小日向 謙一(おびなた けんいち、1968年1月17日 - … 小日向 謙一(おびなた けんいち、1968年1月17日 - )は、ボート競技(現ローイング競技)アトランタオリンピック代表、歯科医師。 東京都生まれ。新潟県立高田高等学校を経て1986年新潟大学歯学部入学とともにボートを始める。1992年(当時、大学院生)に全日本選手権、全日本大学選手権、全日本軽量級選手権の史上初3冠達成。全日本選手権では続く1993年、1994年と3連覇。1993年、ユニバーシアード軽量級シングルスカル4位。1994年、杉藤洋志と組んだ世界選手権軽量級ダブルスカル11位、アジア大会軽量級ダブルスカルでは中国を破り、3大会ぶり唯一の金メダルを獲得する。1996年、長谷等(日本大学卒、中部電力)と組んだアトランタオリンピック男子軽量級ダブルスカル15位。
米山 隆一(よねやま りゅういち、1967年9月8日 - )… 米山 隆一(よねやま りゅういち、1967年9月8日 - )は、日本の政治家、医師、弁護士(第一東京弁護士会)。新潟県知事(民選第20代)。
髙野 徹(たかの とおる、1962年 - )は、日本の医師、… 髙野 徹(たかの とおる、1962年 - )は、日本の医師、医学博士。専門は甲状腺がんの分子病理学。りんくう総合医療センター甲状腺センター長兼大阪大学特任講師。 新潟県立佐渡高等学校を経て。東京大学理学部天文学科卒業後、大阪大学医学部に学士入学、同大学院修了。大阪大学講師を経て、りんくう総合医療センター甲状腺センター長兼大阪大学特任講師。 2017年から2019年まで福島県県民健康調査検討委員会委員・甲状腺評価部会部会員。2000年に従来の多段階発がん説に変わる甲状腺がんの発がん理論として、発生学との関連性に注目した芽細胞発がん説を提唱。日本甲状腺学会甲状腺専門医、日本甲状腺学会七條賞受賞。2019年から2022年までヨーロッパ甲状腺学会小児甲状腺腫瘍診療ガイドライン作成委員、欧州で最新の小児甲状腺腫瘍診療ガイドラインを作成するにあたり、日本からただ一人招聘された。
加藤 俊徳(かとう としのり、1961年 - )は、医師、医… 加藤 俊徳(かとう としのり、1961年 - )は、医師、医学博士。脳画像診断医、小児科専門医、産業医。加藤プラチナクリニック院長。株式会社脳の学校 代表取締役。昭和大学客員教授 新潟県三島郡寺泊町野積(現:長岡市)生まれ。寺泊町立野積小学校、寺泊町立寺泊中学校、新潟県立長岡高等学校、昭和大学医学部卒業。1991年3月、同大学院修了。 脳を自分で成長させるために必要な概念「脳番地」を発案。 光で脳機能を計測する近赤外線分光法を用いた光脳機能計測法を最初に実現した第一発見者で、fNIRSの生みの親である 。1991年に誕生したfNIRSは、長い間、その誕生の歴史が語られていなかったが、2018年にToshinori Kato(本人)の英語論文が発表された。
高野 裕久(たかの ひろひさ、1958年 - )は、日本の工… 高野 裕久(たかの ひろひさ、1958年 - )は、日本の工学者、内科医。京都大学名誉教授。 新潟県立新潟高等学校を経て、京都府立医科大学医学部医学科卒業。博士(医学)。国立環境研究所主任研究員、同総合研究官、同環境健康研究領域長、筑波大学連携大学院教授、京都大学大学院地球環境学堂地球益学廊長・教授等を経て、2023年京都大学名誉教授、京都大学地球環境学堂地球親和技術学廊研究員。
田沼敦子(たぬま あつこ、1953年8月2日- )は、日本の… 田沼敦子(たぬま あつこ、1953年8月2日- )は、日本の歯科医師・料理評論家。 田沼武能の妻。千葉市・高浜デンタルクリニック院長。 新潟県見附市生まれ。栃木県立宇都宮女子高等学校、神奈川歯科大学歯学部卒業。2003年、博士(歯学)(日本大学)。 本業のかたわら、身近な食材を使って自然に噛む回数が増える料理「噛むかむクッキング」を提唱。テレビ、雑誌、講演など多方面で活躍。 夫婦で『徹子の部屋』に出演した事がある。
猪股 裕紀洋(いのまた ゆきひろ、1953年〈昭和28年〉3… 猪股 裕紀洋(いのまた ゆきひろ、1953年〈昭和28年〉3月29日 - )は、日本の小児外科学者、移植外科学者、小児外科医、移植外科医。医学博士。熊本大学名誉教授、熊本労災病院名誉院長。 新潟県新潟市(現 新潟市東区)出身。1971年(昭和46年)3月に新潟高等学校を卒業、1977年(昭和52年)3月に京都大学医学部医学科を卒業、1986年(昭和61年)3月に京都大学大学院医学研究科医学専攻博士課程を修了。 2000年(平成12年)8月に熊本大学医学部附属病院小児外科教授に就任、2002年(平成14年)4月に熊本大学医学部小児外科学講座教授に就任、2003年(平成15年)4月に熊本大学大学院医学薬学研究部小児外科学分野教授に就任。
堀 憲郎(ほり けんろう、1952年〈昭和27年〉7月12日… 堀 憲郎(ほり けんろう、1952年〈昭和27年〉7月12日 - )は、日本の歯科医師。堀歯科医院院長。日本歯科医師会会長、同常務理事、新潟県歯科医師会常務理事などを歴任。 1952年(昭和27年)7月12日、新潟県長岡市に出生。父も歯科医師で幼少期は父に虫歯を治療してもらうこともあった。その後、新潟県立長岡高等学校を経て、1979年(昭和54年)3月、日本歯科大学を卒業。卒業後、1982年に堀歯科医院の院長に就任、歯科医院経営の傍ら職能団体の役員などを務め、長岡市歯科医師会理事、新潟県歯科医師会社会保険委員、同理事、同常務理事、同顧問、新潟県支払基金審査委員、新潟県地方医療協議会委員、日本歯科医師会理事、同常務理事、中央社会保険医療協議会委員、社会保障審議会医療保険部会委員などを歴任。
鍋島 陽一 (なべしま よういち、1946年4月24日 - … 鍋島 陽一 (なべしま よういち、1946年4月24日 - )は、日本の分子生物学者、医師。主な業績は動物個体の発生、形成、機能維持の分子機構の研究。新潟県上越市出身。医学博士(新潟大学、1976年)。 1972年新潟大学医学部卒業。1976年新潟大学大学院医学研究科博士課程修了。母校講師、癌研究会癌研究所研究員などを経て、1987年国立精神・神経センター神経研究所遺伝子工学研究部長。1997年大阪大学教授細胞生体工学センター教授、1998年京都大学大学院医学研究科教授。2010年退官、先端医療振興財団先端医療センター長。 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。
岩崎 恵美子(いわさき えみこ、1944年3月8日 - )は… 岩崎 恵美子(いわさき えみこ、1944年3月8日 - )は、日本の医師。元・厚生省仙台検疫所所長 (初の女性検疫所長)、元・仙台市副市長。 新潟県新潟市出身、新潟大学医学部医学科卒業。耳鼻科医として勤務の後、公衆衛生分野に移り、検疫所、国際協力機構(JICA)、世界保健機構(WHO)での活動などを通して、日本国内外における感染症対策の経験を積んだ。 2007年、当時の仙台市長・梅原克彦の要請で奥山恵美子、笠原周二とともに同市副市長に就任。「仙台方式」と呼ばれる先進的な新型インフルエンザ対策(地域の診療所が軽症者の診療を担う等)を行うなどした。 2009年7月、梅原の引退に伴う仙台市長選挙に立候補したものの、民主党、社民党などが支援し、同じく副市長だった奥山に敗れて落選した。
伊藤 雅治(いとう まさはる、1942年9月20日 - 20… 伊藤 雅治(いとう まさはる、1942年9月20日 - 2019年9月1日)は、日本の厚生労働技官・医師。厚生労働省医政局長・全国社会保険協会連合会理事長等を務めた。 新潟県西頚城郡木浦村(現糸魚川市)生まれ。伊藤茂昭元日本弁護士連合会副会長は弟。新潟県立高田高等学校を経て、1968年新潟大学医学部卒業、新潟県入庁、新津保健所兼衛生部公衆衛生課配属。1971年に厚生省へ入省し、公衆衛生局結核予防課に配属され、沖縄返還に備え結核対策にあたった。1975年外務省在サンパウロ日本国総領事館領事。1978年国際協力事業団医療協力部医療第二課長。1982年青森県環境保健部長兼青森県立青森高等看護学院長。 1985年厚生省保健医療局健康増進栄養課長。
荒川 正昭(あらかわ まさあき、1936年3月2日 - 20… 荒川 正昭(あらかわ まさあき、1936年3月2日 - 2022年10月30日)は、日本の内科医。新潟大学名誉教授、大学入試センター名誉教授・顧問。新潟大学学長や、大学入試センター理事長を務めた。魚沼市名誉市民。 旧満州(中国東北部)生まれ。新潟県北魚沼郡(現・魚沼市)出身。新潟県立小千谷高等学校を経て、1960年新潟大学医学部卒業。 1972年川崎医科大学内科学腎臓アレルギー部門助教授。1976年川崎医科大学内科学(腎)教授。1980年新潟大学医学部内科学第二講座教授。1994年新潟大学医学部長。1998年新潟大学長。2002年新潟県福祉保健部参与。2003年広神村名誉村民。2004年大学入試センター理事長。
木暮 山人(こぐれ やまと、1928年3月7日‐1998年5… 木暮 山人(こぐれ やまと、1928年3月7日‐1998年5月26日)は、日本の歯科医・政治家。参議院議員(2期)。 新潟県新発田市出身。旧制新発田中を経て日本歯科医学専門学校を1949年に卒業。更に法政大学法学部に進学し、1951年に卒業した。その後、日本歯科大学歯科薬理学教室研究生として在学,歯学博士の学位を取得する。 政治に早くから関心を持ち、法政大学在学中に亜細亜青年連盟を結成して1953年の総選挙に立候補。この時は得票が法定得票数にも満たず泡沫候補に終わるが、その後5回も総選挙に出馬し続けて得票を伸ばし続けた。その一方で歯科医として歯友会歯科技術専門学校の創設に関わり、歯科技工から実業界にも進出。
茂野 六花(しげの ろっか、1926年(大正15年)7月1日… 茂野 六花(しげの ろっか、1926年(大正15年)7月1日 - 1985年(昭和60年)11月24日)は、日本の俳人、医師、法医学者。医学博士。第9代新潟大学学長、新潟大学医学部第12代学部長。本名は茂野 錄良(しげの ろくろう)。 新潟県新潟市出身。1943年(昭和18年)11月に新潟中学校を繰り上げ卒業、1945年(昭和20年)10月に海軍兵学校を卒業、1950年(昭和25年)3月に新潟医科大学を卒業。 1951年(昭和26年)7月に新潟大学新潟医科大学法医学教室助手に就任、同年9月から同教室教授で俳人の高野素十から俳句の指導を受け、「六花」の俳号を授かった。 1953年(昭和28年)4月に新潟大学医学部法医学教室助手に就任、1954年(昭和29年)8月に新潟大学医学部法医学教室(担任:山内峻呉教授)講師に就任。
布施 栄明(ふせ しげあき、1925年〈大正14年〉11月7… 布施 栄明(ふせ しげあき、1925年〈大正14年〉11月7日 - 2009年〈平成21年〉7月31日)は、日本の解剖学者、医師。医学博士。新潟大学歯学部口腔解剖学第一講座 初代教授、新潟大学医学部解剖学第二教室 第3代教授。新潟大学名誉教授、日本解剖学会名誉会員。日本基督教団のクリスチャン。 新潟県刈羽郡鵜川村(現 柏崎市)の代々医者の家系に出生。1943年(昭和18年)3月に新潟中学校を卒業、1945年(昭和20年)3月に新潟高等学校を1年繰り上げ卒業、1949年(昭和24年)3月に新潟医科大学を卒業。 1950年(昭和25年)に新潟大学医学部解剖学第二教室(担任:小池上春芳教授)研究生に就任、助手を経て1953年(昭和28年)4月に講師に就任、6月に新潟大学から医学博士号を取得、1956年(昭和31年)3月に助教授に就任、1966年(昭和41年)8月に新潟大学歯学部口腔解剖学第一講座初代教授に就任、1972年(昭和47年)6月に新潟大学医学部解剖学第二教室第3代教授に就任、1980年(昭和55年)12月から新潟大学附属図書館旭町分館館長を兼任、1984年(昭和59年)11月から新潟大学附属図書館館長を兼任、1991年(平成3年)3月に新潟大学を定年退官、5月に新潟大学名誉教授の称号を受称、1995年(平成7年)に新潟リハビリテーション専門学校学校長に就任。
中山 沃(なかやま そそぐ、旧姓:蒲原、法名:沃観、1925… 中山 沃(なかやま そそぐ、旧姓:蒲原、法名:沃観、1925年〈大正14年〉5月16日 - 2012年〈平成24年〉5月24日)は、日本の生理学者、医史学者、医師、浄土真宗本願寺派僧侶。医学博士。岡山大学名誉教授。名塩御坊教行寺第15世住職。 新潟県新潟市西堀通10番町(現 新潟市中央区西堀通10番町)の浄土真宗本願寺派・蒲原浄光寺の第25世住職・蒲原霊英の次男として出生。 1943年(昭和18年)3月に新潟中学校を卒業、1945年(昭和20年)3月に新潟高等学校を1年繰り上げ卒業、1949年(昭和24年)3月に新潟医科大学を卒業。 1949年(昭和24年)3月に米子医科大学生理学教室(担任:福原武教授)助手に就任、1951年(昭和26年)4月に鳥取大学医学部生理学教室(担任:福原武教授)助手に就任、1953年(昭和28年)6月に鳥取大学医学部生理学教室生理学第一講座(担任:福原武教授)講師に就任、1954年(昭和29年)7月に医学博士号を取得、11月に鳥取大学医学部生理学教室生理学第二講座(担任:西田勇教授)助教授に就任、1957年(昭和32年)1月に岡山大学医学部生理学教室生理学第二講座(担任:福原武教授)助教授に就任、1962年(昭和37年)11月から1964年(昭和39年)5月まで文部省在外研究員として西ドイツのゲッティンゲン大学生理学教室に留学、1970年(昭和45年)4月に岡山大学医学部生理学教室生理学第二講座第2代教授に就任、1986年(昭和61年)4月に中国吉林省延辺医学院名誉教授(第1号)の称号を受称、1991年(平成3年)3月に岡山大学を定年退官、4月に岡山大学名誉教授の称号を受称。
柴田 整一(しばた せいいち、1923年〈大正12年〉7月1… 柴田 整一(しばた せいいち、1923年〈大正12年〉7月13日 - 1989年〈平成元年〉9月25日)は、日本の腎臓学者、内科医。医学博士。元国立病院医療センター臨床研究部長、帝京大学生物工学センター教授。 新潟県新潟市南大畑町(現 新潟市中央区南大畑町)の新潟医科大学内科学第二教室助教授・柴田経一郎の長男として出生。 1941年(昭和16年)3月に新潟中学校を卒業、1943年(昭和18年)9月に新潟高等学校を半年繰り上げ卒業、1947年(昭和22年)9月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 実地修練後、1948年(昭和23年)秋に東京大学医学部第三内科(教授:冲中重雄)に入局、1954年(昭和29年)6月に東京大学から医学博士の学位を取得、1956年(昭和31年)7月に東京大学医学部第三内科(教授:冲中重雄)助手に就任、1971年(昭和46年)2月に東京大学医学部第三内科(教授:中尾喜久)講師に就任、1977年(昭和52年)8月に東京大学医学部第三内科(教授:小坂樹徳)助教授に就任、1980年(昭和55年)1月に国立病院医療センター臨床研究部長に就任、1989年(平成元年)3月に定年退官、4月に帝京大学生物工学センター教授に就任。
清水 善夫(しみず よきお、1922年〈大正11年〉9月1日… 清水 善夫(しみず よきお、1922年〈大正11年〉9月1日 - 2013年〈平成25年〉9月19日)は、日本の内科医、小児科医。医学博士。新潟県西蒲原郡黒埼村第19代村長、黒埼町初代町長。原爆症患者第1号の担当医。 新潟県西蒲原郡黒埼村大字金巻(現 新潟市西区金巻)出身。1940年(昭和15年)3月に新潟中学校を卒業、1942年(昭和17年)9月に新潟高等学校を半年繰り上げ卒業、1946年(昭和21年)9月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 1947年(昭和22年)10月に東京大学医学部内科学教室内科学第二講座(担任:佐々貫之教授)副手に就任、1951年(昭和26年)4月から引き続き同講座(担任:美甘義夫教授)で研究。
黒川 一男(くろかわ かずお、1922年〈大正11年〉4月1… 黒川 一男(くろかわ かずお、1922年〈大正11年〉4月17日 - 2010年〈平成22年〉4月16日)は、日本の泌尿器科学者、泌尿器科医。医学博士。徳島大学名誉教授、日本泌尿器科学会名誉会員、協立病院名誉院長。 新潟県新潟市礎町通上一ノ町(現 新潟市中央区礎町通上一ノ町)の黒川栄一郎の長男として出生。 新潟市礎尋常小学校を経て、1940年(昭和15年)3月に新潟中学校を卒業、1943年(昭和18年)9月に新潟高等学校を半年繰り上げ卒業、1947年(昭和22年)9月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 1950年(昭和25年)3月に東京大学医学部助手に就任、1956年(昭和31年)5月に東京大学医学部講師に就任、同年8月に東京大学から医学博士の学位を取得、東京大学医学部附属病院分院外来診療所医長に就任、1961年(昭和36年)4月に東京大学医学部助教授に就任、東京大学医学部附属病院分院泌尿器科医長に就任、1963年(昭和38年)11月に徳島大学医学部泌尿器科学教室初代教授に就任、1976年(昭和51年)4月に徳島大学医学部附属看護学校第13代学校長に就任、1978年(昭和53年)1月に徳島大学医学部附属病院第14代病院長に就任、同月に徳島大学医学部附属助産婦学校第4代学校長に就任、1988年(昭和63年)3月に徳島大学を定年退官、4月に徳島大学名誉教授の称号を受称、徳島県徳島市八万町橋本の協立病院の院長に就任。
小島 瑞(こじま みず、1921年〈大正10年〉11月25日… 小島 瑞(こじま みず、1921年〈大正10年〉11月25日 - 1995年〈平成7年〉9月22日)は、日本の病理学者、医師。医学博士。福島県立医科大学名誉教授、日本血液学会名誉会員。 新潟県新潟市出生、新潟県佐渡郡金沢村大字泉(現 佐渡市泉)出身。 1938年(昭和13年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1941年(昭和16年)3月に新潟高等学校文科乙類を卒業、1944年(昭和19年)9月に新潟医科大学を半年繰り上げ卒業。 1945年(昭和20年)1月に横浜市戸塚区原宿町の海軍軍医学校戸塚分校を卒業、海軍軍医中尉に任官、山口県光市光井の第一特別基地隊附、3月に山口県平生町佐賀の平生突撃隊附、8月に終戦、1946年(昭和21年)1月に復員。
川村 明義(かわむら あきよし、1919年〈大正8年〉9月2… 川村 明義(かわむら あきよし、1919年〈大正8年〉9月2日 - 2006年〈平成18年〉6月9日)は、日本の免疫学者、医師。医学博士(東京大学・1957年)。東京大学名誉教授。 新潟県新潟市学校町通2番町(現 新潟市中央区学校町通2番町)の新潟医学専門学校病理学教室教授・川村麟也の三男として出生。 1938年(昭和13年)3月に新潟中学校を卒業、1942年(昭和17年)3月に新潟高等学校を卒業、1945年(昭和20年)9月に千葉医科大学を卒業。 1945年(昭和20年)10月に東京帝国大学伝染病研究所第二研究部(部長:田宮猛雄教授)に嘱託として入所、1948年(昭和23年)に東京大学伝染病研究所第五研究部(部長:田宮猛雄教授)副手に就任、1949年(昭和24年)に助手に就任、1959年(昭和34年)7月に東京大学伝染病研究所第二細菌研究部(部長:山本郁夫教授)助教授に就任、1971年(昭和46年)4月に東京大学医科学研究所免疫学研究部長・教授に就任、1980年(昭和55年)4月に東京大学を定年退官、5月に東京大学名誉教授の称号を受称。
澤野 十蔵(さわの じゅうぞう、1913年〈大正2年〉11月… 澤野 十蔵(さわの じゅうぞう、1913年〈大正2年〉11月28日 - 2007年〈平成19年〉7月20日)は、日本の解剖学者、医師、トンボ研究家。医学博士。広島大学名誉教授、日本解剖学会名誉会員、日本蜻蛉学会名誉会員、広島虫の会名誉会長。 新潟県新潟市関屋松波町(現 新潟市中央区関屋松波町)出身。1931年(昭和6年)3月に新潟中学校を卒業、1938年(昭和13年)3月に新潟高等学校を卒業、1941年(昭和16年)12月に新潟医科大学を卒業。 1941年(昭和16年)12月に新潟医科大学副手に就任、1942年(昭和17年)に新潟医科大学助手に就任、1944年(昭和19年)に新潟医科大学臨時附属医学専門部助教授に就任、新潟医科大学講師を兼任。
小池上 春芳(こいけがみ はるよし、1907年〈明治40年〉… 小池上 春芳(こいけがみ はるよし、1907年〈明治40年〉2月11日 - 1997年〈平成9年〉10月26日)は、日本の解剖学者、医師。医学博士。新潟医科大学解剖学第二教室第2代教授。新潟大学名誉教授、日本解剖学会名誉会員。 新潟県新潟市上大川前通8番町(現 新潟市中央区上大川前通8番町)の富商・小池上春五郎の四男として出生。 1923年(大正12年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1926年(大正15年)3月に新潟高等学校を卒業、1930年(昭和5年)3月に新潟医科大学を卒業。 1930年(昭和5年)4月に新潟医科大学解剖学教室(担任:平澤興教授)助手に就任、1934年(昭和9年)3月に新潟医科大学解剖学教室助教授に就任、1935年(昭和10年)1月に新潟医科大学から医学博士の学位を取得。
高橋 松蔵(たかはし まつぞう、1905年〈明治38年〉12… 高橋 松蔵(たかはし まつぞう、1905年〈明治38年〉12月14日 - 1981年〈昭和56年〉1月31日)は、日本の外科医、内科医、小児科医。紫野診療所元所長、京都民医連第2代会長、ミノファーゲン製薬本舗元顧問。 新潟県出身。新潟師範学校附属小学校を経て、1922年(大正11年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1925年(大正14年)3月に新潟高等学校を卒業、1929年(昭和4年)3月に京都帝国大学医学部医学科を卒業。 1929年(昭和4年)4月に京都帝国大学医学部外科学教室副手に就任、1930年(昭和5年)9月15日に京都府宇治市の花屋敷浮舟園で結婚。 1931年(昭和6年)に京都府京都市左京区田中馬場町の養正隣保館に診療所を開設。
熊谷 洋(くまがい ひろし、1904年10月17日 - 19… 熊谷 洋(くまがい ひろし、1904年10月17日 - 1992年11月11日)は、昭和・平成期の医師、薬理学者。 東京大学医学部教授。東京大学医学部長。日本医師会副会長。日本医学界会長。東京大学薬学科薬品作用学教室の初代教授。医学界や薬理学界の多くの人材を育てた。旧姓 瀬水。 新潟県長岡市出身。旧制新潟県立長岡中学校卒。旧制新潟高校卒業。1930年(昭和5年)東京帝国大学医学部医学科卒業。1943年(昭和18年)薬理学教室講師のままジャカルタに赴任し、日本占領下のオランダ領東インド・ジャカルタの医科大学(ジャワ高等医学校)で医学の教授にあたる。1946年(昭和21年)復員、同年から1957年(昭和32年)まで東京大学医学部薬学科薬品作用学教室の初代教授を兼任。
福原 武(ふくはら たけし、1904年〈明治37年〉4月3日… 福原 武(ふくはら たけし、1904年〈明治37年〉4月3日 - 1996年〈平成8年〉1月21日)は、日本の生理学者、医師。医学博士。岡山大学医学部生理学教室生理学第二講座初代教授。岡山大学名誉教授、日本生理学会特別会員。 新潟県新潟市寄居町(現 新潟市中央区寄居町)出身。1921年(大正10年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1924年(大正13年)3月に新潟高等学校を卒業、1928年(昭和3年)3月に新潟医科大学を卒業。 1928年(昭和3年)4月に新潟医科大学生理学教室(担任:横田武三教授)助手に就任、1930年(昭和5年)4月に講師に就任、1932年(昭和7年)2月に新潟医科大学から医学博士号を取得、1933年(昭和8年)4月に新潟医科大学生理学教室助教授に就任、1938年(昭和13年)11月に永井潜の推薦で北京大学医学院生理学教室初代教授に就任、太平洋戦争後、1945年(昭和20年)12月に日本に帰国、1946年(昭和21年)6月に新潟医科大学薬理学教室(担任:木原玉汝教授)助教授に就任、1948年(昭和23年)7月に米子医科大学生理学教室初代教授に就任、1949年(昭和24年)5月に鳥取大学医学部生理学教室初代教授に就任、1954年(昭和29年)7月に岡山大学医学部生理学教室生理学第二講座初代教授に就任、1956年(昭和31年)5月に岡山で第33回日本生理学会総会を主催、1966年(昭和41年)7月に岡山で第8回日本平滑筋学会総会を主催、1970年(昭和45年)3月に岡山大学を定年退官、6月に川崎医科大学生理学教室初代教授に就任、1976年(昭和51年)3月に同大学を退任、同大学客員教授に就任。
三浦 岱栄(みうら たいえい、1901年12月3日 - 19… 三浦 岱栄(みうら たいえい、1901年12月3日 - 1995年3月14日)は、日本の精神科医師。慶應義塾大学医学部教授。杏林大学医学部教授。 フランス精神医学の研究、多くの精神科医師を育成した。小此木啓吾の慶應義塾大学医学部の指導教官。 杏林大学が創立される時に、精神科病院を母体として建学されたことから、初代の精神神経科教室の主任教授に招聘された。 新潟県長岡市に生まれる。旧制新潟県立長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)卒業。 1925年(大正14年)、慶應義塾大学医学部を卒業。学生時代にはカトリックに入信。敬虔な信者であり、その後もカトリック医師会をはじめ、この領域で指導的役割を果たした。
式場 隆三郎(しきば りゅうざぶろう、1898年7月2日 -… 式場 隆三郎(しきば りゅうざぶろう、1898年7月2日 - 1965年11月21日)は、新潟県出身の日本の精神科医。専門は精神病理学。医学博士(新潟医科大学・1929年)。千葉県市川市名誉市民。第3代日本ハンドボール協会会長。叔父は式場益平、甥は式場壮吉。 1898年(明治31年)7月2日新潟県中蒲原郡五泉町(現:五泉市)で生まれた。新潟医学専門学校(現:新潟大学医学部)卒業。 1929年(昭和4年)医学博士(新潟医科大学)。静岡脳病院院長などを経て、1936年(昭和11年)千葉県市川市国府台に精神病院である式場病院を設立。 1965年(昭和40年)11月藍綬褒章授与。11月21日胃癌のため順天堂病院にて死去。
薄田 七郎(うすだ しちろう、1898年〈明治31年〉1月1… 薄田 七郎(うすだ しちろう、1898年〈明治31年〉1月12日 - 1983年〈昭和58年〉10月22日)は、日本の病理学者、厚生技官、医師。医学博士。台北帝国大学医学部病理学教室病理学第一講座第2代教授。 新潟県中蒲原郡木戸村大字鴉俣(現 新潟市東区山木戸)の医師・薄田敬勝の長男として出生。 1915年(大正4年)3月に新潟中学校を卒業、1919年(大正8年)7月に第二高等学校を卒業、1923年(大正12年)4月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 東京帝国大学医学部病理学教室に入室、1925年(大正14年)1月に泉橋慈善病院内科医員に就任、1926年(大正15年)4月に同病院病理解剖科医員に就任、1932年(昭和7年)11月に東京帝国大学から医学博士の学位を取得。
樋口 助弘(ひぐち すけひろ、1896年4月7日 - 195… 樋口 助弘(ひぐち すけひろ、1896年4月7日 - 1958年8月9日)は、放射線科医師。九州大学医学部講師。東京慈恵会医科大学教授。 日本で放射線が医療に利用されたはじめから、主としてエックス線の利用による診断、治療に関する研究に従事、その成果を数多くの論文に発表し、特に放射線障害の研究、放射線保護物質の研究を行い、1956年(昭和31年)文部省科学研究費による総合研究、特に「放射能の人体最大許容量の決定」については、研究班長としての取りまとめにあたるなど、多方面に大きな足跡を残した。 新潟県南魚沼郡湯沢町出身。新潟県立長岡中学校、第六高等学校卒業。1922年(大正11年)九州帝国大学医学部卒業。
金子 義晁(かねこ よしとも、1894年〈明治27年〉7月1… 金子 義晁(かねこ よしとも、1894年〈明治27年〉7月1日 - 1966年〈昭和41年〉11月27日)は、日本の内科学者、内科医。医学博士。同和病院初代理事長・院長、元外務省診療所所長、元老人病研究所副所長、元東京医科大学教授。 新潟県中蒲原郡村松町(現 五泉市村松)の士族出身。1914年(大正3年)3月に新潟中学校を卒業、1918年(大正7年)7月に第八高等学校を卒業、1922年(大正11年)3月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 1922年(大正11年)4月に東京帝国大学医学部病理学第一講座(教授:緒方知三郎)に入室、1927年(昭和2年)に東京帝国大学医学部附属医院第二内科(教授:呉建)に入局、1929年(昭和4年)3月に東京帝国大学から医学博士号を取得。
石黒 芳雄(いしぐろ よしお、1893年〈明治26年〉8月2… 石黒 芳雄(いしぐろ よしお、1893年〈明治26年〉8月26日 - 1969年〈昭和44年〉8月5日)は、日本の生理学者、内科学者、内科医。医学博士。海軍軍医。最終階級は海軍軍医中将。 新潟県新潟市田中町(現 新潟市中央区田中町)出身。1912年(明治45年)3月新潟中学校卒業、同年(大正元年)9月新潟医学専門学校入学、1913年(大正2年)12月海軍軍医学生受命、1916年(大正5年)5月新潟医学専門学校卒業。 1916年(大正5年)7月海軍少軍医、1917年(大正6年)12月海軍中軍医、1919年(大正8年)9月海軍軍医中尉、1920年(大正9年)12月海軍軍医大尉、給油艦「知床」軍医長、1923年(大正12年)2月装甲巡洋艦「出雲」軍医長心得・分隊長心得、同年4月霞ヶ浦海軍航空隊分隊長、1925年(大正14年)12月海軍軍医少佐、1928年(昭和3年)4月新潟医科大学研究科学生(内科学・生理学)、1929年(昭和4年)11月海軍軍医中佐、1930年(昭和5年)12月横須賀海軍航空隊軍医長・分隊長、1931年(昭和6年)4月医学博士(新潟医科大学)、1933年(昭和8年)10月海軍航空廠医務部長、1934年(昭和9年)11月海軍軍医大佐、1938年(昭和13年)11月海軍軍医学校教官、1939年(昭和14年)4月海軍航空技術廠医務部長、1940年(昭和15年)11月海軍軍医少将、1943年(昭和18年)4月海軍航空技術廠航空医学部長、1944年(昭和19年)5月海軍軍医中将、同年11月佐世保鎮守府軍医長・佐世保海軍病院長、1945年(昭和20年)10月予備役。
近藤 正二(こんどう しょうじ、1893年〈明治26年〉2月… 近藤 正二(こんどう しょうじ、1893年〈明治26年〉2月5日 - 1977年〈昭和52年〉1月22日)は、日本の衛生学者、医師。医学博士。東北大学名誉教授。 生涯を通して食生活改善の啓蒙・普及に尽力し、欧米人と比較して著しく劣っていた日本人の体格、体力、寿命の向上に貢献した。 新潟県新潟市本町通10番町(現 新潟市中央区本町通10番町)の薬種商・近藤市蔵の次男として出生。 1910年(明治43年)3月に新潟中学校を卒業、1913年(大正2年)7月に第一高等学校を卒業、1917年(大正6年)12月に東京帝国大学医科大学医学科を卒業。 1918年(大正7年)1月に東北帝国大学医科大学細菌学教室細菌学講座(担任:青木薫教授)助手に就任、1920年(大正9年)11月に東北帝国大学医学部細菌学教室細菌学講座講師に就任、1921年(大正10年)3月に助教授に就任。
高田 蒔(たかた まき、1892年〈明治25年〉12月30日… 高田 蒔(たかた まき、1892年〈明治25年〉12月30日 - 1978年〈昭和53年〉3月4日)は、日本の生化学者、内科学者、内科医。医学博士。東邦大学名誉教授、アメリカ国際アカデミー名誉会員。雅号は日庵主人。 新潟県新潟市学校町通(現 新潟市中央区学校町通)の新潟県直税署職員・高田善一郎の四男として出生。 1910年(明治43年)3月に新潟中学校を卒業、1911年(明治44年)9月に仙台医学専門学校医学科に入学、1913年(大正2年)8月に東京府北豊島郡巣鴨町巣鴨(現 東京都豊島区巣鴨)の溝口伯爵家家扶・高田政敏の養子になった。 1915年(大正4年)9月に東北帝国大学医学専門部医学科を優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。
小川 蕃(おがわ しげし、1891年〈明治24年〉10月14… 小川 蕃(おがわ しげし、1891年〈明治24年〉10月14日 - 1939年〈昭和14年〉9月1日)は、日本の外科学者、外科医。医学博士。京城帝国大学医学部外科学教室外科学第二講座初代教授。朝鮮医学界に大きな貢献をした。 新潟県中蒲原郡津島村大字古津(現 新潟市秋葉区古津)において津島村村長・小川重綽の五男として出生。 1909年(明治42年)3月に新潟中学校を卒業、1913年(大正2年)7月に第二高等学校を卒業、1917年(大正6年)12月に東京帝国大学医科大学医学科を卒業。 東京帝国大学医科大学外科学教室外科学第二講座(担任:近藤次繁教授)副手に就任、1919年(大正8年)12月から神戸三菱造船所病院に勤務、1921年(大正10年)3月に朝鮮総督府医院医官に就任、6月から京城医学専門学校教授を兼任。
梛野 巌(なぎの いつき、1891年〈明治24年〉1月1日 … 梛野 巌(なぎの いつき、1891年〈明治24年〉1月1日 - 1982年〈昭和年57年〉)は、明治期から昭和期にかけての大日本帝国陸軍の軍医、医学博士。最終階級は陸軍軍医中将。 長岡藩医・梛野直(なぎの ただし)の長男として生まれる。旧制新潟県立長岡中学校(1908年(明治41年)卒業)、旧制第四高等学校を経て、1916年(大正5年)に東京帝国大学医学部を卒業する。1917年(大正6年)に陸軍二等軍医に任官した。 軍籍のまま大学院で学んだ後、外国駐在軍医官としてアメリカ合衆国とドイツに赴任する。海外赴任中にはスイスのチューリヒに留学し、悩解剖研究所モナコフ教授に師事した。1927年(昭和2年)10月13日、東京帝国大学から医学博士号を授与された。
田村 廿三郎(たむら はたさぶろう、1890年〈明治23年〉… 田村 廿三郎(たむら はたさぶろう、1890年〈明治23年〉6月13日 - 1961年〈昭和36年〉1月6日)は、日本の内科医、実業家、政治家。イチジク製薬創業者・初代社長。「イチジク浣腸」の考案者。 新潟県中蒲原郡鷲巻村大字西笠巻(現 新潟県新潟市南区西笠巻)の医師・田村篤司の三男として出生。 1909年(明治42年)3月に新潟中学校を卒業、1914年(大正3年)9月に千葉医学専門学校医学科に入学、1918年(大正7年)5月に同校を卒業。 千葉県東葛飾郡市川町大字市川字上出口(現 千葉県市川市市川)の吉岡医院に勤務したのち、1920年(大正9年)に東京府南葛飾郡瑞江村大字上今井(現 東京都江戸川区江戸川)に田村医院を開業。
谷口 腆二(たにぐち てんじ、1889年〈明治22年〉2月1… 谷口 腆二(たにぐち てんじ、1889年〈明治22年〉2月15日 ‐ 1961年〈昭和36年〉2月12日)は、日本の医師、細菌学者。 新潟県長岡市出身。旧姓、藤田。医学博士(1923年) 大阪大学微生物研究所の設立に尽力し、第3代所長となった。設立においては、関西を代表する実業家、山口玄洞(やまぐち げんどう)の支援を受けた。「喧嘩谷口」というあだ名で呼ばれた大阪大学医学部の昭和初期の「名物」研究者で、微生物病研究所の設立など大阪大学の研究機関としての地位向上に貢献した。山村雄一元大阪大学総長もその免疫学の授業について「体が震えるくらい興奮した」「斬新で魅力的であった」と記している。 1906年に新潟県立長岡中学校(旧制)を卒業。
木村 博(きむら ひろし、旧姓:今井、1888年〈明治21年… 木村 博(きむら ひろし、旧姓:今井、1888年〈明治21年〉10月14日 - 1952年〈昭和27年〉3月13日)は、日本の外科学者、外科医。医学博士。慶應義塾大学医学部外科学教室教授。 新潟県中蒲原郡新津村一之町(現 新潟市秋葉区新津本町4丁目)で全天病院を開業する医師・今井玄秀の三男として出生。 1907年(明治40年)3月に新潟中学校を卒業、1911年(明治44年)7月に第四高等学校を卒業、1915年(大正4年)11月に京都帝国大学医科大学医学科を卒業、1918年(大正7年)2月に京都帝国大学医科大学大学院に入学。 1920年(大正9年)10月に慶應義塾大学医学部外科学教室助手に就任、講師を経て、1922年(大正11年)10月に助教授に就任、1925年(大正14年)9月から1926年(大正15年)9月までヨーロッパとアメリカの病院を視察、1927年(昭和2年)12月に教授に就任、1934年(昭和9年)5月に横浜の警友病院の開設に伴い副院長に就任、1945年(昭和20年)2月に慶應義塾大学病院外科部長に就任、1946年(昭和21年)9月に慶應義塾大学を退職、員外教授に就任、11月に東京都滝野川区滝野川町(現 東京都北区滝野川)の河端病院の開設に伴い院長に就任。
金子 廉次郎(かねこ れんじろう、旧姓:山口、1886年〈明… 金子 廉次郎(かねこ れんじろう、旧姓:山口、1886年〈明治19年〉3月31日 - 1945年〈昭和20年〉7月23日)は、日本の内科学者、内科医。医学博士。九州帝国大学名誉教授。「日本脳炎」という名称の元になった症例を学会に報告した。 新潟県南蒲原郡猪子場新田(現 三条市猪子場新田)の素封家・山口新次郎の長男に生まれた。 1904年(明治37年)3月に新潟中学校を卒業、1907年(明治40年)7月に第三高等学校を卒業、新潟県南蒲原郡大面村大字蔵内(現 三条市蔵内)の大面村初代村長の金子正次の婿養子になった。 1907年(明治40年)9月に京都帝国大学福岡医科大学医学科に入学、1911年(明治44年)11月に九州帝国大学医科大学を優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。
中村 隆治(なかむら りゅうじ、1882年〈明治15年〉5月… 中村 隆治(なかむら りゅうじ、1882年〈明治15年〉5月7日 - 1943年〈昭和18年〉4月9日)は、日本の精神医学者、精神科医。医学博士。新潟医学専門学校精神病学教室初代教授。新潟医科大学名誉教授。位階は正三位。 新潟県北蒲原郡水原町上町(現 阿賀野市中央町)の老舗・中村新吉菓子店の次男として出生。 1901年(明治34年)3月に新潟中学校を卒業、1904年(明治37年)7月に第一高等学校を卒業、1907年(明治40年)10月に東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専修)を卒業。 妹の病気を治療するために東京帝国大学医科大学医学科に入学、1911年(明治44年)12月に同大学を卒業、妹の病気を治療した。
佐藤 剛蔵(さとう ごうぞう、1880年(明治13年)7月5… 佐藤 剛蔵(さとう ごうぞう、1880年(明治13年)7月5日 ‐ 1960年(昭和35年)5月13日)は日本の医師、医学博士、医学教育者。旧姓、夏目。 新潟県長岡藩の士族、夏目洗蔵(長岡洋学校等の教員であった)の弟として生まれ、古志郡立長岡尋常中学校(現在の新潟県立長岡高等学校)を1899年(明治32年)に卒業、1902年に佐藤織居の養子となる。1906年 (明治39年)に京都帝国大学医科大学(現在の京都大学医学部)を卒業し、1907年6月に、1906年開院の平壌同仁医院長として朝鮮半島に渡った。 佐藤は 大韓医院医育課長、1916年京城医学専門学校教授、1924年に京城帝国大学医化学教授を兼任し、 1927年に京城医学専門学校の校長(第7代)を1945年まで務めた。
家坂 幸三郎(いえさか こうさぶろう、1878年(明治11年… 家坂 幸三郎(いえさか こうさぶろう、1878年(明治11年)8月1日 - 1952年(昭和27年)10月24日)は、日本の医師。ハンセン病療養所である国立療養所宮古南静園、国立療養所沖縄愛楽園所長を務めた。クリスチャンで、現在でも宮古南静園に教会がある甦生会(よみがえりのかい)を結成した。 1878年、新潟県見附市に出生。早稲田大学の前身、東京専門学校、英語政治科卒業。外交官になりたかったが、既に医師になっていた五兄の勧めにより医学に進む。1906年に熊本医学専門学校を卒業後、同校実習病院、牧野研究所(東京)、芦屋町立病院(福岡県)に勤めた。1922年、沖縄県衛生技師としてマラリア予防に従事、1930年にアメリカの大学から沖縄県に「沖縄におけるらい事情」についての照会があったが、家坂が書いた報告書は高い評価をうけ、これを基にした論文で細菌学博士を贈られた。
島峰 徹(しまみね とおる、1877年(明治10年)4月3日… 島峰 徹(しまみね とおる、1877年(明治10年)4月3日 - 1945年(昭和20年)2月10日)は、日本の大正から昭和前期における医学博士・歯科医・東京高等歯科医学校(旧東京医科歯科大学(現東京科学大学)の母体)の創立者・同附属医院長。日本における近代歯科学の確立と歯科医師の地位向上に努めた。新潟県出身。 島峰徹の姓は、父恂斎碑文及び墓所銘や一部資料・書籍において島峯が用いられているが、大学名簿・官報等公文書では島峰が用いられていることから、本稿においても島峰を用いた。 島峰家は越後長岡藩の藩医を代々勤め、祖父伝庵は十三人扶持(長岡藩上士槙家記録)、または75石取りと記録されている。戊辰戦争当時、祖父伝庵は63歳・父恂斎は22歳で既に家督を継ぎ、戊辰戦争における長岡藩内の記録「士分賞罰留」において恂斎は勤労の功を賞され二両二分を下され、また負傷した河井継之助を会津で同僚藩医と共に治療を行ったとされる。
合田 平(ごうだ ひとし、1876年〈明治9年〉7月 - 1… 合田 平(ごうだ ひとし、1876年〈明治9年〉7月 - 1934年〈昭和9年〉10月24日 )は、大正・昭和期の医師(軍医)。大日本帝国陸軍軍医総監。 新潟県中頸城郡高田町(現・上越市)出身。代々高田藩医を務める合田家六代当主、合田義宜の長男として1876年に生まれる。旧制新潟県立高田中学校、旧制第一高等学校、を経て、1902年3月東京帝国大学医科大学を卒業。陸軍二等軍医に任官する。[要出典] 東京衞戍病院勤務後に、東京帝国大学医学部大学院で学んだ。 近衛師団軍医部長、陸軍省医務局衛生課長、東京第一衞戍病院長を歴任した後、1925年に陸軍軍医監、1928年に陸軍軍医学校長、同年に陸軍省医務局長、1931年に陸軍軍医総監となる。
高橋 辰五郎(たかはし たつごろう、1864年12月19日(… 高橋 辰五郎(たかはし たつごろう、1864年12月19日(元治元年11月21日) - 1936年(昭和11年)8月22日)は、日本の産婦人科医・教育者。日本で初めて「助産婦」の名称を緒方正清(緒方洪庵の義理の孫)とともに提唱した。漫画家の高橋留美子は曽孫にあたる。 新潟県北蒲原郡加治村大字茗荷谷(現・新発田市)に生まれる。父は高橋定四郎、母は相馬氏。1881年(明治14年)10月、18歳で上京しドイツ語、漢学を学び、ついで1885年(明治18年)1月済生学舎(現:日本医科大学)に入学して、医学を修める。 1886年(明治19年)11月24日医術開業試験に合格して医師となる。1892年(明治25年)大阪市、緒方病院において緒方正清(緒方洪庵の義理の孫)の下で産婦人科学を専攻し、同病院在任当時、緒方と共に我が国初の産婦人科診断専門書である穴爪維篤(フライト)婦人科診断学を翻訳出版し、ついで1894年(明治27年)緒方との共著『産科学』を出版した。
小山 善(こやま ぜん、1860年9月24日(万延元年8月1… 小山 善(こやま ぜん、1860年9月24日(万延元年8月10日) - 1933年(昭和8年)5月6日)は、日本の医師。宮内省侍医寮御用掛、日本赤十字社医員。伊藤博文や李王世子一家の侍医を務めた。 1860年、現在の新潟県新発田市に生まれる。小山家は医者の家系であった。1891年に発生した濃尾地震に際しては、当時の岐阜県武儀郡関町に設置された赤十字社仮病院で被災者の救護活動に従事した。1909年(明治42年)10月26日、枢密院議長伊藤博文の侍医として彼のハルビン訪問に隨行した際、朝鮮の独立運動家であった安重根の銃撃により重傷を負った伊藤博文の救命処置をする。小山善はこの際のことについて「伊藤公がハルビン駅に到着しロシア軍隊の前を通っていたとき、爆竹のような音を聞き同時に伊藤公が負傷したことを確認したため、直ちに救命活動を行った。
池田 謙斎(いけだ けんさい、1841年12月22日〈天保1… 池田 謙斎(いけだ けんさい、1841年12月22日〈天保12年11月10日〉- 1918年〈大正7年〉4月30日)は、明治時代の医者。日本の近代医学の礎を築いた人物。学位は、医学博士。華族(男爵)、宮中顧問官、錦鶏間祗候。諱・秀之、幼名・圭助。通称・桂太郎または謙輔(けんすけ)で謙斎に改めた。 1841年、入沢健蔵の次男として越後国蒲原郡中之島村(現長岡市)に生まれる。幼名は圭助。安政5年3月(1858年1月 - 2月)に江戸に出、伯父の入澤貞意宅に寄宿する。漢学を瀬川道元に、剣術を心形刀流伊庭軍兵衛、オランダ語を竹垣龍太郎に学ぶ。 竹垣の紹介を経て適塾に入門し、1862年に西洋医学所へ入学した。