醍醐 忠重(だいご ただしげ、1891年〈明治24年〉10月… 醍醐 忠重(だいご ただしげ、1891年〈明治24年〉10月15日 - 1947年〈昭和22年〉12月6日)は、日本の海軍軍人、貴族院議員。 海軍中将。爵位は侯爵。 1891年10月15日に、東京市麹町区元園町で公卿華族(清華家)の醍醐侯爵家の嫡子(三男)として生まれる。父・醍醐忠敬は戊辰戦争において奥羽鎮撫副総督を務めたが、1899年に家督相続に絡む怨恨によって甥(忠敬の兄忠告の子)の格太郎に射殺された。この事件が大スキャンダルに発展してしまい、これが原因で醍醐家は没落、忠重は公卿摂家の一条家に引き取られて養育された。賀陽宮恒憲王は忠重の従兄弟にあたる。 1897年東京市麹町尋常小学校(現・麹町小学校)に入学。
小川 蕃(おがわ しげし、1891年〈明治24年〉10月14… 小川 蕃(おがわ しげし、1891年〈明治24年〉10月14日 - 1939年〈昭和14年〉9月1日)は、日本の外科学者、外科医。医学博士。京城帝国大学医学部外科学教室外科学第二講座初代教授。朝鮮医学界に大きな貢献をした。 新潟県中蒲原郡津島村大字古津(現 新潟市秋葉区古津)において津島村村長・小川重綽の五男として出生。 1909年(明治42年)3月に新潟中学校を卒業、1913年(大正2年)7月に第二高等学校を卒業、1917年(大正6年)12月に東京帝国大学医科大学医学科を卒業。 東京帝国大学医科大学外科学教室外科学第二講座(担任:近藤次繁教授)副手に就任、1919年(大正8年)12月から神戸三菱造船所病院に勤務、1921年(大正10年)3月に朝鮮総督府医院医官に就任、6月から京城医学専門学校教授を兼任。
近衞 文麿(このえ ふみまろ、1891年(明治24年)10月… 近衞 文麿(このえ ふみまろ、1891年(明治24年)10月12日 - 1945年(昭和20年)12月16日)は、日本の政治家。栄典は勲一等公爵。
明石 猛繁(あかし たけしげ、1891年(明治24年)10月… 明石 猛繁(あかし たけしげ、1891年(明治24年)10月12日 - 1941年(昭和16年)7月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 高知県香美郡美良布村(現在の香美市)で、明石秀太郎、秀の長男として生まれた。1910年(明治43年)県立第一中学校卒を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍経理学校(8期)を卒業した。三等主計に任官し歩兵第43連隊付となり、1920年(大正9年)歩兵第44連隊付となりシベリア出兵に従軍。 1928年(昭和3年)陸軍経理学校高等科を卒業。以後、近衛師団経理部員、陸軍被服本廠員兼陸軍経理学校教育部教官、関東軍司令部付などを務める。1938年(昭和13年)主計大佐に昇進。
高谷 道男(たかや みちお、1891年10月12日 - 19… 高谷 道男(たかや みちお、1891年10月12日 - 1994年3月21日)は、日本の経済学者。内村鑑三の弟子でジェームス・カーティス・ヘボンの研究家でもある。 1922年にシカゴ大学を卒業後、関東学院、明治学院の教授を経て、桜美林大学経済学部創立に尽力する。後に同大学経済学部長を務める。 1981年キリスト教功労者の表彰を受ける。 1891年(明治24年)香川県那珂郡丸亀町(現・丸亀市)の呉服町の家に生まれた。小学校の高学年の時に家の商売は借財と火災でたちまち傾き没落したが、家族親戚は高谷には勉学の見込みがあるとみて学問をさせようと努めた。東京高等商業学校(現一橋大学)に合格し育英会の奨学金と親戚の援助などで進学した。
金 性洙(キム・ソンス、朝鮮語: 김성수、 光緒17年9月9… 金 性洙(キム・ソンス、朝鮮語: 김성수、 光緒17年9月9日(1891年10月11日) - 1955年2月18日)は、日本統治時代の朝鮮の実業家、独立運動家。大韓民国の政治家、教育者、言論人。本貫は蔚山金氏(朝鮮語版)。『東亜日報』や高麗大学校、韓国民主党などの設立者としても知られる。朝鮮独立のためには実力の養成が必要だとして、朝鮮人の立場を代弁するメディアとして『東亜日報』を、人材の育成を目的に中央高等学校と高麗大学校を設立した。実業家としても、京城紡織を中心に綿紡績・ナイロン生産に従事し、朝鮮内のみならず満州にまで事業範囲を伸ばしたが、このことにより、韓国では、2002年に発表された親日派708人名簿に登録され、2005年には民族問題研究所による親日派リストに含まれた。
北 政清(きた まさきよ、1891年〈明治24年〉10月11… 北 政清(きた まさきよ、1891年〈明治24年〉10月11日 - 1953年〈昭和28年〉9月1日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員。 石川県能美郡今江村(現小松市)で北小太郎の三男として生まれる。1895年、父と共に北海道空知郡奈井江に入植。公立砂川小学校を経て、1910年、北海道庁立空知農業学校農科を卒業し農業に従事。 1915年、札幌郡江別村付属員となる。以後、雨竜郡秩父別村農会技術員、兼同役場付属員、北海道庁農業技手、板谷農場管理人、北竜村土功組合長、板谷農場産業組合長理事、北竜村農会副会長、北竜村会議員、在郷軍人会分会長、板谷商船 (株) 農場支配人、北連販売部長、産業組合中央会空知部会理事、日本通運 (株) 滝川支店長などを務めた。
池田長十郎(いけだ ちょうじゅうろう、1891年(明治24年… 池田長十郎(いけだ ちょうじゅうろう、1891年(明治24年)10月11日 - 1943年(昭和18年)1月27日)は、ホーリネス教会の牧師、殉教者の1人である。 1891年(明治24年)に静岡県静岡市に生まれる、尋常小学校3年生頃中退して、奉公に出る。その後、静岡県庁の給仕をする。その時に日本基督教団静岡教会10代目牧師の村岡菊三郎に出会い世話になる。このことがきっかけになり1907年(明治40年)に洗礼を受ける。 1907年、献身し、牧師になる勉強をするために、聖書学院に入学する。1909年(明治42年)、19歳の時に、名古屋に任命され、東洋宣教会福音伝道館の教役者になる。 以後、淀橋教会、鳥取教会、秋田県小坂の福音伝道館を経て、北海道の北見と札幌を牧会し、宇都宮、秩父に移る。
石渡 荘太郎(いしわた そうたろう、1891年〈明治24年〉… 石渡 荘太郎(いしわた そうたろう、1891年〈明治24年〉10月9日 - 1950年〈昭和25年〉11月4日)は、日本の官僚、政治家。位階・勲等は正三位勲一等。東京都出身。 旧幕臣で第1次西園寺内閣の内閣書記官長を務めた石渡敏一の長男。 大蔵大臣・内閣書記官長・宮内大臣などを歴任。近衛文麿の学友であり、税務・経済のスペシャリストとして各政権で重用された。 平沼内閣の蔵相時代、外相有田八郎、海相米内光政とともに日独伊三国同盟に反対を貫いた。 1945年(昭和20年)6月、宮内大臣であった松平恒雄が辞職を申し出たことで、石渡が後任に選ばれた。昭和天皇は、内大臣であった木戸幸一に対して、木戸を宮内大臣として石渡を内大臣とする提案を行ったが、木戸は諸般の理由を以て不可であることを説明。
山内 正文(やまうち まさふみ、1891年(明治24年)10… 山内 正文(やまうち まさふみ、1891年(明治24年)10月8日 - 1944年(昭和19年)8月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。旧姓・秋山。 滋賀県出身。裁判官・秋山正義の息子として生まれる。膳所中学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同期に青木重誠、武藤章、富永恭次、佐藤幸徳、田中新一、山崎保代らがいる。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第60連隊付となる。 1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業。綾部橘樹、有末精三、斎藤義次、小畑信良らが同期。陸軍きっての逸材と評されたが、中学出身であるため傍流とみなされていた[要出典]。1925年(大正14年)3月、歩兵第39連隊中隊長に就任。
太田 宇之助(おおた うのすけ、1891年〈明治24年〉10… 太田 宇之助(おおた うのすけ、1891年〈明治24年〉10月8日 - 1986年〈昭和61年〉9月2日)は、大正から昭和にかけての新聞記者、評論家。 女性初のNHK解説委員である縫田曄子の父。 1891年(明治24年)10月8日に、兵庫県揖保郡網干町で生まれた。早稲田大学在学中の学生時代には国木田収二邸に同居していた。 王統との知遇を得て、1916年(大正5年)4月に王統からの要請で第三革命に孫文一派として参加した。後年、太田は当時の心境を「『中国の革命のため、死んでもよいではないか』と心に叫んだ」と振り返っている。この際に上海に渡った太田は、王統の秘書として活動し、同年5月に帰国して1917年(大正6年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。
松嶋 喜作(まつしま きさく、1891年(明治24年)10月… 松嶋 喜作(まつしま きさく、1891年(明治24年)10月7日 - 1977年(昭和52年)2月17日)は、日本の政治家。実業家。参議院副議長(第2代)。参議院議員(1期)。 兵庫県明石市出身。1918年京都帝国大学卒業。卒業後は日本興業銀行に入る。1941年理事に就任。戦後の1946年大和証券の会長となる。翌1947年第1回参議院議員通常選挙で全国区から立候補して当選(3年議員)。自由党政調会長を務める。1949年参議院副議長に就任した。議員を1期で退任後、1952年日本製鋼や東京螺子の社長に就任。1956年国鉄諮問委員、翌年に富士航空社長を務めた。 1965年春の叙勲で勲二等瑞宝章受章。 1977年2月17日死去、85歳。
原田 敬治(はらだ けいじ、1891年(明治24年)10月6… 原田 敬治(はらだ けいじ、1891年(明治24年)10月6日 - 1962年(昭和37年))は、昭和時代前期の政治家。神奈川県平塚市長。神奈川県多額納税者。 原田勝右衛門の長男として平塚に生まれる。慶應義塾普通部卒業後、家業を継ぐ。1938年(昭和13年)10月21日、平塚市長に就任した。ほか、相模瓦斯常務取締役、平塚江陽銀行取締役、大政翼賛会県支部協力会議員、同市支部長などを歴任した。戦後、公職追放となった。
大濱 信泉(おおはま のぶもと、1891年10月5日 - 1… 大濱 信泉(おおはま のぶもと、1891年10月5日 - 1976年2月13日)は、日本の法学者(専門は商法)・教育者。第7代早稲田大学総長(1954年 - 1966年)。旧名大濱 信陪。妻は評論家の大浜英子。
中野 義照(なかの ぎしょう、1891年10月5日 - 19… 中野 義照(なかの ぎしょう、1891年10月5日 - 1977年1月31日)は、真言宗の僧、インド哲学研究者。 1891年、愛媛県今治市生まれ。旧姓は白石。11歳で得度する。東京帝国大学文学部印度哲学科で学び、1921年に卒業。高楠順次郎に師事した。卒業後は九州帝国大学講師となり、1929年には高野山大学教授、1933年より中国天津日本図書館長、北京大学文学院教授。 戦後日本へ帰国し、1946年より高野山大学教授に復帰。同文学部長、1951年学長を務めた。1952年「ヤーヂユニヤワルキヤ法典の研究」を九州大学に提出して文学博士号を取得。1958年、密教文化研究所長となる。1964年には再度学長を務める。
武 為太郎(たけ ためたろう、1891年〈明治24年〉10月… 武 為太郎(たけ ためたろう、1891年〈明治24年〉10月 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。大阪府泉南郡山直下村村会議員。輸出内地向綾木綿製造販売、武織物工場代表。泉南郡北部綿織物工業組合理事長。 大阪府泉南郡山直下村三田(のち山直町、現・岸和田市)の人である。織物業を営む。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
森 律子(もり りつこ、1890年10月30日 - 1961… 森 律子(もり りつこ、1890年10月30日 - 1961年7月22日)は、日本の女優。最初期の女優として、また元代議士を父に持つお嬢様女優として話題を集め、喜劇を得意とした。 東京府東京市京橋区日吉町(現・東京都中央区銀座8丁目)生まれ。父は愛媛県松山出身の弁護士・衆議院議員の森肇(1864年-1927年)。肇は長髪がトレードマークの熱血漢であると同時に、癇癪を起こすと自宅で銃や日本刀を振り回すような暴君でもあり法曹界の名物男として有名だった。 跡見女学校卒業後、築地のサンマース、女子語学校専科で英語を学ぶ。1908年川上貞奴の帝国女優養成所に入り、帝劇女優第一期生となる。当時、芸人は卑しい職業とされていたため、跡見女学校の同窓会から除名されたとの説を福田和也らが書いているが、実際にはその後も同窓会に出席している。
菊池 山哉(きくち さんさい、1890年〈明治23年〉10月… 菊池 山哉(きくち さんさい、1890年〈明治23年〉10月29日 - 1966年〈昭和41年〉11月17日)は、東京府出身の郷土史家、土木技師、政治家(東京市会議員)。本名は菊池武治。 1890年10月29日、東京府府中駅字新宿(現在の東京都府中市宮町)に生まれる。父・菊池金之丞、母・サタの四男。 1904年、府中町立高等小学校を首席で卒業。1906年1月まで私塾至誠学舎と原田塾に通い、数学と漢学を修める。2月に工手学校(現在の工学院大学)の土木予科に入学する。 1908年、東京府雇の技手判任官となる。1912年、東京府を退官し、東京市役所河港課に転じる。同年、東京人類学会と歴史地理学会と考古学会に入会する。
東海林 俊成(しょうじ とししげ/としなり、1890年10月… 東海林 俊成(しょうじ とししげ/としなり、1890年10月27日 - 1974年12月10日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。
田中 耕太郎(たなか こうたろう、1890年(明治23年)1… 田中 耕太郎(たなか こうたろう、1890年(明治23年)10月25日 - 1974年(昭和49年)3月1日)は、日本の法学者、法哲学者、裁判官、政治家。専門は商法。学位は法学博士。東京帝国大学法学部長、第1次吉田内閣文部大臣、第2代最高裁判所長官、国際司法裁判所判事、日本学士院会員。日本法哲学会初代会長。文化勲章、勲一等旭日桐花大綬章を受章。大勲位菊花大綬章を没後叙勲、正二位を追贈された。松本烝治に師事。弟子に山尾時三、伊沢孝平、西原寛一、鈴木竹雄、石井照久、矢沢惇など。 裁判官・検察官であった田中秀夫の長男として鹿児島県鹿児島市に生まれる。父の出身地は佐賀県杵島郡北方村(現在の武雄市)。 高等小学校2年次に岡山中学入学。
関 泰祐(せき たいすけ、1890年10月25日 - 198… 関 泰祐(せき たいすけ、1890年10月25日 - 1988年2月10日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。 1890年、京都府で生まれた。東京帝国大学独文科で学び、卒業。 卒業後は教員となり、新潟高等学校教授、静岡高等学校教授、第一高等学校教授を務めた。水戸高等学校校長。 戦後は一橋大学教授に就いた。その後、学習院大学教授、国士舘大学教授を務めた。 トーマス・マン、ゲーテ、テオドール・シュトルムなどを訳した。
杉本 伝(すぎもと つたえまたは つとう、正字体:杉本 傳、… 杉本 伝(すぎもと つたえまたは つとう、正字体:杉本 傳、1890年10月22日 - 1979年4月7日)は、日本の競泳指導者。 大阪市大阪市に生まれる。 大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)を経て日本体育会体操学校(現・日本体育大学)に進み、1911年に卒業する。卒業後は体育教員嘱託として母校の茨木中学校に着任した。 同校では、大正天皇の即位大典を記念して水泳場が建設され、1916年3月15日に竣工する。水泳場完成後、杉本は競泳の研究に取り組み、1919年に「水泳5ヵ年計画」を立案して「競泳研究特別班」を校内に編成する。茨木中学は、同年8月に静岡県田方郡戸田村(現・沼津市)で開かれた東京帝国大学主催の第3回全国競泳大会に初参加する(戸田には東京帝大の水泳場があった)。
北小路 三郎(きたこうじ さぶろう、1890年(明治23年)… 北小路 三郎(きたこうじ さぶろう、1890年(明治23年)10月22日 - 1969年(昭和44年)11月21日)は、明治から昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・北小路俊親の三男として生まれ、兄・北小路明の死去に伴い、1910年(明治43年)11月、家督を継承し、同年12月14日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1919年(大正8年)7月、東京帝国大学文学部史学科(西洋史学)を卒業し、さらに同大学院を修了した。 1901年(明治34年)侍従職出仕となる。以後、侍従兼式部官、図書寮編修官兼御歌所主事、御歌所参候、大礼使典儀官、歌会始奉行などを務めた。 1940年(昭和15年)9月21日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
金 若水(キム・ヤクス、김약수、1890年10月21日 - … 金 若水(キム・ヤクス、김약수、1890年10月21日 - 1964年1月10日)は、朝鮮の労働運動家、社会主義者、独立運動家、革命家。初代韓国国会議員。本名は金枓全(キム・ドゥジョン、김두전)または金枓熙(キム・ドゥヒ、김두희)。 独立運動家、ハングル学者の金枓奉は再従兄。 慶尚道機張郡(東莱郡を経て現・釜山広域市機張郡)出身。東莱郡機張私立保明学校、徽文義塾、京城工業学校、日本大学社会科卒業。 1918年に金元鳳、李如星らと共に中華民国の金陵大学(現・南京大学)に留学したが、翌年3・1運動が発生すると李如星と共に朝鮮に戻り、1920年に朴重華・朴珥圭などと共に朝鮮労働共済会を設立し幹部として活動したが、すぐに逮捕された。
九津見 房子(くつみ ふさこ、1890年10月18日 - 1… 九津見 房子(くつみ ふさこ、1890年10月18日 - 1980年7月15日)は、日本の社会運動家、社会主義者。日本最初の社会主義女性団体「赤瀾会」の創設者の一人。女性として初めて治安維持法により服役し、ゾルゲ事件にも連座して再度入獄した。 岡山市弓之町に生まれる。九津見家は備前勝山藩・三浦家の血筋につながる藩家老の家柄で、父・又雄は婿養子(旧姓: 内藤)。房子3歳の時に父が離縁されて、祖母のはる・母のうたとの3人の生活になる。生計は岡山医学専門学校産婆看護婦養成所を出ていたうたが産婆として稼ぎ、仏教徒で二刀流剣術や柔術など武芸に長じた武士階級出身だったはるとともに房子を育てた。やがてカトリック教会の付属幼稚園に入るが、房子が赤痢で重篤になった際に「天国に行けるよう」受洗を薦めるフランス人修道女(房子は「ははさま」と慕っていた)を、はるが「自分は極楽に行くつもりだからそうはさせぬ」と拒絶して、幼稚園も移ることになった。
原田 宇一郎(はらだ ういちろう、1890年(明治23年)1… 原田 宇一郎(はらだ ういちろう、1890年(明治23年)10月16日 - 1973年(昭和48年)2月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 滋賀県出身。原田宇之助の長男として生れる。膳所中学校卒業後、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。1919年(大正8年)11月から翌年10月まで、シベリア出兵に出征。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を優等で卒業し歩兵第15連隊中隊長に就任した。 1926年(大正15年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員を経て、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進し歩兵第61連隊付となる。
中根 正親(なかね まさちか、1890年10月16日 - 1… 中根 正親(なかね まさちか、1890年10月16日 - 1984年8月16日)は、中根式速記法の創案者。京都両洋高等学校の創立者。
木佐 徳之助(きさ とくのすけ、1890年〈明治23年〉10… 木佐 徳之助(きさ とくのすけ、1890年〈明治23年〉10月16日 - 1969年〈昭和44年〉6月7日)は日本の実業家、政治家。島根県平田市名誉市民。木佐家第9代当主。号は旅峰。島根県多額納税者。農業。位階は正六位。 徳三郎の男。慶大に学ぶ。農業を営む。 雲洋石油株式会社を創設し、1928年(昭和3年)社長となり、1945年(昭和20年)帰郷。 1948年(昭和23年)に平田町長に就任した。1954年(昭和29年)、町長を辞任した。1955年(昭和30年)2月5日から1967年(昭和42年)5月16日まで、平田市長を務めた。 宗教は大社教。住所は島根県平田市平田町。美術茶道など多方面で造詣深い風流人として知られた。
星野 応韶(ほしの まさつぐ、1890年(明治23年)10月… 星野 応韶(ほしの まさつぐ、1890年(明治23年)10月14日 - 1965年(昭和40年)1月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
原田 覚(はらだ かく/さとる、1890年〈明治23年〉10… 原田 覚(はらだ かく/さとる、1890年〈明治23年〉10月12日 - 1945年〈昭和20年〉9月25日)は、日本の海軍軍人。海兵41期。最終階級は海軍中将。特殊潜航艇の育ての親。 1890年(明治23年)10月12日、福島県耶麻郡長瀬村に生まれた。会津中学を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。1910年(明治43年)9月12日、海軍兵学校41期に入学。同期生に草刈英治(会津中学の同級生)、大田実、保科善四郎らがいる。1913年(大正2年)12月19日、118名中47番の席次で卒業。少尉候補生として練習航海に従事。1914年(大正3年)8月11日、巡洋戦艦「比叡」に乗組。
村瀬 直養(むらせ なおかい、1890年10月12日 - 1… 村瀬 直養(むらせ なおかい、1890年10月12日 - 1968年8月8日)は、日本の商工官僚、政治家、実業家。商工次官、貴族院議員、法制局長官、綜合計画局長官。 栃木県宇都宮市出身。本籍・愛知県。村瀬七三郎の長男として生まれる。 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、兵庫県立洲本中学校(現・兵庫県立洲本高等学校)、第五高等学校を経て、1914年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し銀時計を授与された。1913年11月、文官高等試験に合格し、1914年7月、農商務省に入り農商務属・大臣官房文書課に配属された。 鉱業監督官、兼工場監督官、兼農商務参事官、法制局参事官、内閣書記官・内閣官房会計課長、法制局第二部長などを歴任し、その間1925年に農商務省が農林省と商工省に分割され、商工省に属した。
武井 守成(たけい もりしげ、1890年(明治23年)10月… 武井 守成(たけい もりしげ、1890年(明治23年)10月11日 - 1949年(昭和24年)12月14日)は、日本の作曲家、指揮者。男爵。宮内官僚。
磯崎 貞序(磯﨑貞序、いそざき ていじょ、1890年(明治2… 磯崎 貞序(磯﨑貞序、いそざき ていじょ、1890年(明治23年)10月11日 - 1984年(昭和59年)9月10日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員(2期)、茅ヶ崎市名誉市民。 神奈川県高座郡鶴嶺村中島(茅ヶ崎町を経て現茅ヶ崎市中島)で、磯崎半十郎の長男として生まれる。神奈川県中郡立農業学校を経て、1912年(明治45年)東京農業大学を卒業した。 神奈川県農会に勤め、江陽銀行取締役、寒川農園取締役などに在任。1921年(大正10年)高座郡会議員(1期)となり、1927年(昭和2年)茅ヶ崎町会議員に当選して2期在任。1928年(昭和3年)4月、町会議員の互選で町長に当選したが辞退した。
葛目 直幸(くずめ なおゆき、1890年(明治23年)10月… 葛目 直幸(くずめ なおゆき、1890年(明治23年)10月10日 - 1944年(昭和19年)7月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は従四位勲二等功二級。 高知県長岡郡岡豊村笠ノ川(現・南国市岡豊町笠ノ川)出身。農業・葛目倉次・ふさの二男として生まれる。高知第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。歩兵第22連隊附としてシベリア出兵に従軍。内地帰還後の同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付に転じる。 1923年(大正12年)8月、歩兵大尉に昇進し近衛歩兵第4連隊中隊長に就任。東京警備副官を経て、1931年(昭和6年)8月、歩兵少佐に昇進し独立守備歩兵第3大隊付となる。
服部 有恒(はっとり ありつね、1890年(明治23年)10… 服部 有恒(はっとり ありつね、1890年(明治23年)10月9日 - 1957年(昭和32年)11月24日)は、大正・昭和期の日本画家。愛知県名古屋市出身。東京美術学校(現東京芸術大学)卒業。帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授。主に歴史人物画を得意とした。日展審査員。本名は謙一。
小酒井 不木(こさかい ふぼく、1890年10月8日 - 1… 小酒井 不木(こさかい ふぼく、1890年10月8日 - 1929年4月1日)は、日本の医学者・随筆家・翻訳家・推理作家・犯罪研究家。別名は鳥井零水。 医学者としては生理学・血清学の研究で業績を上げた。また、1921年(大正10年)から8年間に渡って探偵小説などの文筆活動を行った。江戸川乱歩のデビュー作である『二銭銅貨』は、不木が推薦したことで世に出た作品である。医師で順天堂大学名誉教授の小酒井望は長男。 1890年(明治23年)10月8日、愛知県海東郡新蟹江村(現・海部郡蟹江町大字蟹江新田)の地主の家の長男として生まれた。本名は小酒井光次(こさかいみつじ)。父親は小酒井半兵衛であり、村長や郡会議員も務めた人物である。
東條 かつ子(とうじょう かつこ、1890年〈明治23年〉1… 東條 かつ子(とうじょう かつこ、1890年〈明治23年〉10月8日 - 1982年〈昭和57年〉5月29日)は、第40代内閣総理大臣・東條英機の妻。夫の英機との間に7人の子供を儲けた。 生涯に渡って本人が用いた署名は「かつ子」。戸籍名はカツ。通称は勝子。 国防婦人会副会長を務めた。 かつ子は福岡県田川郡安真木村(現在の川崎町)の出身で、地元の長者の伊藤万太郎の娘として生まれる。幼少時から向学心が強かった。小倉高等女学校(現:福岡県立小倉西高等学校)在学中は、小倉の萬徳寺(英機の母・千歳の実家。伊藤家の遠縁でもあった。)に下宿していた。小倉高女を卒業すると、明治時代の女性にとっての最高レベルの教育を受けるべく、1906年(明治39年)に、日本女子大学校(現:日本女子大学)国文科に入学のため上京。
多田 武雄(ただ たけお、1890年(明治23年)10月7日… 多田 武雄(ただ たけお、1890年(明治23年)10月7日 - 1953年(昭和28年)3月3日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1890年10月7日、岩手県で盛岡中学校長・多田綱宏の二男として生まれる。盛岡中学から東京府立第一中学へ転校。府立一中を卒業後、海軍兵学校へ入校し、1912年(明治45年)7月、同校卒業(第40期)。海兵同期に、大西瀧治郎、宇垣纏、山口多聞、福留繁、岡新、千田貞敏、吉良俊一など。1913年(大正2年)12月、海軍少尉任官。 1918年(大正7年)12月、呉防備隊分隊長に就任するが、1919年(大正8年)4月、病気のため待命となる。1920年(大正9年)6月、軍令部出仕(第3班第5課)として復帰。
栗橋 保正(くりはし やすまさ、1890年(明治23年)10… 栗橋 保正(くりはし やすまさ、1890年(明治23年)10月7日 - 1967年(昭和42年)4月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。 茨城県出身。栗橋保孝の二男として生まれる。1911年(明治44年)5月、陸軍経理学校(5期)を卒業。同年12月、三等主計に任官し歩兵第50連隊付となる。1913年(大正2年)12月、陸軍被服本廠員に就任し、1915年(大正4年)6月、二等主計に昇進。1916年(大正5年)6月、経理学校学生となり、1917年(大正6年)5月から1918年(大正7年)5月まで、同校の員外学生となる。1920年(大正9年)8月、一等主計に進み、近衛師団経理部員、陸軍省経理局課員を歴任。
額田 六福(ぬかだ ろっぷく、明治23年(1890年)10月… 額田 六福(ぬかだ ろっぷく、明治23年(1890年)10月2日 - 昭和23年(1948年)12月21日)は、日本の劇作家・大衆小説作家。岡本綺堂の高弟。翻訳家、額田やえ子の父。 岡山県勝南郡勝田村(現在の勝田郡勝央町)に生まれた。本来の名前はむつとみ。5男2女の末子であった。勝間田尋常小学校のとき父を亡くしたが、家は豊かであった。勝南高等小学校を経て、明治37年(1904年)、津山中学へ進んだが、校則に触れ、京都市の立命館中学へ転じた。 明治41年(1908年)17歳のとき、結核性関節炎になり、翌年右腕切断の手術を受けた。脊髄カリエスも病んだ。 明治44年の「演藝画報」誌の懸賞に、勝間田町から『踏絵』を応募して落選したが、その選者岡本綺堂に、入門を願って快諾を得、原稿を送り添削を受け推敲を重ねるという、通信指導を受けた。
細川 利寿(利壽、ほそかわ としほぎ / としほき、1890… 細川 利寿(利壽、ほそかわ としほぎ / としほき、1890年(明治23年)10月1日 - 1946年(昭和21年)6月18日)は、大正・昭和期の農林官僚、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵細川利文(細川利永の婿養子)の長男として生まれる。父の死去に伴い、1944年(昭和19年)5月15日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、1915年(大正4年)5月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1918年(大正7年)10月、高等試験行政科試験に合格。1919年(大正8年)農商務省に入省し山林局属に任官した。 以後、山林事務官、特許局事務官、農商務事務官、農林事務官兼農林大臣秘書官、農林書記官、外務書記官、農林省畜産局長、同蚕糸局長などを歴任し、1928年(昭和3年)に退官した。
中村 又一(なかむら またいち、1890年(明治23年)10… 中村 又一(なかむら またいち、1890年(明治23年)10月1日 - 1971年(昭和46年)2月22日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→日本進歩党→民主党)、司法参与官。弁護士。 佐賀県藤津郡古枝村(現在の鹿島市)出身。日本大学で学んだ後、1914年(大正3年)から翌年にかけて臨時陸軍輜重輸卒として日独戦争に従軍し、金鵄勲章を得た。1916年(大正5年)、三菱鉱業唐津鉱業所に入り、やがて台湾製糖に移った。そのかたわら1919年(大正8年)に明治大学法学部を卒業。1923年(大正12年)に弁理士試験に合格し、さらに翌年には弁護士試験に合格して開業した。その後、東京市会議員、同参事会員に選出された。
新田 昌次(にった しょうじ、1890年〈明治23年〉10月… 新田 昌次(にった しょうじ、1890年〈明治23年〉10月 - 1948年〈昭和23年〉2月7日)は、日本の実業家。日本工業革製品統制社長。新田化学工業取締役。新田帯革製造所(現ニッタ)、新田ベニヤ製造所各無限責任社員。父は新田帯革製造所創業者の新田長次郎。族籍は大阪府平民。 大阪府大阪市出身。新田長次郎の四男、あるいは三男。新田宗一、新田長三の弟。新田愛祐の兄。慶應義塾大学理財科卒業。帯皮革製造業を営む。1923年、分家した。1948年死去。宗教は真言宗。大阪府在籍で、住所は大阪市住吉区帝塚山中、同市浪速区久保吉。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
金森 次郎(かなもり じろう、1889年(明治22年)10月… 金森 次郎(かなもり じろう、1889年(明治22年)10月31日 - 1983年(昭和58年)8月14日)は日本の実業家。東京光学機械元社長。山之内製薬(現:アステラス製薬)元顧問。宗教家金森通倫の二男。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
安達 幸雄(あだち ゆきお、1889年〈明治22年〉10月2… 安達 幸雄(あだち ゆきお、1889年〈明治22年〉10月29日 - 没年不明)は、日本の弁護士、弁理士。安達兄弟法律事務所長。東京相互利殖監査役。人事興信所法律顧問。 鳥取県東伯郡三朝村(現・三朝町)出身。安達幸男の長男。生家は豊かではなかったので父母に学資を仰ぐことを避け、16歳の頃、旅費10円を懐にして、単身上京する。以来職をもとめて学資を得、研学につとめ1908年に順天中学校の編入試験を受けてその4学年に入学し、同校を卒業後添田増男の法律事務所に仕えて苦学研鑚する。 1916年に日本大学法律科を卒業し、同年に判検事登用試験・弁護士試験に合格する。東京市牛込区下宮比町に独立して弁護士事務所を開業する。
依田 養七(よだ ようしち、1889年〈明治22年〉10月2… 依田 養七(よだ ようしち、1889年〈明治22年〉10月28日 - 1976年〈昭和51年〉10月22日)は、岩手県の政治家。初代江刺市(現在の奥州市)長(1期)を歴任。 江刺郡岩谷堂町(のち江刺郡江刺町→江刺市、現在の奥州市)の味噌醤油醸造業の家に生まれる。1921年〈大正10年〉岩谷堂町会議員となり、3期務めたほか、学務委員となった。1934年〈昭和9年〉岩谷堂町長に当選する。1938年〈昭和13年〉まで務めた後、1945年〈昭和20年〉に再任。翌年まで務めた。 戦後、公職追放となり、追放解除後の1954年〈昭和29年〉岩谷堂町長に復帰。当時、「昭和の大合併」による岩手県が進めていた町村合併計画を実現するにあたり、江刺郡内では各町村の利害が対立し、その意向が極度にそろわない状態だった。
河原 利明(かわはら としあき、1889年(明治22年)10… 河原 利明(かわはら としあき、1889年(明治22年)10月28日 - 1942年(昭和17年)10月19日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功二級 鹿児島県、現在の鹿児島市で生まれた。陸軍士官学校第24期、陸軍大学校第34期卒業卒業。1935年(昭和10年)12月に飛行第9連隊長に就任し、1936年(昭和11年)8月に陸軍航空兵大佐に進級した。1937年(昭和12年)に陸軍士官学校分校幹事に転じ、1938年(昭和13年)に陸軍航空士官学校幹事に就任。 1939年(昭和14年)3月9日に陸軍少将に進級し、8月1日に東京陸軍航空学校長に着任。1940年(昭和15年)12月に第4飛行団長に転じ、1942年(昭和17年)8月15日に南方航空輸送司令官(南方軍)に就任。
藤澤 清造(ふじさわ せいぞう、1889年〈明治22年〉10… 藤澤 清造(ふじさわ せいぞう、1889年〈明治22年〉10月28日 - 1932年〈昭和7年〉1月29日)は、日本の小説家、劇作家、演劇評論家である。 石川県鹿島郡藤橋村ハ部37番地(現在の七尾市馬出町)に、藤澤庄三郎・古への次男として出生。長姉とよ、兄信治郎、次姉よねにつづく第4子であった。1900年、七尾尋常高等小学校男子尋常科第4学年を卒業。卒業後、七尾町内の活版印刷所に勤め、印刷所が新聞取次を兼業していたことから新聞配達を担当していたが、右足が骨髄炎に罹り手術を受け自宅療養。以降、生涯にわたり骨髄炎の後遺症に苦しめられた。恢復後は、阿良町の足袋屋「大野木屋」、次いで、鋲屋、代書屋に勤めた。
函館 孫作(はこだて まごさく、旧姓:千歳〈ちとせ〉、188… 函館 孫作(はこだて まごさく、旧姓:千歳〈ちとせ〉、1889年10月28日 - 1959年4月12日。)は日本の競馬の騎手・調教師。北海道茅部郡森村(現在の茅部郡森町)出身。主戦を勤めていたワカタカに騎乗して、第1回東京優駿大競走(現・東京優駿〈日本ダービー〉)に優勝したことが知られている。 実家は宿屋を営んでおり、使役馬が2 - 3頭いた。孫作の父が「日本馬術の英雄」や「北海道の三士」のひとりとして知られた函館大経の弟子だった関係で16歳のとき、大経に弟子入りし翌年騎手デビューする。 21歳のころ大次の妻の姪(兄の娘)と結婚し、函館家へ養子として入った。代々函館家は養子で成り立っていた家系で大経の跡を継いで養子となったのは実弟の大次で、その跡を継いだのは大次の甥(次兄・藤八の息子)の大政であった。
金澤 正夫(かなざわ まさお、1889年(明治22年)10月… 金澤 正夫(かなざわ まさお、1889年(明治22年)10月25日 - 1969年(昭和44年)6月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 山口県出身。神職百済忠敬の二男として生れ、金沢家に養子に入った。山口中学校を経て、1911年7月、海軍兵学校(39期)を卒業し、1912年12月、海軍少尉に任官。1918年12月、海軍砲術学校高等科を卒業。「山城」分隊長、「樫」乗組、砲術学校教官などを経て、1923年10月、海軍大学校(甲種21期)を卒業した。 その後、「比叡」副砲長、「浅間」砲術長、「多摩」砲術長、軍令部参謀を歴任し、1927年12月、海軍省副官兼海相秘書官となり岡田啓介大臣に仕えた。