関谷 定夫(せきや さだお、1925年12月26日 - 20… 関谷 定夫(せきや さだお、1925年12月26日 - 2017年6月11日)は、日本の聖書学者。西南学院大学名誉教授、旧約聖書学・聖書考古学専攻。 東京出身。1945年旧制福岡高等学校卒業。1949年旧制熊本医科大学卒業。1952年西南学院大学神学専攻卒業。西南学院大学講師、助教授、1969年教授。1968-1969年、イスラエル・ヘブライ大学に学ぶ。1970年西南学院大学神学部長(1978年再任)。1996年定年、名誉教授。 1970-1975年日本基督教学会理事。1983-1995年、西日本宗教学会理事。日本イスラエル文化研究会理事。
馬場 昇(ばば のぼる、1925年11月26日 - 2015… 馬場 昇(ばば のぼる、1925年11月26日 - 2015年6月15日)は、日本の政治家。衆議院議員、日本社会党書記長を歴任。 熊本県葦北郡湯浦町(現在の芦北町)に生まれる。熊本高等工業学校(現・熊本大学工学部)卒業。1947年、教職に就き、教員組合・教職員組合に加入。1951年頃より専従職員。1952年には熊本県高教組初代副委員長。1953年には日教組中央執行副委員長。1961年には熊本県総評副議長、1967年には同・議長。 1972年12月、第33回衆院選で旧熊本2区において日本社会党から出馬し初当選。 1980年6月には当選3回以下の議員を中心に53名で中間左派の党内派閥日本社会党新生研究会を結成し、当時当選4回の馬場は代表委員に就任。
小倉 学(おぐら まなぶ、1924年12月20日- 1990… 小倉 学(おぐら まなぶ、1924年12月20日- 1990年5月19日)は、日本の医学博士。 研究分野は学校保健、保健教育、養護教諭の専門性、養護教諭養成制度の確立に尽力した。茨城大学名誉教授。 1942年3月、鹿児島県立種子島中学校(現・鹿児島県立種子島高等学校)卒業、1945年6月陸軍経理学校卒業、1950年3月、熊本医科大学卒業し、1951年8月第10回医師国家試験合格、同時に熊本大学医学部助手(衛生学)となった。1953年6月東京大学教育学部助手(健康教育学)及び同年10月東京大学伝染病研究所研究員を併任した。1960年3月医学博士(東京大学)、同年8月東京大学教育学部講師(健康教育学)となった。
中山 義崇(なかやま よしたか、1924年(大正13年)4月… 中山 義崇(なかやま よしたか、1924年(大正13年)4月10日 - 2003年(平成15年)11月24日)は、日本の教育者。崇城大学元学長、君が淵学園理事長。娘婿は崇城大学現学長の中山峰男(旧姓:佐々、長女・郷子の夫)。1981年(昭和56年)11月藍綬褒章受章。 熊本県下益城郡小川町に生まれる。1945年(昭和20年)、官立熊本工業専門学校教員養成電気工学科(現・熊本大学)を卒業する。1949年(昭和24年)、私塾君が淵電波塾を創立。1961年(昭和36年)、学校法人君が淵学園を設立し理事長に。同年君が淵電波工業高等学校を開校し、初代校長に就任する。以降同校を発展させ、1967年(昭和42年)、熊本工業大学を設立、学長に就任する。
井上 吉夫(いのうえ きちお、1923年〈大正12年〉3月1… 井上 吉夫(いのうえ きちお、1923年〈大正12年〉3月1日 - 2003年〈平成15年〉10月24日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。参議院議員(5期)、国務大臣(北海道開発庁長官、沖縄開発庁長官、国土庁長官)、鹿児島県議会議員(3期)、自由民主党参議院議員会長等を歴任。 鹿児島県出水郡出水町(現在の出水市)出身。地主だが自作もおこなう豪農の家に生まれる。祖父の吉太郎は村会議員だった。旧制鹿児島県立出水中学校(現:鹿児島県立出水高等学校)を経て、1942年に旧制熊本高等工業学校(現:熊本大学工学部)採鉱冶金科を卒業。卒業と同時に日本鉱業に就職し、四国の白滝鉱山にて勤務するが、1年後に召集される。
西田 誠(にしだ まこと、1923年〈大正12年〉2月19日… 西田 誠(にしだ まこと、1923年〈大正12年〉2月19日 - 2008年〈平成20年〉11月19日)は、日本の政治家。熊本県宇土市長(2期)。 熊本県宇土郡不知火村(のち不知火町、現在の宇城市)出身。1942年(昭和17年)熊本高等工業学校(現在の熊本大学工学部)卒業。卒業後は東京製綱に勤務し、その後帰郷し、西田鉄鋼所を開く。のちに株式会社に改組し、社長となる。 1990年(平成2年)宇土市長選挙に無所属で立候補し、現職の田代捨己を僅差で破って当選した。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:86.54%(前回比:-pts) 同年4月に第3代市長に就任した。 1994年(平成6年)の市長選は元市議会議長との争いとなったが、これを破って再選を果たした。
伊佐 二久(いさ つぐひさ、1922年(大正11年)9月20… 伊佐 二久(いさ つぐひさ、1922年(大正11年)9月20日 - )は、日本の陸軍軍人、医師、医学者、著作家。太平洋戦争に従軍した後に医師となり、国際協力事業団にも参加するなどして各国の医療事情を調査した。筆名としては伊佐 三休(いさ さんきゅう)の名も用いている。 1922年、福岡県小倉市に生まれる。幼くして朝鮮の龍山に渡り、6歳まで同地で過ごした。福岡県甘木小学校、久留米市金丸小学校を経た後、中学明善校(福岡県立明善高等学校の前身の1つ)1年を修了する。1936年(昭和11年)に広島陸軍幼年学校へ入学(第40期)、1938年(昭和13年)には陸軍予科士官学校へと進み(第55期)、翌年には歩兵第26聯隊へ士官候補生隊付として配属され、満州国・チチハル駐屯並びにソ満国境のハンダガイの守備に従事した。
岡部 鷹司(おかべ たかし、1921年9月22日 - 201… 岡部 鷹司(おかべ たかし、1921年9月22日 - 2018年5月24日)は日本の政治家。御所浦町長(7期)を務めた。 1921年9月22日、熊本県天草郡御所浦町(現天草市)に生まれる。1940年、旧熊本県立天草中学校(現熊本県立天草高等学校)卒業。1942年、熊本高等工業学校(現熊本大学工学部)卒業。1945年、東北帝国大学工学部(現東北大学工学部)卒業し、林兼造船に入社する。1951年、九州産業交通(現九州産業交通ホールディングス)に入社する。1972年、岡部産業取締役になる。1979年5月、御所浦町長となる。1991年4月16日、第12回統一地方選挙下で告示された御所浦町長選挙で無投票で4選を果たした。
本田 茂(ほんだ しげる、1921年2月20日 - 2009… 本田 茂(ほんだ しげる、1921年2月20日 - 2009年2月21日)は、日本の経営者。間組社長、会長を務めた。熊本県出身。 1941年に熊本高等工業学校土木工学科を卒業し、1946年に間組に入社。1975年11月に取締役に就任し、1977年12月に専務、1979年に副社長を経て、1981年8月に社長に就任。1989年12月に会長に就任し、1990年12月から1992年9月までには社長も兼任した。 2009年2月21日心不全のために死去。88歳没。
安永 蕗子(やすなが ふきこ、1920年(大正9年)2月19… 安永 蕗子(やすなが ふきこ、1920年(大正9年)2月19日 - 2012年(平成24年)3月17日)は、歌人、書家。 1998年から2007年まで、宮中歌会始選者を務めた。書家としての号は春炎。毎日書道展名誉会員。熊本県熊本市御徒町(現・中央区安政町)出身。熊本県熊本市名誉市民。ノンフィクション作家の永畑道子は妹。 以下の経歴はおもに安永蕗子著『安永蕗子全歌集 資料編』(河出書房新社、2000年)、『みずあかりの記』(新評論、1979年)、『風のメモリイ』(熊本日日新聞社、1995年)、『自解百選 安永蕗子集』(牧羊社、1987年)、安永蕗子聞書,野口郁子 著『月花の旅』(西日本新聞社、1997年)、松平盟子著「天窓からすべてを望めよ:安永蕗子の短歌と人生(連載)」(短歌研究、短歌研究社、2014年-2015年)に基づく。
大下 俊春(おおしも としはる、1918年3月27日 - 1… 大下 俊春(おおしも としはる、1918年3月27日 - 1959年10月21日)は、日本の経営者。大下回春堂(現在のフマキラー)社長を務めた。 広島県出身。熊本薬学専門学校を卒業。 1950年には大下回春堂(現在のフマキラー)社長に就任。 また、当時資金難に陥っていた広島カープに資金援助をした。 1960年7月5日急性肺炎のために社長在任時に死去。42歳没。
森山 幸雄(もりやま ゆきお、1917年(大正6年)8月23… 森山 幸雄(もりやま ゆきお、1917年(大正6年)8月23日 - 2011年(平成23年)4月16日)は、日本の政治家。福岡県大野城市長(4期)。 福岡県出身。1939年、熊本高等工業学校(熊本大学工学部)卒。同年、日立製作所に入る。1948年、森山セメント工業を創立する。同年、大野村農業調整委員となる。その後、大野町農業委員、同町議会議員、同監査委員などを経て、1965年、大野町長に就任する。1972年、大野町の市制施行により大野城市となる。市長を1989年まで務めた。このほか、全国市長会理事、福岡県市長会副会長なども務めた。 2011年(平成23年)4月16日、心筋梗塞のため死去、93歳。
橘 義夫 (たちばな よしお、1915年 <大正4年> 4月… 橘 義夫 (たちばな よしお、1915年 <大正4年> 4月30日 - 没年不明)は、日本の経営者。西松建設社長を務めた。 熊本県出身。1936年に熊本高等工業学校土木科を卒業し、同年に西松組(のちの西松建設)に入社。1964年5月に取締役に就任し、1968年5月に常務、1971年11月に専務を経て、1974年5月に副社長に就任し、1977年6月には社長に昇格。1983年6月に会長、1987年6月に取締役相談役を経て、1991年6月から顧問を務めた。 1974年11月に藍綬褒章を受章し、1985年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。
岡部 桂一郎(おかべ けいいちろう、1915年(大正4年)4… 岡部 桂一郎(おかべ けいいちろう、1915年(大正4年)4月3日 - 2012年(平成24年)11月28日)は歌人。 兵庫県神戸市生まれ。神戸尋常小学校、関西学院中等部を経て、熊本薬学専門学校(現熊本大学薬学部)卒業。 1937年(昭和12年)、山下陸奥の歌誌「一路」入会。1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)にかけて、作歌を中断。1947年(昭和22年)、上京し国立習志野病院の薬局長として勤務。1948年(昭和23年)、「一路」を退会し、山形義雄、芝山永治らと「工人」を創刊。1950年(昭和25年)、金子一秋、葛原繁、三木あや、山崎一郎らとともに「泥の会」の活動を開始。1954年(昭和29年)、山崎方代らと同人誌「黄」を創刊。
清水 天山(しみず てんざん、1914年9月24日 - 20… 清水 天山(しみず てんざん、1914年9月24日 - 2001年11月26日)は、日本の書道家。熊本で活躍した。「日本の書道会」を発足させ、会長を務めた。本名、清水 正隆。 清水天山の五男で手島右卿より直接指導を受けた清水隆治は清水天山の書を4期に分けている。第1期はしっかりとした土台を作った時期で、臨書修練の中心は草書十七帖(じゅうしちじょう)であった。この時期の基礎力養成が書家として大きな土台をつくった。第2期は、手島右卿に師事し、当時としては極めて難関の日本美術展に連続入選を果たしている。古典を土台としながら、多字数作を試行した時代で、男性的力強さで一貫している濃墨作がある。第3期は手島右卿が傑作を発表した時期に、その理念に共感して、一字作品を世に問うた。
黒田 正巳(くろだ まさみ、大正2年(1913年)4月1日 … 黒田 正巳(くろだ まさみ、大正2年(1913年)4月1日 - 没年不詳)は日本の建築学者。熊本大学名誉教授。工学博士。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)栄町出身。 境尋常高等小学校(現・境港市立境小学校)、鳥取県立米子中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)、旧制松江高等学校理科甲類を経て1938年(昭和13年)、東京工業大学工学部建築学科卒業。 1943年(昭和18年)、熊本高等工業学校(現・熊本大学工学部)教授。 1960年(昭和35年)、工学博士(東京工業大学)。論文は「建築における大きさと形の恒常視に関する実験的研究」。
小島 政夫(こじま まさお、1912年5月2日 - 2000… 小島 政夫(こじま まさお、1912年5月2日 - 2000年10月1日)は、日本の経営者。山之内製薬社長、会長を務めた。広島県出身。 1936年に熊本薬学専門学校を卒業し、同年に山之内製薬に入社した。1962年3月に取締役に就任し、1969年8月に常務、1974年8月に専務を経て、1977年3月に社長に就任。1980年3月に会長に就任し、1984年3月に相談役に就任した。 1984年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2000年10月1日肝不全のために死去。88歳没。
竹内 季雄(たけうち すえお、1910年7月3日 - 198… 竹内 季雄(たけうち すえお、1910年7月3日 - 1981年8月3日)は、日本の経営者。間組社長を務めた。 山口県出身。1931年に熊本高等工業学校土木工学科を卒業し、1933年に間組に入社。1969年11月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1972年12月に専務、1974年11月に副社長を経て、1975年5月に社長に就任。 1981年8月3日、脳溢血のために在任時に死去。71歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
入鹿山 且朗(いるかやま かつろう、旧名・入鹿山 勝郎、19… 入鹿山 且朗(いるかやま かつろう、旧名・入鹿山 勝郎、1906年(明治39年)3月10日 - 1977年(昭和52年)9月27日)は、日本の医学者・衛生学者。熊本大学名誉教授。水俣病の原因物質特定に貢献した。専門は気候衛生学、疫学、食品衛生。医学博士。 1906年、鹿児島県日置郡吉利村(現・日置市)に生まれる。祖父は小松帯刀の侍医で、父も医者。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)、静岡高等学校 (旧制)を経て、1932年京都帝国大学医学部卒業。戸田正三教授の衛生学に入室。1936年11月、「衣服の熱学的研究」で京都帝国大学より医学博士。 1936年11月、大阪市立衛生研究所に入る。1938年の厚生省発足と同時に入局して衛生局技官。
福山 郷太郎(ふくやま ごうたろう、1904年8月29日 -… 福山 郷太郎(ふくやま ごうたろう、1904年8月29日 - 1982年5月27日)は日本の政治家。宮崎県串間市長(第2代、2期)、串間市議会議長などを歴任。 宮崎県出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)にて学び、小山長規と同級で親しかった。1932年旧制第五高等学校(現熊本大学)文科卒業。1935年九州帝国大学法文学部法科(現九州大学法学部)政治専攻卒業。満洲綿花協会勤務を経て、1936年4月から1937年12月まで満洲国産業部農政課嘱託。 1959年4月串間市議会議員に当選し、1962年5月まで務める。そのうち1960年5月23日から1962年5月30日は、串間市議会議長の任にあった。
立石 一真(たていし かずま、明治33年(1900年)9月2… 立石 一真(たていし かずま、明治33年(1900年)9月20日 - 平成3年(1991年)1月12日)は、日本の実業家、技術者。オムロンの創業者。立石孝雄は長男、立石信雄は次男、立石義雄は三男。 熊本県熊本市(現・熊本市中央区)新町に伊万里焼盃を製造販売する立石熊助およびエイの長男として生まれた。立石家は祖父・孫一が佐賀県伊万里の地で焼き物を習得し熊本に移住、「盃屋」を店開きした。 一新尋常小学校(現・熊本市立一新小学校)、旧制熊本中学校(現・熊本県立熊本高等学校)を経て、1921年(大正10年)熊本高等工業学校電気科一部(現・熊本大学工学部)卒業。兵庫県庁での勤務を経て、1930年(昭和5年)に「彩光社」を京都市にて設立。
内田 守(うちだ まもる、1900年6月10日 - 1982… 内田 守(うちだ まもる、1900年6月10日 - 1982年1月17日)は、日本の医師。歌人としてのペンネームは内田 守人(もりと)と称する。九州療養所国立療養所菊池恵楓園、国立療養所長島愛生園、国立療養所松丘保養園で医師として働いた。ハンセン病研究家。ハンセン病療養所入所者に短歌の指導を行った。戦後は医院開業後、熊本短大で社会福祉を研究、講義した。ハンセン病資料を多数集め、熊本県立図書館に内田文庫として寄贈した。 熊本県菊池郡泗水村(現・菊池市)にて1900年(明治33年)6月10日父常平、母波津の3男として出生。県立中学済々黌(せいせいこう)を経て、旅順工科学堂を中途退学、1920年(大正9年)県立熊本医学専門学校(現熊本大学医学部)に入学。
大塚 敬節(おおつか けいせつ、おおつか よしのり、明治33… 大塚 敬節(おおつか けいせつ、おおつか よしのり、明治33年〈1900年〉2月25日 - 昭和55年〈1980年〉10月15日)とは、昭和期の漢方復権に尽力した代表的な日本の医師。東洋医学の発展に貢献した業績により1978年に日本医師会より最高優功賞を日本で初めて受賞。号は敬節(けいせつ)。 大塚敬節は、明治33年(1900年)2月25日、高知県高知市に産まれる。大塚家は、同市追手筋1番地の産婦人科・大塚修琴堂医院であり、曽祖父の希斎、その養子(希斎の兄の子)で祖父の恭斎、父の恵遮とも医師であった。敬節は、西洋医学が嫌いであったため、中学卒業後はじめは医師を目指さず、高知の高等工業学校の採鉱冶金科に進学した。
細川 隆元(ほそかわ りゅうげん、1900年〈明治33年〉1… 細川 隆元(ほそかわ りゅうげん、1900年〈明治33年〉1月17日 - 1994年〈平成6年〉12月19日)は、日本の政治評論家、衆議院議員。熊本県熊本市出身。 中学濟々黌、旧制第五高等学校大学予科(現熊本大学)を経て1923年、東京帝国大学法学部を卒業、同年朝日新聞社に入社する。記者を務め1936年政治部長、1940年ニューヨーク支局長、1944年編集局長。 1947年朝日新聞社に在籍したまま熊本県知事選に出馬するも落選した。同年、朝日新聞を退社して日本国憲法成立直後の第23回衆議院議員総選挙で日本社会党から熊本2区から出馬して初当選、衆議院議員を1期務めた。 その後、政治評論家に転身し1957年から始まったTBSの『時事放談』で小汀利得(後に藤原弘達)とホストを務めた。
川越 庸一(かわごえ よういち、1893年〈明治26年〉12… 川越 庸一(かわごえ よういち、1893年〈明治26年〉12月27日 - 1983年〈昭和58年〉6月3日)は、日本の実業家。「中京デトロイト化構想」の創案者。大同メタル工業創業者・社長・会長、相談役、名古屋YMCA理事長、豊田式自動織機自動車部初代部長を務めた。 藍綬褒章、勲四等瑞宝章受章、従五位。温かく飾らない謙虚な人柄で慕われた。名古屋商工会議所会頭を務めた佐々部晩穂氏とは姻戚関係にある。 川越直夫の二男として、福岡市に生まれる。福岡県士族。1912年(明治45年)福岡県立中学修猷館を経て、1915年(大正4年)熊本高等工業学校機械工学科(現熊本大学工学部)を卒業する。在学中に自動車に大きな興味を覚え、卒業論文に自動車の設計図を提出している。
西原 雅一(にしはら がいち、1892年3月2日 - 195… 西原 雅一(にしはら がいち、1892年3月2日 - 1954年11月11日)は、沖縄県の医師で、宮古支庁、宮古群島政府及び琉球政府の政治家。終戦直後に宮古支庁長や宮古群島知事を務めた。沖縄県宮古郡伊良部町(現在の宮古島市)出身。 明治25年(1892年)3月2日生まれ。大正5年(1916年)に熊本医学専門学校(現在の熊本大学医学部)を卒業する。 その後宮古島に帰島し医院を開業する。昭和10年(1935年)に伊良部村長となり、昭和12年(1937年)に沖縄県会議員に選出される。 沖縄戦後は、進駐したアメリカ軍によって宮古支庁長に任命され、1950年には宮古群島知事に選出された。 その後1952年の第1回立法院議員総選挙に出馬し当選する。
吉丸 末吉(よしまる すえきち、1887年5月6日 - 19… 吉丸 末吉(よしまる すえきち、1887年5月6日 - 1973年)は、日本の薬剤師。 ふりかけ食品の元になる製品を考案したことで知られる。 熊本県で生まれる。1908年9月に当時の熊本薬学校(熊本大学薬学部の前身)を卒業した。 当時日本では食料が不足しており、特にカルシウムが足りていなかった。それを補うために「魚を骨ごと細かくし、美味しく味付けをしてご飯にかけて食べる」という方法を考案した。このアイディアを事業化し、「御飯の友」の商品名で販売した。吉丸が「御飯の友」を考案したのは1913年(大正2年)年頃とされている。「御飯の友」の製造元は後にフタバとなった。 2013年に熊本で結成された国際ふりかけ協議会が、2015年に吉丸の誕生日にちなんで5月6日を「ふりかけの日」に制定した。
栗原 大島太郎(くりはら おおしまたろう、1885年(明治1… 栗原 大島太郎(くりはら おおしまたろう、1885年(明治18年)1月23月 - 1975年(昭和50年)5月10日)は、大正から昭和期の医師、実業家、政治家。衆議院議員、長崎県南高来郡加津佐町長。 長崎県南高来郡加津佐村(加津佐町を経て現南島原市)で、栗原一角の五男として生まれ、1916年(大正5年)10月に家督を相続した。1913年(大正2年)熊本医学専門学校(現熊本大学医学部)を卒業した。 医師を開業(回生医院)した。長崎県医師会代議員、美加登製糸所長、加津佐繭市場 (株) 取締役、信用組合顧問理事、加津佐町漁業組合長などを務めた。 政界では、加津佐町会議員、同町長、南高来郡会議員、長崎県会議員、同副議長、消防組頭、方面委員などを務めた。
谷口 弥三郎(たにぐち やさぶろう、1883年(明治16年)… 谷口 弥三郎(たにぐち やさぶろう、1883年(明治16年)8月13日 - 1963年(昭和36年)8月19日)は、日本の政治家、産婦人科医師、医学者。熊本県立医学専門学校(現熊本大学)教授、久留米大学長。日本医師会会長、参議院議員(3期)。「不良な子孫の出生を防止する」として、太田典礼、加藤シヅエに一時提携をもちかけながらその影響を排除しつつ、福田昌子らと共に優生保護法の成立に深く関わった。また、熊本県におけるハンセン病患者隔離政策の中心人物である。 1883年(明治16年)8月13日、香川県三豊郡大野原町(現観音寺市)に生れる。1902年(明治35年)に私立熊本医学校(現・熊本大学医学部)を卒業。
辛島 浅彦(からしま あさひこ、1882年(明治15年)7月… 辛島 浅彦(からしま あさひこ、1882年(明治15年)7月17日 - 1965年(昭和40年)10月15日)は、日本の実業家。東洋レーヨン会長や、人絹絹統制会会長を務めた。藍綬褒章受章。 大分県生まれ。1905年第五高等学校工学部(現熊本大学工学部)卒業、芝浦製作所入社。1910年三井物産ロンドン支店詰。三井物産名古屋支店長代理等を経て、1927年東洋レーヨン常務取締役滋賀工場長に就任。 1933年からは東洋レーヨン専務取締役として経営にあたり業績の急成長を実現した。1937年東洋レーヨン会長。1942年人絹絹統制会会長。 1944年国策パルプ工業社長。1946年山陽パルプ取締役。1949年日本貿易会長、山陽パルプ監査役、大日本印刷監査役。
生田 鹿之丞(いくた しかのじょう、1882年〈明治15年〉… 生田 鹿之丞(いくた しかのじょう、1882年〈明治15年〉1月10日 - 1955年〈昭和30年〉6月12日)は、日本の教育者。大阪府立大手前、府立清水谷、清友学園の高等女学校3校で校長を務めた。 1882年(明治15年)島根県松江市出身。岩佐湪一の子として生まれ、1886年(明治19年)生田厚の養子となった。第五高等学校 (旧制)(現・熊本大学)卒業。1910年(明治43年)4月15日、教諭として大分県立臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)に赴任。1914年(大正3年)6月8日、愛媛県立宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)の教諭。1917年1月18日、秋田県師範学校(現・秋田大学教育文化学部)の教諭となる。
上塚 周平(うえつか しゅうへい、1876年(明治9年)7月… 上塚 周平(うえつか しゅうへい、1876年(明治9年)7月12日 - 1935年(昭和10年)7月6日)は、日本のブラジル移民功労者。「ブラジル移民の父」と称される。 熊本県下益城郡赤見村(現・熊本市南区城南町赤見)の上塚家の本家(ほんいえ)に生まれる。済々黌高等学校、旧制第五高等学校(現・熊本大学)を経て、1907年(明治40年)3月に東京帝国大学法科を卒業する。 同年11月、皇国殖民会社の社長を務める水野龍がブラジルサンパウロ州農務局と日本移民輸送契約を調印。翌年の1908年(明治41年)、代議士の江藤哲蔵の推薦により周平はブラジル行第1回移民の輸送監督兼会社代理人として170家族・792人を率いて移民船・笠戸丸に乗船、4月28日に神戸港を出航する。
加藤 本四郎(かとう もとしろう、1870年(明治3年)4月… 加藤 本四郎(かとう もとしろう、1870年(明治3年)4月 - 1908年(明治41年)11月22日)は、明治時代の外交官。 豊後国玖珠郡森町(現在の大分県玖珠町)に生まれる。当地は明治に至るまで森藩の陣屋町であった。共立学校、第五高等学校を経て1895年7月、東京帝国大学法学部を卒業。高等文官試験に合格し、外務省に入省。領事館補となった。ロンドンの公使館に勤務していた際に南方熊楠と親しく交わった。その後蘇州、香港の各領事、1904年の日露戦争中には仁川領事を歴任した。1906年に天津総領事に就任し、1907年に奉天総領事となり、部下に吉田茂がいた。しかし在職中、病のため明治41年11月22日に39歳にて卒去。
佐伯 理一郎(さえき りいちろう、1862年4月3日(文久2… 佐伯 理一郎(さえき りいちろう、1862年4月3日(文久2年3月5日) - 1953年(昭和28年)5月30日)は、日本の産婦人科医。佐伯病院、京都産院各経営主。京都看病婦学校、京都産婆学校各校長。学会活動のほか、公衆衛生、医史学、医師会などで優れた働きをした。 文久2年3月5日、肥後国(後の熊本県)に生まれる。佐伯清次郎の長男。 1878年、県立熊本医学校に入学。1882年7月、熊本医学校卒業。上京し、東京大学で外科ユリウス・スクリバ、内科エルヴィン・フォン・ベルツ、眼科梅錦之丞 の指導をうける。1884年、海軍軍医補(横須賀海軍病院)。組合教会系のクリスチャンの佐伯はこの頃、アメリカンボードの宣教医セオダー・ギューリックに出会い、教会の設立に関わることになった。
宇良田 唯 は、日本の医師。ドイツの医学士号「ドクトル・メデ… 宇良田 唯 は、日本の医師。ドイツの医学士号「ドクトル・メディツィーネ 」を日本人女性として初めて取得した人物。日本国内外で活躍、特に中国の天津では25年にわたって総合病院を営み、長年にわたって貧富を問わず、病気に苦しむ人々を助けた。その一方では、女性の地位が低いとされた時代に、その立場に悩み、また自分を支えてくれた父や夫を喪うなど、波乱に満ちた人生を送った。「宇良田」は出生時の姓であり、結婚後の本名は「中村 唯」。下の名は、戸籍では「タゞ(タダ)」だが、本人は好んで「唯」表記を用いたといわれている。通称は「唯子(ただこ)」。他に「タダ子」と表記する資料もある。
小野 裕子 は、ウェザーマップ所属の気象予報士。元大分放送(… 小野 裕子 は、ウェザーマップ所属の気象予報士。元大分放送(OBS)アナウンサー。
木島 孝之(きじま たかし)は、日本の建築史家。九州大学大学… 木島 孝之(きじま たかし)は、日本の建築史家。九州大学大学院人間環境学研究院都市・建築学部門計画環境系助教。専門は、日本建築史・日本城郭史。博士(工学)。博士論文の題は「近世初頭西南地域における本城・支城の縄張り構造」。 熊本大学工学部建築学科卒業、同大学院修士課程修了、九州大学大学院博士課程修了。北九州市文化財保護審議委員、宗像市文化財保護審議委員などを務める。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
多田 景義(ただ かげよし、? - 1950年12月26日)… 多田 景義(ただ かげよし、? - 1950年12月26日)は日本の医師。韓国の小鹿島更生園、宮古療養所(後の国立療養所宮古南静園)、国立療養所菊池恵楓園に勤務した。1938年-1945年の宮古南静園園長時代、入園者を厳しく取り締まった。戦時中官舎が焼け幹部と共に陸軍の壕に隠れる。入園者は園を離れ、1945年に戦災、マラリア、餓えで110名が死亡した。戦後は菊池恵楓園に勤務。 福岡県にて出生。1915年、熊本医學專門學校卒業。京畿道檢疫官。1933年11月 全羅南道済州医院長 1935年1月 朝鮮総督府小鹿島更生園医務課長。 1938年7月 臨時国立宮古療養所、所長。1940年-1941年 多田所長の指示で西本願寺より僧侶を招き週2回修身訓話をさせた。
埜中 征哉(のなか いくや)は、日本の医師。国立精神・神経医… 埜中 征哉(のなか いくや)は、日本の医師。国立精神・神経医療研究センター病院名誉院長。小児神経学、神経病理学を専門分野とし、デュシェンヌ型筋ジストロフィー、ミトコンドリア病の研究を行った。 この項目は、医療関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:医学と医療、PJ:医学、PJ:歯学)。
小野 平八郎(おの へいはちろう)は、日本の財務官僚。202… 小野 平八郎(おの へいはちろう)は、日本の財務官僚。2025年日本国際博覧会協会副事務総長(理事)、財務省大臣官房付派遣職員。 財務省主税局総務課長、財務省大臣官房審議官、財務省総括審議官、財務総合政策研究所副所長兼ウズベキスタン金融財政アカデミー(BFA)名誉第一副院長などを歴任した。 北海道登別市に生まれ、熊本県熊本市で育った。熊本大学教育学部附属中学校、熊本県立熊本高等学校を卒業後、東京大学に進学。 父は自衛官で、平八郎の名は東郷平八郎にちなむとも云われる。一家4人で自衛官の官舎に住まい、中学・高校時代は常に成績が学年トップであり、東大合格組の中でもレベルが違うといわれていたという。のみならず、ラグビー部でもリーダーシップを発揮。
長谷川 武(はせがわ たけし)は、日本の国土交通技官。港湾空… 長谷川 武(はせがわ たけし)は、日本の国土交通技官。港湾空港技術研究所特別研究主幹、国土交通省航空保安大学校長を経て、空港施設顧問。 熊本県立熊本高等学校を経て、熊本大学工学部建築学科卒業後、1984年運輸省入省。国土交通省航空局飛行場部建設課空港安全技術企画官や、国土交通省東京航空局東京空港事務所次長、国土交通省航空局空港部計画課空港計画企画官、国土交通省総合政策局参事官、国土交通省航空局航空ネットワーク部空港施設課長、国土交通省航空局航空ネットワーク部空港計画課長等を経て、2017年海上・港湾・航空技術研究所港湾空港技術研究所特別研究主幹。2018年国土交通省航空保安大学校長。2020年空港施設顧問。
上野 文男(うえの ふみお)は、日本の制御工学者。 熊本県立… 上野 文男(うえの ふみお)は、日本の制御工学者。 熊本県立玉名高等学校を経て熊本大学工学部を卒業後、九州大学大学院を修了した。大学院終了後の1974年から熊本大学工学部に勤務し、講師、助教授、教授を歴任したのち工学部長に就任した。また、情報センター長や評議員も務めた。 熊本大学を退官後は熊本大学名誉教授となり、崇城大学の教授に転じた。崇城大学でも名誉教授となっている。 1994年から2001年まで、熊本電波工業高等専門学校校長を務めた。
坂口 秀哉(さかぐち ひでや)は、日本の研究者、医学者(神経… 坂口 秀哉(さかぐち ひでや)は、日本の研究者、医学者(神経内科医)。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名高等学校、熊本大学医学部、京都大学大学院医学研究科修了。 2008年より熊本大学医学部附属病院・研修医、2012年より理化学研究所・発生再生化学総合研究センター・リサーチアソシエイト、2016年より京都大学iPS細胞研究所特定研究員などを経て2020年より理化学研究所・上級研究員(研究リーダー)を務めている。
高田 明(たかだ あきら)は、日本の医師(脳神経外科)。熊本… 高田 明(たかだ あきら)は、日本の医師(脳神経外科)。熊本県出身。 熊本県立玉名高等学校、熊本大学医学部卒業。 2006年より熊本市立熊本市民病院に勤務し、脳神経外科部長、診療部長、首席診療部長、副院長などを歴任した。 2013年に熊本市民病院の院長に就任し、2022年に退任するまで9年間務めた。
連川 貞弘(つれかわ さだひろ)は、日本の工学者。専門は材料… 連川 貞弘(つれかわ さだひろ)は、日本の工学者。専門は材料科学・工学。 熊本県立玉名高等学校をへて、1985年熊本大学工学部金属工学科卒業。1987年九州大学大学院総合理工学研究科 材料開発工学専攻 修士課程修了。 1990年より九州大学助手、1997年より東北大学助教授、2008年より熊本大学教授に就任。 2018年熊本大学工学部副工学部長、2020年に工学部長兼大学院自然科学教育部長に就任した。
松永 信智(まつなが のぶとも)は日本の制御工学者。熊本大学… 松永 信智(まつなが のぶとも)は日本の制御工学者。熊本大学教授。 研究分野は機械力学やものづくり技術などである。 熊本県立玉名高等学校を経て熊本大学工学部を卒業した。熊本大学大学院工学研究科を修了後の1993年にオムロンに入社した。オムロンではメカトロニクス制御機器やプロセス制御機器の開発などに従事した。 その後、2003年から母校である熊本大学の助教授となった。2012年には教授に昇格した。
本里 義明(もとざと よしあき)は、日本の工学者。熊本大学名… 本里 義明(もとざと よしあき)は、日本の工学者。熊本大学名誉教授。専門はイオン工学。 熊本県に生まれる[要出典]。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1936年卒業)、旧制第五高等学校を経て、[要出典]1942年に京都帝国大学工学部を卒業した。 1944年に旧制熊本工業専門学校の教授に就任した。同校は学制改革により熊本大学工学部となる。本里も1953年に熊本大学教授に移った。1970年からは工学部長を務め、1985年に定年退官して名誉教授となった。この間、1951年に京都大学より工学博士号を取得している。 大学退職後は熊本市で技術コンサルタントを営んだ。
石川 吉伸(いしかわ よしのぶ)は、日本の化学者、薬学者(医… 石川 吉伸(いしかわ よしのぶ)は、日本の化学者、薬学者(医薬分子設計学・計算化学・生物無機化学)。学位は、博士(薬学)(熊本大学・1998年)。静岡県立大学薬学部准教授・大学院薬学研究院准教授を経て、現在、湘南医療大学薬学部医療薬学科教授。 山口大学医学部附属病院薬剤部技術補佐員、デラウェア大学博士研究員、熊本大学大学院医学薬学研究部講師などを歴任した。 熊本大学の薬学部薬学科にて薬学を学ぶ。1992年3月に熊本大学を卒業すると、そのまま大学院に進学し、1994年3月に薬学研究科の博士前期課程を修了した。同年6月から1995年3月まで、東京工業大学資源化学研究所にて研究生として研究を続けた。1998年3月、熊本大学大学院にて薬学研究科の博士後期課程を修了し、博士(薬学)の学位を取得した。
岩尾 康範(いわお やすのり)は、日本の薬学者(製剤設計・D… 岩尾 康範(いわお やすのり)は、日本の薬学者(製剤設計・DDS・薬物動態学・イオン液体科学・フリーラジカル)。学位は、博士(薬学)(熊本大学・2006年)。和歌山県立医科大学薬学部教授。 熊本大学大学院医学薬学研究部教務補佐員、財団法人日本公定書協会リサーチ・レジデント、財団法人ヒューマンサイエンス振興財団リサーチ・レジデント、静岡県立大学薬学部准教授などを歴任した。 熊本大学に進学し、薬学部の薬科学科にて学んだ。その後、熊本大学の大学院における博士前期課程を修了した。そのまま博士後期課程に進んだが、熊本大学の大学院に研究部・教育部制が導入されたため、従来の薬学研究科の教育部門が改組され発足した薬学教育部にて学んだ。
枝窪 歩夢(えだくぼ あゆみ)は、国民生活センター職員。専門… 枝窪 歩夢(えだくぼ あゆみ)は、国民生活センター職員。専門は日本における裁判外紛争解決手続など。放送大学教養学部ゲスト・スピーカーなどを歴任。会社員の夫と2人暮らし。趣味はフルート。 熊本大学法学部卒業。横浜国立大学大学院で国際社会科学を学んだ。その後、国民生活センター入り。相談部、情報分析部、相談情報部、課長補佐を歴任。裁判外紛争解決手続に関連して国民生活センターADR機関設立準備室に所属した。消費者保護行政に関しても活動しており、2012年、JICAベトナム事務所の消費者保護行政能力強化プロジェクトに短期専門家として参画、放送大学教養学部の開講科目「民法」(円谷峻)でゲスト・スピーカーを務めた。