冨永 茂穂(とみなが しげほ、1925年11月10日 - 2… 冨永 茂穂(とみなが しげほ、1925年11月10日 - 2017年10月29日)は日本の政治家。鹿児島県串木野市長(2期)。 鹿児島県串木野市(いちき串木野市)羽島出身。小学3年生のとき家族とともにブラジルへ渡り、5年後に帰国。1948年に旧制鹿児島県立工業専門学校(現鹿児島大学工学部)機械科を卒業。商事会社員、参議院議員秘書を経て、1951年串木野市役所に入職。串木野市の水道課長、市長公室長、企画課長、新港対策室長、総務企画室長などを経て、1985年10月18日串木野市収入役に就任。1987年6月9日串木野市助役に就任し、1991年6月9日再任。 1995年串木野市長に初当選し(無所属で1月15日当選)、2月5日に1期目就任。
外西 寿彦(ほかにし ひさひこ、1925年2月5日-1993… 外西 寿彦(ほかにし ひさひこ、1925年2月5日-1993年7月21日)は、日本の産婦人科医、産婦人科学者。周産期医療、母子救急医療の権威。鹿児島県の周産期医療・新生児医療の改善と発展に尽力した。鹿児島市立病院第5代院長。 宮崎県出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1951年に旧制県立鹿児島医学専門学校(後の旧制県立鹿児島医科大学、現・鹿児島大学医学部)卒業。1958年4月、旧制県立鹿児島医科大学より医学博士号授与。鹿児島大学産婦人科(町野碩夫教授)に入局し、1958年1月より助手、1961年5月より講師。1966年2月に鹿児島大学助教授となるが、鹿児島市立病院に招かれて7月に退職。
谷口 巳三郎(たにぐち みさぶろう、1923年 <大正12年… 谷口 巳三郎(たにぐち みさぶろう、1923年 <大正12年> 11月1日 -2011年 <平成23年> 12月31日 )は、農業・環境・人材指導者、循環式有機農法農業家、妻は谷口恭子(タイとの交流の会で活動)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
折小野 良一(おりおの りょういち、1919年1月25日 -… 折小野 良一(おりおの りょういち、1919年1月25日 - 1986年10月20日)は、昭和期の地方公務員、政治家。衆議院議員(2期)、延岡市長(2期)。 鹿児島県薩摩郡宮之城町(現さつま町)出身。1935年旧制宮崎県立妻中学校(現:宮崎県立妻高等学校)卒業。1938年第七高等学校造士館(現:鹿児島大学)卒業。1941年京都帝国大学法学部卒。延岡市総務課長を経て、同市長三浦虎雄によって助役に起用。1960年の延岡市長選挙に立候補。現職の青木善祐を1139票差で破り初当選。延岡市長を戦後初めて2期務める。1965年、助役に房野博(後に延岡市長)を起用。1966年、衆議院議員総選挙立候補のため延岡市長退任。
松形 祐堯(まつかた すけたか、1918年2月26日 ‐ 2… 松形 祐堯(まつかた すけたか、1918年2月26日 ‐ 2007年8月23日)は、日本の政治家、官僚。 宮崎県知事(公選第10‐15代)、林野庁長官を歴任。 宮崎県えびの市出身。宮崎県立小林中学校(現・宮崎県立小林高等学校)、鹿児島高等農林学校(現・鹿児島大学農学部)、九州帝国大学農学部卒業。1942年農林省に入省。林野庁長官などを歴任後、1976年の参議院議員補欠選挙に宮崎県選挙区から自由民主党公認で立候補したが落選。1979年当時の宮崎県知事黒木博の任期途中での辞職により同県知事選に立候補し当選、2003年まで宮崎県知事を6期務めた。6期目では全国で最高齢の知事であった。2004年旭日大綬章受章。
宮之原 貞光(みやのはら さだみつ、1917年10月4日 -… 宮之原 貞光(みやのはら さだみつ、1917年10月4日 - 1983年10月29日)は、日本の政治家。日本社会党参議院議員(2期)。日本教職員組合中央執行委員長。龍郷町名誉町民。 鹿児島県大島郡龍郷町生まれ。戸口小学校から鹿児島県立大島中学校 (旧制)に進学し卒業。1938年鹿児島県師範学校(現・鹿児島大学教育学部)卒。鹿児島県内の小中学校の教員となる。鹿児島県教職員組合から日本教職員組合に入り、書記次長、書記長、副委員長を経て、1962年に中央執行委員長に就任した。1971年の第9回参議院議員通常選挙で全国区から日本社会党公認で立候補して当選。2期務める。国会内では建設委員長、公害及び交通安全対策特別委員長などを歴任した。
谷口 正孝(たにぐち まさたか、1917年1月28日 - 1… 谷口 正孝(たにぐち まさたか、1917年1月28日 - 1994年6月25日)は、日本の裁判官。最高裁判所裁判官。法学博士。高等裁判所判事や東京地方裁判所所長を歴任。 鹿児島県および宮崎県出身。鹿児島県の事務官吉田詮則の次男で、母方の谷口家(谷口ワサ)の養子となる。旧制中学・高校は鹿児島市で、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1937年3月旧制第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)文科卒業。1940年九州帝国大学法文学部法科(現・九州大学法学部)法律専攻卒業。同年4月、司法官試補。1942年名古屋地方裁判所判事となり、一貫して刑事裁判官としての道を歩む。1957年、論文「没収及び追徴の研究、無差別没収を中心として」にて九州大学より法学博士号授与。
石神 兼文(いしがみ かねふみ、1916年8月11日 - 2… 石神 兼文(いしがみ かねふみ、1916年8月11日 - 2011年4月27日)は、日本の法学者。鹿児島大学第6代学長・名誉教授。専門は民法、特に財産法。 鹿児島県日置郡東市来村長里(現・日置市東市来町長里)にて生まれる。鹿児島県立伊集院中学校 (旧制)を経て、1935年3月に第七高等学校造士館 (旧制)文科甲類を卒業。1940年3月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業して、大日本航空に入社するが、翌年3月に軍に現役入隊となり休職。1946年3月、復員。1947年10月から1950年10月まで、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校とその学制改革後の鹿児島県甲南高等学校にて教諭を務め、社会科の一般社会の授業を担当。
池田 正辰(いけだ まさとき、1916年3月7日 - 198… 池田 正辰(いけだ まさとき、1916年3月7日 - 1982年5月30日)は、日本の政治家。鹿児島県姶良郡蒲生町長(3期)。 鹿児島県蒲生町(当時・蒲生村、現:姶良市の一部)出身。1933年旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)卒業。1936年に第七高等学校造士館(現:鹿児島大学)を卒業。1940年に京都帝国大学経済学部卒業。日本石油株式会社に入社し勤務するが、1941年に応召し、1946年に復員。1947年に鹿児島県庁職員となり、鹿児島県東京事務所長、鹿児島県林務部長などを歴任。旧制中学時代の恩師でもある小山田政弘蒲生町長の後継として、郷里の町長選に出馬し無投票当選して、1973年5月より第11代蒲生町長。
香月 熊雄(かつき くまお、1916年1月25日 - 199… 香月 熊雄(かつき くまお、1916年1月25日 - 1995年6月18日)は日本の政治家。 佐賀県知事を務めた。 1916年1月25日、佐賀県杵島郡白石町で出生。鹿児島高等農林学校(現・鹿児島大学農学部)を卒業後、佐賀県庁に入庁。農林部長を15年務めた後、県農協中央会副会長となった。その後、副知事を経て、1979年の佐賀県知事選挙で初当選。1991年まで連続3期12年を務めた。在任中、広大な環濠集落が見つかった吉野ヶ里遺跡の保存を決めている。4選となる1991年の選挙への出馬にも意欲を示したが、前年に胆石手術で入院するなど健康上の問題があり、多選への批判もあった事から出馬を断念。副知事の井本勇が後継者となった。
柴立 芳文(しばたて / しばたての[要検証 – ノート] … 柴立 芳文(しばたて / しばたての[要検証 – ノート] よしふみ、1915年(大正4年)8月12日 - 1975年(昭和50年)8月5日)は、昭和期の日本の農林業指導者、政治家。参議院議員(1期)、鹿児島県議会議長。 息子も県議会議長を務めた柴立鉄彦(7期)。孫も 現 県議会議員 柴立鉄平(1期)。 鹿児島県肝属郡大根占村神川(現錦江町)に生まれ、同郡田代村(現:錦江町)の柴立家の養子となる。鹿屋中学校(現鹿児島県立鹿屋高等学校)を経て、鹿児島高等農林学校林学科を卒業した。王子製紙に入社して終戦を迎えた。 故郷に引揚げ、1947年(昭和22年)田代村議会議員に選出され同議長も務めた。1951年(昭和26年)鹿児島県議会議員に選出され5期在任し、同副議長(2期)、同議長(2期)も務めた。
金久 卓也(かねひさ たくや、1914年6月7日 - 200… 金久 卓也(かねひさ たくや、1914年6月7日 - 2008年6月26日)は、日本の医学者、内科学者。医学博士。内科疾患の精神身体医学的側面について研究した、日本における心身医学の草分け。鹿児島大学名誉教授。 鹿児島県瀬戸内町生まれ。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)四年修了を経て、第七高等学校造士館 (旧制)理科を1934年に卒業。1938年、九州帝国大学医学部を卒業。学部では操坦道のもとでデング熱やワイル病について研究した。金子廉次郎教授の第一内科に入局し九大講師。1945年11月、「黄疸出血性レプトスピラ病における出血の成因に関する実験的研究」で九州大学より医学博士取得。また戦後は稲田竜吉東京大学教授が主催するインフルエンザ研究会にも参加した。
面高 正俊(おもだか まさとし、1913年8月4日 - 19… 面高 正俊(おもだか まさとし、1913年8月4日 - 1985年12月28日)は、日本の歴史学者。鹿児島大学名誉教授。専門は西洋史で、門割制度など薩摩藩についての研究もおこなった。 鹿児島県の加世田生まれ。加世田武田(川辺郡加世田村武田、川辺郡加世田町武田、加世田市武田、南さつま市加世田武田)出身。1931年旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)卒業、1935年旧制第七高等学校造士館文科卒業、1938年東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。神奈川県史跡調査員となるが、戦争に応召され負傷し療養中に終戦。母校の旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校とその後身鹿児島県甲南高等学校で教諭を務めた後、1949年鹿児島大学鹿児島師範学校教授に就任。
金久 好(かねひさ よしみ、1911年4月1日 - 2010… 金久 好(かねひさ よしみ、1911年4月1日 - 2010年7月13日)は、日本の実業家。日興證券役員、日興證券投資信託委託副社長、日興ビルディング社長などを歴任。「奄美大島に於ける「家人」の研究」等、奄美の史料論文著者としても知られる。 鹿児島県瀬戸内町出身。奄美群島加計呂麻島の諸鈍生まれ。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1931年旧制第七高等学校造士館(現鹿児島大学)文科卒業。1936年東京帝国大学経済学部卒業。三菱信託銀行から日興證券に転じる。日興證券本店債券部長(1957年)、金融法人部長(1959年)、取締役人事部長(1961年)、常務取締役(1963年)を歴任。
冨満 通哉(とみみつ みちや、1908年(明治41年)12月… 冨満 通哉(とみみつ みちや、1908年(明治41年)12月1日 - 1993年(平成5年)7月23日)は、日本の実業家。神鋼電機株式会社(現シンフォニアテクノロジー株式会社)第3代代表取締社長。昭和54年4月、勲三等瑞宝章 産業振興功労 受勲。 鹿児島県出身。旧制鹿児島県立加治木中学校(現:鹿児島県立加治木高等学校)を経て、第七高等学校造士館(現:鹿児島大学法文学部・理学部)理科甲類を1929年3月に卒業。1932年3月、京都帝国大学工学部電気工学科卒業。 1932年4月、神戸製鋼所 入社(1949年株式会社神戸製鋼所より分社化し神鋼電機株式会社が設立される)。1950年11月、神鋼電機株式会社取締役就任。
藤田 文江(ふじた ふみえ、1908年(明治41年)9月29… 藤田 文江(ふじた ふみえ、1908年(明治41年)9月29日 - 1933年 (昭和8年)4月24日)は、日本の詩人。ボードレールの影響を受けた耽美的な詩を書き、詩集に『夜の聲』がある。 1908年9月29日に鹿児島県大島郡名瀬村(現・奄美市)で生まれ、鹿児島市、台湾と転居し、14歳まで台湾で過ごす。台北第二高等女学校に入学。再び鹿児島に転居し、鹿児島県立第二高等女学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)に編入。1925年に鹿児島県立第二高等女学校を卒業。鹿児島女子師範学校(現・鹿児島大学教育学部)に進学、1926年に卒業し小学校教師になるが、病弱のため退職。その後鹿児島女子師範学校の専攻科に進学。
上村 孝二(かみむら たかじ、1908年(明治41年)3月1… 上村 孝二(かみむら たかじ、1908年(明治41年)3月14日 - 1996年(平成8年)3月25日)は、日本の国語学者・方言学者。九州の方言学における重鎮だった。文学博士。鹿児島大学名誉教授。 1908年、佐賀県武雄町で出生。本籍は鹿児島県上甑村(甑島列島、現在の薩摩川内市の一部)。生後すぐ母が亡くなったこともあり、上甑村中甑の上村家の養子となった。同村の中津尋常高等小学校を経て、1925年(大正14年)に本土の鹿児島県立川内中学校 (旧制)を卒業。 旧制中学卒業後に帰郷し、上甑村の江石尋常高等小学校で1年間代用教員を務めた。その後、九州帝国大学法文学部国文学科に入学して学び、1933年3月に卒業。
木崎 国嘉(きざき くによし、1907年2月15日 - 19… 木崎 国嘉(きざき くによし、1907年2月15日 - 1984年6月17日)とは、日本の医師、教育者、タレント。 実弟は鹿児島大学教養部、立正大学文学部で教授を務めた歴史学者の木崎良平。 大阪府生まれ。1924年(大正13年)大阪府立北野中学校卒業、1928年(昭和3年)大阪高等学校 (旧制)理科を卒業。1932年(昭和7年)京都帝国大学医学部卒業後、同付属病院内科勤務を経て大阪赤十字病院に入り、1969年(昭和44年)まで内科部長を務める。 その頃、テレビ番組11PMの大阪局製作分においてセックスドクター、木崎ドクターとしてレギュラー出演。藤本義一、アンナ・ルーセンとエッチな会話をする医師として人気を博した。
西田 政善(にしだ まさよし、1906年8月15日 - 故人… 西田 政善(にしだ まさよし、1906年8月15日 - 故人)は、日本の農学者。専門は林学と造園学。鹿児島大学名誉教授、九州学院大学学長。 宮崎県出身。1927年鹿児島高等農林学校林学科(現鹿児島大学農学部)卒業。鹿児島高等農林学校助手を経て、1934年助教授。1944年鹿児島青年師範学校(現鹿児島大学教育学部)教授。学制改革により1949年鹿児島大学助教授、1961年鹿児島大学教授(教育学部所属)。後に南九州大学教授を経て、九州学院大学(現第一工科大学)教授。九州学院大学学長代行を務めた後、1977年九州学院大学学長に就任。 1988年上原敬二賞受賞。西田は鹿児島や沖縄の庭園研究や修験道の庭園の研究で知られ、鹿児島の志布志麓庭園(平山氏庭園、昭和31年鹿児島県指定名勝)を高く評価。
泉 芳朗(いずみ ほうろう、1905年3月18日 - 195… 泉 芳朗(いずみ ほうろう、1905年3月18日 - 1959年4月9日 )は、日本の政治家、詩人、教育者。名瀬市長(1期)。 鹿児島県大島郡伊仙村生まれ。1924年3月、鹿児島県立第二師範学校(現・鹿児島大学教育学部)卒業。卒業後は、小学校の教員として鹿児島と東京の学校を転々とした。1931年、日本大学専門部国文科中退。 1950年8月、奄美大島社会民主党を結成し、書記長、中央執行委員長を歴任した。同年、群島議会議員選挙に同党公認で立候補したが、次点で落選した。1951年2月、奄美大島復帰協議会を結成して、議長となった。同年8月1日から5日まで日本復帰の断食祈願を行った。その後、奄美各地で決起集会が開かれ、参加者が24時間の断食を行うなどの広がりを見せた。
島袋 俊一(しまぶくろ しゅんいち、1902年9月11日 -… 島袋 俊一(しまぶくろ しゅんいち、1902年9月11日 - 1965年9月17日)は、日本の植物病理学者・菌学者・教育者。歌人としても活躍し、小林 寂鳥(こばやし じゃくちょう)と号した。 1902年、沖縄県国頭郡伊江村出身。 1924年に旧制鹿児島高等農林学校(現在の鹿児島大学農学部)を卒業後、名瀬実科高等女学校(鹿児島県立奄美高等学校の前身の一つ)、鹿児島県第二師範学校の教員を務める。1937年に帰郷して沖縄県立八重山農学校(現在の沖縄県立八重山農林高等学校)の初代校長を務め、1944年からは沖縄青年師範学校の校長を歴任した。 1950年に琉球大学が開学すると同大学の教授に就任、1959年に農学部長、学部改組により農家政学部長、農家政工学部長を歴任した。
中村 威(なかむら たけし、1902年3月11日 - 198… 中村 威(なかむら たけし、1902年3月11日 - 1986年3月27日)は、日本の生物学者、植物学者。京都学芸大学教授、関西女子短期大学教授を歴任。理学博士。専門は植物細胞学。 熊本県飽託郡内田村(後の天明村、天明町、熊本市南区の一部)出身。1912年から鹿児島県鹿児島市に住み、1914年に旧制 鹿児島県立第二鹿児島中学校(現 鹿児島県立甲南高等学校)へ入学。1919年に、第二鹿児島中学校から鹿児島高等農林学校(現 鹿児島大学)へ進学。専門学科では、動植物学を主とする農学科第三部で、岡嶋銀次、河越重紀、中村治房らに師事。1922年3月に鹿児島高等農林学校農学科を卒業し、ただちに京都帝国大学理学部植物学教室助手となり、桑田義備教授に師事して細胞学の研究に従事。
宮城 仁四郎(みやぎ じんしろう、1902年1月10日 – … 宮城 仁四郎(みやぎ じんしろう、1902年1月10日 – 1997年12月20日)は、日本の経営者である。第二次世界大戦後の沖縄において沖縄機械製塩、大東糖業、琉球煙草、琉球セメントなど多数の企業を設立し、オリオンビールの具志堅宗精、国場組の国場幸太郎、大城組の大城鎌吉らとともに「沖縄財界四天王」に数えられる。その功績は「沖縄の産業復興の父」「戦後沖縄の混迷期脱出を象徴する代表的な経済人」などと評される。 宮城仁四郎は1902年(明治35年)1月10日に沖縄県国頭郡大宜味村字根路銘で、父・仁孝と母・ウシの間に生まれた。7人兄弟(4男3女)の末っ子であった。父の仁孝は建設業に従事しており、仁四郎は「当時としてはまずまずの生活を送っていた」と述べている。
平瀬 實武(実武、ひらせ さねたけ、1901年11月17日 … 平瀬 實武(実武、ひらせ さねたけ、1901年11月17日 - 1994年1月18日)は、日本の政治家、革新首長。第15代鹿児島市長、第2代鹿児島県串木野市長、第6代串木野町長。鹿児島県議会(鹿児島県会)議員、鹿児島市会議員、同副議長も歴任した。串木野市名誉市民。位階は従五位。 鹿児島市下荒田町の旧家・最上家に生まれる(平瀬は養子先の姓)。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1922年旧制第七高等学校造士館(現:鹿児島大学)文科卒業、1926年に東京帝国大学農学部農業経済学科卒業。同じ下荒田町出身で後輩の佐多忠隆とは、旧制中学生(通う中学は別)と旧制七高生のとき、ともに社会主義について勉強した。
田中 勝之助(たなか かつのすけ、1901年(明治34年)3… 田中 勝之助(たなか かつのすけ、1901年(明治34年)3月16日 - 1945年(昭和20年)8月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 島根県那賀郡今市村丸原(現浜田市旭町丸原)で、酒造業・田中勝聴の長男として生まれる。島根県立浜田中学校を経て、1923年(大正12年)鹿児島高等農林学校を卒業。その後、家業を継いだ。今市村会議員を務めた。日中戦争で応召して足かけ4年間従軍し、陸軍歩兵中尉に昇進した。 1942年(昭和17年)3月、島根県会議員に当選し、帝国在郷軍人会那賀郡連合会分会長も務めた。同年4月、第21回衆議院議員総選挙に非推薦で島根県第2区から出馬して当選し翼賛政治会に参加。
小原 貞敏(おばら さだとし、1901年1月29日 - 19… 小原 貞敏(おばら さだとし、1901年1月29日 - 1988年7月19日)は、日本の工学者。専門は機械工学。鹿児島大学名誉教授 。鹿児島大学工学部長や鹿児島工業高等専門学校初代校長を歴任。 鹿児島県鹿児島市高麗町出身。1918年鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業。1922年第七高等学校造士館 (旧制)理科卒業。1925年京都帝国大学工学部機械工学科卒業。大学卒業後に南満州鉄道へ入り機関士見習いからたたき上げ、あじあ (列車)の設計に携わる。終戦直前に満鉄本部運輸局長。戦後1946年から鹿児島県立工業専門学校 (旧制)でボイラー関係を教える(県立工業専門学校は学制改革で1949年2月に鹿児島県立大学工学部となる)。
前田 盛高(まえだ もりたか、1899年1月5日 - 198… 前田 盛高(まえだ もりたか、1899年1月5日 - 1982年6月13日)は、日本の経営者。共栄火災海上保険社長、会長、相談役を歴任。 鹿児島県薩摩郡入来村(後の入来町、薩摩川内市の一部)生まれ。1918年3月に鹿児島県師範学校本科(現 鹿児島大学教育学部)を卒業。1918年4月から鹿児島県日置郡の天昌尋常高等小学校(現 日置市立永吉小学校)教諭を務めるが、病気療養のため退職。 1920年10月に大福海上火災保険へ入社し、調査課勤務。1942年7月、大福海上火災保険と大東海上火災保険の合併により共栄火災海上保険が設立されると同時に神戸支店長となり、1944年3月から大阪支店長、1946年12月から近畿支社長。
内藤 克俊(ないとう かつとし、1895年〈明治28年〉2月… 内藤 克俊(ないとう かつとし、1895年〈明治28年〉2月25日 - 1969年〈昭和44年〉9月27日)は、広島県広島市本川町(後の中区本川町)出身のレスリング選手。柔道家で最終位は七段。1924年パリオリンピックで、日本唯一のメダルを獲得(銅メダル)し、日本レスリングの始祖となる。これが、日本がその後レスリングが「お家芸」と称されるようになる歴史の第一歩となった。 生後半年で陸軍将校の父を亡くす。陸軍関係の子女が通う広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)入学後に母も急逝、台湾に嫁いだ長姉を頼って海を渡る。寂しがり屋の内藤に、姉は柔道を習わせた。台北一中(のちの建国中学)に進み、柔道に精を出し在台湾中に初段を獲る。
鋳方 末彦(いかた すえひこ、1894年8月27日 - 19… 鋳方 末彦(いかた すえひこ、1894年8月27日 - 1976年9月10日)は、日本の植物病理学者。学位は、農学博士(九州大学・論文博士・1941年)。 熊本県下益城郡小野部田村(現・宇城市)生まれ。八代中学校(後の熊本県立八代中学校・高等学校の前身のひとつ)卒業。 1916年(大正5年)鹿児島高等農林学校卒業。農商務省福岡県農事試験場、岡山県農事試験場を経て農林省農事試験場技師に。「小麦条斑病に関する研究」で日本農学会賞を受賞。1941年(昭和16年)には、「柿の重要寄生性病害に関する病理並びに治病学的研究」で、九州大学より農学博士の学位を授与される。更に「いもち病防除に関する試験研究」で富民協会賞、「小麦縞萎縮病に関する研究」等で農林大臣賞受賞、など多くの賞に輝く。
国生義夫(こくしょう よしお、1892年12月4日 – 19… 国生義夫(こくしょう よしお、1892年12月4日 – 1976年6月16日)は、鹿児島県出身の実業家。明治乳業の元社長・元会長。 鹿児島市の貧しい家庭に生まれる。鹿児島市立松原小学校、鹿児島県立第二鹿児島中学校、鹿児島高等農林学校農学科卒業。農林学校在学中より牛乳や乳製品について研究し、1917年には農商務省による海外実業練習生に選抜され渡米。現地で4年間、酪農について研修を受ける。 帰国後の1923年、東京菓子(現・明治製菓)に入社、1955年には明治乳業社長に就任し、以後会長まで務めた。 著書に「わが乳業記」(1969年、明治乳業刊)がある。 藍綬褒章及び勲三等旭日中綬章を受章。 1976年6月16日、心筋梗塞のため東京慈恵会医科大学附属病院で死去。
大村 清一(おおむら せいいち、旧字体: 大村淸一、1892… 大村 清一(おおむら せいいち、旧字体: 大村淸一、1892年(明治25年)5月4日 - 1968年(昭和43年)5月24日)は、日本の内務官僚、弁護士、政治家。衆議院議員(6期、自由民主党)。貴族院議員(勅選)、防衛庁長官(第2代)、内務大臣(第65代)。日本林業協会長、相模女子大学長。 防衛庁長官を務めた大村襄治は子。岳父は東大名誉教授本多静六。 岡山県津山市に生まれる。大村吉五郎の長男。 鹿児島高等農林学校卒業の後、1917年(大正6年)京都帝国大学法科大学独法科卒業。同大学院修了。内務省に入省。土木局属。鹿児島県揖宿郡長、東京市主事、地方、復興局、内務、鉄道各事務官、内務書記官、長野、神奈川県知事となり、長野県知事を2度務め話題になった。
川崎 末五郎(かわさき すえごろう、1892年(明治25年)… 川崎 末五郎(かわさき すえごろう、1892年(明治25年)2月20日 - 1971年(昭和46年)11月8日)は、日本の内務官僚、政治家。福島県知事(官選第31代)、衆議院議員(5期)。旧姓は神田。 京都府出身。神田槌之助の三男として生まれ、衆議院議員川崎安之助の養子となる。鹿児島高等農林学校を経て、1916年、京都帝国大学法科大学政治学科を優等で卒業し、銀時計を授与された。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し警視庁警部となる。 以後、東京府属、兵庫県警視、台湾総督府事務官、朝鮮総督府事務官、内務書記官・警保局図書課長、兵庫県書記官・学務部長、兵庫県立神戸高等商業学校校長取扱、内務書記官・警保局高等課長などを歴任。
藤本 虎喜(ふじもと とらき、1892年2月16日 - 19… 藤本 虎喜(ふじもと とらき、1892年2月16日 - 1981年11月11日)は、日本の政治家、農業技術者。衆議院議員(1期)、国民協同党所属。 熊本県上益城郡甲佐町出身。鹿児島高等農林学校農学科卒業。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
永井 照雄(ながい てるお、1888年(明治21年)8月29… 永井 照雄(ながい てるお、1888年(明治21年)8月29日 - 1942年(昭和17年)1月4日)は、朝鮮総督府官僚。 広島県豊田郡吉名村(現在の竹原市)出身。1917年(大正6年)に鹿児島高等農林学校を卒業し、朝鮮総督府営林廠に勤務した。1923年(大正12年)、京都帝国大学経済学部を卒業し、朝鮮総督府属となる。1925年(大正14年)に高等試験行政科に合格。咸鏡北道学務課長、同視学官、慶尚南道地方課長、同産業課長などを歴任した。1932年(昭和7年)、木浦府尹に就任し、1933年(昭和8年)に仁川府尹に転じた。在任中の1941年(昭和16年)12月20日に仁川神社で行われた戦捷奉告祭に風邪で40度の高熱がありながら参加、帰宅後に急性肺炎を併発、1942年(昭和17年)1月4日に死去、53歳。
岩谷 莫哀(いわや ばくあい、本名:岩谷 禎次、1888年(… 岩谷 莫哀(いわや ばくあい、本名:岩谷 禎次、1888年(明治21年)4月18日 - 1927年(昭和2年)11月20日)は、日本の歌人、編集者。鹿児島県生まれ。 鹿児島県薩摩郡宮之城村湯田(現在のさつま町)に生まれる。川内中学校(現在の鹿児島県立川内高等学校)に進学、今井白楊と同窓となり文学を志し、「秀才文壇」などに投稿。第七高等学校造士館(現在の鹿児島大学)を経て、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。東大では尾上柴舟に学んだ。 短歌雑誌『車前草』を創刊。編集者として『桜草』や、橋田東聲主宰の『珊瑚礁』など、他の短歌雑誌でも活躍、のちに『水甕』を創刊し、同誌に専念する。 1916年、出版社「莫哀社」を起こすも事業に失敗し、翌年には明治製糖に入社して台湾に渡る。
緒方 健三郎(おがた けんざぶろう、1888年4月1日 - … 緒方 健三郎(おがた けんざぶろう、1888年4月1日 - 1967年11月17日)は、日本の英文学者、教育者、鹿児島大学初代学長・名誉教授。旧制の第六高等学校教授、姫路高等学校第6代校長、第七高等学校第10代校長も歴任した。 福岡県京都郡豊津町(現みやこ町)出身で、旧制福岡県立豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)を卒業した。1910年、旧制第六高等学校(岡山大学の前身のひとつ)大学予科第一部乙類を卒業。1913年、東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)英文学科を卒業。大学卒業後、旧制愛知県立第二中学校(現愛知県立岡崎高等学校)、旧制愛媛県立西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)で教員を務める。
内藤 智秀(ないとう ちしゅう、1886年(明治19年)7月… 内藤 智秀(ないとう ちしゅう、1886年(明治19年)7月13日 - 1984年(昭和59年)7月24日)は、日本の西洋史学者。文学博士。庄内町名誉町民。パキスタン協会副会長。 1886年(明治19年)7月13日、山形県東田川郡余目町古関(現・庄内町)の寺院・玄通寺に生まれる。荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)卒業、第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)を経て、1912年(明治45年)7月10日、東京帝国大学文学部西洋史学科を卒業。 卒業後は、鹿児島県の中学校教員、東京大学図書館司書、山形高等学校(現・山形大学)教授を経て、外務省に入省。トルコ、イラン、アラビアなどで勤務しつつ、中東文化を研究した。
佐多 愛彦(さた あいひこ、明治4年9月17日(1871年1… 佐多 愛彦(さた あいひこ、明治4年9月17日(1871年10月30日) - 昭和25年(1950年)3月4日)は、日本の医学者。府立大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)学長。 鹿児島県出身。佐多直隆の四男として生まれる。鹿児島医学校を経て、1890年(明治23年)に帝国大学(現・東京大学)選科を卒業。同大学助手、市立富山病院医員を務めた後、1894年(明治27年)に府立大阪医学校教諭となった。1897年(明治30年)よりドイツに留学し、1900年(明治33年)に帰国。帰国とともに医学博士の学位を得た。 1902年(明治35年)、府立大阪医学校校長・同病院長に就任し、医学校が大阪医科大学に改組されると引き続き学長を務めた。
籾木 卿太郎(もみき きょうたろう / けいたろう、1867… 籾木 卿太郎(もみき きょうたろう / けいたろう、1867年12月18日(慶応3年11月23日) - 1916年(大正5年)8月7日)は、日本の医師。政治家、衆議院議員(1期)。 日向国諸県郡高岡郷、のちの宮崎県北諸県郡高岡町(現宮崎市)で生まれた。1887年(明治20年)鹿児島県立医学校(現・鹿児島大学医学部)卒。医師となり、東諸県郡医会長、郡医、校医、日本赤十字社準備医員嘱託となる。 1904年(明治37年)第9回衆議院議員総選挙において宮崎県から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙は不出馬。1916年に死去した。
浜田 政壮(濱田 政壯、はまだ まさたけ、1864年11月1… 浜田 政壮(濱田 政壯、はまだ まさたけ、1864年11月10日(元治元年10月11日)- 1937年(昭和12年)3月2日)は、明治から昭和初期の医師、政治家。衆議院議員、宮崎県会議長。旧姓は池田。 日向国諸県郡、のちの宮崎県東諸県郡倉岡村(現宮崎市)で、池田政順の二男として生れ、薩摩藩郷士・浜田戸太の養子となる。宮崎学校で中等教育を修め、高鍋の城竹窓に師事し漢学を修めた。1884年(明治17年)鹿児島県立医学校(のち県立鹿児島医科大学、現鹿児島大学)を卒業。上京して高木兼寛に医学を学び、1887年(明治20年)3月、医術開業免許を取得した。 その後、宮崎町(現宮崎市)で医院を開業。1896年(明治29年)伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)講習科を卒業。
三浦 得一郎(みうら とくいちろう、安政3年3月10日〈18… 三浦 得一郎(みうら とくいちろう、安政3年3月10日〈1856年4月14日〉 - 1934年〈昭和9年〉3月14日)は、日本の衆議院議員(憲政会)、陸軍副参政官。陸軍軍医監(少将相当官)。 日向国臼杵郡恒富村(現在の宮崎県延岡市)出身。延岡藩校医学館、鹿児島医学校、長崎医学校を経て、陸軍軍医学校を卒業。1883年(明治15年)、陸軍軍医試補に任官し、陸軍軍医補、陸軍二等軍医、陸軍一等軍医と昇進していった。1894年(明治27年)、日清戦争にあたって病院船神祐丸の院長を務めた。1907年(明治40年)12月8日、軍医監に任命された。その間、福岡衛戍病院院長、丸亀衛戍病院院長、医務局衛生課長、関東都督府陸軍軍医部長、第三師団軍医部長を歴任した。
高木 兼寛(たかき かねひろ、嘉永2年9月15日〈1849年… 高木 兼寛(たかき かねひろ、嘉永2年9月15日〈1849年10月30日〉 - 大正9年〈1920年〉4月13日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍軍医総監(少将相当)。医学博士。男爵。東京慈恵会医科大学の創設者。 生誕の地である宮崎では「ビタミンの父」と紹介している。また、「よこすか海軍カレー」では、脚気対策として海軍の兵食改革を行った際にカレーを取り入れた人物とみなしている。 薩摩藩郷士・高木喜助兼次の長男として日向国諸県郡穆佐郷(現:宮崎県宮崎市高岡町小山田)に生まれた。通称は藤四郎。穆園と号した。 18歳のときから薩摩藩蘭方医の石神良策に師事し、戊辰戦争の際には薩摩藩兵の軍医として従軍した。
益田 美悠(ますだ みゆう、2月4日 - )は、長野放送 (… 益田 美悠(ますだ みゆう、2月4日 - )は、長野放送 (NBS) のアナウンサー。福岡県春日市出身。 鹿児島大学卒業。在学中に南日本放送(MBCラジオ)『てゲてゲハウス』に出演。2023年から2026年3月までNHK鹿児島放送局に契約キャスターとして勤務。同年4月1日に長野放送に入社。入社4日目の同年4月4日放送『土曜はこれダネッ!』にてNBS初出演。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:アナウンサー)。 NBS長野放送のアナウンサー
大山 有布佳 は、鹿児島県霧島市出身の日本の気象予報士、防災… 大山 有布佳 は、鹿児島県霧島市出身の日本の気象予報士、防災士。血液型はA型。
田中 さをり (たなか さをり)は、高校生からの哲学雑誌『哲… 田中 さをり (たなか さをり)は、高校生からの哲学雑誌『哲楽』編集人。千葉大学大学院にて哲学、倫理学、情報科学を学び、修士(文学)、博士(学術)を取得。アメリカのコネチカット大学で訪問研究員として2年間過ごす。障害と道徳の関係の分析や、手話のスキルサイエンス研究に従事。その後、大学・研究所・国連機関・企業などで、広報担当者として勤務する。現在は、大学の広報職員として働く傍ら、様々な媒体で科学技術や哲学に関する執筆編集活動を続けている。 この項目は、哲学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:哲学)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
水谷駿一(みずたにしゅんいち、1894年 - 1970年)は… 水谷駿一(みずたにしゅんいち、1894年 - 1970年)は、日本の造園家。官庁造園技師として活躍し、長崎や東京の公園緑地事業に多くの業績を残した。名古屋市生まれ。東京育ち。 1914年(大正3年)、東京府立園芸学校を卒業し、鹿児島高等農林学校(現・鹿児島大学農学部)に進学。1917年同校卒業。指導教授の紹介と原煕推挙によって、同年明治神宮造営局に奉職。1920年(大正9年)旧都市計画法が施行されてから同年に長崎に赴任。後の田村剛の計画以前に同県の温泉公園や、長崎市の都市公園の計画造成につくし、市の森林公園の造林施業を成功させる。 長崎在任3年後にたまたま関東大震災が勃発すると帰京して、1924年に東京市復興総務部に、更に1927年(昭和2年)には内務省復興局建築部公園課に移籍し、折下吉延課長のもとで東京と横浜の街路樹や苗床の管理運営と風致地区の指定計画、浜町公園の築造等に従事する。
佐野 裕志(さの ひろゆき)は、日本の法学者。専門は、民事訴… 佐野 裕志(さの ひろゆき)は、日本の法学者。専門は、民事訴訟法・法情報学等。鹿児島大学教授を経て、専修大学大学院法務研究科長・教授。元法務省司法試験考査委員。 愛知県立時習館高等学校を経て、1976年一橋大学法学部卒業。1978年一橋大学大学院法学研究科修士課程修了、法学修士。1981年一橋大学大学院法学研究科博士課程単位取得。指導教官は竹下守夫。 1981年鹿児島大学法文学部講師。1982年同助教授。文部省在外研究員としてフライブルク大学に留学後、1987年鹿児島大学法文学部教授及び鹿児島地方裁判所民事調停委員に就任。再び文部省在外研究員としてフライブルク大学に留学後、2003年から鹿児島家庭裁判所家事調停委員兼務。
明里 宏文(あかり ひろふみ) は、日本の免疫学者、ウイルス… 明里 宏文(あかり ひろふみ) は、日本の免疫学者、ウイルス学者。京都大学ヒト行動進化研究センター附属人類進化モデル研究センター教授。 大阪府立池田高等学校を経て、1988年鹿児島大学農学部獣医学科卒業。1989年鹿児島大学大学院農学研究科獣医学専攻修了、農学修士、京都大学ウイルス研究所研究生。1994年山口大学大学院連合獣医学研究科修了、博士(獣医学)、エイズ予防財団リサーチレジデント(国立感染症研究所協力研究員)。1995年科学技術庁特別研究員(国立感染症研究所協力研究員)。1997年徳島大学医学部ウイルス学教室助手。1999年アメリカ国立アレルギー・感染症研究所リサーチフェロー。2002年国立感染症研究所筑波医学実験用霊長類センター主任研究官。
鶴丸 哲哉(つるまる てつや)は日本の実業家。株式会社ルネサ… 鶴丸 哲哉(つるまる てつや)は日本の実業家。株式会社ルネサスエレクトロニクス代表取締役会長。 1973年久留米大学附設高等学校卒業。同級生に青沼隆之元名古屋高等検察庁検事長、栗木康幸元東京エレクトロンデバイス社長がいた。1979年鹿児島大学大学院修了後、日立製作所入社。2003年ルネサステクノロジ那珂工場長、2010年ルネサスエレクトロニクス執行役員、2012年取締役。2013年代表取締役社長。2016年から同社代表取締役会長。
有川 貞広(ありかわ さだひろ)は日本の実業家である。鹿児島… 有川 貞広(ありかわ さだひろ)は日本の実業家である。鹿児島県出身。 上海理光伝真機有限公司副総経理、静岡リコー株式会社代表取締役社長、リコー九州株式会社代表取締役社長、コカ・コーラウエストジャパン株式会社社外取締役、株式会社リコー執行役員、リコーリース株式会社代表取締役社長執行役員・CEOなどを歴任した。 鹿児島県立鶴丸高校を経て、1971年鹿児島大学法文学部卒業、同年株式会社リコーに入社。 1994年上海理光伝真機有限公司副総経理、1998年静岡リコー株式会社代表取締役社長、 2001年リコー九州株式会社代表取締役社長、2003年コカ・コーラウエストジャパン株式会社社外取締役、 2004年株式会社リコー執行役員、2009年4月リコーリース株式会社常務執行役員、 2009年6月同社代表取締役社長執行役員、2010年同社代表取締役社長執行役員・CEOを歴任。