野上 憲男(のがみ のりお、1944年5月 - )は、日本の… 野上 憲男(のがみ のりお、1944年5月 - )は、日本の英文学者。S.T.コールリッジを研究。第6代京都経済短期大学学長(2008 - 2012年)。岡山県倉敷市出身。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
鎌田 豊(かまた ゆたか、1943年8月4日 - )は、岡山… 鎌田 豊(かまた ゆたか、1943年8月4日 - )は、岡山県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
赤澤 堅造(あかざわ けんぞう、1943年2月20日 - )… 赤澤 堅造(あかざわ けんぞう、1943年2月20日 - )は、日本の生体医工学者。工学博士(大阪大学)。大阪大学名誉教授。元神戸大学工学部情報知能工学科教授および元大阪工業大学工学部生体医工学科・生命工学科教授。日本ME学会(現:日本生体医工学会)名誉会員・元副会長。バイオメカニズム学会元評議員。 専門は、生体医工学・生体計測工学/制御工学、生体情報工学・生体電子工学、福祉工学・人間工学。 岡山県倉敷市出身。1965年大阪大学工学部電気工学科卒業。同大学大学院工学研究科電気工学専攻修士課程修了(日本ME学会理事/関西支部名誉評議員を務めた藤井克彦の指導) 。1971年同大学院工学研究科電気工学専攻博士課程単位取得退学(その間、日本学術振興会奨励研究員)。
宇治郷 毅(うじごう つよし、1943年 - )は日本の図書… 宇治郷 毅(うじごう つよし、1943年 - )は日本の図書館員、国会職員、研究者。 第17代国立国会図書館副館長。元同志社大学社会学部教授。 岡山県倉敷市生まれ。1966年同志社大学法学部卒業、1968年同大学大学院法学研究科修士課程修了。同年国立国会図書館に入館し、2001年2月28日同館副館長(2003年2月28日まで)。 2006年同志社大学社会学部教授に就任、司書課程やアジア教育文化学の科目を担当し、2013年3月定年退職。 2024年3月時点では、国立国会図書館OB会の会長を務める。
浪本 勝年(なみもと かつとし、1942年9月9日 - )は… 浪本 勝年(なみもと かつとし、1942年9月9日 - )は、日本の教育学者。専門は、教育法学・教育行政学。教育基本法・教科書裁判を研究。立正大学名誉教授。 日本教育政策学会会長(2005年7月~2011年7月/第5~6期)歴任、現在は関東地方区理事を担当。 岡山県倉敷市出身、岡山県立倉敷青陵高等学校卒業、1966年東京大学教育学部教育行政学科卒業、同大学院教育学研究科博士後期課程(教育行政科専攻)満期退学。大学院時代は宗像誠也に師事。 1975年に立正大学文学部講師、1978年に同学部助教授。1984年に同学部教授、2002年に心理学部臨床心理学科教授となり、2013年3月に定年退職。その間、ロンドン大学特別研究員など。
小橋 優(こばし まさる、1942年7月1日 - )は岡山県… 小橋 優(こばし まさる、1942年7月1日 - )は岡山県出身の元プロ野球選手。
木口 敬三(きぐち けいぞう、1941年10月6日-)は、日… 木口 敬三(きぐち けいぞう、1941年10月6日-)は、日本の画家、美術講師。 岡山県倉敷市において、銅版画を中心に制作活動を行うとともに、美術系大学受験を主目的とした画塾「木口美術研究所」で講師活動を行っている。演出家・劇作家の危口統之の父。 岡山県倉敷市出身。岡山県立倉敷青陵高等学校を経て、1966年武蔵野美術大学洋画科主席卒業。フランス政府私費留学試験合格後、1968年から1972年にかけて2度のフランス・ヨーロッパ留学を行う。その後倉敷市に戻り、1970年代前半ごろより地域の専門学校や高校などで美術指導を開始。1984年に画塾「木口美術研究所」を設立。以後銅版画を中心とした作品制作ならびに、美術系大学受験を志す高校生の指導を中心に、地域の芸術・文化活動に尽力している。
野瀬 勝三(のせ かつぞう、1940年(昭和15年)- )は… 野瀬 勝三(のせ かつぞう、1940年(昭和15年)- )は、日本の実業家である。岡山県庁職員となった後、健康づくり財団の職員となり、井原鉄道の経営危機に際して取締役として経営再建に取り組んだ。岡山県倉敷市出身。 1940年(昭和15年)、岡山県倉敷市で野瀬富男の長男として出生する。その後、1956年(昭和31年)4月に岡山県立高梁高等学校へ進学する。同期には、第7代日本バレーボール協会会長、サントリー取締役となる立木正夫がいた。1959年(昭和34年)3月に同校を卒業後、同年、岡山県庁へ就職する。 岡山県庁では総務畑を歩み、空港対策室長代理を経験した後、1996年(平成8年)55歳で津山地方振興局総務課長となり、1997年(平成9年)総務部参与・総務部総務学事課長(次長扱い)となる。
室山 皓之助 (むろやま こうのすけ、1939年11月16日… 室山 皓之助 (むろやま こうのすけ、1939年11月16日 - )は岡山県出身の元プロ野球選手。
田中 恭子(たなか きょうこ、1939年1月30日 - 20… 田中 恭子(たなか きょうこ、1939年1月30日 - 2007年9月4日)は、日本の国際政治学者。 岡山県倉敷市出身。1961年国際基督教大学卒、67年同大学院行政学研究科博士課程満期退学。1972年オーストラリア国立大学で博士号取得、1973-82年シンガポール大学助教授として日本語を教える。中部大学国際関係学部助教授、静岡県立大学教授、1998年南山大学教授。2002年『国家と移民 東南アジア華人世界の変容』でアジア・太平洋賞特別賞受賞。
高旗 正人(たかはた まさと、1937年8月14日 - )は… 高旗 正人(たかはた まさと、1937年8月14日 - )は、日本の教育社会学者、岡山大学名誉教授。専攻は教育社会学・教育方法学。 岡山県倉敷市生まれ。1960年岡山大学教育学部卒業。1966年広島大学大学院教育学研究科博士課程満期退学、広島大学助手、1969年滋賀大学教育学部講師、1970年助教授、1977年教授、1985年岡山大学教育学部教授。1994年「T・パーソンズ規範論の教育社会学的研究 学級秩序の理論的考察」で教育学博士の学位を取得。2004年岡山大を定年退官、名誉教授、中国学園大学教授。2008年退職。2017年4月、瑞宝中綬章を受章。
岩崎 淑(いわさき しゅく、1937年(昭和12年)4月3日… 岩崎 淑(いわさき しゅく、1937年(昭和12年)4月3日 - )は、日本のピアニスト、教育者。桐朋学園大学大学院大学教授、尚美学園大学大学院客員教授、くらしき作陽大学、武庫川女子大学客員教授。第3回高松国際ピアノコンクールの音楽監督代行兼審査員長も務める。 岡山県倉敷市出身。設立当時まだ4年制になる前の桐朋学園を経て、アメリカハートフォード大学音楽学部、同ジュリアード音楽院、イタリアキジアーナ音楽院で学ぶ。井口秋子、井口基成、J.ラタイナ、B.ミケランジェリ、S.ロレンツィ、I.フロインドリッヒなどに師事。1967年ミュンヘン国際音楽コンクール、1968年ブダペスト国際コンクール、1970年チャイコフスキー国際コンクール(チェリストである弟の岩崎洸と共に受賞)をはじめ、世界の名だたる国際コンクールにて業績を残してきた。
安原 達佳(やすはら たつよし、現在の姓は渡邉、1936年3… 安原 達佳(やすはら たつよし、現在の姓は渡邉、1936年3月5日 - 2015年4月1日)は、岡山県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、外野手。
古川 啓三(ふるかわ けいぞう、1934年4月25日 - 1… 古川 啓三(ふるかわ けいぞう、1934年4月25日 - 1984年10月6日)は岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。
三宅 秀史(みやけ ひでし、1934年4月5日 - )は、岡… 三宅 秀史(みやけ ひでし、1934年4月5日 - )は、岡山県出身の元プロ野球選手(内野手)。登録名は1966年から現役引退まで「三宅 伸和(-のぶかず)」、現役引退後は「三宅 培司」とした。
香西 洋樹(こうさい ひろき、1933年2月8日 - 202… 香西 洋樹(こうさい ひろき、1933年2月8日 - 2026年3月26日)は、日本の天文学者。専門は、彗星・小惑星の研究。多数の小惑星を発見した。「光害」を提唱した第一人者。 岡山県倉敷市出身。金光学園高等学校卒業、慶應義塾大学文学部中退。出身は文科系だが、アマチュア天文家ではなく国立天文台光学赤外線天文学研究系助教授を務めたプロの研究者であり、その点において香西は日本の天文学界でも異色の存在であるといえる。国立天文台退官後に、鳥取市さじアストロパーク・佐治天文台長に就任した。全国星空継続観察技術検討委員会委員を務め、皆既日食観測の海外ツアーを多数主催したことでも知られている。アマチュアとの交流にも積極的である。
渡邊 行雄(わたなべ ゆきお、1931年〈昭和6年〉11月6… 渡邊 行雄(わたなべ ゆきお、1931年〈昭和6年〉11月6日 - 1996年〈平成8年〉4月1日)は、昭和から平成時代の政治家。実業家。岡山県倉敷市長。 倉敷市出身。1954年(昭和29年)同志社大学経済学部卒業。百十四銀行勤務を経て、1975年(昭和50年)以来、岡山県議会議員に4選し、1987年(昭和62年)同副議長に就任する。1991年(平成3年)倉敷市長に当選し、2期目在任中に死去した。ほか、水島ゴム工業用品社長を務めた。 市長在任中は、倉敷チボリ公園、くらしき作陽大学、倉敷芸術科学大学の誘致、下水の倍増計画に尽力した。
堀部 美行(ほりべ みゆき、1930年(昭和5年)11月15… 堀部 美行(ほりべ みゆき、1930年(昭和5年)11月15日 - 2013年(平成25年)9月13日)は、日本の美容家であり、教育家でもある。韓国・又松大学校客員教授、山野美容芸術短期大学客員教授を務めた。岡山県倉敷市出身。 1930年(昭和5年)岡山県浅口郡玉島町(現:倉敷市)にて誕生する。その後、1943年(昭和18年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学し、東京都渋谷区長とつとめる小倉基、学問分野で流行学の創始をした宮本悦也がいた。1948年(昭和23年)同校を卒業する。 堀部の学生時代は、旧制中学と新制高校との切替えと戦争直後の混乱時期が重なり世の中が安定しなかった。
小沢 馨(おざわ かおる、1930年10月20日 - 201… 小沢 馨(おざわ かおる、1930年10月20日 - 2016年9月28日)は岡山県出身の元プロ野球選手、元高校野球監督。
窪田 登(くぼた みのる、1930年4月29日 - 2017… 窪田 登(くぼた みのる、1930年4月29日 - 2017年8月20日)は、日本の元ボディビルダー、元重量挙げ選手。吉備国際大学名誉教授、早稲田大学名誉教授。 岡山県倉敷市に生まれる。兄の影響でウエイトトレーニングを始め。1947年の第1回関西重量挙げ選手権ではライト級第2位となる。1952年、日本ウエイトリフティング協会が開催したボディコンテスト「ミスター日本コンテスト」にて優勝。このコンテストが日本ボディビル協会(のちの日本ボディビル連盟)設立のきっかけとなる。 旧制倉敷高校・新制倉敷高校(現・岡山県立倉敷青陵高等学校)を経て、早稲田大学第一法学部を卒業。1960年、ローマオリンピック・ウエイトリフティング競技に出場し、ライトヘビー級7位。
瀬本 容子(せもと ようこ、1930年(昭和5年) - )は… 瀬本 容子(せもと ようこ、1930年(昭和5年) - )は、日本の画家及び、芸術家。岡山県倉敷市生まれ。 中世からルネッサンスにかけての古典技法で、板やガラス、羊皮紙にテンペラ画を描く 。ラピスラズリやローズマダー、イカの墨等を原料として絵の具に使用し、額も制作している。銀座を中心に各地で個展を開催しており、主に幻想的な女性や子供、果実や風景等、多くの作品を制作する。 1930年、岡山県浅口郡玉島町に、五人兄弟の長女として生まれる。父親は証券業を営んでいた。 東京都にある自由学園女子部に入学し、学生時代には倉敷市にある大原美術館で白樺派の武者小路実篤や志賀直哉、梅原龍三郎、安井曾太郎の座談会やラザール・レビィのピアノ演奏に触れ、芸術を身近に感じることで画家になることを決意する。
木村 明生(きむら あきお、1925年4月27日- 2017… 木村 明生(きむら あきお、1925年4月27日- 2017年3月1日)は、ソ連・ロシア研究者、青山学院大学名誉教授。 岡山県倉敷市生まれ。1950年旧制京都大学文学部哲学科卒業。朝日新聞社モスクワ支局長、同調査研究室主任研究員、青山学院大学国際政治経済学部教授、2001年定年退任、名誉教授。日ロ交流協会常任理事。
常ノ山 勝正(つねのやま かつまさ、1925年2月9日 - … 常ノ山 勝正(つねのやま かつまさ、1925年2月9日 - 1987年4月29日)は、岡山県児島郡小田村(現在の倉敷市)出身で、出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は橋本 正(はしもと ただし、旧姓は石川(いしかわ))。最高位は東前頭2枚目 (1952年5月場所)。現役時代の体格は175cm、98kg。得意手は左四つ、下手投げ、内掛けなど。 年寄・10代出羽海(元関脇・鷲羽山)の義理の叔父。 実家は農家で、14歳の時に同郷の藤島親方(元横綱・常ノ花、後の出羽海親方)を慕って、出羽海部屋への入門を願った。だが、体重不足により新弟子検査で合格できず、1939年暮れの検査で飯を腹一杯に詰め、廻しに鉛を入れた上に水をたらふく飲んでようやく合格した。
暉峻 衆三(てるおか しゅうぞう、1924年〈大正13年〉6… 暉峻 衆三(てるおか しゅうぞう、1924年〈大正13年〉6月26日 - 2023年〈令和5年〉12月22日)は、日本の経済学者。専門は農業経済学。学位は、農学博士(東京大学・論文博士・1984年)(学位論文『日本農業問題の展開』)。東京教育大学教授・信州大学教授・宇都宮大学教授・東亜大学教授を歴任。 暉峻義等の次男。妻は暉峻淑子。長男は暉峻創三。 岡山県倉敷市出身。1943年東京帝国大学に入学。1944年学徒動員により入隊し、陸軍経理学校に入る。1945年8月12日、原爆投下後の広島市に入る。 1947年東京帝国大学農学部農業経済学科卒業。1984年『日本農業問題の展開』で東京大学より農学博士の学位を取得。
大山 康晴(おおやま やすはる、1923年〈大正12年〉3月… 大山 康晴(おおやま やすはる、1923年〈大正12年〉3月13日 - 1992年〈平成4年〉7月26日)は、将棋棋士。十五世名人。棋士番号26。木見金治郎九段門下。 主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代2位)、一般棋戦優勝44回(歴代2位)、通算1433勝(歴代2位)等がある。永世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将の5つの永世称号を保持。 順位戦A級に在籍しながら、1976年(昭和51年)12月から1989年(平成元年)5月まで日本将棋連盟会長を務めた。弟子には有吉道夫、中田功、行方尚史などがいる。1990年(平成2年)には将棋界から初めて文化功労者に選ばれた。正四位勲二等瑞宝章。
斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 19… 斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 1994年9月18日)は、岡山県倉敷市出身の洋画家、作家。映画「吉原炎上」の原作者としても知られる。 斎藤真一は1922年(大正11年)、岡山県児島郡味野町(現・倉敷市児島味野)に父・斎藤藤太郎(都山流尺八大師範)、母・益の長男として生まれる。1935年(昭和10年)に岡山県立天城中学校に入学すると、味野から峠を越えて天城中学まで3里半の道のりを5年間、自転車で通学する。2年生で陸上部に入部、秋から県大会に出場し始めるとしばしば入賞し、3年生で県下の駅伝大会にアンカーとして出場し優勝、天城中学の名を高める。その実績を買われて4年次にマラソンに誘われるが、好きな絵を優先させて断念する。
三宅 宅三(みやけ たくぞう、 1921年2月22日 - 2… 三宅 宅三(みやけ たくぞう、 1921年2月22日 - 2006年4月16日)は、岡山県倉敷市出身のプロ野球選手(一塁手、外野手)。 玉島中(現・玉島商)では砲丸投で全国優勝。明治大学を経て、倉敷工の監督となる。1949年にチームを甲子園大会出場に導いた。 1950年、毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の創立と同時にテスト入団。開幕から一塁手、六番打者に抜擢される。同年の松竹ロビンスとの日本シリーズでは、一塁手、代打として2試合に出場。1951年は外野手も兼ね、5月から四番打者に起用されるなど打線の主軸として活躍、初の規定打席(16位、打率.281)に達する。1952年には自己最高の打率.294(12位)、18本塁打を記録。
出宮 順一(でみや じゅんいち、1917年 - 1945年6… 出宮 順一(でみや じゅんいち、1917年 - 1945年6月)は、日本の自転車競技選手。岡山県の旧玉島町(現・倉敷市)出身。 1936年ベルリンオリンピック日本代表選手に選出され、同大会の開会式には参加したが、役員の登録ミスでレースに出場できなかった。その3ヵ月後、結果的に日本人選手として、オリンピックも含めて初めて自転車競技の世界大会出場となった、スイスのチューリッヒとベルンで開催された同年世界選手権自転車競技大会に、石塚隆春、村上二三九、困見辰夫の3人とともに参加。スクラッチ及び145kmロードレース(いずれもアマチュア部門)に出場し、ロードレースにおいて7位に入る健闘を見せた。 その後、第二次世界大戦が始まると陸軍に召集されて出征。
河原 修平(かわはら しゅうへい、1915年 - 1974年… 河原 修平(かわはら しゅうへい、1915年 - 1974年8月2日)は、日本の画家。岡山県倉敷市出身。 1915年、倉敷市土手町(現倉敷美観地区)の砂糖卸商に産まれる。小学校時代より竹久夢二に憧れ、金光中学校へ進んだ後から絵筆を握るようになった。卒業後は上京して川端画学校、太平洋美術学校にて修業。池袋モンパルナスに住み、三橋健や渡辺一郎と交流を持った。倉敷に戻ってからは「倉敷素描絵画研究所」を開き、後続の育成にあたる。 晩年は坂田一男と親交を深めており、河原のアトリエ「皮腹堂」は坂田が命名したものである。命名の礼にと河原は知人が狩りで仕留めた狸を写生し、「タヌキ親父の坂田にタヌキ鍋を馳走しよう」と写生した絵『屍狸鶏観図』を贈ったという。
三橋 健(みはし たけし、1912年 - 1977年4月30… 三橋 健(みはし たけし、1912年 - 1977年4月30日)は、日本の画家。岡山県倉敷市出身。「民俗行事」をテーマにした作品が多い。 医者であった父・三橋玉見は詩歌や書画、陶芸をたしなむ文化人で、大原孫三郎に招かれる形で倉敷市に診療所を開業した。健はその次男として1912年に岡山県倉敷市新川町に生まれる。父親の影響もあり、幼い頃から画家を志した健は東京美術学校へ進学した。藤島武二に師事し、在学中に発表した作品『錨づくり』などで独立美術協会展にて入選をしている。 1939年、福沢一郎、小牧源太郎、寺田政明らを中心としたシュルレアリスムを志向するグループが新たに美術文化協会を旗揚げし、健も同協会のメンバーとして参加したが、父の病没に伴い帰省を余儀なくされ、翌年2月、第一回公募展の直前に脱会した。
石井 花子(いしい はなこ、1911年5月13日 - 200… 石井 花子(いしい はなこ、1911年5月13日 - 2000年7月1日)は、20世紀の日本の女性。ソビエト連邦のスパイ、リヒャルト・ゾルゲの愛人として関係を持ち、ゾルゲが刑死した後は遺骨の埋葬や墓碑の建立を手がけ、回想録を刊行した。一時期三宅姓を名乗っていた(経緯は後述)。 岡山県倉敷市に生まれる。父は醸造業を営む資産家だったが、石井の母は正妻ではなく、夫を亡くした後に子女(男女二人の子がいた)の養育を頼って庇護を受けたという事情であった(ただし、石井によると父は継子の養育にはほとんど金を出さなかったという)。高等女学校を3年で中退。これは、母の影響で父が天理教の宣教師となり、教会を建てる目的でそれまで一家(父とは別の家をあてがわれていた)の暮らしていた家屋を売却したためだった。
岡 精義(おか きよし、1906年12月24日 - 不明)は… 岡 精義(おか きよし、1906年12月24日 - 不明)は、日本のヤクザ、実業家。暴力団・三代目山口組舎弟。三友企業 社長。神戸生コン運輸社長。全国港湾荷役振興協会理事兼神戸副支部長。岡山県倉敷市出身。 明治39年(1906年)12月、 岡山県倉敷市で生まれた。岡精義は、幼少の頃から叔母の元で育った。 岡精義は、旧制中学校を卒業した。 大正12年(1923年)、神戸市へ移住し、港湾荷役の沖仲仕として働き始めた。 昭和5年(1930年)、神戸の賭場で、田岡一雄(後の三代目山口組組長)と知り合った。その後、金銭的に苦しかったこともあり、田岡一雄の借り上げた部屋に、度々滞在し寝食を共にするようになった。
福田 與(ふくだ あたえ、1906年(明治39年) - 19… 福田 與(ふくだ あたえ、1906年(明治39年) - 1988年(昭和63年))は、日本の教育者。岡山県倉敷市出身で、京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)を卒業後、小学校教諭として教育者の道を歩み始め、続いて京都府立聾学校教諭、さらに京都府立盲学校教諭として教育活動に従事し、聾・盲児のために一生を捧げた。 また、野の思想家「宮崎童安」に師事し、童安亡きあと、『地獄の聖書』『童安童話集』など童安の著書多数を自費出版したのをはじめ、有縁の人々の歌集や追悼集を数多く出版した。就中特筆すべきは、『新井奥邃の思想』『内観祈祷録・奥邃先生の面影』を自費出版した事であろう。福田家の一族に明治維新のとき、長州の勤皇運動を助けて活躍した勤皇家・福田理兵衛がいる。
岡本 唐貴(おかもと とうき、1903年12月3日 - 19… 岡本 唐貴(おかもと とうき、1903年12月3日 - 1986年3月28日)は、プロレタリア画家、洋画家。本名・岡本登喜男。 生涯芸術活動に身を染め、ダダイスム、シュルレアリスムなどの影響を受けた絵画、写生画を数多く残す。 長男は漫画家の白土三平(本名・岡本登)、長女は絵本作家の岡本颯子。
香西 精(こうさい つとむ、1902年11月29日 - 19… 香西 精(こうさい つとむ、1902年11月29日 - 1979年1月12日)は、日本の英文学者・能楽研究者。 岡山県倉敷市出身。東京帝国大学文学部英文科卒業、甲南高等学校教授となるが病気のため辞職、1942年米穀会社に入り、兵庫米穀社長・会長。戦前から能楽研究を行い『謡曲界』などに多くの論文を発表。戦後、雑誌『宝生』に「とらうきやう考」を発表した後、表章との交流が始まり、世阿弥研究の基礎となる多くの功績を残した。1963年法政大学能楽研究所顧問。甲南高校時代の教え子に武智鉄二がいる。長男は元住友化学工業社長の香西昭夫。次男は日本経済研究センター理事長や政府税制調査会会長を務めたエコノミストの香西泰。
吉田 確太(よしだ かくた、1902年 <明治35年> 3月… 吉田 確太(よしだ かくた、1902年 <明治35年> 3月7日 - 1976年 <昭和51年> 3月1日)は、日本の経営者。電源開発総裁を務めた。位階は正四位。 岡山県倉敷市出身。倉敷天城中学、第六高等学校を経て、1926年に東京帝国大学工学部電気科を卒業。富士紡績、富士電力の勤務を経て、1942年に関東配電(のちの東京電力)に転じ、1951年に取締役に就任し、1953年9月に常務、1961年6月に副社長を経て、1964年8月から1966年8月までに電源開発総裁を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1973年4月に勲二等旭日重光章を受章。1976年3月1日、死去。73歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
内田 三郎(うちだ さぶろう、1899年10月21日 - 1… 内田 三郎(うちだ さぶろう、1899年10月21日 - 1983年1月28日)は、日本の実業家。キヤノン社長を務めた。 岡山県倉敷市出身。1925年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に山一證券に入社。 1933年に吉田五郎とともに精器光学研究所を設立し、1936年にハンザキヤノンの発売を開始した。1954年には社長に就任した。 1983年1月28日、肺水腫のために死去。83歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
米谷 隆三(まいたに りゅうぞう、1899年2月11日 - … 米谷 隆三(まいたに りゅうぞう、1899年2月11日 - 1958年5月3日)は、日本の法学者。専門は、商法・保険学。学位は、法学博士。1955年「約款法の理論」で日本学士院賞受賞。岡山県出身。 岡山県都窪郡茶屋町(現倉敷市茶屋町)生まれ。旧制第一岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業(青山衆司ゼミナール)。 1923年文官高等試験行政科合格、1925年商工省入省、商務局保険課勤務。1929年明治大学兼任講師(火災保険論)を経て、1930年東京商科大学(現一橋大学)助教授兼予科教授就任。ベルリン、ローマ、パリへの留学を経て、1934年第10回国際アクチュアリー会議日本代表。
田辺 泰(たなべ やすし、1899年1月14日 - 1982… 田辺 泰(たなべ やすし、1899年1月14日 - 1982年4月1日)は、日本の建築史・美術史学者。工学博士(1939年)。早稲田大学の建築史担当教授を伊東忠太、佐藤功ーより引き継ぐ。昭和初期に関東地域の社寺建築の調査を行ない、関東系の建築史を大成する。後年は古建築の復元・創作、文化財保護に活躍した。 岡山県倉敷市生まれ。広島県出身。 1924年早稲田大学理工学部建築学科卒、同助手、1925年助教授、1939年「関東地方に於ける古建築の研究」で工学博士の学位を取得。1941年教授。1969年定年、名誉教授。1930 (昭和5) 年、中国および沖縄の建築調査(1931まで、1934-35)。1964(昭和39)年、日本建築大工技能士会会長。
中原 武之輔(なかはら たけのすけ、1898年(明治31年)… 中原 武之輔(なかはら たけのすけ、1898年(明治31年)1月30日 - 没年不明 )は、日本の実業家。元東京軽合金製作所取締役。兄は茨城大学教授を務めた中原重樹。岡山県倉敷市出身。 1898年(明治31年)、岡山県浅口郡玉島町(現:倉敷市玉島)の士族の家系である中原克一郎の三男として生れる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学。1917年(大正6年)に同校を卒業し、山形県にある米沢高等工業学校(現:山形大学工学部)へ進学する。1920年(大正9年)同校機械科を卒業し、当時大企業であった東京瓦斯電気工業(現:いすゞ自動車・日野自動車・DMG森精機)へ就職する。 入社後、中原は東京大森工場へ配属される。
出口 日出麿(でぐち ひでまる、旧名:高見元男、1897年1… 出口 日出麿(でぐち ひでまる、旧名:高見元男、1897年12月28日 - 1991年12月25日)は、大本教の第三代教主補。岡山県倉敷市出身。第二次大本事件にて当時の政府管轄の元特高警察により不当逮捕後、投獄。獄中にて殴打、抜歯、焼鉄、抜爪、ほか、筆舌に尽くし難い凄惨な拷問を受けるが、奇跡的に一命を取り留める。 1897年(明治30年)岡山県倉敷市阿智町に高見元男として生まれる。旧制岡山中学、旧制六高を経て、1924年に京都帝国大学文学部を中退。 1928年、大本の第三代教主となる出口直日と結婚。大本総統補、昭和青年会総裁補、人類愛善新聞社社長など大本の要職につき出口王仁三郎の後継と目される。
岡本 天明(おかもと てんめい、1897年(明治30年)12… 岡本 天明(おかもと てんめい、1897年(明治30年)12月4日 - 1963年(昭和38年)4月7日)は神道家、宗教家、神典研究家。岡山県浅口郡玉島町出身。本名は信之。天明は「雅号」である。 信之は幼少の頃から、他人には見えないものが見えたり(霊視能力)、聞こえたり(霊聴能力)、霊能力を持っている子供だったという(岡本三典『日月神示はなぜ岡本天明に降りたか』)(参)。また、絵が得意で17歳の頃に神戸三宮で絵の個展を開き、新聞に「天才少年画家現る」と称賛されたという。その後、上京し明治大学に学ぶ。紆余曲折を経て大本に出会ったのは1920年(大正9年)、天明が22歳の時だった。 1944年(昭和19年)6月10日、千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)の麻賀多神社の末社である天日津久神社を参拝する。
加藤 猛夫(かとう たけお、1896年1月31日 - 197… 加藤 猛夫(かとう たけお、1896年1月31日 - 1976年1月21日)は、日本の英文学者。大阪大学名誉教授。 岡山県倉敷市出身。別名・東知。1922年東京帝国大学文学部英文科卒。1949年「十七世紀英国社会思想の史的考察」で法政大学文学博士。1924年日本大学教授、東洋大学教授、法政大学教授、1951年お茶の水女子大学教授、1955年大阪大学文学部教授、1959年定年退官、名誉教授、武庫川女子大学教授、南山大学教授。
池田 遙邨(いけだ ようそん、1895年(明治28年)11月… 池田 遙邨(いけだ ようそん、1895年(明治28年)11月1日 - 1988年(昭和63年)9月26日)は、倉敷市出身の日本画家。本名は池田 昇一。長男は同じく画家の池田道夫。 岡山県浅口郡乙島村(現・倉敷市玉島乙島)に生まれる。紡績会社の技師であった父親の転勤に伴い大阪市に転居。幼少より画才があり、1910年(明治43年)大阪の松原三五郎が主宰する天彩画塾に入門し洋画を学ぶ。1914年(大正3年)第8回文展に水彩画「みなとの曇り日」が入選する。わずか18歳での入選が話題となり天才少年画家として名声を得る。 1919年(大正8年)京都市に移り竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入門し日本画に転向する。同年に第1回帝展に「南郷の八月」が入選。
山上 宗治(やまがみ そうじ、1895年〈明治28年〉2月2… 山上 宗治(やまがみ そうじ、1895年〈明治28年〉2月2日 - 1965年〈昭和40年〉5月13日)は、大日本帝国陸軍の法務高等官二等であり法務少将である。二・二六事件、ノモンハン事件の裁判官。岡山県倉敷市出身。 1895年(明治28年)に岡山県児島郡藤戸村(現在の倉敷市)に生れる。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を1913年(大正2年)に卒業し、1915年(大正4年)旧制第六高等学校へ進学。同期には、東京帝国大学教授になる宇野弘蔵、関西大学教授になる高木益郎などがいた。1918年(大正7年)同校を卒業し、同年、郷里の同期である高木益郎と共に、京都帝国大学法学部へ進学する。
小林 喜一郎(こばやし きいちろう、1895年 - 1961… 小林 喜一郎(こばやし きいちろう、1895年 - 1961年)は、日本の洋画家。岡山県倉敷市出身。酒仙と呼ばれるほどの酒好きとして知られ、岡山県内の飲み屋において喜一郎が飲み中に描いた色紙が飾られている店も少なくない。 1895年、倉敷市の酒屋・久平の息子として、久平ら両親が高知県滞在中に生まれる。幼い頃より画家を目指し沙美高等小学校卒業後、東京の美術大学へ行く金を貯める為、1916年に上京。巣鴨の郵便局で配達員として働く傍ら、絵の勉強に勤しんだ。当時この界隈は「池袋モンパルナス」の名の通り画家の卵がたむろしていた場所で、中でも喜一郎は三岸好太郎と交流を深めており、一緒に住んでいたこともある。
滝澤 脩作(たきさわ しゅうさく、1893年(明治26年)8… 滝澤 脩作(たきさわ しゅうさく、1893年(明治26年)8月25日 - 1958年(昭和33年)7月1日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県浅口郡乙島村(玉島町乙島、玉島市乙島を経て現倉敷市玉島乙島)で、滝澤嘉三郎の長男として生まれた。玉島尋常高等小学校を卒業後、神戸市立工業学校で学んだ。 川崎造船所、住友伸銅所での勤務を経て、1922年(大正11年)大阪市東成区猪飼野でボール盤製造を始めていた弟・七三郎に合流して滝澤鉄工所(現:TAKISAWA)を設立した。満州事変以後の工作機械需要の増大を受けて会社は発展し、1933年(昭和8年)郷里の玉島に、1935年(昭和10年)と1938年(昭和13年)には大阪の二箇所に工場を新設した。
中原 重樹(なかはら しげき、1893年(明治26年)7月3… 中原 重樹(なかはら しげき、1893年(明治26年)7月30日 - 1999年(平成11年))は、日本の農林官僚であり教育者でもある。農林省に勤めた後、戦後、茨城大学教授を経て明治大学教授となった。初代日本食肉科学会会長。子の中原逸郎は陸軍大尉。岡山県倉敷市出身。 1893年(明治26年)に岡山県に生まれる。その後、1914年(大正3年)、20歳で旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)卒業を経て、同年、名古屋市にある第八高等学校へ入学し、1917年(大正6年)同校を卒業。同年に東京帝国大学農学部へ入学、1920年(大正9年)7月、27歳で同大学を卒業し、東京毛織会社へ技師農学士として就職した。
大橋 喜久三(おおはし きくぞう、1892年(明治25年)8… 大橋 喜久三(おおはし きくぞう、1892年(明治25年)8月6日 - 1990年(平成2年)12月24日)は、実業家である。日本油脂取締役、ミサワホーム創業顧問、色材協会会長を務めた。岡山県倉敷市出身。 1892年(明治25年)、岡山県都窪郡倉敷町(現:倉敷市)の名家である大橋良平の三男として生れる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学した。同期には、丸善石油社長になる森寿五郎、日窒コンツェルン首脳陣となる笹田直二郎がいた。その後、1911年(明治44年)同校を卒業し、旧制第六高等学校へ進学する。 1915年(大正4年)に同校を卒業し、1916年(大正5年)東京帝国大学農科大学農芸化学科へ進学する。
守分 十(もりわけ ひさし、1890年(明治23年)5月10… 守分 十(もりわけ ひさし、1890年(明治23年)5月10日 - 1977年(昭和52年)1月22日)は、日本の銀行家。元中国銀行頭取。中国銀行の“中興の祖”とされる。 元庄屋守分榮吉の長男として、岡山県浅口郡乙島村(現倉敷市)に生まれる。 北海道拓殖銀行勤務を経て、1922年(大正11年)6月、第一合同銀行倉敷支店長代理として入行する。翌年には、経営の行き詰まっていた山陽商業銀行に支配人として派遣され、第一合同銀行との合併をまとめ上げた。 さらにその後、姫路倉庫銀行にも派遣され、第一合同銀との合併の準備にあたった。 中國銀行の発足に際しては、初代高松支店長に就任。香川銀行との合併に手腕を発揮した。