伊東 正義(いとう まさよし、1913年〈大正2年〉12月1… 伊東 正義(いとう まさよし、1913年〈大正2年〉12月15日 - 1994年〈平成6年〉5月20日)は、日本の政治家、農林官僚。 衆議院議員(9期)、外務大臣(第109代)、内閣総理大臣臨時代理、副総理、内閣官房長官(第43代)、自由民主党政務調査会長(第32代)、自由民主党総務会長(第30代)を歴任した。 1913年、福島県若松市(現・会津若松市)に生まれる。祖父の伊東健輔は会津藩士、父の伊東秀三郎は旧制会津中学校(現・福島県立会津高等学校)の一回生で同校教諭となった。 旧制会津中学校、旧制浦和高等学校(現・埼玉大学)を経て、東京帝国大学法学部を卒業。農林省に入省する。農務局嘱託。その後、間もなく興亜院に出向する。
武田 明(たけだ あきら、1913年12月15日 - 199… 武田 明(たけだ あきら、1913年12月15日 - 1992年7月29日)は日本の民俗学者。香川県出身。また、多度津町長も務めた。 1913年(大正2年)、香川県仲多度郡多度津町にて武田亮太郎、ハナの次男に生まれる。実家は、江戸末期からの北前船回船問屋を起源とする事業家。当時は県内の電力、金融等、社会資本関連企業の経営に広く携わっていた。 旧制香川県立多度津中学校(現・香川県立多度津高等学校)5年の時、柳田国男の『石神問答』を読み民俗学を志す。 1931年(昭和6年)、中学を卒業し、慶應義塾大学に入学。予科3年の時、初めて採集した昔話が関敬吾の編集する『昔話研究』第二巻に「祖谷 美馬郡昔話」として掲載され、関の紹介で柳田を自宅に訪ねる。
高松 俊夫(たかまつ としお、1913年 <大正2年> 12… 高松 俊夫(たかまつ としお、1913年 <大正2年> 12月14日 - 2004年 <平成16年> 4月28日)は、日本の経営者。不二越社長を務めた。 静岡県出身。1934年に名古屋高等商業学校を卒業し、同年に日本銀行に入行。1967年11月に監事に就任し、1969年7月に不二越副社長に就任し、1972年1月には社長に昇格。1979年5月に会長を経て、1985年2月から相談役を務めた。 1984年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2004年4月28日心不全のために死去。90歳没。
河村 弘二(かわむら こうじ、1913年12月13日 - 1… 河村 弘二(かわむら こうじ、1913年12月13日 - 1998年8月12日)は、日本の俳優、声優である。本名は河村 弘仁(読み同じ)。 東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)出身。府立第八中学校(現在の東京都立小山台高等学校)卒業。創作座、P.C.L映画製作所、文学座、東宝、森の会、プレーヤーズセンター、東京俳優生活協同組合に所属していた。 3人兄弟の次男で、兄は医者の金田義人、妹は女優の河村久子。 中学校卒業後、劇団プレイボーイズを経て、創作座に入団し『デット・エンド』『大地』などに出演する。 1936年、P.C.L.映画製作所が製作した木村荘十二監督映画『彦六大いに笑ふ』で映画デビュー。
天田 勇(あまだ いさむ、1913年 <大正2年> 12月1… 天田 勇(あまだ いさむ、1913年 <大正2年> 12月13日 - 1997年 <平成9年> 1月20日)は、日本の経営者。アマダの創業者。位階は正五位。 東京都出身。1934年に早稲田高等工学校を卒業。 1946年に個人創業し、1953年には天田製作所(のちのアマダ)社長に就任。1983年11月には会長に就任。 1975年10月に紫綬褒章を受章し、1984年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1997年1月20日心不全のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
奈良本 辰也(ならもと たつや、1913年12月11日 - … 奈良本 辰也(ならもと たつや、1913年12月11日 - 2001年3月22日)は、日本の歴史学者。立命館大学教授、部落問題研究所所長などを歴任。日本中世史、幕末史、特に郷里でもある長州藩に関係した著作多数。 1913年、山口県大島郡小松志佐村(後に大島町を経て現・周防大島町)で生まれた。旧制岩国中学校(現:山口県立岩国高等学校)を経て、1935年3月旧制松山高等学校文科甲類を卒業。 京都帝国大学文学部国史学科に進学し、西田直二郎に師事した。1938年、同大学を卒業。卒業論文は『近世に於ける市民的世界観への通路-主として思想史に於ける商業資本の問題-』であった。 1938年、兵庫県立豊岡中学校(現:兵庫県立豊岡高等学校)教諭となった。
園田 直(そのだ すなお、1913年〈大正2年〉12月11日… 園田 直(そのだ すなお、1913年〈大正2年〉12月11日 - 1984年〈昭和59年〉4月2日)は、日本の政治家、陸軍軍人。位階は正三位。 挺進第1連隊第2中隊長等を務める。階級は陸軍大尉。戦後一町田村助役・同村長を経て衆議院議員に当選。内閣官房長官、外務大臣、厚生大臣等を歴任。熊本県天草島出身。弟の幹男は陸軍少佐。後妻・よし子との間に生まれた長男の博之は内閣官房副長官・自由民主党衆議院議員を務めた。また後々妻・天光光との間に生まれた次男の直飛人は自身の議員秘書にしている。 町長・熊本県議会議員を務めた園田二三四の長男として生まれ、天草中学校(現:熊本県立天草高等学校)を卒業し大阪歯科医学専門学校(現大阪歯科大学)に進学するが徴兵される。
佐藤 志満(さとう しま、1913年(大正2年)12月11日… 佐藤 志満(さとう しま、1913年(大正2年)12月11日 - 2009年(平成21年)7月23日)は、日本の歌人。福岡県出身。夫は佐藤佐太郎。昭和20年代後半の5年間の作品を収めた第一歌集「草の上」では、戦後の貧しい日常生活を抒情豊かに詠じた。歌誌「歩道」の発行に力を注ぎながら生涯にわたり精力的に作歌を続け、晩年には、文芸評論家梶木剛が「志満調」と呼んだ、自宅庭前を中心とする独自の歌風を確立した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
大木 実(おおき みのる、1913年(大正2年)12月10日… 大木 実(おおき みのる、1913年(大正2年)12月10日 - 1996年(平成8年)4月17日)は、日本の詩人である。 東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区)の生まれ。幼年の頃は実母が病気により死去し、さらに関東大震災により継母および実弟、実妹が犠牲となる等不遇の生活を過ごした。その後は電機学校(現在の東京電機大学)に入学したが、中退しその後は大蔵省土木寮の工員や出版社に勤務し、埼玉県大宮市(現在のさいたま市)の大宮市役所の職員となる等職を転々とした。 その後は少年時代から北原白秋や西條八十の童謡に親しんだことや学生時代に佐藤春夫や室生犀星といった日本人詩人のみならず、フョードル・ドストエフスキーやシャルル=ルイ・フィリップ等の海外の小説家が執筆した作品に傾倒し詩人としての活動を始める。
堺 駿二(さかい しゅんじ、1913年〈大正2年〉12月10… 堺 駿二(さかい しゅんじ、1913年〈大正2年〉12月10日 - 1968年〈昭和43年〉8月10日)は、東京都出身のコメディアン、喜劇俳優である。本名は栗原 正至。 実兄は浪曲師の港家小柳丸(初代)、次男はマルチタレントの堺正章。甥にボンボンブラザースの鏡味繁二郎(本名:栗原重夫)がいる。 東京府東京市本所区太平町1丁目(現:東京都墨田区太平1丁目)の桶製造業の家に8人兄弟の末子の3男として生まれる。芝居好きの母の勧めで尋常小学校を中退し11歳で新派の伊村義雄一座に入る。伊村は師匠の伊井蓉峰と河合武雄から一字ずつもらって芸名とした新派俳優で、20代半ばで一座を立ち上げ、浅草公園六区の公園劇場を中心に活躍していた。
桑原 甲子雄(くわばら きねお、1913年〈大正2年〉12月… 桑原 甲子雄(くわばら きねお、1913年〈大正2年〉12月9日 - 2007年〈平成19年〉12月10日)は、日本の写真家、写真評論家、編集者。 東京府東京市下谷車坂町(現東京都台東区東上野)に生まれる。濱谷浩とは幼なじみ。1926年に東京市立第二中学校(現都立上野高校)入学。1931年の卒業後、体をこわし進学を断念。家業の質屋を手伝うが商売が厭わしく、同じ町内に住んでいた濱谷の影響もあって、中古のベスト・ポケット・コダックを手に入れ写真を撮りはじめる。1934年にはライカI(C)型をフォーディス距離計付きで父親に200円で買ってもらい、アマチュア写真家として活発に活動を始め、1934年のうちに浅沼商会発行の写真雑誌『写真新報』主催、シュミット商会協賛のライカ作品公募コンクール第2回の特賞を獲得している。
森下 二次也(もりした ふじや 1913年(大正2年)12月… 森下 二次也(もりした ふじや 1913年(大正2年)12月9日 - 2005年12月29日)は、日本の経済学者。 大阪府に生まれる。富田林中学校を卒業後、大阪商科大学 (旧制)高商部を経て、1937年(昭和12年)、同大市政科を卒業。1958年(昭和33年)大阪市立大学商学部長に就任。退任後、同大名誉教授。その後、大阪学院大学教授を務めた。 2005年12月29日午後0時55分、心不全のため大阪府羽曳野市内の病院で死去、92歳。 主な著作は次の通り。
大島 清(おおしま きよし、1913年12月9日 - 199… 大島 清(おおしま きよし、1913年12月9日 - 1994年10月8日)は、日本の経済学者。筑波大学名誉教授。専攻はマルクス経済学における経済原論、金融論。東京教育大学教授、筑波大学副学長、立正大学・帝京大学教授を歴任。妻は作家の芝木好子。元住所(現在は退去済み)「東京都杉並区高円寺北497」。 1913年、北海道室蘭市の網元の家に生まれる。小樽高等商業学校を経て、東北帝国大学卒業。東北帝大では宇野弘蔵に師事し、卒業後は宇野経済学の立場から経済原論、金融論の研究で成果をあげた。 大島が入学した当時の東北帝国大学は旧制高等学校卒業生以外の枠外学生も入学を許可されており(傍系入学という)、傍系入学者の中に優秀な2人の大島清(もう一人はのちの法政大学教授の大島清)がいて、しばしば間違われた。
三宅 芳夫(みやけ よしお、1913年(大正2年)12月7日… 三宅 芳夫(みやけ よしお、1913年(大正2年)12月7日 - 1983年(昭和58年)4月26日)は、元体操選手。 日本体育大学出身。1936年ベルリンオリンピックに出場した。引退後は、中京大学の教員となった。 この項目は、体操に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:スポーツ/Portal:スポーツ)。
杉原 荘介(すぎはら そうすけ、1913年12月6日 - 1… 杉原 荘介(すぎはら そうすけ、1913年12月6日 - 1983年9月1日)は、日本の考古学者。 1913年に東京市日本橋区小舟町に生まれた。府立三中(現都立両国高校)の時代に考古学を志すも、家業の和紙問屋を継ぐ。東京考古学会の同人として活躍。1935年東京外国語学校専修科(仏語)を卒業し、1937年上智大学外国語学校独語科卒業。1941年、27歳で明治大学専門部地歴科に入学し、1943年首席卒業。同年、卒業論文『原史学序論』を上梓。卒業とともに軍務に服し、1946年の春に復員する。同年4月から文部省嘱託教科書局に勤務し、国定歴史教科書『くにのあゆみ』の編輯などにあたった。1948年から明治大学専門部助教授、翌年に同大学文学部助教授、1953年には文学部教授となる。
岡嶋 清熊(おかじま きよくま 1913年(大正2年)12月… 岡嶋 清熊(おかじま きよくま 1913年(大正2年)12月6日 - 1995年(平成7年)2月24日)は日本の海軍軍人、海上自衛官。海軍兵学校(第63期)卒。最終階級は、海軍で海軍少佐、海自で海将補。 1913年(大正2年)12月6日、熊本県に生まれる。熊本中学を経て1932年(昭和7年)4月、海軍兵学校に第63期生として入校。1936年(昭和11年)3月19日に卒業し海軍少尉候補生としてアメリカ・ニューヨークまでの遠洋航海に出る。終了後、重巡洋艦「足柄」乗組。1937年(昭和12年)4月、海軍少尉任官。同年9月、海軍練習航空隊飛行学生を拝命。同課程終了後、延長教育を受け、以後戦闘機搭乗員としての道を歩む。
今村 泰二(いまむら たいじ、1913年12月4日 - 20… 今村 泰二(いまむら たいじ、1913年12月4日 - 2004年12月28日)は、日本の動物学者で、ミズダニ研究の世界的権威。兵庫県出身。 1946年から1971年に国内外で収集されたミズダニ類の標本1,541点が、本人の生前からの希望もあり茨城大学理学部森野浩教授および茨城大学広域水圏科学教育研究センター菊地義昭教授ならびに日本大学大学院生物資源科学研究科安倍弘教授の尽力により、2005年に遺族からミュージアムパーク茨城県自然博物館(館長:菅谷博)へ寄贈された。 標本の中には、28科59属154種10亜種のホロタイプ(正基準標本)が含まれており、学術的に大変貴重なものである。寄贈された標本は、「今村泰二ミズダニ類コレクション」として同博物館で保管されている。
石原 俊輝(いしはら としてる、1913年12月3日 - 1… 石原 俊輝(いしはら としてる、1913年12月3日 - 1993年2月26日)は、日本の経営者。信濃毎日新聞社社長、信越放送社長を務めた。山形県出身。 1939年に早稲田大学法学部独法科を卒業し、中外商業新報社(現日本経済新聞社)入社。1940年に朝日新聞社へ移籍、椎名悦三郎、中山素平に深く食い込むなど経済記者として活躍する。 朝日新聞経済部の同僚だった信濃毎日新聞一族・小坂徳三郎からの要請で、1951年7月に信濃毎日新聞に転じ、1953年に編集局長、1954年1月に取締役に就任し、1960年7月に常務、1973年11月に社長に就任、1992年に新聞制作システム「ニュー・コスモス」の開発・導入が評価され、日本新聞協会賞「経営・業務部門」を受賞した。
嘉門 安雄(かもん やすお、1913年12月1日 - 200… 嘉門 安雄(かもん やすお、1913年12月1日 - 2007年1月5日)は、日本の西洋美術研究者、美術評論家。ブリヂストン美術館館長、東京都現代美術館長、全国美術館会議議長を務めた。 1913年、石川県生まれ。1937年、東京帝国大学文学部美術史学科を卒業。西洋美術史を専攻し、児島喜久雄の助手を務めた。 1947年より東京国立博物館で勤務。表慶館で開催されたマチス展、ブラック展、ルオー展などを担当した。1959年に国立西洋美術館が開館したことに伴い、異動。事業課長としてコレクションの収集、各種の展覧会開催に関わった。1964年には、第32回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展のコミッショナーを務めた。
葦葉山 七兵衛(あしばやま しちべえ、1913年12月1日 … 葦葉山 七兵衛(あしばやま しちべえ、1913年12月1日 - 1962年2月28日)は、東京都港区出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は横山 希雄。最高位は東前頭12枚目。身長177cm、体重116kg。得意手は右四つ、寄り。 東京府東京市麻布区(現在の東京都港区元麻布)生まれ。1928年5月場所に初土俵、1943年5月場所に新入幕を果たした。初土俵から十両昇進まで10年、さらに入幕まで5年を掛けた晩成型であった。1945年11月場所限りで引退、年寄・高田川、のち枝川を襲名。木戸主任から師匠に人柄と豊富な知識を買われ、在京理事に昇進した。1962年心臓病で48歳で死去。相撲の取り口は当時としては恵まれた体格を生かした突進型であったが、足を痛めて威力が激減した。
林 雄一郎(はやし ゆういちろう、1912年(大正元年)12… 林 雄一郎(はやし ゆういちろう、1912年(大正元年)12月31日 - 2004年(平成16年)8月19日)は、昭和時代から平成時代にかけての合唱指揮者、作曲家。 大阪市・船場で紙箱製造業を営む家庭の五男として生まれる。汎愛小学校、明星商業学校を経て1930年(昭和5年)関西学院高等商業部に入学。在学中は関西学院グリークラブに所属し、3年生より学生指揮者を務める。在籍中に後に「関学トーン」と呼ばれる独自の響きを編み出し、1933年(昭和8年)第7回競演合唱祭に初出場で優勝。 卒業後は合唱指揮、作曲・編曲で活動。特に宗教曲、歌曲、流行曲等多岐にわたる合唱編曲に力を入れ、また師事した山田耕筰から山田の全歌曲を合唱に編曲するよう依頼され精力的に取り組んだ。
澤野 久雄(さわの ひさお、1912年12月30日 - 19… 澤野 久雄(さわの ひさお、1912年12月30日 - 1992年12月17日)は、埼玉県浦和町(現・さいたま市)出身の小説家。 埼玉県浦和町(現・さいたま市)生まれ。埼玉県立浦和高等学校を経て、早稲田大学国文科卒。都新聞(現東京新聞)に勤務した後、1940年、朝日新聞社に入社、49年に同人誌『文学雑誌』に発表した「挽歌」が芥川賞候補になり、川端康成の恩顧を受ける。1951年、「方舟追放」で再度芥川賞候補、52年に「夜の河」を発表、三度芥川賞候補となるが落選、しかし同作は1956年に山本富士子主演で映画化され、これが代表作となった。1955年、「未知の人」で四たび芥川賞候補、遂に受賞には至らなかった。
早瀬 鎮雄(はやせ しずお、1912年12月28日 - 19… 早瀬 鎮雄(はやせ しずお、1912年12月28日 - 1975年2月26日)は、日本の経営者。日興証券社長を務めた。愛知県名古屋市出身。 1933年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に日興証券に入社した。 1958年11月に取締役に就任し、1961年11月に常務、1964年10月に専務、1968年8月に副社長を経て、1973年12月に社長に就任。 1975年2月26日脳出血のために在任中に死去。62歳没。
倉林 誠一郎(くらばやし せいいちろう、1912年12月28… 倉林 誠一郎(くらばやし せいいちろう、1912年12月28日 - 2000年5月2日)は、日本の演劇制作者(演劇プロデューサー)。劇団俳優座主事として、俳優座劇場創立を主導し、新劇の制作者(プロデューサー)を務めた。また、日本芸能実演家団体協議会(芸団協)、日本新劇経営製作者協会(現・日本新劇製作者協会)、中劇場協議会等の業界団体の設立を主導し、会長・常任理事を歴任した。 ※主な出典は著書『演劇制作者』(而立書房)による。 現在の東京都江東区深川に生まれる。1927年3月に開進第一尋常小学校高等科を卒業して智山中学校2年に編入となる。 1933年に徴兵検査を受けたが、丙種で徴兵免除となる。向島の資生堂化粧品工場で働く。
大原 久友(おおはら ひさとも、1912年 <大正元年> 1… 大原 久友(おおはら ひさとも、1912年 <大正元年> 12月26日 - 1994年 <平成6年> 9月25日)は、日本の畜産学者・農学者・元地方公務員。専門は、畜産学・酪農学・草地学。学位は、農学博士(北海道大学・1945年)。元帯広畜産大学学長。位階は従三位。恩師は井口賢三。 北海道苫前郡羽幌町生まれ。1936年(昭和11年)北海道帝国大学農学部を卒業し、北海道庁技官。1942年(昭和17年)帯広高等獣医学校教授。1945年、北海道大学より農学博士の学位を取得。学位論文の題は「北海道産笹類の家畜栄養学的研究」。1950年(昭和25年)帯広畜産大学畜産学部教授。1969年(昭和44年)、同学長事務取扱。
松澤 太郎(まつざわ たろう、1912年(大正元年)12月2… 松澤 太郎(まつざわ たろう、1912年(大正元年)12月26日 - 2007年(平成19年)3月11日)は、昭和期の機械技術者、政治家。 長野県下伊那郡上飯田村(現飯田市)で、松澤茂雄、寿美の長男として生まれた。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)、旧制松本高等学校理科甲類を経て、1938年(昭和13年)3月、京都帝国大学工学部機械工学科を卒業。 石川島芝浦タービンから1950年(昭和25年)芝浦ミシンに転職し、1955年(昭和30年)退社。飯田市商工観光課工業指導事務嘱託を経て、1956年(昭和31年)飯田市教育長、1964年(昭和39年)飯田市総務部長となり、1968年(昭和43年)に退職。
奥田 眞啓(おくだ まさひろ、1912年12月26日 – 1… 奥田 眞啓(おくだ まさひろ、1912年12月26日 – 1949年4月8日)は日本の歴史学者。専門は日本中世史。 東京生まれ。関東大震災罹災のため一時、鹿児島県に転居。1933年3月、府立高等学校 (旧制)を卒業。同年4月に東京帝国大学文学部国史学科入学、同期に井上清、磯貝正義、新城常三らがいる。卒業論文「鎌倉時代の武士と神社−特に其民族的信仰形態に就て」をまとめて、1936年に卒業。その後、東京帝国大学史料編纂所勤務。日本中世における氏寺について、先駆的な研究を行った。
阿部光子(あべ みつこ、1912年12月25日 - 2008… 阿部光子(あべ みつこ、1912年12月25日 - 2008年2月26日)は、作家、キリスト教伝道者。本名、山室光(みつ)。
オリエ 津阪(オリエ つさか、1912年12月24日 - 2… オリエ 津阪(オリエ つさか、1912年12月24日 - 2003年)は、日本の俳優。松竹少女歌劇の男役スターとして、1930年代のレビュー・ブーム期に同じ松竹の水の江瀧子や宝塚少女歌劇の小夜福子、葦原邦子らと共に「男装の麗人」として人気を博した。松竹歌劇の黄金時代を築いた人物として水の江と並び称される。松竹退団後は劇団主宰などを経て1950年代初頭まで映画にも出演。その後は日本舞踊の師匠となり表舞台からは退いた。 1912年、秋田県秋田市下米町に添田浩道、貞夫妻の長女(一人娘)として生まれる。本名は添田テフ。後に「順真(よしみ、『よし美』とも)」と改めている。1921年に東京府王子区中野に移り住み、以後同地で育った。
斉藤 丑松(さいとう うしまつ、旧姓鹿倉(しかくら)、191… 斉藤 丑松(さいとう うしまつ、旧姓鹿倉(しかくら)、1912年12月24日 - 1994年6月4日)は日本の作曲家、ホルン奏者。茨城県猿島郡新郷村(現古河市)出身。 1912年、茨城県猿島郡に鹿倉浅之丞の四男として生まれる。1929年、海軍軍楽兵として横須賀海兵団に入団。アルトホルンを専攻する。1931年には地中海方面に派遣された練習艦隊に乗り組む。成績優秀につき1932年には東京音楽学校に練習生として派遣される。1935年に処女作である「空軍の威力」を発表して以来、帝国海軍軍楽隊のエースとして活躍。その独特の旋律は「鹿倉節」と軍楽隊関係者でよばれていた。もっとも、作品の著作権を軍楽隊員個人が持つことがふさわしくないとされたため、作品は発表当時はすべて「○○(陸軍、海軍、帝国のいずれかが入る)軍楽隊作曲・編曲」と記されるようになった。
永島 福太郎(ながしま ふくたろう、1912年12月22日 … 永島 福太郎(ながしま ふくたろう、1912年12月22日 - 2008年8月19日)は、日本の歴史学者。関西学院大学名誉教授。
飯田 三郎(いいだ さぶろう、1912年(大正元年)12月2… 飯田 三郎(いいだ さぶろう、1912年(大正元年)12月20日 - 2003年(平成15年)4月24日)は、昭和期の作曲家。北海道根室市出身。 初め、独学で作曲を学ぶ。根室商業学校卒業後上京し、作曲を池内友次郎、指揮を山田和男に師事する。 同じ根室出身で、根室商業学校の先輩でもある作詞家・高橋掬太郎と組み、「啼くな小鳩よ」「ここに幸あり」などの楽曲を作った。故郷を愛し、交響組曲「北国讃歌」等の根室に関連する曲を数多く作った。 1973年、ミサ曲が認められ、ローマ法王庁より褒状を授与される。 根室市総合文化会館1階には飯田三郎資料展示室がある(2022年11月26日に根室市図書館から移転)。
武田 邦太郎(たけだ くにたろう、1912年(大正元年)12… 武田 邦太郎(たけだ くにたろう、1912年(大正元年)12月20日 - 2012年(平成24年)11月15日)は、日本の政治家。元参議院議員(1期)。日本新党副代表。1998年勲三等旭日中綬章を受章。 広島県福山市生まれ。福岡高等学校を経て、東京帝国大学文学部卒業後、鐘紡に入社。同社農林部に所属し、満洲において農業事業に取り組んでいるとき、職業軍人・石原莞爾と知り合う。これは、武田の従兄に当たる池本喜三夫が石原のブレインであったことも大きいという。 終戦を迎え、石原は生まれ故郷である山形県・鶴岡に戻り、遊佐の鳥海山麓に自給自足の農村共同体である「西山農場」を創設し、理想郷づくりをはじめる。石原が目指した「小さな満洲」建設には、武田や石原の一番弟子で、武田の良きパートナーであった曹寧柱をはじめ全国から「東亜連盟」の理想に共鳴するものが参加。
平賀 健太(ひらが けんた、1912年12月20日 - 20… 平賀 健太(ひらが けんた、1912年12月20日 - 2004年2月18日)は、日本の裁判官、弁護士、行政官。 1969年、北海道長沼町の保安林解除処分の執行停止申し立て事件(いわゆる長沼ナイキ基地訴訟)は、保安林への自衛隊基地の建設をめぐり自衛隊の合憲性を争点とするものとなった。 札幌地方裁判所所長であった平賀は、裁判の長沼ナイキ事件の裁判長であった福島重雄に対し、数度にわたり口頭で保安林解除を認める国側の主張に沿った判断を下すよう指導、福島が指導を聞き入れないとみると「一先輩のアドバイスとして、参考になるようなら判断の一助にしてください」とする書き出しで改めて判断を翻すことを促す書簡を送った。
佐々木 慶市(ささき けいいち、1912年12月20日 – … 佐々木 慶市(ささき けいいち、1912年12月20日 – 2002年 8月21日)は、日本の歴史家。 宮城県大崎市生まれ、1930年に第二高等学校に入学。柔道部の選手でもあった。3年生のときに日本史の本を読むようになり、特に三浦周行『国史上の社会問題』を読んだことが室町期の社会に興味を持つきっかけとなった。また、在学中に 武内義範らと歴史同好会の活動をし、そこで伊東信雄と知り合い、東北帝国大学への進学を勧められた。1933年に二高を卒業する。同年、東北帝国大学法文学部に入学。古田良一に師事するとともに、中村吉治の指導も受けた。また、伊木寿一から古文書学を学び、実習で飯野八幡宮文書の調査を行ったことが、のちの好嶋荘や岩城氏の研究につながった。
栗田 英男(くりた ひでお、1912年(大正元年)12月20… 栗田 英男(くりた ひでお、1912年(大正元年)12月20日 - 1996年(平成8年)10月4日)は、日本の商人(肥料商)、実業家(東京毎夕新聞社主、鉱山経営者)、総会屋、衆議院議員、美術評論家(栗田美術館創設者)。中央大学法学部中退。 栃木県足利市の豪商出身。復員後の1946年第22回衆議院議員総選挙に、栃木県全県区から諸派扱いで初出馬したが落選。 翌1947年の第23回衆議院議員総選挙では、新設の旧栃木県第2区から民主党公認で立候補し、初当選。政界進出と同時に栗田政治経済研究所を設立した。 在職中、栗田の拠出した金が汚職に用いられた疑惑が持ち上がり、1948年の衆議院不当財産取引調査特別委員会で証人喚問された。
高橋 定(たかはし さだむ、1912年(大正元年)12月19… 高橋 定(たかはし さだむ、1912年(大正元年)12月19日 - 2015年(平成27年)12月25日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。航空参謀、艦上爆撃機操縦士。全日空顧問。海兵61期。階級は海将(海上自衛隊)、海軍少佐(大日本帝国海軍)。 1912年(大正元年)12月19日、愛媛県松山市生まれ。6人兄弟の3男。旧制松山中では剣道は初段、サッカーでは主将を務め四国大会で優勝した。医者志望であったが、兄の勧めで1930年(昭和5年)4月、海軍兵学校入学(61期)。同期に野中五郎、板倉光馬、大野博、吉川猛夫など。1933年(昭和8年)11月、卒業。 「磐手」で遠洋航海を行った後、「加古」、「多摩」乗組みを経て、1935年(昭和10年)10月、飛行学生として霞ヶ浦海軍航空隊、1936年(昭和11年)12月には艦爆の延長教育課程を大村海軍航空隊で受け、1937年(昭和12年)4月、佐伯海軍航空隊に配属された。
小原 重徳(おばら しげのり、1912年12月18日 - 1… 小原 重徳(おばら しげのり、1912年12月18日 - 1993年11月28日)は、日本のジャズベーシスト。ブルーコーツのバンドリーダー。本名は小原(おはら)重徳。 東京府に生まれ、1936年に法政大学経済学部を卒業する、学生時代にはハワイアンを演奏する。1936年に松本伸のバンドに参加し、1946年にベース奏者としてブルーコーツに加入、長尾正士の後をうけてバンドリーダーを務める。同バンドを日本の3大バンドのひとつに育て上げた。その後、ホテルニューオータニ専属のジョイフル・オーケストラの指揮者やNHK総合テレビジョン「ザッツミュージック」の準レギュラー出演などで活躍した。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
花布 辰男(はなぶ たつお、1912年12月17日 - 没年… 花布 辰男(はなぶ たつお、1912年12月17日 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名同じ。花布 辰夫と表記に揺れがある。大映の名脇役の一人である。 1912年(大正元年)12月17日、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)に生まれる。1930年(昭和5年)、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)卒業と共に日本映画俳優学校の1期生として入校し、1934年(昭和9年)に卒業する。同期に織田政雄がいた。 1937年(昭和12年)、新興キネマ大泉撮影所に入社し、同年に公開された青山三郎監督映画『煙る故郷』で映画デビュー。以後、脇役として多数の作品に出演した。1942年(昭和17年)、大映に統合された後は東京撮影所に所属し、1971年(昭和46年)に倒産するまで脇役として長く活躍した。
大井 正(おおい ただし、1912年12月17日 - 199… 大井 正(おおい ただし、1912年12月17日 - 1991年1月27日)は、日本の哲学者。明治大学名誉教授。 山形県出身。1938年東京帝国大学文学部哲学科卒。1970年「唯物史観の形成過程」で明治大学経済学博士。満鉄調査局員、高崎市立短期大学教授、明治大学政経学部助教授、教授を務め、1984年定年、名誉教授となる。
許斐 氏利(このみ うじとし、1912年12月16日 - 1… 許斐 氏利(このみ うじとし、1912年12月16日 - 1980年3月5日)は、クレー射撃選手・右翼・特殊株主・興行師。隻流館初代理事長。東京温泉経営者。戦時中は特務機関員。 参加したメルボルンオリンピックでフィンランドの選手が持っていたサウナを日本に持ち込んだことで、スチームサウナの創始者としても知られている。 家系は古代から宗像大宮司を世襲した武家・宗像氏で、氏利はその分家・許斐氏の後裔。孫にUZI (ラッパー)。 福岡市萱堂町(現:奈良屋町)で金融業者の家庭に生まれる。幼時から柔道を修業し、1931年、武道家を志して上京し、講道館に入門。その後、中学生では日本初となる柔道四段を授与されるも、素行不良のため五段への昇段を嘉納治五郎から拒否される。
葦原 邦子(あしはら くにこ、1912年〈大正元年〉12月1… 葦原 邦子(あしはら くにこ、1912年〈大正元年〉12月16日 - 1997年〈平成9年〉3月13日)は、兵庫県武庫郡本庄村字深江(現・兵庫県神戸市東灘区深江)出身の女優。元宝塚歌劇団星組トップスター。本名は中原 英子(なかはら えいこ)、旧姓は岡本。夫に画家の中原淳一、長男に画家の中原洲一、孫に声優・俳優の加古臨王がいる。 尼崎市立高等女学校(現・尼崎市立尼崎高等学校)卒業後、1928年に宝塚音楽学校に入学する。翌1929年、「春のをどり」で初舞台。宝塚歌劇団18期生で宝塚歌劇団のトップスターとして活躍し、同期生に春日野八千代、冨士野高嶺らがいた。 宝塚歌劇団在団中は「アニキ」の愛称で上級生の小夜福子や同期生の春日野と共に男役として人気を争い、宝塚歌劇団を背負って立っていった。
大井 廣介(おおい ひろすけ、1912年12月16日 - 1… 大井 廣介(おおい ひろすけ、1912年12月16日 - 1976年12月4日)は、日本の文芸評論家、野球評論家。本名、麻生賀一郎。麻生太郎の父親である麻生太賀吉は従兄にあたる。 福岡県出身。旧制嘉穂中学校卒業。早くに父を喪ったため、伯父から庇護を受ける。1930年に東京へ行く。1939年、文芸同人誌『槐』(えんじゅ)を創刊。1940年、同誌の誌名を『現代文学』と改め、平野謙や荒正人、佐々木基一、杉山英樹たちを迎えて文芸時評を執筆。同誌を昭和10年代の代表的な文芸同人誌に育て上げた。 同誌は戦後の『近代文学』の礎となったが、大井は『近代文学』から距離を置き、党派性を批判して自由人を標榜。イデオロギーを排し、ゴシップ的手法によって社会批判をおこなった。
河野 六郎(こうの ろくろう、1912年12月16日 - 1… 河野 六郎(こうの ろくろう、1912年12月16日 - 1998年10月7日)は、日本の言語学者。文学博士(東京大学、1962年)。東京教育大学名誉教授。専門は朝鮮語・中国語。 1912年、兵庫県神戸市生まれ。第一高等学校を経て、1937年(昭和12年)東京帝国大学言語学科卒業。 1940年(昭和15年)小倉進平の推薦を受け京城帝国大学助手に就任。1941年(昭和16年)同大講師。1942年(昭和17年)同大助教授。 第二次世界大戦後、1958年より東京教育大学言語学教室教授。1962年、「朝鮮漢字音の研究」を東京大学に提出して文学博士号を取得。1976年、東京教育大学定年退官後に大東文化大学教授に就いた(1983年まで)。
橋本 正之(はしもと まさゆき、1912年〈大正元年〉12月… 橋本 正之(はしもと まさゆき、1912年〈大正元年〉12月16日 - 1976年〈昭和51年〉9月9日)は、日本の政治家。位階は従三位。 山口県知事(公選第5・6・7・8代)、衆議院議員(1期)を歴任した。山口県下松市笠戸島出身。
大内 格之助(おおうち かくのすけ、1912年12月15日 … 大内 格之助(おおうち かくのすけ、1912年12月15日 - 2001年3月2日)は、日本の経営者。北海道文化放送社長を務めた。北海道上川郡剣淵町出身。 1931年に旧制名寄中学校を卒業。旭川新聞社、小樽新聞社での勤務を経て、1964年に北海道新聞社取締役に就任し、1968年に代表専務を経て、1974年に顧問に就任。1971年には北海道文化放送初代社長に就任し、1978年から1980年までに会長を務めた。 2001年3月2日急性肺炎のために死去。88歳没。
滝田 実(たきた みのる、1912年 <大正元年> 12月1… 滝田 実(たきた みのる、1912年 <大正元年> 12月15日 - 2000年 <平成12年> 12月9日)は、昭和から平成時代の労働運動家。ゼンセン同盟名誉会長。全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)第3代会長、全日本労働組合会議(全労)初代議長、全日本労働総同盟(同盟)第2代会長。位階は従三位。 富山県射水郡小杉町(現射水市三ケ)生まれ。1931年富山県立工芸学校機械電気科卒、日清紡績に入社。戦後、松岡駒吉と出会い労働運動に入る。1946年4月日清紡績労働組合結成とともに副組合長。同年7月全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)結成に参加、中執委員。1948年5月全繊同盟会長。同年日清紡績労働組合組合長。
櫻井 欽一(さくらい きんいち、1912年12月11日 - … 櫻井 欽一(さくらい きんいち、1912年12月11日 - 1993年10月6日)は、日本のアマチュア鉱物学者、地球科学者。家業(東京都・神田須田町にある老舗の鳥鍋屋「ぼたん」)の傍ら、独学で鉱物学を修めた。理学博士(東京大学・1955年)(学位論文「神奈川県湯河原産沸石類の研究」)。1964年紫綬褒章受章。 ぼたんの主人桜井謙吾の長男として東京神田連雀町に生まれる。宗教は天台宗。祖父の八四郎は旧高崎藩士で司法省に出仕した桜井欽哉の次男として生まれ、先代の桜井重郎治の養子となっている。八四郎の弟には朝鮮総督府判事となった柳沢佐五郎がいる。永田町小学校(現:麹町小学校)[要出典]、攻玉社中学校・高等学校[要出典]を経て、1932年専修大学予科修了。
武智 鉄二(たけち てつじ、旧字体:鐡二、1912年〈大正元… 武智 鉄二(たけち てつじ、旧字体:鐡二、1912年〈大正元年〉12月10日 - 1988年〈昭和63年〉7月26日)は、大阪市出身の日本の演劇評論家、演出家、映画監督。役者の型や口伝に影響されない狂言作者の意図に忠実な武智歌舞伎を世に問うたことで知られる。歌舞伎のみならず、能や文楽、オペラ、舞踏、映画の演出も手がけ、わいせつ図画公然陳列罪で起訴された「黒い雪裁判」の被告人の一人としても知られる。本名ははじめ武智 鐡二、のち西村 鐡二(にしむら てつじ)、のち川口 鐡二(かわぐち てつじ)。 日本演劇学会、伝統芸術の会、日本文芸家協会、日本オペラ協会、日本演劇協会、各会員。 1912年、大阪市梅田に生まれる。
菅 寿雄(かん ひさお、1912年12月10日 - 1991… 菅 寿雄(かん ひさお、1912年12月10日 - 1991年3月18日)は、日本の実業家、化学技師。雅号は木桃。セントラル硝子常務取締役・監査役。 第94代内閣総理大臣菅直人の父。武蔵野市議会議員菅源太郎の祖父。三井信託銀行専務を務めた平地弘和は長女の夫。広島大学医学部教授を務めた医学者の津下健哉は義弟。 岡山県久米郡福渡町下神目(現岡山市北区建部町下神目)出身。江戸時代、菅家は村の庄屋を務めた家柄であった。父の菅實は開業医であり、久米郡医師会長、郡会議員等を歴任した。 1936年、東京工業大学(東京科学大学の前身)応用化学科卒業。1937年1月、宇部曹達工業(セントラル硝子の前身)に入社。取締役技術部長を経て1965年、セントラル硝子常務取締役に就任、1977年、同社監査役。