岸田 蓁(きしだ しげる、1892年2月1日 - 1964年… 岸田 蓁(きしだ しげる、1892年2月1日 - 1964年10月12日)は、日本の茶人、画家。岸田劉生の妻として知られる。 旧姓は小林。1892年に学習院の漢学教授であった小林良四郎、シンの三女として生まれる。東京府立第二高等女学校(現・東京都立竹早高等学校)に在学中から鏑木清方について日本画を学んでいる。1913年に第2回フュウザン会展を見に行ったことが縁で同年7月に洋画家岸田劉生と結婚をする。しばらくは府下の西大久保にあった蓁の実家の2階に住んだ。翌1914年4月10日に長女の麗子が誕生する。1926年、長男鶴之助を産む。蓁自身は夫の劉生の絵のモデルを務めており、胸に手をおいた恰好で「画家の妻」や「南瓜を持てる像」に描かれている。
井口 竹次郎(いぐち たけじろう、1892年2月1日 - 1… 井口 竹次郎(いぐち たけじろう、1892年2月1日 - 1971年3月22日)は日本の実業家。大阪ガス元社長・会長。 京都府愛宕郡修学院村(現・京都市左京区)出身。京都府立第一中学校、三高を経て、1916年 京都帝国大学工学部卒業後、三井物産へ入社。1930年に大阪瓦斯へ中途入社。その後は専務取締役を経て、1949年3月24日より片岡直方の逝去に伴い、代表取締役社長に就任。1960年より代表取締役会長に就任。 その他には日本ガス協会会長、大阪工業会会長、朝日放送取締役などを歴任し、大阪高等技術研修所設立の推進も行った。1958年に藍綬褒章、1965年に勲二等旭日重光章を受章。1971年3月22日、79歳で死去。
宮城 タマヨ(みやぎ タマヨ、1892年〈明治25年〉2月1… 宮城 タマヨ(みやぎ タマヨ、1892年〈明治25年〉2月1日 - 1960年〈昭和35年〉11月19日)は、日本の社会事業家、政治家。参議院議員。旧姓・植田。 山口県吉敷郡山口町(現山口市)で、植田久之丞の二女として生まれる。1914年3月、奈良女子高等師範学校博物家事部を卒業し、母校の助教諭となる。 1920年から1923年まで大原社会問題研究所で児童保護問題などを研究。1922年、旧少年法が制定されたことに伴い、同年、文部省・司法省嘱託としてアメリカ合衆国に渡り少年保護事業などを研究した。帰国後、東京少年審判所で日本初の婦人保護司に就任した。1927年、大審院検事・宮城長五郎と結婚したが、1942年に死別した。
佐伯 卯四郎(さえき うしろう、1891年〈明治24年〉2月… 佐伯 卯四郎(さえき うしろう、1891年〈明治24年〉2月1日 - 1972年〈昭和47年〉1月12日)は、日本の実業家・政治家。日本陶器社長や、中部経済連合会会長、参議院議員等を務めた。 東京市牛込区矢来町3番地(現東京都新宿区矢来町)で、佐伯成允、満佐の4男として生まれた。東京市立愛日尋常高等小学校(現新宿区立愛日小学校)を経て、1908年3月、私立早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)を卒業した。 1912年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1914年森村組入社。1934年日本陶器取締役。1939年日本陶器常務取締役。1942年日本陶器専務取締役。1946年日本陶器取締役社長。1947年第1回参議院議員通常選挙愛知県選挙区当選(補欠、任期3年)。
福留 繁(ふくとめ しげる、1891年(明治24年)2月1日… 福留 繁(ふくとめ しげる、1891年(明治24年)2月1日 - 1971年(昭和46年)2月6日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校40期。最終階級は海軍中将。 1891年(明治24年)2月1日、鳥取県西伯郡所子村大字福尾(現大山町)の農家に生まれる。1905年(明治38年)4月、鳥取県立米子中学校(現鳥取県立米子東高等学校)に入学。入学当初は貧しく、四里(16キロ)の道を歩いて通学していた。海軍を志したのはなんとなく海にあこがれをもっていたのと「貧乏中学生の進学の道は学資のいらない軍人学校」ということからだった。1909年(明治42年)9月11日、海軍兵学校に40期生として入校。1912年(明治45年)7月、144名中第8番の成績で卒業、少尉候補生。
米田 規矩馬(よねだ きくま、1891年(明治24年)2月1… 米田 規矩馬(よねだ きくま、1891年(明治24年)2月1日 – 1974年(昭和49年)10月28日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 広島県双三郡吉舎町(現在の三次市)出身。1918年(大正7年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、弁護士を開業した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第18回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。その間、犬養内閣で三土忠造逓信大臣の秘書官となり、斎藤内閣でも三土鉄道大臣の秘書官を務めた。 その後、吉舎町長に就任した。
八代 祐吉(やつしろ / やしろ すけよし、1890年〈明治… 八代 祐吉(やつしろ / やしろ すけよし、1890年〈明治23年〉2月1日 - 1942年〈昭和17年〉2月1日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中将。従四位、勲三等。 1890年(明治23年)、鹿児島県姶良郡加治木町(現在の姶良市)に生まれる。海兵40期。龍田、球磨、熊野、那智の各艦長を務めた後、1940年(昭和15年)11月、海軍少将に進級し、軍令部出仕となる。翌1941年(昭和16年)1月、第六根拠地隊(クェゼリン)司令官に着任。同地で太平洋戦争を迎えることになる。1942年(昭和17年)2月1日、マーシャル・ギルバート諸島機動空襲による米機動部隊の攻撃を受け、戦死。太平洋戦争での最初の海軍の将官の戦死者となった。
家野 猛之(いえの たけし、1890年〈明治23年〉2月1日… 家野 猛之(いえの たけし、1890年〈明治23年〉2月1日 - 1973年〈昭和48年〉4月9日)は、日本の政治家。岡山県西大寺市(現・岡山市)長。 岡山県邑久郡福田村(のち邑久町、現・瀬戸内市)出身。邑久尋常高等小学校卒。1922年(大正11年)4月、日本農民組合の結成大会に参加する。同年11月上道郡金田村(のち西大寺市、現・岡山市)の小作争議に加わり、検挙され、有罪判決を受ける。その後、労働農民党に入り、1927年(昭和2年)、同党公認で岡山県会議員選挙に立候補したが落選した。1929年(昭和4年)に福田村会議員となり、福田村農会長、邑久郡町村会議員連盟会長などを歴任した。1947年(昭和22年)、西大寺町長に初当選、1951年(昭和26年)に再選。
石橋 正二郎(いしばし しょうじろう、1889年〈明治22年… 石橋 正二郎(いしばし しょうじろう、1889年〈明治22年〉2月1日 - 1976年〈昭和51年〉9月11日)は、日本の実業家。ブリヂストン創業者。 ブリヂストンタイヤ(現・ブリヂストン)の創業者であり、1966年(昭和41年)8月1日に日産自動車と合併したプリンス自動車工業の育ての親(出資者)でもあり、プリンス・ロイヤル、プリンス・スカイラインの名付け親である。また、張り付け式ゴム底足袋(地下足袋)の考案者でもある。 企業活動を通じて、日本のゴム工業や自動車工業の発展に多大な貢献を行った。長年の功績により2002年(平成14年)には日本自動車殿堂入り、2006年(平成18年)には米国自動車殿堂入りを果たしている。
清水 金太郎(しみず きんたろう、1889年〈明治22年〉2… 清水 金太郎(しみず きんたろう、1889年〈明治22年〉2月1日 - 1932年〈昭和7年〉4月30日)は、明治時代末期から昭和時代初期の声楽家、バリトン歌手。 日本オペラの黎明期から第一線で活躍した、日本オペラ界の開祖の一人とも言える存在で、大正期の浅草オペラを代表するスターとして、田谷力三と双璧と謳われた。 東京府出身。1910年(明治43年)、東京音楽学校声楽科卒業。1912年(明治45年)2月、帝国劇場における創作歌劇「熊野」(ゆや)にてデビュー。1911年に創設された帝国劇場の歌劇部に教師格として迎えられ、柴田環(後の三浦環)と部員の指導にもあたった。妻である静子は、歌劇部の第2期生で以後多くの舞台に共に立つ。
木阪 ユク(きさか ゆく、1889年(明治22年)2月1日 … 木阪 ユク(きさか ゆく、1889年(明治22年)2月1日 - 1985年(昭和60年)11月22日)は、日本の女医。 広島女医界の草分けとして知られる。キリスト教徒であった木阪ユクは、信仰に基づく倫理観と奉仕の精神を持って医療活動を行い、生涯を医療の発展に捧げた。 広島県賀茂郡西高屋村(現・東広島市高屋町)出身。豪農・富岡家の四女として生まれる。1908年、東京女医学校(現・東京女子医科大学)を卒業。1910年、静岡市の多々良病院で産婦人科医として働く。1912年に西高屋村に帰り、産婦人科医院を開業。彼女の開いた木阪産婦人科医院は、木阪病院として現在も受け継がれている。 1912年、木阪次郎と結婚。
為藤 五郎(ためとう ごろう、1888年(明治21年)2月1… 為藤 五郎(ためとう ごろう、1888年(明治21年)2月1日 - 1941年(昭和16年)7月4日)は、日本の教育者、政治家。 福岡県築上郡三毛門村(現在の豊前市)出身。福岡県師範学校を経て、1911年(明治44年)に東京高等師範学校を卒業。福岡県小倉師範学校教諭、鹿児島県師範学校教諭を経て、「東京日日新聞」記者となる。後に博文館に転じ、雑誌「中学世界」主筆、「太陽」編集長を務めた。関東大震災後、東京府嘱託となり、『大正大震災史』の著述に当たった。その後、教育週報社社長・主筆を務めた。 また社会民衆党中央執行委員となり、東京府会議員、東京市会議員に選出された。そのほか、衆議院議員総選挙にも2度出馬したがいずれも落選した。
中野 友禮(なかの とものり/ゆうれい、1887年2月1日 … 中野 友禮(なかの とものり/ゆうれい、1887年2月1日 - 1965年12月10日)は、日本の実業家。中野 友礼または中野 有礼としている場合もあり、読みも「とものり」ではなく「ゆうれい」としている場合もある。中野式食塩電解法の開発を契機に日曹コンツェルンを築く。 福島県大沼郡川西村(現:三島町)西方の旧会津藩士の家に生まれる。神尾彦之進の二男で、幼児に中野家の養子になった。旧制会津中学校(現:福島県立会津高等学校)を卒業後、一高の臨時中学校養成所に進んだ。その後、1908年(明治41年)、京都帝国大学理学部化学教室助手となり、中野式食塩電解法(電解ソーダ法)を開発し特許を得た。 中野はこの技術を基にして、1920年(大正9年)に日本曹達を設立し、苛性ソーダ、さらし粉の生産を開始した。
金井 滋直(かない しげなお、1887年〈明治20年〉2月1… 金井 滋直(かない しげなお、1887年〈明治20年〉2月1日 - 1979年〈昭和54年〉12月3日)は、日本の実業家。興国人絹パルプ社長を務めた。 埼玉県大里郡大寄村(のちの深谷市)生まれ。旧制群馬県立前橋中学校(のちの群馬県立前橋高等学校)を経て、1911年東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業、東洋生命保険入社。同社業務部長、同社総務部長を経て、1931年同社常務。1936年日本曹達常務。1937年日曹人絹パルプ常務。1941年興国人絹パルプ(のちの興人)社長。1946年山陽パルプ発起人。同年同社取締役。1949年マードック賞受賞。1953年矢野恒太記念会理事。1955年経済審議会委員。
長田 新(おさだ あらた、1887年(明治20年)2月1日 … 長田 新(おさだ あらた、1887年(明治20年)2月1日 - 1961年(昭和36年)4月18日)は、日本の教育学者。広島大学名誉教授。専門は教育思想史。現在の長野県茅野市出身。 長野県諏訪郡豊平村(現:茅野市)出身。古田小学校下古田分校では、歌人島木赤彦の父、塚原浅茅教諭の教えを受ける。長野県立諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、広島高等師範学校英語科を卒業後、大分師範学校の教諭を3年務めた後、1915年(大正4年)京都帝国大学文学部卒業。澤柳政太郎のもとで新教育運動に参加し、教育の実証的実験研究を行う。旧制広島文理科大学(広島大学の前身)教授在任中の1945年(昭和20年)8月6日広島に投下された原爆に被爆し重傷を負ったが、家族や教え子の看護で九死に一生を得た。
井上 長一(いのうえ ちょういち、1887年2月1日 - 1… 井上 長一(いのうえ ちょういち、1887年2月1日 - 1972年5月30日)は、日本の航空実業家。徳島県出身。 徳島県板野郡西条村(現阿波市吉野町西条)出身。タクシー会社経営の傍ら、1922年6月4日に大阪府堺市大浜海岸に日本航空輸送研究所を設立し、11月15日より日本最初の民間航空路線となる不定期の水上機による航空輸送路線を開設した。その後、大浜に堺水上飛行学校を設立した。日本航空輸送研究所は、国策による大日本航空株式会社の設立とともに、1939年10月31日に業務を停止した。堺水上飛行学校は1942年まで、操縦士、整備士を養成した。1952年に現在の全日本空輸の前身の一つである極東航空の設立に参加した。
馬越 喜七(まこし きしち、1887年〈明治20年〉2月1日… 馬越 喜七(まこし きしち、1887年〈明治20年〉2月1日 - 1930年〈昭和5年〉9月20日)は、日本の海軍軍人。海軍航空草創期の搭乗員の一人であり、海軍初期国産機の製作に携わった。最終階級は海軍中佐。 愛媛県に生まれる。大洲中学校を経て1909年(明治42年)11月19日海軍兵学校(37期)を卒業、1911年(明治44年)2月27日海軍少尉任官。1912年(大正元年)中尉任官、1914年(大正3年)3月海軍航空術研究委員会練習将校(3期生)。同年の青島攻囲戦では水上機母艦若宮飛行隊に所属した。 帰国後は飛行高度・滞空時間の記録を樹て、海軍初期の国産機開発・生産に携わった。1916年(大正5年)12月1日大尉、1922年(大正11年)少佐、1927年(昭和2年)11月29日中佐に昇任したが、病を得て1930年(昭和5年)1月15日に予備役に編入され、同年9月20日に没した。
須藤 鐘一(すどう しょういち、1886年2月1日 - 19… 須藤 鐘一(すどう しょういち、1886年2月1日 - 1956年3月9日)は、日本の小説家。 島根県能義郡比田村(現安来市)出身。本名は荘一、号ははじめ寒泉、揺曳などを用いた。米子中学校卒業後、地方新聞社に勤務ののち上京、1910年早稲田大学文学部英文科卒。報知新聞記者ののち、1913年博文館に入り、『淑女画報』の編集主任を長く務める。 1918年中村星湖の紹介で「白鼠を飼ふ」を発表し文壇に登場。1926年から『文芸道』を主宰した。三越編集長、日本大学藝術科講師などを務めた。
和崎 ハル(わざき ハル、1885年2月1日 - 1952年… 和崎 ハル(わざき ハル、1885年2月1日 - 1952年12月30日)は日本の美容師、政治家。衆議院議員(1期)を歴任した。旧姓、栗谷。 秋田県秋田市楢山南新町出身。1904年秋田県立秋田高等女学校(現・秋田県立秋田北高等学校)卒業。上京して女子音楽学校で学ぶ一方、キリスト教小学校に勤務する。在学中に陸軍騎兵将校和崎豊之と結婚する。1921年に美容師となり、1922年に夫が死去すると故郷の秋田に戻る。秋田初の美容師として生計を立てたと言われる。 和崎の美容院は評判を呼び、秋田魁新報社の身の上相談欄の回答者に和崎が選ばれるほどであった。同年、早川かいらと日本基督教婦人矯風会秋田支部を設立し、公娼廃止運動に尽力した。
針重 敬喜(はりしげ けいき、1885年〈明治18年〉2月1… 針重 敬喜(はりしげ けいき、1885年〈明治18年〉2月1日 - 1952年〈昭和27年〉6月5日)は日本の編集者、アマチュアテニス選手。『武侠世界』などの雑誌で主筆を務め、また日本のテニスの普及・振興に尽力した。 山形県南置賜郡南原芳泉村(現・米沢市芳泉町)出身。父親の幸主は地元の名士で、住民から記念碑を建立されるほどであった。 米沢中学(現・山形県立米沢興譲館高等学校)を経て1903年(明治36年)に早稲田大学英文科に入学。早稲田を選んだのは坪内逍遥に憧れたためであった。また、庭球部に入部し、ここから本格的にテニスを始めることとなる。 早稲田大学卒業後、読売新聞、東京日日新聞を経て、1912年(明治45年)、押川春浪に請われて飛田穂洲と共に武侠世界社に入社。
岡本 幹輔(おかもと かんすけ、1885年〈明治18年〉2月… 岡本 幹輔(おかもと かんすけ、1885年〈明治18年〉2月1日 - 1939年〈昭和14年〉2月25日)は、日本の政治家。衆議院議員。 山形県飽海郡漆曽根村(現酒田市)で岡本敏貞の二男として生まれる。1902年(明治35年)、山形県立荘内中学校を卒業し、さらに1906年(明治39年)、東京高等商業学校を卒業した。同年7月、三井物産会社に入社し、札幌出張所、本店営業部などで勤務。1914年(大正3年)8月、日本製鋼所に移り、横須賀出張所長、室蘭支店会計主任、同支店商務主任、同事務部次長、同労務係長を歴任。その他、室蘭商業会議所特別議員、(株) 瑞穂商会顧問を務めた。 1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙において北海道第5区から憲政会所属で出馬し当選。
塩川 正蔵(正藏、しおかわ しょうぞう、1885年(明治18… 塩川 正蔵(正藏、しおかわ しょうぞう、1885年(明治18年)2月1日 - 1952年(昭和27年)12月1日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、内務官僚。弁護士。 静岡県富士郡大宮町(現在の富士宮市)出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。高等文官試験に合格し、静岡県警部、同保安課長、岡山県後月郡長、同吉備郡長、同小田郡長、同水産課長を歴任した。1921年(大正10年)、東京市主事となり、商工課長、土木局庶務課長などを務めた。さらに麻布区長、本郷区長、京橋区長を歴任し、1935年(昭和10年)に東京市理事に就任した。退職後は弁護士を開業した。 1937年(昭和12年)、第20回衆議院議員総選挙に静岡2区から立憲政友会で出馬し、当選を果たした。
田辺 徳五郎(田邊 徳五郎、たなべ とくごろう、1885年(… 田辺 徳五郎(田邊 徳五郎、たなべ とくごろう、1885年(明治18年)2月1日 - 1947年(昭和22年)5月20日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家、地主、神奈川県多額納税者。衆議院議員(神奈川県第1区選出、当選1回)。旧姓は渡邊、旧名は眞吉、あるいは真吉。 神奈川県鎌倉郡戸塚駅(戸塚町を経て現横浜市戸塚区)に生まれる。渡邊三左衛門の弟。1909年(明治42年)長崎高等商業学校を卒業。横浜石川中村町(現南区中村町)の地主で金融業を営む田辺徳五郎の養嗣子となり、先代の没後に襲名する。 1914年(大正3年)田辺合資会社を設立。1922年(大正11年)横浜市会議員に当選し、1942年(昭和17年)まで務めた。
望月 政友(もちづき まさとも、1884年(明治17年)2月… 望月 政友(もちづき まさとも、1884年(明治17年)2月1日 - 1944年(昭和19年)3月1日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 和歌山県伊都郡兄井村(見好村兄井を経て現かつらぎ町)で、実業家、政治家・望月右内の長男として生まれる。居村小学校、奈良県立五條中学校(現奈良県立五條高等学校)、第六高等学校を経て、1908年(明治41年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 その後、農商務省に入省し、特許局に配属され1909年(明治42年)6月まで在任した。退官後に帰郷し、1917年(大正6年)1月、家督を相続し家業に従事。同年、玉川水道取締役となり、その他、東京電燈などの経営に参画した。
今井田 清徳(いまいだ きよのり / せいとく、1884年(… 今井田 清徳(いまいだ きよのり / せいとく、1884年(明治17年)2月1日 - 1940年(昭和15年)5月8日)は、日本の逓信官僚、政治家。貴族院議員、朝鮮総督府政務総監、逓信次官。旧姓・国塩。 岡山県赤坂郡神田村(赤磐郡鳥取中村、高陽村、山陽町を経て現赤磐市)出身。旧岡山藩士・国塩与三郎の三男として生まれ、磐梨郡佐伯北村(赤磐郡吉井町を経て現:赤磐市)今井田善十郎の養嗣子となる。関西中学校、第六高等学校を経て、1909年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。通信属となり逓信省通信局に配属。同年11月、文官高等試験に合格。 1910年4月、通信事務官・大阪中央郵便局長に就任。以後、神戸逓信管理局総務部長、逓信省電気局管理課、東部逓信局経理部規画課長などを歴任。
小笠原 数夫(おがさわら かずお、1884年(明治17年)2… 小笠原 数夫(おがさわら かずお、1884年(明治17年)2月1日 - 1938年(昭和13年)9月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・島田。 福岡県出身。旧小倉藩士・農業、島田耕蔵の三男として生まれ、小笠原長舒の養子となる。高等小学校、熊本陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)を卒業。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第14連隊付となる。1905年(明治38年)4月から同年11月まで日露戦争に出征。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業し歩兵第14連隊中隊長に就任した。 参謀本部付勤務(通信課)、参謀本部員、陸大教官、飛行第6大隊付、国際連盟帝国空軍代表随員(1924年6月 - 1925年3月)などを務め、1924年(大正13年)8月、歩兵中佐に昇進。
曺 晩植(チョ・マンシク、そう・ばんしょく、1883年2月1… 曺 晩植(チョ・マンシク、そう・ばんしょく、1883年2月1日 - 1950年10月18日)は、朝鮮の独立運動家、教育者、政治家である。雅号は古堂(コダン、고당)。日本へ留学し明治大学法学部を卒業している。 平安南道江西郡に生まれ、1905年に平壌のミッション系スクールである崇実学校に入学し、在学中にキリスト教に入信した。 1908年に崇実学校を卒業した後は、日本へ留学し、1910年まで正則英語学校において英語を学び、1911年には明治大学法学部へ進学した。その際、インドのマハトマ・ガンディーが主唱した「非暴力・不服従」に関する論文に共感、これが後の独立運動における思想の礎となり、「朝鮮のガンジー」と呼ばれる所以となった。
山崎 定義(やまざき さだよし、1883年(明治16年)2月… 山崎 定義(やまざき さだよし、1883年(明治16年)2月1日 - 1971年(昭和46年)6月4日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。富山市長。 富山県上新川郡富山千石町(現富山市)で、旧富山藩士、陸軍大尉・山崎定孝、敏(とき)夫妻の長男として生まれたが、生後11ヵ月で父が病のため死去した。啓迪高等小学校(その後、八人町小学校を経て現富山市立芝園小学校)を経て、富山県立富山中学校に進み、三年次に名古屋陸軍地方幼年学校を受験して合格。中央幼年学校を経て陸軍士官学校(15期)に進み、1903年11月30日、同校を卒業して金沢歩兵第35連隊に勤務。1904年2月12日、陸軍歩兵少尉に任官。
黒木 親慶(くろき ちかのり、1883年(明治16年)2月1… 黒木 親慶(くろき ちかのり、1883年(明治16年)2月1日 - 1934年(昭和9年)3月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 宮崎県西諸県郡飯野村(後の飯野町、現・えびの市)に大河平親貞の長男として生まれ、黒木実幸の養子となる。 熊本陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)11月、陸軍士官学校(16期)を卒業。同期生に、岡村寧次、小畑敏四郎、永田鉄山らがいる。同年12月、歩兵少尉に任官し、歩兵第46連隊付となる。1905年(明治38年)5月から12月まで、日露戦争に出征。1912年(大正元年)陸軍大学校(24期)を卒業した。 陸軍士官学校教官、参謀本部部員、ハルビン駐在を経て、1916年(大正5年)第一次世界対戦下のロシア軍に従軍。
八田 善之進(はった ぜんのしん、1882年(明治15年)2… 八田 善之進(はった ぜんのしん、1882年(明治15年)2月1日 - 1964年(昭和39年)1月7日)は、日本の内科医学者。枢密顧問官、医学博士。 福井県吉田郡上中村(現福井市上中町)で、八田善左衛門の二男として生まれる。福井中学校、第四高等学校を経て、1909年(明治42年)12月、東京帝国大学医科大学を卒業。同医科大学医科学教室、同医科大学助手を経て、1917年2月、愛知県立医学専門学校教授に就任した。 以後、愛知病院内科第一部長を務め、1917年(大正6年)11月12日、医学博士号を取得。1919年(大正8年)11月、宮内省に転じて侍医に就任し東宮御所詰となる。1921年(大正10年)、皇太子訪欧に随行した。
小嶋 時久(こじま ときひさ、1881年2月1日 - 196… 小嶋 時久(こじま ときひさ、1881年2月1日 - 1962年4月13日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。
田崎 武男(たざき たけお、1881年2月1日 - 1963… 田崎 武男(たざき たけお、1881年2月1日 - 1963年9月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 長崎県出身。1909年、東京帝国大学政治科卒。東京府農工銀行常務取締役、立山電力(株)取締役、渡辺商事理事となる。のちにアルゼンチンブエノスアイレスで園芸場を経営した。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において長崎1区から立憲民政党公認で立候補してトップ当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙では次点で落選した。1963年死去。
臼田 亞浪(うすだ あろう、1879年(明治12年)2月1日… 臼田 亞浪(うすだ あろう、1879年(明治12年)2月1日 - 1951年(昭和26年)11月11日)は、日本の俳人。本名は臼田卯一郎(ういちろう)。 長野県北佐久郡小諸町(現・小諸市)に生まれる。小諸義塾に学び、1904年和仏法律学校(現法政大学)卒業。在学中に短歌を与謝野鉄幹に、俳句を高浜虚子に学ぶ。電報通信社記者、横浜貿易新聞編集長を経てやまと新聞に入社。 大正4年(1915年)大須賀乙字とともに俳誌『石楠』を創刊して、俳壇に登場し、信濃毎日新聞等で撰者を務めた。恩師高浜虚子の『ホトトギス』、河東碧梧桐の新傾向俳句を批判し、俳壇革正を目指した。松尾芭蕉、上島鬼貫を慕い、自然の中にこそ真の俳句があると唱え自然感のある民族詩としての句作を目指した。
玉屋 喜章(たまや よしあき、1879年(明治12年)2月1… 玉屋 喜章(たまや よしあき、1879年(明治12年)2月1日 - 1956年(昭和31年)10月17日)は、明治末から昭和期の実業家、政治家。参議院議員。通称・時次郎。 高知県安芸郡佐喜浜村(佐喜浜町を経て現室戸市佐喜浜町)で、漁業・玉屋能作の長男として生まれる。15歳頃から帆船(阪神へ薪炭を輸送)乗組となり、1900年(明治33年)大阪市の海士学館を卒業した。 海運業を始め、高知で紙問屋、大阪で事業を行うが失敗した。その後、関東に移ってから成功し、1923年(大正12年)総武銀行(現千葉銀行)頭取に就任。その他、台湾産業社長、大興紡績社長、共同生命保険社長、蓬莱閣ホテル社長、宮城電気鉄道取締役、成田急行電鉄常任監査役、玉屋産業海運商会社長、松田汽船社長、千葉合同無尽社長、千葉銀行取締役、千葉県商工連合会長、同県経営者協会会長などを務め、1946年(昭和21年)千葉商工会議所会頭に就任した。
生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年… 生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年)2月1日 - 1973年(昭和48年)3月1日)は、日本の鉄道官僚・技師、土木技術者、鉄道実業家。台湾総督府交通局総長、京浜電気鉄道社長。 大分県大分郡、のちの稙田村(大分村、大分町を経て現大分市)で生野米蔵の長男として生まれる。大分尋常高等小学校、京都府立中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第四高等学校を経て、1902年(明治35年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 逓信省に入省し鉄道作業局に配属された。1909年(明治42年)欧米に留学し1911年(明治44年)に帰国。鉄道院運輸局に配属され、1912年(明治45年)3月のジャパン・ツーリスト・ビューロー(現日本交通公社)創立に際して幹事に就任。
沼野 安太郎(ぬまの やすたろう、1878年2月1日 - 1… 沼野 安太郎(ぬまの やすたろう、1878年2月1日 - 1919年4月26日)は、日本の外交官。初代在ポートランド領事、在天津総領事などを務めた。 東京府平民・沼野安五郎の長男として生まれる。東京府立第一中学校を経て、1903年(明治36年)に東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、1904年(明治37年)に第13回外交官及び領事官試験に合格。同年外交官補に任官し、叙高等官七等、韓国在勤となった。 1905年(明治38年)ダーハム・W・スティーブンス韓国外交顧問補佐官。1906年(明治39年)在ロンドン領事官補、在ロンドン総領事事務代理。1908年(明治41年)初代在ポートランド領事。1910年(明治43年)在ハンブルク総領事代理。
岡田 實麿(おかだ じつまろ、1878年2月1日 - 194… 岡田 實麿(おかだ じつまろ、1878年2月1日 - 1943年8月18日)は、明治・大正期の英語教師。戦前の受験英語指導で小野圭次郎・山崎貞と並んで知られている。 父は備後銀行頭取などを務めた岡田胖十郎。妹には、田山花袋の小説『蒲団』に登場する横山芳子のモデルで小説家の岡田美知代や、北海道帝国大学教授や広島県庄原市長を務めた八谷正義の妻・八谷萬寿代がいる。 広島県甲奴郡上下町(現・府中市上下町)の豪商の家に生まれる。同志社普通学校、慶應義塾を卒業後、渡米しオベリン大学に留学。帰国後神戸高等商業学校(現・神戸大学)教授を経て、1907年に新渡戸稲造に請われて第一高等学校(現・東京大学)教授となる。
岡村 千馬太(おかむら ちまた、1875年2月1日 - 19… 岡村 千馬太(おかむら ちまた、1875年2月1日 - 1936年6月15日)は、日本の教育者。号は天機。 長野県安曇郡中萱村(現安曇野市)生まれ。南安曇郡高等小学校卒業後、明治24年(1891年)に上京し、小石川の尚志社に学んだのち、長野師範学校在学中に東邦協会に入会する。同30年(1897年)に卒業後、長野県内各地の尋常小学校で訓導や校長などを歴任した。同44年(1911年)同志の教育者とはかって「東西南北会」を設立し、長野に三宅雪嶺、犬養毅、古島一雄、池辺三山らを招いて講演会を開催し、人格主義教育を唱導した。 諏訪郡・小県郡視学や長野県視学を経て、大正11年(1922年)埴科郡長に任命されるが、教育に専念するため辞職。
大園 栄三郎(おおぞの えいざぶろう、1875年(明治8年)… 大園 栄三郎(おおぞの えいざぶろう、1875年(明治8年)2月1日 - 1939年(昭和14年)1月22日)は、衆議院議員(政友本党→立憲民政党)、鉄道官僚。 奈良県宇智郡五條町(現在の五條市)に小川栄造の二男として生まれ、大園恵戎の養子となった。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学を卒業した。逓信属、鉄道事務官を務め、1914年(大正3年)には鉄道院理事、監督局長に就任した。 1919年(大正8年)に退官。その後は、東海道電気鉄道株式会社専務取締役となり、さらに北恵那鉄道株式会社取締役となった。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
米田 庄太郎(よねだ しょうたろう、1873年〈明治6年〉2… 米田 庄太郎(よねだ しょうたろう、1873年〈明治6年〉2月1日 - 1945年〈昭和20年〉12月18日)は、日本の社会学者。京都帝国大学教授。文学博士。日本聖公会の信徒。 奈良県添上郡杏村(のち添上郡辰市村、現・奈良市杏町)で農業を営む八十平の長男として生まれた。生地は被差別部落であった。1878年、村立辰市小学校に入学。 1886年、大阪府立郡山中学校(現・奈良県立郡山高等学校)に入学。1887年、奈良英和学校(立教大学の姉妹校)に転校。キリスト教聖公会に属する宣教師アイザック・ドーマンのもとで洗礼を受けた。1891年に同校を卒業。 1891年、恩師アイザック・ドーマンが東京の聖三一神学校(現・聖公会神学院の前身の一つ)の比較宗教学講師を嘱託されるにあたり、助手として上京。
中島 半次郎(なかじま はんじろう、1872年2月1日(明治… 中島 半次郎(なかじま はんじろう、1872年2月1日(明治4年12月23日)- 1926年(大正15年)12月21日)は、日本の教育者。 熊本県出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)文学科を卒業し、東京高等師範学校(後の東京教育大学、筑波大学の前身)研究科を修了した。『教育学術界』『教育時論』などの記者となったが、1900年(明治33年)に東京専門学校教授となり、東京高等商業学校(後の東京商科大学)講師も兼ねた。 明治末にヨーロッパに留学し教育学を学んだ。帰国後、早稲田大学高等師範部長、早稲田大学高等学院長を歴任した。 教育学説として人格的教育論を唱えた。
加藤 定吉(かとう さだきち、1871年2月1日(明治3年1… 加藤 定吉(かとう さだきち、1871年2月1日(明治3年12月12日) - 1934年(昭和9年)4月14日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 のちの静岡県城東郡土方村(小笠郡土方村、城東村、大東町を経て現掛川市)に生まれる。土方嶺小学校、韮山の伊豆学校を経て、1891年(明治24年)慶應義塾大学部を卒業する。ドイツ人の経営するイリス商会、横浜貿易商会、兜町金万商会と転じた。日清戦争後の1895年(明治28年)に台湾に渡り、さらに義和団の乱が勃発すると中国に渡り、天津や北京で請負雑貨商を営み巨万の富を築いた。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から出馬し当選。
山田 七五郎(やまだ しちごろう、1871年2月1日 - 1… 山田 七五郎(やまだ しちごろう、1871年2月1日 - 1945年6月27日)は、日本の建築家。長崎県技師、横浜市の初代建築課長を歴任し、1914年(大正3年)から1929年(昭和4年)まで、横浜市の建築営繕組織のトップとして組織を統率した。1925年にパリで開催された現代装飾美術・産業美術国際博覧会(アールデコ博)では、日本館の設計を担当した。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
中西 用徳(なかにし もちよし、1870年2月1日(明治3年… 中西 用徳(なかにし もちよし、1870年2月1日(明治3年1月1日) - 1935年(昭和10年)12月9日)は、明治から昭和時代初期の司法官。大審院部長判事。 中西用亮の子としてのちの三重県に生まれる。普通学を修めたのち1892年(明治25年)法科大学に入り、1895年(明治28年)同大を卒業し法学士の称号を得た。1897年(明治30年)栃木区裁判所検事に任じ、同年判事に転じた。浦和地方裁判所判事、東京地方裁判所判事、同部長判事を経て、1902年(明治35年)東京控訴院判事に就任する。その後、東京、大阪各控訴院部長判事、京都、大阪各地方裁判所所長、長崎控訴院長を歴任し、1928年(昭和3年)大審院部長となった。
志々目 藤彦(ししめ ふじひこ、1870年2月1日(明治3年… 志々目 藤彦(ししめ ふじひこ、1870年2月1日(明治3年1月1日)- 1927年(昭和2年)6月7日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員、鹿児島県会議長。政治活動に全財産を用いた「井戸塀政治家」として知られた。 薩摩国揖宿郡、のちの鹿児島県揖宿郡喜入村(喜入町を経て現鹿児島市)で、志々目真幸の長男として生まれる。1879年(明治12年)1月、家督を相続した。普通学、和漢学を修め、1892年(明治25年)明治法律学校(現明治大学)を卒業した。農業を営む。 1897年(明治30年)鹿児島県会議員に選出され、同参事会員、同副議長を務め、1908年(明治41年)11月、県会議長となった。
大塚 保治(おおつか やすじ、明治元年12月20日〈1869… 大塚 保治(おおつか やすじ、明治元年12月20日〈1869年2月1日〉 - 1931年〈昭和6年〉3月2日)は、日本の美学者、東京帝国大学教授(文学博士)。日本における学術的な美学の創設者とされる。夏目漱石との交友でも知られる。旧姓・小屋。 明治元年(1869年)上野国勢多郡木瀬村大字笂井(現・群馬県前橋市笂井町)に、小屋宇平治(卯平治/宇兵衛)の次男として生まれる。兄・右兵衛は木瀬村長を務めた。笂井小学校を経て、1884年(明治17年)旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業。旧制第一高等学校を経て、1891年(明治24年)に帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)哲学科を卒業。大学院で美学を専攻する。
宮尾 舜治(みやお しゅんじ、1868年2月1日〈慶応4年1… 宮尾 舜治(みやお しゅんじ、1868年2月1日〈慶応4年1月8日〉- 1937年〈昭和12年〉4月3日)は、日本の官僚、外地行政官、政治家。官選県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。新潟県出身。 越後国頸城郡広島村の名主・宮尾権九郎の長男として生まれた。父はこののち同村の助役となるが、この村は宮尾家の祖先が開いた地として知られていた。1881年(明治14年)、小島荷裳塾に入塾。1886年(明治19年)、第一高等中学校予科に入学、1889年(明治22年)には本科に進学する。下宿の隣家に寄寓していた神戸の瓦煎餅の職人が店の出資者を探しているとの話に興味を持ち、実家の父を説得して資金を出してもらい翌年11月には両国でせんべい屋「紀文堂」を開業したところ、これが大当たりとなって多忙を極めるようになり、そのため学校の方は欠席がかさんで1891年(明治24年)に本科2年を落第の憂き目に遭う。
松崎 蔵之助(まつざき くらのすけ、1866年2月1日(慶応… 松崎 蔵之助(まつざき くらのすけ、1866年2月1日(慶応元年12月16日) - 1919年(大正8年)11月12日)は明治時代から大正時代にかけての日本の経済学者。法学博士。
重岡 薫五郎(しげおか くんごろう、元治元年1月3日(186… 重岡 薫五郎(しげおか くんごろう、元治元年1月3日(1864年2月1日) - 明治39年(1906年)6月21日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会)、弁護士。 伊予国喜多郡内ノ子村(現愛媛県内子町)にある呉服商兼雑貨屋の次男に生まれる。東京大学法学部を経て、司法省法学校速成科を卒業後、判事登用試験に合格するも、10日間で辞職。1887年(明治20年)からフランス・エクス大学(現エクス=マルセイユ大学)に留学し法学博士号を取得。帰国後、1892年(明治25年)に第2回衆議院議員総選挙に年齢を2歳ごまかして出馬するも、改進党系の有友正親に敗れる。第三高等中学校法学部教授や関西法律学校教授嘱託をつとめたほか、1893年(明治26年)に弁護士業を開業している。
寺尾 亨(てらお とおる、1859年2月1日(安政5年12月… 寺尾 亨(てらお とおる、1859年2月1日(安政5年12月19日)- 1925年(大正14年)9月15日)は、明治・大正期の法学者・アジア主義者。天文学者寺尾寿の弟。商工省官僚寺尾進、女優東山千栄子の養父。