松倉 公憲(まつくら ゆきのり、1946年 - )は、日本の… 松倉 公憲(まつくら ゆきのり、1946年 - )は、日本の地理学者。専門は地形学。筑波大学名誉教授。元日本地形学連合会長。理学博士。 青森県八戸市出身。1969年東京教育大学理学部地学科地理学専攻卒業。1971年東京教育大学大学院理学研究科地理学修士課程修了。1972年東京教育大学理学部地学科専攻生修了。1976年東京教育大学大学院理学研究科地理学専攻博士課程修了、理学博士、東京教育理学部大学助手、筑波大学地球科学助手併任。1977年筑波大学地球科学系助手。1981年筑波大学地球科学系講師。1988年筑波大学地球科学系助教授。1997年筑波大学地球科学系教授。2004年日本地理学会理事。2009年日本地形学連合会長。
池田 修一(いけだ しゅういち、1945年2月12日 - 2… 池田 修一(いけだ しゅういち、1945年2月12日 - 2006年7月3日)は、将棋棋士。花村元司九段門下。棋士番号102。青森県八戸市出身。 1960年に15歳で奨励会に入る。 1964年 - 1965年の頃に肺結核を発症し、1966年(昭和41年)の7月から1968年(昭和43年)5月まで故郷で治療入院していた。当時三段で無収入であったが、医療費は医師の温情で出世払いとなり、生活費は親友でプロになりたての中原誠四段(当時)が支えていた。病気復帰の翌年である1969年に四段昇段。 1972年・1982年の王位戦で本戦リーグ入り。1982年には、米長邦雄永世棋聖(当時棋王)を破るなど活躍した。
中村 隆司(なかむら りゅうじ、1945年1月25日 - 2… 中村 隆司(なかむら りゅうじ、1945年1月25日 - 2024年7月5日)は、日本の実業家。日清製粉代表取締役社長や、オリエンタル酵母工業代表取締役社長、製粉協会会長などを務めた。 青森県八戸市出身。青森県立八戸高等学校を経て、1967年東北大学経済学部卒業、日清製粉入社。製粉業務部長を経て、1995年取締役製粉業務部長に昇格。1996年から1998年まで製粉開発部長を兼務した。2000年常務取締役物流部長。2001年に日清製粉グループ本社が設立されると同社常務取締役及び日清製粉専務取締役に就任。2004年から日清製粉代表取締役社長を務め、2006年から2007年までは製粉協会会長を兼務した。
林 倬史(はやし たかぶみ、1944年10月23日 - ) … 林 倬史(はやし たかぶみ、1944年10月23日 - ) は、日本の経営学者。学位は、経済学博士(立教大学・1991年)。立教大学名誉教授。 北京生まれ。青森県八戸市出身。 1968年慶應義塾大学商学部卒業。1970年同大学院商学研究科修士課程修了、1974年同博士課程単位取得満期退学。1991年「多国籍企業と知的所有権 特許と技術支配の経済学」で立教大学から経済学博士の学位を取得。 1982年福岡大学商学部専任講師、1985年助教授。1990年立教大学経済学部経営学科助教授、1992年同教授、2006年経営学部教授、2010年名誉教授。同年国士舘大学政経学部教授、2011年経営学部教授、2015-19年客員教授。
増成隆士(ますなり たかし、1942年10月4日- 2022… 増成隆士(ますなり たかし、1942年10月4日- 2022年1月9日)は、美学者、筑波大学名誉教授。 青森県八戸市生まれ。東京大学文学部美学科卒業、同大学院博士課程中退、ミュンヘン大学で美学・哲学を学ぶ。東大文学部助手、筑波大学助教授。83年『思考の死角を視る-マグリットのモチーフによる変奏』でサントリー学芸賞受賞。のち教授、2006年定年退任、名誉教授。2022年1月9日没。叙正四位、瑞宝中綬章追贈。
33代 木村 庄之助(さんじゅうさんだい きむら しょうのす… 33代 木村 庄之助(さんじゅうさんだい きむら しょうのすけ、本名:野澤 要一〈のざわ よういち、旧姓は石橋〉、1942年3月28日 - )は、大相撲の立行司の1人。木村庄之助としての在位期間は2006年4月 - 2007年3月。高砂部屋所属。 青森県八戸市出身。師匠は元三役格行司4代木村誠道(2代木村朝之助)である。 初土俵は1955年5月場所。同期生は30代庄之助、31代庄之助、32代庄之助の合わせて4人で、全員が立行司の最高峰、木村庄之助に昇進したことになる。 初土俵で木村要之助を名乗り、その後、式守要之助、木村要之助、木村政裕、木村要之助、木村賢嘉、木村友一と改名。十両格昇進と同時に、高砂部屋代々の名跡3代木村朝之助を襲名した。
浅草 駒太夫(あさくさ こまだゆう、1941年2月22日 -… 浅草 駒太夫(あさくさ こまだゆう、1941年2月22日 - 2023年5月22日)は、日本のストリッパー。1960年代後半から1970年代初めに一条さゆり、桐かおるらと共にストリップ御三家と言われ、花魁ショーで一世を風靡した。本名は、斉藤 久子(さいとう ひさこ)。 1941年2月22日、岩手県宮古市で5人兄妹の長女として生まれ、戦後すぐに父の実家のある青森県八戸市に移る。9歳の時父親が死んでからは、母が朝から行商をして夜中は針仕事をして、一家の生計を立てるという貧しさの中で過ごす。久子は「朝は家と奉公先の食事の支度をしてから、妹を背負って学校に行き、帰りにはまた奉公先で掃除や洗濯をして帰ってくる。
中村 寿文(中村 壽文、なかむら としふみ、1939年8月4… 中村 寿文(中村 壽文、なかむら としふみ、1939年8月4日 - 2024年12月1日)は、日本の政治家。元青森県議会議員(7期)、元八戸市長(1期)。 父は衆議院議員で八戸市長を務めた中村拓道。青森県立八戸高等学校、慶應義塾大学法学部卒業。東北電力、衆議院議員船田中秘書を務める。父の死後、1976年・1979年・1980年の衆議院選挙に立候補するが落選。1976年は七日会保守系無所属候補、1979年は新自由クラブ公認候補、1980年は西岡武夫の保守刷新会議系候補だった。 1983年の青森県議会議員選挙で八戸市から無所属で立候補し、トップ当選。以後5期青森県議を務める(そのうち4期はトップ当選)。
響矢 影男(ひびきや かげお、1939年1月20日 - 没年… 響矢 影男(ひびきや かげお、1939年1月20日 - 没年不明 )は、青森県八戸市出身で高砂部屋に所属した元大相撲力士。本名は新山 影男(しんやま かげお)。176cm、109kg。最高位は東十両10枚目。得意技は突っ張り、左四つ、寄り。 1955年3月場所に本名の「新山」で初土俵を踏む。翌場所序ノ口で「響矢」を名乗る。1960年7月場所に幕下で青錦大太郎と改名。改名の効果があったためか勝ち越しが続き、1961年1月場所に十両昇進。この場所は3勝12敗と大きく負け越し1場所で幕下へ陥落した。その後も負け越しが続いたが、1961年11月場所で四股名を「響矢」に戻し、1962年に入ってからは調子を取り戻し、1962年9月場所に十両に復帰した。
木村 かほる(きむら かほる、1938年〈昭和13年〉8月2… 木村 かほる(きむら かほる、1938年〈昭和13年〉8月27日 - )は、青森県八戸市出身の特定失踪者。特定失踪者問題調査会では「拉致濃厚」(1000番台リスト)としている。1960年(昭和35年)2月、秋田県秋田市で失踪した。失踪当時は21歳であった。 1938年〈昭和13年〉8月27日生まれ。戸籍上は「かをる」だが、日常では「かほる」としていた。 幼少期、大日本帝国陸軍の獣医師だった父の仕事の関係で家族とともに満洲国に渡ったが、母・姉・かほるは第二次世界大戦直後、参戦したソヴィエト連邦軍の侵攻から逃れてたどり着いた平壌で抑留されて収容所生活を送った。かほるの姉は病弱な母とまだ幼かった妹の手を引き、8キロメートルの道を歩き続けて北緯38度線を越え、青森県八戸市に引き揚げた。
蛇口 浩敬(へびぐち ひろたか、1937年 - )は、八戸大… 蛇口 浩敬(へびぐち ひろたか、1937年 - )は、八戸大学前学長、八戸短期大学学長、学校法人光星学院理事、元東京銀行取締役、ドイツ連邦勲一級功績十字勲章受章、日本国外務大臣賞受賞。 1937年(昭和12年)青森県八戸市出身、八戸高校-東北大学法学部卒業後、東京銀行入行。ドイツ・マールブルク大学留学。スイス東京銀行総支配人、八重洲通支店長、取締役東京銀行ドイツ総支配人兼デュッセルドルフ支店長などを歴任。海外勤務は通算18年。ドイツ滞在中はデュッセルドルフ日本商工会議所・日独円卓会議の創設で尽力し、外国人では最高位となるドイツ連邦勲一級功績十字勲章を受章した。 東京銀行退職後は横河電機顧問を経て2002年(平成14年)~2008年(平成20年)八戸大学学長、2004年(平成16年)八戸短期大学学長。
京谷 昭夫(きょうや あきお、1936年(昭和11年)1月6… 京谷 昭夫(きょうや あきお、1936年(昭和11年)1月6日 - 1996年(平成8年)5月6日)は、日本の農水官僚。水産庁長官、食糧庁長官、農林水産事務次官、日本中央競馬会理事長。青森県出身2人目の事務次官。 青森県八戸市生まれ。八戸市立第二中学校、青森県立八戸高等学校、東京大学法学部を経て1958年に農林省入省。三重県農政課長、農林水産省畜産局長、水産庁長官、食糧庁長官などを経て1992年事務次官に就任。退官後、1995年に日本中央競馬会理事長に就任。在任中には日本中央競馬会としてはじめての女性ジョッキーを誕生させるなどの功績を残した。また、スーパーオトメが厩舎から逃げ出して首都高速道路を走った問題などの収拾に追われた。
田名部 匡省(たなぶ まさみ、1934年〈昭和9年〉12月7… 田名部 匡省(たなぶ まさみ、1934年〈昭和9年〉12月7日 - 2025年〈令和7年〉3月26日)は、日本の政治家、アイスホッケー選手。位階は正三位、勲等は旭日大綬章。 1960年スコーバレーオリンピック、1964年インスブルックオリンピック日本代表。参議院議員(2期)、衆議院議員(6期)、農林水産大臣(第17代)などを歴任した。次女は立憲民主党参議院議員の田名部匡代。 青森県八戸市出身。八戸市立第一中学校、青森県立八戸高等学校を経て、大学進学を期に上京。1957年(昭和32年)に立教大学経済学部経営学科を卒業した。 岩倉組アイスホッケー部のディフェンスとして活躍。アイスホッケー日本代表選手として2度の冬季オリンピック(1960年スコーバレー、1964年インスブルック)に出場した。
富岡喜平(とみおか きへい、1932年1月6日-2007年8… 富岡喜平(とみおか きへい、1932年1月6日-2007年8月14日)は日本の男子自転車競技選手。青森県八戸市出身。 日本大学在学時代の1951年にニューデリーで開催されたアジア競技大会に出場し、個人ロードレースで金メダルを獲得した。1952年にはヘルシンキオリンピックに出場しているが、個人ロードレースは途中棄権、スクラッチレースとタンデムで予選敗退している。 八戸市やぐら横丁にて「富岡輪業」自転車店を開業、のちに1980年代中頃、中居林字平に移転した。 2007年8月14日に肺炎により75歳で亡くなった。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
三浦哲郎(みうら てつお、1931年3月16日 - 2010… 三浦哲郎(みうら てつお、1931年3月16日 - 2010年8月29日)は、日本の小説家、日本芸術院会員。 青森県八戸市に生まれた。早大に入学したが中退、郷里で2年間中学教師を務めたあと、早大仏文科に再入学し、文学を志す。 井伏鱒二に師事し、純愛小説『忍ぶ川』(1960年)で芥川賞受賞。以後、『恥の譜』(1961年)、『初夜』(1961年)などの情感深い私小説を発表し続けた。1985年、ふしあわせだった家族に対する鎮魂の書『白夜を旅する人々』(1984年)で大仏次郎賞受賞。私小説の系譜を継ぐ代表的作家である。 青森県八戸市三日町の呉服屋「丸三」の三男として生まれる。青森県立八戸高等学校へ進学し、八戸高校の籠球部時代に「はやぶさの哲」と呼ばれた(当時の遠征の様子を『笹舟日記』に残している)。
中 寒二(なか かんじ、1930年9月30日 - 2003年… 中 寒二(なか かんじ、1930年9月30日 - 2003年11月16日)は、日本の詩人。 本名・中村福治。青森県八戸市出身。15、6歳の頃から詩作を始める。八戸市立商業高等学校(現青森県立八戸商業高等学校)卒業後、美術の教員免許を取得して八戸市内の中学校で教職に就き、1950年詩誌『北方人間』を創刊。1968年から詩誌『表現派』主宰。1971年「尻取り遊び」で第12回晩翠賞受賞。1982-98年青森県詩人連盟会長を務めた。1983年青森県文芸協会賞、1999年青森県芸術文化功労賞受賞。
浅坂 武次(あささか たけじ、1930年7月24日 - )は… 浅坂 武次(あささか たけじ、1930年7月24日 - )は、日本の元スピードスケート選手である。青森県八戸市出身。 八戸商業高校卒業後一旦就職、その後立教大学に進学した。 1948年から1951年まで青森県選手権4連覇。1954、1955世界選手権代表。 立教大学在学時の1956年コルティナダンペッツォオリンピックに出場、500m22位、1500m21位、5000m28位、10000m22位だった。
鈴木 三成(すずき みつなり、1925年10月25日 - )… 鈴木 三成(すずき みつなり、1925年10月25日 - )は日本の弓道家。範士十段。全日本弓道連盟会長、国際弓道連盟会長を務めていた。 2015年より名前を冠した「範士十段鈴木三成杯弓道大会」が開催されている。 大正14年(1925年)10月25日、八戸市出身。 青森県立八戸中学校(現青森県立八戸高等学校)出身。 全日本弓道選手権大会には1960年より14回出場し、優勝2回、2位3回、3位1回、5位2回の成績を挙げ、最高得点賞を5回獲得している。 1964年東京オリンピックではデモンストレーション弓道競技で代表の1人として参加している。 1974年、デーリー東北賞受賞。 2006年から2012年まで全日本弓道連盟会長を務めた。
三条 町子(さんじょう まちこ、1925年1月9日 - 20… 三条 町子(さんじょう まちこ、1925年1月9日 - 2022年8月30日)は、日本の歌手。本名は藤田 信子(旧姓:宮野)。三條 町子の表記もある。 青森県八戸市に生まれる。作曲家大村能章の弟子。戦争中は栃木に疎開。 1948年(昭和23年)に上京し、同年、キングレコードから本名の「宮野信子」の名前で「泪のブルース」にてデビュー。他に「黄昏の花園」などを発表した。1949年(昭和24年)、芸名を「三條町子」として発表した「かりそめの恋」が大ヒットし、一躍その名が知られることとなった。1951年(昭和26年)には「東京悲歌」(とうきょうエレジー)も大ヒットした。大津美子の1956年(昭和31年)の代表作「ここに幸あり」はもともと三條町子の吹き込みで曲は制作されたが、三條が出産を控えていた為に、同じレコード会社の当時新人の大津に回ってきたというエピソードがある。
鈴木 登紀子(すずき ときこ、1924年11月14日 - 2… 鈴木 登紀子(すずき ときこ、1924年11月14日 - 2020年12月28日)は、日本の料理研究家。愛称は「ばぁば」。 青森県八戸市出身。現八戸東高校卒。幼少時に母親から料理の方法を学ぶ。太平洋戦争終結後に結婚、東京へ引っ越す。近所での料理の腕前が評判になり、自宅で料理教室を開く。これがきっかけで『きょうの料理』(NHK、1970年〈昭和45年〉初出演)に出演し、46歳で料理研究家としてデビュー。同番組には43年にわたって出演した。後には『キユーピー3分クッキング』(日本テレビ)(1979年4月- 1980年9月、隔週土曜日講師)に出演するようになり、講師として知られるようになる。 また、『明石家さんちゃんねる』(TBS系)では「さんま・ばぁばのおいしい時間よ」というコーナーを担当していた。
前田 長吉(まえだ ちょうきち、1923年2月23日 - 1… 前田 長吉(まえだ ちょうきち、1923年2月23日 - 1946年2月28日)は、日本競馬会(現在の日本中央競馬会(JRA)の前々身)の元騎手である。現在親戚は青森県八戸市,東京都荒川区などにいる。 東京の尾形景造(後の尾形藤吉)厩舎の所属であった(当時は各競馬場に厩舎があり、その競馬場で調教していた)。青森県三戸郡是川村(現在の八戸市)出身。東京優駿競走(現在の東京優駿(日本ダービー))を最年少で優勝している(20歳3か月)。 農家の8人兄弟の四男(7番目の子)として生まれた。幼いころから才能に秀でて何をやらせてもできたといい、カイバ桶に入れた熱湯に板をつけてしならせスキー板を作ったり1937年の14歳の時にはその年の11月に(当時の)八戸市で開かれた八戸市養鶏組合主催の大会で軍鶏の養育部門で3等賞を受けたりしている。
高橋 正衛(たかはし まさえ、 1923年1月9日 - 19… 高橋 正衛(たかはし まさえ、 1923年1月9日 - 1999年9月26日)は、日本の編集者、歴史学者、昭和史研究家。元みすず書房取締役。筆名は渡辺正治。 青森県八戸市出身。1943年中央大学専門部経済学科卒業。同年12月学徒動員で入隊。1946年みすず書房の創立に加わり同書房に勤務。1963年から小尾俊人編集長と協力し企画、刊行した「現代史資料」は、1965年第13回菊池寛賞を受賞した。1991年に退職した後は、昭和史研究に従事。
中道 風迅洞(なかみち ふうじんどう、1919年2月11日 … 中道 風迅洞(なかみち ふうじんどう、1919年2月11日 - 2011年4月15日)は、青森県八戸市出身の日本放送協会職員、どどいつ作家、詩人。本名・中道定雄(なかみち・さだお)、 早稲田大学卒。1941年東京中央放送局(後のNHK)に入局。バラエティー番組「とんち教室」や、ドキュメンタリー番組、テレビ文芸部部長、芸能局長などを歴任。退職後は詩人、どどいつ作家となる。 NHKラジオ第1放送のリスナー参加の番組「文芸選評」で「どどいつ」の選者として参加。著書に「新編・どどいつ入門」がある。 2011年4月15日、心不全のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
大久保 石松(おおくぼ いしまつ、1912年11月21日 -… 大久保 石松(おおくぼ いしまつ、1912年11月21日 - 2001年2月24日)は、日本の騎手、競走馬調教師。青森県八戸市出身。 騎手時代の1935年にキンチャンで阪神帝室御賞典(春)に優勝。1941年より調教師に転じ、第二次世界大戦を経て国営競馬、日本中央競馬会(JRA)で活動、1971年のビクトリアカップを制したタイヨウコトブキや、重賞4勝を挙げたエリモローラなどを管理した。1991年2月定年引退。 息子の大久保哲男は元JRA騎手。娘婿にそれぞれ門下生の高橋隆と沖芳夫。孫に高橋亮がいる。なお、名前が一文字違いの騎手・調教師に大久保福松と大久保房松がおり、後者とは同郷であるが、それぞれに近親関係はない。
和井田 要(わいだ かなめ、1911年〈明治44年〉2月17… 和井田 要(わいだ かなめ、1911年〈明治44年〉2月17日 - 1967年〈昭和42年〉6月9日)は、日本の書家である。 青森県三戸郡八戸町(現在の八戸市)に生まれ、八戸水産学校中退後に第二次世界大戦中は従軍する。戦後は復員したことにより書家として活動師匠を持たずに独自の作風を執筆し、1949年(昭和24年)に前衛書道的な甲骨文字の書体を発表した。その後は和井田は従来の紙や墨を用いずに、ガラスやキャンバスにアクリル絵具やラッカー等を用いる等日本の書家としては極めて珍しい作風の作品を制作した事により名を馳せる。 後に自身の作品は毎日書道展やニューヨーク展、ヨーロッパ展等に出品され日本のみならず海外にも注目を浴びた。
波岡 惣一郎(なみおか そういちろう、1910年(明治43年… 波岡 惣一郎(なみおか そういちろう、1910年(明治43年)9月27日 - 1951年(昭和26年)12月10日)は、青森県八戸市出身の歌手。 青森県八戸市の大地主の息子として生まれるが、歌手になるために親の反対を押しきって東洋音楽学校に入学する。1936年(昭和11年)同校卒業後、日本劇場に出演などを経て、1937年(昭和12年)ビクターよりデビュー。「皇軍大捷の歌」、「かちどきの歌」、「大陸行進曲」、「日の丸行進曲」、「興亜行進曲」、「空の勇士」、「国民進軍歌」など、戦時歌謡を多く吹き込む。 1942年(昭和17年)にビクターのトップ歌手だった徳山璉が亡くなった事から、その後ビクターの戦時歌謡は波岡に回って来ることが多かった。
秋山 皐二郎(あきやま こうじろう、1910年(明治43年)… 秋山 皐二郎(あきやま こうじろう、1910年(明治43年)2月22日 - 2007年(平成19年)9月28日)は、日本の政治家。第13〜17代八戸市長。 湊村(現八戸市)で網元を営む秋山家の四男として生まれた。2歳で父與吉を亡くし、叔父秀之助に漁業の手解きを受けた。 湊尋常高等小学校、八戸中学校(現八戸高等学校)を経て、1936年(昭和11年)中央大学法学部卒業。合同油脂株式会社に入社後、二度召集を受ける。21年8月帰還を果たす。 1952年(昭和27年)に八戸市議会議員に当選し2期、さらに青森県議会議員を3期務めた。1969年(昭和44年)に中村拓道を破って八戸市長に当選し、5期務めて史上最長任期となった。
出雲 八重子(いずも やえこ、1909年9月8日 - 没年不… 出雲 八重子(いずも やえこ、1909年9月8日 - 没年不詳)は、日本の女優である。本名は泉 ヤエ(いずみ やえ)。別名に出雲 八枝子、出雲 八恵子がある。 1909年(明治42年)9月8日、青森県八戸町(現八戸市)に生まれる(原籍地は鹿児島県鹿児島市新照院町九八)。実科高等女学校卒業後、エリアナ・パヴロワのもとでダンスを習う。 1930年(昭和5年)5月、松竹蒲田撮影所に入社、五所平之助監督の『微笑む人生』で映画デビューする。1932年(昭和7年)に斎藤寅次郎監督の『女は寝て待て』で主演の小倉繁の相手役に抜擢され、以来、剽軽で愛敬のある顔が買われて、斎藤監督の短編喜劇映画に重用された。『腰の抜けた女』では主役を務め、キネマ旬報ベストテンに第7位でランキングされた『この子捨てざれば』では女房役を好演、短編喜劇の三枚目女優として活躍した。
川端 秀子(かわばた ひでこ、1907年(明治40年)2月8… 川端 秀子(かわばた ひでこ、1907年(明治40年)2月8日 – 2002年(平成14年)9月7日)は、作家・川端康成の妻。青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)出身。旧姓は松林。戸籍名はヒテ。青森県立八戸高等女学校(現・八戸東高等学校)卒業。 1925年(大正14年)、川端康成と出会う。1931年(昭和6年)12月2日入籍。 康成の没後約十年を経た1983年(昭和58年)に回想『川端康成とともに』を発表。2002年(平成14年)9月7日に死去し、近親者のみでの葬儀・告別式が執り行われた。 JR大森駅西口にある天祖神社の石垣には夫・康成の肖像がある「馬込文士村の住人」レリーフなどと共に何点かのレリーフが飾られ、川端秀子の肖像は断髪したモダンガールとして文士村の女性を紹介するレリーフにある。
寺下 岩蔵(寺下 岩藏、てらした いわぞう、1906年(明治… 寺下 岩蔵(寺下 岩藏、てらした いわぞう、1906年(明治39年)3月15日 - 1980年(昭和55年)4月19日)は、日本の政治家。参議院議員(2期、自由民主党)。 現在の青森県八戸市出身。八戸尋常小学校(現在の八戸市立八戸小学校)卒。卒業後は左官屋の手伝い、土木労務者、とび職など職業を転々とした後、寺下組を創設し、のち寺下建設工業に改称した。八戸市議、青森県議を5期務め、県議会議長となる。1962年7月、日本赤十字社青森県支部事業資金として10万円を寄付により1963年2月27日、紺綬褒章受章(飾版)。1971年7月、八戸市緑化推進事業費として100万円寄付により同年12月18日に紺綬褒章受章(飾版)。
小国 英雄(おぐに ひでお、1904年(明治37年)7月9日… 小国 英雄(おぐに ひでお、1904年(明治37年)7月9日 - 1996年(平成8年)2月5日)は、日本の脚本家、映画監督。青森県八戸市出身。 青森県八戸市柏崎新町の母の実家玉内家で誕生。旧制八戸中学校(現・青森県立八戸高等学校)時代に同郷の友、松下正寿の兄・正臣の影響で武者小路実篤の作品に傾倒し、小説を実篤に送るなど文学に目覚めた。実篤の勧めで日本バプテスト神学校(現・関東学院大学)に進学し卒業。白樺派の影響を受け、実篤主宰の新しき村に参加する。関東大震災に遭遇し帰郷するも、「大震災救援」のための演劇活動に精力を注いだ。 1929年(昭和4年)に実篤の紹介で日活太秦撮影所に助監督として入社。
5代式守勘太夫(ごだい しきもりかんだゆう、1901年(明治… 5代式守勘太夫(ごだい しきもりかんだゆう、1901年(明治34年)9月27日 - 1984年(昭和59年)5月18日)は大相撲の元三役格行司。所属は伊勢ノ海部屋→鏡山部屋→伊勢ヶ濱部屋。青森県八戸市出身。本名は岡村熊太郎。 初め伊勢ノ海部屋に入門するが、のち5代鏡山(元幕下金木山)の養子となる。しかし、鏡山部屋は1944年11月場所限りで伊勢ヶ濱部屋へ吸収合併された。 1913年(大正2年)1月、「式守熊太郎」の名で初土俵。1926年1月、4代式守与之吉襲名。1933年1月十両格、1938年1月に5代式守勘太夫を襲名。1940年5月幕内格、1951年5月に年寄・6代鏡山を襲名し二枚鑑札。三役格の定員増加により1956年5月、三役格行司に昇格。
北村 小松(きたむら こまつ、1901年(明治34年)1月4… 北村 小松(きたむら こまつ、1901年(明治34年)1月4日 - 1964年(昭和39年)4月27日)は、日本の劇作家、小説家、脚本家。 青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)生まれ。八戸中学校を経て慶應義塾大学英文科卒。在学中から小山内薫に師事して劇作を学び、卒業後に松竹キネマ蒲田研究所に入社。松竹の『マダムと女房』(1931年)など多くの映画シナリオを書く。戦後はユーモア小説作家に転じた。『人物のゐる街の風景』(1926年)が初期代表作で、初期は左翼文学にも手を染めたが、戦時下は戦争協力小説を多く書き、スパイものを編纂した。ほか翻訳がある。終戦後の1948年(昭和23年)に公職追放を受けて活動停止追放処分となる(1950年(昭和25年)に解除)。
岩岡 徳兵衛(いわおか とくべえ、1900年(明治33年)1… 岩岡 徳兵衛(いわおか とくべえ、1900年(明治33年)12月3日 - 1965年(昭和40年)12月10日)は、日本の政治家。青森県八戸市の9代目~11代目市長。八戸市の新産業都市への指定、八戸工業高等専門学校の誘致に尽力した。 八戸町六日町の醤油製造業の家に生まれる。党派は立憲政友会に属し、奥南派の自らが主導して政治団体「八戸青年政友連盟」を結成した。1933年に八戸市議会議員に初当選し、1947年には八戸市議会議長を務める。1953年に八戸市長に当選。その後市長を3期務め、1965年に心不全のため死去する。 八戸市の三八城公園には岩岡の銅像が建てられている。 市長時代はハイパーインフレーションに合わせた財政再建が課題となり、市政改革に取り組んだ。
大久保 房松(おおくぼ ふさまつ、1897年11月6日 - … 大久保 房松(おおくぼ ふさまつ、1897年11月6日 - 1997年8月28日)は、日本の騎手、調教師。 1912年に函館競馬倶楽部の函館大次門下から騎手としてデビュー、1922年から調教師兼業となり、1933年にカブトヤマで東京優駿大競走(現東京優駿・日本ダービー)を制した。第二次世界大戦を経て、戦後は国営競馬・日本中央競馬会の調教師として、JRA顕彰馬となった牝馬トキツカゼ、その産駒で1955年の啓衆社賞年度代表馬に選出された日本ダービー優勝馬オートキツなど数々の活躍馬を管理した。また、門下生からは騎手としてそれぞれ1000勝以上を挙げた郷原洋行、的場均などを輩出した。1989年に定年引退。
上杉修(うえすぎ おさむ、1897年(明治30年) - 19… 上杉修(うえすぎ おさむ、1897年(明治30年) - 1979年(昭和54年))は、八戸市の郷土史家。 八戸町上組町生まれ。1922年(大正11年)から1932年(昭和7年)まで小中野町にタクシー会社を経営し、1933年(昭和8年)に番町に公衆浴場を営む。 郷土史家としても八戸藩日記など数多くの郷土資料を収集した。 1946年(昭和21年)に、八戸南部家の子孫から八戸藩日記などの資料を購入し、野田健次郎と八戸藩の研究に取り組んだ。その結果、1950年(昭和25年)に安藤昌益の家族構成などが判明した。 1967年(昭和42年)に、自宅が火災に見舞われたため、自身が所有していた八戸藩の資料が一部焼失した。
原 信子(はら のぶこ、1893年〈明治26年〉9月10日 … 原 信子(はら のぶこ、1893年〈明治26年〉9月10日 - 1979年〈昭和54年〉2月15日)は、日本の声楽家、大正時代から昭和時代にかけて活躍した国際的オペラ・ソプラノ歌手。五十嵐喜芳、大谷冽子、増田晃久、久富吉晴、松浦知恵子、松島詩子、伊藤京子、宗孝夫等多くの歌手を育てた。 青森県八戸市大工町出身、幼少期に一家で上京する。1903年(明治36年)から三浦環に師事。東京音楽学校器楽科に入学。のちに声楽科に移るも中退し、その後ハンカ・ペツォールトやアドルフォ・サルコリに師事して声楽を修める。20歳の時、上海のヴィクトリア劇場で「蝶々夫人」に出演、歌手としてデビュー。 外遊のため退団した三浦環の後任として、帝国劇場歌劇部に入る。
藤井 達二(ふじい たつじ、1891年(明治24年)10月2… 藤井 達二(ふじい たつじ、1891年(明治24年)10月24日 - 1968年(昭和43年)8月9日)は、昭和時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 青森県三戸郡八戸町(現八戸市)に生まれる。1910年(明治43年)県水産試験場付属八戸講習所卒業。1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙に青森県第1区から立憲政友会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。 戦後、1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に立候補したが辞退し、1956年(昭和31年)7月の第4回参議院議員通常選挙にも全国区から出馬したが落選した。自由民主党県連合顧問、同副会長を歴任した。ほか、財界では身延木材専務取締役、那須土地取締役、大和木材、青森県農林商事各社長、日本海外興業会長などを務めた。
山内 亮(やまうち りょう、1886年(明治19年)12月2… 山内 亮(やまうち りょう、1886年(明治19年)12月20日 - 1960年(昭和35年)7月26日)は、日本の政治家。青森県八戸市の5代目市長。終戦直前の1945年8月、米軍による空襲の予告を受けて全市民に総退去を命じた。 戦争末期に青函連絡船を撃沈したハルゼー機動部隊により1945年(昭和20年)7月14日に八戸・三沢が空襲を受け、日東化学工業や尻内駅が被害を受けた。さらに8月5日にB29爆撃機が八戸市に飛来し八戸空襲を予告、8月9日にハルゼー機動部隊により八戸港にいた海防艦・稲木が撃沈された。こうした状況を受け、空襲や艦砲射撃による攻撃を見越し、8月10日に八戸市中心市街地からの総退去命令を決断した。
大関 久五郎(旧字体: 大關 久五郞、おおせき きゅうごろう… 大関 久五郎(旧字体: 大關 久五郞、おおせき きゅうごろう、おおぜき ひさごろう、おおぜき きゅうごろう、1875年 - 1918年11月10日)は、日本の地理学者。 氷河地形研究のファイターと呼ばれ、その研究成果を『地学雑誌』『地質学雑誌』などに次々と発表した。 1875年、青森県三戸郡館村(八戸市)に生まれる。三戸郡売市小学校と、同校の初等科・高等科を経て、青森県師範学校(現・弘前大学)に入学し、22歳で卒業。青森県三戸郡湊尋常小学校訓導となる。翌年、高等師範学校(のち東京高等師範学校)に入学し、三宅米吉・矢津昌永らの指導を受け、1901年に本科地理歴史部を卒業する。高等師範学校助教諭兼訓導に任ぜられ、附属中学校の地理科の教官となった。
神田 重雄(かんだ しげお、1874年(明治7年)4月22日… 神田 重雄(かんだ しげお、1874年(明治7年)4月22日 - 1947年(昭和22年)12月6日)は、日本の政治家。青森県八戸市の2代目~4代目市長。八戸港の修築に尽力した。八戸市では岩岡徳兵衛と並んで名市長と讃えられる。 実弟に、毎日新聞社の主筆や東京本社代表取締役を務めた神田五雄がいる。 三戸郡湊村(現在の八戸市)に移住した斗南藩士の家に生まれる。 16歳から20歳までの間、郵便局を経営していた伯父を頼って根室に移り住み、学問を修め、伯父の下で働いた。 1894年に地元へ戻った後は湊尋常小学校教員を経て、1896年に湊村役場に勤め始める。1897年9月神戸で開かれた水産博覧会で、漁網の出展に携わったことをきっかけに長谷川藤次郎の影響を受けて、本格的に漁業に携わるようになった。
羽仁 もと子(はに もとこ、1873年9月8日 - 1957… 羽仁 もと子(はに もとこ、1873年9月8日 - 1957年4月7日)は、日本で女性初のジャーナリスト。また、自由学園の創立者。また家計簿の考案者としても知られている。
近藤 喜衛(こんどう ひろえ、1871年11月23日(明治4… 近藤 喜衛(こんどう ひろえ、1871年11月23日(明治4年10月11日)- 1961年(昭和36年)2月24日)は、日本の政治家。青森県八戸市の初代市長。 1871年(明治4年)に旧八戸藩士の家に生まれる。八戸高等小学校から研成学舎に入り、卒業後は小学校の教員となり、その後は教員をしながら東京専門学校に通った。その後、中退した。帰郷後に八戸の小学校の校長となった。1889年(明治22年)に八戸青年会に入会。1894年(明治27年)に八戸青年会を脱会し、政治団体「北辰会」を結成した。1907年(明治40年)5月、八戸町助役となり間もなく町長に就任したが、同年9月16日に停職となった。1908年(明治41年)に地元紙「奥南新報」を創刊した。
関 春茂(せき はるしげ、1857年5月8日(安政4年4月1… 関 春茂(せき はるしげ、1857年5月8日(安政4年4月15日) - 1939年(昭和14年)2月26日)は、日本の政治家。衆議院議員、青森県八戸町長。 八戸藩士・関彦市の息子として八戸城下で生まれる。1875年(明治8年)に蛇口胤親によって開設された八戸で初の英学校「開文舎」で学ぶ。翌年に陸奥国八戸光学会でギリシア正教の洗礼を受ける。1881年(明治14年)に明治天皇が八戸に巡幸した際には漢詩の祝詞を贈ったこともある。 1888年(明治21年)に青森県会議員に初当選、翌年に奈須川光宝らと自由党系の政治結社である八戸土曜会を結成した。1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙で青森県郡部から選出され、衆議院議員に1期在任した。
奈須川 光宝(なすがわ みつとみ、1855年9月2日(安政2… 奈須川 光宝(なすがわ みつとみ、1855年9月2日(安政2年7月21日) - 1926年(昭和元年)12月29日)は、日本の政治家。青森県八戸町長、衆議院議員。 八戸城下の八戸藩士川勝家の子として生まれる。1862年(文久2年)に奈須川光武の養子となる。八戸初の英学校である開文舎で英語などを学び、1875年(明治8年)に八戸小学校の教諭となる。 1885年(明治18年)に青森県会議員に初当選。1888年(明治21年)に県会副議長を務め、翌年に自由党系の政治結社である八戸土曜会を結成した。 1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に青森県第1区から出馬し当選。その後、第5回、第6回総選挙で当選し、衆議院議員を通算三期務めた。
源 晟(みなもと あきら、1850年(嘉永3年8月) - 1… 源 晟(みなもと あきら、1850年(嘉永3年8月) - 1918年(大正7年)9月29日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。弁護士。日本ハリストス正教会洗礼者(霊名パウェル)。衆議院議員(2期)。旧姓・河原木。幼名は滝蔵。 八戸藩士。祐筆を務めた河原木弥兵衛の九男に生まれる。藩学校で漢学や洋学を修めたのち明治維新前後は八戸藩学二等寮長となり、1871(明治 4)年5月に東京に遊学した。1872年(明治5年)壬申戸籍編成の時、八戸に伝わる義経伝説にちなんで、源晟と姓名を改める。 21歳で代言人となったのち、公娼廃止運動や救貧運動的な考えを持ちギリシャ正教に傾倒する。1876年(明治9年)陸奥国八戸光栄会を設置し関春茂や久保忠勝(のち鮫村長)らと共に沢辺琢磨より八戸初の洗礼を受ける。
稲城 篤実(いなき あつみ、1849年(嘉永2年) - 19… 稲城 篤実(いなき あつみ、1849年(嘉永2年) - 1918年(大正7年))は、日本の政治家。青森県八戸町長。 八戸城下の下組町に生まれる。町村制が成立する直前に八戸町の戸長となり、1889年(明治22年)から1893年(明治26年)まで八戸町長を務める。 1894年(明治27年)からは青森県立八戸中学校(後の青森県立八戸高等学校)の書記となり、死去するまで務めた。 八戸町役場が発足した時に、戸長役場の職員がそのまま引き継がれた。町村制施行により、それまで三戸郡役所が受け持っていた学校の授業料徴収や町税徴収の事務が町役場に移管されたが、新制度への対応がスムーズに行われず、出納事務に不手際が続出する事態となった。
大澤多門(おおさわ たもん、1834年(天保5年) - 19… 大澤多門(おおさわ たもん、1834年(天保5年) - 1906年(明治39年))は、八戸藩士、八戸町戸長。えんぶりの復興者でもある。 八戸藩士・根井沢悟の子として生まれる。幼名は信吾。嘉永3年(1850年)に家督を相続した。 明治元年(1868年)に野辺地戦争において八戸隊副隊長を務める。戊辰戦争後に「大澤多門」と名を改め、明治6年(1873年)に八戸町戸長となった。その後えんぶりの再興や八戸三社大祭の振興に寄与した。長者山新羅神社近くに於多福座という劇場も作っている。 晩年は階上村(現在の階上町)道仏で隠居生活を送ったと言われている。 最も多門の功績として知られているのが、えんぶりの再興である。
神田 潤一 は、日本の政治家、実業家。自由民主党所属の衆議院… 神田 潤一 は、日本の政治家、実業家。自由民主党所属の衆議院議員(3期)。
勝生 真沙子 は、日本の女性声優。青森県八戸市出身。81プロ… 勝生 真沙子 は、日本の女性声優。青森県八戸市出身。81プロデュース所属。既婚。