高沢 秀昭(たかざわ ひであき、1958年9月10日 - )… 高沢 秀昭(たかざわ ひであき、1958年9月10日 - )は、北海道沙流郡門別町(現:日高町)出身の元プロ野球選手(外野手・内野手)、野球指導者、保育士。 庫富小学校、門別中学を経て苫小牧工高に進む。苫小牧工野球部時代の監督は毎日オリオンズに1年在籍した金子満夫だった。高校では1975年秋季北海道大会で準々決勝に進むが札幌商に敗退。翌1976年夏の甲子園南北海道予選でも準決勝に進出するが、東海大四高に惜敗し甲子園出場はならなかった。高校卒業後は王子製紙苫小牧に進む。スカウトの三宅宅三に才能を評価され、1979年のドラフト2位でロッテオリオンズに入団した。 入団当初は遊撃手だったが、故障のため1982年から外野手に転向し、左翼手として20試合に先発出場を果たす。
高橋 慶彦(たかはし よしひこ、1957年3月13日 - )… 高橋 慶彦(たかはし よしひこ、1957年3月13日 - )は、日本の元プロ野球選手(内野手、外野手)、野球指導者・解説者・評論家。現在のマネジメント契約は日本電波制作社。Youtube「よしひこチャンネル」の運営・制作は株式会社A Holdings。娘は声優・モデルの高橋雛子。 NPBにおける連続試合安打記録保持者(33試合)。 1957年、北海道芦別市にあった旧三井鉱山の炭坑街で生まれた。父・慶喜は宮城県玉造郡鳴子町(現・大崎市)出身で、実業団のクロスカントリースキー選手であった。現役時代は全日本スキー選手権大会で入賞歴もある。慶喜の芝浦工業大学スキー部監督就任に伴い、4歳の時に東京都清瀬市に移り住んだ。
佐々木 啓司(ささき けいじ、1956年2月7日 - )は、… 佐々木 啓司(ささき けいじ、1956年2月7日 - )は、北海道美唄市出身の元アマチュア野球選手・現アマチュア野球指導者。
佐藤 博正(さとう ひろまさ、1955年8月10日 - )は… 佐藤 博正(さとう ひろまさ、1955年8月10日 - )は、北海道出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 札幌市立北辰中学校時代から本格派投手として知られ、道内の複数の強豪校から誘われたが、中学の先輩である中島憲二が監督を務める札幌商業高校に進む。同高では1年秋からエースとなり、3年次の1973年の春季北海道大会で準優勝。同年の夏の甲子園南北海道予選では、決勝で夕張南高を完封し甲子園出場を決める。この予選では7試合62イニングで93奪三振を記録したが、これは夏の地方大会としては近藤重雄(1960年、110奪三振)、沢村栄治(1934年、97奪三振)に次ぐ記録であった。夏の選手権では、1回戦で京都商の小竹重行(同大-日本新薬)と投げ合い、延長11回0-1で惜敗。
竹口 幸紀(たけぐち ゆきのり、1955年6月16日 - )… 竹口 幸紀(たけぐち ゆきのり、1955年6月16日 - )は、北海道出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 北海高等学校では、上手から投げおろす本格派。落差の大きなドロップやシュートが武器で、1試合平均10奪三振をマークしていた。2年秋の全道大会では準決勝で先発したが降板後にチームは延長15回の末に惜敗。翌春の全道大会では先発の機会はなかったが決勝ではエース・佐藤博正を擁する兄弟校の札幌商と対戦、救援登板して優勝に貢献。同年夏の大会はチームの不祥事で1年間の活動停止により出場辞退。 1973年のドラフトで日本ハムファイターズから6位で指名され入団。日本ハムを1975年に自由契約となり、ヤクルトスワローズに入団したが、一軍公式戦に出場することはなく、1976年引退した。
佐藤 義則(さとう よしのり、1954年9月11日 - )は… 佐藤 義則(さとう よしのり、1954年9月11日 - )は、北海道奥尻郡奥尻町出身の元プロ野球選手(投手)。コーチ・野球解説者・野球評論家。佐藤義則事務所所属。 北海道奥尻郡奥尻町出身。奥尻ブレークスで本格的に野球を始め、奥尻中学校では中学3年の時に函館地区で優勝して全道大会に出場した。卒業後、函館有斗高校に進学して上野美記夫の指導を受ける。エースとして1972年春季北海道大会決勝に進み、苫小牧工業高校の工藤敏博(法政大学)と投げ合い完封勝利で優勝。同年夏の甲子園南北海道予選も決勝に進出するが、今度は苫小牧工業高校に0-2で惜敗し甲子園出場を逸する。卒業後は日本大学に進学。当時の日本大学は低迷期にあり、東都大学野球リーグでは、1974年秋季リーグ後に二部降格(1季のみ)も経験する。
加藤 英美(かとう ひでみ、1952年4月2日 - )は、北… 加藤 英美(かとう ひでみ、1952年4月2日 - )は、北海道室蘭市出身の元プロ野球選手(投手)。左投げ左打ち。 室蘭大谷高では1970年夏の甲子園南北海道予選の準々決勝に進出するが、札幌光星に敗退。卒業後は大昭和製紙北海道に入社。1974年の都市対抗に出場し、リリーフ投手としてチームの初優勝に貢献する。翌1975年の大会ではエースとして全試合に先発し2勝、決勝で電電関東に敗れたが久慈賞を受賞した。 1978年のドラフト2位で横浜大洋ホエールズに入団。社会人屈指の技巧派左腕投手であり、左投手が不足していた当時の大洋で大いに期待された。1980年には24試合、翌年には32試合に登板。しかし球威不足を補おうと球速アップを目論むが失敗、持ち味の制球力も鈍り、ワンポイントの域を出なかった。
中山 俊之(なかやま としゆき、1951年6月25日 - )… 中山 俊之(なかやま としゆき、1951年6月25日 - )は、北海道函館市出身の元プロ野球選手・アマチュア野球指導者。 函館大谷高校から北海道産業短期大学へ進学して第2回明治神宮大会でも登板、卒業後に大昭和製紙北海道へ入社。1973年の都市対抗にエースとして出場する。1回戦で住友金属の山中正竹と投げ合い、延長15回両チーム無得点で引き分ける。続く再試合で光内数喜(鐘淵化学から補強)、2回戦では日本楽器の池谷公二郎に投げ勝ち、準々決勝に進出。日本通運に惜敗するが、この年に創設された若獅子賞に輝く。 1973年ドラフト会議で中日ドラゴンズから3位指名を受けるも拒否。1974年の都市対抗でチームは優勝するが、柳俊之(電電北海道から補強)、千藤和久(北海道拓殖銀行から補強)両投手の陰に隠れ、活躍の場はなかった。
有沢 賢持(ありさわ けんじ、1950年7月27日 - )は… 有沢 賢持(ありさわ けんじ、1950年7月27日 - )は、北海道新冠郡新冠町出身の元プロ野球選手(投手)。 北日本学院大高では3年次の1968年、エース、4番打者として夏の甲子園に出場。1回戦では若狭高の乗替寿好と投げ合い1-0で完封勝利したが、2回戦で高知高に敗退。 高校卒業後は1969年に大昭和製紙北海道へ入社するが、チームにあまり馴染めず、1973年に日産サニー札幌に移籍。 結成当初はゴロもフライも捕れない弱小チームであったが、毎朝、午前6時前から練習し、8時に出社してセールスに歩き、午後1時から3時間半練習し、夕方に再出社すると夜9時まで働き、それからまたランニングした。車もよく売り歩き、1ヶ月に50台はセールスした。
村井 英司(むらい ひでし、1950年1月9日 - )は、北… 村井 英司(むらい ひでし、1950年1月9日 - )は、北海道札幌市出身の元プロ野球選手(捕手、外野手)・コーチ。 札幌市立南小学校および札幌市立柏中学校を経て、1965年に進学した北海高校では主将兼外野手を務める。3年次の1967年には夏の甲子園南北海道予選決勝で苫小牧東高を降して甲子園に進むが、村井は予選で骨折したため本大会出場はならなかった。同年のドラフトで南海ホークスから15位指名を受けるも拒否し、卒業後の1968年には電電北海道へ入社。捕手として1971年から1973年まで3年連続で都市対抗に出場。ヤクルトの若松勉は2歳年上で、北海高校、電電北海道で一緒にプレーした。 1973年のドラフト4位で日本ハムファイターズに入団。
横山 忠夫(よこやま ただお、1950年1月4日 - )は、… 横山 忠夫(よこやま ただお、1950年1月4日 - )は、北海道出身の元プロ野球選手(投手)。 網走南ヶ丘高校では、エースとして1966年秋季北海道大会決勝に進出。札幌光星高に敗れ準優勝にとどまる。翌1967年夏の甲子園にチーム初出場。1回戦で大分商の河原明と投げ合うが、12安打を喫し0-8で大敗。同年秋、サンケイアトムズからドラフト6位で指名されるも入団を拒否し、翌年立教大学に進学した。 同大学の硬式野球部ではエースとして活躍。東京六大学野球リーグでは優勝に届かず、1971年秋季リーグの3位が最高であった。1970年秋季リーグの東大との2回戦で、ノーヒット・ノーランを達成している。リーグ通算57試合に登板、16勝26敗、防御率2.91、168奪三振を記録した。
高泉 秀輝(たかいずみ ひでき、1949年4月20日 - )… 高泉 秀輝(たかいずみ ひでき、1949年4月20日 - )は、北海道出身の元プロ野球選手(投手)。 夕張南高を卒業後、社会人野球の札幌鉄道管理局に入団。電電北海道の補強選手として第44回都市対抗野球大会で登板している。 1973年、プロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズから5位指名を受け入団。 一軍公式戦の出場がないまま、1980年に現役を引退。
平山 英雄(ひらやま ひでお、1949年1月1日 - 202… 平山 英雄(ひらやま ひでお、1949年1月1日 - 2021年5月14日)は、北海道釧路市出身のプロ野球選手(投手)である。 釧路江南高校では、エースとして活躍。1965年には釧根支部予選を制し、秋季北海道大会に進むが、1回戦で室蘭工に敗退。翌1966年には夏の甲子園に出場。1回戦で小倉工と対戦、投の二本柱である横山晴久、斎藤英雄と投げ合うが、延長12回の末に1-3で敗退。 同年の第1次ドラフト会議で阪神タイガースに2位で指名され入団。入団を担当したのは、佐川直行スカウト。慶応大学野球部からの声もあったが、プロ入りを決断した。 入団当初は、ドラフト1位指名の江夏豊よりも評価が高かった。1年目の1967年4月13日に大洋戦で一軍初登板、25日にはサンケイ戦で初先発を果たす。
柳 俊之(やなぎ としゆき、1947年12月12日 - 20… 柳 俊之(やなぎ としゆき、1947年12月12日 - 2025年10月19日)は、北海道出身のアマチュア野球選手(投手)。 岩見沢東高校を卒業した後、上京し、芝浦工業大学に入学する。同期に豊田憲司、片岡旭、河村健一郎、1学年下に伊原春植がいた。大学卒業後は電電北海道に入社する。一時期は若松勉とともにプレーしていた。同チームのエースとして、1971年の第42回都市対抗野球大会の初出場にも貢献した。 1971年のドラフト会議で西鉄ライオンズから2位指名を受けたがこれを拒否。その後も、社会人野球でプレーし、第45回都市対抗野球大会では、大昭和製紙北海道の補強選手として、出場し、初優勝に貢献した。また、橋戸賞も受賞した。
若松 勉(わかまつ つとむ、1947年4月17日 - )は、… 若松 勉(わかまつ つとむ、1947年4月17日 - )は、北海道留萌市出身の元プロ野球選手(外野手)、野球指導者、野球解説者。 現役時代はヤクルトアトムズ・スワローズで長きにわたって活躍し、引退後はヤクルトで打撃コーチ・二軍監督・監督を務めた「ミスター・スワローズ」。広角に打ち分ける巧みなバッティングで高打率を残し、公称168cmと小柄な体格ながらも通算220本塁打、2173安打を放つなど、数々の記録を打ち立てたことから「小さな大打者」、「小さな巨人」などの異名を持つ。 2020年終了時点で、NPBで通算6000打席以上の中で打率1位(4000打席以上では3位、日米通算では4位)。年間打率3割12回は川上哲治と並んで歴代3位。
山本 鉄弥(やまもと てつや、1946年4月26日 - 20… 山本 鉄弥(やまもと てつや、1946年4月26日 - 2007年1月26日)は、北海道亀田郡椴法華村出身のアマチュア野球指導者。鹿部町立鹿部中学校の監督として元プロ野球選手の盛田幸妃・元社会人野球選手の工藤寿・上野将吾・森広泰昌・競輪選手の菊地圭尚を指導し、北海道知内高等学校の監督として同校を町立高校として史上初めてセンバツ第65回大会出場に導いた。 北海道教育大学卒業後の1969年に中学校教員となり、鹿部町立鹿部中学校に赴任。高校・大学での野球経験はないながらも監督を務め、全国中学校軟式野球大会へと導く。 その後は高校教員に転じて1989年に北海道知内高等学校に赴任し、監督に就任。1990年春季北海道大会函館支部予選で初優勝を果たし、1991年秋季北海道大会函館支部予選まで6季連続支部優勝を果たす。
当銀 秀崇(とうぎん ひでたか、1946年2月1日 - )は… 当銀 秀崇(とうぎん ひでたか、1946年2月1日 - )は、北海道出身の元プロ野球選手(外野手)。 札幌商業高校では1年生の時、背番号14の控え選手ながら1961年の夏の甲子園に出場。1回戦で大社高の若月宏之投手(立大-全大丸)に抑えられ1-9で大敗。 1962年はエースとして秋季北海道大会決勝に進むが、北海高の吉沢勝と投げ合い完封負け、春の選抜出場を逸する。 1963年春季北海道大会決勝でも北海高に敗退。同年夏も南北海道予選で敗れ、甲子園には届かなかった。 卒業後は駒澤大学へ進学。東都大学野球リーグでは1年生からレギュラー外野手となり、1964年春季リーグで優勝。同年の全日本大学野球選手権大会でも、高校の先輩である盛田昌彦投手(北海道拓殖銀行)を擁し、決勝で早大を破り優勝。
谷木 恭平(たにき きょうへい、1945年11月12日 - … 谷木 恭平(たにき きょうへい、1945年11月12日 - )は、北海道札幌市中央区出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。 北海高では2年次の1962年、中堅手として甲子園に春夏連続で出場。春の選抜では1回戦で御所工に敗退するが、夏の選手権では準々決勝に進み、伊藤久敏投手を擁する久留米商と対戦。先発した3年生エース松谷栄司が5回に負傷退場し、同期の吉沢秀和が急遽リリーフするが、9回に3点を取られ逆転負け。他のチームメートに1年上の中村之保遊撃手がいた。 3年次の1963年には春の選抜で吉沢の好投もあって準決勝に進み、優勝候補の早実にサヨナラ勝ち。決勝では下関商の池永正明に抑えられ0-10で大敗するが、初めて準優勝旗が津軽海峡を越えることとなった。
中村 之保(なかむら ゆきやす、1944年9月11日 - )… 中村 之保(なかむら ゆきやす、1944年9月11日 - )は、元プロ野球選手である。ポジションは内野手(主に二塁手を守った)。北海道出身(ただし、森岡浩著『プロ野球人名事典』では、1990年版から2003年版まで一貫して神奈川県出身とされており、同書を出典にしたと見られるその他の資料でも神奈川県出身とするものが多い。なお、著者の森岡はこの記述に関しての出典を全く示していない) 札幌市立啓明中学校から北海高校(北海道)に進み、甲子園に3回出場。1961年の第33回選抜高等学校野球大会では、1回戦で御坊商工に延長10回サヨナラ勝ち。2回戦は同期の今井義則投手が先発するが、この大会に優勝した法政二高の柴田勲に抑えられ敗退。
松谷 英司(まつたに えいじ、1944年5月7日 - )は、… 松谷 英司(まつたに えいじ、1944年5月7日 - )は、北海道浦河郡浦河町出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 静内高1年の秋に北海高に転校。エースとして1962年の第34回選抜高等学校野球大会と第44回全国高等学校野球選手権大会に連続出場し、春は1回戦で御所工に敗れる。夏の予選では室蘭栄戦で完全試合を達成。本大会では準々決勝に進出するが、久留米商との試合中に足を骨折し敗退。高校同期に中村之保がいる。 1963年に東映フライヤーズに入団。1965年には完投勝利をあげるが、その後は登板機会に恵まれず1967年限りで引退。
上野 美記夫(うえの みきお、1943年1月20日 ‐ )は… 上野 美記夫(うえの みきお、1943年1月20日 ‐ )は、北海道函館市出身の元アマチュア野球選手・元アマチュア野球指導者。 北海道函館市で育ち、函館有斗高等学校では1番打者で遊撃手を務めた。 卒業後、富士製鉄室蘭に入団すると1年間プレーした。 1963年4月に東洋大学に入学したのと同時に20歳で函館大学付属有斗高等学校の監督に就任し、1998年3月に定年を迎えるまで35年間指導した。就任10年目の1972年、第4回明治神宮野球大会で監督として初の明治神宮野球大会出場を果たした(通算5度の出場で1勝5敗)。就任11年目の1973年、第45回選抜高等学校野球大会で監督として初の選抜高等学校野球大会出場を果たした(通算6度の出場で4勝6敗)。
佐藤 進(さとう すすむ、1942年11月26日 - )は、… 佐藤 進(さとう すすむ、1942年11月26日 - )は、北海道札幌郡豊平町豊羽鉱山(現札幌市南区)出身の元プロ野球選手(投手)。 中学時代は卓球の選手。北海高校ではエース、四番打者として1960年に春夏連続で甲子園に出場。春の選抜では準決勝まで勝ち上がるが、高松商の左腕エース松下利夫(明大-四国電力)に抑えられ0-2で完封負け。高松商には山口富士雄がおり、この大会で優勝している。夏の選手権は準々決勝で静岡高に惜敗。しかし秋の熊本国体では、決勝で米子東高の宮本洋二郎に3-0で投げ勝ち初優勝を飾る。高校の1年上には荻野一雄、茅野智行がいた。 高校卒業後は、社会人野球の富士製鐵室蘭に入団。1963年の都市対抗に出場。
茅野 智行(ちの ともゆき、1941年10月24日 - )は… 茅野 智行(ちの ともゆき、1941年10月24日 - )は、北海道函館市出身の元プロ野球選手(内野手)。 北海高等学校では1959年にエース荻野一雄を擁し、夏の甲子園南北海道予選決勝に進出するが、苫小牧東高に10回裏サヨナラ負け。卒業後は芝浦工業大学へ入学。東都大学リーグでは1961年秋季にリーグ初優勝を経験。同季の最高殊勲選手であった岩下光一が卒業した後の正遊撃手となり、1963年秋季リーグでは打率.389で首位打者を獲得、全試合連続安打や無失策も記録した。ベストナイン(遊撃手)2回選出。 1964年に西鉄ライオンズに入団。同年はトニー・ロイの控えながら、遊撃手として13試合に先発出場する。
荻野 一雄(おぎの かずお、1941年6月22日 - )は、… 荻野 一雄(おぎの かずお、1941年6月22日 - )は、北海道紋別郡西興部村出身の元プロ野球選手(投手)。 西興部中時代から速球派投手として知られ、北海高校では2年からエース。2年生時の1958年秋季北海道大会札幌地区予選決勝では、千歳高に対して北海道高校野球史上初の完全試合を達成。秋季北海道大会準々決勝に進むが函館工に敗退。1959年春季北海道大会の対歌志内高戦では、初回先頭打者から13連続三振を記録。同年夏の甲子園南北海道予選決勝に進出するが、苫小牧東高に10回裏サヨナラ負け、甲子園出場を果たすことはできなかった。同期には茅野智行(芝浦工大 → 西鉄)・八木沼陽一(立教大 → 河合楽器)、1期下には佐藤進(富士鐵室蘭 → 国鉄・産経 → 中日)などのメンバーを擁していた。
黒田 能弘(くろだ よしひろ、1940年6月15日 - )は… 黒田 能弘(くろだ よしひろ、1940年6月15日 - )は、日本の元プロ野球選手。北海道北見市生まれ。 北見北斗高卒業後の1959年に読売ジャイアンツ入団。2年目の1960年に初登板を果たすが、公式戦出場はその1試合に留まり、1961年オフに自由契約となる。1962年は同じく巨人を自由契約となった義原武敏とともに近鉄でに移籍するが、出場機会はなく、同年引退。 引退後はプロゴルファーに転向。1986年の北海道オープンに出場している。後に定山渓カントリークラブ(現:札幌南ゴルフクラブ駒丘コース)に勤務した。
工藤 正明(くどう まさあき、1936年7月21日 - 20… 工藤 正明(くどう まさあき、1936年7月21日 - 2011年5月13日)は、北海道出身のプロ野球選手。 北海高校では1953年選抜高校野球大会から4季連続で甲子園に出場した。 1955年に読売ジャイアンツへ入団。1959年に退団し、その後は地元の電電北海道でプレーした。
佐藤 公博(さとう きみひろ、1936年7月13日 - )は… 佐藤 公博(さとう きみひろ、1936年7月13日 - )は、北海道函館市出身の元プロ野球選手(投手)。 函館工業では1954年夏の甲子園道予選準々決勝に進むが、札幌北高に延長10回サヨナラ負け。卒業後は東洋高圧砂川に入社し、1955年から都市対抗の常連として活躍する。 1961年に阪急ブレーブスへ入団、同年は4月から先発陣に加わり4勝をあげる。その後は一時低迷するが、1965年には先発、中継ぎとして幅広く起用され42試合に出場。1966年には柿本実との交換トレードで、中日ドラゴンズに移籍。ここでは主として救援に回るが、9月26日には巨人戦で先発し、1点リードの9回2死までノーヒットノーランに抑える。
田原 藤太郎(たはら とうたろう、1936年3月30日 - … 田原 藤太郎(たはら とうたろう、1936年3月30日 - 2018年12月30日)は、北海道札幌市出身のプロ野球選手(投手)。兄は、元プロ野球選手の田原基稔。 兄の影響で野球を始め、北海高では、1年夏の甲子園に控え投手としてベンチ入りするなど将来を嘱望された。2年次からエースとなるが、1952年夏の北海道大会では、1回戦で太田侃(元近鉄)・橋本力(元毎日)・渡部久仁男(元巨人)らを擁する函館西高に0対10と7回コールド負けを喫する。以後は当時の監督であった筧智の指示で、1日800球の投げ込みや走り込み、100本ノックなどの猛練習でスタミナをつける。同年の秋季大会では、決勝で再び函館西高と顔を合わせるが、8対1で快勝して雪辱を果たし、翌1953年の選抜出場を果たす。
高橋 一雄(たかはし かずお、1936年2月5日 - )は、… 高橋 一雄(たかはし かずお、1936年2月5日 - )は、北海道出身の元プロ野球選手。 旭川東高校から1954年に高橋ユニオンズへ入団。 1955年に退団し、翌1956年から1963年まで社会人野球の旭川協会でプレーした。
森 徹(もり とおる、1935年11月3日 - 2014年2… 森 徹(もり とおる、1935年11月3日 - 2014年2月6日)は、北海道函館市出身(旧満州生まれ)の元プロ野球選手(外野手)・監督、解説者。
大竹 仁(おおたけ ひとし、1935年8月18日 - )は、… 大竹 仁(おおたけ ひとし、1935年8月18日 - )は、北海道稚内市出身の元プロ野球選手(外野手)。左投左打。 稚内高から東洋高圧砂川。東洋高圧砂川では都市対抗野球大会にも出場した。1956年、毎日オリオンズに入団すると別当薫監督からは大いに強打を期待された。しかし通算1本塁打に終わり、1959年に引退した。引退後は日本楽器の横浜店に勤務。「ピアノ調律師」となった。
桂本 和夫(かつらもと かずお、 1934年(昭和9年)9月… 桂本 和夫(かつらもと かずお、 1934年(昭和9年)9月5日 - 没年不明)は、北海道増毛町出身のアマチュアレスリング選手およびプロ野球選手。メルボルンオリンピック5位入賞。 北海道留萌支庁増毛郡増毛町に生まれる。 北海道増毛高等学校ではレスリングで活躍しながら、野球部でもエースを務める二足の草鞋を履いた。中央大学へ進学するとレスリング専念し、選手として力を付けた。増毛高-中央大のラインは松江喜久弥の時代から始まり、中大レスリング部黄金時代の屋台骨となり、メルボルンオリンピック金メダリストの池田三男やメルボルン・ローマ両オリンピック4位入賞の浅井正、そして佐藤義らとともに高校時代に全国優勝を経験した。
橋本 力(はしもと ちから、1933年〈昭和8年〉10月20… 橋本 力(はしもと ちから、1933年〈昭和8年〉10月20日 - 2017年〈平成29年〉10月11日)は、北海道出身のプロ野球選手、俳優。ポジションは外野手。OKエンターテイメント所属。 1952年(昭和27年)、函館西高校3年生時に第24回選抜高校野球大会へ出場。初戦でこの大会の優勝校となる静岡商業高校に1-0で敗れる。 1952年(昭和27年)、第34回高校野球選手権に出場。準々決勝で成田高校に延長15回の末4-1で敗れた。 1953年(昭和28年)、プロ野球国鉄スワローズへ入団予定だったが、恩人と敬愛する沼澤康一郎から囲い込みを受け、毎日オリオンズへ入団。 1957年(昭和32年)、外野手レギュラーを獲得。
笠原 正行(かさはら まさゆき、1933年9月7日 - 20… 笠原 正行(かさはら まさゆき、1933年9月7日 - 2009年5月10日)は、北海道函館市出身のプロ野球選手(投手)。 北海道函館工業高等学校から1952年に読売ジャイアンツへ入団。1953年に一軍初登板し、1954年には9勝を記録。1956年に大映スターズへ移籍し、同年引退した。 2009年5月10日、肺がんのため死去。75歳没。実子は土浦日本大学高等学校の投手として、第68回全国高等学校野球選手権大会に出場した。
田中 一郎(たなか いちろう、1933年5月6日 - )は、… 田中 一郎(たなか いちろう、1933年5月6日 - )は、北海道出身の元プロ野球選手。 北見北斗高校から旭川鉄道局を経て1955年に阪急ブレーブスへ入団。1956年に退団した。
青山 裕治(あおやま ひろはる、1933年4月28日 - 2… 青山 裕治(あおやま ひろはる、1933年4月28日 - 2015年12月10日)は、北海道札幌市出身 のプロ野球選手(投手)。 札幌光星高から社会人野球の札幌鉄道管理局に入団。社会人時代は、1955年にノンプロ全国大会で優勝。 1956年に大映スターズに入団。1958年にチームが大毎オリオンズへ吸収合併となり、同年は大毎でプレーし、シーズン終了後に退団。 1960年から1962年まで、社会人野球の東洋高圧砂川でプレーした。 引退後は岩手県北上市の会社に勤務していた。2015年12月10日、北上市で死去。82歳没。
石鉢 勝美(いしばち かつみ、1931年7月26日 - )は… 石鉢 勝美(いしばち かつみ、1931年7月26日 - )は、北海道出身の元プロ野球選手(投手)。 旭川商業高校から旭川鉄道管理局を経て、1953年に名古屋ドラゴンズへ入団。同年退団。 1956年から1964年まで旭川協会に所属した。
浅田 肇(あさだ はじめ、1930年9月21日 - )は、北… 浅田 肇(あさだ はじめ、1930年9月21日 - )は、北海道岩見沢市出身の元プロ野球選手(投手)。 北海高校から立教大学へ進学し、1951年に中退して国鉄スワローズへ入団 1953年に退団し、1956年から1962年まで電電北海道でプレーした。
沼澤 康一郎(ぬまざわ こういちろう、1930年8月15日 … 沼澤 康一郎(ぬまざわ こういちろう、1930年8月15日 - 1989年5月18日)は、北海道函館市出身のプロ野球選手(外野手、捕手)・コーチ、解説者・評論家。 妻は国体に出場して最優秀選手を獲得したこともあるバスケットボール選手で、次男の沼澤尚はドラマー。 ルー・ゲーリッグに憧れ、野球選手を目指す。旧制函館中では4番・一塁手として活躍し、1946年には全道大会準決勝で帯広中を17-16という大乱戦の末に降すと、決勝でも沼澤が4長短打の活躍で札幌光星中を破り戦後初優勝を飾った。戦後初出場となった夏の甲子園でも初戦で山形中を降して戦後初勝利を挙げたが、準々決勝でエース平古場昭二を擁する浪華商に敗退。
沼澤 康一郎(ぬまさわ こういちろう、1930年8月15日 … 沼澤 康一郎(ぬまさわ こういちろう、1930年8月15日 - 1989年5月18日)は、北海道函館市出身の元プロ野球選手(外野手、捕手)・コーチ、解説者・評論家。
田原 基稔(たはら もととし、1929年1月1日 - 199… 田原 基稔(たはら もととし、1929年1月1日 - 1996年)は、北海道出身のプロ野球選手(投手)。 弟は元中日ドラゴンズ投手の田原藤太郎。 北海中から社会人野球の札幌鉄道局を経て、1950年に新たに創立された国鉄スワローズに参加。 1年目は56試合に登板し、負けは22敗と多かったものの勝ち星は4完封を含める13勝を挙げ、チーム投手陣の中で1番の成績だった。1951年は31試合に登板するが4勝12敗と成績は振るわなかった。1952年は完封勝利の1勝しか挙げられず、1953年は1軍での登板がなかった。 1954年は中日ドラゴンズでプレーするが1軍登板は1試合に終わり、同年限りで現役を引退した。
水野 忠彦(みずの ただひこ、1926年8月15日 - 19… 水野 忠彦(みずの ただひこ、1926年8月15日 - 1998年3月1日)は、長野県出身のプロ野球選手。
別府 隆彦(べっぷ たかひこ、1926年2月27日 - 20… 別府 隆彦(べっぷ たかひこ、1926年2月27日 - 2010年12月25日)は、北海道旭川市出身の元アマチュア野球選手・指導者である。ポジションは内野手。 旧制明治中学校では内野手としてプレーし、明治大学に進学。大学3年生の時にマネージャーをする傍らに、島岡吉郎監督の後を受けて母校の明治中学の野球部監督を務めた。大学卒業後は大和証券に入社し、同社の軟式野球部の監督も務め、硬式への切り替えに取り組んだ。 1988年から1995年までに島岡吉郎の後任として、明治大学の監督を務めた。監督在任時には、東京六大学野球リーグでは、4回優勝を果たし、1995年の明治神宮野球大会では、エースの川上憲伸を擁して、日本一を果たした。
目時 春雄(めどき はるお、1925年1月12日 - 199… 目時 春雄(めどき はるお、1925年1月12日 - 1995年3月28日)は、北海道江別市出身 の元プロ野球選手。ポジションは捕手。1955年の登録名は目時 富士雄(めどき ふじお)。 札幌光星商業を卒業後、配炭公団野球部に入部。また、小樽野球協会にも所属していた。 1949年に大陽ロビンスへ入団。荒川昇治が正捕手でいた為レギュラーを獲得できずにいたが1952年に荒川が移籍したこともあって、この年に正捕手となった。1953年に大洋ホエールズと合併したが、この年もレギュラーとして出場し120試合に出場。打率.273、12本塁打を打ち、打点56は藤井秀郎に次ぐチーム2番目の成績だった。1956年からは土井淳の加入で控え捕手となった。
干場 一夫(ほしば かずお、1924年4月29日 - 201… 干場 一夫(ほしば かずお、1924年4月29日 - 2013年11月12日)は、北海道旭川市出身の元プロ野球選手(投手)。 旧制北海道庁立旭川中学校(現:北海道旭川東高等学校)、日本製鐵輪西、旭川鉄道局を経て、1950年に大阪タイガースに入団。初年度である同年に10勝を挙げる活躍をする。オーソドックスなアンダースローの投手であった。1951年も先発陣の一角として期待されたが4勝に終わり、1952年に肩を故障して退団。わずか3年のプロ野球生活であった。 2013年11月12日、89歳で死去した。 予告先発制度の導入前によく行われていた投手による偵察メンバーであるが、干場はその第1号である。1950年4月22日、熊本市水前寺野球場での対中日ドラゴンズ戦で、中日の先発投手が左の清水秀雄か右の服部受弘で迷った松木謙治郎選手兼任監督は、前日の対広島カープ戦で完投勝利を挙げた干場を1番・レフトとして出場させる。
相田 暢一(あいだ ちょういち、1921年5月19日 - 2… 相田 暢一(あいだ ちょういち、1921年5月19日 - 2012年4月17日)は、日本の元大学野球選手、アマチュア野球指導者、アマチュア野球審判員。1940年代から2010年代にかけてアマチュア野球の振興に尽力し、その功績が評価され野球殿堂入り(特別表彰)を果たした。 北海道小樽市出身。旧制小樽中学校(現在の北海道小樽潮陵高等学校)で投手としてマウンドに立ち、旧制中学校卒業後に早稲田大学に入学する。法学部で学ぶ傍ら、部活に打ち込んだが、肩を負傷したことをきっかけにマネジャーに転身する。 早稲田大学在学中の1943年、学徒出陣前に早大戸塚球場で行われた出陣学徒壮行早慶戦(いわゆる最後の早慶戦)の実現に奔走、当時の早稲田大学総長だった田中穂積など早大関係者を説得して回った。
伏見 五郎(ふしみ ごろう、1919年 - 1945年5月)… 伏見 五郎(ふしみ ごろう、1919年 - 1945年5月)は、北海道函館市出身のプロ野球選手。ポジションは捕手。 父は函館太洋倶楽部で活躍した伏見勇蔵。函館中卒業後、1937年にイーグルスに入団する。1939年、バッキー・ハリスの退団に伴い正捕手になるが、この年限りで退団、函館太洋倶楽部に入団する。試合中に送球を受けて死亡した久慈次郎に代わって、函館太洋倶楽部でも正捕手になった。翌1940年には、全道樺太実業団野球大会(前年に久慈が試合中に送球を受けて死亡したため、この年の大会が最後の大会〈第18回〉になった。)で、この年の都市対抗野球大会に北海道代表として出場した全旭川と延長27回の大熱戦を繰り広げた際には、捕手として出場し、3-2での勝利に貢献した。
佐藤 平七(さとう へいしち、1917年7月15日 - )は… 佐藤 平七(さとう へいしち、1917年7月15日 - )は、北海道函館市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
藤野 文三郎(ふじの ふみさぶろう、1917年4月29日 -… 藤野 文三郎(ふじの ふみさぶろう、1917年4月29日 - 没年不明)は、北海道出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
松田昇(まつだ のぼる、1905年5月18日 - 1982年… 松田昇(まつだ のぼる、1905年5月18日 - 1982年11月20日)は、日本の高校野球指導者。高知県高等学校野球連盟初代理事長。高知商業高校、明徳高校野球部元監督。