蘆谷蘆村(あしや ろそん、1886年11月14日 - 194… 蘆谷蘆村(あしや ろそん、1886年11月14日 - 1946年10月15日)は日本の口演童話の研究家、児童文学の作家である。キリスト教精神と欧米の童話を基盤に、伝承童話の研究の基礎を築いた。また近代詩の詩人として、北原白秋、三木露風の同時代に活躍した詩人でもある。 蘆谷ろそんとも表記される。本名は重常 1886年(明治19年)島根県松江市に生まれ、栃木県で育つ。国民英学会で中等教育を受ける。 1904年頃、17歳頃栃木県宇都宮市の栃木県立宇都宮農学校(現、栃木県立宇都宮白楊高等学校)の学生時代に、東洋宣教会の宣教師アーネスト・キルボルンの宇都宮の福音伝道館で求道を始める。同級生の森五郎を福音伝道館に誘う。
佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年〈明治19年〉10月… 佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年〈明治19年〉10月5日 - 1933年〈昭和8年〉9月29日)は、日本の民俗学者、作家、文学者、文学研究者、民話・伝説・習俗・口承文学の収集家、研究家。一般には学者として扱われるが、佐々木自身は資料収集者であり学者ではないと称している。 オシラサマやザシキワラシなどの研究と、400編以上に上る昔話の収集は、日本の民俗学、口承文学研究の大きな功績で、「日本のグリム」と称される。 岩手県土淵村(現在の岩手県遠野市土淵)の裕福な農家に育つ。母方の祖父である万蔵は近所でも名うての語り部で、喜善はその祖父から様々な民話や妖怪譚を吸収して育つ。その後、祖父の医者になる期待を背負い、明治35年、岩手県医科学校(現在の岩手医科大学)に入学するも、医師としての将来を思い描くことができず、2年後に中退する。
酒井 忠純(さかい ただひさ、1886年(明治19年)8月2… 酒井 忠純(さかい ただひさ、1886年(明治19年)8月25日 - 1964年(昭和39年)7月5日)は、昭和時代前期の銀行家、軍人、陸軍中尉・従七位、考古学研究家。荘内銀行初代頭取。庄内民俗学会会長、山形県文化財保護協会理事。幼名は徳太郎、号は松堂。 最後の藩主である酒井忠宝の長男として鶴岡郊外大宝寺村(現:鶴岡市)で生まれる。若い頃から考古学に興味を持ち、庄内各地を踏査し、史料収集につとめ、長年にわたり遺跡・遺物の調査と保存につとめた。その一方で、金融界でも活躍し、1939年(昭和14年)9月に菅實のあとを受け、六十七銀行頭取に就任し、41年4月には合併後の荘内銀行頭取に推され、44年10月まで在任し、48年10月までは会長を務めた。
岡本 一平(おかもと いっぺい、1886年〈明治19年〉6月… 岡本 一平(おかもと いっぺい、1886年〈明治19年〉6月11日 - 1948年〈昭和23年〉10月11日)は、日本の画家・漫画家・文筆家・仏教研究家。妻は歌人・小説家の岡本かの子。長男は芸術家の岡本太郎。 義弟(妹の夫)に洋画家の池部鈞がおり、甥は俳優の池部良。 津藩に仕えた儒学者、岡本安五郎の次男で書家の岡本可亭(本名:良信(喜信)、通称:竹二郎)と母・正の長男として北海道函館区汐見町に生まれる。東京・大手町の商工中学校から東京美術学校西洋画科に進学し、藤島武二に師事する。この時美校の同級生、中井金三の仲介で大貫カノ(岡本かの子)と知り合い、後に和田英作の媒酌で2人は結婚するが岡本家に受け入れられず、2人だけの新居を構えた。
塚本 虎二(つかもと とらじ、1885年8月2日 - 197… 塚本 虎二(つかもと とらじ、1885年8月2日 - 1973年9月9日)は、キリスト教無教会主義の伝道者、新約聖書研究家。
木下 杢太郎(きのした もくたろう、1885年(明治18年)… 木下 杢太郎(きのした もくたろう、1885年(明治18年)8月1日 - 1945年(昭和20年)10月15日。本名:太田正雄)は、静岡県出身の詩人、劇作家、翻訳家、美術史・切支丹史研究家。 東京帝国大学医科大学で学ぶ傍ら「パンの会」を興し、これと前後して『明星』『中央公論』『スバル』『白樺』で、詩のほか短歌・戯曲・小説などを発表。作風は南蛮情緒的、切支丹趣味、耽美享楽的などと評された。のち、自費によるヨーロッパ留学を経て愛知医科大学、東北帝国大学、東京帝国大学の医学部教授を歴任し、傍らで文明批評や随筆紀行を著述した。筆名はほかに、堀花村(ほりかそん)、地下一尺生、葱南(そうなん)、北村清六などがある。
堀川 安市(ほりかわ やすいち、1884年(明治17年)3月… 堀川 安市(ほりかわ やすいち、1884年(明治17年)3月28日 - 1981年(昭和56年)1月8日)は、日本・台湾の教員・自然史研究家。教員として各地を転々とした中で自然史・理科教育の研究で功績を残した。特に1917年(大正6年)-1947年(昭和22年)の30年間を台湾・台北市で過ごし、その間に台湾の自然史研究で多数の報告・執筆を行った。 明治17年(1884年)3月28日、長崎県西彼杵郡雪浦村(現・西海市大瀬戸町雪浦地区)の農家の長男として生まれたが、幼い頃から動植物への興味関心が高かった。雪浦尋常小学校補習科(現・西海市立雪浦小学校)修了後は農業をしていたが、学問の道を志して20歳にして佐賀県立農学校(現・佐賀県立佐賀農業高等学校)へ進んだ。
沢村 専太郎(さわむら せんたろう、1884年〈明治17年〉… 沢村 専太郎(さわむら せんたろう、1884年〈明治17年〉1月1日 - 1930年〈昭和5年〉5月23日)は、日本の東洋美術・美術史研究家、詩人。京都帝国大学文学部教授。第三高等学校寮歌を作詞し、詩人としては沢村 胡夷(さわむら こい)と号した。 明治17年(1884年)1月1日、滋賀県犬上郡彦根町京町(現彦根市京町)に、鉄道技師沢村伝次郎と定夫妻の長男として誕生した。父母が台湾に移住したため、祖父母により養育された。明治31年(1898年)滋賀県立第一中学(現彦根東高等学校)に入学し、明治36年(1903年)9月第三高等学校第一部に入学、明治39年(1906年)9月京都帝国大学文科大学哲学科に入り美学美術史を専攻、明治42年(1909年)7月『日本詩律論』を論文提出し卒業した。
杉原祥造(すぎはらしょうぞう、1883年〈明治16年〉7月 … 杉原祥造(すぎはらしょうぞう、1883年〈明治16年〉7月 - 1926年〈大正15年〉2月)は、日本の刀剣研究家。長年行方不明になっていた数珠丸恒次を再発見した人物として知られる。 1883年(明治16年)7月、兵庫県尼崎市にて生まれる。当初は歯科医を志して大阪にある歯科医院の書生となり、次いで東京にある歯科医専へ進学する。1902年(明治35年)春、19歳の頃に海軍水路部技師を務める傍ら刀剣研究を行っていた神津伯と出会ったことがきっかけで日本刀に魅せられ、歯科医専を中退して刀剣研究に没頭していった。 1918年(大正7年)には國學院大學で刀剣の講義を毎月行なうなど、刀剣研究家として活動するようになる。
奥田 誠一(おくだ せいいち、1883年6月15日 - 19… 奥田 誠一(おくだ せいいち、1883年6月15日 - 1955年10月27日)は、日本の陶磁器研究家。三重県津市西新町出身。三重県尋常中学、東京帝国大学文科大学心理学科卒。号は次郎坊、無背庵、無背道人、無背廬。東大心理学科副手、東大美術史研究室助手を経て、特許局勤務、農商務省技師を兼任した。古陶磁を研究し、1914年、東京帝国大学文科大学心理学教室内に大河内正敏らと陶磁器研究会を開設。のち、同会に属する大河内正敏、佐藤功一ら会員有志により結成された彩壺会に参加。1924年、東洋陶磁研究所を創設。国宝保存会委員、文化財専門審議会専門委員、重要美術品等調査会委員、東大講師、工大講師、帝室博物館学芸課学芸委員。
仁部 富之助(にべ とみのすけ、1882年(明治15年)12… 仁部 富之助(にべ とみのすけ、1882年(明治15年)12月15日 - 1947年(昭和22年)1月11日)は、日本の鳥類研究家、農業改良家。「鳥のファーブル」と称された。 秋田県岩城町(現在の由利本荘市の一部)出身。1901年に秋田県農学校を卒業し、大曲の農商務省農事試験場陸羽支場に農業技師として勤めた。ここで、寺尾博とともに新品種のイネ「陸羽132号」を生み出した。 イネの新品種の開発の傍ら鳥類の観察を始め、1915年に「敦公の蕃殖に関する研究」を発表した。1923年の行政整理に際し依願退官し、1925年には農商務省により委嘱を受け、野鳥の生態研究に専念した。1936年に著書「野の鳥の生態」を発表した。
大曲 駒村(おおまがり くそん、1882年10月8日 - 1… 大曲 駒村(おおまがり くそん、1882年10月8日 - 1943年3月24日)は、日本の美術評論家、川柳研究家。本名・省三。 福島県相馬郡小高町(現・南相馬市)に生まれる。1892年、小高小学校を卒業し、福島県尋常中学校(現福島県立安積高等学校)へ入学するも病気退学。 1900年、小高銀行に就職。1901年、友人の鈴木余生と俳句グループ「渋茶会」を結成し、俳句を始める。1906年、余生が死ぬと新たに「浮舟会」を結成し、明治20年から30年代に正岡子規と一門らが始めた俳句・短歌の一大革新運動にも参加。1911年、福島県に関連する句を選び出した『雙巌集』を刊行。小高俳壇草創期のリーダーであった。 1917年、小高銀行が倒産して失職する。
石割 松太郎(いしわり まつたろう、1881年1月24日 -… 石割 松太郎(いしわり まつたろう、1881年1月24日 - 1936年6月29日)は、演劇および演芸研究家・評論家。ジャーナリスト。 大阪府堺出身(生家跡は堺市立青少年センターになっており、碑が建立されている)。 1905年早稲田大学文学部卒業。国書刊行会、日本新聞、都新聞、帝国新聞、大阪新報各社を経て1917年大阪毎日新聞社に入り、劇評を担当した。 1922年、『サンデー毎日』の発刊に参加したが、白井喬二の『新撰組』を同紙に掲載する際、初めて「大衆文芸」と銘打った人物とされる。 1929年大毎を退社、1932年に早大講師となり、浄瑠璃・江戸文芸を教えた。 主として人形浄瑠璃の歴史について著作がある。
尾崎 洵盛(おざき のぶもり、1880年〈明治13年〉11月… 尾崎 洵盛(おざき のぶもり、1880年〈明治13年〉11月29日 - 1966年〈昭和41年〉1月31日)は、日本の陶磁器研究家、外交官、男爵。中国の陶磁器の権威として知られた。元文化財専門審議会専門委員。 東京生まれ。慶應義塾幼稚舎を経て、1903年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1905年同専攻部卒業。1906年外交官及領事官試験に合格し、外務省に入省。在上海日本国総領事館総領事事務代理、在アメリカ合衆国日本国大使館三等書記官、外務省参事官、在ベルギー公使館二等書記官等を経て、1918年退官。陶磁器研究を行い、中国の陶磁器の権威として知られた。元文化財保護委員会文化財専門審議会専門委員。
阿部 栄之助(あべ えいのすけ、1880年8月1日 - 19… 阿部 栄之助(あべ えいのすけ、1880年8月1日 - 1954年4月26日)は、日本の郷土史研究家である。岐阜県の郷土史研究に従事。岐阜大学学芸学部講師。 長野県小県郡滋野村(現・東御市)に生まれる。長野師範学校在学中、小諸義塾の教師として赴任していた島崎藤村に英語を学ぶ。1908年、東京高等師範学校を卒業。東京高師では三宅米吉に師事。卒業後は、岐阜師範学校教諭となる。以後、岐阜県の歴史研究を志し、1915年「濃飛仏教史綱」(『岐阜県教育会雑誌』(途中から『岐阜県教育』に改題)に連載)を発表し、1923~1924年に『濃飛両国通史』(上下2冊)の大著を刊行。 1922年、岐阜県立恵那中学校(現在の岐阜県立恵那高等学校)が創設されると、初代校長に就任。
高田 慎吾(たかだ しんご、1880年(明治13年)5月1日… 高田 慎吾(たかだ しんご、1880年(明治13年)5月1日 - 1927年(昭和2年)7月5日)は、日本の社会事業家、児童福祉研究家。 熊本の八代に生まれ、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学後キリスト教徒となる。在学中に児童保護を中心に社会問題について専攻、研究した。卒業後に東京養育院(現在の東京都長寿健康医療センター)付巣鴨分院の主任を務め、1912年(明治45年)に社会問題を学ぶために渡米した。 翌年帰国後は内務省に勤務し、1918年(大正7年)に退職するまで国立感化院(現在の国立武蔵野学院)の創設に携わり、東洋大学の教授として日本で初の社会事業講座を開講した。退職後は関東地方のみならず関西地方でも社会事業の養成、研究に携わり、大阪の石井記念愛染園が経営する社会事業の研究を行った。
山岡 光太郎(やまおか みつたろう、1880年(明治13年)… 山岡 光太郎(やまおか みつたろう、1880年(明治13年)3月7日 - 1959年(昭和34年)9月23日)は、日本のイスラーム・ユダヤ研究家。日本人としては記録上初めてメッカ巡礼を果たし、昭和期の日本においてイスラームを紹介する著作を多く発表した。ムスリム名はオマル。 1904年、東京外国語学校ロシア語科を一期生として卒業。日露戦争には陸軍通訳官として従軍。戦後は大原武慶中佐隷下の昌図軍政署に勤務。 1909年、参謀本部の福島安正の命令でイスラーム世界の情報収集のためメッカ巡礼の旅へと出発する。離日していたアブデュルレシト・イブラヒムとボンベイで合流し、クルアーンの講義を受けた後に、同年12月にはメッカを巡礼した。
森 潤三郎(もり じゅんさぶろう、1879年〈明治12年〉4… 森 潤三郎(もり じゅんさぶろう、1879年〈明治12年〉4月15日 - 1944年〈昭和19年〉4月6日)は、近世学芸史研究家 、森鷗外の弟。早稲田大学高等師範部歴史地理科卒業後、東京帝國大学史料編纂掛勤務を経て、京都府立図書館等に勤務した。のち「鷗外全集」編纂に従事。近世学芸史の研究者であり、著書に「紅葉山文庫と御書物奉行」「多紀氏の事跡」「鷗外森林太郎」などがある。
古宇田 實(こうだ みのる、1879年1月13日 - 196… 古宇田 實(こうだ みのる、1879年1月13日 - 1965年2月16日)は、日本の建築家、建築史家、庭園研究家。神戸高等工業学校校長を務めた。フレッチャー(Banister Fletcher)『建築史』の翻訳でも知られる。日本建築の研究者で東京美術学校(現東京芸術大学)での教職の後、関西に活動の場を移し、その研究を生かし奈良、京都、鎌倉などの文化財修復にあたり、また鐘楼の設計などを多く手がけている。こうした功績で勲一等に叙せられた。 茨城県の判事・古宇田義鼎の二男として東京に生まれる。1902年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、大学院に進む。庭園研究を師の辰野金吾に天沼俊一とともに勧められて始める。
小林 存(こばやし ながろう、1877年(明治10年)6月6… 小林 存(こばやし ながろう、1877年(明治10年)6月6日 - 1961年(昭和36年)3月10日)は、日本のジャーナリスト、民俗学研究家、歌人、俳人。名は「ぞん」とも読む。号は粲楼(さんろう)、粲楼学人、烏啼(うてい)。新潟県中蒲原郡横越村(現・新潟市江南区)出身。 1877年、小林祐保・ミン夫妻の末子として生まれる。小林家は代々、新発田藩蒲原横越組の大庄屋を務めた素封家で、郡内の有力地主の一つであった。横越小学校・亀田高等小学校を経て上京し、第一高等学校への進学を目指すが失敗し、東京専門学校(現・早稲田大学)に進学、坪内逍遥に学んだ。また、同校在学中の1894年に蒲原有明、山岸荷葉、林田春潮らと同人誌『落穂双紙』を発刊した。
森本 厚吉(もりもと こうきち、1877年3月2日(明治10… 森本 厚吉(もりもと こうきち、1877年3月2日(明治10年3月2日) - 1950年(昭和25年)1月31日)は、日本の経済学者・教育者・文化生活研究家。
三上 義夫(みかみ よしお、1875年〈明治8年〉2月16日… 三上 義夫(みかみ よしお、1875年〈明治8年〉2月16日 - 1950年〈昭和25年〉12月31日)は、日本の数学史家、和算研究家。日本の数学と中国の数学を英文で西洋に紹介した。 父親は三上助衛門安忠、母親は勝。妻は近藤幸八郎の三女武。 広島県高田郡上甲立村(現在の安芸高田市甲立)の素封家である三上本家(「安国屋」家)に生れる。1890年(明治23年)12月に広島高等小学校を卒業後、翌年4月に千葉県尋常中学校2年級に編入学した。1892年(明治25年)には神田錦町の国民英学会および神田猿楽町の東京数学院に学ぶ。 1895年(明治28年)、徴兵検査のため帰郷するが、虚弱のため免役される。同年、武と結婚。
志村 烏嶺(しむら うれい、1874年 - 1961年)は、… 志村 烏嶺(しむら うれい、1874年 - 1961年)は、日本の教職者、高山植物研究家、写真家、登山家。 栃木県那須郡烏山町生まれ。本名は志村寛(しむら ひろし)。1892年栃木師範入学、1896年栃木県上都賀郡西方小学校に訓導として教職に就く。1898年、検定にて師範学校と中学校の地誌・地文・動物・植物の教員資格を取得。栃木県の第一中学および第二中学、茨城師範、仙台第一中学、長野中学(1903年~)、台中の中学校(1916年~)で教える。1922年帰国、教職を引退。晩年は植物採集・標本整理や園芸などをして過ごした。 ドイツから帰国した三好学が語った高山植物についての話がきっかけで、1904年から、休日に飯縄、戸隠、浅間山、八ヶ岳、白馬岳へ登り、高山植物の採集と栽培と研究、植物と山岳の写真撮影を行うようになり、前田曙山主宰の園芸雑誌に記事と写真を寄せた。
小島 烏水(こじま うすい、1873年12月29日-1948… 小島 烏水(こじま うすい、1873年12月29日-1948年12月13日)は、日本の登山家、随筆家、文芸批評家、浮世絵や西洋版画の収集家・研究家。本名は小島 久太。 1873年(明治6年)香川県高松生まれ。横浜商業学校卒業。横浜正金銀行に入行。銀行は定年まで勤め、シアトル支店長などを歴任。 横浜商業学校時代に友人と雑誌『学燈』を編集するなど、早くから文筆に興味を持つ。銀行に入ってから、1896年に出した『一葉女史』により評論家として世に注目される。 また、登山家としても知られ、1897年立川から甲府の昇仙峡まで徒歩で青梅街道を歩く、1899年休暇に浅間山 - 木曽へ山旅するなど、旅を趣味とした。
山下 芳太郎(やました よしたろう、1871年12月24日(… 山下 芳太郎(やました よしたろう、1871年12月24日(明治4年11月13日) - 1923年4月7日)は、日本の実業家、言語政策研究家、外交官である。 漢字は非能率的であると考え、改良カナ文字とカナ文字タイプライターの普及をめざした。遺書も墓もカタカナで書かれている。 山下興作の長男として愛媛県に生まれた。旧制高松中学校(後の香川県立高松高等学校)、旧制松山中学校(後の愛媛県立松山東高等学校)を経て、1892年7月に東京高等商業学校(後の一橋大学)を卒業した。1917年(大正6年)2月に家督を相続している。 1893年(明治26年)12月から外務省につとめ、領事館書記生および領事事務代理としてボンベイで、副領事としてリヨンおよびロンドンで働いた。
若名 英治(わかな えいじ、1870年4月4日(明治3年3月… 若名 英治(わかな えいじ、1870年4月4日(明治3年3月4日) - 1907年(明治40年)3月18日)は、日本の園芸家、アサガオ研究家。 上総国武射郡椎崎村(現在の千葉県山武市)の農家出身。東京専門学校(現・早稲田大学)卒業。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
石井 良一(いしい りょういち、1869年10月30日(明治… 石井 良一(いしい りょういち、1869年10月30日(明治2年9月26日)- 1950年(昭和25年)7月8日)は、日本の実業家、政治家、郷土史研究家。福岡県若松市長。旧姓・山崎。 肥前国杵島郡武雄村下西山(現佐賀県武雄市)で山崎又七の三男として生まれる。1884年6月、武雄中学校を卒業して九州鉄道に入社。1887年11月、石井宗直の婿養子となり石井に改姓。 九州鉄道では福岡、博多、小倉、門司の各駅長、門司運輸事務所長、本社調査係長などを務め、1907年7月、鉄道国有化後に帝国鉄道庁参事となる。1910年9月、植村俊平大阪市長に迎えられ大阪市主事となり、さらに大阪市電気鉄道部長を務めた。 1914年から1922年まで福岡県若松市長を務め、この間、武雄に株式会社蓬莱銀行を設立して頭取となった。
桑原 羊次郎(くわばら ようじろう、慶応4年4月18日(18… 桑原 羊次郎(くわばら ようじろう、慶応4年4月18日(1868年5月10日) - 昭和30年(1955年)7月21日)は、明治後期から昭和前期にかけての美術工芸研究家、社会事業家、政治家(衆議院議員)。号は双蛙(そうあ)。 肉筆浮世絵コレクター、装剣金工研究家として知られる。1910年の日英博覧会では日本美術部門委員を務めた。 慶応4年4月18日(1868年5月10日)、代々松江藩両替商を務めた「桑屋太助」本家の6代目・愛三郎の次男(第4子)として生まれた。明治9年(1876年)より内村友輔(鱸香)の私塾「相長舎」に通う。明治14年(1881年)5月、本町小学校上等科を卒業し、同年9月に松江中学校へ入学した。
浅野 陽吉(あさの ようきち、1868年3月26日(慶応4年… 浅野 陽吉(あさの ようきち、1868年3月26日(慶応4年3月3日 )- 1944年(昭和19年)2月12日)は、日本の教育者、実業家、政治家、郷土史研究家。衆議院議員、久留米商業学校長。号・是々。 筑後国三潴郡大隈村原古賀(福岡県久留米市原古賀町)で、浅野為三郎の長男として生まれる。福岡県立久留米中学校在学中に英語教師宮崎駿児の薫陶を受け、宮崎が退職して上京する際に中学を退学して同行した。1892年7月、東京高等商業学校を卒業。 『信濃日報』主筆、『九州日報』主筆を経て、福岡県嘉穂郡で幸袋工作所の設立に参画し、また、久留米で同志と久留米実業会を組織して、商工会議所の設立に尽力した。1899年11月、久留米市から強く要請され久留米商業学校校長に就任し、校風の刷新と、校勢の進展に尽力した。
正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年… 正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 - 1902年〈明治35年〉9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。 正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 - 1902年〈明治35年〉9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
安藤 和風(あんどう はるかぜ、慶応2年1月12日(1866… 安藤 和風(あんどう はるかぜ、慶応2年1月12日(1866年2月26日) - 昭和11年(1936年)12月26日)は、日本のジャーナリスト、マスメディア経営者、俳人、郷土史研究家。通名および俳号は「和風」をそのまま音読みして「わふう」。秋田県の地方紙「秋田魁新報」の事業拡大に貢献し、秋田魁新報社三大柱石の一人と称された。「魁の安藤か、安藤の魁か」と言われるほど、新聞記者としての名声を全国にとどろかせた。 俳号・雅号として他に、柳外、夢蝶、時雨庵、大蕗軒、白松子、太平山人、城南陰士、自適庵、布々木園、蝶々、松陰舎、松庵など十数以上を用いていた。 秋田藩士安藤和亭(通名は和市)、イクの長男として生まれる。
名倉 誾一郎(なぐら ぎんいちろう、1860年2月5日(安政… 名倉 誾一郎(なぐら ぎんいちろう、1860年2月5日(安政7年1月14日) - 1930年6月20日もしくは6月22日)は日本の植物研究家である。三河地方の植物調査を行った。 三河国西尾(現在の愛知県西尾市)に福島藩(のち重原藩)の貝吹陣屋代官家に生まれた。はじめは医者を志して東京の慶應義塾や京都で学ぶが兄をなくし家を継ぐために西尾に戻った。愛知県水産試験場の嘱託となり、岡村金太郎の指導を受けて、「尾三沿海植物調査」などを発表した。牧野富太郎の指導も受け、愛知県の陸上植物の研究を行い、『愛知県植物志料』を発表した。 ミカワタヌキモなどを発見し、ミカワタヌキモは、牧野によってUtricularia nagurai Makino(Utricularia gibba L. = イトタヌキモのシノニム)と命名された。
横地 石太郎(よこち / よこじ いしたろう、1860年1月… 横地 石太郎(よこち / よこじ いしたろう、1860年1月28日(万延元年1月6日) - 1944年(昭和19年)5月27日)は、日本の教育者、考古学研究家。山口高等商業学校名誉教授。族籍は石川県士族。 夏目漱石の小説『坊つちやん』に登場する「赤シャツ」のモデルとされることがあるが、異論もある(後述)。 加賀国石川郡金沢(現・石川県金沢市)の与力町にて加賀藩士横地大十郎の長男として生まれる。金沢小学校を経て1874年(明治7年)より金沢英学校、1875年(明治8年)9月より東京の旧藩主前田邸学問所にて学ぶ。1876年(明治9年)9月に東京英語学校に入学し、大学予備門を経て、1881年(明治14年)に東京大学理学部入学。
平瀬 與一郎(ひらせ よいちろう、安政6年11月11日(18… 平瀬 與一郎(ひらせ よいちろう、安政6年11月11日(1859年12月4日) - 大正14年(1925年)5月25日)は、日本の民間の貝類研究家・貝類収集家・博物家・標本商。それまで欧米の研究者に依っていた日本の貝類学に手をつけた最初の日本人の一人で、日本貝類学史における最重要人物の一人。明治・大正期に精力的に研究活動を行ったが、生来病気がちであったことや、大学などの研究機関に所属せず全ての活動を私財を投じて行っていたこともあり、ついには財力・体力とも使い果たして力尽きた。日本産貝類の全貌究明を夢見ながら途半ばにして倒れた彼が残したのは、貴重な標本類と「日暮れて道遠し…」の言葉とであった。 日本産貝類の基礎的な知識の多くの部分が明治後期-大正初期にかけての彼の活動によって築かれ、間接的には1928年に創立され現在に至る日本貝類学会の源流をも作ったとも言える。
武谷 水城(たけや みずき、1853年1月25日(嘉永5年1… 武谷 水城(たけや みずき、1853年1月25日(嘉永5年12月16日) - 1939年(昭和14年)8月15日)は、日本の陸軍軍医、郷土史研究家。 福岡藩士尾石信一(惣平)の二男尾石豊として、筑前国御笠郡水城村(現・福岡県太宰府市)に生まれる。藩校修猷館および文武館に学んだ後、1872年に金沢医学校(医学館)に入学し、オランダ人医学者スロイスに医学を学ぶ。1874年福岡藩医武谷祐之の養嫡子となり、1876年祐之の三女仲と結婚する。祐之は福岡藩主黒田長溥の侍医であり、九州大学の源流とされる藩医学校賛生館の創立に尽くしている。祐之の父は長崎でシーボルトに西洋医学を学んだ福岡藩御目見医武谷元立である。
高瀬 羽皐(たかせ うこう、本名: 高瀬 真卿(たかせ しん… 高瀬 羽皐(たかせ うこう、本名: 高瀬 真卿(たかせ しんきょう)、嘉永6年(1853年)-大正13年(1924年)11月17日)は、明治時代から大正時代にかけてのジャーナリスト、社会事業家、刀剣研究家。幼名・政吉。号は羽皐隠史、往生庵、菊亭静、茂顕、茂卿など。ほかに、高瀬真之助(介)、高瀬松吉、高瀬恭助、高真卿、高瀬鉄窓、高瀬紫峯、鉄窓学人、天賜苑、東台隠士、柳窓外史、茂湿、春雨、春雨静、藤原静、藤原茂、藤の舎茂、高瀬真藁、高瀬巳之吉、佐野尚、近藤東之助、春秋堂、萩村など、約30もの筆名を使った。 茨城県水戸市下市に米穀炭商・高瀬儀平次の長男・政吉として生まれ、水戸学派の川崎巌雄、庄司春村の塾で漢籍を学ぶ。
羽柴 雄輔(はしば ゆうすけ、嘉永4年(1851年)6月22… 羽柴 雄輔(はしば ゆうすけ、嘉永4年(1851年)6月22日 - 大正10年(1921年)12月5日)は、幕末期の武士(庄内藩士)、郷土史研究家。慶應義塾大学図書館に勤務して考古学、民俗学、人類学を研究・編纂し「奥羽人類学会」を創設した。号は千瓢庵猿面、別名は久明または良策。 飽海郡(現・酒田市松山地区)に、庄内藩の医師・羽柴服笥(養倫)の子として生まれる。阿部灌策や海保弁之助に漢学を学び、慶応4年(1868年)7月、戊辰戦争に二番大隊軍監兼参謀として出征。敗戦後、庄内藩に対して朝敵の汚名を着せた官軍を批判した論文『東北人謬見考評論』を発表する。松山藩の家老であった松森胤保とも親交があった。旧松山藩校・里仁館の教師などを経て、成興野、狩川、大広、鼠ケ関各小学校の教師を勤める。
小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 19… 小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年(明治37年)9月26日)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者。東洋と西洋の両方に生きたとも言われる。 出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。アイルランドの守護聖人・聖パトリックにちなんだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。 日本・東京府豊多摩郡大久保村西大久保
白野 夏雲(しらの かうん、文政10年閏6月26日〈1827… 白野 夏雲(しらの かうん、文政10年閏6月26日〈1827年8月18日〉 - 明治33年〈1900年〉9月8日)は、明治時代の物産研究家、アイヌ語研究家。本名は今泉 耕作(いまいずみ こうさく)。 甲斐国都留郡白野村(現在の山梨県大月市笹子町)の出身。代官の手代の家に生まれたがあまり教育を受けることができず、岩瀬忠震が徽典館の学頭をしていたときにその学僕となって少し書物を読んだ程度という。幕末には江戸に出て、幕府・歩兵の輜重隊の頭と軍事顧問を命ぜられ小川町に駐屯していた。1864年に天狗党の乱が起き、日光の警備を命じられ任地に赴く。1868年に彰義隊が上野に立てこもった時は浅草の蔵を守っていたが、官軍が江戸に入り徳川の残党を追求するに至って、隊を率いて新宿口から甲州へと逃げることができた。
三田 たたみ(みた たたみ、11月3日 - )は、日本の漫画… 三田 たたみ(みた たたみ、11月3日 - )は、日本の漫画原作者、シナリオライター、水質研究家、回文作家、経営者。千葉県香取市出身。漫画喫茶「まんがの図書館ガリレオ」を経営しながら漫画の原作やゲームシナリオを書いている。本名の上関 久美子(かみせき くみこ)としてメディア出演することも多い。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:漫画/PJ漫画家)。
花田 ミキ は、日本の保健看護研究家、保健指導者。青森県中津… 花田 ミキ は、日本の保健看護研究家、保健指導者。青森県中津軽郡清水村(現・弘前市)出身。
藤田 尚弓(ふじた なおみ)は、日本のコミュニケーション研究… 藤田 尚弓(ふじた なおみ)は、日本のコミュニケーション研究家、コラムニスト、コメンテーター、実業家。
手塚圭子(てづか・けいこ)は美容研究家。医学博士・保健学博士… 手塚圭子(てづか・けいこ)は美容研究家。医学博士・保健学博士。
七田 厚 は、日本の教育研究家、七田式教育の教育者。七田式創… 七田 厚 は、日本の教育研究家、七田式教育の教育者。七田式創始者七田眞の次男。株式会社しちだ・教育研究所元代表取締役社長。元七田式主宰。島根県江津市出身。
金塚 晴子(かねづか はるこ)は、日本の和菓子研究家。和菓子… 金塚 晴子(かねづか はるこ)は、日本の和菓子研究家。和菓子教室を主宰し参加者に作り方を教えるほか、和菓子に関する書籍を数多く執筆し、雑誌でのコラム連載やテレビの料理番組にも出演している。 東京都目黒区に生まれる。青山学院大学文学部を卒業後、CBS・ソニー(現・ソニー・ミュージックレコーズ)のレコード制作ディレクターとして、山口百恵や南沙織など数々のヒット曲の制作に携わる。打ち合わせやスタジオでのレコーディングに明け暮れ多忙を極めていた頃、気分転換の為に立ち寄った図書館でお菓子作りに関する書籍を見たことがきっかけとなり、和菓子に興味を持ち始める。ちなみに金塚が本の中に発見したものは、″忘れかけていた季節の色合い″ であり、それから何かに吸い寄せられるように ″自分でも作ってみたい″ と思うようになったという。
田矢 信二(たや しんじ)は、日本のコンビニ研究家。 大阪府… 田矢 信二(たや しんじ)は、日本のコンビニ研究家。 大阪府出身。近畿大学を卒業。 セブン-イレブンとローソンでの現場を本部社員として経験。その後、経験を活かして、企業講演・セミナーなどにも呼ばれる。 独自の情報をブログで発信。テレビ・ラジオなどメディア出演。
井上 真紀(いのうえ まき)は、日本のジャズ・ボーカリスト、… 井上 真紀(いのうえ まき)は、日本のジャズ・ボーカリスト、舞踊家、ハワイアン文化・フラ研究家。東京生まれ。横浜インターナショナルスクール卒業、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。 ユニット「ラブ・ノーツ」のコ・リーダー。ボーカルと作詞を担当。 キャスター・パーソナリティー この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
河合 孝治(かわい こうじ、本名:河合 明(かわい あきら)… 河合 孝治(かわい こうじ、本名:河合 明(かわい あきら))は、日本の音楽家、サウンド・ヴィジュアル・アーティスト、学際芸術研究家(音楽とアート、哲学、映像、身体表現)、仏教美学者である。Art Crossing編集者。ASCAP(米国作曲家作詞家出版者協会)会員。 東京都出身。慶應義塾大学卒業、同大学院修士課程修了。日本大学芸術学部大学院芸術学研究科修了。 湯浅譲二、南弘明、嵐野英彦、綿村松輝、嶋津武仁、田崎和隆に作曲・電子音楽、西村朗にオーケストレーションを学ぶ。即興演奏音楽グループGAPに多田正美の後任として参加。中村明一(尺八)とのコラボレーション、タージ・マハル旅行団の永井清治とインド音楽をベースにしたユニットで活動。
松永尚三(まつなが なおみ、狩野晃一)は、日本の小説家、戯曲… 松永尚三(まつなが なおみ、狩野晃一)は、日本の小説家、戯曲作家、舞踊家であり、古典文学、および能や歌舞伎といった伝統芸能の研究家、性的マイノリティ分野の研究家である。日本舞踊協会会員、東京外国人プレスクラブ会員であり、地唄舞教授でもある。 その他、慶應大の文芸雑誌『三田文学』に短編多数発表。 講演は、「性的マイノリティーの文化」(TOKYOアメリカンクラブ)、「女形の歴史」(白百合女子大学)、「男色の日本史」(ジュネーヴ・国際会議場)、「スイス国民と生活」(TOKYO外国人記者クラブ)、「源氏物語に見るイケメン像」(渋谷ホームズ、及び在ジュネーヴ・日本領事館)などがあり。「源氏物語を語る会」をジュネーヴ・日本クラブ及び東京で主催。
上松 恵理子(うえまつ えりこ)は、日本のICT教育研究家。… 上松 恵理子(うえまつ えりこ)は、日本のICT教育研究家。新潟大学大学院博士後期課程現代社会文化研究科修了、博士(教育学)。新潟リハビリテーション大学 特任教授。武蔵野学院大学 准教授 情報リテラシーやICT教育をコミュニケーション論の視点で、世界の小学校から大学の教育機関でのICT教育やプログラミング教育の調査研究を行う。情報通信学会、情報処理学会、モバイル学会に所属。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。