田平 英二(たびら えいじ、1933年10月28日 - 20… 田平 英二(たびら えいじ、1933年10月28日 - 2008年7月5日)は、日本の経営者。近畿日本ツーリスト社長を務めた。 長崎県出身。1957年に日本大学法学部政経学科を卒業し、同年に近畿日本ツーリストに入社。1990年3月に取締役、1992年5月に常務を経て、1997年3月に社長に就任。2000年9月に取締役相談役に就任し、2001年3月には相談役に就任。 2008年7月5日に心不全のために死去。74歳没 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田口 周(たぐち いたる、 1932年12月18日 - 20… 田口 周(たぐち いたる、 1932年12月18日 - 2006年7月19日)は、日本のスポーツライター、高校野球指導者、プロ野球監督・球団経営者。東京都出身。 日本大学第三高等学校、日本大学卒業。共に野球部に所属し、一塁手、投手として活躍。右投右打。 1956年、日刊スポーツ野球記者となる。 1960年、母校の日本大学第三高等学校野球部監督に就任。1962年の選抜高等学校野球大会では準優勝に導く。 その後、日刊スポーツ野球記者に復帰後、1968年2月、高校野球での実績を買われ、プロ経験はないもののサンケイアトムズ(現・東京ヤクルトスワローズ)二軍監督に就任。1971年・1972年と2年連続でイースタン・リーグ優勝を果たした。
新藤 孝衛(しんどう こうえ、1932年2月22日 - 20… 新藤 孝衛(しんどう こうえ、1932年2月22日 - 2020年8月10日)は、日本の実業家、映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。映画プロデューサーとしての名を新船 澄孝(あらふね すみたか)とし、1972年(昭和47年)、映画監督としての名を南雲 孝(なぐも たかし)と改名した。1969年(昭和44年)、学校法人川口ふたば幼稚園理事長。 1932年(昭和7年)2月22日、埼玉県北足立郡芝村大字柳崎(現在の同県川口市柳根町)に生まれる。祖父は芝村の村議を歴任、父はのちの川口市議会議長となる新藤勝衛である。新制の埼玉県川口市立川口高等学校(現在の埼玉県立川口高等学校)に入学、水泳部で活躍する。
樫尾 幸雄(かしお ゆきお、1930年(昭和5年)11月29… 樫尾 幸雄(かしお ゆきお、1930年(昭和5年)11月29日 - )は、日本の実業家。カシオ計算機創業メンバーの「樫尾四兄弟」の一人(末弟)。四兄弟の役割分担では主に生産面を統括し、カシオミニのヒットに貢献。カシオ計算機副社長、特別顧問を歴任した。 東京都出身。東京都立第四商業学校を経て、1949年に日本大学専門部機械科を卒業。1957年、カシオ計算機兄弟とともに創業メンバーとなる。 カシオ計算機では、カシオの名を広めた世界初の個人向け電卓であるカシオミニの生産、デジタル式腕時計のG-SHOCKやデジタルカメラを一般化させたQV-10の生産にも関与し、カシオ計算機を世界的メーカーに育て上げる一翼を担った。
佐藤 久一(さとう きゅういち、1930年1月5日 - 19… 佐藤 久一(さとう きゅういち、1930年1月5日 - 1997年1月23日)は、日本の実業家。山形県酒田市生まれ。酒田商業に入学後、酒田中学校に編入学。日本大学芸術学部中退。 父、久吉は日本酒醸造元「金久(きんきゅう)酒造」を経営、市議会議長、商工会会頭などを歴任、テニスの振興に尽力するなど、名家の主として知られる。 久一は、大学中退後、20歳で映画館「グリーンハウス」支配人に就任。洋画専門館として名を馳せる。淀川長治や荻昌弘が羨んだという映画館だった。1964年には映画館の職を辞して、上京、日生劇場に勤務。同劇場の劇場課、のち食堂課に勤務。1967年8月、父、久吉の求めで酒田に戻り、以後、「レストラン欅」、「ル・ポットフー」の支配人として活躍。
八木 祐四郎(やぎ ゆうしろう、1929年8月21日 - 2… 八木 祐四郎(やぎ ゆうしろう、1929年8月21日 - 2001年9月9日)は、日本の実業家。 北海道枝幸郡中頓別村(現・中頓別町)出身。旧制旭川中学校(現北海道旭川東高等学校)、日本大学法学部法律科卒業。卒業後は国民生活金融公庫に勤務する傍ら、スキー指導に携わり、母校日本大学スキー部監督や全日本スキー連盟専務理事、全国ビルメンテナンス協会会長、日本オリンピック委員会会長を歴任した。
樫尾 和雄(かしお かずお、1929年(昭和4年)4月19日… 樫尾 和雄(かしお かずお、1929年(昭和4年)4月19日 - 2018年(平成30年)6月18日)は、日本の実業家。カシオ計算機創業メンバーの「樫尾四兄弟」の一人(三男)。 東京都出身。1949年に日本大学高等師範部英語科を卒業。電気計算機の開発を手がけていた樫尾製作所(長兄の樫尾忠雄が創業)を助けるため、それまでの仕事を辞めて入社。計算機開発では忠雄とともに製作を担当した。計算機の商業化に成功した1957年にカシオ計算機が設立されると兄弟とともに創業メンバーとなる。 カシオ計算機では営業を主に担当する。カシオの名を広めた世界初の個人向け電卓であるカシオミニを企画。デジタル式腕時計のG-SHOCKやデジタルカメラを一般化させたQV-10の企画にも関与し、ヒット商品に育てた。
佐藤 博(さとう ひろし、1929年2月10日 - 2013… 佐藤 博(さとう ひろし、1929年2月10日 - 2013年1月13日)は、日本の経営者。TDK社長、会長を務めた。 東京都出身。1952年に日本大学旧工学部を卒業し、同年に東京電気化学工業(のちのTDK)に入社した。1966年12月に取締役に就任し、1974年に常務を経て、1987年2月に社長に就任。1998年6月に相談役に就任。 1991年4月に藍綬褒章を受章し、1998年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 2013年1月13日、肺炎のために死去。83歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高橋 信次(たかはし しんじ、1927年〈昭和2年〉9月21… 高橋 信次(たかはし しんじ、1927年〈昭和2年〉9月21日 - 1976年〈昭和51年〉6月25日)は、日本の経営者、宗教法人GLAの創設者。 1927年、長野県南佐久郡の農家に10人兄弟の次男として生まれる。 1938年、原因不明の病気にかかって幾度か死線を超え、「もう一人の私」となっている自分に気がついたという。 1944年、陸軍士官学校に進学し、終戦 。 1946年、復員。敗戦のショックの中、廃墟となった東京に上京する。勉学を志し、大学入学資格試験を通過、日本大学旧工学部(現 日本大学理工学部)で、自然科学や理科学を学ぶ。 1952年、自営で電気関係の仕事を始め、コンピューター端末機器製造会社の高電工業株式会社を設立し、社長となる。
玉置 正和(たまき まさかず、1927年〈昭和2年〉4月10… 玉置 正和(たまき まさかず、1927年〈昭和2年〉4月10日 - 2023年〈令和5年〉3月2日)は、日本の実業家。元千代田化工建設社長、同会長。 橋爪立一・登志子の三男として和歌山県に生まれ、1951年(昭和26年)玉置明善の養子となる。同年3月、日本大学法学部新聞学科を卒業。1959年(昭和34年)4月、千代田化工建設に入社する。1971年(昭和46年)11月、同社取締役・事業本部工務担当、1976年(昭和51年)12月、常務取締役・人事担当、1979年(昭和54年)12月、代表取締役専務取締役を経て、1981年(昭和56年)6月、代表取締役社長に就任した。その後、1992年(平成4年)6月、同会長に就任した。
山田 直稔(やまだ なおとし、1926年4月16日 - 20… 山田 直稔(やまだ なおとし、1926年4月16日 - 2019年3月9日)は、日本の実業家。 ワイヤーロープの販売を行う浪速商事株式会社の経営を行う傍ら、羽織、袴に金色の帽子、金色の扇子という格好でオリンピックや大相撲を観戦したことから「オリンピックおじさん」としても知られた。 富山県東礪波郡井波町(現南砺市)出身。富山市立工業学校(現在の富山県立富山工業高等学校)を経て、日本大学旧工学部(現日本大学理工学部)建築学科に進む。 山田は大学生だったときに阿部定事件の犯人だった阿部定と出逢い、『あんたね、男は人生一代だよ!』と激励されたことを生前に語っている。 大学卒業後にワイヤーロープ業界に入り、1960年に浪速商事株式会社を設立する。
平山 三郎(ひらやま さぶろう、1925年9月26日 - 2… 平山 三郎(ひらやま さぶろう、1925年9月26日 - 2021年6月29日)は、日本の経営者。ニッポン放送社長を務めた。 千葉県出身。1954年にニッポン放送に入社し、1955年には日本大学経済学部を卒業。 1975年に取締役に就任し、1980年に常務、1984年6月に専務を経て、1985年6月には石田達郎の後任として社長に就任。1988年6月に社長の座を羽佐間重彰に譲り、自身は副会長に就任し、その後は、1990年6月に顧問、1992年6月に常勤監査役、1995年6月に相談役を歴任した。 上野の森美術館館長も務めた。 2021年6月29日心不全のために死去。95歳没。
佐野 浅夫(さの あさお、1925年8月13日 - )は、日… 佐野 浅夫(さの あさお、1925年8月13日 - )は、日本の俳優・童話作家・実業家。神奈川県横浜市、現在の保土ケ谷区出身。アクターズ・セブン所属。身長168cm。神奈川県立横浜第三中学校卒業。
舟橋 正輝(ふなばし まさてる、1925年 <大正14年> … 舟橋 正輝(ふなばし まさてる、1925年 <大正14年> 1月21日 - 2009年 <平成21年> 4月16日)は、日本の経営者。フジパン社長、会長や公益財団法人エリザベス・アーノルド富士財団の理事長なども務めた。位階は従五位。 フジパンの創業者である舟橋甚重の長男である。 愛知県出身。1945年に家業製パンに従事し、1957年に日本大学経済学部を卒業。 1951年にフジパン専務に就任し、1965年には社長に昇格。1994年5月には会長に就任し、1998年5月から2000年4月までに社長も兼任した。 1986年4月に藍綬褒章を受章し、1995年4月に勲三等瑞宝章を受章。 2009年4月16日多臓器不全のために死去。
勝井 祐輔(かつい ゆうすけ、1924年12月21日 - 2… 勝井 祐輔(かつい ゆうすけ、1924年12月21日 - 2006年4月11日)は、日本の実業家。新潟県出身。 日本大学理工学部建築学科卒。家業の井桁勝井組を手伝い、1950年に勝井組土建株式会社の設立に参画。同社で常務取締役に就任。岩見沢市中心に公共事業・民間工事を施工。1971年に勝井組土建代表取締役社長に就任。この後、1979年岩見沢建設協会会長(~1991年)。1991年岩見沢商工会議所会頭(~1997年)。この他、岩見沢ライオンズクラブ会長や空知信用金庫外部理事などを歴任し、「岩見沢経済界のドン」と呼ばれた。1999年には完成工事高が21億円を超える。2000年に同社の終身会長に就任。
齊藤 喜久蔵(さいとう きくぞう、1923年11月30日 -… 齊藤 喜久蔵(さいとう きくぞう、1923年11月30日 - 2003年9月8日)は、日本の技術者・実業家。大昭和製紙社長・会長を務めた。 静岡県出身。齊藤知一郎の三男。大昭和製紙2代目社長の齊藤了英(知一郎の長男)と政治家で静岡県知事を務めた齊藤滋与史(知一郎の次男)は兄、政治家で防衛庁長官を務めた齊藤斗志二(了英の次男)と大昭和製紙監査役の齊藤知三郎(了英の三男)、ジーク証券元会長兼社長の齊藤四方司(了英の四男)は甥。トヨタ自動車名誉会長豊田章一郎は次兄・滋与史の義兄にあたる。日本大学旧工学部(現日本大学理工学部)卒。 知一郎の5人の息子の中で唯一技術者の道を歩み、大昭和製紙入社後は技術部長、白老工場長等を歴任した。
武田 郁夫(たけだ いくお、1923年4月6日 - 2012… 武田 郁夫(たけだ いくお、1923年4月6日 - 2012年7月4日)は、日本の製造技術者、実業家。タケダ理研工業(現在のアドバンテスト)創業者。 愛知県出身。1943年4月に日本大学旧工学部電気科に入学した。1944年に学徒動員により逓信省電気試験所(現在の産業技術総合研究所)の神代分室に勤務した。 1945年日本大学電気工学科卒。戦後の1945年11月に電気試験所に正式に採用された。 1950年11月にレッドパージにより電気試験所を退職し、千野製作所(現在のチノー)を退職した3人の技術者とともに八島製作所を創業した。 その後、1954年6月に愛知県豊橋市でタケダ理研工業株式会社を設立した。
中村 恒也(なかむら つねや、1923年(大正12年)3月8… 中村 恒也(なかむら つねや、1923年(大正12年)3月8日 - 2018年(平成30年)12月25日)は、日本の技術者、実業家。セイコーエプソン代表取締役社長を務めた。 山形県酒田市出身。山形県立酒田中学校(現・山形県立酒田東高等学校)を経て、1944年日本大学理工学部機械工学科卒業、第二精工舎(現・セイコーインスツル)入社。1945年に、別会社である株式会社第二精工舎諏訪工場(第二精工舎諏訪工場→諏訪精工舎→セイコーエプソン〈現〉)に転籍した。1956年機械式腕時計「マーベル」を独自に設計し商品化。1959年自動巻腕時計「ジャイロマーベル」を開発。 1963年に諏訪精工舎取締役に就き、1964年東京オリンピックで使用するクォーツ時計の開発プロジェクトリーダーを務めた。
鄭 幹鎔(チョン・ガニョン、朝鮮語: 정간용、1922年5月… 鄭 幹鎔(チョン・ガニョン、朝鮮語: 정간용、1922年5月9日 - 2003年8月30日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の教員、実業家、政治家。第7・8代韓国国会議員。本貫は慶州鄭氏(朝鮮語版)。カトリック教徒。 日本統治時代の全羅南道莞島郡出身。莞島郡薬山初等学校、平安中学校(京都)、日本大学法科卒。上海臨時政府宣撫団参加。全羅南道光州西中学校・莞島中学校教員、莞島郡水産高等学校・長興高等学校校監を務めた後に政界入り、民主共和党結党メンバー・大統領選挙対策委員長・莞島地区党事務局長・全南地区組織部長・宣伝部長、韓国水産技術協会会長、三光物産重役などを務めた。また、1968年12月11日より第11代大韓バドミントン協会会長を務めた。
閔 庚植(ミン・ギョンシク、朝鮮語: 민경식、1920年12… 閔 庚植(ミン・ギョンシク、朝鮮語: 민경식、1920年12月30日 - 2000年12月22日)は、満洲国のジャーナリスト、大韓民国の政治家、実業家。制憲韓国国会議員。 本貫は驪興閔氏。号は三隠(サムン、三隱/삼은)。 日本統治時代の京畿道龍仁郡(現・龍仁市器興区)出身。日本大学芸術科卒。満州日報記者、大韓青年団員を経て、1948年の初代総選挙に大韓独立促成国民会の候補として龍仁選挙区より出馬し、国会議員に当選した。その後は韓国ポプラ社長を務め、1960年代には全国でポプラの植樹運動を推進した。2000年に死去、享年80。
尾島 隆利(おじま たかとし、1920年〈大正9年〉10月1… 尾島 隆利(おじま たかとし、1920年〈大正9年〉10月11日 - 1962年〈昭和37年〉)は、日本の食肉業者、会社役員。グリコ相模ハム常務取締役兼屠畜場長。 神奈川県藤沢市出身。2代目尾島正吉の嗣子。日本大学商科卒業。藤沢屠場主となる。1947年、神奈川県屠場協会専務理事、同県食肉商業協同組合専務理事。1951年、日本食肉協会理事。 1954年、神奈川県屠場協会長。1956年、日本食肉協会理事、神奈川県食肉組合連合会専務理事各辞任。1957年、グリコ相模ハム常務に就任。 尾島家は父祖3代にわたる屠畜・食肉業者で、尾島隆利は近代感覚と教養を身につけた紳士として知られた。住所は神奈川県藤沢市藤沢。
鴻池 十郎(こうのいけ じゅうろう、1920年 <大正9年>… 鴻池 十郎(こうのいけ じゅうろう、1920年 <大正9年> 6月26日 - 2004年 <平成16年> 2月22日)は、日本の経営者。鴻池運輸社長を務めた。 大阪府大阪市出身。1943年に日本大学商経済学部を卒業し、同年に鴻池組に入社。1970年11月に鴻池運輸社長に就任し、1989年12月には会長に就任。 1984年11月に藍綬褒章を受章し、1997年4月に勲四等瑞宝章を受章。 2004年2月22日に肺炎のために死去。83歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
金 鍾珞(キム・ジョンナク、朝鮮語: 김종락または김종낙、1… 金 鍾珞(キム・ジョンナク、朝鮮語: 김종락または김종낙、1920年5月16日 - 2013年8月22日)は、大韓民国の実業家。 第9・12代大韓野球協会(現・大韓野球ソフトボール協会)会長を歴任した。兄は金鍾翊、弟は金鍾泌。 日本統治時代の忠清南道扶余郡出身。公州高等普通学校(現・公州高等学校(朝鮮語版))、日本大学商経学部経済科卒。韓一銀行(現・ウリィ銀行)専務、大韓卓球協会副会長、第9・12代大韓野球協会(現・大韓野球ソフトボール協会)会長(1966年~1980年および1989年~1992年)、ソウル銀行(現・KEBハナ銀行)銀行長、コリアタコマ設立者兼会長(1970年~1991年)、国際野球連盟副会長(1980年~1996年)、アジア野球連盟会長(1983年~1995年)などを務めた。
厳 廷柱(オム・ジョンジュ、朝鮮語: 엄정주/嚴廷柱、192… 厳 廷柱(オム・ジョンジュ、朝鮮語: 엄정주/嚴廷柱、1920年4月28日 - 2000年4月8日)は、大韓民国の警察公務員、実業家、政治家。第6代韓国国会議員。 本貫は寧越厳氏。号は東泉(トンチョン、동천)。 日本統治時代の江原道寧越郡出身。日本大学経済学部卒。寧越警察署長(1949年6月12日〜1950年3月9日)、韓国鉱業振興株式会社副参事、シンシン薬品株式会社支配人、民主共和党江原第5地区党委員長・中央常任委員を歴任した。1963年の第6代総選挙では寧越・旌善選挙区より民主共和党所属で出馬して当選し、国会議員を1期務めた。以後、大韓鉱業振興公社副社長、韓国ブドウ堂社長、大韓民国憲政会書画委員長などを務めた。
藤田 一暁(ふじた かずあき、1920年〈大正9年〉4月1日… 藤田 一暁(ふじた かずあき、1920年〈大正9年〉4月1日 - 1991年〈平成3年〉5月16日)は、日本の実業家。フジタ社長・会長。フジタドルフィンクラブ設立者。 広島県広島市出身。広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)、旧制広島一中を経て、1943年に日本大学旧工学部建築学科卒業。藤田組に入り、1949年に監査役、1951年に取締役、1957年に副社長を経て、1962年に社長に就任。 1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下により、東白島町の藤田家はぺしゃんこにつぶれた。自宅にいた一暁は気を失ったが、何秒後かに気がつき、ケガもないため自力で這い出した。家の下にある両親とお手伝いさんを助けようとしたが、一人ではどうにもならず、通りがかりの兵隊の助けを借りて救出した。
尹 炳漢(ユン・ビョンハン、朝鮮語: 윤병한/尹炳漢、191… 尹 炳漢(ユン・ビョンハン、朝鮮語: 윤병한/尹炳漢、1917年12月10日 - 2000年4月5日)は、大韓民国の実業家、政治家。第5代韓国国会議員。 本貫は漆原尹氏(朝鮮語版)。号は曙東(ソドン、서동)。 日本統治時代の慶尚南道の巨済島(現・巨済市河清面)出身。日本大学法学部卒。1960年の第5代総選挙では民主党の公認で巨済郡選挙区から立候補し、他の11人の候補者を抑えて初当選した。1992年、75歳の尹は第14代総選挙に同じ選挙区から5回目の出馬をしたが、当選は第5代のたった1回であった。また、長春韓国僑民青年団長、大韓青年団(朝鮮語版)新馬山特別団副団長、産業日報社主幹・副社長、ミョンドク愛育園長、チャンソン青果株式会社社長、イリャン産業株式会社専務、ハニャン商事社長、用達業協会長などを務めた。
森田 俊夫(もりた としお、1917年1月3日 - 201… 森田 俊夫(もりた としお、1917年1月3日 - 2010年1月9日)は、日本の経営者。光洋精工(現在のジェイテクト)社長を務めた。 東京都出身。1941年に日本大学工学部機械工学科を卒業し、同年4月にトヨタ自動車工業に入社。1968年7月に取締役に就任し、1975年7月に常務、1978年9月に専務、1981年7月に副社長、1982年9月に相談役を経て、1983年6月には光洋精工社長に就任。1987年6月に会長を経て、1989年6月には相談役に就任。 1983年4月に藍綬褒章を受章し、1988年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2010年1月9日心不全により、死去。93歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
金 翼基(キム・イッキ、朝鮮語: 김익기、1916年2月19… 金 翼基(キム・イッキ、朝鮮語: 김익기、1916年2月19日 - 1992年10月1日)は、大韓民国の実業家、政治家。安東邑長、制憲・第2・3・4・6代韓国国会議員。 本貫は新安東金氏。号は一江(イルガン、일강)。元錦湖アシアナグループ会長の朴定求(朝鮮語版)と元ヘテグループ会長の朴健培は娘婿。 日本統治時代の慶尚北道安東郡出身。日本大学専門部法学科卒。安東酒造株式会社専務取締役、安東金融組合長、独促国民会安東支部副委員長、安東邑長、制憲国会憲法および政府組織法起草委員、第2・3・4代国会社会保健分科委員会委員長、国会憲法委員会委員、酒類業組合中央会長、自由党安東乙区党委員長・院内政策委員長、民政党中央委員会副議長・党務委員、民衆党中央常務委員、イランテヘランIPU総会韓国代表、雲岩鉱山社長、憲政同友会副会長を務めた。
大内 俊司(おおうち しゅんじ、1914年7月20日 - 2… 大内 俊司(おおうち しゅんじ、1914年7月20日 - 2001年7月4日)は、日本の経営者。山陽特殊製鋼社長を務めた。岐阜県出身。 1938年に日本大学法文学部を卒業し、同年に富士製鉄に入社。1965年に取締役に就任し、1967年に常務、1970年に新日本製鐵常務、1973年に専務、1977年に副社長、1979年に常任顧問を経て、1980年に山陽特殊製鋼社長に就任し、同社の再建に尽力。1986年に会長に就任し、1992年には相談役に就任。新日本製鐵室蘭硬式野球部の初代監督も務めた。 1975年に藍綬褒章を受章し、1984年に勲二等旭日重光章を受章。 2001年7月4日肺炎のために死去。86歳没。
柳原 三郎(やなぎはら さぶろう、1914年(大正3年)7月… 柳原 三郎(やなぎはら さぶろう、1914年(大正3年)7月3日 - 1990年(平成2年)1月25日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 岐阜県岐阜市出身。1932年(昭和7年)岐阜県立岐阜中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)を卒業。その後、日本大学を卒業した。 岐阜県会議員に選出され、司法保護委員も務めた。柳原工業工場長、同取締役副社長、岐阜商工会議所議員、岐阜県体育協会長などを歴任。岐阜青年連盟主幹に就任し『暁鐘』を主宰した。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で岐阜県第1区に民主党公認で出馬して初当選。その後、1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
吉永 治市(よしなが じいち、1913年(大正2年)10月1… 吉永 治市(よしなが じいち、1913年(大正2年)10月12日 - 2000年(平成12年)4月4日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。号・望蘇(ぼうそ)。 熊本県上益城郡、後の益城町で生まれた。陸軍に入隊し第106師団に配属され日中戦争に出征し、1939年(昭和14年)11月、独立混成第18旅団独立歩兵第92大隊に情報作戦担当として転属し、中支宋河鎮の警備中に陸軍士官学校将校学生として入学した。1943年(昭和18年)陸軍士官学校を卒業。その後、熊本歩兵第13連隊補充の教育主任となる。陸軍少佐で復員。 戦後、1951年(昭和26年) 日本大学経済学部を卒業した。全国農業会秘書課、西日本肥料工業社長、吉永興業社長、旭観光開発代表取締役などを務めた。
飯田 道雄(いいだ みちお、1913年10月5日 - 199… 飯田 道雄(いいだ みちお、1913年10月5日 - 1997年9月2日)は、日本の実業家。 神奈川県出身。1931年に京浜電気鉄道(のちの京浜急行電鉄)に入社し、1935年に日本大学専門部商科を卒業した。自動車部長、取締役、事業本部長、常務、専務を経て、1975年5月に副社長に就任し、1981年6月に社長に昇格し、1987年6月に会長に就任した。 1975年11月に藍綬褒章を受章し、1985年4月から勲二等瑞宝章を受章した。 1997年9月2日、心不全のために横浜市の病院で死去。83歳没
高橋 一夫(たかはし かずお、1913年9月13日 - 20… 高橋 一夫(たかはし かずお、1913年9月13日 - 2004年10月24日)は、日本の実業家。中部日本放送社長を務めた。愛知県出身。 日本大学専門部法科に進学するも中退し、1951年に中部日本放送に入社した。 テレビ局営業部長、取締役、、常務、専務、副社長を経て、1987年6月から1993年6月までに社長を務めた。 また日本民間放送連盟副会長も務めた。 2004年10月24日呼吸不全のために死去。91歳没。
渡辺 孟次(わたなべ たけじ、1913年7月12日 - 20… 渡辺 孟次(わたなべ たけじ、1913年7月12日 - 2005年4月2日)は、日本の経営者。共同通信社社長を務めた。 東京都出身。1938年に日本大学を中退し、同盟通信社での勤務を経て、1945年に共同通信社に入社。1968年6月に常務理事に就任し、1974年6月に専務理事を経て、1978年6月に社長に就任。1985年6月に相談役に就任し、1987年6月には顧問に就任。 1984年11月に勲一等瑞宝章を受章。 2005年4月2日老衰のために死去。91歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
朴 世東(パク・セドン、朝鮮語: 박세동、1913年3月4日… 朴 世東(パク・セドン、朝鮮語: 박세동、1913年3月4日 - 没年不詳)は、大韓民国の実業家、政治家。第2代韓国国会議員。 江原江陵出身。日本大学法科卒。商会支配人、鉱山経営者、鉱業評論社社長、大韓青年団江陵郡団長、建青首席総務、大韓農民総連盟中央総本部副委員長、大韓独立青年団中央広報部副団長、経済新聞主幹、現代日報創刊主幹・総務局長、大韓反共団中央総本部副団長、大韓啓蒙協会副会長などを務めた。光復後は共産党打倒に尽力し、国会議員在任中は李承晩の政治路線に従って自由党の発展に貢献をしたが、その後族青系と見なされ、除名処分を受ける危機に陥った。
藤井 誠司(ふじい せいじ、1913年1月16日 - 199… 藤井 誠司(ふじい せいじ、1913年1月16日 - 1997年10月4日)は、日本の経営者。不二家社長、会長を務めた。神奈川県横浜市出身。 1930年に日本大学第三中学校を卒業し、同年に不二家に入社。副社長を経て、1948年に社長に就任し、1969年5月には会長に就任。 キャラクターの「ペコちゃん」と「ポコちゃん」を考案した。 1997年10月4日、呼吸不全のために死去。84歳没。
川手 泰二(かわて たいじ、1911年9月1日 - 1986… 川手 泰二(かわて たいじ、1911年9月1日 - 1986年8月22日)は、日本の新聞記者、会社経営者。名古屋放送株式会社代表取締役社長、会長。全国朝日放送取締役。 山梨県北杜市(旧須玉町若神子)出身。父は、昭和初期に立憲政友会所属で山梨県選出の衆議院議員だった川手甫雄。兄は、山梨トヨタ自動車社長やテレビ山梨取締役を務めた川手淳一。弟は、日軽アルミニウム工業専務を務めた川手雄三。 山梨県立甲府中学校、日本大学法学部卒業。大学卒業後の1936年に朝日新聞社に入社。社会部の事件記者として鳴らし、警視庁キャップを務めた。1961年に東京本社特信部長に就任。 1962年4月、名古屋放送の開局に際して放送界に転じ、取締役東京支社長に就任。
河本 敏夫(こうもと としお、1911年〈明治44年〉6月2… 河本 敏夫(こうもと としお、1911年〈明治44年〉6月22日 - 2001年〈平成13年〉5月24日)は、日本の政治家、実業家。 衆議院議員を連続17期務め、沖縄開発庁長官(第15代)、対外経済問題・民間活力導入担当大臣(第2次中曽根第1次改造内閣)、経済企画庁長官(第32・34代)、通商産業大臣(第34・36代)、郵政大臣(第28代)、衆議院議員(17期)、自由民主党政務調査会長などを歴任し、一時は「三角大福」に次ぐ自民党の実力者としても知られた。また、政界入り前は海運大手の1社だった三光汽船社長を務めており、政界入りに当たって辞任した後も事実上のオーナーであった。 正三位勲一等旭日大綬章受章。
木下 哲(きのした てつ、1911年(明治44年)6月 - … 木下 哲(きのした てつ、1911年(明治44年)6月 - 1961年(昭和36年)7月25日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 大分県宇佐郡安心院村(安心院町を経て現宇佐市)で、木下淳太郎、ウメの息子として生まれる。大分県立大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1935年(昭和10年)日本大学法律学科を卒業した。 家業の弁当屋・梅乃屋を継承した。兄木下郁から影響を受け、1946年(昭和21年)日本社会党に入党し、1947年(昭和22年)大分県議会議員に当選し2期在任。この間、社会党大分県連書記長、同会長を務めた。1955年(昭和30年)兄の郁が大分県知事選挙に転じたことに伴い、同年2月の第27回衆議院議員総選挙で大分県第1区から右派社会党公認で出馬して初当選し、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙では社会党公認で出馬して再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
多田 勇(ただ いさむ、1911年(明治44年)2月8日 -… 多田 勇(ただ いさむ、1911年(明治44年)2月8日 - 1990年(平成2年)3月12日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 千葉県香取郡佐原町(佐原市を経て現香取市)で生まれる。1931年(昭和6年)日本大学商業学校(現在の日本大学第一中学校・高等学校)を卒業した。 房総新聞記者となる。以後、千葉県砂糖卸商業組合専務理事、同日用品配給統制組合常務理事、千葉県生活用品販売副社長、東日本産業社長、多田印刷社長、千葉県印刷工業組合理事長、全日本印刷工業組合連合会理事、同常務理事、同副会長、日本印刷工業会理事、全国印刷工業健康保険組合理事、千葉印刷団地協同組合理事長、関東五県印刷工業厚生年金基金理事、千葉陸上競技協会会長、千葉県体育協会副会長、同顧問などを務めた。
長谷川 政友(はせがわ まさとも、1910年(明治43年)1… 長谷川 政友(はせがわ まさとも、1910年(明治43年)11月20日 - 1980年(昭和55年)3月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 福井県大野郡上庄村木本(現大野市)出身。政治家を目ざして16歳で上京し、苦学して1935年(昭和10年)日本大学法文学部政治科を卒業した。 北海道庁嘱託、同農林主事を歴任。1942年(昭和17年)に応召し、終戦により1945年(昭和20年)に復員した。1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で福井県全県区から民主党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、1948年(昭和23年)に政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
石川 度治(いしかわ たくじ、1909年12月20日 - 1… 石川 度治(いしかわ たくじ、1909年12月20日 - 1993年5月8日)は、日本の企業経営者、出版人。愛知県出身。 元東京出版販売株式会社(現・株式会社トーハン)社長、会長。元日本出版取次協会会長、元全国出版協会理事長。 1936年、日本大学法学部卒業。 16歳の時、出版取次店の東京堂に入社。 1949年に東京出版販売(1992年にトーハンに社名変更)設立と同時に入社、1952年取締役。常務、専務、副社長を経て、1977年代表取締役社長。1984年から会長。のち顧問。その間、一般社団法人日本出版取次協会会長、公益社団法人全国出版協会理事長(1982年 - 1988年)も歴任した。 親族に元朝日新聞出版社長、会長、元週刊朝日編集長の青木康晋がいる。
浦上 豊(うらかみ ゆたか、1909年7月20日 - 197… 浦上 豊(うらかみ ゆたか、1909年7月20日 - 1972年7月19日)は、日本の実業家。菱備製作所(現・リョービ)創業者。 広島県芦品郡岩谷村(現在の同県府中市目崎町)生まれ。肥料商の長男。旧制府中中学校(現・広島県立府中高等学校)を第1期生として卒業。同級に江草隆繁、岡崎平夫ら。東京株式取引所に就職し、夜学の日本大学専門部商業学科に通い1930年卒業。成瀬証券を経て東京で友人と工具やベルト販売の会社を設立。1943年設立された三菱電機福山工場(現・福山製作所)が航空機部品の協力企業を探していることを耳にして交渉の末、34歳で帰郷し、岩谷村に醤油蔵を改造したダイカスト工場建屋を完成させ、第1号製品を三菱電機に納入した。
秋田 貞夫(あきた ていお、1909年〈明治42年〉6月24… 秋田 貞夫(あきた ていお、1909年〈明治42年〉6月24日 - 1996年〈平成8年〉9月10日)は、日本の出版実業家。秋田書店の創立者。岡山県出身。 岡山県出身。旧制岡山第二中学(現:岡山県立岡山操山高等学校)を経て、日本大学専門部卒業後、1930年に小学館に入社。 入社してまもなく学年誌『小学五年生』編集部主任に配属、挿絵作家の福島鉄次を担当する。その後、上層部との軋轢が生じ、1940年11月に小学館を退社する。翌年1941年、秋田は朝日新聞社に入社、『アサヒグラフ』を担当した後、『週刊少国民』の担当となった。『週刊少国民』では再び福島鉄次を起用しており、二人はお互い仲が良かったことがうかがえる。
加森 勝雄(かもり かつお、1907年6月19日 - 199… 加森 勝雄(かもり かつお、1907年6月19日 - 1998年6月22日)は、日本の実業家。加森観光創業者。北海道帯広市出身。 北海中学校卒業、日本大学専門部法科中退。1930年に釧路市内の雑穀商に勤務し経営を学び、1933年釧路で製薬会社・星製薬の東北海道販売代理店を始めて成功をおさめる。その後1939年には星製薬の道内全域の事業を統一した星製薬北海道配給株式会社を創立する。 その後は大谷重工業社長の大谷米太郎が星製薬を買収した事をきっかけに医薬品事業から手を引き、1952年札幌で貸ビル業を開業し翌1953年に加森産業を設立。十分な資産を築いたこともあり昭和20年代末には実業界から手を引くことを考えたものの、知人から登別でのロープウェイ建設事業に熱心に誘われたことをきっかけに、1956年に登別温泉ケーブルを設立して観光業に事業を拡大し、1958年には登別クマ牧場を開設した。
今泉 貞雄(いまいずみ さだお、1906年(明治39年)7月… 今泉 貞雄(いまいずみ さだお、1906年(明治39年)7月4日 - 1995年(平成7年)1月28日)は、日本の技術者、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福島県安積郡桑野村(現郡山市)で、農家の7人兄弟の末子として生まれた。小学校卒業後、進学を希望していたが家庭の経済状況が許さず、上京して丁稚奉公を行う。奉公先の好意で夜間学校に通学し、種々の職業を経ながら1929年(昭和4年)日本大学専門部工科機械科を卒業した。 三共に入社しオートバイ部門で勤務。その後、中島飛行機荻窪工場社員、新田 (株) 昭和内燃機製作所工場長を歴任。中野友禮の資金援助を受けて1938年(昭和13年)今泉精機を東京葛飾に設立し、白河分工場も設けたが終戦に伴い閉鎖して帰郷した。
朴 峻(パク・チュン、朝鮮語: 박준、1905年6月7日 -… 朴 峻(パク・チュン、朝鮮語: 박준、1905年6月7日 - 1973年12月16日)は、大韓民国の実業家、政治家。制憲国会議員。本貫は密陽朴氏。 朴 埈(読み、ハングル同)とも表記される。 慶尚北道(現・大邱広域市)軍威郡またはソウル鍾路出身。日本大学法学部政経科卒。日本政府施行弁護士試験合格後、満洲国の間島省で東振学校校長を務めた。解放後は海外通信社社長、国際評論社社長、ソウル合同消費組合理事長を歴任し、1948年5月の初代総選挙に軍威郡選挙区から無所属で立候補して、国会議員に当選した。同年6月より資格審査委員会に所属し、7月に無所属倶楽部の代表として、国務総理などの要職に現過渡政府と韓国民主党側の人物の起用を拒否する建議書を大統領の李承晩に伝えた。
金 英基(キム・ヨンギ、朝鮮語: 김영기、1905年1月8日… 金 英基(キム・ヨンギ、朝鮮語: 김영기、1905年1月8日 - 1989年5月1日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。本貫は慶州金氏。 京畿道安城郡出身。中東中学校卒、日本大学専門部法科卒または中退。朝鮮日報記者・取締役、新幹会会員、株式会社三益社支配人を経て、解放後は安城郡小作委員会委員、好城産業株式会社専務、朝鮮農工株式会社取締役、安城産業株式会社専務取締役、大韓逓信事業協会理事、平沢税務署所属調査委員、韓国独立党安城郡委員長・中央党執行委員、大韓独立促成国民会安城支部委員長、大韓労総安城支部顧問、大韓農民総同盟安城支部顧問・副委員長、国会懲戒委員会委員長・懲戒資格委員会委員長・財政経済委員会常任委員、京畿道知事、大韓海運公社監事、忠北旅客株式会社社長、制憲同志会総務幹事・副会長を務めた。
三角 寛(みすみ かん、みすみ ひろし、1903年(明治36… 三角 寛(みすみ かん、みすみ ひろし、1903年(明治36年)7月2日 - 1971年(昭和46年)11月8日)は、小説家、山窩(サンカ)作家、映画館経営者。本名は三浦守。僧名は釈法幢。 大分県直入郡岡本村大字枝字真米(現・竹田市大字枝字真米)に農家の4人姉弟の末子として生まれる。私生児であった。幼少期に父親と死別し、10歳で豊後大野市大野町田中の真宗系の最乗寺に預けられる。1922年春、19歳で地元から出奔。日本大学法科卒業と自称していたが、筒井功はこれを疑問視し「三角の最終学歴は、小学校卒であった可能性が強い」と述べている。 1926年(大正15年)3月、記者の手伝いをする雇員(非正規採用)待遇で朝日新聞社に入社し、サツ回り担当(取材記者)となる。
川﨑 千春(かわさき ちはる、1903年〈明治36年〉4月5… 川﨑 千春(かわさき ちはる、1903年〈明治36年〉4月5日 ‐ 1991年〈平成3年〉6月6日)は、日本の実業家。京成電鉄第5代代表取締役社長、京成百貨店代表取締役社長、オリエンタルランド初代代表取締役社長、北総開発鉄道代表取締役社長、成田空港交通代表取締役社長、日本民営鉄道協会会長を務めた。また、日本大学第一学園の第6代同窓会長も歴任した。茨城県出身。趣味はゴルフ、邦楽、古いヴァイオリンの修理。 日本にディズニーパークを誘致する構想を提案した人物であり、東京ディズニーランドの建設計画にも中心的に関わった。京成電鉄では21年間にわたり社長を務め、京成グループの発展に尽力した。 尾張徳川家に仕えた絵師の家系の出身で、従兄に川﨑小虎、小虎の長女・川﨑すみの夫に東山魁夷がいる。