蝦名 賢造(えびな けんぞう、1918年(大正7年)1月22… 蝦名 賢造(えびな けんぞう、1918年(大正7年)1月22日 - 2009年(平成21年)1月3日)は、日本の海軍軍人、経済学者、伝記作家。専門は財政学。獨協大学名誉教授。 1918年、青森県東津軽郡小湊町(現平内町)で生まれた。旧制巣鴨中学校・浦和高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学経済学部に進学。1941年、繰り上げ卒業。海軍兵科予備学生(1期)として海軍に入隊。連合艦隊司令部附となり、海軍甲事件で負傷した宇垣纏の秘書を務め、『戦藻録』の一部を筆記した。最終階級は海軍大尉。 1945年、巣鴨経済専門学校教授に就いた。1947年、北海道大学法文学部予科専任講師に転じた。1950年、北海道総合開発委員会事務局次長に就任。
渡邊 睦裕(わたなべ むつひろ、1918年1月18日 - 2… 渡邊 睦裕(わたなべ むつひろ、1918年1月18日 - 2003年4月1日)は、大日本帝国陸軍の軍人。近衛歩兵第一連隊所属。最終階級は軍曹、ポツダム曹長。 捕虜監視員として東京俘虜収容所本所(大森)、第四分所(新潟県直江津)、第十二分所(長野県満島)に勤務。日本軍によって捕らえられた戦争捕虜を虐待していたことで知られる。捕虜たちから「ザ・バード(the Bird)」とあだ名されていた。敗戦後、戦犯として指名手配されるが、連合国軍による占領終結まで逃げ延び、起訴されることはなかった。 6人兄弟の4番目として、ホテルや鉱山を経営する豊かな家に生まれる。早稲田大学に進学し、フランス文学を専攻。卒業後、徴兵されるまでの1か月間、同盟通信社に勤務していた。
白川 元春(しらかわ もとはる、1918年〈大正7年〉1月2… 白川 元春(しらかわ もとはる、1918年〈大正7年〉1月2日 - 2008年〈平成20年〉8月18日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官である。第11代航空幕僚長、第8代統合幕僚会議議長。 東京府出身。男爵陸軍大臣・白川義則の三男として生まれる。東京府立六中を経て陸軍予科士官学校に進む。原隊は立川の飛行第5聯隊。陸軍航空士官学校(51期)を卒業し、浜松陸軍飛行学校乙種学生、飛行第45戦隊付、航空士官学校区隊長を経て、飛行第90戦隊中隊長としてマレー、ジャワを転戦。陸大卒業後は、第2飛行師団参謀、終戦は南方軍総司令部参謀としてサイゴンで迎えた。 復員後は公職追放となり、妻の実家のある松江で本屋の番頭をしていた。
永末 英一(ながすえ えいいち、 1918年1月2日 - 1… 永末 英一(ながすえ えいいち、 1918年1月2日 - 1994年7月10日)は、大日本帝国海軍の軍人(短期現役士官)。日本の政治家。民社党委員長、衆議院議員(通算10期)、社会主義インターナショナル副議長。
宮崎清隆(みやざき きよたか、1918年 - 2001年5月… 宮崎清隆(みやざき きよたか、1918年 - 2001年5月25日)は、日本の小説家、陸軍軍人。最終階級は陸軍憲兵曹長、作詞家。 新潟県刈羽郡田尻村(現・柏崎市)生まれ。日本大学法学部、経済学部卒。柔道四段、剣道三段。日中戦争では陸軍憲兵曹長として、大陸で転戦し多くの戦傷を負う。戦後は戦争犯罪人として指名され「東洋の魔王」と呼ばれるが連合軍の追跡を逃れ中国を脱出し、6ヵ月の逃避行を行った。1951年日本独立に際し追及を解かれ、後にその体験などを著作としベストセラーとなった。鉄道弘済会本部会長室秘書課勤務。 また、三島由紀夫に惚れられて、15万円のスーツをプレゼントされることや唯一の弟子とも見られていた。
門司 親徳(もじ ちかのり、1917年12月9日 - 200… 門司 親徳(もじ ちかのり、1917年12月9日 - 2008年8月16日)は、日本の海軍軍人、実業家。短現6期。最終階級は海軍主計少佐。戦後は日本興業銀行取締役総務部長、丸三証券社長を務める。 1917年12月9日、東京府に生まれる。1933年に東京府立第六中学校を、1937年に浦和高等学校を、1941年に東京帝国大学経済学部を卒業し、日本興業銀行に入社。 1941年4月18日、6期短期現役海軍主計科士官として海軍経理学校に入校。同期生に中曽根康弘、鳩山威一郎がいる。8月11日、同校を卒業。8月、戦艦「陸奥」に乗組。1941年10月2日、「瑞鶴」に乗組、庶務主任に就任。12月、真珠湾攻撃及びマレー作戦により太平洋戦争開戦。
横山 薫範(よこやま しげのり、1917年(大正6年)11月… 横山 薫範(よこやま しげのり、1917年(大正6年)11月23日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍特務少尉。 鳥取県出身。横山家は農業を営み、三男一女の末子である。小学校高等科を卒業し、海軍を志願したが一度目は失敗し、二度目の挑戦で合格した。1934年(昭和9年)6月呉海兵団に入団。同期生に同じく九軍神とされた稲垣清がいる。 海軍水兵としての基礎訓練を受け、戦艦「扶桑」乗組となる。水雷学校及び潜水学校を卒業。横山は成績優秀で、水雷学校は優等卒業であり、懐中時計を授与された。
冨士 信夫(ふじ のぶお、1917年(大正6年)8月 - 2… 冨士 信夫(ふじ のぶお、1917年(大正6年)8月 - 2005年(平成17年)1月24日)は、日本の歴史家、海軍軍人。東京裁判(極東国際軍事裁判)研究家。 富山県生まれ。府立八中(現東京都立小山台高等学校)を経て、1938年海軍兵学校(第65期)卒業。戦艦「金剛」、重巡洋艦「熊野」、「利根」乗組。1939年海軍練習航空隊飛行学生。航空母艦「飛龍」乗組を経て、1941年霞ヶ浦海軍航空隊司令承命服務。1944年海軍少佐。1945年台湾第29航空戦隊(新竹)参謀、1946年第2復員省臨時調査部勤務。以後、法廷係として極東国際軍事裁判(東京裁判)のほとんどを傍聴。この間、「海軍少佐」の経歴のため公職追放となる。
松尾 敬宇(まつお けいう / よしたか、1917年〈大正6… 松尾 敬宇(まつお けいう / よしたか、1917年〈大正6年〉7月21日 - 1942年〈昭和17年〉5月31日)は、日本の海軍軍人。海兵66期。太平洋戦争におけるシドニー湾攻撃で特殊潜航艇「甲標的」艇長として戦死。二階級特進により最終階級は海軍中佐。 熊本県鹿本郡三玉村久原(現・山鹿市久原)出身。松尾鶴彦、まつ枝の次男として生まれる。父は八幡小学校校長、母も元小学校教師であり、厳格な家風で育った。 鹿本中学を経て、1938年(昭和13年)9月、海軍兵学校を卒業(66期)。特殊潜航艇(以下「特潜」 )艇長として訓練を受け、日米開戦前に真珠湾を視察している。真珠湾攻撃においては予備指揮官として現地まで赴いた。
加藤 馨(かとう かおる、1917年5月5日 - 2016年… 加藤 馨(かとう かおる、1917年5月5日 - 2016年3月19日)は、日本の実業家、陸軍軍人(陸軍中尉)。ケーズデンキの前身・加藤電機商会の創業者。 神奈川県津久井郡千木良村(現相模原市緑区千木良)の農家に生まれる。高等小学校在学中に父が死去したため、大日本帝国陸軍に入り、陸軍航空士官学校少尉候補者学生24期前期を卒業。陸軍航空通信学校で教官を務め陸軍中尉で終戦を迎えた。 日本の降伏後公職追放され仕事が見つからなかったため、1947年にラジオの修理などを行う加藤電機商会を茨城県水戸市元台町で創業を開始。1955年有限会社加藤電機商会として法人化し、1973年には株式会社カトーデンキに改組した。
千明 武久(ちぎら たけひさ、1917年(大正6年)4月15… 千明 武久(ちぎら たけひさ、1917年(大正6年)4月15日 - 1944年(昭和19年)9月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。ペリリューの戦いにおける千明大隊の奮戦で知られる。 群馬県利根郡片品村鎌田に近衛騎兵少尉、千明林蔵の次男として生まれる。旧制沼田中学校を経て、1935年(昭和10年)4月、陸軍士官学校に第53期生として入校。剣道の達人であり、在学中天覧試合にも出場した。1940年(昭和15年)3月の士官学校卒業と同時に歩兵第15連隊付中隊長教育主任に任官。1944年(昭和19年)2月、満州国チチハルより南方へ出陣、同連隊第3大隊長としてペリリュー島の守備に就いていた歩兵第2連隊に分遣され同島南部「高崎湾」近くに布陣する。
青栁 豊(あおやぎ ゆたか、1917年(大正6年)3月8日 … 青栁 豊(あおやぎ ゆたか、1917年(大正6年)3月8日 - 1942年(昭和17年)6月23日)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍中尉。 日本陸軍のエース・パイロット。青栁惣吉(村会議員)の次男として福岡県三池郡高田村(現みやま市高田町)に生まれる。 少年飛行兵として1935年(昭和10年)11月に所沢陸軍飛行学校を卒業し、明野で戦技教育を受け、飛行第11連隊に配属された。 1939年(昭和14年)5月からノモンハン事件に参加。7月25日、不時着した篠原弘道准尉を救出しようと着陸したが、敵戦車の砲撃を受けて機体が炎上、腰に貫通銃創を受けるが、岩瀬孝一曹長に救出された。そしてハルピン陸軍病院に入院したが、停戦前に部隊に復帰。
中馬 兼四(ちゅうま けんし/ちゅうまん けんし、1917年… 中馬 兼四(ちゅうま けんし/ちゅうまん けんし、1917年(大正6年)2月28日 - 1942年(昭和17年)5月31日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争におけるシドニー湾攻撃で特殊潜航艇「甲標的」艇長として戦死。二階級特進により最終階級は海軍中佐。位階は正六位。 鹿児島県薩摩郡上東郷村大字鳥丸(現在の薩摩川内市東郷町鳥丸)出身。父の姓は知敷。中馬は鹿児島県立川内中学校(現在の鹿児島県立川内高等学校)を卒業後、海軍兵学校へ進み、海兵66期として卒業した。海兵66期は、219名の同期生のうち143名が戦死し、戦死率は65.2%である。中馬と同様に特殊潜航艇(以下「特潜」 )艇長としてシドニー湾攻撃で戦死した松尾敬宇、同日にマダガスカル攻撃で戦死した秋枝三郎は同期生であった。
曲 壽郎(まがり としろう、1917年〈大正6年〉2月15日… 曲 壽郎(まがり としろう、1917年〈大正6年〉2月15日 - 2012年〈平成24年〉12月12日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官、簡易裁判所判事、弁護士。 最終階級は、帝国陸軍では陸軍少佐、陸自では陸上幕僚長(第11代)たる陸将(陸軍大将に相当)。 陸士50期首席、陸軍科学学校高等科(45期)優等、陸大58期。 長崎県大村市出身。小学校教員・曲義彦の三男として生まれる。 佐世保中学、東京陸軍幼年学校・陸士予科を経て、1937年(昭和12年)12月に陸軍士官学校(50期)を首席で卒業して恩賜の銀時計を拝受した。翌年1月、陸軍砲兵少尉に任官した。 1939年(昭和14年)、ノモンハン事件に野戦重砲兵第1連隊中隊長として出征した。
石川 貫之(いしかわ かんし、1917年(大正6年)2月7日… 石川 貫之(いしかわ かんし、1917年(大正6年)2月7日 - 1994年(平成6年)7月11日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。最終階級は日本陸軍では陸軍少佐、航空自衛隊では航空幕僚長たる空将。 果樹園経営・石川琢次の二男として生まれる。大分中学を卒業し、陸軍航空士官学校(50期)に入校。旧陸軍時代は当初、軽爆撃機操縦者であり、飛行第16戦隊に所属していた1939年(昭和14年)、ノモンハン事件で初陣を迎える。同年8月には九七式軽爆撃機で出撃し、ソ連軍のI-16に撃墜され草原に不時着したが、間一髪のところで友軍機に救助されたという。 1941年(昭和16年)3月、大尉に進級すると同隊の中隊長となるが、1943年(昭和18年)夏、飛行分科を戦闘に転科。
前田 利貴(まえだ としたか、1917年(大正6年)2月4日… 前田 利貴(まえだ としたか、1917年(大正6年)2月4日 - 1948年(昭和23年)9月9日)は、日本の軍人。最終階級は陸軍大尉。 加賀前田家の分家、前田男爵家の嫡子として生まれる。利貴の出た家は、加賀藩主・前田斉泰の十二男・前田利武が男爵になったことにはじまる。利貴の父である前田利功(としこと)は、元富山藩主・前田利聲の三男で、利武の養子となって男爵家を継いだ。学習院を経て、1940年(昭和15年)に法政大学法学部を卒業し、三井物産に入社する。 その後、太平洋戦争で出兵し、インドネシアで終戦を迎える。オランダ軍によりティモール島クーパンの収容所に収容され、戦犯として、1948年(昭和23年)4月29日に行われた裁判で死刑を宣告される。
津野田 知重(つのだ ともしげ、1917年〈大正6年〉2月1… 津野田 知重(つのだ ともしげ、1917年〈大正6年〉2月1日 - 1987年〈昭和62年〉7月26日)は、日本の陸軍軍人。東條英機暗殺計画(津野田事件)の首謀者。戦後、日本科学技術振興財団専務理事としてテレビ東京設立に貢献した。最終階級は陸軍少佐。熊本県出身。 日露戦争で第三軍指揮官乃木希典の参謀を務めた津野田是重(陸軍少将、陸士第6期歩兵科首席)の三男として誕生。父親の後を継いで陸軍に入ることを決めた際に母親から反対されたが、父の部下であった山下奉文の後押しもあり、軍人となる。旧制東京府立第六中学校卒業を経て、1937年(昭和12年)12月、陸軍士官学校卒業(第50期、11番/426名)。 1938年(昭和13年)1月、陸軍歩兵少尉。
国塚 一乗(くにづか かずのり、1917年1月16日 - 没… 国塚 一乗(くにづか かずのり、1917年1月16日 - 没年不明)は、日本の軍人、事業家。 太平洋戦争において通訳将校として活躍。杉田一次に評価され、その部下でインド国民軍の編成やインド独立に影響を与えた藤原岩市の通訳として従事。以後モーハン・シンやスバス・チャンドラ・ボースからの信任を得る。 山口高等商業学校卒。戦前は神戸の貿易会社に勤務。1939年1月、広島第二電信連隊入営。半年後に陸軍通信学校に入学。英語で修養日記を書くことが注目され、第5師団司令部付を命じられ参謀付将校へ昇進する。 太平洋戦争開戦時の1941年12月8日早朝、タイ最南端のシンゴラに上陸。日泰軍事協定直前の上陸であり、激しい抵抗に遭遇する。
釜賀 一夫(かまが かずお、1917年(大正6年)1月1日 … 釜賀 一夫(かまが かずお、1917年(大正6年)1月1日 - 2003年(平成15年)11月23日)は、熊本県出身の陸軍軍人、陸上自衛官。日本陸軍における暗号作成者、暗号解読者である。戦後も陸上自衛隊で暗号解読に従事した。ペンネーム加藤正隆として暗号関係の著作がある。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
倉澤 清忠(くらさわ きよただ、1917年 - 2003年1… 倉澤 清忠(くらさわ きよただ、1917年 - 2003年10月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。 陸軍士官学校航空分校(第50期)卒業、最終階級は陸軍少佐。鉾田陸軍飛行学校研究部や第6航空軍で特別攻撃隊に携わった。 東京都杉並区出身。第一東京市立中学校(のちの東京都立九段高等学校)卒業、1929年に北多摩郡保谷村(現・西東京市)に転居。士官候補生第50期在学中に航空兵科へ転科し、陸軍航空士官学校の最初の卒業者の一人となった。卒業後、浜松陸軍飛行学校で軽爆撃機の操縦を習得した。操縦の技術は高く、1940年(昭和15年)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った紀元二千六百年記念観兵式では選抜されて昭和天皇の前で編隊飛行を披露している。
黒田 長久(くろだ ながひさ、1916年11月23日 - 2… 黒田 長久(くろだ ながひさ、1916年11月23日 - 2009年2月26日)は、日本の鳥類学者・軍人・外務官僚。 侯爵で鳥類学者だった黒田長礼(黑田長禮)の長男。母は閑院宮載仁親王二女・茂子女王。妻は海軍中将の醍醐忠重侯爵の娘・和子。黒田家19代当主である。明仁上皇ははとこに当たる。同じ鳥類学者である山階芳麿は義理の従兄弟でもある。父と同じく日本鳥学会会長を務めた。 幼時より父に鳥への関心を育まれる。学習院高等科を経て、1937年、東京帝国大学理学部動物学科に入学し、鎌田武雄教授に師事する。卒業後は外務省に入るが半年で徴兵され、5年間を近衛師団で過ごし陸軍中尉となった。軍隊では伝書鳩を扱う鳩班長を務めていたという。
上田 泰弘(うえだ やすひろ、1916年(大正5年)11月1… 上田 泰弘(うえだ やすひろ、1916年(大正5年)11月14日 - 2013年(平成25年)12月16日)は、日本の陸軍軍人及び航空自衛官、第9代航空幕僚長。 熊本県熊本市出身。1933年(昭和8年)、熊本中学四年修了で陸軍士官学校に入校。1937年(昭和12年)7月、陸軍士官学校を卒業、歩兵第16連隊附となり、日中戦争勃発とともに小隊長として出征。1939年(昭和14年)9月に第16連隊第3中隊長(中尉)としてノモンハン事件に従軍した。陸大に入ってから航空に転科し、1944年(昭和19年)9月に陸大を卒業、第51航空師団の編成主任参謀となるも翌1945年(昭和20年)に終戦を迎える。 終戦後は公職追放となり、親類が経営する会社に勤めたり、独立して雑貨商をはじめたりしたが上手くいかず、1951年(昭和26年)10月、警察予備隊に入隊、総隊総監部人事部人事班に配属された。
上田 定(かみた さだむ、1916年(大正5年)10月24日… 上田 定(かみた さだむ、1916年(大正5年)10月24日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍兵曹長。 広島県出身。上田は5人兄弟姉妹の長男であった。中学を卒業後、呉海兵団に入団し、水雷学校普通科、舞鶴防備隊潜水学校、水雷学校高等科を修卒業。術科学校の高等科を卒業した下士官は、日本海軍の実務を担う人材であったが、上田の高等科卒業時の成績は抜群であった。 1941年(昭和16年)9月、上田は帰省を許された。上田は発熱した状態で帰省したが、故郷は豪雨に見舞われ川が氾濫した状態であった。
湯浅 謙(ゆあさ けん、1916年10月23日 - 2010… 湯浅 謙(ゆあさ けん、1916年10月23日 - 2010年11月2日)は、元日本陸軍軍医、医師、中国帰還者連絡会の会員。埼玉県出身。 第二次世界大戦中、日本陸軍の軍医として中国で勤務、軍務として生体解剖を行う。 戦後、戦犯容疑者として中国の戦犯管理所へ移送されるが、中国の人道的な対応に接し、自身の罪を強く認識し深く反省する。起訴免除の判決を受けた後、日本へ帰国する。 帰国後、中帰連の会員として、反戦平和、日中友好運動に参加する。自身の戦争体験、特に生体解剖を証言し、戦争の愚かしさを伝える。 1942年3月中旬。目的は、第36師団の野戦部隊の軍医教育のための演習として行われた。第36師団より11-12名の軍医、潞安陸軍病院より新任軍医5名、その他2-30名が参加した。
好川 三郎(よしかわ さぶろう、1916年〈大正5年〉10月… 好川 三郎(よしかわ さぶろう、1916年〈大正5年〉10月11日 - 1983年〈昭和58年〉4月4日)は、日本の陸軍軍人、政治家。奈良県橿原市の初代市長をつとめ、紀元節復活運動に尽力し、「紀元節市長」として全国的な知名度を有した。 1916年(大正5年)10月11日生まれ。 畝傍中学校(旧制、現・奈良県立畝傍高等学校)2年修了、陸軍幼年学校、陸軍士官学校(50期)を経て陸軍大学校(60期)を卒業。陸軍少尉任官、歩兵第37連隊付となり小隊長、中隊長として満州・中支に従軍。その後、陸軍参謀となり陸軍少佐として終戦を迎える。1947年(昭和22年)11月28日、元陸軍将校として公職追放指定。戦後は服飾学校「八木ドレスメーカー女学院」を経営した。
金丸 貞三(かなまる ていぞう、1916年(大正5年)10月… 金丸 貞三(かなまる ていぞう、1916年(大正5年)10月1日 - 1942年(昭和17年)12月24日)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者でエース・パイロット。最終階級は陸軍中尉。 1916年(大正5年)10月1日、宮崎県宮崎市に生まれる。1934年(昭和9年)2月、陸軍少年飛行兵の第1期生として所沢陸軍飛行学校に入校した。1935年(昭和10年)11月に卒業すると、ついで明野陸軍飛行学校で戦闘機の戦技教育を受け、1936年(昭和11年)2月に飛行第8連隊(台湾・屏東)へ配属された。 1937年(昭和12年)7月に支那事変が勃発、8月中旬に戦火が上海に拡大すると、飛行第8連隊の1コ戦闘機中隊を基幹に独立飛行第10中隊(九五式戦闘機装備)が編成され上海戦線に投入された。
秋枝 三郎(あきえだ さぶろう、1916年(大正5年)9月1… 秋枝 三郎(あきえだ さぶろう、1916年(大正5年)9月15日 - 1942年(昭和17年)5月31日)は、日本の海軍軍人。特殊潜航艇「甲標的」搭乗員としてマダガスカル攻撃作戦に参加し、戦死。二階級特進により最終階級は海軍中佐。 山口県豊北町阿川土井出身。9人兄弟姉妹の三男である。妻は海軍大佐・小早川隆次の娘、文子。山口中学を経て、海軍兵学校を卒業。秋枝は海兵66期で、同期生に特殊潜航艇(以下「特潜」)艇長としてシドニー湾攻撃で戦死した松尾敬宇、中馬兼四らがいる。1939年(昭和14年)6月、海軍少尉任官。戦艦「霧島」、駆逐艦「江風」乗組みを経て、1940年(昭和15年)11月、水上機母艦「千代田」 乗組みとなる。
大山 梓(おおやま あずさ、1916年9月9日 - 1992… 大山 梓(おおやま あずさ、1916年9月9日 - 1992年3月2日)は、日本の歴史学者(日本近代政治史)、海軍軍人(短期現役士官)。軍人時代の最終階級は海軍主計大尉、学位は法学博士。広島大学法学部教授、帝京大学法学部教授。大山巌の孫(大山柏の長男)。長女に由美子。
坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26… 坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 - 2000年(平成12年)9月22日)は、日本の海軍軍人。ポツダム進級により最終階級は海軍中尉。太平洋戦争におけるエース・パイロット。著書『大空のサムライ』で有名。
阿部 善次(あべ ぜんじ、1916年(大正5年)8月18日 … 阿部 善次(あべ ぜんじ、1916年(大正5年)8月18日 - 2007年(平成19年)4月6日)は、日本の海軍軍人。海兵64期。最終階級は、海軍では海軍少佐、空自では一等空佐。ペンネームは阿部善朗(あべ ぜんろう)。 1916年(大正5年)8月18日、山口県に生まれる。1933年(昭和8年)3月、山口中学校を卒業し、海軍兵学校に第64期生として入校。1937年(昭和12年)3月23日、海軍兵学校(64期)を卒業し、任海軍少尉候補生。1937年(昭和12年)11月、熊野に乗組。1938年(昭和13年)3月10日、海軍少尉に任官。同年3月28日、卯月に乗組。同年7月28日、第31期飛行学生を拝命。
原田 要(はらだ かなめ、1916年(大正5年)8月11日 … 原田 要(はらだ かなめ、1916年(大正5年)8月11日 - 2016年(平成28年)5月3日)は、日本の海軍軍人、戦闘機操縦者、最終階級は海軍中尉。 長野県上水内郡浅川村(現長野市)の農家に生まれた。わんぱくで勉強は好きではないが、よく出来たほうで、1929年(昭和4年)、旧制長野中学(現長野県長野高等学校)に入学する。 1933年(昭和8年)、一般志願兵として海軍に入隊し、横須賀海兵団で新兵教育を終えた後、駆逐艦「潮」乗組みとなった。だが大砲や魚雷があまり好きになれず、やがて幼少時に見て以来ずっと憧れていた飛行機に乗りたいと志すようになったものの、上司や父の反対のため、たまには飛行機に乗せてもらえるということで、1935年(昭和10年)横須賀航空隊に航空兵器術練習生として入隊した。
白根 斐夫(しらね あやお、1916年8月7日 - 1944… 白根 斐夫(しらね あやお、1916年8月7日 - 1944年11月24日)は、大日本帝国海軍の軍人。第二次世界大戦時の戦闘機搭乗員で、日中戦争での1機を含む9機の総撃墜数を持つエース・パイロットである。最終階級は戦死による一階級特進で海軍中佐。岡田内閣の内閣書記官長だった白根竹介は実父。 1916年(大正5年)8月7日に白根竹介の四男として東京都で生まれる。東京府立四中を経て、1937年(昭和12年)3月、海軍兵学校第64期を卒業。同期生に空母「赤城」艦上爆撃機隊分隊長として真珠湾攻撃に参加し、太平洋戦争を戦い抜いた阿部善次や「特攻に反対した指揮官」として知られる美濃部正がいる。1938年(昭和13年)7月に第31期飛行学生となり、1939年(昭和14年)3月に修了し、戦闘機搭乗員となった。
西尾 常三郎(にしお つねさぶろう、大正5年(1916年)7… 西尾 常三郎(にしお つねさぶろう、大正5年(1916年)7月2日 - 昭和19年(1944年)11月13日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍少佐だったが特別攻撃隊に志願、富嶽隊隊長として特攻、戦死。二階級特進により大佐となる。正七位、勲三等、功二級。
佐々木 正五(ささき しょうご、1916年6月18日 - 2… 佐々木 正五(ささき しょうご、1916年6月18日 - 2014年11月20日)は、日本の海軍軍医(軍医大尉)、微生物学者、医学博士。慶應義塾大学名誉教授、東海大学名誉教授。東海大学医療技術短期大学学長。正七位(1945年)、勲二等瑞宝章(1994年)。 樺太の機関車を扱う商家に生まれた。1925年、慶應義塾幼稚舎入学。慶應義塾普通部卒業後、慶應義塾大学医学部予科修了、慶應義塾大学医学部本科卒業。1941年4月、慶應義塾大学医学部細菌学教室助手、5月に海軍二年現役軍医科士官となる。伊号第四潜水艦軍医長として真珠湾攻撃に参加し、詳細な日記を残した。1944年より陸上勤務。1945年に復員、慶應義塾大学医学部細菌学教室に戻り、小林六造に師事。
中村 龍平(なかむら りゅうへい、1916年〈大正5年〉5月… 中村 龍平(なかむら りゅうへい、1916年〈大正5年〉5月20日 - 2008年〈平成20年〉3月29日)は、日本の陸軍軍人及び陸上自衛官。陸軍士官学校卒業(第49期)、陸軍大学校卒業(第56期)。第10代陸上幕僚長、第7代統合幕僚会議議長。 滋賀県出身。農業組合長・中村忠治郎の長男として生まれる。水口中学校(現:滋賀県立水口高等学校)を卒業し、陸士予科を経て陸士本科へ進んだ。1937年(昭和12年)陸士本科(第49期)卒業。1942年(昭和17年)陸大卒業(恩賜組)。関東軍参謀、大本営陸軍部参謀等を務め、陸軍少佐で終戦を迎える。その後、公職追放となる。 1952年(昭和27年)7月、警察予備隊に入隊。
猪俣 甚弥(いのまた じんや、1916年(大正5年)4月30… 猪俣 甚弥(いのまた じんや、1916年(大正5年)4月30日 - )は、日本の陸軍軍人。陸軍中野学校1期生で、ポツダム宣言受諾後の皇統護持作戦に参加し、「本丸」計画の責任者であった。最終階級は陸軍少佐。 福島県若松市(現会津若松市)に生まれる。1934年(昭和9年)会津中学を卒業し二高に進学したが、学費滞納で中退する。1937年(昭和12年)歩兵第29連隊に入隊し、翌年には歩兵学校で通信を専攻した。 この1938年(昭和13年)7月には、秋草俊や岩畔豪雄らが中心になり陸軍中野学校の前身である後方勤務要員養成所が設立される。猪俣は騎兵学校の推薦で、養成所の入所試験に合格した。事前の知識としては情報関係の仕事である程度しかなく、入所後に長期海外勤務要員と知らされる。
上田 修一郎(うえだ しゅういちろう、1916年〈大正5年〉… 上田 修一郎(うえだ しゅういちろう、1916年〈大正5年〉4月15日 - 1973年〈昭和48年〉5月11日)は、日本の戦史研究家、軍人。防衛大学校教授を歴任。戦中に軍事史と出会って以来研究し、近世を中心とした体系的な軍事思想書を執筆した。 高知県吾川郡春野村(現・高知市)出身。1936年(昭和11年)、高知高等学校文科乙類卒業後、東京大学文学部西洋史科に入学し、林健太郎が研究室の副手をしていたため、上田と親交をそれ以来持つ。1939年(昭和14年)、東京大学大学院に進学し、参謀本部の委嘱により大場弥平少将(但し当時は予備役になっていた)の指導を受ける。この頃から軍事史を研究し始め、軍務に服して陸軍少尉になる。
土持 則正(つちもち のりまさ、1916年 - 1994年1… 土持 則正(つちもち のりまさ、1916年 - 1994年12月13日)は、日本の陸軍軍人、スパイ、陸上自衛官。 太平洋戦争においてF機関工作員としてタイに潜伏、インド国民軍の編成や戦後のインド独立に影響を与えた藤原岩市の指揮でマレー作戦、ビルマ作戦に従事。 1916年、宮崎県都城市出身。陸士49期。1937年、歩兵第四十五聯隊第一中隊所属、小隊長見習士官。日中戦争に少尉として従軍、正定城攻略戦では日本刀を手に白兵戦を敢行する。機関銃や迫撃砲攻撃の最中、手榴弾を投げる敵に太刀をふるった(証言者の福田清造伍長も銃剣で二人倒す程であった)。固安城の攻撃では第九十一師五百四十五団の敵歩兵2,200人を相手に突撃した。
宮野 善治郎(みやの ぜんじろう、1915年(大正4年)12… 宮野 善治郎(みやの ぜんじろう、1915年(大正4年)12月29日 - 1943年(昭和18年)6月16日)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 海兵65期。最終階級は海軍中佐。 大阪府に生まれる。中河内郡龍華尋常小学校(現・八尾市立龍華小学校)、旧制大阪府立八尾中学校(現・大阪府立八尾高等学校)を経て、1938年(昭和13年)に65期生として海軍兵学校を卒業した。 八尾中学は野球がさかんで、宮野の在校中に春4回、夏2回の甲子園出場を果たした。同期にはのちに読売巨人軍の初代永久欠番「4」となる黒澤俊夫などもいたが、宮野は家庭の事情でクラブ活動には参加できず、官費で学べる海軍兵学校をめざす。
大野 保四(おおの やすし、1915年(大正4年)12月13… 大野 保四(おおの やすし、1915年(大正4年)12月13日 - 1945年(昭和20年)6月27日)は日本の大日本帝国海軍軍人。海軍兵学校65期を昭和13年(1938年)3月16日卒業。太平洋戦争において呂号第六十四潜水艦と伊号第百六十五潜水艦に艦長として乗艦した。昭和20年(1945年)6月15日、人間魚雷回天二基を搭載して山口県の光基地より出撃したまま消息不明となり昭和20年7月16日をもって搭乗員は戦没、潜水艦は7月29日喪失と認定し、回転搭乗員であった北村十二郎一飛曹(長野県出身)、水知創一(兵庫県出身)少尉以下106 名の戦死を公表。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍中佐。 大正4年(1915年)12月13日、父 大野謹平と忠(旧姓:千代倉)の次男として茨城県稲村郡生板村大字竜ヶ崎に生まれる。
三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう、1915年〈大… 三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう、1915年〈大正4年〉12月2日 - 2016年〈平成28年〉10月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人、歴史学者(古代オリエント史)。三笠宮家初代当主。御称号は澄宮(すみのみや)、お印は若杉(わかすぎ)。身位は親王。敬称は殿下。勲等は大勲位。最終階級は陸軍少佐。第126代・今上天皇(徳仁)の大叔父。大正天皇と貞明皇后の第4皇子。昭和天皇は兄(長兄)、第125代天皇・現上皇の明仁は甥。現在の皇族には彼の孫が3人おり3人共女子である(息子3人は死去。娘2人と孫2人は皇籍離脱)。 1915年(大正4年)12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四男子として誕生。3人の兄(昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王)は明治生まれ即ち父である大正天皇がまだ皇太子であった時にその男子として生まれ、早くから「皇孫御殿」に引き取られて養育された。
稲垣 清(いながき きよし、1915年(大正4年)11月23… 稲垣 清(いながき きよし、1915年(大正4年)11月23日 - 1941年(昭和16年)12月8日?)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍兵曹長。 三重県一志郡川合村(現・津市)生まれ。1934年(昭和9年)6月に広島県呉市の呉海兵団に入団し、同所での訓練修了後に駆逐艦「早苗」乗組。海軍水雷学校に入校、駆逐艦「呉竹」に着任。その後、海軍水雷学校高等科水雷術練習生課程を修了した。1941年(昭和16年)11月18日にアメリカ太平洋艦隊の根拠地であったハワイ真珠湾への特別攻撃隊員として潜水艦「伊24」に乗り込み、倉橋島を出撃する。
美濃部 正(みのべ ただし、1915年〈大正4年〉7月21日… 美濃部 正(みのべ ただし、1915年〈大正4年〉7月21日 - 1997年〈平成9年〉6月12日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵64期。最終階級は海軍少佐、空将。旧姓は太田(おおた)。夜間戦闘機部隊「芙蓉部隊」指揮官として、全軍特攻方針の軍上層部に抵抗し、特攻を拒否したとして紹介されることが多いが、特攻の精神そのものは否定しておらず、むしろ特攻への確固たる信念を持つゆえに現状の特攻作戦を邪道と見ており、これに賛同せず難易度が高い夜間攻撃に特化した部隊を造り上げた。決定的な戦機到来の暁には美濃部自身が先頭に立って特攻をかける覚悟であった。 1915年7月21日、愛知県高岡村(現豊田市)で自作農の太田家に六人兄弟の次男として生まれる。
深谷 義治(ふかたに よしはる、1915年6月20日 - 2… 深谷 義治(ふかたに よしはる、1915年6月20日 - 2015年4月21日)は、日本の陸軍軍人。 1915年6月20日、島根県大田市の農家に長男として生まれる。 1937年、浜田歩兵第21連隊に入隊。訓練後、中国の戦場で戦闘中に負傷。1939年に憲兵志願試験に合格。日本憲兵教習隊の第二中隊に配属され、中国の言語・歴史・地理などを学び、優秀な成績で卒業。1940年末、極秘の特殊任務を受けて中国人を装い、諜報員として活動を始める。敵国紙幣を偽造して貨幣市場を混乱させるなどの任務を成功させ、27歳で瑞宝章を受けた。終戦後も任務続行という命令を受け、中国に13年間潜伏。1958年にスパイ容疑で中国当局に逮捕され、上海市第一看守所(拘置所)と上海市監獄(刑務所)に合わせて20年4ヶ月収監。
堀江 正夫(ほりえ まさお、1915年〈大正4年〉6月16日… 堀江 正夫(ほりえ まさお、1915年〈大正4年〉6月16日 - 2022年〈令和4年〉3月20日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官、政治家。自由民主党所属の参議院議員(2期)。位階勲等は正四位勲二等。日本会議代表委員。アジアと日本の平和と安全を守る全国フォーラム初代会長。 新潟県糸魚川市出身。水産学校校長堀江英一の次男として生まれた。7歳から12歳まで樺太で過ごし、糸魚川中学、東京陸軍幼年学校(34期)、陸士予科を経て、陸軍士官学校を卒業(第50期、35番/426名)。旧軍時代は歩兵科士官で、太平洋戦争中に陸軍大学校を卒業し(57期)、第18軍参謀としてパプアニューギニアで終戦を迎えた。 終戦後、1946年(昭和21年)3月に復員し、妻の郷里宮崎県日南市で林業に従事した後、警察予備隊及び保安隊を経て陸上自衛隊で勤務。
内田 一臣(うちだ かずとみ、1915年(大正4年)6月8日… 内田 一臣(うちだ かずとみ、1915年(大正4年)6月8日 - 2001年(平成13年)7月5日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官。海軍兵学校卒業(第63期)。第8代海上幕僚長。 岡山県出身。旧制津山中学を経て海軍兵学校に入校。1936年(昭和11年)3月、海軍兵学校を卒業。海軍少尉候補生として遠洋航海に参加し、アメリカ合衆国各地を巡った。 1937年(昭和12年)8月、軽巡洋艦「川内」乗組みだった海軍少尉時代に第二次上海事変を迎える。同艦の乗員で急遽編成された臨時の陸戦隊小隊長として参加し、1ヶ月間に及ぶ戦闘に従事した。その際、中華民国陸軍の師団本部を殲滅し師団長を戦死させた。この功績により金鵄勲章を授与される。
岩佐 直治(いわさ なおじ、1915年〈大正4年〉5月6日 … 岩佐 直治(いわさ なおじ、1915年〈大正4年〉5月6日 - 1941年〈昭和16年〉12月8日)は、日本の海軍軍人である。「甲標的」(前部に45センチ魚雷発射管を備えた特殊潜航艇)による真珠湾攻撃の考案者の一人で、自ら搭乗して真珠湾攻撃で戦死した。「九軍神」の一人である。二階級特進により、最終階級は海軍中佐。 群馬県前橋市天川原町に、岩佐直吉・てる夫婦の5男、末子として生まれる。長兄・竹松は陸軍中尉だった。後の神奈川県知事・内山岩太郎は従兄にあたる。前橋市中川尋常小学校(現:前橋市立中川小学校)に入学後、前橋市城南尋常小学校(現:前橋市立城南小学校)が新設されると同校に転校、旧制・群馬県立前橋中学校(現:群馬県立前橋高等学校)を経て、海軍兵学校(海兵65期)を卒業した。
宮崎 淳臣(みやざき きよおみ、1915年(大正4年)4月2… 宮崎 淳臣(みやざき きよおみ、1915年(大正4年)4月27日 - 没年不明)は、日本の陸軍軍人(軍医将校)、医師。最終階級は陸軍軍医少佐。かつて731部隊に所属していた。宮崎神経科嵯峨病院創立者。子に豊田潤多郎、孫に豊田剛一郎。紺綬褒章受章者。 兵庫県出身。宮崎伝治の長男として生まれる。旧制姫路高等学校理科乙類を経て、1939年(昭和14年)に京都帝国大学医学部を卒業後、近衛歩兵第1連隊付軍医中尉に任官。1943年(昭和18年)軍医少佐に累進後、陸軍軍医学校教官兼陸軍軍医学校中山出張所長を務める。1946年(昭和21年)千葉県血清製造初代所長となり、1948年(昭和23年)公職追放され医院を開業。
岡部 健二(おかべ けんじ、1915年(大正4年)4月5日 … 岡部 健二(おかべ けんじ、1915年(大正4年)4月5日 - 没年不詳)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 操練38期。最終階級は少尉。 福岡県福岡市出身。旧制修猷館中学卒業後、海兵団に入団。搭乗員を志し、1937年(昭和12年)3月10日、操縦練習生となる。同期生に坂井三郎(首席)。 同年11月30日、操縦練習生課程を修了し、佐伯海軍航空隊に配属された。その後大村海軍航空隊を経て、昭和13年7月にいよいよ戦線を担う第十二航空隊に配属、中国大陸で任務に就いたものの、空戦の機会にあいまみえることはなかった。 翔鶴飛行機隊に転属して間もなく太平洋戦争開戦を迎え、ハワイ・真珠湾攻撃で母艦直衛任務を実施。
松平 永芳(まつだいら ながよし、1915年〈大正4年〉3月… 松平 永芳(まつだいら ながよし、1915年〈大正4年〉3月21日 - 2005年〈平成17年〉7月10日)は、日本の海軍軍人、陸上自衛官、神職。靖国神社第6代宮司(1978年 - 1992年)時代には、A級戦犯の合祀を実施したことで知られる。 二女武子の婿は17代目住友吉右衛門である。 東京に生まれる。祖父は松平春嶽。父は春嶽の長男・松平慶民(子爵、宮内大臣、戦後は宮内府長官)。母幸子は男爵新田忠純の四女。妻充子は侍従武官・侯爵醍醐忠重(海軍中将)の二女。また、尾張徳川家を継いだ侯爵徳川義親(靖国会初代会長)は叔父に当たる。 暁星中学校を卒業。1937年(昭和12年)海軍機関学校(第45期)を経て、1944年(昭和19年)10月、海軍少佐・正五位に至る。