渡辺 栄(わたなべ さかえ、1933年11月16日 - 20… 渡辺 栄(わたなべ さかえ、1933年11月16日 - 2016年もしくは2017年)は、日本中央競馬会 (JRA) に所属した騎手、調教師。調教師時代に2001年度JRA年度代表馬ジャングルポケット、桜花賞優勝馬シャダイソフィア、朝日杯3歳ステークス優勝馬フジキセキなどを管理した。1989年度JRA賞最高勝率調教師、1991年度同最多勝利調教師および優秀技術調教師。新潟県出身。 戸籍上の表記は旧字体が含まれた渡邊 榮だが、JRAでは旧字体等での登録が認められていない為、新字体に修正して登録している。 1933年、新潟県北蒲原郡本田村(現・新発田市)に農家の五男として生まれる。幼少期から農耕馬に親しんで育ち、神事の競馬などにも出場していた。
新田 嘉一(にった かいち、1933年〈昭和8年〉10月6日… 新田 嘉一(にった かいち、1933年〈昭和8年〉10月6日 - )は、日本の実業家、馬主。平田牧場会長、東北公益文科大学理事長、自由民主党酒田支部最高顧問、平田町名誉町民(現:酒田市名誉市民)。 山形県飽海郡平田町楢橋(現:酒田市)において16代にわたり続く地主に生まれる。 父である嘉助は名士で通るも、農業より政治に現を抜かすことが多かったという。 山形県立藤島農業高校を卒業後、大学進学を希望するも父から「農家に学は必要ない」と断言され、進学を断念。 戦後の高度経済成長において、和食中心から洋食へ食文化が変遷し、庄内地方においては離農し都会に出る人々が増えつつある現状を鑑みた新田は、田畑を処分した上で就労の途につく方が暮らしも楽になるのではないかと父に進言するも聞き入れられなかった。
松本 善登(まつもと よしと、1933年6月15日 - 19… 松本 善登(まつもと よしと、1933年6月15日 - 1981年12月14日)は、島根県安濃郡大田町(現・大田市)出身の元騎手。シンザンの引退レースとなった第10回有馬記念を制し、1970年代最後の東京優駿ではカツラノハイセイコで勝利。ファンや関係者からは「善さん」と呼ばれ、親しまれていた。 息子の松本一孝は現在、栗東・庄野靖志厩舎の調教助手。 少年時代には体が弱かったために「牛乳を飲んで大きくなれれば」という思いで、近くにあった新堀牧場に牧夫として入った。しかし同牧場は馬の牧場であり、思惑通りには行かなかったが、牧場で働くうちに馬の乗り方を覚え、また体が小さかったこともあって騎手になることを勧められる。
千明 大作(ちぎら だいさく、1933年3月11日 - 20… 千明 大作(ちぎら だいさく、1933年3月11日 - 2026年1月6日)は、日本の実業家、競走馬生産者。株式会社丸沼元取締役社長、千明牧場元代表。1983年に中央競馬クラシック三冠を達成したミスターシービーのオーナーブリーダーとして知られる。 1933年3月11日、群馬県利根郡出身(新潟県とも)。千明康の長男。開成高等学校を経て、1957年に慶應義塾大学法学部を卒業し、同年帝都高速度交通営団に入社。1965年に同営団を退社し、株式会社丸沼温泉ホテル常務取締役に就任。1971年同社専務取締役となる。1975年に平和倉庫株式会社社長、1983年より丸沼温泉ホテル(のちの丸沼)社長、1986年より株式会社菱屋社長を歴任した、丸沼取締役社長は2004年まで務め、以降は長男の千明孝一郎が取締役社長に就任している。
伊藤 竹男(いとう たけお、1933年1月9日 - )は、国… 伊藤 竹男(いとう たけお、1933年1月9日 - )は、国営競馬、日本中央競馬会の騎手ならびに調教師であった人物。 1951年に国営競馬(後の日本中央競馬会)でデビュー。キタノオー、ダイゴホマレ、ガーネット、ニットエイトなどに騎乗して八大競走8勝、通算では471勝を挙げた。特に追い込みを身上とした勝負強い騎手として知られた。1972年より調教師として厩舎開業し、1998年8月に引退。日本中央競馬会調教師の伊藤伸一は長男。1958年初頭までは「勝尾(かつお)」姓であった。 1933年、北海道札幌市に生まれる。両親は市内で「入枡」という天ぷら店を経営しており、常連であった騎手兼調教師の上村大治郎に数頭の競走馬を預けてもいた。
栗田 勝(くりた まさる、1932年3月11日 - 1980… 栗田 勝(くりた まさる、1932年3月11日 - 1980年1月16日)は、愛知県岡崎市出身の元騎手・元調教師。息子の栗田伸一は元騎手・調教助手であったが、父同様に若くしてこの世を去っている。 子沢山な地方公務員の11人兄弟の下から二番目として誕生し、公務員である父の担当が地元にあった岡崎競馬場の管理であった事や、幼くして母と死別してから母代わりとなった姉が調教師の妻だった事から、幼少期から競馬と接した栗田は騎手を目指す事となった。1946年に京都・武田文吾調教師に弟子入りし、一旦松田由太郎厩舎に移籍したが、再び武田厩舎に戻って1951年にデビュー。初騎乗は6月16日のミスヨシ(7着)で、初勝利はデビュー3ヶ月後の9月15日・ノーベルと手間取った。
田所 稔(たどころ みのる、1932年1月28日 - 199… 田所 稔(たどころ みのる、1932年1月28日 - 1991年5月27日)は、日本中央競馬会(JRA)に所属した騎手、調教師。騎手時代の1966年にニホンピローエースで皐月賞に優勝した。 いずれも騎手・調教師の田所秀雄は実兄、田所秀孝は甥、師匠でもある小川佐助は叔父、田所清広(旧姓・佐野)は娘婿である。 1932年、北海道浦河町の農家に生まれる。実家は兄弟が多く貧しかったことから、幼少の頃に伯母の家に身を寄せた。1950年、すでに騎手となっていた兄・秀雄を頼り、その師匠で叔父の小川佐助厩舎(京都競馬場)に入門した。1953年に騎手免許を取得。初騎乗は4月26日の第1回阪神競馬8日目第2競走で、マサミドリに騎乗したが最下位に敗れた。
石下 年安(いしげ としやす、1932年1月16日 - 20… 石下 年安(いしげ としやす、1932年1月16日 - 2000年12月27日)は、日本の射撃競技(クレー射撃)選手、実業家、馬主。オリンピックにクレー・ピジョン(トラップ)種目で出場2回(1964年東京・1976年モントリオール)。日本選手権を3度獲得したほか、アジア競技大会や世界選手権にも出場した。1968年時点で有限会社大谷石商会専務取締役。 栃木県出身。大東文化大学卒業。高校・大学時代に打ち込んでいたのは野球で、プロ球団の入団テストも受け、最終選考まで進んだという。家業の石材会社を継いでからも野球を続けていたが、大会で骨折し野球をやめた。射撃競技との出会いはその後のことで、28歳の時に友人から勧められてクレー射撃を始めた。
熊久保 勅夫(くまくぼ ときお、1931年8月7日 - 20… 熊久保 勅夫(くまくぼ ときお、1931年8月7日 - 2012年12月30日)は、日本の実業家、馬主。東北サファリパーク、那須サファリパーク、エビスサーキット、那須ワールドモンキーパーク、岩手サファリパーク創業者。息子は熊久保信重。 勅夫は、満州事変がはじまる前月の1931年8月7日、栃木県黒磯市(現在の那須塩原市)高林にて、酒造業や木材・木炭の取引業などを営む熊久保家の次男として生まれた。学校の勉強よりも自然から学ぶことを好んで山を駆け回り、「普通の悪ガキ」に育った少年時代を過ごした勅夫は、戦後の混乱期の中で高校を出ると同時に、東京都江東区深川の材木問屋へ丁稚奉公に行き、そこで3年間の修行を積んだ。
内藤 繁春(ないとう しげはる、1931年1月12日 - 2… 内藤 繁春(ないとう しげはる、1931年1月12日 - 2013年8月12日)は、愛知県碧海郡高浜町(現・高浜市)出身の元騎手・元調教師・元馬主。管理馬通算出走11201回という中央競馬の史上最多記録を打ち立て、調教師として定年引退間際の2000年に騎手復帰を試みたことで話題を集めた。 実兄・博司は東海地方で飲食店をチェーン展開する株式会社だるまの創業者、同社会長で馬主の内藤耕造は甥である[要出典]。 実家は名古屋コーチンを生産する養鶏場を営んでおり、太平洋戦争を経て、戦後は定時制高校に通いながら鉄工所や瓦の製造会社に就職したが、工場内で排出される煤煙で肺を病み休職を余儀なくされて高校も中退。
二分 久男(にぶん ひさお、1930年12月29日 - )は… 二分 久男(にぶん ひさお、1930年12月29日 - )は、宮崎県都城市出身の元調教師(栗東所属)・元騎手。 妻は師匠である布施文蔵元調教師の次女であり、布施正とは義兄弟の間柄に当たる。 1953年に布施文蔵厩舎から騎手としてデビューし、1219戦60勝(中央以降)をマークし、1965年引退。 引退後の1965年に調教師免許を取得して厩舎を開業し、1968年にクモムラサキでアラブ大賞典(秋)を制して重賞初制覇。1978年にアグネスホープが東京優駿(日本ダービー)2着に入り、1980年にはアラナス産駒のノースガストで菊花賞を制し、クラシック初制覇を達成。1981年にはフォルティノ産駒のテキサスワイポンで中山大障害(秋)を制覇し、1988年から1990年にかけてはウエスタンウインド産駒のシンウインドが短距離戦線で活躍。
保手浜 弘規(ほてはま ひろき、1930年12月15日 - … 保手浜 弘規(ほてはま ひろき、1930年12月15日 - 2011年12月)は、日本の実業家、馬主。 精密プレス加工金型の製作などを手掛ける、株式会社城南製作所の代表取締役社長を務めていた。 1930年、東京都出身。愛媛県三島町(大三島町の誤記か)を故郷としている記載もある。本名は「保手浜弘規」だが、のちに「忠弘」へ改名している(日本中央競馬会の馬主登録は本名)。1953年に早稲田大学社会科学部を卒業。一時は銀行に勤めていたが、父が倒れたことで実家の保手浜精器製作所に入社、1960年に同社常務となる。その後独立し1961年に城南製作所、1962年に城南商事を設立し代表取締役を務めた。 2011年、12月8日までに死去していたことが馬主である西山茂行により明かされた。
宮本 悳(みやもと いさお、1930年11月29日 - 19… 宮本 悳(みやもと いさお、1930年11月29日 - 1996年7月28日)は、日本中央競馬会に所属した騎手、調教師。 1951年に国営競馬(後の日本中央競馬会)で騎手デビューし、1963年にリュウフォーレルで天皇賞(秋)と有馬記念、1968年にタニノハローモアで東京優駿(日本ダービー)を制した。1971年より調教師となり、1996年に在職のまま死去。 1930年、千葉県館山町(後の館山市)に生まれる。父親が競馬好きであったことから騎手になることを勧められ、1948年に国営競馬の武輔彦厩舎(阪神競馬場)に騎手見習いとして入門。1951年に騎手となった。長らく騎乗機会に恵まれず不遇を託っていたが、1956年より所属した橋本正晴厩舎(京都競馬場)を懇意にしていた三好諦三に真面目な仕事ぶりを認められ、その所有馬の騎手に抜擢された。
田原 源一郎(たはら げんいちろう、1929年12月9日 -… 田原 源一郎(たはら げんいちろう、1929年12月9日 - 2007年1月4日)は、日本の実業家、馬主、元カーレーサー。 東京都台東区元浅草にある広告物製作業を手がける株式会社田原屋の代表取締役を務めた。 1929年、東京都出身。早稲田大学を卒業後株式会社田原屋を設立した。全日本旗業連合会会長、東京旗商業協同組合理事長を歴任。2007年1月4日、肺炎のため死去。77歳没。 かつてはカーレーサーとして活躍。1963年の第1回日本グランプリでは国内スポーツカーB-IIクラス(1300cc - 2500cc)にダットサン・フェアレディ1500で出場し、優勝する。SCCN(ニッサンスポーツカークラブ)の初代会長であり、1965年以降は日本自動車連盟 (JAF) 内の各委員会の委員、委員長を務めた。
古山 良司(ふるやま りょうじ、1929年6月28日 - 2… 古山 良司(ふるやま りょうじ、1929年6月28日 - 2011年8月22日)は、国営競馬、日本中央競馬会に所属した騎手、調教師。神奈川県横浜市出身。父は騎手の古山喜三郎。 1950年に騎手デビュー。早くより頭角を現し、1950年代から1960年代にかけて第一線の騎手として活動、「戦後派ナンバーワン」との評を取り、コマツヒカリで東京優駿(日本ダービー)に優勝したほか、「走る精密器械」と呼ばれたタカオー、「怪物」タケシバオーといった名馬の主戦騎手を務めた。騎手通算は4409戦619勝、うち八大競走5勝を含む重賞24勝。 1970年より調教師に転身し、美浦トレーニングセンターに所属。2000年の引退までに数々の重賞勝利馬を手掛けた。
石栗 龍雄(いしくり たつお、1928年12月15日 - )… 石栗 龍雄(いしくり たつお、1928年12月15日 - )は、日本の騎手、調教師。 1951年に国営競馬(のち日本中央競馬会)で騎手デビュー。1959年に引退し、1965年より調教師。主な管理馬には1980年天皇賞(秋)に優勝した牝馬プリテイキャストなどがいる。また横山典弘は門下生である。2000年に定年引退。日本中央競馬会調教師の石栗龍彦は長男。 1928年、北海道札幌市の商家に生まれる。取り立てて競馬に興味をもってはいなかったものの、騎手見習いとなった友人に誘われて競馬場に出入りをはじめ、馬に惹かれていった。太平洋戦争中には援農作業で農耕馬を扱っていた。 1945年に旧制北海中学を卒業し、1947年秋に稗田虎伊のもとへ騎手見習いとして入門。
藤田 正蔵(ふじた しょうぞう、1928年10月30日- 2… 藤田 正蔵(ふじた しょうぞう、1928年10月30日- 2012年5月29日 )は、日本の経営者、馬主。中鉄バスとテレビせとうちで社長を務めた。 岡山県岡山市出身。1952年に同志社大学経済学部を卒業し、同年に中鉄バスに入社し、取締役にも就任。1953年に社長に就任し、1954年には中国交通社長に就任。1984年10月から1999年12月までにテレビせとうち社長を務めた。 1984年6月に運輸大臣表彰を受けた。1965年9月に紺綬褒章を受章し、1990年5月に藍綬褒章を受章した。 2012年5月29日、心不全のために死去。83歳没。 日本中央競馬会(JRA)に登録していた馬主としても知られた。
橋爪 四郎(はしづめ しろう、1928年〈昭和3年〉9月20… 橋爪 四郎(はしづめ しろう、1928年〈昭和3年〉9月20日 - 2023年〈令和5年〉3月9日)は、日本の競泳選手、スポーツ指導者。ヘルシンキオリンピック競泳男子1500m自由形銀メダリスト。和歌山県和歌山市出身。日本大学卒業。 終戦直後の1946年、古橋廣之進に誘われて日本大学に進学。その後、世界トップレベルの記録を連発。1948年のロンドンオリンピックではメダル獲得が確実視されたが、日本の参加は認められなかった。ロンドン五輪の代わりとして日本水泳連盟が開催した全日本水上選手権大会では1500m自由形で当時の世界記録を上回る18分37秒8を記録した(当時の日本は敗戦国であったことから国際水泳連盟(FINA)から除名されていたため、世界記録としては公認されなかった)。
古橋 廣之進(ふるはし ひろのしん、1928年9月16日 -… 古橋 廣之進(ふるはし ひろのしん、1928年9月16日 - 2009年8月2日)は日本の水泳選手であり、スポーツ指導者。日本大学名誉教授。
野平 祐二(のひら ゆうじ、1928年3月20日 - 200… 野平 祐二(のひら ゆうじ、1928年3月20日 - 2001年8月6日)は、日本の騎手(日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会〈JRA〉 )、調教師(日本中央競馬会)。千葉県船橋市古作出身。騎手としても調教師としても成功し「ミスター競馬」と呼ばれた。父の野平省三は元騎手(日本競馬会)、元調教師(国営競馬、日本中央競馬会)。孫の二本柳壮は騎手(JRA)。2004年、騎手顕彰者に選出。 父の省三が騎手を引退したあと、下総御料牧場で働いていたときに生まれる。幼少のころから馬が身近にいる環境で育ち、小学校時代には馬に鞍をつけて乗るようになっていた。 尋常小学校を卒業後、旧制関東中学校(現・千葉敬愛高等学校)に進学するが、騎手を志して退学。
須田 茂(すだ しげる、1928年2月22日 - )は、元大… 須田 茂(すだ しげる、1928年2月22日 - )は、元大井競馬場所属の元騎手・調教師である。黎明期の南関東公営競馬で6年連続リーディングジョッキーに輝き、川崎の佐々木竹見騎手に抜かれるまで日本における最多通算勝利数記録を保持していた。 群馬県勢多郡新里村(現・桐生市)出身。高等小学校を卒業すると、13歳で埼玉県朝霞町に存在した陸軍予科士官学校に徴用され、馬係を任される。その後は終戦まで同学校で将校用の馬を世話しつつ、合間を縫って騎乗技術の手ほどきを受けたという。 終戦後は北関東の草競馬でセミプロとして農耕馬などに騎乗していたところ、軍時代の先輩から当時高崎に厩舎を構えていた田中利衛調教師を紹介される。
藤井 一雄(ふじい かずお、1927年9月2日 - )は、日… 藤井 一雄(ふじい かずお、1927年9月2日 - )は、日本の実業家、馬主、競走馬生産者。 1960年代に障害競走で活躍したフジノオーの馬主として知られる。 1927年、山口県出身。明治大学商学部卒業後、1971年に果実、家畜などの貿易を行う藤井治商事株式会社の取締役社長に就任。1963年11月には日本バナナ輸入組合理事長、1969年7月には日本柑橘輸入組合理事長に就任している。1967年11月には農事功労章を受章した。1978年には、藤井治商事が日本中央競馬会の代理としてアメリカから種牡馬・ハンザダンサーを購入したが、その際に日本中央競馬会へ提出した明細と、アメリカの売主が証言した売却額に食い違いがあったことで、藤井治商事が「手数料」を不正に受領した疑惑が持ち上がった(詳細はハンザダンサー事件を参照)。
木島 力也(きじま りきや、1926年〈大正15年〉11月4… 木島 力也(きじま りきや、1926年〈大正15年〉11月4日 - 1993年〈平成5年〉9月2日)は、日本の総会屋、企業ゴロ、フィクサー、出版人、馬主。戸籍上の本名は鬼嶋 力也(読みは同じ)だが、本人はもっぱら「木島」の表記を用いていた。 児玉誉士夫門下で、西山広喜・岡村吾一とともに「児玉門下三羽ガラス」と呼ばれた。児玉の「側近」を自称し、児玉の没後は「後継者」を自称した。 総会屋小池隆一の師。木島の没後に発覚した一連の小池隆一事件においては、小池と金融機関各社との関係を実際に築いたのは木島であったとされている。 出版人としては現代評論社の創業者であり、新左翼系総合雑誌『現代の眼』のオーナーとして知られる。
上田 三千夫(うえだ みちお、1926年10月25日-200… 上田 三千夫(うえだ みちお、1926年10月25日-2002年4月14日)は、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会に所属した騎手、競走馬調教師。騎手時代に二冠馬ダイナナホウシユウの主戦騎手を務めたことで知られる。 福岡県小倉市(現・北九州市)出身(出生地は宮崎県)。旧姓は和田。1939年に小倉競馬場所属の調教師、上田武司に弟子入りし、のち養子となる。 1943年に騎手免許を取得し、春季宮崎競馬より騎乗、3日目で初勝利を飾ったが、上田が応召したために渋川久作厩舎に移籍。1944年3月に一旦騎手を廃業した。 戦後、1946年9月に再び騎手免許を取得。高橋直三厩舎の所属となったが、1948年には京都競馬場に厩舎を構えた上田厩舎に復帰し、主戦騎手を務めるようになった。
和泉 信一(いずみ しんいち、1926年7月25日 - 20… 和泉 信一(いずみ しんいち、1926年7月25日 - 2016年8月26日)は、日本の実業家、馬主。 日本中央競馬会(JRA)に登録していた馬主としても知られた。勝負服の柄は赤、白二本輪、青袖、冠名には主に「ナカヤマ」、過去には「イズミ」、「シン」を用いた。日本馬主協会連合会会長を務めたのち、同会の名誉会長となったほか、2011年現在では東日本馬主協議会・中山馬主協会の最高顧問も務めていた。 馬主となったきっかけは、大井競馬場で先に馬主となっていた弟の敬三(2005年没)の所有馬が増え持ちきれなくなり、兄である信一に所有を頼んだことで、大井競馬を経て国営競馬(現中央競馬)の馬主となる。昭和30年代には抽せん馬が大量に当たり、レースで所有馬が上位を独占したこともあった。
小林 稔(こばやし みのる、1926年3月10日 - 200… 小林 稔(こばやし みのる、1926年3月10日 - 2009年1月27日)は、日本の騎手、競走馬調教師。兵庫県出身(東京府出生)。 第二次大戦中の1944年に騎手デビュー。戦後、トラックオーで1951年の菊花賞と1952年秋の天皇賞に優勝した。1964年に騎手を引退し、調教師に転身。1970年代より関西の有力調教師として定着し、1996年の東京優駿(日本ダービー)優勝馬フサイチコンコルドを代表として数々の活躍馬を輩出した。中央競馬通算5525戦899勝、うち重賞51勝。最多勝利調教師4回、最高勝率調教師、最多賞金獲得調教師、優秀技術調教師各1回。 父は騎手・調教師の小林三雄三(みおみ)、実弟・小林功も騎手であった。
吉永 猛(よしなが たける、1926年3月2日 - )は、日… 吉永 猛(よしなが たける、1926年3月2日 - )は、日本の競馬騎手、調教師。 1943年に日本競馬会(のち国営競馬、日本中央競馬会)で騎手デビュー。兵役を経て1947年より復帰し、1965年までに重賞3勝を含む通算276勝を挙げた。騎手引退後は調教師に転身し、1992年の阪神3歳牝馬ステークスを制したスエヒロジョウオーらを手がけた。1999年に定年引退。調教師通算成績は7493戦670勝、うちGI競走1勝を含む重賞13勝。 同じく中央競馬騎手・調教師であった吉永忍は従弟。自身の門下生であった川村禎彦は娘婿。 宮崎県北諸県郡高城町出身。近郊の三股町には競馬場があり、農家であった父と叔父は飼養する馬をそこで走らせていた。
横山 修二(よこやま しゅうじ、1925年(大正14年)11… 横山 修二(よこやま しゅうじ、1925年(大正14年)11月23日 - 2018年(平成30年)5月6日)は、日本の実業家、馬主。株式会社大京創業者であり、同社初代社長・会長を務めた。東京都出身。 東京都生まれ。麹町小学校 - 芝浦高等工学校卒業。戦後はシベリアに抑留されるが、1949年(昭和24年)にようやく帰国。 田辺工機で勤務などを経て、1960年(昭和35年)に大京商事、1964年(昭和39年)には大京観光を相次いで創業し、同社社長に就任した。 ライオンズマンションの名称で高層住宅の建設及び分譲により業績を伸ばした。 1997年(平成9年)には同社会長に就任し、その他、社団法人住宅産業開発協会(現・社団法人日本住宅建設産業協会)会長や第6代日本体操協会会長などを歴任した。
細川 益男(ほそかわ ますお、1924年〈大正13年〉11月… 細川 益男(ほそかわ ますお、1924年〈大正13年〉11月29日 - 2010年〈平成22年〉3月31日)は、日本の実業家、馬主。 1924年11月29日、大阪府に生まれる。 1943年、旧制浪速高等学校を卒業後、京都帝国大学工学部化学機械科へ入学。卒業後、武田薬品工業で研究員として勤めたのち、1951年、父の細川永一から細川鉄工所(現:ホソカワミクロン)を継承し、1961年に同社の代表取締役社長となる。1995年、同社代表取締役会長に就任。 2006年、東北大学の非常勤理事に就任。 2010年3月31日、肺炎のため死去。85歳没。 日本中央競馬会(JRA)に登録していた馬主としても知られた。
太田 美實(おおた よしみ、1924年11月1日 - 201… 太田 美實(おおた よしみ、1924年11月1日 - 2015年1月16日)は、日本の内科・小児科・泌尿器科医師、馬主。 京都府京都市東山区に所在する太田医院元院長。京都馬主協会に所属していた馬主でもあり、1993年のダービー馬のウイニングチケットなどを所有していた。妻の珠々子は本城珠喜の芸名で活動していた元タカラジェンヌである(宝塚歌劇団37期生)。 1924年、京都府出身。京都大学医学部を卒業し、その後太田医院を開院した。1993年時点では東山医師会の会長を務めていた。 2015年1月16日、心不全のため逝去。90歳没。 日本中央競馬会(JRA)および地方競馬全国協会(NAR)に登録した馬主としても知られた。
鈴木 清(すずき きよし、1924年9月5日 - 1998年… 鈴木 清(すずき きよし、1924年9月5日 - 1998年8月12日)は、日本の調教助手(国営競馬)・調教師(国営競馬・中央競馬(中山競馬場→美浦トレーニングセンター))。調教師の鈴木信太郎は父。騎手・調教師の高橋英夫は義理の兄。千葉県立千葉中学校卒業、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。東京都出身。中央競馬初の大学卒業資格を持つ調教師として知られる。 1924年、目黒競馬場内にあった父・信太郎の厩舎で生まれた。1933年に目黒競馬場が閉鎖されたのに伴い父の厩舎が中山競馬場へ移転。一家は千葉県へ移住した。清が千葉県立千葉中学校を卒業した当時は太平洋戦争中に中止していた競馬が再開したばかりで、日本競馬界の前途は不明確であった。
田所 祐(たどころ ゆう、1924年3月15日 - 2005… 田所 祐(たどころ ゆう、1924年3月15日 - 2005年1月13日)は、日本の内科医師、馬主。 兵庫県神戸市にある総合病院である田所病院の院長であった。 兵庫県神戸市にある田所医院の院長として、弟の順、健とともに医師として活動した。阪神タイガースの専属ドクター、さらに日本ボクシングコミッション公認ドクターとして関西エリアでのボクシング興行でリングドクターを務めていた。 1995年の阪神・淡路大震災では、病院兼自宅が半壊、被害に巻き込まれた順とその夫人を亡くすという不幸に見舞われた。そのような状況であったが、同年12月28日には、所有馬マヤノトップガンが有馬記念を制して得た賞金の一部(1000万円)を日本赤十字兵庫県支部へ寄付した。
石毛 善衛(いしげ ぜんえい、1923年5月26日 - 20… 石毛 善衛(いしげ ぜんえい、1923年5月26日 - 2014年10月24日)は、日本の競馬騎手、調教師。 1942年に日本競馬会(日本中央競馬会の前身)で騎手デビュー。1947年にトヨウメ、1958年にセルローズで、それぞれ天皇賞(秋)に優勝した。1948年に結婚するまでは「小林善衛」の名で騎乗。1964年より調教師に転じ、1998年に定年引退。日本中央競馬会調教師の石毛善彦は次男。 1923年、群馬県邑楽郡大川村(後の大泉町)に、東武鉄道の職員であった小林定五郎、きぬ夫妻の長男として生まれる。近郊には地方競馬の館林競馬場があった。旧制館林中学1年生のころに騎手の姿に憧れ、1937年、父の知人の紹介で名騎手の評が高かった石毛彦次郎(中山競馬場)の門下に入る。
前田 長吉(まえだ ちょうきち、1923年2月23日 - 1… 前田 長吉(まえだ ちょうきち、1923年2月23日 - 1946年2月28日)は、日本競馬会(現在の日本中央競馬会(JRA)の前々身)の元騎手である。現在親戚は青森県八戸市,東京都荒川区などにいる。 東京の尾形景造(後の尾形藤吉)厩舎の所属であった(当時は各競馬場に厩舎があり、その競馬場で調教していた)。青森県三戸郡是川村(現在の八戸市)出身。東京優駿競走(現在の東京優駿(日本ダービー))を最年少で優勝している(20歳3か月)。 農家の8人兄弟の四男(7番目の子)として生まれた。幼いころから才能に秀でて何をやらせてもできたといい、カイバ桶に入れた熱湯に板をつけてしならせスキー板を作ったり1937年の14歳の時にはその年の11月に(当時の)八戸市で開かれた八戸市養鶏組合主催の大会で軍鶏の養育部門で3等賞を受けたりしている。
関野 栄一(せきの えいいち、1923年 - 1999年4月… 関野 栄一(せきの えいいち、1923年 - 1999年4月13日)は、日本の実業家、馬主。 鉄骨工事や鉄道模型の製造・輸出などを手掛けた株式会社あかね製作所の代表取締役を務めていた。東京都八王子市出身。 1923年、東京都出身。経営者としては先述の事業のほか、としまえん(東京都練馬区)の「アフリカ館」の建設にも携わった。関野自身がアフリカへ赴き、研究を重ねて完成させたという。 1999年4月13日午後5時7分、心筋梗塞のため死去。76歳没。 日本中央競馬会(JRA)および地方競馬全国協会(NAR)に登録していた馬主としても知られた。勝負服の柄は紫、赤袖、黄鋸歯形。冠名には経営していた会社名より「アカネ」を用いた。
谷岡 敏行(たにおか としゆき、1922年3月18日 - 1… 谷岡 敏行(たにおか としゆき、1922年3月18日 - 1953年12月13日)は日本の騎手。 1922年3月18日、競走馬の故郷、馬産地として名高い北海道日高郡新ひだか町静内神森(旧静内町)に、水田農業を営む父・谷岡倉太郎(一族は、1882年(明治15年)広島県大竹市より移住)と母・ナツ(一族は兵庫県淡路島より移住)の三男として生まれる。10人兄弟姉妹(兄2人、弟4人、姉1人、妹2人)の第4子である。 新ひだか町の有限会社谷岡牧場(1935年創業)、有限会社新和牧場(1994年創業)は本家にあたる。 静内尋常高等小学校を卒業時、静内町にある新冠御料牧場獣(現・家畜改良センター新冠牧場)吉住獣医師(稲葉幸夫の妹の夫)が、学校教室に来て騎手希望者を募ったところ、谷岡敏行が手を挙げ申し込んだ。
久保谷 唯三(くぼたに ただぞう、1921年1月25日 - … 久保谷 唯三(くぼたに ただぞう、1921年1月25日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家、馬主。 1921年1月25日、広島県竹原町(現竹原市竹原町)で煙草、塩の販売業を営む家庭に生まれる。学校を卒業後、一度大阪府に出たのち長崎県へ向かい、三菱長崎造船所に入社した。1941年には現役兵として下関第72部隊に入隊したが、終戦に伴い除隊となると故郷の竹原に戻った。1946年5月には25歳ながら竹原町議会議員選挙に立候補し2位当選を果たすと、町議会内で起こった不正事件にかかるリコール問題でリコール派の筆頭として活動し議会の解散に持ち込む。翌1947年にトップで再選を果たすと同議会副議長に就任した。
保田 隆芳(やすだ たかよし、1920年3月18日 - 20… 保田 隆芳(やすだ たかよし、1920年3月18日 - 2009年7月1日)は、日本の騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会(JRA))、調教師(日本中央競馬会)。 1936年に騎手デビュー。10代の頃から名門・尾形藤吉厩舎の主戦騎手として頭角を現し、数々の大競走を制する。1958年、アメリカ遠征を機に、従来の日本では見られなかったアメリカ式のモンキー乗りを習得し、日本における騎手の騎乗フォームに大きな変革をもたらしたことから、モンキー乗りの先駆者とされている。1959~1961年、中央競馬全国リーディングジョッキー(年間最多勝利騎手)。1963年、中央競馬史上初の通算1000勝を達成。
高田 久成(たかだ ひさなり、1920年1月19日 - 20… 高田 久成(たかだ ひさなり、1920年1月19日 - 2007年10月7日)は、日本の実業家、馬主。台湾出身。 名馬テンポイント等の馬主として知られ、京都馬主協会の役員を務めた。元中外炉工業株式会社取締役。 日本中央競馬会(JRA)の馬主としても知られた。勝負服の柄は桃、黄銭形散、白袖で、冠名は特に用いなかった。 所有馬は大半が地元である関西の小川佐助、戸山為夫、鹿戸幸治、鹿戸明厩舎に所属していたが、プリテイキャストのように関東の石栗龍雄厩舎に所属した馬もいた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
中西 関松(なかにし せきまつ、1919年3月14日 - 1… 中西 関松(なかにし せきまつ、1919年3月14日 - 1990年1月9日)は、ばんえい競馬の元騎手・調教師。 北海道新十津川村の農家・中西岩吉の第6子として生まれる。中西家では第一子の長男が早世しその後女子の誕生が連続していたことから事実上の長男となる。子供時代から馬に親しみ近隣のばん馬大会に出場しており、13歳から荷馬車の馬追いや家畜商を行い、太平洋戦争中は中国大陸に出征、腹部に銃弾を受けるも腸を傷つけなかったことにより事なきを得て、また腸チフスにも罹患するも一命を取り留める。 1944年に復員し故郷で稲作や林業に従事したのち、終戦後は滝川町に移り林業や運搬作業に従事する傍ら草ばん馬大会に積極的に参加する。
菅 浦一(すが うらいち、1919年1月4日 - 2003年… 菅 浦一(すが うらいち、1919年1月4日 - 2003年11月23日)は、日本の実業家、馬主。 平和農産工業株式会社社長、日本馬主協会連合会第10代会長を務めた。 1919年、愛媛県出身。明治大学卒業後、三菱鉱業を経て1948年12月に製鉄原料の販売を手掛ける不二興産株式会社を設立した。ほかフェロアロイを取り扱う極東工業株式会社社長、ゴルフ場運営などを行う平和農産工業株式会社・西南観光開発株式会社各代表を歴任。2003年11月23日、肺気腫のため死去。83歳没。 趣味はゴルフ、読書。 日本中央競馬会に登録していた馬主としても知られた。勝負服の柄は黄、赤鋸歯形、冠名には「アモン」を用いた。「株式会社アモン」の法人名義も存在し、そちらの勝負服の柄は黄、袖青一本輪、赤鋸歯形となっている。
高橋 英夫(たかはし ひでお、1919年1月3日 - 201… 高橋 英夫(たかはし ひでお、1919年1月3日 - 2013年8月9日)は、日本の元騎手(中山競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会)、元調教師(日本中央競馬会)。義父の鈴木信太郎は元調教師(日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会)次男の高橋祥泰は元調教師(日本中央競馬会〈JRA〉)。北海道上川郡屈足村(現・新得町)出身。 実家は農家で農耕馬の繁殖も手掛けていたため、幼少期から馬に親しんで育った。 1935年に上京して中山競馬場の函館孫作に入門。翌1937年春に騎手免許を取得し、同年秋に騎手デビュー。太平洋戦争中は徴兵されて室蘭に配属され、終戦後競馬界に復帰。当時函館が調教師を引退していたため、はじめは東京競馬場の藤本冨良厩舎に所属したが、結婚したのを機に中山競馬場の鈴木信太郎厩舎に移籍した。
佐藤 勇(さとう いさむ、1918年3月13日 - 1999… 佐藤 勇(さとう いさむ、1918年3月13日 - 1999年4月14日)は、日本競馬会、国営競馬および日本中央競馬会に所属した騎手、調教師。騎手時代には八大競走で3勝、中央競馬史上初めての通算500勝を記録した。調教師転身後も1975年に全国リーディングトレーナー(年間最多勝利調教師)を獲得、天皇賞(春)優勝馬ヒカルポーラ、東京優駿(日本ダービー)優勝馬オペックホースなどを管理し、通算1074勝を挙げた。騎手500勝・調教師1000勝は中央競馬史上唯一の記録である。 1933年、北海道上川郡士別町(現・士別市)に、小作農の長男として生まれる。少年期は教師を志していたが、家計の逼迫から学業を断念。
矢野 幸夫(やの ゆきお、1917年12月22日 - 200… 矢野 幸夫(やの ゆきお、1917年12月22日 - 2004年5月17日)は日本の競馬の騎手、調教師、および整体師。 北海道静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)出身。実家は軍馬を生産する牧場だった。 1930年、中山競馬場・東原玉造厩舎所属の見習騎手となり、1933年に騎手免許を取得。日本競馬会時代の1941年には優秀騎手として表彰され、国営競馬時代の1951年には最高技能賞を受賞している。 1952年に調教師免許を取得し、その後中山競馬場で厩舎を開業。1978年、美浦トレーニングセンター開設に伴い移転。1994年2月をもって定年引退するまでの間に通算1060勝を挙げた。同年2月27日に中山競馬場で引退式が行われ、代表してファンに挨拶を行った。
浅井 礼三(あさい れいぞう、1917年11月15日 - 1… 浅井 礼三(あさい れいぞう、1917年11月15日 - 1985年5月26日)は、千葉県印旛郡成田町成田(現在の成田市本町)出身の野球選手、実業家、馬主。早稲田大学在籍時には「100万ドルの名外野手」と謳われた。 旧制成田中学校を経て1935年に早稲田大学に入学した。全国中等学校優勝野球大会での実績がないなか同大学の野球部に入部し、中堅手としてレギュラーに選出された。1938年に早稲田大学専門部商科を卒業。1939年には現役の選手でありながら、唐津中学の監督に就任。これは、同校野球部の強化を望んでいた学校関係者が、同校卒業生で当時早大野球部に在籍していた下尾勝馬を通しての依頼であるという。当初は1週間ほどの予定であったが、指導に熱が入ったため、最終的には45日間にもわたる熱心な指導となった。
出川 己代造(でがわ みよぞう、1917年9月27日 - 2… 出川 己代造(でがわ みよぞう、1917年9月27日 - 2000年5月28日)は、日本レース・倶楽部所属の元騎手、船橋競馬場所属の調教師・元騎手である。戦前は現在の中央競馬の前身のひとつである日本レース・倶楽部で騎手となり、戦後は地方競馬の船橋競馬場で調教師として長年に渡って活躍した。長男の出川龍一・次男出川博史・三男出川克己も船橋競馬場で調教師を開業している。 埼玉県本庄市出身。父が地方競馬のスターターをしていた関係で、1932年に林義和一門・川崎敬次郎の元へ騎手見習いとして入門する。同厩舎には兄弟子にのちにカブラヤオーを管理した茂木為二郎、弟弟子では森末ノ助、谷八郎らがいた。 第二次世界大戦中は召集を受け、戦後は5年間にわたるシベリア抑留を経験している。
松山 吉三郎(まつやま きちさぶろう、1917年2月2日 -… 松山 吉三郎(まつやま きちさぶろう、1917年2月2日 - 2006年12月20日)は、元騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、元調教師(国営競馬、日本中央競馬会(JRA))。JRA調教師顕彰者。 妹はバレエダンサーの松山樹子(松山バレエ団)。父の松山徳蔵は戦前の日本競馬会の元調教師。二男の松山康久はJRAの調教師(ミスターシービーやジェニュインを管理、調教師顕彰者)。 鹿児島県姶良郡隼人町(現・霧島市)出身。実家はもとは庄屋であったが、父・徳蔵が上京し目黒競馬場・尾形藤吉厩舎の厩務員となったため、東京へ移り住んだ。 1929年、東京都目黒区立油面尋常小学校卒業とともに尾形藤吉厩舎の見習騎手となる。
青木 半治(あおき はんじ、1915年7月16日 - 201… 青木 半治(あおき はんじ、1915年7月16日 - 2010年5月30日)は、日本のスポーツ指導者、日本陸上競技連盟第5代会長。日本体育協会第11代会長。また国際陸上競技連盟とアジア陸上競技連盟でも役員を歴任し、副会長を務めた。後に終身名誉副会長。 千葉県長生郡太東村(現いすみ市)出身。旧制銚子商業学校(現在の千葉県立銚子商業高等学校)卒業。1938年(昭和13年)に早稲田大学商学部を卒業。 日立製作所に入社し、同年日本陸上競技選手権大会の砲丸投競技で優勝。その後は三徳工業、昭和電工を経て、1945年(昭和20年)に独立し、1946年(昭和21年)青木金属興業株式会社を設立。 会社経営の傍ら、母校の早稲田大学競走部監督を務めた。
橋本 輝雄(はしもと てるお、1915年6月30日 - 20… 橋本 輝雄(はしもと てるお、1915年6月30日 - 2001年10月1日)は、日本の騎手、競走馬調教師。 1933年に騎手デビュー。太平洋戦争最中の1944年に「能力検定競走」として行われた東京優駿(日本ダービー)をカイソウで制したほか、1950年にはクモノハナに騎乗して皐月賞、日本ダービーのクラシック二冠を制した。騎手通算成績は1154戦154勝、うち八大競走3勝を含む重賞5勝。 1953年に調教師へ転身し、それぞれ菊花賞に優勝したコマヒカリ、アカネテンリュウ、中山大障害を4連勝し海外でも2勝したフジノオー、日本ダービー優勝馬メリーナイスなど数々の活躍馬を手掛けた。1993年に定年引退。調教師成績は日本中央競馬会が発足した1954年以降で通算7361戦931勝、うち八大競走・GI級競走4勝を含む重賞30勝。
中村 広(なかむら ひろし、1915年5月10日 - 199… 中村 広(なかむら ひろし、1915年5月10日 - 1997年10月9日)は、日本の競馬騎手、調教師。 1933年に騎手デビュー。初戦から2か月足らずで最高格競走帝室御賞典を制するなど早くから頭角を現す。1936年からは群馬県片品村の素封家千明家(千明牧場)の専属となり、1939年まで騎手兼調教師として帝室御賞典優勝馬マルヌマ、東京優駿(日本ダービー)優勝馬スゲヌマなどを手掛けた。ほか騎手として1943年の横浜農林省賞典四歳呼馬(皐月賞)をダイヱレク、1954年の天皇賞(秋)をオパールオーキットで制している。1950年度国営競馬リーディングジョッキー(年間最多勝利騎手)。1955年に史上3人目の通算500勝を達成して騎手を引退し、調教師に転身した。