松本 彦七郎(まつもと ひこしちろう、1887年6月9日 -… 松本 彦七郎(まつもと ひこしちろう、1887年6月9日 - 1975年9月1日)は、日本の動物学者、地質学者、古生物学者、人類学者、考古学者、博物学者。 大正時代に、仙台湾周辺の貝塚において層位学的な発掘調査を行い、科学的・実証的な発掘調査法と編年学の基礎をつくった。戦後、花泉遺跡の調査を行い、ハナイズミモリウシ(Lephobison hanaizumiensis)の命名者としても著名である。日本哺乳動物学会名誉会員。 動物分類学を出発点に、初めて詳細な土器の型式分類を試み、その紋様構成の系統について進化論的な新しい見方を示したほか、地質学における分層発掘の方法を取り入れ、堆積層によって土器の紋様・厚さ・器種の構成比が異なってくることを見出し、日本最初の層位学的な研究を実施、考古学における層位論研究の開祖となった。
沢村 五郎(さわむら ごろう、1887年6月9日 - 197… 沢村 五郎(さわむら ごろう、1887年6月9日 - 1977年6月5日)は日本の牧師、神学教育者。関西聖書神学校創設者。 1887年6月9日 熊本県飽託郡城山村(現在の熊本市西区)に生まれる。熊本中学校(現・熊本県立熊本高等学校)卒業後、正教会伝道学校で学び、同教会の伝道師になる。1916年9月、日本伝道隊聖書学校に入学。バークレー・バックストン、パゼット・ウィルクスに師事した。 1922年、渡英。エディンバラ聖書学校に学ぶ。 1924年、日本伝道隊の要請により神戸御影に聖書学舎(現在の関西聖書神学校)を設立、校長になる。 1941年日本基督教団の成立の際には第7部の牧師になり、第7部の参与(代表)に選出されたが、第二次世界大戦後に日本基督教団を離脱。
白鳥 敏夫(しらとり としお、1887年(明治20年)6月8… 白鳥 敏夫(しらとり としお、1887年(明治20年)6月8日 - 1949年(昭和24年)6月3日)は、大正、昭和期の日本の外交官・政治家。戦前期における外務省革新派のリーダー的存在で、日独伊三国同盟の成立に大きな影響を与えた。 東洋史学者の白鳥庫吉は叔父。外務大臣を務めた外交畑の長老石井菊次郎も叔父にあたる。また外務官僚の出淵勝次は義兄(妻の姉の夫)にあたる。息子に白鳥正人元北陸財務局長。 千葉県の長生郡茂原町(現在の茂原市)に生まれた。東京・日本中学、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月、東京帝国大学法科大学経済学科卒。 1913年(大正2年)10月に高等文官試験・外交官及び領事官試験に合格。
犬丸 徹三(いぬまる てつぞう、1887年〈明治20年〉6月… 犬丸 徹三(いぬまる てつぞう、1887年〈明治20年〉6月8日 - 1981年〈昭和56年〉4月9日)は、日本の実業家。元帝国ホテル社長。元日本ホテル協会会長。元東京モノレール社長。 元帝国ホテル社長犬丸一郎の父。 石川県能美郡根上村字福島(現能美市)に生まれた。父・犬丸六右衛門、母・いその長男。 小松の芦城小学校高等科、旧制小松中学校(現・小松高校)を経て東京高商(現・一橋大学)に入学。 1908年文部省が専門部廃止の方針を明らかにしたため、全学生がこれに猛反対し商科大学昇進を叫んで同盟休校敢行にまで発展した事件が起きた。犬丸は級友に選出され、ストライキ指導者の一人として校長に直接談判したり、文部省へ押しかけ大臣に面会を要請してひかなかった。
加藤 泊治郎(かとう はくじろう、1887年(明治20年)6… 加藤 泊治郎(かとう はくじろう、1887年(明治20年)6月8日 - 1951年(昭和26年)2月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓、三隅。 山口県出身。三隅熊五郎の五男として生れ、加藤家の養子となる。山口中学校を経て、明治43年(1910年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し、長崎重砲大隊付となる。大正5年(1916年)8月、兵科を憲兵科に移し憲兵中尉となり、憲兵練習所で学んだ。以後、名古屋憲兵、青島憲兵、豊橋憲兵、浜松憲兵、姫路憲兵、京都憲兵、台湾憲兵隊、牛込憲兵の各分隊長を歴任。昭和5年(1930年)8月、憲兵司令部員となり、さらに中国政府応聘、憲兵司令部第3課長、麹町憲兵分隊長、宇都宮・延吉・奉天の各憲兵隊長、関東憲兵隊司令部総務部長、東京憲兵隊長などを経て、昭和15年(1940年)8月、陸軍少将に進級した。
中山 福蔵(なかやま ふくぞう、1887年6月7日 - 19… 中山 福蔵(なかやま ふくぞう、1887年6月7日 - 1978年10月13日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(3期)。 熊本県玉名郡江田村出身。中山勝平の二男。7歳のときに父が亡くなり、母に連れられ鹿児島県の志布志に移る。 1903年志布志尋常高等小学校を卒業し、長崎県の鎮西学館(鎮西学院)入学。1905年鎮西学館より大阪府立富田林中学校 (旧制)2年に編入し、さらに1907年(明治40年)奈良県立郡山中学校 (旧制)へ転校。1908年に第七高等学校造士館へ入学し、1911年 7月に卒業。同年東京帝国大学法学部に入学し、1918年卒業。大学卒業後、東京で弁護士となるが、東大の同級生と法廷で争うことを避けて大阪に弁護士事務所を開き、大阪弁護士会所属で活動。
福邑 正樹(ふくむら まさき、1887年6月5日 - 197… 福邑 正樹(ふくむら まさき、1887年6月5日 - 1974年)は、大分県東国東郡出身の内務官僚、政治家。官選島根県知事。 1887年、東国東郡竹田津(現在の国東市)で代々酒屋を営む福邑家の次男として生まれる。大分県立中学校、第五高等学校卒。1913年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。 1914年内務省に入省。埼玉県警視、同北葛飾郡長、高知県理事官、新潟県理事官、和歌山県理事官、同書記官、秋田県書記官・警察部長、埼玉県書記官・警察部長、静岡県書記官・警察部長、和歌山県書記官・内務部長、熊本県書記官・内務部長、新潟県書記官・内務部長、福岡県書記官・内務部長などを歴任。1932年、島根県知事となる。
石井 鶴三(いしい つるぞう、1887年(明治20年)6月5… 石井 鶴三(いしい つるぞう、1887年(明治20年)6月5日 - 1973年(昭和48年)3月17日)は、日本の彫刻家、版画家、洋画家。 画家鈴木鵞湖の孫、画家石井鼎湖の三男、石井柏亭の弟として東京府下谷区仲御徒士町(現・台東区上野)に生まれる。洋画を不同舎にて小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、1905年創刊の雑誌『平旦』にウィリアム・ニコルソンの作品を模倣した自画自刻による木版画『虎』を掲載した。1910年に彫刻を学んで東京美術学校卒、1911年文展で「荒川岳」が入賞、1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品、二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞、明治の末年から山本鼎と交流を深め、創作版画の先駆者として知られるようになり、1918年、日本創作版画協会を結成、1919年、木版画『日本風景版画集』第9集(東京近郊)を、1920年、木版画『日本風景版画集』第10集(日本アルプス)を刊行した。
稲毛 金七(いなげ きんしち、1887年(明治20年)6月5… 稲毛 金七(いなげ きんしち、1887年(明治20年)6月5日 - 1946年(昭和21年)3月14日)は、日本の教育哲学者。早稲田大学教授、同高等学院教授、同評議員。号は詛風。 山形県東置賜郡漆山村(現在の南陽市)出身。郷里の高等小学校を卒業後、代用教員、準教員、小学校正教員を務めた。1906年(明治39年)、上京して早稲田大学文学部哲学科に入学し、1907年(明治40年)に修身科の中等教員検定に、1911年(明治44年)に教育科の中等教員検定に合格した。1912年(明治45年)に早稲田大学を卒業した後は中央公論社、内外教育評論社に関係した後は、雑誌「教育実験界」の主筆となったが、後に自己経営に移し「創造」と改題した。
増田 秀吉(ますだ ひできち、1887年(明治20年)6月4… 増田 秀吉(ますだ ひできち、1887年(明治20年)6月4日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。台湾総督府官僚。台北市尹、新竹州知事。埼玉県北足立郡桶川町長。 埼玉県出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。秋田県属、同警部・理事官、同警視、同雄勝郡長、台湾総督府警視、同事務官、台南州警務部長、台北州警務部長、内務局土木課勤務、警務局警務課勤務、台北市尹、殖産局農務課長、台湾総督府税関長、基隆税関長、新竹州知事を歴任した。 戦後は桶川町(現在の桶川市)の町長を務めた。
桑原 四郎(くわはら しろう、1887年(明治20年)6月4… 桑原 四郎(くわはら しろう、1887年(明治20年)6月4日 - 1966年(昭和41年)4月22日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 岐阜県出身。1907年(明治40年)5月31日に陸軍士官学校(19期)を卒業し、同年12月26日に工兵少尉に任ぜられ、工兵第九大隊付となる。1910年(明治43年)11月30日に工兵中尉に昇進し、1911年(明治44年)11月27日に陸軍砲工学校(17期)高等科を優等で卒業。更に員外学生として在学し、1917年(大正6年)8月6日には工兵大尉に昇進。ヴェルサイユ条約の締結に軍関係者として携わり、1920年(大正9年)9月13日付で、国際連盟陸、海、空軍問題常設諮問委員会帝国空軍代表者随員を仰せつけられる。
蓬萊 宗兵衛(ほうらい そうべえ、1887年〈明治20年〉6… 蓬萊 宗兵衛(ほうらい そうべえ、1887年〈明治20年〉6月4日あるいは4月10日 - 没年不明)は日本の実業家、地主、兵庫県多額納税者。東播合同銀行頭取。前名は英男。 兵庫県加東郡福田村出身。先代・宗兵衛の二男。1896年、家督を相続し前名・英男を改め襲名する。閑谷中学校出身。1910年、早稲田大学大学部政治経済学科卒業。 醤油醸造業、農業の傍ら銀行の重役を兼ねた。東播銀行に入り、後取締役に推された。1926年、同行が他7銀行と合併して東播合同銀行と改称するに及んでその取締役に任じ1933年、同行頭取に就任した。借家借地調停委員、兵庫県下三郡醤油醸造組合長をつとめた。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。
木幡 行(こわた つよし、1887年6月2日 - 1977年… 木幡 行(こわた つよし、1887年6月2日 - 1977年8月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。福島県出身。従四位勲三等功四級。 1887年(明治20年)6月2日に福島県標葉郡両竹村で木幡清茂の次男として生まれる。木幡家は代々相馬中村藩の藩士であったが没落し、極貧の少年時代を過ごした。7、8歳の頃に日清戦争が勃発し、出征や凱旋などを見聞きしていた木幡は、将来軍人になることを密かに決意する。しかし、家は困窮して学費を出せる状況ではなかったために「学費は一切親に頼らぬ。教科書は必ず筆写する。」ことを心に誓い、福島県立第四中学校に入学し、入学から卒業まで特待生を続け、傍らに新聞配達などをして学費を稼いだ。
村地 信夫(むらち のぶお、1887年(明治20年)6月1日… 村地 信夫(むらち のぶお、1887年(明治20年)6月1日 - 1941年(昭和16年)10月22日)は、日本の内務・警察官僚。官選滋賀県知事、秋田市長。 東京府出身。村地正治の四男として生まれる。第二高等学校を卒業。1912年、東京帝国大学法科大学(独法)を卒業。1913年(大正2年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。1914年(大正3年)内務省に入省し和歌山県属となる。 以後、和歌山県伊都郡長、同那賀郡長、鹿児島県理事官、秋田県警察部長、福岡県書記官・警察部長、内務省書記官・警保局高等課長、同保安課長、警視庁官房主事などを歴任。 1934年(昭和9年)10月、滋賀県知事に就任。水産課分室の設置、県観光協会の設置、工場排水問題解決のための基礎調査実施、治水・造林規定の制定などを推進。
赤井 米吉(あかい よねきち、1887年6月1日 - 197… 赤井 米吉(あかい よねきち、1887年6月1日 - 1974年2月26日)は、日本の教育者。 石川県金沢市出身。広島高等師範学校(現・広島大学)卒。旧姓は山本。ヘレン・パーカーストによるドルトン・プランを紹介。1924年に明星学園、1946年金沢女子専門学園(現・学校法人金沢学院大学)を創立した。 1974年2月26日、消化管出血のため東京都武蔵野市の森本病院にて死去。86歳。 1887年(明治20年)、石川県石川郡野村字法島(現在の金沢市)で三男として生まれる。 1893年(明治26年)、野南尋常小学校に入学。1897年(明治30年)、同校卒。同時に石川県尋常師範学校付属小学校高等科に入学。
丸山 千代(まるやま ちよ、1887年5月28日 - 196… 丸山 千代(まるやま ちよ、1887年5月28日 - 1967年4月11日)は、日本の聾唖教育者、社会事業家、ソーシャルワークの実践者。丸山ちよと表記されることがある。 山形県米沢市で、丸山孝一郎の四女として生まれる。姉と妹が聾唖者であったことから聾唖教育を志し、山形県立米沢女学校(現在の山形県立米沢東高等学校)を経て日本女子大学校に進学した。1909年3月に同校を卒業した後は、教職に就くも病気のため郷里に戻った。その後、父親の死を契機に上京する。日本女子大学校の同窓会組織である桜楓会が運営を模索していた託児所経営に、1913年から主任保母として参加し、貧しい婦人の労働機会を確保するとともにその子弟が教育を受ける機会を広げた。
新井 京太(あらい きょうた、1887年〈明治20年〉5月2… 新井 京太(あらい きょうた、1887年〈明治20年〉5月26日 - 1969年〈昭和44年〉5月19日)は、大正・昭和期の実業家・政治家。衆議院議員(3期)。位階は正五位。 群馬県多野郡保美濃山村(現・藤岡市保美濃山)出身。17歳のとき医学を志して上京、建築業に従事しながら苦学する。1920年(大正9年)協調会社会政策学院を卒業。土木建築請負業を営む。田島応用加工(株)顧問を務めた。 千住町会議員、足立区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員、同参事会員、同社会委員長、東京都議会議員、同参事会員を務めた。 第24回衆議院議員総選挙(1949年(昭和24年)1月執行)東京都第6区から選出された聴濤克巳の公職追放、中島守利の死去に伴い1952年(昭和27年)3月に実施された補欠選挙で初当選。
飯塚 国五郎(國五郎、いいづか くにごろう、1887年〈明治… 飯塚 国五郎(國五郎、いいづか くにごろう、1887年〈明治20年〉5月25日 - 1938年〈昭和13年〉9月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 群馬県北甘楽郡富岡町(現・富岡市)出身。農業・飯塚理八の長男として生まれる。富岡中学校(現群馬県立富岡高等学校)を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。 1919年(大正8年)11月から1920年(大正9年)11月までシベリア出兵に従軍し、ニコリスク・ウスリースキー(現・ウスリースク)付近の戦闘で戦功を挙げ、功五級金鵄勲章を受章した。1920年8月、歩兵大尉に昇進し歩兵第66連隊中隊長に就任。
仲吉良光(なかよし りょうこう、1887年(明治20年)5月… 仲吉良光(なかよし りょうこう、1887年(明治20年)5月23日 - 1974年(昭和49年)3月1日)は、沖縄県出身のジャーナリスト、政治家。後半生を沖縄の日本復帰運動に挺身し、「復帰男」「沖縄復帰の父」と呼ばれた。 首里儀保村に生まれる。1908年、沖縄県中学校を卒業し、早稲田大学英文科に入学する。大学在学中はキリスト教と文学に傾倒した。1912年、早稲田大学を卒業し、『琉球新報』記者となり、のちに『沖縄朝日新聞』を創設した。1919年に上京し、『東京日日新聞』記者となる。1921年にはアメリカ合衆国に移住し、1923年、ロサンゼルスの羅府新報社に入社し、1925年には帰国し、東京日日新聞社に再入社する。
長尾 優(ながお まさる、1887年(明治20年)5月22日… 長尾 優(ながお まさる、1887年(明治20年)5月22日 - 1975年(昭和50年)10月21日)は、日本の大正・昭和期における歯科医大学教授・医学博士。位階は正三位。東京医科歯科大学初代学長。香川県出身。 1887年(明治20年)5月22日、長尾優は現在の香川県丸亀市に生まれる。丸亀中学校(現・香川県立丸亀高等学校)、第一高等学校を経て1913年(大正2年)12月東京帝国大学医科大学を卒業し、病理学教室を経験した後石原久が教授を務める東京帝国大学医科大学歯科学教室に入局した。1916年(大正5年)9月にはペンシルベニア大学歯学部へ自費留学し、歯科医療技術を学び、また歯科器材の重要性に注目し機材製造会社を積極的に見学し、1918年(大正7年)5月に帰国した。
鈴木 忠治郎(すずき ちゅうじろう、1887年(明治20年)… 鈴木 忠治郎(すずき ちゅうじろう、1887年(明治20年)5月21日 - 1964年(昭和39年)7月14日)は、大正・昭和期の実業家、発明家。裾野市名誉市民第一号。生涯で470件余の特許を得ており、代表例として1913年(大正2年)の加熱麦圧搾機が挙げられる。全国油糧機器製造協議会会長を務めた。 1887年(明治20年)、静岡県駿東郡小泉村(現・裾野市佐野)出身。1905年(明治38年)、独立して生糸繭の売買業を開始する。その後、商売も順調に進み、沼津に店を持つに至ったが、胃腸疾患・風邪から肺・胸の病気を併発し、3年間に及ぶ闘病生活を余儀なくされた。また、1913年(大正2年)の沼津大火の際には、店だけでなく穀物などの商品を保管してあった倉庫も焼失してしまう。
河合 逸治(かわい いつじ、1886年〈明治19年〉6月20… 河合 逸治(かわい いつじ、1886年〈明治19年〉6月20日 - 1964年〈昭和39年〉3月13日)は、大正 - 昭和期の英語学者、教育者。三大予備校の一つ、河合塾の創始者として知られる。第五高等学校、名古屋高等商業学校および名城大学・名古屋商科大学教授。 静岡県引佐郡細江町(現・浜松市浜名区)出身。第七高等学校造士館、東京帝大英文科卒後、大正3年に第五高等学校の教授となる。欧米留学からの帰国後は、名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)教授の職に就く。 1933年には名古屋市昭和区の名古屋市立名古屋商業学校(現在は向陽高等学校が立地)前にあった自宅に「河合英学塾」を開設。1937年になり、「河合塾」へと改称した。
原口 鶴子(はらぐち つるこ、旧姓:新井、1886年〈明治1… 原口 鶴子(はらぐち つるこ、旧姓:新井、1886年〈明治19年〉6月18日 - 1915年〈大正4年〉9月26日)は、大正時代に活躍した日本の心理学者。Ph. D. を取得した最初の日本人女性である。医学博士(M.D.)取得日本人女性は以前に岡見京子がいたが、Ph.D.は全分野を含めても初であった。 1886年、群馬県北甘楽郡一ノ宮町(現・富岡市)に、新井広三郎・たねの次女として生まれる。戸籍上の名は新井つる。新井家は「朝日屋」と号する豪農であった。父・広三郎は地元の自由民権運動家で代議士・清水永三郎とも往来があった。つるは地元の抜鉾尋常小学校、一ノ宮尋常高等小学校に学んだ。1902年に二年飛び級して群馬県立高等女学校(現・群馬県立高崎高等女子高等学校)を卒業。
小林 澄兄(こばやし すみえ、1886年(明治19年)6月1… 小林 澄兄(こばやし すみえ、1886年(明治19年)6月18日 - 1971年(昭和46年)7月14日)は、日本の教育学者。慶応義塾大学名誉教授。長野県上伊那郡東箕輪村(現・箕輪町)出身。小林頼次の三男。号は乳木生(にゅうもくせい)。 中学から東京に出て、早稲田中学に1年在学してから、慶應義塾普通部2年に転入学。1910年(明治43年)慶応義塾大学部文学科卒。学生時代は、文学を志し、同人雑誌の編集や創作活動に加わった。高山樗牛と大町桂月に心酔した。その後、教育学に関心を持つようになり、教育学を川合貞一と稲垣末松に、教育史及び教育学史を石田新太郎から学ぶ。 1910年、『慶応義塾学報』(後の『三田評論』)の編集事務担当となり、翌年、慶應義塾普通部教員となる。
菅原 英伍(すがわら えいご、1886年(明治19年)6月1… 菅原 英伍(すがわら えいご、1886年(明治19年)6月15日 – 1964年(昭和39年)2月4日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。弁護士。 宮城県栗原郡一迫村(現在の栗原市)出身。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。弁護士を開業し、仙台弁護士会長、東北弁護士連合会会長を歴任した。また宮城県会議員、同参事会員に選ばれた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第16回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他、斎川電気株式会社社長、仙台電気工業株式会社取締役、広瀬電力株式会社監査役などを務めた。
谷口 久次郎(たにぐち きゅうじろう、1886年6月15日 … 谷口 久次郎(たにぐち きゅうじろう、1886年6月15日 - 1973年8月9日)は日本の政治家。滋賀県知事を2期8年務めた。『百姓知事』と親しまれた。 滋賀県西浅井郡庄村(のち同郡永原村→伊香郡永原村→同郡西浅井村、現・長浜市西浅井町庄)に生まれる。早稲田大学通信教育部法科を卒業し、故郷永原村の村会議員・村長を務め、県農協連合会長・県農業会議長等を歴任し、県会議員を2期務めた。1958年(昭和33年)に滋賀県知事選に立候補し、自由民主党反主流派(堤派)と社会党の支持と農業団体を背景にした選挙戦において、元農林大臣で現職知事の森幸太郎を破り第39代滋賀県知事に就任した。以降2期知事職にあり、1973年(昭和48年)8月9日老衰により自宅で死去した。
山崎 猛(やまざき たけし、1886年(明治19年)6月15… 山崎 猛(やまざき たけし、1886年(明治19年)6月15日 - 1957年(昭和32年)12月27日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議長(第38代)、運輸大臣、衆議院議員などを務めた。 茨城県水戸市出身。長倉松平家家老の家筋である山崎直の四男。11歳で家族と共に上京し、麻布中学、旧制第一高等学校を呼吸器の病気で中退した後、静岡県の代用教員から徳富蘇峰の招きで京城日報の記者に。さらに大連へ移って満洲日報社長を務める。東洋拓殖の副総裁であった、立憲政友会の政治家野田卯太郎の知遇を得、姪婿となるなど政治の基礎を作った。 原内閣で中橋徳五郎文部大臣の秘書官を務めた後、1920年(大正9年)の総選挙で立憲政友会公認で埼玉県第4区から総選挙に立候補し初当選、以後衆院議員を10期務め、廣田内閣では農林政務次官に就任。
中島 弥団次(中島 彌團次、なかじま やだんじ、1886年〈… 中島 弥団次(中島 彌團次、なかじま やだんじ、1886年〈明治19年〉6月13日 - 1962年〈昭和37年〉12月21日)は、日本の政治家、大蔵官僚、実業家。衆議院議員。 高知県安芸郡野根村(現東洋町野根)で、海運業・中島弥平次、也久夫妻の長男として生まれる。野根尋常高等小学校、江陽学舎、高知県立中学海南学校を経て、1908年7月、第六高等学校文科甲類を卒業。上京して濱口雄幸の書生となる。1909年9月、東京帝国大学法科大学政治学科に入学し、1912年7月に卒業。 1912年7月、大蔵省雇となり、1913年11月8日、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し青森県属となる。1915年1月、大蔵省へ転じ専売局書記に任じられ高崎専売支局勤務となる。
内藤 多仲(ないとう たちゅう、1886年〈明治19年〉6月… 内藤 多仲(ないとう たちゅう、1886年〈明治19年〉6月12日 - 1970年〈昭和45年〉8月25日)は、日本の構造家・建築構造技術者・建築構造学者・一級建築士(登録番号第17200号)、建築家。「耐震構造の父」と称されている。名古屋テレビ塔や東京タワーなど、鉄塔の設計を多く手がけ、「塔博士」とも呼ばれている。日本建築学会長、日本地震工学振興会会長などを歴任。 山梨県中巨摩郡榊村(現南アルプス市曲輪田)出身。旧制甲府中学(現・山梨県立甲府第一高等学校)、第一高等学校を経て東京帝国大学(現在の東京大学)入学。最初は造船学を専攻していたが、日露戦争後の造船不況を考慮して建築学に転向。佐野利器に師事した。
二代目 伊藤 忠兵衛(にだいめ いとう ちゅうべえ、1886… 二代目 伊藤 忠兵衛(にだいめ いとう ちゅうべえ、1886年(明治19年)6月12日 - 1973年(昭和48年)5月29日)は、日本の実業家。伊藤忠財閥の2代目当主である。従三位勲一等瑞宝章。幼名は精一(せいいち)。 父・初代伊藤忠兵衛が呉服店として創業した伊藤本店を発展させ、伯父・六代目伊藤長兵衛が創業した伊藤長兵衛商店と合併し、伊藤忠商事と丸紅という2つの総合商社の基礎を築いた。 二代目忠兵衛はカタカナの使用を推進するカナモジ運動の草分けとしても知られ、1920年(大正9年)1月からカナモジカイの創立委員となり、日向利兵衛(東洋製糖)、片岡安、下村海南、平生釟三郎らとともにこの運動の有力メンバーとなり、1938年(昭和13年)10月には財団法人カナ文字会の理事となる。
岡本 一平(おかもと いっぺい、1886年〈明治19年〉6月… 岡本 一平(おかもと いっぺい、1886年〈明治19年〉6月11日 - 1948年〈昭和23年〉10月11日)は、日本の画家・漫画家・文筆家・仏教研究家。妻は歌人・小説家の岡本かの子。長男は芸術家の岡本太郎。 義弟(妹の夫)に洋画家の池部鈞がおり、甥は俳優の池部良。 津藩に仕えた儒学者、岡本安五郎の次男で書家の岡本可亭(本名:良信(喜信)、通称:竹二郎)と母・正の長男として北海道函館区汐見町に生まれる。東京・大手町の商工中学校から東京美術学校西洋画科に進学し、藤島武二に師事する。この時美校の同級生、中井金三の仲介で大貫カノ(岡本かの子)と知り合い、後に和田英作の媒酌で2人は結婚するが岡本家に受け入れられず、2人だけの新居を構えた。
松田 三徳(まつだ みのり、1886年(明治19年)6月11… 松田 三徳(まつだ みのり、1886年(明治19年)6月11日 - 1962年(昭和37年)12月19日)は、明治末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・小島。 香川県三野郡、のちの三豊郡詫間村(詫間町を経て現三豊市詫間町)で小島家に生まれ、1897年(明治30年)松田寛吾の養子となり家督を相続した。1909年(明治42年)慶應義塾大学部法律科を卒業した。一年志願兵として入隊し陸軍三等主計に任官し除隊した。 台湾総督府秘書官、同官房秘書課長を務めた。帰郷して農業、塩業を営む。讃岐産業取締役、讃岐米肥社長、日本マグネシユーム取締役などを務めた。 政界では香川県会議員、所得税調査委員、相続税調査委員、官有財産調査会委員、小作制度調査会委員などを務めた。
山田 耕筰(やまだ こうさく、Kósçak Yamada、1… 山田 耕筰(やまだ こうさく、Kósçak Yamada、1886年(明治19年)6月9日 - 1965年(昭和40年)12月29日)は、日本の作曲家、指揮者。山田 耕作としても知られる。
武内 義雄(たけうち よしお、1886年(明治19年)6月9… 武内 義雄(たけうち よしお、1886年(明治19年)6月9日 - 1966年(昭和41年)6月3日)は、日本の東洋学者・中国哲学研究者。字は「誼卿」、「述庵」。東北帝国大学名誉教授。戦後の皇太子明仁親王に倫理(修身)を教えた。 1886年、三重県内部村小古曽(現四日市市)に真宗高田派の学僧・武内義淵の子として生まれた。第三高等学校で学び、京都帝国大学文科大学(現在の京大文学部)に入学。狩野直喜による「清朝学術沿革史」講義に深い感銘を受け、在学中はその指導を受けた。1910年、京大文科・支那哲学史講座を卒業。 卒業後は一度帰郷するが、勉学の志のため大阪に出て、大阪府立図書館に勤務。西村天囚と知り合い、漢文愛好者による修練会「景会」に加わった。
西 久光(にし ひさみつ、1886年(明治19年)6月9日 … 西 久光(にし ひさみつ、1886年(明治19年)6月9日 - 1970年(昭和45年)7月3日)は、大正から昭和時代の日本の物理学者。 西豊吉郎の三男として石川県に生まれる。1910年(明治43年)東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)実験物理学科卒業。 1914年(大正3年)第五高等学校(現・熊本大学の前身)教授、1919年(大正8年)九州帝国大学助教授、同年から1922年(大正11年)まで欧米留学を経て、同大工学部教授となった。1933年(昭和8年)理学博士。1939年(昭和14年)同大理学部教授、翌年理学部長を経て、1946年(昭和21年)定年退官、名誉教授となる。ほか、1949年(昭和24年)新設の佐賀大学長、のち名誉教授。
今井 登志喜(いまい としき、1886年6月8日 - 195… 今井 登志喜(いまい としき、1886年6月8日 - 1950年3月21日)は、西洋史家、東京帝国大学名誉教授。 1886年、長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)で生まれた。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を卒業し、第一高等学校に進学。東京帝国大学文科大学史学科に進み、1911年に卒業した。 1916年、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)教諭に就いた。1920年より第一高等学校教授。1923年、東京帝国大学文学部助教授となり、同年から1926年まで文部省在外研究員として欧米に研究留学。1930年、教授に昇格した。また、1939年10月には文学部長に就任した。1947年、東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となった。
後藤 是山(ごとう ぜざん、本名: 祐太郎、1886年6月8… 後藤 是山(ごとう ぜざん、本名: 祐太郎、1886年6月8日 - 1986年6月4日)は、日本の文化人。熊本市名誉市民。
亀井 高孝(かめい たかよし、1886年6月8日 - 197… 亀井 高孝(かめい たかよし、1886年6月8日 - 1977年10月4日)は、日本の西洋史学者。
橋本 富三郎(はしもと とみさぶろう、1886年6月8日 -… 橋本 富三郎(はしもと とみさぶろう、1886年6月8日 - 1955年5月3日)は、滋賀県甲賀郡水口町(現・甲賀市水口町)出身の文化人、実業家、地方政治家。 1886年6月8日、甲賀郡水口町に生まれる。早稲田大学政治経済学科卒業後、倉敷紡績へ入社。万寿工場人事課長を歴任し、アメリカ視察も経験する。 帰国後は、倉敷中央病院事務長、倉敷絹織(現・クラレ)工場長を務め、その後、合同新聞(現・山陽新聞)社長となる。 戦後、1945年11月より、岡山市長に就任し、1947年まで1期務めたが、公職追放となる。 引退後は、俳句や書画道を楽しんだ。号は「魚青」である。 1955年5月3日死去。享年70。死後、「魚青句鈔」が出版されている。
石田 利作(いしだ りさく、1886年(明治19年)6月6日… 石田 利作(いしだ りさく、1886年(明治19年)6月6日 - 1967年(昭和42年)3月6日)は、日本の教育者、郷土史家、行政官。『岡崎市戦災復興誌』(1954年)の責任編纂者として岡崎の郷土史に多大な功績を残した。 愛知県碧海郡矢作村(現・岡崎市)に生まれる。1907年(明治40年)3月、愛知第二師範学校(現・愛知教育大学)卒業。同年4月、碧海郡刈谷町の刈谷第一尋常小学校(現・刈谷市立亀城小学校)に赴任。いくつかの小学校勤務を経たのち、大正期に南設楽郡と知多郡の視学を歴任。 1923年(大正12年)、岡崎市投尋常小学校(現・岡崎市立根石小学校)長に就任。1924年(大正13年)、岡崎市梅園尋常高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)長に就任。
田下 政治(たしも まさじ / せいじ、1886年(明治19… 田下 政治(たしも まさじ / せいじ、1886年(明治19年)6月5日 - 1953年(昭和28年)9月4日)は、日本の政治家。衆議院議員、新潟県南蒲原郡加茂町長。 新潟県南蒲原郡加茂町(現加茂市)で、田下元平の長男として生まれたが、幼くして父が死去し、祖父・五郎七(海産物商・町御用掛)に養育された。1904年、北海道庁立札幌中学校を卒業。1905年、一年志願兵として村松歩兵第30連隊に入隊し、歩兵少尉に昇進して除隊した。 1910年、加茂町収入役に就任。1922年1月、加茂町会議員に当選し、その後、同議長に就任。1923年、新潟県会議員に当選し、同議長も務めた。1940年、大政翼賛会が組織され新潟県参与に就任し、大政翼賛会南蒲原郡協力会議長、県中央協力会議員、加茂町翼賛壮年団長などを歴任。
富本 憲吉(とみもと けんきち、1886年(明治19年)6月… 富本 憲吉(とみもと けんきち、1886年(明治19年)6月5日 - 1963年(昭和38年)6月8日)は、日本の陶芸家。人間国宝、文化勲章受章者。尾竹紅吉は妻。映画監督・テレビ演出者の富本壮吉は長男。 大阪府平群郡安堵村(現・奈良県生駒郡安堵町)の大地主の家に生まれ、幼少より絵を学ぶ。東京美術学校図案科に入学して建築、室内装飾を専攻。在学中にウィリアム・モリスの工芸思想に影響され1908年(明治41年)、卒業前にロンドンへ私費留学(留学中に卒業)。ヴィクトリア&アルバート美術館に日参し、アーツ・アンド・クラフツの作品にふれる。ロンドンで建築家・新家孝正と出会い、写真助手としてインドを巡る。実家から帰国命令が届いたため1910年(明治43年)帰国。
高井 商二(たかい しょうじ、1886年(明治19年)6月4… 高井 商二(たかい しょうじ、1886年(明治19年)6月4日 - 1931年(昭和6年)3月14日)は、日本の醸造家、政治家。衆議院議員(滋賀県第四区選出、当選1回)。 滋賀県蒲生郡日野町出身。1909年、神戸高等商業学校卒業。陸軍に入り、三等主計となる。醤油醸造業を営み、日野町教育会理事、学務委員、日野実科高等女学校(現・滋賀県立日野高等学校)商議員、蒲生郡議、日野町主事となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において滋賀4区から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1931年死去。
石坂 泰三(いしざか たいぞう、1886年(明治19年)6月… 石坂 泰三(いしざか たいぞう、1886年(明治19年)6月3日 - 1975年(昭和50年)3月6日)は、日本の財界人、経営者。逓信省を退官、第一生命保険に入社。第一生命保険、東京芝浦電気社長を経て、第2代経済団体連合会(経団連)会長(在任、1956年(昭和31年)2月21日 - 1968年(昭和43年)5月24日)。経団連会長を4期、12年務めた。経団連会長の異名 「財界総理」は石坂泰三を嚆矢とする。正三位勲一等。 1886年(明治19年)6月3日、東京に石坂義雄・こと夫妻の三男として生まれる。父・義雄は埼玉県大里郡奈良村の地主の子として生まれ、東京へ出て家庭教師や書記等の仕事をしていた。とくに裕福というほどでもないが、平和な中産家庭だったという。
安川 第五郎(やすかわ だいごろう、1886年(明治19年)… 安川 第五郎(やすかわ だいごろう、1886年(明治19年)6月2日 - 1976年(昭和51年)6月25日)は、日本の実業家。安川電機社長、九州電力会長、日本原子力発電初代社長、日本原子力研究所初代理事長、日本原子力産業会議会長、1964年東京オリンピック組織委員会会長。
丸山 永畝(まるやま えいほ、本名・忠次郎、1886年〈明治… 丸山 永畝(まるやま えいほ、本名・忠次郎、1886年〈明治19年〉6月2日 - 1962年〈昭和37年〉5月10日)は、日本の画家。 1886年(明治19年)6月2日、長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)に生まれる。幼少期を諏訪湖や蓼科山・八ヶ岳といった大自然に囲まれた中で過ごし、自然愛を育む。1906年(明治39年)、20歳で上京し、荒木寛畝に入門。絵画の基礎を学び、自らの画風を固めて行く。「晩秋の図」・「水辺夏色」がそれぞれ日本美術協会展(1911年)・日本画会展(1912年)で入選。大正以降、写生のため日本各地に足を運ぶようになる。 1918年(大正7年)、荒木十畝の門下であった幸(旧姓・荒木、画号・菜畝、1895年〈明治28年〉8月27日 - 1986年〈昭和61年〉)と結婚。
林屋 亀次郎(はやしや かめじろう、1886年〈明治19年〉… 林屋 亀次郎(はやしや かめじろう、1886年〈明治19年〉6月1日 - 1980年〈昭和55年〉5月4日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(3期)。 現在の石川県金沢市出身。製茶業を営む父新兵衛の8男として生まれる。金沢商業学校卒業。 1930年(昭和5年)金沢市内に当時としては数少ない鉄筋コンクリートの商業ビルを建設、テナントとして三越金沢店を入居させる。1935年(昭和10年)三越との契約切れを待って同年9月に丸越百貨店を開業するが、1943年(昭和18年)12月21日に戦時統合により宮市大丸百貨店と合併し大和百貨店となり会長に就任。このとき社長に就任したのが後に第3回参議院議員通常選挙では現職閣僚ながら落選した際の相手候補となった井村徳二であった。
秋岡 保治(あきおか やすじ、 1886年〈明治19年〉6月… 秋岡 保治(あきおか やすじ、 1886年〈明治19年〉6月1日 - 1971年〈昭和46年〉3月7日 )は日本の教育者であり神官である。岡山県倉敷市出身。 1886年(明治19年)岡山県窪屋郡大島村(現:倉敷市)に生まれる。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業後、國學院大學予科を経て、東京神官講習所である國學院大學へ入学する。1910年(明治43年)國學院大學国史科を卒業した。 卒業後、同年に旧制千葉中学(現:千葉県立千葉高等学校)へ教諭として赴任。1912年(明治45年)4月に埼玉県金鑚神社の宮司となり、1913年(大正2年)には、一年志願兵として大日本帝国陸軍歩兵第41連隊へ所属した。
近藤 重三郎(こんどう じゅうさぶろう、1886年6月1日 … 近藤 重三郎(こんどう じゅうさぶろう、1886年6月1日 - 1953年7月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1914年、東京帝国大学農芸化学科卒。岡崎市会議員、同参事会員、岡崎商業会議所会頭、所得税調査委員、伊勢屋、伊豆水電各(株)取締役社長、岡崎電燈(株)ほか数社の取締役、燧洋電気(株)ほか数社の監査役となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において愛知3区から憲政会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1953年死去。
六代目 大谷 友右衛門(おおたに ともえもん、1886年(明… 六代目 大谷 友右衛門(おおたに ともえもん、1886年(明治19年)6月1日 - 1943年(昭和18年)9月10日)は大正から昭和戦前期に活躍した歌舞伎役者。屋号は明石屋。 定紋は丸十、替紋は水仙丸。本名は青木 八重太郎(あおき やえたろう)。 歌舞伎役者中村鷺助(本名青木喜之助)の子として東京浅草に生まれる。父が下回りの役者だったことから幼くして歌舞伎の世界に入り、五代目中村歌右衛門に入門。明治24年(1891年)、浅草座で中村翫兵衛を名乗って初舞台。明治31年(1898年)6月に中村翫、翌年1月に初代中村おもちゃと名乗り、初代中村吉右衛門や初代助高屋小傳次らの子供芝居に出る。 明治35年(1902年)6月、市村座において中村駒助を襲名。