加藤 睦之介(かとう むつのすけ、1883年〈明治16年〉8… 加藤 睦之介(かとう むつのすけ、1883年〈明治16年〉8月26日 - 1957年〈昭和32年〉10月20日)は、日本の教育家、政治家。衆議院議員(通算2期、1期目は立憲民政党・2期目は日本自由党)。埼玉県会議員。大宮市長(第3代)。大宮用達社長。大宮市(現・さいたま市)名誉市民。 埼玉県北足立郡加納村坂田(現・桶川市)の農家に生まれる。加藤晴一の三男。埼玉県師範学校卒業。小学校訓導を命ぜられ、桶川、草加、上尾各尋常高等小学校に奉職する。また青川尋常小学校訓導兼校長を命ぜられる。 教員を見切ると一時保険会社に入ったが間もなく浪人、満洲にまで放浪する。1918年、大宮町に定住する。料理並旅館業を営む。
上原 轍三郎(うえはら てつさぶろう、1883年8月25日 … 上原 轍三郎(うえはら てつさぶろう、1883年8月25日 - 1972年2月27日)は、日本の農業経済学者・教育者。専門は、拓殖学(植民学)・開発政策・北海道開拓史。学校法人北海学園理事長・北海学園大学初代学長・北海学園大学短期大学部初代学長等を歴任。 1883年、広島県山県郡南方村(現・北広島町)で生まれた。旧制日彰館中学(現広島県立日彰館高校)を経て、1905年に札幌農学校に入学。農学校では高岡熊雄に師事した。同校は東北帝国大学農科大学に改組となり、1912年に東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)を卒業。 1912年、東北帝国大学農科大学助手に採用された。1914年、東北帝国大学農科大学助教授に昇格。
松村 武雄(まつむら たけお、1883年(明治16年)8月2… 松村 武雄(まつむら たけお、1883年(明治16年)8月23日 - 1969年(昭和44年)9月25日)は、日本の神話学者。 1883年、熊本県生まれ。旧制熊本中学校、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文科に進学。英文科在学中から神話研究を志し、卒業論文も神話をテーマに選んだ。1910年、大学を卒業し、大学院へ進学。 1919年、東京帝国大学文学部の講師となり、ギリシア神話の講義を担当した。1921年、学位論文『古代希臘の文化に現れたる神々の宗教的葛藤の研究』を提出して、文学博士の学位を取得。1921年からは旧制浦和高等学校に英語教授として勤務。同年、國學院大學に招かれて神話学を講義。
武藤 七郎(むとう しちろう、1883年(明治16年)8月2… 武藤 七郎(むとう しちろう、1883年(明治16年)8月23日 – 1965年(昭和40年)3月7日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→立憲政友会)。 群馬県山田郡休泊村(現在の太田市)出身。1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、さらに大学院で学んだ。『東京日日新聞』記者、日本大学講師、呉市助役、東京市社会局総務課長、協調会情報部長・農村課長を歴任した。その間、ワシントンでの第1回国際労働会議、ジュネーヴでの第4回国際労働会議に労働代表顧問として参加した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
木口 重彦(きぐち しげひこ、出生名:九一、読み:きゅういち… 木口 重彦(きぐち しげひこ、出生名:九一、読み:きゅういち、1883年(明治16年)8月22日 - 不明 )は、日本の実業家である。軍需工場でもあった日本加工織布の取締役。岡山県総社市出身。 1883年(明治16年)8月、岡山県吉備郡久代村(現:総社市)で父・木口豊三郎、母・仲の長男として出生。1901年に旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)卒業を経て、早稲田大学政治経済学科へ入学し、1904年(明治37年)、20歳で卒業した。1928年(昭和3年)父の死去と共に、45歳で木口家の家督を相続し、名前を九一から重彦へ改名している。 大学卒業後、実業界に実を投じ、貿易会社であった第一洋行の取締役となり、その後、1918年(大正7年)35歳のときに太陽製帽の支配人を務めている。
中島 董一郎(なかしま とういちろう、1883年8月22日 … 中島 董一郎(なかしま とういちろう、1883年8月22日 - 1973年12月19日)は、愛知県西尾市出身の実業家。キユーピー創業者。
正宗 得三郎(まさむね とくさぶろう、1883年(明治16年… 正宗 得三郎(まさむね とくさぶろう、1883年(明治16年)8月22日 - 1962年(昭和37年)3月14日)は、日本の洋画家。 岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)に生まれる。実兄に小説家の正宗白鳥、国文学者の正宗敦夫、弟に植物学者の正宗厳敬がいる。1902年(明治35年)に日本画家を志して東京に出て寺崎広業に師事した。のち洋画に転じ、同年9月に東京美術学校(後の東京芸術大学)西洋画科に入学。1907年同校を卒業。在学中より青木繁グループに属す。1909年(明治42年)文展入選。 1914年(大正3年)から1916年(大正5年)および1921年(大正10年)から1924年(大正13年)にかけて、ヨーロッパに渡り本場の西洋絵画を学ぶ。
岩村 通世(いわむら みちよ、明治16年(1883年)8月2… 岩村 通世(いわむら みちよ、明治16年(1883年)8月21日 - 昭和40年(1965年)3月13日)は、日本の法曹。太平洋戦争開戦、ドーリットル空襲の時の日本の司法大臣であり法曹会幹部である。 1883年(明治16年)8月21日、東京府東京市神田区神保町に生まれた。男爵岩村通俊の五男。次兄の岩村俊武は海軍中将、従弟の林譲治は衆議院議長。 父通俊は当時司法大輔(司法次官)で、初代北海道長官に任せられて札幌に赴任。彼も幼少期を札幌で過ごした。1889年、父は農商務大臣就任および貴族院議員勅任により東京に戻ったが、彼は父の郷里宿毛に行き宿毛小学校で学んだ。吉田茂は同小学校の同窓生。 1893年(明治26年)、高知市の高知県立第一中学校(現在の高知県立高知追手前高等学校の前身)に入学。
中井金三(なかい きんぞう、1883年8月20日 - 196… 中井金三(なかい きんぞう、1883年8月20日 - 1969年2月9日)は、日本の洋画家。 前田寛治、河本緑石らとともに鳥取中部の芸術団体「砂丘社」を創設。倉吉中学(現・鳥取県立倉吉東高等学校)、倉吉高等女学校(現・鳥取県立倉吉西高等学校)で教員を務め、郷土の芸術文化の振興に貢献した。 1883年(明治26年)、鳥取県久米郡中河原村(現・倉吉市中河原)で、中井喜七郎の次男として生まれる。中井家は造り酒屋であった。1897年(明治30年)小鴨高等小学校を卒業し、上京。杉浦重剛の称好塾に門下生として入り、日本中学校(現・日本学園中学校・高等学校)を卒業。日本中学では真野紀太郞に教わる。白馬会研究所では和田英作、湯浅一郎から絵画の基礎を学ぶ。
園田 寛(そのだ ひろし、1883年(明治16年)8月18日… 園田 寛(そのだ ひろし、1883年(明治16年)8月18日 - ?)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 兵庫県に衆議院議員田艇吉の三男として生まれ、母方従弟・園田稔の跡を継いだ。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。専売局書記、拓殖局属、同書記官、文部省参事官、拓殖局調査課長、同庶務課長を務めた。その後、朝鮮総督府事務官・監察官に転じ、総督官房外事課長、同会計課長、財務局理財課長、山林部長を歴任し、1929年(昭和4年)に平安南道知事に就任した。 1931年(昭和6年)に退官した後は、横浜商工会議所理事を務めた。
宮脇 富(みやわき あつし、1883年8月18日 - 196… 宮脇 富(みやわき あつし、1883年8月18日 - 1968年5月29日)は、大正期から昭和期の日本の畜産学者。専門は畜産物理用学。学位は、農学博士(北海道帝国大学)。「宮脇冨」とも表記される。 島根県安濃郡鳥井村(現・大田市)出身。14歳で渡道。1902年、札幌農学校卒業。1902年、浅羽農場に就職。1907年、カンザス州立大学農科大学卒業。1907年、カンザス州立大学農科大学助教授。1911年、帰国後、東北帝国大学農科大学助教授。1918年、北海道帝国大学農科大学助教授。1919年、北海道帝國大学農学部助教授。1920年、北海道帝国大学にて農学博士を受く。1924年、北海道帝国大学農学部教授。
羽溪 了諦(はたに りょうたい、1883年〈明治16年〉8月… 羽溪 了諦(はたに りょうたい、1883年〈明治16年〉8月17日 - 1974年〈昭和49年〉8月13日)は日本の仏教学者、浄土真宗の僧侶。 福井県遠敷郡出身。旧姓・向嶋。号・青浜。1909年京都帝国大学文科大学哲学科を首席で卒業。同大学院を経て副手、1923年講師、1927年助教授、1935年教授。1921年龍谷大学教授を兼ね、1931年大谷大学教授を兼ねる。1934年「西域仏教ノ特徴」で京大文学博士。1936年龍谷大学長。1943年9月京大定年退官。京大、龍谷大、京都女子大学各名誉教授。浄土真宗本願寺派総務。1955年紫綬褒章、勲三等旭日中綬章受勲。1945年戦後のGHQ指導のもとの教育刷新委員会において教育基本法原案の骨組みを担当した第一特別委員会のメンバー。
岩本 素白(いわもと そはく 、1883年8月17日 - 1… 岩本 素白(いわもと そはく 、1883年8月17日 - 1961年10月2日)は、国文学者、随筆家。本名は堅一(けんいち)。東京府麻布に生まれる、父竹次郎は旧丸亀藩士で海軍勤務であった。
岩井 喜一郎(いわい きいちろう、明治16年(1883年)8… 岩井 喜一郎(いわい きいちろう、明治16年(1883年)8月17日 - 昭和41年(1966年)4月7日)は、日本の醸造技術者、実業家。京都府平民。 1909(明治42)年に、摂津酒造(現:宝ホールディングス)においてアルコール連続蒸留装置を考案。岩井式アルコール連続蒸留装置としての地位を確立。明治45年に新式焼酎(焼酎甲類)並びに、酒精含有飲料を全国に率先して製造開始、大正8年に合成清酒を開発し、工業的大量生産の創始となった。 明治35年(1902年)、大阪高等工業学校醸造学科卒業。明治42年(1909年)、合資会社摂津酒精醸造所に入社(後の摂津酒造)。大正9年(1920年)、摂津酒造 常務取締役兼技師長に就任。
新海 栄治(しんかい えいじ、明治16年(1883年)8月1… 新海 栄治(しんかい えいじ、明治16年(1883年)8月16日) - 昭和44年(1969年)12月22日)は、甲府市長(官選第15代、17代)。号は為水。 山梨県北巨摩郡篠尾村(現在の北杜市小淵沢町)に、父「富栄」、母「こう」の長男として生まれる。明治35年(1902年)に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、大正6年(1917年)1月に家督を相続し、父親の経営した甲府市白木町の「港屋酒造店」を継承。大正7年(1918年)に甲府市会議員に当選し同年5月28日から昭和5年(1930年)5月27日まで在任し、大正15年(1926年)6月12日から昭和5年(1930年)5月27日まで甲府市会議長を務めている。
青木 文一郎(あおき ぶんいちろう、1883年8月16日 -… 青木 文一郎(あおき ぶんいちろう、1883年8月16日 - 1954年7月2日)は、日本の哺乳類学者。台北帝国大学教授を経て、岐阜大学初代学長。 1883年、岐阜県厚見郡日置江村に生まれた。且格尋常小学校、岐阜中学校、第三高等学校を経て、1907年(明治40年)、東京帝国大学理科大学動物学科に入学。1910年に卒業し、同大学大学院に進学した。 1913年(大正2年)、九州帝国大学助手に採用され、解剖学教室に勤務。1915年5月に依願退職。1909年8月に高等学校教員免許を取得し、9月より旧制愛知医科大学(現名古屋大学)予科教授となった。1922年、同校講師に昇格。 1927年4月、台湾総督府高等林業楽校教授に任命され、同時に在外研究を命じられて2年間イギリス、フランス、イタリア、アメリカの4か国へ研究留学した。
堀 悌吉(ほり ていきち、1883年〈明治16年〉8月16日… 堀 悌吉(ほり ていきち、1883年〈明治16年〉8月16日 - 1959年〈昭和34年〉5月12日)は、日本の海軍軍人、実業家。日本飛行機 社長、大日本兵器社長、浦賀船渠(現:住友重機械工業)社長を歴任した。 海軍兵学校32期首席・海軍大学校16期次席。海軍軍人としての最終階級は海軍中将。海軍の現役を退いた後の1941年(昭和16年)に、法制局長官(現:内閣法制局長官)に擬されたが、辞退した。大分県杵築市出身。 天下の秀才を集める海軍兵学校の同期生たちをして「神様の傑作の一つ堀の頭脳」 と畏敬せしめる程の、桁外れの英才であった。 からの信頼が厚く、山本権兵衛(兵2期)・加藤友三郎(兵7期)の系譜を継ぐ人物として、いずれ海軍大臣に就任することが確実視されていた。
田辺 尚雄(たなべ ひさお、1883年8月16日 - 198… 田辺 尚雄(たなべ ひさお、1883年8月16日 - 1984年3月5日)は、日本の音楽学者、文化功労者。日本で初めて東洋音楽概説をまとめた。 1883年、東京府生まれ、東京帝国大学(現 東京大学)理学部物理学科卒。フランス人宣教師のノエル・ペリから作曲・音楽理論を学び、大学院で音響心理学を専攻する。 1920年より正倉院および宮内省(現 宮内庁)の楽器研究、東洋音楽研究に従事し、1929年に帝国学士院賞受賞。東京帝国大学、東京音楽学校で教鞭をとり、1936年東洋音楽学会を設立。戦後は武蔵野音楽大学教授に就任。多くの著書があり、啓蒙活動に功績があった。田辺禎一名義の艶笑随筆もある。1983年より音楽学の業績に対して田辺尚雄賞が授与されている。
川淵 洽馬(かわぶち こうま、1883年〈明治16年〉8月1… 川淵 洽馬(かわぶち こうま、1883年〈明治16年〉8月15日 - 1946年 〈昭和21年〉10月1日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、高知市長、衆議院議員。財団法人板垣伯銅像記念碑建設同志会第7代会長。旧姓は宮崎。姓は川渕とも表記される。 高知県高岡郡窪川町(現・四万十町)生まれ。宮崎文次の二男として生まれ、川淵龍起の養子となる。第一高等学校を経て、1910年(明治43年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年(明治45年)、内務省に入り警視庁警部に任官。 以後、警視庁警視、月島警察署長、台湾総督府警視、山形県警察部長、広島県警察部長、京都府警察部長、警視庁書記官・警務部長、警察講習所教授兼内務省参事官などを歴任。
鷲沢 与四二(わしざわ よしじ、1883年(明治16年)8月… 鷲沢 与四二(わしざわ よしじ、1883年(明治16年)8月14日 - 1956年(昭和31年)10月1日)は、衆議院議員(立憲民政党→国民同盟)。ジャーナリスト。実業家。 長野県小県郡上田町(現在の上田市)出身。鷲沢由太郎の長男として生まれる。旧制上田中(現在の長野県上田高等学校)を経て、1908年(明治41年)、慶應義塾大学政治科を卒業。慶大在学中は野球部監督を務めた。毎日電報社記者、慶應義塾大学講師を務めた後、時事新報社北京特派員として中国に渡る。北京で日刊英字新聞『ノース・チャイナ・スタンダード』を創刊したほか、北京新聞社社長、北京燕塵社社長、時事新報社顧問を務めた。その後、雑誌『ベースボール』を発行し、社長を務めた。
谷口 弥三郎(たにぐち やさぶろう、1883年(明治16年)… 谷口 弥三郎(たにぐち やさぶろう、1883年(明治16年)8月13日 - 1963年(昭和36年)8月19日)は、日本の政治家、産婦人科医師、医学者。熊本県立医学専門学校(現熊本大学)教授、久留米大学長。日本医師会会長、参議院議員(3期)。「不良な子孫の出生を防止する」として、太田典礼、加藤シヅエに一時提携をもちかけながらその影響を排除しつつ、福田昌子らと共に優生保護法の成立に深く関わった。また、熊本県におけるハンセン病患者隔離政策の中心人物である。 1883年(明治16年)8月13日、香川県三豊郡大野原町(現観音寺市)に生れる。1902年(明治35年)に私立熊本医学校(現・熊本大学医学部)を卒業。
富田 勇太郎(とみた ゆうたろう、1883年8月12日 - … 富田 勇太郎(とみた ゆうたろう、1883年8月12日 - 1946年2月24日)は、日本の官僚、銀行家。大蔵省理財局長、満州興業銀行初代総裁。
伊藤 誠哉(いとう せいや、1883年8月7日 - 1962… 伊藤 誠哉(いとう せいや、1883年8月7日 - 1962年3月28日)は、植物学者、菌類学者、植物病理学者、元北海道大学総長。農学博士。新潟県新潟市生まれ。 新潟県立新潟中学校を経て東北帝国大学農科大学(現北海道大学農学部)卒業。稲熱病の防除法を研究。その後も日本に点在する全菌類の調査研究をする等、日本の植物病理学の発展に尽力した。1950年(昭和25年)、日本学士院(当時の第二部自然科学部門)会員になる。新会員一同は、昭和天皇から皇居に招かれたが伊藤は欠席した。1959年(昭和34年)文化功労者。 主著に『日本菌類誌』等。
今西 卓(いまにし たく、1883年〈明治16年〉8月7日 … 今西 卓(いまにし たく、1883年〈明治16年〉8月7日 - 1933年〈昭和8年〉4月23日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。愛知県豊橋市の電力会社豊橋電気に技師長として入社し、後に支配人へと昇進。同社が解散した後は東三河地方の電気・鉄道事業に関わった。岐阜県出身。 今西卓は、1883年(明治16年)8月7日、岐阜県池田郡池野村(現・揖斐郡池田町池野)の豪農今西文造の長男として生まれた。幼少時より俊才で、温知学校を経て岐阜県大垣中学校へ入学、開学以来となる好成績で卒業した。次いで京都の第三高等学校へ進み、1905年(明治35年)7月第二部工科を卒業。最終的に1908年(明治41年)7月、京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業した。
助川 喜四郎(すけがわ きしろう、1883年(明治16年)8… 助川 喜四郎(すけがわ きしろう、1883年(明治16年)8月7日) - 1963年(昭和38年)12月11日)は、日本の医師・ウイルス学者。 1915年(大正4年)、神奈川県衛生試験所(現・神奈川県衛生研究所)にはいり、狂犬病を研究。1921年(大正10年)「助川梅野法」とよばれる犬体注射法を完成。天然痘病原体の鶏卵内培養にも成功した。1928年(昭和3年)、土浦市に昭和病院及び助川研究所を設立。 大正4、5年頃、狂犬病流行の兆を呈し、被害が広がる折、梅野信吉より病理学の権威であった草間滋を通じ、助川喜四郎へ狂犬病に関する相談があった。当時、パスツールによる人体に狂犬病予防注射する方法が行われていたが、応用接種しても発病する事があるため、更に進んで犬体に予防接種する研究を行う事となった。
新開 渧観(しんかい ていかん、1883年(明治16年)8月… 新開 渧観(しんかい ていかん、1883年(明治16年)8月5日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。福岡県八幡市長。神奈川県小田原町長。茨城県日立市長。 熊本県熊本市出身。1900年(明治33年)に第五高等学校に入学し、1903年(明治36年)に卒業。その後、東京帝国大学法科大学に入学し、1908年(明治41年)に卒業し、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。群馬県警視、同事務官、栃木県理事官、宮崎県警察部長、岩手県警察部長、愛知県警察部長などを歴任。1921年(大正10年)からは石川県内務部長を務めた。 退官後の1926年(大正15年)には八幡市長に就任した。1935年(昭和10年)には小田原町長に選ばれ、さらに1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで日立市長を務めた。
宮城 音五郎(みやぎ おとごろう、1883年8月3日 - 1… 宮城 音五郎(みやぎ おとごろう、1883年8月3日 - 1967年9月14日)は、日本の工学者、政治家。 東北帝國大学教授、宮城県知事、東北工業大学学長などを歴任した。 1883年(明治16年)埼玉県出身。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、1908年(明治41年)東京帝國大学卒業。 仙台高等工業学校(現・東北大学工学部)教授となった後、1917年(大正6年)から翌年にかけてアメリカ合衆国に留学した。帰国後は東北帝國大学の工学部長などを務めて1945年(昭和20年)に退官、1946年から1950年までは宮城県仙台第一中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)の校長を務めた。1952年(昭和27年)から1956年(昭和31年)まで宮城県知事を一期務めた。
小野 武夫(おの たけお、1883年(明治16年)8月3日 … 小野 武夫(おの たけお、1883年(明治16年)8月3日 - 1949年(昭和24年)6月5日)は、日本の農業経済学者。法政大学教授。専門は農民経済史。 大分県で生まれる。1901年に大分県立農学校を卒業して代用教員となり、数年後には日露戦争に従軍する。1906年に上京し、農商務省に勤務しながら、1912年7月に法政大学専門部政治学科を卒業する。 1913年に帝国農会に入り、次いで1920年に農商務省に移って永小作慣行の本格的な調査を行なう。その調査結果は1924年に「永小作論」として刊行され、その精緻な研究は当時の学界から高く評価された。1925年に「郷士制度史論」によって農学博士(東京帝国大学)。
大森 佳一(おおもり かいち、1883年〈明治16年〉8月2… 大森 佳一(おおもり かいち、1883年〈明治16年〉8月2日 - 1945年〈昭和20年〉3月25日)は、日本の政治家、内務官僚。貴族院議員、官選県知事、男爵。位階は従三位。勲等は勲三等。 本籍・静岡県、東京府出身。男爵・大森鍾一の長男として生まれる。学習院高等科を経て、1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入り千葉県属となる。1911年(明治44年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、群馬県属、滋賀県理事官、滋賀県警察部長、栃木県警察部長、岩手県内務部長、山形県内務部長、茨城県書記官・内務部長、群馬県書記官・内務部長などを歴任。1927年(昭和2年)、父の死去に伴い男爵を襲爵。
秋山 虎六(あきやま とらろく、1883年〈明治16年〉8月… 秋山 虎六(あきやま とらろく、1883年〈明治16年〉8月2日 - 1952年〈昭和27年〉4月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。佐賀県佐賀市巨勢町出身。 旧制佐賀中学校から海軍兵学校に進学。1905年(明治38年)5月27日、翌28日にかけて日本海海戦に参戦する。同年11月28日、海軍兵学校33期卒業。同期に豊田貞次郎、豊田副武、有地十五郎、小野弥一、中村亀三郎など。 各軍艦勤務をへて海軍砲術学校高等科に入校。1912年(大正元年)英国出張。第一次世界大戦・日独戦争では英国と共に海軍陸戦重砲隊中隊長として、ドイツ帝国が清国から租借し、権益を持つ山東省青島の戦いで奮戦した。1916年11月、海軍大学校(甲種14期)を卒業。
小柳 篤二(おやなぎ とくじ、1883年〈明治16年〉8月1… 小柳 篤二(おやなぎ とくじ、1883年〈明治16年〉8月1日 - 1985年〈昭和60年〉12月23日)は、日本のドイツ文学者、ドイツ語学者。元東京高等学校独語主任教授、元早稲田大学教授。日出学園名誉園長。 新潟県新潟区学校町通(現 新潟市中央区学校町通)出身。1903年(明治36年)3月に新潟中学校を卒業、9月に第一高等学校大学予科理科に入学するも、病気で中退。 新潟中学校の5年先輩の櫻井天壇の所によく遊びに行き、ゲーテやシラーの話を聞いたり、ドイツ語の詩を教えられたりしたことがきっかけで、ドイツ語の道に入ろうと思うようになる。 1909年(明治42年)3月に東京外国語学校独語学科を卒業、1912年(明治45年)に東京帝国大学文科大学文学科選科を修了。
八木 林作(やぎ りんさく、1883年(明治16年)8月1日… 八木 林作(やぎ りんさく、1883年(明治16年)8月1日 - 1974年(昭和49年)6月11日)は、日本の内務官僚。官選島根県知事、尼崎市長。 京都府天田郡出身。八木新造の六男として生まれる。第三高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、北海道庁事務官補・同理事官、栃木県理事官、兵庫県事務官、朝鮮総督府道事務官、山梨県警察部長、高知県内務部長、石川県内務部長、兵庫県書記官・警察部長、長崎県書記官・内務部長などを歴任。 1927年5月、島根県知事に就任。1928年7月、第四次産業計画を決定。
河合 博之(かわい ひろゆき、1883年〈明治16年〉8月 … 河合 博之(かわい ひろゆき、1883年〈明治16年〉8月 – 1933年〈昭和8年〉8月14日)は、日本の外交官。駐ポーランド公使。 神奈川県出身。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。領事官補、外交官補、大使館三等書記官、同二等書記官、同一等書記官を歴任した。1921年(大正10年)、帰国して外務書記官・参事官となった。1923年(大正12年)より駐ベルギー大使館参事官、駐フランス大使館参事官を務めた。1931年(昭和6年)に駐ポーランド公使に就任した。在任中に死去。
横山 英太郎(よこやま えいたろう、1883年(明治16年)… 横山 英太郎(よこやま えいたろう、1883年(明治16年)7月31日 - 1966年(昭和41年)6月13日)は、日本の工学者(専攻は電気工学、電気通信)。 福井県坂井郡三国町(現坂井市)生まれ。福井県立福井中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学を卒業。逓信省電気試験所に入所し、鳥潟右一・北村政治郎と世界初の無線電話機を発明した。 1914年(大正3年)12月16日から1916年(大正5年)4月10日まで、鳥羽・神島・答志島間で無線電話の実用試験を行い成功、無線電話の実用化としては世界初の偉業であった。この世界初の実用無線電話の名は開発した3人の頭文字(T:鳥潟 Torigata Y:横山 Yokoyama K:北村 Kitamura)からTYK式無線電話と名付けられた。
浅賀 長兵衛(あさか ちょうべえ、1883年(明治16年)7… 浅賀 長兵衛(あさか ちょうべえ、1883年(明治16年)7月30日 - 1945年(昭和20年)4月13日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、弁護士。 東京府北豊島郡滝野川村(後の東京都北区)出身。第一高等学校を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、弁護士を開業。滝野川町会議員、北豊島郡会議員、東京府会議員、同参事会員に選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し当選。続く第15回衆院選でも再選を果たす。その他、帝国種苗殖産株式会社取締役を務めた。 日本福祉大学教授でソーシャルワーカーの浅賀ふさは妻。東京で小栗飛行学校を開いた小栗常太郎は義兄、その実父で酒造や銀行業、紡績業などを手広く営んだ豪商の小栗富治郎は義父に当たる。
大神田 軍治(おおかんだ ぐんじ、1883年(明治16年)7… 大神田 軍治(おおかんだ ぐんじ、1883年(明治16年)7月30日 - 1943年(昭和18年)1月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 山梨県北都留郡巌村(上野原町を経て現上野原市)出身。籍文学舎で漢学を学んだ。 芝区会議員、東京市会議員、同参事会員、同議長、東京府会議員、同参事会員、帝都復興委員長などを経て、1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員総選挙で東京1区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。同年の東京府会市部会の正副議長選挙では、三木武吉が推薦した者を押しのける形で大神田が推薦した立候補者が当選したため、三木との間で激論を繰り広げた。 1934年(昭和9年)、第2次東京市会疑獄(瓦斯疑獄・市会議長選挙買収事件・市長選挙買収事件)により東京地方裁判所で懲役1年2ヵ月・追徴金6500円の判決を、翌年の控訴審で懲役10ヵ月・追徴金3500円の判決を受け、1936年(昭和11年)の大審院判決で刑が確定。
神尾 茂(かみお しげる、1883年(明治16年)7月29日… 神尾 茂(かみお しげる、1883年(明治16年)7月29日 - 1946年(昭和21年)5月10日)は、日本の衆議院議員。ジャーナリスト。 福島県石川郡川東村(現在の須賀川市)出身。1906年(明治39年)に早稲田大学政治経済科を卒業し、1909年(明治42年)に東亜同文書院商務科を卒業した。大阪朝日新聞社南京通信員となり、上海特派員、北京特派員を歴任した。さらに大阪朝日新聞社の支那部長、東亜部長、編集局顧問、論説委員を務めた。また陸軍梅機関(影佐禎昭機関)に配属され、大使館嘱託も兼ねた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を得て福島2区(当時)から出馬し、当選を果たした。
前田 夕暮(まえだ ゆうぐれ、1883年(明治16年)7月2… 前田 夕暮(まえだ ゆうぐれ、1883年(明治16年)7月27日 - 1951年(昭和26年)4月20日)は、神奈川県出身の歌人。本名は前田洋造(洋三とも)。長男の前田透も歌人であり、歌誌「詩歌」を引き継いだ。 尾上柴舟に師事。歌集『収穫』(1910年)で自然主義歌人として牧水と並称された。その後北原白秋らと「日光」を創刊。『水源地帯』(1932年)では、自由律短歌に傾くなど、生涯新境地を求めた。 現・神奈川県秦野市にあたる大住郡南矢名村の豪農の家に生まれ、代々庄屋や戸長を務める家柄で、「油屋」の屋号で食用油や醤油の販売もしていた。父の前田久治は県会議員や大根村の村長を務めた厳格な人物で、母のイセは控えめな性格、夕暮を長男として三男四女の家族であった。
玉井 潤次(たまい じゅんじ、1883年(明治16年)7月2… 玉井 潤次(たまい じゅんじ、1883年(明治16年)7月27日 - 1958年(昭和33年)12月27日)は、日本の弁護士、政治家。日本社会党衆議院議員(1期)。 新潟県中蒲原郡早通村(現:新潟市)で、大地主・玉井貞太郎の二男として生まれた。1910年東京帝国大学独法科卒。卒業後は弁護士の業務に従事し、日本無産党に加わり、新潟県議、新潟市議となる。その後、人民戦線事件で検挙される。 戦後は日本社会党の結成に加わり、1946年の第22回衆議院議員総選挙で新潟県第1区(当時は大選挙区制)から立候補して当選する。翌1947年の第1回新潟県知事選挙に日本社会党公認で立候補する。1回目の投票で1位の岡田正平に次ぐ得票となったが、法定得票数に達した者がいなかったため、岡田との決選投票となった。
福原 信三(ふくはら しんぞう、1883年(明治16年)7月… 福原 信三(ふくはら しんぞう、1883年(明治16年)7月25日 - 1948年(昭和23年)11月4日)は、日本の実業家、写真家。資生堂の創業者・福原有信の息子であり、株式会社資生堂の初代社長。弟に写真家の福原路草がいる。 東京府京橋区出雲町(現・東京都中央区銀座)で資生堂薬局(当時)の福原家に生まれる。名前の「三」が示す通り福原家の三男であるが、長男の信一は身体が弱く、また二男の信二も幼少期に他界してしまったため、後継ぎとして育てられた。 中学時代は画家を志し、日本画家の石井鼎湖に入門するなどしたが、父の希望に従い薬学の道に進んだ。千葉医学専門学校(現・千葉大学医学部)を卒業後、1908年(明治41年)に米国・コロンビア大学薬学部に留学。
池田 長康(いけだ ながやす、1883年(明治16年)7月2… 池田 長康(いけだ ながやす、1883年(明治16年)7月24日 - 1962年(昭和37年)5月23日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・千坂。 本籍・岡山県。内務官僚・千坂高雅の六男として生まれ、男爵・池田長準の養子となる。養父の死去に伴い、1913年(大正2年)4月10日、男爵を襲爵した。 第一高等学校を経て、1911年(明治44年)7月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年、三井銀行に入行。以後、日本鉄工取締役、富士護謨工業取締役、山城銀行頭取、桑船銀行取締役、萩電灯取締役などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1932年(昭和7年)7月9日まで2期在任した。
矢吹 省三(やぶき しょうぞう / せいぞう、1883年(明… 矢吹 省三(やぶき しょうぞう / せいぞう、1883年(明治16年)7月23日 - 1950年(昭和25年)12月27日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府出身。旧幕臣・陸軍中将、矢吹秀一の三男として生まれる。旧制第一高等学校を経て、1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。父の死去に伴い1910年(明治43年)1月19日、男爵を襲爵。 横浜正金銀行書記、富士生命保険 (株) 取締役、東京タクシー自動車 (株) 取締役、東京貿易 (株) 社長などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され公正会に属して活動した。
小橋 三四子(こはし みよこ、1883年(明治16年)7月2… 小橋 三四子(こはし みよこ、1883年(明治16年)7月23日 - 1922年(大正11年)5月11日)は、日本の明治期のジャーナリストである。1914(大正3)年、日本で最初の婦人面といわれる『読売新聞よみうり婦人付録』の編集主任となった。。 1883年(明治16年)、静岡県で小橋光次郎の次女として生まれた。5歳で上京し、東京府立第一高等女学校(現・東京都立白鷗高等学校)に入学した。1901年(明治34年)、創設されたばかりの日本女子大学校(現・日本女子大学)国文学部に第一回生として入学した。この頃キリスト教に入信した。 1904年(明治37年)、日本女子大学校を卒業した。同校の卒業生組織として桜楓会が創設され、同校初代校長の成瀬仁蔵の要請に応えて橋本八重子(柳八重子)とともに同窓会誌 『家庭週報』 『家庭』 の編集人を務めた。
坂口 武市(明治16年(1883年)7月23日 - 昭和33… 坂口 武市(明治16年(1883年)7月23日 - 昭和33年(1958年)3月5日))は、日本の実業家、政治家。旧姓井上。米子商工会議所会頭、県会議員、米子市議会議員を務めた。鳥取県平民。 鳥取県人・井上豊治郎の二男、井上喜代太の弟、初代平兵衛の養子。坂口家は藩政時代“沢屋”と称し、綿、木綿仲買業を営んでいた。初代平兵衛が、「坂口財閥」と呼ばれるように家業を発展させた。 明治39年(1906年)7月早稲田大学法学科卒業。山陰電気常務取締役に就任。明治42年(1909年)、分家して一家を創立す。 大正15年(1926年)8月合併により広島電気(中国電力の前身)取締役山陰支社長となる。 大正2年(1913年)9月の町会議員当選以来、昭和2年(1927年)3月まで13年7か月にわたり町勢伸展に尽くし、同6年(1931年)6月に市会議員当選と共に市会議長に選任され、同10年(1935年)6月再選まで通算20有余年議員の職にあり、その間2期県会議員に当選した。
今井 健彦(いまい たけひこ、1883年(明治16年)7月2… 今井 健彦(いまい たけひこ、1883年(明治16年)7月22日 - 1966年(昭和41年)1月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、文部政務次官、商工政務次官、農林参与官。ジャーナリスト。歌人の今井邦子は妻。坂本龍馬暗殺の犯人とされる今井信郎の三男。 静岡県榛原郡初倉村(現在の島田市)に村長今井信郎の三男として生まれる。『中央新聞』『中外商業新報』記者を経て、福井日報社社長となった。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回衆議院議員総選挙まで7回連続当選を果たした。その間、犬養内閣で農林参与官を、平沼内閣で商工政務次官を、小磯内閣で文部政務次官を務めた。
大錦 大五郎(おおにしき だいごろう、1883年7月22日 … 大錦 大五郎(おおにしき だいごろう、1883年7月22日 - 1943年5月16日)は、愛知県海部郡鍋田村稲元(現:愛知県弥富市稲元)出身の大相撲力士(京都相撲・大坂相撲)。第28代横綱。本名は鳥井 大五郎(とりい だいごろう)。 1883年7月22日に愛知県海部郡鍋田村稲元(現:愛知県弥富市稲元)で大工だった山田松次郎の次男として生まれた。3月22日、3月20日の誕生日諸説ある。幼少期から怪力で、地元の子供相撲でも年上の子供を相手にしても負けなかったため、「稲元の金太郎」という異名を取った。父の元で修業の後に京都で車大工の職人となったが、体格と怪力を見込まれ、その評判を聞きつけた力士の勧めで、1898年に伊呂波部屋(京都相撲)へ入門した。
南 薫造(みなみ くんぞう、1883年(明治16年)7月21… 南 薫造(みなみ くんぞう、1883年(明治16年)7月21日 - 1950年(昭和25年)1月6日)は、広島県賀茂郡内海町(現呉市安浦町)出身の画家。 東京美術学校西洋画科出身。1907年〜1910年にかけて、イギリスで学ぶ。文展、帝展、新文展、日展で活躍し、1932年から43年にかけては東京美術学校の教授を務めた。油画家、水彩画家として知られるが、版画の制作にも携わっていた。晩年は郷里の安浦町で暮らし、瀬戸内海を描き続けた。 ウィキメディア・コモンズには、南薫造に関するカテゴリがあります。
横尾 龍(よこお しげみ、男性、1883年(明治16年)7月… 横尾 龍(よこお しげみ、男性、1883年(明治16年)7月21日 – 1957年(昭和32年)1月7日)は、日本の実業家、政治家。通商産業大臣(第4代)。参議院議員(1期)。 佐賀県小城郡芦刈町(現小城市)に生まれる。佐賀県尋常中学校唐津分校、第五高等学校を経て、1907年東京帝国大学工科大学造船科を卒業、三菱長崎造船所に入社する。その後鈴木商店に転職し、1921年神戸製鋼播磨造船工場工作課長、後に工場長、1929年播磨造船所専務取締役となる。1943年社長に就任。 戦後の1949年、兵庫県選挙区で行われた参議院補欠選挙に民主自由党より立候補し当選。1950年第3次吉田第1次改造内閣にて通商産業大臣として入閣する。
三木 翠山(みき すいざん、明治16年〈1883年〉7月20… 三木 翠山(みき すいざん、明治16年〈1883年〉7月20日 - 昭和32年〈1957年〉3月25日)は、大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家、版画家。 竹内栖鳳の門人。本名三木斎一郎。兵庫県社町(現加東市)で、服部寿七と母やすの4男として生まれる。幼少より絵を好み、紺屋を営んでいた三木利兵衛(号南石)から画を習う。明治33年(1900年)前後に竹内栖鳳に師事し、竹杖会において日本画の研鑽を積む。なお、翠山の紹介で栖鳳に入門した森月城は従弟にあたる。明治35年(1902年)利兵衛の養嗣子だった又蔵の養子となり、同時に同家のじんと結婚する。大正2年(1913年)第七回文展に「朝顔」を出品して初入選。
来栖 七郎(くるす しちろう、1883年(明治16年)7月2… 来栖 七郎(くるす しちろう、1883年(明治16年)7月20日 - 1928年(昭和3年)5月24日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 茨城県北相馬郡北文間村(現在の龍ケ崎市)出身。日本法律学校を経て、東京政治学校を卒業。二六新報記者、同理事、帝国通信記者、自由通信社理事などを歴任。さらに殖民協会理事長を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。次の第16回衆議院議員総選挙でも再選された。