久保 虎二郎(くぼ とらじろう、1920年7月4日 - 20… 久保 虎二郎(くぼ とらじろう、1920年7月4日 - 2011年8月29日)は、日本の実業家、日動火災保険(現・東京海上日動火災保険)元代表取締役社長、元名誉相談役、学校法人立教学院元理事長。 1920年生まれ、東京都出身。1943年、立教大学商学部(現・経営学部)卒業。 日動火災保険株式会社(現・東京海上日動火災)常務取締役などを歴任したのち、代表取締役社長を務めた。社長退任後は、名誉相談役に就任。 1991年7月から1995年6月まで学校法人立教学院理事長を務めた。1981年6月から1983年6月まで立教経済人クラブの初代会長も務めた。 1980年に藍綬褒章、1990年に勲三等瑞宝章を受章。
利光 達三(としみつ たつぞう、1920年4月23日 - 1… 利光 達三(としみつ たつぞう、1920年4月23日 - 1994年11月5日)は、日本の実業家。小田急電鉄社長や、同社会長、日本民営鉄道協会会長、立教学院理事長等を歴任した。勲一等瑞宝章受章。 千葉県市川市出身。1944年立教大学経済学部経済学科卒業。小田急電鉄専務取締役を経て、1981年から小田急電鉄取締役社長を務め、小田急エージェンシーの設立などを行った。1987年立教学院理事長、立教大学校友会会長。1989年日本民営鉄道協会会長。1991年小田急電鉄取締役会長。1982年藍綬褒章受章、1991年勲一等瑞宝章受章。1994年11月5日、急性心不全のため死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
白井 孝夫(しらい たかお、1920年(大正9年)2月17日… 白井 孝夫(しらい たかお、1920年(大正9年)2月17日 - 没年不詳)は、日本の実業家、本田技研工業株式会社元専務取締役、本田技術研究所元所長。30代の課長時代には、鈴鹿製作所の工場建設を一手に任され、現在のモータスポーツにまで至るHONDAの鈴鹿拠点の基盤を作り、会社の成長を支えた。 静岡県出身。1943年(昭和18年)立教大学経済学部卒業。大学卒業後、東洋製鋼、繊維貿易公団を経て、1950年(昭和25年)本田技研工業に入社する。 1959年1月、生産課長として前年11月末に起きたスーパーカブの初期トラブルを解決し、年末までに増産体制を取り終えたばかりの頃、社長の本田宗一郎から呼び出され、何の説明もなしに『ヨーロッパへ行って来い』と言われる。
山下 勝(やました まさる、1920年 - 2010年)は、… 山下 勝(やました まさる、1920年 - 2010年)は、日本の実業家、起業家、野球選手。山下ゴム株式会社元代表取締役社長。 1938年(昭和13年)3月、兵庫県立旧制姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)卒業。 中学卒業前に立教大学野球部のセレクションを受けるが、この時、同じく野球部のセレクションを受け立教大学を受験する同志に、内野手の西本幸雄(和歌山中学)、中林正道(立教中学)、2塁手の辻勉(愛知商業)、捕手の伊藤治夫(亨栄商業)、外野手の高橋進(一宮中学)、後にマネージャーとして活躍する中島正明(関西学院中学)らがいた。このセレクション受ける中学生で1チームを構成し、大学予科のチームを相手に3試合したが、全て中学生のチームが勝利した。
林田 正恒(はやしだ まさつね、1919年 <大正8年> 1… 林田 正恒(はやしだ まさつね、1919年 <大正8年> 12月22日 - 2010年 <平成22年> 1月22日)は、日本の地方公務員、経営者。熊本県教育長、熊本朝日放送初代社長を務めた。福島県出身。 1943年に立教大学経済学部を卒業。 熊本県庁での勤務を経て、1975年に熊本県教育委員会教育長、1980年に熊本県信用保証協会専務理事を経て、1988年12月に熊本朝日放送社長に就任。1996年6月から1997年6月までに会長を務めた。 2010年1月22日心不全のために死去。90歳没。
亀井 要(かめい かなめ、1919年(大正8年)2月17日 … 亀井 要(かめい かなめ、1919年(大正8年)2月17日 - 没年不詳)は、日本の実業家、株式会社三省堂元会長、社長。 東京府(現東京都)出身。1919年、亀井寅雄(三省堂書店創業者・亀井忠一の四男)の長男として生まれる。 1942年、立教大学文学部卒業。大学卒業後、家業の株式会社三省堂に入社。(株式会社三省堂は、父・寅雄の提案により1915年に三省堂書店から出版事業部が分離独立して設立されている。) 1947年、三省堂常務、1951年同社専務と歴任し、1956年三省堂社長に就任。 その後一旦、社長を退くが、1961年三省堂取締役に再任され、1965年に会長に就任。1970年に再び三省堂社長となった。
木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・欽一(きんいち)、19… 木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・欽一(きんいち)、1918年〈大正7年〉3月21日 - 1988年〈昭和63年〉5月1日)は、日本の政治家、実業家。伊香保町議会議長、株式会社木暮旅館(現・ホテル木暮)代表取締役社長、伊香保ガス株式会社代表取締役社長、上毛新聞社取締役。日本観光協会理事、群馬県観光協会長、群馬県スケート連盟会長、26代目武太夫。位階は従五位。 1918年(大正7年)、先代木暮武太夫(元運輸大臣、国会議員、旧名:正一)の長男として群馬県北群馬郡伊香保町(現・渋川市)に生まれる。木暮家は、天正10年(1582年)長尾輝景から伊香保温泉の安堵状を与えられた木暮下総守を先祖とする旧家で、木暮旅館(現在のホテル木暮)を営み、代々「武太夫」の名を世襲する家柄である。
岡見 如雪(おかみ なおゆき、1916年 - 2011年11… 岡見 如雪(おかみ なおゆき、1916年 - 2011年11月14日)は、日本の実業家、教育者。頌栄女子学院元理事長・校長、ウィンチェスター頌栄カレッジ創設者、三協日野ルノー代表取締役社長。 1916年(大正5年)、岡見敬一の長男として生まれる。祖父は頌栄女子学院創設者の岡見清致。(祖父清致の叔父は、慶應義塾の基礎を造った岡見清熙。) 1939年(昭和14年)、立教大学経済学部卒業。在学中は、スキー部に所属し、1937年(昭和12年)の創部にも携わった。 大学卒業後、三井物産勤務を経て、三協日野ルノー代表取締役社長を務めた。 1962年(昭和37年)、頌栄高等女学校の理事長に就任。 1964年(昭和39年)、校名を現在の「頌栄女子学院中学校」と「頌栄女子学院高等学校」に改称し、キリスト教学校教育同盟にも加盟。
勝 芳孝(かつ よしたか、1915年5月5日 - 没年不詳)… 勝 芳孝(かつ よしたか、1915年5月5日 - 没年不詳)は、日本の華族、実業家。新興製作所代表取締役社長、伯爵。徳川慶喜の孫および勝海舟の曾孫であり、勝家第3代当主。 1915年(大正4年)5月、父・勝精(徳川精、徳川慶喜の十男)と母・勝伊代(勝小鹿の長女)の長男として生まれる。 学習院を経て、立教大学経済学部を卒業。 1941年(昭和16年)に出征し、ラバウルの陸軍部隊にいて終戦を迎える。一時戦死したとの誤報も流れた中、赤坂・氷川の邸宅も空襲で焼かれた。わずかに土蔵が残ったものの、これも戦後のどさくさの中で、伯爵家の執事の三太夫に持ち出され、散逸したものが多いという。名刀や名剣の類は、進駐軍のアメリカ軍人らに持ち出された。
永田 英太郎(ながた えいたろう、1911年(明治44年)1… 永田 英太郎(ながた えいたろう、1911年(明治44年)11月4日 - 2002年(平成14年)9月19日)は、日本の実業家。栃木県出身。元栃木市長。永田製作所創業者。栃木市名誉市民。 1911年(明治44年)、栃木県栃木町(現栃木市)に生まれる。1930年(昭和5年)に旧制栃木県立栃木中学校(現 栃木県立栃木高等学校)、1934年に立教大学文学部を卒業。 1956年、栃木市教育委員に就任し、その翌年に永田製作所を創設。1965年に栃木市教育委員長、1969年に栃木商工会議所副会頭となる。 1979年、第11代栃木市長に就任。1988年、勲四等瑞宝章を受章。2002年(平成14年)、逝去。享年92(満91歳没)。
税所 篤満(さいしょ あつみつ、1911年2月28日 - 1… 税所 篤満(さいしょ あつみつ、1911年2月28日 - 1966年6月22日)は、日本の華族、実業家。子爵、トヨタ自動車(元・トヨタ自動車販売)役員、監査役、トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)総務部長、東京トヨペット株式会社常務取締役。薩南三傑の一人である税所篤の曾孫であり、税所家第4代当主。 1911年(明治44年)、税所篤秀(貴族院議員)の長男として生まれる。曾祖父は西郷隆盛、大久保利通と共に薩南三傑と呼ばれた薩摩藩士の税所篤。 1936年(昭和11年)、立教大学経済学部経済学科を卒業。大学卒業後、トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)に勤務し、総務部長を務める。 1958年(昭和33年)、トヨタ自動車販売(現・トヨタ自動車)役員に就任し、監査役を務めた。
佐藤 哲夫(さとう てつお、1911年 - 没年不詳)は、日… 佐藤 哲夫(さとう てつお、1911年 - 没年不詳)は、日本の実業家、編集者。文芸雑誌「新潮」元編集長、新潮社元取締役。 1911年、新潮社の創業者である佐藤義亮の四男として生まれる。 1936年、立教大学経済学部卒業。大学卒業後、新潮社に入社。 1945年、新潮社が発行する文芸雑誌「新潮」の編集長に就任。新潮社取締役を務めるなど重役を歴任した。 息子の佐藤啓次郎は、冷凍食品、食材宅配のパイオニアである株式会社シュガーレディ(現・SL Creations)の創業者である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
金谷 鮮治(かなや せんじ、1910年8月22日 - 197… 金谷 鮮治(かなや せんじ、1910年8月22日 - 1977年11月30日)は、日本の実業家、鬼怒川温泉ホテル元代表取締役社長、日本旅行協定旅館連盟元会長、日本ホテル協会元理事長、内閣観光政策審議会元専門委員。 1910年8月22日、日光金谷ホテル創業者、金谷善一郎の長女・金谷多満と婿養子・正生の長男として栃木県日光で誕生する。 1934年、立教大学卒業。大学在学中は、アイスホッケー部の金谷三兄弟の長兄として活躍する。 箱根富士屋ホテル、帝国ホテルで修業した後、金谷ホテル・日光物産商会取締役に就任。 1953年、父・正生が初代館長に就任していた鬼怒川温泉ホテルを日光金谷ホテル(本店)より独立し、鬼怒川温泉ホテル株式会社を設立、初代社長に就任。
清水 兵治(しみず ひょうじ、1910年6月13日 - 19… 清水 兵治(しみず ひょうじ、1910年6月13日 - 1999年7月3日)は、日本の経営者。古河鉱業(現在の古河機械金属)社長、会長を務めた。富山県出身。位階は正四位。 1935年に立教大学経済学部商学科を卒業し、同年に古河鉱業に入社。1961年5月に取締役に就任し、1963年11月に常務、1965年5月に専務を経て、1971年2月には社長に就任。1980年6月に会長に就任し、1981年6月までに務めた。 1971年10月に藍綬褒章を受章し、1985年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1999年7月3日心不全のために死去。89歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
木村 栄一(きむら えいいち、1909年8月22日 - 19… 木村 栄一(きむら えいいち、1909年8月22日 - 1985年6月16日)は、日本の実業家、株式会社木村屋總本店元代表取締役社長(5代目)、全日本パン協同組合連合会初代会長、日本パン工業会元会長。 1909年、東京生まれ。1933年、立教大学商学部(現・経済学部)卒業。大学在学中は体育会ラグビー部に所属。 大学卒業後、家業である木村屋總本店へ入社。1947年、木村屋總本店取締役社長(5代目)に就任。 1956年、全日本パン協同組合連合会設立にあたり初代会長に就任。 母校、立教大学のラグビー部監督も務めた 木村屋總本店の本社、工場、店舗に、額に入れて掲げられている『五つの幸福』 『四大目標』は、栄一が繰り返し口にしていた言葉であり、木村屋の根幹をなす企業理念となっている。
古田 直弥(ふるた なおや、1908年6月27日 - 没年不… 古田 直弥(ふるた なおや、1908年6月27日 - 没年不詳)は、日本の実業家、帝国ホテル支配人、同常務取締役。 東京出身。立教大学を卒業後、帝国ホテルに入社。 同ホテル支配人を務めたのち、1965年(昭和40年)、同社常任監査役に就任。 1968年(昭和43年)、同社常務取締役に就任。 1970年(昭和45年)、同社常務取締役を退任。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
川本 忠雄(かわもと ただお、1907年〈明治40年〉8月2… 川本 忠雄(かわもと ただお、1907年〈明治40年〉8月22日 - 没年不明)は、日本の実業家。フジ運動具店社長。華道衡山流三世家元。 奈良県大和郡山市出身。1927年、郡山中学校を卒業する。1932年、立教大学経済学部を卒業する。1937年、応召。1943年、除隊後日本国際航空工業に入社する。1946年、退職する。 1947年、ノダ運動具店に勤務する。1948年、有限に改組、取締役に就任する。1962年、フジ運動具店を設立、社長に就任する。行政相談委員、大和郡山市監査委員を兼任する。郡山信用金庫監事をつとめる。 江戸時代栄えた遊廓の跡、洞泉寺町に木造三階の川本忠雄宅がある。「旧川本家住宅」は2014年10月7日に国の登録有形文化財に登録され、2018年1月10日に「町家物語館」として生まれ変わり、一般公開が開始される。
吉本 元輔(よしもと もとすけ、1903年11月20日 - … 吉本 元輔(よしもと もとすけ、1903年11月20日 - 没年不詳)は、日本の実業家。日本ダイナースクラブ(現・三井住友トラストクラブ)元会長・社長、日本交通公社元理事。 東京出身。1927年、立教大学商学部(現・経済学部、経営学部)卒業。 大学卒業後、日本交通公社へ入社。1946年2月、初代社員組合長に就任。1949年、日本交通公社は、国鉄手数料停止という非常事態に直面したが、打開策の一つとして本社機能の再構築が行なわれ、新たに旅行課、海運課、審査課からなる「旅行部」が設置され、初代部長に就任。国内旅行営業推進の中核としての職務を担った。 その後、同社理事に就任。 1960年、財団法人日本交通公社および富士銀行等の出資によって日本で最初の多目的クレジットカード会社として株式会社日本ダイナースクラブ(後のシティカードジャパン株式会社、現・三井住友トラストクラブ株式会社)が設立され、社長に就任。
花房 満三郎(はなぶさ まんさぶろう、1903年(明治36年… 花房 満三郎(はなぶさ まんさぶろう、1903年(明治36年)9月14日 - 1968年(昭和43年)3月20日)は、日本の実業家、編集者。文藝春秋元編集長、文藝春秋新社(現・株式会社文藝春秋)元取締役、新有社元専務。 1903年、内閣官僚を務めた花房直三郎の三男として生まれる。1927年、立教大学文学部卒業。 文藝春秋社に入社し、文藝春秋編集長(1939年‐1942年、1943年‐1944年)を務めた。 1946年、文藝春秋新社(現・株式会社文藝春秋)常任監査役に就任し、取締役を歴任。1948年、新有社専務に就任した。 妻・春子は、洋画家で日本初のカフェとされる「カフェー・プランタン」を創業した松山省三の長女で、歌舞伎役者の五代目河原崎國太郎の妹。
松崎 一雄(まつざき かずお、1901年(明治34年)8月1… 松崎 一雄(まつざき かずお、1901年(明治34年)8月11日 - 2000年(平成12年)4月14日)は、日本の実業家。森永商事代表取締役社長、森永製菓代表取締役副社長、森永乳業取締役、学校法人立教学院理事長を務めた。子に松崎昭雄がいる。 1901年、松崎半三郎の長男として生まれる。 立教大学に入学。予科2年の時に、バスケットボール部に入る。部ではアメリカから帰ってきた志賀直哉の弟がコーチを務めた。1926年、立教大学商学部(現・経済学部、経営学部)卒業。 1927年、森永製菓に入社する。1942年、森永製菓取締役に就任し、1943年、森永製菓常務、1952年、森永製菓専務、1966年、森永製菓副社長と歴任。
本田 明(ほんだ あきら、1900年10月15日 - 196… 本田 明(ほんだ あきら、1900年10月15日 - 1965年7月3日)は、日本の実業家。帝拳プロモーション元会長、日本プロボクシング協会(旧・日本ボクシング協会)初代会長を務め、ボクシング界の天皇と言われた。 衆議院議員を務めた本田義成の長男。大正期に立教大学に入学し、同級生の荻野貞行(日本ボクシングの母)と親交を深める。 1926年7月に、荻野貞行が上海へ無断遠征したことで渡辺勇次郎が率いる日本拳闘倶楽部から破門されたことにより、荻野は神戸銀行頭取の樽谷公一を担いで東京拳闘会(現・東拳ボクシングジム)を設立した後、程なくして新橋駅近くに新たに「帝国拳闘協会拳道社」(現・帝拳プロモーション)を設立する。
楊 建平(よう けんぺい、1898年 - 1949年)は、中… 楊 建平(よう けんぺい、1898年 - 1949年)は、中国の政治家、官僚、外交官、軍人、実業家、教育者。広東省中央銀行副総裁、上海商務局長、潮山税関監督署長、第11軍後方部大佐局長、国民革命軍少将、復旦大学教授、政法大学教授、農民工民主党創設者の一人。 1898年、広東省大埔県百侯鎮侯南村に旧名、楊金坤として生まれる。広東高等師範学校を経て、1925年、立教大学文学部を卒業(大学令による第1回卒業生)。 同年、中国に帰国後、復旦大学、光華大學(中国語版)、滬江大学(中国語版)、政法大学で講師、教授を歴任。 その後、上海商務局長となり、1928年、第11軍司令官陳銘樞中佐の秘書、第11軍後方部大佐局長を務める。
佐伯 松三郎(さえき まつさぶろう、1897年1月21日 -… 佐伯 松三郎(さえき まつさぶろう、1897年1月21日 - 没年不詳)は、日本の実業家、日本サーモコン株式会社元代表取締役社長、会長。東京鋼管代表取締役社長。立教学院元理事、立教大学校友会元副会長。戦時中の国の理科系強化施策の中で、文科系の閉鎖や統合が進む中、立教理科専門学校(現・立教大学理学部)の設立に尽力し、立教大学の閉鎖を防ぎ存続・継続させ、立教の名を現在に残した立役者の一人。 岐阜県出身。1921年(大正10年)、立教大学商学部を卒業。学生時代は創部まもない体育会テニス部(1916年創部)に所属した。 実業家として活躍しつつ、立教学院の理事としても学院の運営に深く携わり、戦時中には後述の立教理科専門学校(現・立教大学理学部)の設立に尽力した。
山中 喜一(やまなか きいち、1890年5月11日 - 没年… 山中 喜一(やまなか きいち、1890年5月11日 - 没年不詳)は、大正から昭和初期に活躍した日本の実業家。国策会社である東亜海運の代表取締役社長を始め、日清汽船常務取締役、副支配人など海運会社の経営に携わった。 茨城県豊田郡水海道町(現・常総市)出身。1913年(大正2年)立教大学卒業。その後、国策会社である日清汽船に入社。1925年(大正14年)には、同社副支配人を務めた。 日清汽船は上海航路を有し、現地に拠点を設けており、1924年(大正13年)12月から翌年1月まで母校である立教大学のバスケットボール部が上海遠征を行った際には、多大な支援を行った。 1939年(昭和14年)に、対中国海運強化を目的とする新たな国策会社として東亜海運が設立されると、同社の代表取締役社長に就任。
名倉 喜作(なぐら きさく、1890年5月8日 - 1958… 名倉 喜作(なぐら きさく、1890年5月8日 - 1958年12月4日)は、日本の実業家。華南銀行総理、台湾銀行東京調査部調査部長・本店調査課長。立教学院財務理事。 1890年(明治23年)、静岡県出身。1914年(大正3年)、立教大学商科(後の商学部)卒業。 大学卒業後、台湾銀行に入行。同行本店調査課長を務める。 1944年(昭和19年)、華南銀行の親銀行である台湾銀行が財務強化のため資本金の増資を行い、華南銀行創設者の一人でこれまで総理を務めていた林熊徴(林本源の子孫)を会長とし、台湾銀行からきた名倉喜作が華南銀行の新たな総理に就任する。2人の常務も台湾銀行出身者となり、台湾銀行による経営の強化が図られた。
高津 致道(たかつ ちどう、1889年3月 - 没年不詳)は… 高津 致道(たかつ ちどう、1889年3月 - 没年不詳)は、日本の実業家、株式会社にんべん第3代社長。 1889年(明治22年)3月、高津龍五郞(八代高津伊兵衛の長男)の三男として生まれる。家業は、1699年(元禄12年)の創業の鰹節問屋・伊勢屋から興ったにんべん(旧・高津商店)を営む水産加工品メーカー。 1914年(大正3年)、立教大学商科(現・経済学部、経営学部)を卒業。 卒業後、家業の高津商店に入り、取締役および監査役を務める。 1920年(大正9年)に分家して一家を創立。 1951年(昭和26年)、株式会社にんべん第3代社長に就任し、社長職を1955年(昭和30年)まで務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
江藤 豊二(えとう とよじ、1882年1月26日 - 没年不… 江藤 豊二(えとう とよじ、1882年1月26日 - 没年不詳)は、日本の実業家、中日実業公司元常務取締役、三井物産株式会社元奉天支店長。 1882年(明治15年)1月26日、鹿児島県の江藤治兵衞の長男として生まれる。 鹿児島商業学校を経て、立教大学を卒業。 1900年(明治33年)三井物産株式会社に入社。1915年(大正4年)には同社奉天支店長を務める。中日実業公司の常務取締役も歴任した。 1927年(昭和2年)田中義一内閣成立当時において、満州における日中対立の中心問題であった満州鉄道問題の解決のため、満州鉄道総裁、山本条太郎の代理として交渉を行った。山本は三井物産上海支店時代、中国人の間に多くの知己を得た人物で、江藤は山本の腹心の部下でもあり、同じく中国人に知己が多かった。
山口 正造(やまぐち しょうぞう、1882年 - 1944年… 山口 正造(やまぐち しょうぞう、1882年 - 1944年)は、日本の実業家、富士屋ホテル元代表取締役社長、富士屋自動車元社長、箱根ホテル元社長。 1882年(明治15年)7月、栃木県・日光金谷ホテルの金谷善一郎の次男・金谷正造として生まれる。日光金谷ホテルは1873年(明治6年)に外国人向けの民宿として、ジェームズ・ヘボンの薦めで「金谷カッテージ・イン」として創業したクラシックホテルで、現存する日本最古のリゾートホテルとして知られている。 1893年(明治26年)、父・善一郎が「金谷ホテル」を開業。築地にあった立教学校(立教大学の前身の一つ)初代校長で建築家としても活躍したジェームズ・ガーディナーの薦めで、ホテル開業前年の1892年(明治25年)に3歳上の兄・金谷眞一が立教学校で学んだことから、その後正造も兄と同じく立教学校で英学を学んだ。
丹波 恒夫(たんば つねお、 1881年 - 1971年11… 丹波 恒夫(たんば つねお、 1881年 - 1971年11月15日)は、日本の実業家、浮世絵収集家。横浜で貿易商を営み、丹波商会を創設して日本の貿易振興に貢献したほか、浮世絵収集家として国際的に知られ、寄贈した作品は「丹波コレクション」として神奈川県立歴史博物館に所蔵されている。連合軍総司令部(GHQ)繊維部顧問、日本浮世絵協会理事、横浜文化賞受賞。 山形県新片町(現・酒田市幸町)に生まれる。 1901年(明治34年)立教学院東京英語専修学校(現・立教大学)に入学。その後中退し、日露戦争に出兵。 その後、郷里の山形に戻り、酒田郵便局や新庄中学校などに勤務する。 1907年(明治40年)に米国に留学し、英語や経済学などを学び、後に百貨店に勤めて、欧米の絹布・雑貨などの研究を進め、日本の絹織物市場調査を行う。
清田 龍之助(清田 龍之介、せいた りゅうのすけ、1880年… 清田 龍之助(清田 龍之介、せいた りゅうのすけ、1880年3月3日 - 1943年4月24日)は、日本の実業家、ジャーナリスト、教育者。日本電報通信社(現・電通)外報部長。東京商科大学(現・一橋大学)教授、立教大学教授。日本聖公会の信徒。 1880年(明治13年)3月3日、清田海一郎(浅草聖ヨハネ教会初代牧師)の長男として広島県忠海(現・竹原市)に生まれる。 その後、大阪に出て小学校を卒業した後、上京する 1897年(明治30年)3月、東京・築地の旧制立教中学校を卒業。同1897年(明治30年)4月、立教専修学校(現・立教大学)に入学して、1899年(明治32年)に同校卒業。卒業と同時に、1899年(明治32年)3月、ペンシルバニア州費留学生として米国に留学。
武田 栄太郎(たけだ えいたろう、1880年3月 - 192… 武田 栄太郎(たけだ えいたろう、1880年3月 - 1926年)は、日本の実業家、経営者。アメリカに移住して、農場経営者となった人物。父はアーネスト・サトウ(駐日英国公使)、弟は植物学者の武田久吉。 1880年(明治13年)3月、父・アーネスト・サトウ(駐日英国公使)と母・武田兼の間に長男として生まれる。 1884年(明治17年)、サトウは赴任先のバンコクから日本へ休暇で来日するが、家族のために、これまでの住居である飯田橋の家(現・日本歯科大学附属病院の場所)に加えて富士見町(現・法政大学飯田橋校舎の場所)にも新たに家を設けた。 父のサトウは奥日光の中禅寺湖周辺をこよなく愛し、1896年(明治29年)には湖畔に知人であるジョサイア・コンドルの設計による別荘も設けているが、息子の栄太郎と久吉を連れても奥日光を訪れている。
河北 林吾(かわきた りんご、1880年1月5日 - 195… 河北 林吾(かわきた りんご、1880年1月5日 - 1958年3月29日)は、明治期から昭和期の実業家、時計商。河北時計店社長。旧姓、牛島。 九州福岡県八女郡出身。 東京に出て、立教大学商学部に入学。この頃、築地にあった立教大学の寄宿学生たちは、「天國は近づけり、汝等食ひあらためよ」と吟じつつ、夕方になると銀座をふらついては、木挽町にあった天丼屋の「天國」で天丼2杯ほどをペロリと平らげて群歩いていたが、林吾もそうした中の一人だった。また林吾は、学生当時、立教最初の英語劇を催した一人であった。 1911年(明治44年)、立教大学商学部を主席で卒業。立教大学第1回卒業生として、小島茂雄(立教大学元文学部長、立教中学校元校長、文学部卒)や、久保田正次(立教大学元教授、立教大学野球部元部長)と同級生。
金谷 眞一(かなや しんいち、1879年12月8日 - 19… 金谷 眞一(かなや しんいち、1879年12月8日 - 1967年2月16日)は、日本の実業家、日光金谷ホテル元代表取締役社長、帝国ホテル元取締役、富士屋ホテル元取締役、日光電気軌道元監査役。 1879(明治12年)12月、栃木県・日光金谷ホテルの金谷善一郎の長男として生まれる。日光金谷ホテルは1873年(明治6年)に外国人向けの民宿として、ジェームズ・ヘボンの薦めで「金谷カッテージ・イン」として創業したクラシックホテルで、現存する日本最古のリゾートホテルとして知られている。 明治期に立教学校(立教大学の前身の一つ)の初代校長を務め、建築家としても活躍したジェームズ・ガーディナーは、民宿の経営者である金谷善一郎に、日光を訪れる外国人向けに本格的なホテルが必要となることを助言し、長男・眞一に自身が教える築地の立教学校で英会話を含む英学を学ぶことを薦めた。
上松 蓊(うえまつ しげる、 1875年 - 1958年)は… 上松 蓊(うえまつ しげる、 1875年 - 1958年)は、日本の実業家。古河鉱業門司支店長を務めたのち、製紙会社を興した。また、南方熊楠の門弟として熊楠を支援し、小畔四郎・平沼大三郎と共に熊楠門の三羽烏といわれた。 1875年生まれ。新潟県長岡出身。安部井磐根(衆議院副議長)の猶子となる。 東京英語専修学校(現・立教大学)を卒業後、古河鉱業に入社。 その後、同社門司支店長となるが、40歳になる前に退職し、東京で製紙会社を興して経営する。 同郷の友人である小畔四郎の紹介により南方熊楠と知り合い、南方の支援を行うようになる。現存する南方の上松に宛てた書簡は500通にも及ぶが、最初の書簡は、1914年(大正3年)12月9日付のもので、当時、上松は39歳であった。
松崎 半三郎(まつざき はんざぶろう、1874年〈明治7年〉… 松崎 半三郎(まつざき はんざぶろう、1874年〈明治7年〉9月14日 - 1961年〈昭和36年〉11月4日)は、日本の商人(貿易商)、実業家。森永製菓2代目社長、森永乳業初代社長、立教学院元理事長。日本停車場会長。大日本製乳協会会長、日本菓子工業組合連合会理事長などを歴任した。 1874年(明治7年)9月14日、埼玉県榛沢郡桜沢村(現・大里郡寄居町)生まれ。松崎孝作の二男。1896年(明治29年)、立教学院(現・立教大学)卒業。横浜の某商館に入って直接輸出業の実習を積む。 南洋貿易業を開始する。南洋ジャバに於いて貿易に従う。しかし閉店の悲運に遭遇する。1901年(明治34年)、分家して一家を創立する。
古河 倍造(ふるかわ ばいぞう、 1872年11月〈明治5年… 古河 倍造(ふるかわ ばいぞう、 1872年11月〈明治5年10月〉 - 没年不詳)は、日本の実業家。東洋燐寸専務取締役、大同燐寸専務取締役のほか、帝國燐寸製造、青島燐寸、日東燐寸(現・日東社)、燧生火柴有限公司の各取締役を務めた。 1872年11月(明治5年10月)、古河宗七の長男として福井県に生まれる。 東京へ出て、築地の立教学校(現・立教大学)で学ぶ。1895年(明治28年)、立教学校(現・立教大学)卒業し、同期に濱口梧洞(ヤマサ醤油社長)がいた。 瀧川辨三(日本のマッチ王、滝川中学校・高等学校創設者)が興した東洋燐寸株式会社の専務取締役や大同燐寸の専務取締役、常務取締役を歴任した。東洋燐寸は、大正期に日本一の年商を誇った総合商社である鈴木商店傘下の帝国燐寸を吸収して、1917年(大正6年)1月に、瀧川辨三が経営する滝川燐寸株式会社が設立した会社で、当時東洋最大のマッチ製造会社といわれ、良燧社系のマッチのラベルを引き継ぎ運営された。
高橋 貞三郎(たかはし ていざぶろう、 1871年12月12… 高橋 貞三郎(たかはし ていざぶろう、 1871年12月12日〈明治4年11月1日〉 - 1934年〈昭和9年〉2月26日)は、明治から昭和期の実業家。三井物産大阪支店長を務めたほか、富士製紙(現在の王子製紙)専務取締役、樺太鉄道取締役、東京金鋼、北海道電灯などの重役を歴任した。 岡山県後月郡高屋町(現在の井原市)出身。 東京へ出て、築地の立教学校(現在の立教大学)で学ぶ。24歳の時にアメリカに留学し、イェール大学を卒業した。イェールの記録では、1897年に立教に学び、1900年よりイェールの大学院で社会科学を専攻、1901年に修士号を取得した。 帰国後1902年に三井物産に入社し、1913年(大正2年)には同社大阪支店長に就任した。
植松 京(うえまつ みやこ、植松 京一、うえまつ きょういち… 植松 京(うえまつ みやこ、植松 京一、うえまつ きょういち、 1870年11月10日〈明治3年10月17日〉 - 1922年(大正11年)4月)は、明治から大正期の実業家。三菱造船常務取締役、三菱商事取締役、三菱海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)取締役。 1870年11月10日(明治3年10月17日)、植松有經(有経)の長男として東京府で生まれる。 実業を志し、立教学校(現・立教大学)に入学し英学を修めて、その後、米国に留学。 帰国後、三菱合資会社に入社し、同造船部副部長を務めたほか、同鉱業部副長も務めた。 明治期において、三菱の幹部として九州鉄道の株式を多く所有した。 1917年(大正6年)に、三菱造船常務取締役に就任。
水田 南陽(みずた なんよう、1869年1月(明治2年) -… 水田 南陽(みずた なんよう、1869年1月(明治2年) - 1958年1月3日(昭和33年))は、日本の翻訳家、小説家、編集者、新聞記者、実業家。日本へシャーロック・ホームズを紹介した先駆者。別名は、南陽 外史(なんよう がいし)。本名は、水田 栄雄(みずた ひでお)。 1869年1月、淡路国薦江(兵庫県)生まれ。大阪・川口の英和学舎(立教大学の前身の一つ)を経て、1890年、立教大学卒業。 ミッション・スクール(現立教大学)在学中の1889年、東京能弁学会に加入し、機関誌『能弁』にシェイクスピア劇の翻訳を掲載。東京能弁学会の幹事である大岡育造に認められ、『能弁』の編集に参加した。 1890年頃、大岡育造が経営していた中央新聞に入社し、同紙にエミール・ガボリオの『オルシヴァルの犯罪』を『大探偵』と題して訳出したのを始め、『夢中の玉』『珊瑚の徽章』などを次々発表した。
永松 達吾(ながまつ たつご、 1868年1月9日(慶応3年… 永松 達吾(ながまつ たつご、 1868年1月9日(慶応3年12月15日)- 没年不詳)は、明治期から大正期に活躍した日本の実業家、ジャーナリスト。玉川電気鉄道株式会社(現・東急株式会社)代表取締役、草津軽便鉄道創立委員総代、時事新報記者、西武軌道(後の都電杉並線)取締役、交詢社評議員。 豊前国宇佐郡、のちの駅館村(現大分県宇佐市)で永松貞民の長男として生まれた。大阪・英和学舎(現・立教大学)を経て、慶應義塾にて修学。 1891年(明治24年)、横浜の生糸問屋に勤務する傍ら『横浜蚕糸貿易事情』を出版。 その後、時事新報の記者となり、時事新報において『群馬県下の蚕業』などを執筆したのち、東京信託会社に務める。
阪井 徳太郎(さかい とくたろう、1868年 - 1954年… 阪井 徳太郎(さかい とくたろう、1868年 - 1954年 )は、日本の実業家、国家公務員、牧師。第25代三井合名会社理事、内閣総理大臣秘書官、外務大臣秘書官。同志会学生寮設立者。ルドルフ・トイスラーを支援し、聖路加病院の国際化に貢献した。聖公会信徒。 愛知県の士族、阪井久の長男として1868年(明治元年6月)に名古屋で生まれる。 立教大学校(現・立教大学)に入学。1888年(明治21年)には、築地聖三一教会でチャニング・ウィリアムズより洗礼を受ける。1892年(明治25年)、立教大学卒業。 1892年(明治25年)12月に米国に渡り、1894年(明治27年)にニューヨーク州ホバート大学(英語版)を卒業。
宮崎 敬介(みやざき けいすけ、1866年12月23日〈慶應… 宮崎 敬介(みやざき けいすけ、1866年12月23日〈慶應2年11月17日〉 - 1928年〈昭和3年〉10月17日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した大阪の実業家。大阪堂島米穀取引所理事長、神戸商品取引所理事長、大阪電灯社長、大同電力副社長を歴任し、大阪土地建物や門司築港を創設するなど、関西実業界の重鎮として活躍した。旧姓は角中、別名は主一郎。 宮崎敬介は、慶應2年11月17日(1866年12月23日)、角中豊平の四男として生まれた。出身は熊本県天草郡・天草上島の島子村(有明町を経て現・天草市)。生まれは東京、または大阪ともされる。熊本県人・宮崎勇太郎の養子となり宮崎姓を称し、1895年(明治28年)に分家した。
2代目川崎 八右衛門(かわさき はちえもん、慶応2年4月5日… 2代目川崎 八右衛門(かわさき はちえもん、慶応2年4月5日(1866年5月19日) - 昭和22年(1947年))は、日本の実業家。初代川崎八右衛門、世舞子夫妻の次男。金三郎とも名乗った。川崎守之助の父。妻、幸子(こうこ)は、郷純造の娘。東京川崎財閥第2代当主。男爵。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
五十嵐 光彰(いがらし みつあき、 1865年9月2日(慶応… 五十嵐 光彰(いがらし みつあき、 1865年9月2日(慶応元年7月13日)- 1913年〈大正2年〉4月24日)は、明治時代に活躍した日本の実業家、ジャーナリスト、官吏。東京通信社社長・主幹(第2代)、警保局(現・警察庁)警部。 豊後国速見郡杵築(現大分県杵築市)で杵築藩士五十嵐光彬の二男として生まれ、1890年(明治23年)4月に家督を相続した。 大阪の英和学舎(現・立教大学)で学ぶ。テオドシウス・ティングによって、先の聖テモテ学校を復興して、1879年(明治12年)に開校された英和学舎は、1887年(明治20年)に東京の立教大学校と合併して閉校するまでのおよそ8年の間に、聖職者に元田作之進、近重利澄、小林彦五郎、実業家に大塚惟明、寺岡踏正(旧・平井忠介)、的場松太郎、山根虎二郎、五十嵐光彰、土屋元作、教育者に松村松年、土生靑(土生青)、栃谷六三郎、新聞記者に水田栄雄(水田南陽)、永松達吾、粟屋関一、医師に深澤鑒十郎(深澤鑑十郎)、官吏に久芳直介など、多くの名士を輩出した。
沢村 繁太郎(さわむら しげたろう、旧字体: 澤村 繁太郎、… 沢村 繁太郎(さわむら しげたろう、旧字体: 澤村 繁太郎、1865年 - 1905年4月22日)は、日本の外交官、通訳官、教育者、実業家、ジャーナリスト。 台湾総督府調査諜報員、大日本帝国陸軍通訳官、照暗女学校(現・平安女学院)第4代校長。台湾総督府では厦門や上海から迅速かつ質の高い情報を届けるなど、外交官や諜報員として活躍し、勝海舟とも交流したほか、教育者として厦門東亜書院を設立した。その他、上海時報の記者や、実業家として横浜正金銀行北京支店副支配人を務めた。英語のほか、中国語の大家として知られた多言語話者である。 1865年、近江国彦根藩士、澤村益二郎の長男として生まれる。 1879年(明治12年)頃、東京・築地の立教学校(立教大学の前身校の一つ)で学ぶ。
大塚 惟明(おおつか これあき、1864年5月7日(元治元年… 大塚 惟明(おおつか これあき、1864年5月7日(元治元年4月2日) - 1928年(昭和3年)12月28日)は、日本の実業家、政治家。南海電気鉄道株式会社元社長、讃岐電気軌道株式会社元取締役、大阪電球株式会社元取締役、阪神土地建物株式会社元取締役、元大阪市議。斬新な旅客サービスと電化推進で日本初の純民間鉄道を育てた。 1864年5月7日(元治元年4月2日)、肥後国(熊本県)の士族、大塚磨の長男として生まれる。父・大塚磨は、大阪に出て大阪商船社長、山陽鉄道取締役を務めた人物。惟明は北里柴三郎とは同郷で従兄弟関係にある。 1878年(明治11年)14歳で上京し東京府立第一中学校から大学予備門に進むが、キリスト教の影響を受け、大阪の英和学舎(立教大学の前身の一つ)、立教学校(立教大学の前身の一つ)、東京三一神学校(現・聖公会神学院)で学ぶ。
上山 英一郎(うえやま えいいちろう、1862年8月30日〈… 上山 英一郎(うえやま えいいちろう、1862年8月30日〈文久2年8月6日〉 - 1943年〈昭和18年〉9月7日)は、日本の実業家、篤農家、名望家。蚊取線香の発明者。また、「金鳥」の商標で知られる大日本除虫菊の創業者。向島亀森八幡神社「除虫菊神社」の祭神。ユーゴスラビア王国名誉領事。前名・秀之助。 1862年(文久2年)、紀伊国有田郡山田原村(現・和歌山県有田市)の蜜柑農家に生まれる。上山長八の四男で先代彌兵衛の養子となり、1878年、家督を相続し前名秀之助を改めた。上山家は日本有数の蜜柑農家であり、上山家の蜜柑は紀州山勘蜜柑(当主が上山勘太郎と称していたため)と呼ばれていた。 16歳の時に上京して神田の進徳館に入り学を修めて後、立教学校(現・立教大学)に転じて英国人に就いて語学を学び、さらに慶應義塾に教育を受けた。
木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、幼名・篤太郎、万延元年2月4… 木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、幼名・篤太郎、万延元年2月4日〈1860年2月25日〉 - 1926年〈大正15年〉3月25日)は、明治期の政治家、実業家。衆議院議員(7期)、群馬県会議員、群馬郡会議員、伊香保町会議員。伊香保電気軌道社長。高崎水力電気、伊香保鉱泉場組合、渋川紡績各取締役。族籍は群馬県平民。24代目武太夫。隠居後秀家を名乗る。 政治家として自由民権運動に関心をもち、廃娼運動に率先して取り組み、実業家としても群馬、伊香保の発展に尽力した。伊香保温泉の衛生環境と施設の改善を改良取締所(後の伊香保鉱泉場取締所、現・渋川伊香保温泉観光協会)頭取として推進し、伊香保を東京の代表的避暑地として定着させた。
岩谷 松平(いわや まつへい、1850年6月 - 1920年… 岩谷 松平(いわや まつへい、1850年6月 - 1920年3月10日)は、薩摩国(鹿児島県)出身の実業家、政治家。岩谷商会会長。別名、岩谷天狗。煙草事業で競合した村井兄弟商会の村井吉兵衛ととも、明治時代の「たばこ王」として知られる。日本の煙草産業の大立者として「たばこの父」と呼ばれるほか、卓越した広告センスを持ち、宣伝広告の在り方や印刷技術の発展にも大きな影響を与えたことから、「近代日本のPRの父」とも呼ばれる。 薩摩国薩摩郡隈之城郷東手村の向田町(現在の薩摩川内市)にて、郷士・岩谷卯之助の二男として生まれる。1858年に母と死別。1863年に父をも失った。両親同じく熱病で長兄も失い、家族を養うために小菓を作って近在を行商して3年ほど糊口を凌いだのち、酒造業と質屋を営む本家・岩谷松兵衛の長女さい子の婿養子となる。
武田 昌美(たけだ まさみ)は、日本の食育専門家、料理研究家… 武田 昌美(たけだ まさみ)は、日本の食育専門家、料理研究家、実業家。東京都出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。