寺島 尚彦(てらしま なおひこ、1930年7月4日 - 20… 寺島 尚彦(てらしま なおひこ、1930年7月4日 - 2004年3月23日)は、日本の作詞家、作曲家。洗足学園音楽大学教授。娘はソプラノ歌手の寺島夕紗子。
職業が作詞家:815人
寺島 尚彦(てらしま なおひこ、1930年7月4日 - 20… 寺島 尚彦(てらしま なおひこ、1930年7月4日 - 2004年3月23日)は、日本の作詞家、作曲家。洗足学園音楽大学教授。娘はソプラノ歌手の寺島夕紗子。
保富 康午(ほとみ こうご、1930年〈昭和5年〉3月2日 … 保富 康午(ほとみ こうご、1930年〈昭和5年〉3月2日 - 1984年〈昭和59年〉9月19日)は、日本の作詞家。和歌山県西牟婁郡すさみ町出身。名前の別表記は苗字が「保冨」、名前に「庚午」がある(庚午が本名)。現在日本で広く知られている「大きな古時計」の日本語訳の詞を作詞したことで著名。 幼少期は千里山に在住し千里第二小学校を卒業した。のちに同志社大学卒業後、詩人である村野四郎に弟子入りしていたが、知人からミュージカルの台本依頼をされたことを機にテレビの仕事に携わるようになる。 構成作家として『サンデーサン』、フジテレビ『ミュージックフェア』などの歌番組を始め、演歌歌手達のショーの舞台も数多く担当。
岩間 芳樹(いわま よしき、1929年(昭和4年)10月31… 岩間 芳樹(いわま よしき、1929年(昭和4年)10月31日 - 1999年(平成11年)6月13日 )は、日本の脚本家、作詞家。日本放送作家協会理事長。静岡県出身。 静岡県で生まれ、父の転勤で福島県に移る。福島県立福島高等学校を経て、早稲田大学第一文学部に入学するも、学生時代にNHKラジオドラマで脚本家としてデビュー。1952年に中退し脚本家に専念。民放ラジオやテレビ放送が始まるに合わせ脚本家として活躍する。 ドキュメンタリーを得意とし、社会派ドラマを次々と生み出し、『マリコ』(原作柳田邦男・NHK)で第32回芸術選奨放送部門大臣賞、1983年に日仏合作ドラマ『ビゴーを知っていますか』(NHK・アンテンヌ2)でエミー賞国際優秀賞、1993年11月22日放送の『定年、長い余白』(TBS)で第12回向田邦子賞受賞するなど数々の賞を受賞。
野村 耕三(のむら こうぞう、1929年〈昭和4年〉10月1… 野村 耕三(のむら こうぞう、1929年〈昭和4年〉10月14日 - 2001年〈平成13年〉10月15日)は、日本の作詞家、放送作家、脚本家である。日本作詩家協会理事を歴任した。本名同、ペンネームに山野 良夫(やまの よしお)がある。 1929年(昭和4年)10月14日に生まれる。明治大学政治経済学部を卒業後、大蔵事務官に任官(昭和26年)、東京国税局 国税調査官などとして働いた経歴を持つ。 1960年(昭和35年)、西河克己監督、児井英生プロデュースの映画『俺の故郷は大西部』に本名で原作を提供、翌1961年(昭和36年)の野口博志監督、児井プロデュース作『早討ち無頼 大平原の男』以降、「山野良夫」名義で原案・原作を提供する。
島田 陽子(しまだ ようこ、1929年〈昭和4年〉6月7日 … 島田 陽子(しまだ ようこ、1929年〈昭和4年〉6月7日 - 2011年〈平成23年〉4月18日)は、日本の詩人、作詞家。 東京府出身であるが、11歳から大阪府に在住した。豊中高等女学校(現大阪府立桜塚高等学校)卒業。「文章倶楽部」などで小説を書いた後、1960年頃から童謡や児童詩の創作を始める。大阪弁を使った親しみやすい作風の詩で知られる。1981年、日本童謡賞受賞。 また、合唱曲や歌謡曲などの作詞も多数あり、ザ・ワイルドワンズのヒット曲『花のヤングタウン』、1970年の大阪万博のテーマソング「世界の国からこんにちは」の作詞も行っている。 日本文藝家協会、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、日本童謡協会、詩と音楽の会、関西詩人協会会員。
水島 哲(みずしま てつ、1929年2月3日 - 2015年… 水島 哲(みずしま てつ、1929年2月3日 - 2015年6月27日)は、日本の作詞家。 1929年2月3日、宮城県仙台市出身。本名は安倍亮一。 早稲田大学理工学部在学中より音楽業界に入り、1958年に平尾昌章が歌った『星は何でも知っている』で作詞家としてデビュー。 その後、読売新聞社に記者として入社。東京本社文化部記者として音楽関係の記事や評論を書きながら、一方では作詞家として数々の作品を世に送り出す。 1989年頃まで読売新聞に在職しており、その後フリーの音楽評論家となった。 2015年6月27日、大腸癌のため死去。86歳没。 水島は洋楽曲の訳詞、和製ポップス、演歌、グループ・サウンズまでジャンルを問わない創作活動を行っていた。
三佳 令二(みよし れいじ、1928年(昭和3年)10月23… 三佳 令二(みよし れいじ、1928年(昭和3年)10月23日 - 2009年(平成21年)3月10日)は、日本の作詞家、作曲家、音楽プロデューサー、有限会社ドーム音楽出版社代表取締役。慶應義塾大学経済学部卒。東京都出身。本名は名和 治良(なわ はるよし)。別名義に三田 恭次、嵯峨 士郎、名和 治郎(なわ じろう)がある。 ファン・ソヌ(黄善雨)の作詞作曲した韓国の歌謡曲『釜山港へ帰れ』を日本語で作詞し、渥美二郎、ジェロなどのさまざまな歌手によって歌われてきた。他にも『離別』、『大田ブルース』などの曲の歌詞日本語訳や、八代亜紀の『舟唄』、水原弘の『君こそわが命』の制作にも携わった。 2009年3月10日、原発不明癌により、80歳で大田区内の病院にて死去した。
小黒 恵子(おぐろ けいこ、1928年8月27日 - 201… 小黒 恵子(おぐろ けいこ、1928年8月27日 - 2014年4月1日)は、日本の作詞家。 神奈川県川崎市出身。血液型はO型。 サトウハチローに師事。1973年、「ハダシとハダカ」で日本作詩大賞童謡賞を受賞。1982年、「やあ、こんにちは」で赤い靴児童文化大賞。同年、「飛べ、しま馬」「ライオンの子守唄」で日本童謡賞。1990年、川崎市文化賞受賞。1991年には「小黒恵子童謡記念館」を開館した。2001年、勲四等瑞宝章受章。2014年4月1日午後11時23分、慢性呼吸不全のため、川崎市高津区の病院で死去。85歳没。 1897年築の生家(川崎市高津区諏訪)に1991年に開館した。生前の意向に従い、他の資産とともに川崎市に寄贈され、川崎市による再整備後の2017年4月1日に再開館した。
伊野上 のぼる(いのうえ のぼる、1928年8月7日 - 2… 伊野上 のぼる(いのうえ のぼる、1928年8月7日 - 2011年7月9日)は、昭和時代後期日本の作詞家。本名は井上 三夫(いのうえ みつお)。 別名義に乗田 まさみ (正美)、井上 浩志ほか。 1928年(昭和3年)、宮城県刈田郡宮村(現在の蔵王町遠刈田温泉)に7人兄弟の末子として生まれる。少年の頃より本が好きで、文芸雑誌に「井上蔵王」という名で投稿することもあったという。 のちに作詞家の石本美由起に師事。代表作に北原謙二『ふるさとのはなしをしよう』やCMソング『かに道楽』がある。『ふるさとのはなしをしよう』は落語家の立川談志が最も好んだ歌のひとつとされ、談志一門の集まりでは最後にこの歌をみんなで合唱したという。
小林 公平(こばやし こうへい、1928年2月24日 - 2… 小林 公平(こばやし こうへい、1928年2月24日 - 2010年5月1日、旧姓・三村)は、日本の実業家、作詞家。宝塚音楽学校名誉校長、阪急電鉄名誉顧問・元社長・会長。作詞家としてのペンネームは公文 健。 山梨県出身。慶應義塾幼稚舎・慶應義塾普通部を経て、1945年10月海軍兵学校(75期)卒業。のちに小林の前任の日本民営鉄道協会会長を務めた平松一朗は海軍兵学校の同期である。1950年に慶應義塾大学経済学部卒業後、三菱銀行(現在の三菱UFJ銀行)を経て阪急電鉄へ入社。社長、会長、相談役を務めた。阪急百貨店(現・エイチ・ツー・オー リテイリング)でも監査役、取締役、会長を務め、阪急電鉄や東宝との結束をアピールした。
木島 始(きじま はじめ、1928年2月4日 - 2004年… 木島 始(きじま はじめ、1928年2月4日 - 2004年8月14日)は、日本の詩人、英米文学者、翻訳家、童話作家、作詞家。本名は小島 昭三(こじま しょうぞう)。 新日本文学会、日本文芸家協会、各会員。 京都府京都市中京区生まれ。第六高等学校在学中に敗戦を迎える。1947年東京大学文学部英文科入学、学生運動に加わり、東京大学新聞を編集する。また在学中から詩誌「列島」などに加わり、発行人もつとめた。 1951年卒業、東京都立北野高等学校教諭として英語を教える。 1953年野間宏の跋文を得て『木島始詩集』を刊行、1954年専修大学講師、1963年法政大学第一教養部講師となり、助教授、教授を務める。
酒井 祐春(さかい すけはる、1928年 - 1998年10… 酒井 祐春(さかい すけはる、1928年 - 1998年10月15日)は、日本の作詞家。宮崎県出身。 宮崎県南那珂郡吾田村(現在の日南市)一里松出身。旧制飫肥中学校を卒業後、小学校教員を経て書店兼文具店を開業する。店舗は後に酒販業へ転換したが、この頃から文学に興味を持ち1964年(昭和38年)に県が再置80周年記念事業として懸賞募集した2代目「宮崎県民歌」に応募作が一等入選で採用された。 その後は主に標語の分野で活動していたが、作詞分野では都城市茶業協議会の選定で作成され都はるみの歌唱で日本コロムビアからレコードが発売された「都城茶音頭」で入選したのをはじめ、大分県立大分工業高等学校の校歌を手掛けている。
高草木 昭允(たかくさぎ てるちか、1927年〈昭和2年〉1… 高草木 昭允(たかくさぎ てるちか、1927年〈昭和2年〉11月18日 - 1994年〈平成6年〉8月15日)は、日本の作詞家。群馬県桐生市出身。 1927年(昭和2年)、桐生市に生まれる。桐生高等工業学校附属商工専修学校を経て、関東短期大学英文科を卒業。桐生市役所に入庁し総務課へ配属された。公務員としての職務の傍ら作詞に取り組み、教育委員会社会教育課長在職時の1968年(昭和43年)に県が明治百年を記念して実施した3代目県民歌の一般公募で応募作が入選する。これ以降、一般公募や直接の依頼を受けて県内の複数の小中学校で校歌を作詞した。 桐生市立中央公民館長兼青少年センター長、市議会事務局長を経て市総務課長に至る。
川上 宏昭(かわかみ ひろあき、1927年11月6日 - )… 川上 宏昭(かわかみ ひろあき、1927年11月6日 - )は、日本の作詞家。別名義に日野 あきら(ひの あきら)がある。 茨城県水戸市出身。旧制土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を経て1948年(昭和23年)に明治学院専門学校(現在の明治学院大学)を卒業。茨城県内の中学校・高等学校で教諭を務める。1963年(昭和38年)、県が歌詞を公募した「茨城県民の歌」で応募作が入選。これ以後も第29回茨城国体記念の国体音頭や県内の校歌・幼稚園の園歌などの作詞を多数手掛けている。 1964年(昭和39年)に茨城県庁へ入庁し、教育庁社会教育課主事・県立水戸青年の家所長・県立社会教育研修センター所長等を経て1982年(昭和57年)に社会教育課長へ至る。
森 菊蔵(もり きくぞう、1927年〈昭和2年〉5月4日 -… 森 菊蔵(もり きくぞう、1927年〈昭和2年〉5月4日 - 1997年〈平成9年〉1月21日)は昭和・平成期日本の詩人、作詞家、ラジオパーソナリティ。日本詩人クラブ会員。 別名義に槍 一之(やり かずゆき)がある。 群馬県桐生市出身。旧制桐生中学校を経て、慶應義塾大学在学中より地元の群馬2区選出であった衆議院議員・長谷川四郎の秘書を務める。福田正夫の知遇を得て主観社文学会へ入会し、後に『日本詩壇』復刊へ参加した。1955年(昭和30年)、詩集『背後』を刊行。 詩人として活動する傍ら日本抵抗器工業振興会事務局長やNETテレビ番組企画委員を務め、1965年(昭和40年)に株式会社東京企画を設立して以降はいわゆる「代議士ソング」や市町村歌、音頭の企画を精力的に売り込んでいた。
たなか ゆきを(1927年4月26日−2020年10月22日… たなか ゆきを(1927年4月26日−2020年10月22日 )は、東京都出身の作詞家。 明治大学商学部卒業。印刷会社の取締役に就任後、明治大学付属明治高等学校・中学校で教鞭をとりつつ作詞家を志す日々を過ごした。1957年(昭和32年)、既に著名作詞家であった石本美由起の門下生となり、同氏が主宰する歌謡同人誌「新歌謡界」に準同人として入会する。三宅立美、秋田泰治、星野哲郎、八反ふじを、松井由利夫、若山かほる、岩瀬ひろしは、当初からの同門詩友である。1958年(昭和33年)にキングレコードの専属作詞家となり、以後42年間、同社が専属制度を廃止するまで契約を継続し、フリーの作詞家として活動していた。
岩本 敏男(いわもと としお、1927年2月17日 - 20… 岩本 敏男(いわもと としお、1927年2月17日 - 2001年6月7日)は、日本の児童文学作家、作詞家。 京都生まれ。立命館大学中退。 上野瞭らと「馬車の会」を結成。その傍ら古田足日らの「児童文学実験集団」にも参加。1971年「馬車」に発表した連作をナンセンス童話『赤い風船』として刊行。 1980年『からすがカアカアないている』で第11回赤い鳥文学賞を受賞。 加山雄三の「俺は海の子」(作曲:弾厚作)、童謡「でかちびのっぽ」(大中恩作曲)などの作詞家でもある。
三和 完児(みわ かんじ、1926年〈大正15年〉10月4日… 三和 完児(みわ かんじ、1926年〈大正15年〉10月4日 - )はタレント、作詞・作曲家、音楽評論家。 本名は松岡寿夫(まつおか かずお)。ペンネーム:佃清風(つくだ せいふう)。 神奈川県横浜市出身。 東京府南葛飾郡吾嬬町(のち東京市向島区、現墨田区立花)にて鉄筋業 松岡工業(廃業)を経営していた松岡滋忠の子として、9人兄弟の長男として生まれる。 「司会の神様」の異名を持っていた。 1945年旧制日本大学第一中学校(現在の日本大学第一中学校・高等学校)を卒業。 1946年東邦楽劇団バンドマスターを経て、美空ひばり、江利チエミ、藤山一郎等の専属司会者として活動を始める。 1953年最初の民放テレビ「私も出まショー」のレギュラー司会となる。
水木 かおる(みずき かおる、本名:奥村聖二、1926年〈大… 水木 かおる(みずき かおる、本名:奥村聖二、1926年〈大正15年〉7月14日 - 1998年〈平成10年〉7月4日)は、東京府豊多摩郡落合町(現・東京都新宿区)出身の作詞家。旧制二松學舍専門学校卒業。 作詞家デビューは戦前の1937年である。デビュー作は「少年航空兵」この時の名義は「堀とほる」であった。 1959年(昭和34年)、戦後しばらく歌の制作を中止していたポリドールが流行歌制作を再開した際、専属作詞家となる。西田佐知子「アカシアの雨がやむとき」が大ヒットを記録する。その後も、「霧笛が俺を呼んでいる」、「エリカの花散るとき」、「赤い風船」、「くちなしの花」、「みちづれ」、「二輪草」などを作詞する。
塚田 茂(つかだ しげる、1926年(大正15年)3月9日 … 塚田 茂(つかだ しげる、1926年(大正15年)3月9日 - 2008年(平成20年)5月13日)は、日本の演出家、放送作家、構成作家、作詞家、タレント。東京府東京市(現・東京都特別区)豊島区池袋出身。血液型はB型。 東京府立商工学校(現・東京都立北豊島工科高等学校)卒。 太平洋戦争中の1945年2月に徴兵検査で第一種乙種合格、それを受けて翌3月に召集令状が来た。しかし、工科系学校に在籍する特権で2年の入営延期を認められ、日本無線に動員されるという形で勤務。その間に戦争は終結した。塚田は工科系の学生になったのは、特権が狙いだったとも話している。終戦後はしばらくの間、親類の時計店の居候となった。
星野 哲郎(ほしの てつろう、本名:有近 哲郎(ありちか て… 星野 哲郎(ほしの てつろう、本名:有近 哲郎(ありちか てつろう)、1925年9月30日 - 2010年11月15日)は、日本の作詞家であり、戦後歌謡界を代表する作詞家の一人。各所で「星野哲朗」という表記がされることがあるが、「哲郎」が正しい表記。「有田めぐむ」「阿里あさみ」など、数多くのペンネームが存在する。また『銀河鉄道999』の主人公である星野鉄郎と同音異字の同姓同名であることがよく知られているが、この関係から『銀河鉄道999』ファンの中にも漢字表記を混同している者が多く、星野の名前である『哲郎』あるいは『哲朗』と誤認識・誤表記するファンが絶えない。 山口県大島郡森野村(後に東和町→現・周防大島町)出身で、東京都小金井市に在住していた。
岩崎 巌(いわさき いわお、旧字体: 岩崎 巖、1925年〈… 岩崎 巌(いわさき いわお、旧字体: 岩崎 巖、1925年〈大正14年〉2月9日 - 2020年〈令和2年〉4月16日)は、日本の作詞家、教員。早稲田大学学生歌『早稲田の栄光』(補作:西條八十/作曲:芥川也寸志)、応援歌『ひかる青雲』(作曲:古関裕而)ほか、神奈川県立高等学校校歌等を作詞した。 静岡県清水市宮加三(現・静岡市清水区宮加三)に、父大次郎、母そめの三男として生まれる。生後3カ月で母と、5歳の時に父と死別し、親戚に育てられる。その後、叔父の庄太郎・トシ夫妻の養子となる。 その後、庄太郎の仕事の関係で静岡県庵原郡富士川町(現・富士市)から横浜市へ転居する。横浜市立南吉田尋常小学校を経て関東学院中等部で学ぶ。
八反 ふじを(はったん ふじを、1925年1月14日 - 1… 八反 ふじを(はったん ふじを、1925年1月14日 - 1975年4月7日)は、宮崎県小林市出身の作詞家。 宮崎県小林市内にある老舗金物問屋「八反金物店」の長男として生まれる。幼いころ母を亡くし寂しい少年時代を過ごした。地元の小林高校を卒業後、父・留男の奨めもあり、医師を目指し上京、日本大学医学部に進んだ。太平洋戦争の最中ではあったが、医学生のため徴兵が猶予されていた。1945年3月10日の東京大空襲では医学生として負傷者の手当および遺体の収容作業に動員され、悲惨な光景を目の当たりにしている。終戦直前に召集令状が届き、本土決戦に備え満州から小林町に移駐してきていた山砲連隊に軍医として入営するも程なく終戦となり、部隊が連合軍と交戦することはなかった。
太田 武彦(おおた たけひこ、1925年1月5日 - 没年不… 太田 武彦(おおた たけひこ、1925年1月5日 - 没年不明)は、日本の作詞家、元自衛官。別名義に太田 かおる、太田 かほる。 現在の東京都江戸川区生まれ。1944年(昭和19年)に旧制上野中学校を卒業後、陸軍少年飛行兵に志願して終戦を迎える。復員後は国警秋田県本部に採用され警察官となったが、1950年(昭和25年)の警察予備隊発足と同時に入隊して以降、陸上自衛隊で仙台・青森・札幌・帯広を経て美幌駐屯地に転属した。 美幌時代は本名もしくは「太田かほる」名義で作詞の懸賞募集への投稿を精力的に行い、1966年(昭和41年)に北海道が公募した「道民のうた」で応募作「光あふれて」が入選した。以降も1970年(昭和45年)の日本万国博覧会公式テーマソング「世界のひろばで」、三越の2代目社歌などで入選。
菊村 紀彦(きくむら のりひこ、1924年12月15日- 2… 菊村 紀彦(きくむら のりひこ、1924年12月15日- 2010年)は、日本の仏教学者、著述家、翻訳家、作曲家、作詞家、音楽プロデューサー、東京シャンソン協会初代会長。 「菊村紀彦」は書籍を執筆したり、音楽を作曲したりするときの筆名であるが、弟子たちからも「菊村先生」としか呼ばれておらず、事実上の名前にも等しい。戸籍名は、椎名重胤。 東京出身。東洋大学大学院仏教学研究科修士課程修了。浄土教学空性論専攻。日本仏教思想研究所長、日本仏教学院長、寂光山檀林寺管主、日本仏教書道研究会長を務めた。 先祖は高松藩の椎名氏。明治時代に財を成した椎名秀胤の子孫筋に当たり、父の長兄・椎名芳胤は、大正時代の日本鉱業株式会社の営業部長から幹部にのぼりつめた実業家で、のちに久原房之助、鮎川義介らと共に日本鉱業の実権を握っていた人物の一人であった。
石本 美由起(いしもと みゆき、男性、1924年〈大正13年… 石本 美由起(いしもと みゆき、男性、1924年〈大正13年〉2月3日 - 2009年〈平成21年〉5月27日)は、日本の作詞家。本名は美幸。 荒廃した戦後の日本に希望に満ちた歌詞で永遠に歌い継がれる名曲を生んだ、昭和の歌謡界を代表する作詞家の一人である。広島県大竹市立戸出身。 幼少から喘息を患い、家に閉じこもるような生活を送る。生家は宮島や江田島など瀬戸内海を見渡せる風光明媚な場所に建ち、幾分救われる。そばにある文学は全て読んだが、なかでも北原白秋やゲーテを読みふけった。1944年、海軍大竹海兵団に入隊するが、すぐ体調を崩して岩国海軍病院に入院。慰問に来た東海林太郎の歌声に戦争に傷ついた兵士たちが瞳を輝かせるのを見て歌の魅力を知った。
井上 梅次(いのうえ うめつぐ、1923年5月31日 - 2… 井上 梅次(いのうえ うめつぐ、1923年5月31日 - 2010年2月11日)は、日本の映画監督、脚本家、作詞家である。 京都市生まれ。京都市立第一商業学校を卒業後、慶應義塾大学経済学部に入学するも、1943年応召、1945年に復学して1947年に卒業。在学中から出入りしていた新東宝に正式に入社。自作の脚本を盛んに売り込み、1952年、わずか5年で『恋の応援団長』で監督に昇進。雪村いづみの音楽映画などを手掛けた。 1955年、日活に移籍。当時売り出し中の石原裕次郎の映画を担当し、『嵐を呼ぶ男』が大ヒット。裕次郎は大スターとしての地位を確立した。 1960年フリーになり、新東宝、日活以外の邦画四社で活躍。
遠山 徳男(とおやま とくお、1923年3月 - 1981年… 遠山 徳男(とおやま とくお、1923年3月 - 1981年8月)は日本の農家、作詞家。 第二次世界大戦後の復興期に作られた宮城県の2代目県民歌「輝く郷土」の作詞者。名前の表記を「徳雄」とする資料も見られる。 1923年(大正12年)3月、宮城県桃生郡桃生村永井表(現在の石巻市桃生町永井)で農家の長男として生まれる。桃生尋常小学校(現在の石巻市立桃生小学校)在学中より成績優秀で、雑誌に短歌を投稿して何度か掲載されたことがある。 1944年(昭和19年)9月に応召、配属先の仙台東部第22連隊で終戦を迎え、復員する。1946年(昭和21年)、宮城県が河北新報社と合同で1938年(昭和13年)制定の「宮城県民歌」に代わる2代目の県民歌を懸賞募集した際に応募作が一等入選で採用され、村を挙げた祝賀行事が盛大に行われた。
宮川 哲夫(みやかわ てつお、1922年2月7日 - 197… 宮川 哲夫(みやかわ てつお、1922年2月7日 - 1974年9月30日)は、昭和期の歌謡曲作詞家。伊豆大島、大島町波浮港出身。 1922年(大正11年)、東京府大島町波浮港4番地、父・宮沢源之助と母・登代の間に生まれる。自宅以外に別荘を2軒持つ程の大きな網元「宮鉄」の長男であった。当時の波浮港は、沖に日本有数の漁場「大室出し」を抱え、全国から漁船が集まり、「銚子か、波浮か?」と歌われるほど、漁港町として繁栄していた。祖父が演劇が好きで、伊豆の踊り子一座に、別宅を貸し与えていた。 1927年(昭和2年)、5歳のとき、野口雨情作詞、中山晋平作曲の「波浮の港」がビクターから発売され、全国を風靡した。
板倉 文雄(いたくら ふみお、1922年〈大正11年〉- 1… 板倉 文雄(いたくら ふみお、1922年〈大正11年〉- 1989年〈平成元年〉)は、日本の作詞家。茨城県稲敷郡岡田村(現在の牛久市)出身。 茨城県稲敷郡岡田村(現在の牛久市)大字東大和田町(現在の東大和田町)出身。 昭和25年、26年、27年ごろに板倉が書いた「泪の夜汽車・泣くな片妻」を作曲平川浪竜(後に岸壁の母を作曲した)が手掛け、大ヒットを記録した。昭和57年には牛久市立下根中学校の開校に伴い、校歌の作詞を手掛けた。 門下に小樽のひとよを作詞した池田充男やうしくかっぱ祭りの河童ばやしを作詞した中島清治などがいる。作詞家として活躍した石本美由起(2009年逝去)は、若き日に同じく作詞家である板倉文雄を「胸中ひそかに生涯のライバルとしていた」という。
西條 文喜(さいじょう ふみき、1921年10月23日 - … 西條 文喜(さいじょう ふみき、1921年10月23日 - 1988年6月9日)は、日本の映画監督、脚本家、作詞家・詩人である。本名は伊奈 文喜(いな ふみき)、別名は鶴巻 次郎(つるまき じろう)。詩人としては本名を名乗った。 1921年(大正10年)10月23日、東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)に生まれる。伯父に作詞家の西條八十(1892年 – 1970年)、叔父に映画監督の伊奈精一(1898年 – 1962年)がいる。 旧制・駒込中学校(現在の駒込高等学校)に進学、叔父・伊奈精一の影響により幼少より映画に親しみ、1940年(昭和15年)3月、同校を卒業するとともに、叔父の紹介を得て、同年4月、新興キネマに入社する。
高月 ことば(たかつき ことば、1921年7月30日 - 2… 高月 ことば(たかつき ことば、1921年7月30日 - 2006年10月18日)は、日本の作詞家である。本名は-辞(-ことば)。渡哲也の『東京流れ者』(1965年)や、白根一男の『はたちの詩集』(1961年)、木立じゅんの『484のブルース』(1968年、補作詞)で知られる。 1921年(大正10年)、愛媛県宇和島市に生まれる。 1955年(昭和30年)、作詞家の清水みのるに師事する。その後、東芝レコードに「専属作詞家第1号」として入社し、その後、テイチクレコードを経て、フリーランスの作詞家となった。 日本音楽著作権協会(JASRAC)、日本作詩家協会で、それぞれ評議員を務めた。 2006年(平成18年)10月18日、18時30分、胃がんのため岡山県倉敷市の病院で死去、84歳没。
神山 清志(かみやま きよし、1921年3月9日 - 198… 神山 清志(かみやま きよし、1921年3月9日 - 1982年11月7日)は日本の新聞記者、作詞家。別名義に岡 きよし(おか きよし)、岡 久美子(おか くみこ)、岡 秋二(おか しゅうじ)、深山 しぐれ(みやま しぐれ)。 1921年(大正10年)、栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾町)に生まれる。小学生の頃から詩作に取り組み、20歳の時には西條八十が主宰する詩誌『蝋人形』の同人として活動していた。戦後は引き続き高橋掬太郎に師事していたが、1948年(昭和23年)11月に毎日新聞社へ入社し足尾通信部を振り出しに宇都宮支局、佐野通信部に勤務。 1962年(昭和37年)、栃木県が主催した県民歌の歌詞募集で応募作が入選する(岡きよし名義)。
宅嶋 徳光(たくしま のりみつ、1921年 - 1945年4… 宅嶋 徳光(たくしま のりみつ、1921年 - 1945年4月9日)は、大日本帝国海軍の軍人、作詞家。海軍中尉。松島航空隊機長。 福岡市博多区生まれ。奈良屋小学校を経て旧制福岡高等学校に進み、慶應義塾大学法学部政治科を卒業後、鉄道省に奉職。 1943年9月に海軍航空隊へ志願し、海軍飛行科予備学生(第13期)に合格。三重海軍航空隊に入隊。1944年5月に海軍少尉に任官。 筆が立つことで知られ、やがて鹿児島出水海軍航空隊に移動し、飛行訓練の合間に記された手記(「くちなしの花」)は、戦後に多くのメディアで取り上げられ、出版もされている。手記の一部を引用し、美空ひばりが補作詞した「白い勲章」は、船村徹の作曲によって美空ひばりのシングルレコードとして発表されている。
東条 寿三郎(とうじょう じゅさぶろう、1920年12月1日… 東条 寿三郎(とうじょう じゅさぶろう、1920年12月1日 - 2003年11月26日)は福島県出身の作詞家。 法政大学卒業後、1950年にキングレコード専属作詞家となり、代表作は1951年に津村謙が歌唱した「上海帰りのリル」。「リル リル…誰かリルを知らないか」のフレーズが大流行した。主に渡久地政信・吉田矢健治とコンビを組み、主な作品は他に「雨降る街角」「吹けば飛ぶよな」「星屑の町」などがある。 2003年11月26日午前2時55分、老衰のため千葉県柏市の病院で死去。享年82。
鈴木 道明(すずき どうめい、1920年11月12日 - 2… 鈴木 道明(すずき どうめい、1920年11月12日 - 2015年12月23日)は、日本の作詞家・作曲家。東京府(現東京都)出身。 旧制早稲田中学校、早稲田大学卒業。学生時代は競泳選手であり、1940年に開催される予定であった東京オリンピック日本代表候補選手であった。大学卒業後に帝国陸軍飛行戦隊に入営し、戦闘機の搭乗員として南方戦線に出征した経験を持つ。 復員後、発足したばかりのラジオ東京(後のTBS〔東京放送〕)に入社し、テレビ・ラジオの音楽番組のプロデューサーやディレクターとして数々の番組を担当し、TBSでは編成局次長や第二演出部長の要職に就いていた。 その一方ではソングライターとして西田佐知子、日野てる子などに自作の楽曲を提供・発表し、数々のヒット曲を世に送り出した。
川内 康範(かわうち こうはん、1920年〈大正9年〉2月2… 川内 康範(かわうち こうはん、1920年〈大正9年〉2月26日 - 2008年〈平成20年〉4月6日)は、日本の作詞家、脚本家、政治評論家、作家。本名は川内 潔(かわうち きよし)。北海道函館市出身。 1920年(大正9年)、函館市青柳町の日蓮宗住職の家に生まれた。実家は寺を持たず貧しい生活で、大森尋常小学校(現・大森浜小学校)を卒業後、様々な職業を転々とする。大都映画で大道具だった兄を頼って上京、新聞配達をしながら独学で文学修業を重ね日活のビリヤード場に就職、人脈を広げて日活の撮影所に入社する。 1941年(昭和16年)に東宝の演劇部へ入社。やがて撮影所の脚本部へ転属となり、特撮や人形劇映画を担当した。
宮澤 章二(みやざわ しょうじ、1919年6月11日 - 2… 宮澤 章二(みやざわ しょうじ、1919年6月11日 - 2005年3月11日)は、日本の詩人・作詞家。
小島 貞二(こじま ていじ、1919年3月21日 - 200… 小島 貞二(こじま ていじ、1919年3月21日 - 2003年6月24日)は、日本の著作家、相撲・プロレス・演芸評論家にしてそれらの歴史研究者、作詞家。 相撲関係の雑誌などでは大須 猛三(おおす もうさん)のペンネームを使っていたことがある。 愛知県豊橋市出身。旧制豊橋中学校(現:愛知県立時習館高等学校)を卒業後、漫画家を志して上京し、川原久仁於に師事して絵を描いていたが、身長182cmの体格を見込まれて大相撲の出羽海部屋に入門することになり、1938年5月場所に本名で初土俵を踏む。双葉山の70連勝を阻止した平幕時代の安芸ノ海の付け人を経験し、その70連勝阻止の瞬間を裏方からの目線で見た著作がある(別冊1億人の昭和史 昭和大相撲史)。
西沢 爽(にしざわ そう、本名、西澤 義久(にしざわ よしひ… 西沢 爽(にしざわ そう、本名、西澤 義久(にしざわ よしひさ)、1919年(大正8年)1月9日 - 2000年(平成12年)7月19日)は、日本の作詞家、元日本作詩家協会会長、文学博士。 東京府出身。1954年(昭和29年)から日本コロムビアの専属となり、島倉千代子「からたち日記」、「恋しているんだもん」「星空に両手を」、美空ひばり「ひばりの佐渡情話」、「波止場だよ、お父つぁん」、水原弘「女の爪あと」、小林旭「さすらい」、舟木一夫「学園広場」など数々のヒット曲を世に送り、戦後の大衆音楽に多大な影響を与えた。 1974年(昭和49年)、休筆を宣言し、作詞活動の第一線から身を引く。その後、中世以降の歌謡曲研究に専念し、「日本近代歌謡史」、「雑学歌謡昭和史」などを著した。
松本 旭(まつもと あさひ、1918年6月29日 - 201… 松本 旭(まつもと あさひ、1918年6月29日 - 2015年10月30日)は、日本の俳人、俳句研究家、国文学者、作詞家。埼玉大学名誉教授、城西大学女子短期大学部教授。従四位。 埼玉県大石村(現・上尾市)出身。本名の読みは「あきら」。東京文理科大学卒業後、埼玉県立浦和高等学校で教鞭を執った。埼玉大学教育学部助教授、教授、1972年から1975年まで埼玉大学教育学部附属小学校校長兼任。1983年定年退官、名誉教授、城西大学女子短期大学部教授。 加藤楸邨、角川源義に師事して俳句を詠み、1978年俳誌『橘』を創刊、主宰。妻も俳人の松本翠。「村上鬼城研究」で俳人協会評論賞受賞。連歌・近代俳句の研究家でもあった。
丘 灯至夫(おか としお、1917年〈大正6年〉2月8日 -… 丘 灯至夫(おか としお、1917年〈大正6年〉2月8日 - 2009年〈平成21年〉11月24日)は日本の作詞家。本名は西山安吉。丘灯至夫以外にも丘十四夫、河野一郎など数々のペンネームを持つ。 好々爺として知られ、その明るい人柄から作品も明るい青春歌やホームソング的なものが多い。代表作は『高原列車は行く』、『高校三年生』、『あこがれの郵便馬車』など。アニメの主題歌なども手がけており、『ハクション大魔王』、『みなしごハッチ』、『ガッチャマンファイター』などが知られている。 ペンネームの由来は、新聞記者としての経験から「押しと顔」を逆から読んだものといわれている。新聞記者は押しが強くて面の皮が厚い、と言われることから。
山崎 正(やまざき ただし、1916年〈大正5年〉8月20日… 山崎 正(やまざき ただし、1916年〈大正5年〉8月20日 - 1968年〈昭和43年〉1月19日)は、日本の作詞家。代表作の『お富さん』は春日八郎の歌唱により戦後日本の復興を代表するヒット曲のひとつとなった。 東京市亀戸町に生まれ、母親の再婚を機に群馬県高崎市に転居、旧制高崎中学卒業後、東京美術学校に入学、高橋掬太郎門下で作詞を学び、歌謡同人誌「幌馬車」の同人となる。 1937年、日中戦争による召集で高崎歩兵第15連隊に入隊、同年9月20日、傷病により現地の野戦病院に収容、翌10月4日に満州チチハル陸軍病院に転院。病院で作詞を続け『踊る支那兵』を「幌馬車」に発表。帰還後に前橋市の料亭「鳥辰」の長女ふみ子と結婚、1942年に作詞した『暁の門出』『茶作り次郎長』『軍歌千里」がレコード化されプロの作詞家としてデビューするも、1944年に再び召集、東部軍管区宇都宮師管区歩兵第三補充隊(東部第38部隊)の兵長として内地で終戦を迎える。
知名 定繁(ちな ていはん、1916年5月6日 - 1993… 知名 定繁(ちな ていはん、1916年5月6日 - 1993年7月25日)は、沖縄民謡の歌手、作詞・作曲家。知名定男の父として知られている。 沖縄県具志川市(現在のうるま市具志川)生まれ。太平洋戦争中は現在の北九州市で暮らしながら筑豊炭田で働いていた。その際に息子の知名定男が生まれた。 戦後しばらくの間、大阪で暮らし、関西における沖縄音楽の中心的人物の一人となるが、1956年、定男ら家族を引き連れて沖縄に密航。 1957年に設立された琉球民謡協会の二代目会長に就任し、宮廷音楽湛水流の研究や箏曲譜などの編纂にも取り組んだ。 作詞・作曲家としても活躍し、名作の数々は現在でも沖縄県内で広く歌い継がれている。
岩谷 時子(いわたに ときこ、1916年(大正5年)3月28… 岩谷 時子(いわたに ときこ、1916年(大正5年)3月28日 - 2013年(平成25年)10月25日)は、日本の作詞家、詩人、翻訳家。本名:岩谷 トキ子(読み同じ)。歌手・越路吹雪のマネージャーを務めたことでも知られる。
大高 ひさを(おおたか ひさを、1916年(大正5年)3月1… 大高 ひさを(おおたか ひさを、1916年(大正5年)3月11日 - 1990年(平成2年)9月2日)は、昭和期の作詞家。 北海道小樽市生まれ。テイチク専属作詞家として多数の作品を残し、「玄海ブルース」、「海のジプシー」、「肩で風切るマドロスさん」、「玄海エレジー」(田端義夫)、「君忘れじのブルース」(淡谷のり子)、「アリラン」、「トラジ」、「江の島悲歌」、「連絡船の唄」、「木浦の涙」(菅原都々子)、「炭坑節」(美ち奴)、「泪の連絡船」(真木不二夫)、「東京ロマンス・タイム」(楠トシエ)、「流転笠」(今村隆)、「浮草小唄」(鈴木三重子)、「しのび泣く青春」、「青い夜霧の港町」(大木実)、「カスバの女」(エト邦枝)、「ひとりぽっちの青春」、「世界を賭ける恋」、「男の友情背番号・3」、「街から街へつむじ風」、「王将・夫婦駒」、「夜霧の慕情」「泪が燃える」(石原裕次郎)、「銀座の恋の物語」(石原裕次郎、牧村旬子)、「文左たから船」(三波春夫)などがある。
高城 俊男(たかじょう としお、1916年 - 1997年1… 高城 俊男(たかじょう としお、1916年 - 1997年10月31日)は、昭和時代後期から平成時代にかけて活動した日本の作詞家。俳号は渓水(けいすい)。 1916年(大正5年)、鹿児島県鹿児島郡伊敷村大字小山田(現在の鹿児島市小山田町)で農家の長男として出生。鹿児島工業学校在学中に漫画家を志し、卒業後に上京して田河水泡から弟子入りを認められアシスタントとして活動したが、実家から呼び戻されたためデビューを断念し私立校の教員となった。 鹿児島へ帰郷したのち1950年(昭和25年)に公募展で入選してから作詞家として活動するようになり、1972年(昭和47年)には市が第27回太陽国体の開催を記念して懸賞公募した「鹿児島市民歌」で応募作が入選したのを始め公募や依頼で生涯に約140曲を作詞している。
難波 春水(なんば しゅんすい、1915年3月30日 - 1… 難波 春水(なんば しゅんすい、1915年3月30日 - 1947年10月)は、昭和時代前期日本の作詞家。別名義に芳賀 武(はが たけし)がある。 1915年(大正4年)、鹿児島県川辺郡知覧村(現在の南九州市)に生まれる。村立知覧小学校高等科を卒業後、県立薩南工業学校建築科を経て大阪高等工業学校を卒業した。 帰郷後の1940年(昭和15年)、華北交通が懸賞募集した社歌で一等入選。1942年(昭和17年)には鹿児島日報(南日本新聞の前身紙)が真珠湾攻撃で戦死した横山正治を顕彰する歌の選定を企画し、懸賞募集を行った「あゝ軍神横山少佐の歌」に「芳賀武」名義で入選した。戦後は広島県の「三原市々歌」に本名、大阪府の「高槻市歌」および鹿児島県の「川内市民歌」に「芳賀武」名義で相次いで入選したが、このうち「高槻市歌」の発表演奏が行われたのと同時期の1947年(昭和22年)10月に急逝した。
加賀 大介(かが だいすけ、1914年〈大正3年〉10月1日… 加賀 大介(かが だいすけ、1914年〈大正3年〉10月1日 - 1973年〈昭和48年〉6月21日)は、石川県能美郡根上町(現能美市)生まれの作詞家。出生名・中村 義雄。後に本名をペンネームの一つでもあった加賀大介に改名。 1948年に朝日新聞が募集した全国高等学校野球選手権大会の大会歌に、婚約者(後に妻)であった当時23歳の金沢地方貯金局職員・高橋道子(結婚後は中村道子)の名前を借りて「加賀道子」の筆名で応募し、5,252篇の中から選ばれた。この歌は『栄冠は君に輝く』として知られる。 妻の名前を借りて応募したのは、当時加賀が短歌や演劇の会を主宰し、脚本を書いていたプロの文筆家であったため「懸賞金目当て」と思われるのが嫌だったからである。
加藤 省吾(かとう しょうご、1914年7月30日 - 20… 加藤 省吾(かとう しょうご、1914年7月30日 - 2000年5月1日)は、静岡県富士市出身の作詞家。孫は声優の加藤有生子。 青春時代に聴いた流行歌「丘を越えて」に触発され、作詞家を志すようになった。1935年に単身上京、印刷会社に就職し、合間を縫って自作の歌詞をレコード会社に売り込んだ。1937年に書いた「かわいい魚屋さん」が山口保治の作曲を得て翌1938年にレコード化され、初のヒットとなった。その後音楽新聞社の記者を務めながら作詞を続ける。1946年には海沼實の依頼で創作した「みかんの花咲く丘」が空前の大ヒット、1949年にコロムビアと専属契約を結ぶ。1957年にキングレコードに移籍後は、子供向けテレビ番組の主題歌「隠密剣士の歌」「快傑ハリマオ」などがヒットした。