石田文次郎、田中金司、五百籏頭眞治郎、北村五良、平井泰太郎、名古屋高等商業学校の宮田喜代蔵、赤松要らがいた。
泉洋 藤太郎(いずみなだ とうたろう、1896年1月4日 -… 泉洋 藤太郎(いずみなだ とうたろう、1896年1月4日 - 1937年12月17日)は、現在の大阪府高石市出身で井筒部屋、猪名川部屋、再度井筒部屋に所属した力士。本名は山条 藤太郎(やまじょう とうたろう)。176cm、105kg。最高位は西前頭7枚目。得意手は右四つ、寄り、押し。 1912年1月場所に井筒部屋より初土俵を踏むが、番付につく前に、すぐに大坂の猪名川部屋に移籍する。その後、1916年5月場所に東京に復帰し、幕下付出で再登場した。1922年1月場所に十両昇進。1926年5月場所に新入幕、上位にはあがれず1928年1月場所に廃業した。
吉野山 要次郎(よしのやま ようじろう、1896年1月3日 … 吉野山 要次郎(よしのやま ようじろう、1896年1月3日 - 1956年2月6日)は、富山県下新川郡(現・黒部市)出身で春日山部屋、立浪部屋に所属した元大相撲力士。本名は大上戸 要次郎。最高位は西前頭筆頭(1932年2月場所、3月場所)。現役時代の体格は175cm、92kg。得意手は左四つ、押し、のど輪、うっちゃり。元前頭清惠波の岳父であり養父でもある。 細身ながら筋骨隆々とした体格で、力も腰も強かった。地味ながら堅実な取り口で、左四つ得意だが腕職を活かしたのど輪押しも強く、また土俵際でのうっちゃりもあった。特にうっちゃりに関しては左四つからの独特の型であり、これが双葉山に伝授されたという。横綱常ノ花との相性が良く、初顔合わせで押し倒して破ったのをはじめ3勝(いずれも金星)を挙げている。
金重 陶陽(かねしげ とうよう、1896年(明治29年)1月… 金重 陶陽(かねしげ とうよう、1896年(明治29年)1月3日 - 1967年(昭和42年)11月6日)は、岡山県出身の陶芸家。備前焼の名門である金重家に生まれ、備前の陶工として初めて人間国宝となった。本名は金重 勇(かねしげ いさむ)。 江戸時代中期以降伊万里焼や九谷焼などに押されて人気を失っていた備前焼を再興させることに成功し「備前焼中興の祖」と称される。自らが優れた陶工であっただけでなく、多くの弟子を育て、その中から次々と人間国宝を輩出するなど備前焼の歴史上果たした功績は計り知れない。陶陽の弟の金重素山、長男の金重道明、三男の金重晃介もそれぞれ陶芸家である。また、漂泊の日本画家の杉本白象は、自らを「金重陶陽の従兄にあたる」と、昭和42年にパトロンに送った作品に付けた手紙に記している。
磯矢 伍郎(いそや ごろう、1896年(明治29年)1月2日… 磯矢 伍郎(いそや ごろう、1896年(明治29年)1月2日 - 1993年(平成5年)8月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。 三重県出身。売薬業・磯矢馬佐右衛門の五男として生まれる。三重第三中学校(現三重県立上野高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第55連隊附となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1926年(大正15年)8月、歩兵大尉に進み歩兵第48連隊中隊長に就任。参謀本部付勤務、参謀本部員、陸大教官兼参謀本部員、関東軍参謀、参謀本部員を務め、1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進し第2軍参謀に発令され日中戦争に出征。
及川 奥郎(おいかわ おくろう、明治29年(1896年)1月… 及川 奥郎(おいかわ おくろう、明治29年(1896年)1月1日 - 昭和45年(1970年)12月27日)は、第二次世界大戦前に小惑星を複数発見した日本の天文学者。 岩手県盛岡市出身。大日本帝国海軍海軍大将の及川古志郎は兄。 岩手縣立盛岡中學校を卒業。1920年に東京帝国大学理学部天文学科を卒業後、1922年より当時麻布区板倉から北多摩郡三鷹村大澤へ移転を進めていた東京天文台に技手として勤務し、ブラッシャー社製20センチ天体写真儀を使って天体の位置観測に従事した。東京天文台の移転に当たってはその経度差を測定している。ブラッシャー写真儀による観測で、1927年から1929年にかけて共同発見1つを含む計8つの小惑星を発見。
仁科 熊彦(にしな くまひこ、明治29年(1896年)1月1… 仁科 熊彦(にしな くまひこ、明治29年(1896年)1月1日 - 昭和62年(1987年)4月10日)は、日本の映画監督である。山中貞雄を助監督として起用し、その脚本を数多く監督した。川谷拓三は義理の息子、仁科貴と仁科扶紀は孫にあたる。 両親とも会津若松(現福島県会津若松市)生まれで、父は会津藩藩士の家系。1896年(明治29年)1月1日、軍人だった父の赴任地、熊本県熊本市新屋敷町に生まれる。福岡県門司(現北九州市)、神奈川県小田原町(現小田原市)で育ち、中学3年のとき会津に戻る。 1916年(大正5年)、福島県立会津中学校(旧制、現在の福島県立会津高等学校)を卒業、上京して早稲田大学を志すも、予備校に通うのみで学業を放棄、天然色活動写真巣鴨撮影所の現像場に職を得、技術部に入社、撮影助手となる。
佐々木 半九(ささき はんく、1896年〈明治29年〉1月1… 佐々木 半九(ささき はんく、1896年〈明治29年〉1月1日 - 1971年〈昭和46年〉10月6日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争において特殊潜航艇(甲標的)部隊指揮官として真珠湾攻撃、シドニー湾攻撃に参加。のち第六艦隊参謀長として回天作戦に関わる。最終階級は海軍少将。 広島県出身。三次中学を経て海軍兵学校45期卒。席次は89名中31番。同期に有賀幸作、富岡定俊、古村啓蔵らがいる。佐々木は水雷学校及び潜水学校高等科を修了した潜水艦専攻士官で、大尉、少佐時代に4艦で潜水艦長を務めている。中佐時代は潜水学校と水雷学校で教官を務めた後、「神威」、「八雲」、木更津海軍航空隊で副長を務め、第21潜水隊司令に就任。
小崎 一男(おざき かずお、1896年1月1日 - ?)は、… 小崎 一男(おざき かずお、1896年1月1日 - ?)は、日本の発明家。 岡山県上道郡西大寺町(現・岡山市東区)出身。1914年(大正3年)に岡山県立工業学校機械科を優等で卒業した。その後、三菱造船株式会社神戸造船所に入り、1920年(大正9年)に技師となった。 1933年に全国発明表彰進歩賞を受賞している。
衣笠 貞之助(きぬがさ ていのすけ、1896年1月1日 - … 衣笠 貞之助(きぬがさ ていのすけ、1896年1月1日 - 1982年2月26日)は、日本の俳優、映画監督、脚本家。本名:小亀 貞之助(こかめ ていのすけ)。 新派劇団を経て日活向島撮影所で女形スターとして活躍後、牧野省三の下で映画監督へ転身した。新感覚派の作家と組んで前衛映画『狂つた一頁』を製作後、松竹・東宝・大映で長谷川一夫とコンビを組んで多くの時代劇映画を製作した。江戸や明治の情緒を新派劇の素養であでやかに描き出すことにかけては第一人者だった。1953年(昭和28年)公開の『地獄門』は、第7回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。上記以外の主な作品に『十字路』『雪之丞変化』など。妻は女優の千早晶子、弟は映画監督の衣笠十四三。
剣岳 吉五郎(つるぎだけ きちごろう、1896年1月1日 -… 剣岳 吉五郎(つるぎだけ きちごろう、1896年1月1日 - 1950年4月19日)は、富山県富山市出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は五十里 吉次郎。身長174cm、体重94kg。 富山県富山市出身。立浪部屋に入門し、1916年1月場所に初土俵を踏む。新十両が1925年5月場所、新入幕が1927年5月場所と、昇進のスピードは緩やかだったが、1928年には、大関大ノ里萬助や常陸岩英太郎からも勝ち星を挙げたり、新進気鋭の武蔵山武にも初顔から連勝したりと、時折存在感を示した。その風格について「古武士」と評されたこともある。 右四つからの寄り、蹴返しなどを持ち味とした取り口であった。 1932年1月場所の番付では、東前頭16枚目に位置していたが、その場所前に起きた春秋園事件で、協会を脱退、天竜三郎たちと行動を共にし、以後相撲協会には復帰しなかった。
清水 虎尾(しみず とらお、1895年〈明治28年〉1月30… 清水 虎尾(しみず とらお、1895年〈明治28年〉1月30日 - 1968年〈昭和43年〉10月14日)は、大宮市(現・さいたま市)長(第7代)。勲五等瑞宝章。 埼玉県北足立郡大宮町(のち大宮市、現・さいたま市)に生まれる。1921年(大正10年)中央大学商科卒。卒業後は日清紡績に入り、商務課長を最後に退職した。その後は、材木屋や建築請負を経て、大宮でパン屋を開業した。その後、大宮町役場に入った。勧業課長を務めた。1938年(昭和13年)大宮町助役となり、市制施行に尽力した。1941年(昭和16年)1月20日から1943年(昭和18年)9月17日まで大宮市助役を務めた。 1947年(昭和22年)の大宮市長選挙に日本自由党公認で立候補したが、社会党公認の津川辰政に敗れた。
小池 藤五郎(こいけ とうごろう、1895年1月30日 - … 小池 藤五郎(こいけ とうごろう、1895年1月30日 - 1982年11月4日)は、日本近世文学の研究者。狂歌人でもあった。 山東京伝、曲亭馬琴などの読本を専門とし、『南総里見八犬伝』岩波文庫版の校訂者として知られる。黄表紙研究者の小池正胤は息子。 山梨県北巨摩郡更科村(現韮崎市)生まれ。 実家は富裕な名主の家系で、甲斐国のみならず江戸の文人との交流のある環境であった。曽祖父に当たる小池伝右衛門富章(号は勝山、文雅園)は国学・漢学に通じ、狂歌師として「白水亭亀丸」の号を持っていた。小池家には『南総里見八犬伝』が肇輯から初版本がそろっており、近郷唯一の『八犬伝』として親戚・知人や家来筋の人々にも愛読されたというが、1898年(明治31年)の洪水で書庫とともに流され失われたという。
三樹 樹三(みき きぞう、1895年(明治28年)1月30日… 三樹 樹三(みき きぞう、1895年(明治28年)1月30日 - 1948年(昭和23年)12月15日)は、日本の内務官僚。官選島根県知事。 神奈川県津久井郡三ケ木村(現・相模原市緑区)出身。明治書院創業者・三樹一平の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1918年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し岡山県属となる。 以後、岡山県理事官、長野県理事官、臨時震災救護事務局事務官、復興局経理部会計課長、内務書記官、大臣官房会計課長、滋賀県書記官・内務部長、群馬県書記官・総務部長、兵庫県書記官・総務部長、大阪府総務部長などを歴任。 1937年2月、島根県知事に就任。
逸見 享(へんみ たかし、1895年(明治28年)1月29日… 逸見 享(へんみ たかし、1895年(明治28年)1月29日 - 1944年(昭和19年)10月19日)は、大正時代から昭和時代戦前にかけての版画家、装幀家。 和歌山県和歌山市生まれ。1913年(大正2年)に和歌山市立和歌山商業学校を出て上京し、1914年(大正3年)中央大学に入学する。1915年(大正4年)12月に同郷で3学年先輩に当たる田中恭吉の遺作展覧会を東京・日比谷美術館で見て感銘を受ける。 1916年(大正7年)に小林富次郎商店(後のライオン歯磨本舗小林商店)に入社し、同社意匠部に勤めるかたわら木版画を始めた。詩人の大手拓次が小林商店広告部の文案係に入ると彼と知り合い、共に詩や短歌を作りながら詩集『異香』(1917年)、『あをちどり』(1918年)、『詩情』(1924年)、後に大手の遺作となる『藍色の蟇』(1936年)などの装幀を手がけるようになった。
足立 実(あだち みのる、1895年(明治28年)1月28日… 足立 実(あだち みのる、1895年(明治28年)1月28日 - 1974年(昭和49年)4月2日)は、日本の政治家。鳥取県境港市長(初代)。 鳥取県西伯郡余子村大字福定(現境港市福定町)出身。 京都高等蚕糸学校(現京都工芸繊維大学)卒業。郡是製紙の技師として占領下の中国に渡り、帰国した昭和16年(1941年)から5年間、余子村長に、昭和29年(1954年)に境港町長に、昭和31年(1956年)市制施行に伴い初代の境港市長にそれぞれ就任した。 市長を退任するまで村長、町長を含め18年間、地方行政の長として境港市の基盤づくりに努めた。 足立について、次男の足立純一によると
田中 菊松(たなか きくまつ、1895年(明治28年)1月2… 田中 菊松(たなか きくまつ、1895年(明治28年)1月27日 - 1964年(昭和39年)10月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 新潟県出身。1915年(大正4年)12月、海軍兵学校43期を卒業。席次は95名中42位。1916年(大正5年)12月、海軍少尉に任官。砲術学校高等科で学んだ。1922年(大正11年)12月、駆逐艦「浦風」砲術長。1925年(大正14年)12月、砲術学校教官兼副官を経て、1929年(昭和4年)11月、海軍大学校(甲種27期)を卒業。 1930年(昭和5年)12月、砲術学校教官、兼水雷学校教官、兼装甲巡洋艦「春日」教官、兼通信学校教官となり、重巡洋艦「青葉」砲術長を経て、1933年(昭和8年)11月、海軍中佐に進級し、連合艦隊参謀、兼第一艦隊参謀に就任。
四手井 綱正(しでい つなまさ、1895年1月27日 - 1… 四手井 綱正(しでい つなまさ、1895年1月27日 - 1945年8月18日)は、日本の陸軍軍人、戦史研究者。最終階級は陸軍中将。 京都府山科(現京都市)の旧家(郷士)出身。教員・四手井彦四郎の長男として生まれる。京都一中、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第23連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を優等で卒業した。 陸軍騎兵学校教官、ドイツ駐在、陸大教官、兼参謀本部員などを経て、1935年(昭和10年)8月から1939年(昭和14年)3月まで侍従武官を務めた。この間、1936年(昭和11年)には、飛行第五連隊で発生した飛行機墜落事故発生の状況実視に遣わせられた。
山口 益(やまぐち すすむ、1895年1月27日 - 197… 山口 益(やまぐち すすむ、1895年1月27日 - 1976年10月21日)は、日本の仏教学者。大谷大学教授・学長。 1895年、京都府京都市に生まれた。大谷大学で学び、1918年に卒業。1927年から29年にかけてフランスに留学し、シルヴァン・レヴィに師事。欧州における梵語・チベット語研究を学び、チベット大蔵経や大乗仏典などの原典文献の研究を行った。 1933年より大谷大学教授。1943年、京都帝国大学に学位論文『仏教に於ける無と有との対論』を提出して文学博士号を取得。1950年より1958年まで大谷大学学長を務めた。大谷大学を退任後、名誉教授となった。また、京都産業大学教授。1965年、日本学士院会員に選出された。
内山 泰(うちやま とおる、1895年(明治28年)1月27… 内山 泰(うちやま とおる、1895年(明治28年)1月27日 - 1944年(昭和19年)7月6日)は、病理学者、専門は組織化学。医学博士。正五位。学生時代から禅に打ち込み、盛岡において盛岡禅道会を創立した。二高時代には、黒川利雄と特に親しかった。 新潟県中魚沼郡芦ヶ崎村(現・津南町)に出生。 胃癌の肝転移のため逝去、享年49。
川越 守二(かわごえ もりじ、1895年(明治28年)1月2… 川越 守二(かわごえ もりじ、1895年(明治28年)1月25日 - 1976年(昭和51年)12月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県出身。農業・川越半之丞の五男として生まれた。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍砲工学校高等科(25期)を卒業。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した。 1925年(大正14年)8月、野砲兵第1連隊中隊長に就任。1926年(大正15年)3月、参謀本部付勤務となり、関東軍幕僚付、第6師団参謀を務め、1931年(昭和6年)8月、砲兵少佐に進級し野砲兵第6連隊大隊長に就任。