辰見 敏夫(たつみ としお、1919年3月3日 - 2005… 辰見 敏夫(たつみ としお、1919年3月3日 - 2005年8月5日)は、日本の教育心理学者。東京学芸大学名誉教授。1992年勲三等旭日中綬章。 東京文理科大学教育学部心理学科卒業、東京学芸大学助教授、教授、1983年定年退官、名誉教授。1987年社会福祉功労厚生大臣表彰。1992年勲三等旭日中綬章を受章、厚生省の中央児童審議会家庭児童健全育成対策部会長。
3月3日生まれ:409人
辰見 敏夫(たつみ としお、1919年3月3日 - 2005… 辰見 敏夫(たつみ としお、1919年3月3日 - 2005年8月5日)は、日本の教育心理学者。東京学芸大学名誉教授。1992年勲三等旭日中綬章。 東京文理科大学教育学部心理学科卒業、東京学芸大学助教授、教授、1983年定年退官、名誉教授。1987年社会福祉功労厚生大臣表彰。1992年勲三等旭日中綬章を受章、厚生省の中央児童審議会家庭児童健全育成対策部会長。
渡邊 高之助(わたなべ たかのすけ、1919年(大正8年)3… 渡邊 高之助(わたなべ たかのすけ、1919年(大正8年)3月3日 - 2003年(平成15年)7月1日)は、日本の声楽家(テノール)・音楽教育者。新字体で、渡辺 高之助と表記されることがある。 東京府四谷区生まれ。1941年(昭和16年)東京音楽学校声楽科卒業。木下保に師事。東京放送合唱団などで活躍。1952年(昭和27年)の二期会創立以来のメンバー。オペラ歌手として、二期会、グルリット・オペラ協会、長門美保歌劇団等、数多くのオペラに出演し、昭和音楽大学オペラ研究所に記録されているだけでも出演回数は58回にのぼる。 音楽教育面においては1958年(昭和33年)東京芸術大学助教授となり、1960年(昭和35年)声楽科主任、1969年(昭和44年)教授。
柴田 泰男(しばた やすお、1919年〈大正8年〉3月3日 … 柴田 泰男(しばた やすお、1919年〈大正8年〉3月3日 - 2014年〈平成26年〉4月16日)は日本の実業家、元豊田通商社長。元トヨタ自動車・元愛知陸運各監査役。元豊田理化学研究所監事。愛知県瀬戸市出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
早川 良一郎(はやかわ りょういちろう、1919年3月3日 … 早川 良一郎(はやかわ りょういちろう、1919年3月3日 - 1991年4月26日)は、日本の随筆家。東京都出身。サラリーマン生活を経て文筆家として活動した。1991年(平成3年)、72歳で死去。 1919年(大正8年)3月3日、東京市麻布区材木町に生まれる。旧制麻布小学校を卒業後、麻布中学に進学するが3年で中退し、ドイツで医学を学ぶための足掛かりとしてイギリスに渡るが、語学力が乏しく、教授の薦めでロンドン大学へ聴講生として入学する。この時早川は教授がくゆらせていたパイプに興味を持ち、パイプを嗜むようになる。イギリスでは学業もそこそこに、ピカデリー・サーカスで射的をして過ごすことが多く、結局志なかばで帰国する。
松下 和則(まつした かずのり、1919年3月3日 - 20… 松下 和則(まつした かずのり、1919年3月3日 - 2007年11月9日)は、フランス文学者、東京大学名誉教授。 父の任地、現在の青森県弘前市に生まれ、翌年東京に移転。第一高等学校理科から、1941年東京帝国大学理学部物理学科を繰り上げ卒業、1942年同地震研究所助手、1943年同文学部仏文科に入学し、1946年卒業。大学院研究生を経て1951年中央大学助教授、1954年東京大学教養学部助教授、1967年教授、1979年定年退官、名誉教授。上智大学教授を務め1984年退職。1981年から1985年まで日本フランス語フランス文学会会長、1984年フランス政府より教育功労章を授与される。1992年勲三等旭日中綬章。
染谷 誠(そめや まこと、1918年3月3日 - 1992年… 染谷 誠(そめや まこと、1918年3月3日 - 1992年1月22日)は日本の政治家。元自由民主党衆議院議員(5期)。
稲葉 誠一(いなば せいいち、1918年(大正7年)3月3日… 稲葉 誠一(いなば せいいち、1918年(大正7年)3月3日 - 1996年(平成8年)5月4日)は、昭和から平成初期の弁護士、政治家。日本社会党衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)。 東京都新宿区出身。1941年(昭和16年)中央大学専門部法科を卒業。高等試験司法科に合格し、司法官試補に任官後、大阪・東京・宇都宮地検の検事を経て1947年(昭和22年)に退官、弁護士になる。 日本社会党に入党。同党栃木県本部書記長、同委員長を務め、1955年(昭和30年)栃木県議会議員選挙に当選し2期在任した。1962年(昭和37年)第6回参議院議員通常選挙に栃木県地方区から社会党公認で当選した。1968年(昭和43年)第8回通常選挙で落選。
中村 利次(なかむら としつぐ、1917年(大正6年)3月3… 中村 利次(なかむら としつぐ、1917年(大正6年)3月3日 - 1980年(昭和55年)9月1日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。位階は従四位、勲等は勲二等。 長崎県南高来郡南有馬町(現南島原市)で、船員の家の4人兄姉の末子として生まれた。1934年(昭和9年)長崎県立島原中学校卒業。 1938年に上京し、京王電気軌道入社。1942年、太平洋戦争の勃発にともなう配電統制令により、電力供給事業を関東配電(いわゆる国策会社)に譲渡したため会社を移る。徴兵され大村連隊に入隊し、日中戦争に従軍し戦傷を受けて日本に帰還し、広島の陸軍病院に入院した。 戦後、労働運動に加わり、1946年(昭和21年)電産都支部変電分会組織部長に就任。
増淵 龍夫(ますぶち たつお、1916年3月3日 - 198… 増淵 龍夫(ますぶち たつお、1916年3月3日 - 1983年5月12日)は、日本の経済学者・東洋史学者。専門は東洋経済史。一橋大学名誉教授。 1916年、栃木県那須郡生まれ。旧制栃木県立烏山中学校(現栃木県立烏山高等学校)を経て、1940年旧制東京商科大学(現一橋大学)本科を卒業。大学では上原専禄や三浦新七に師事し西洋経済史を研究したが、後に東洋経済史に転向。教育召集により歩兵1712連隊[疑問点 – ノート]、次いで歩兵第66連隊に入隊。終戦時には二等兵として召集解除。 戦後は、1945年より東京産業大学東亜経済研究所参事。1947年に東京商科大学副手となり、1948年より同大経済研究所研究員、1949年より同大経済研究所助教授。
小嶋 千鶴子(こじま ちづこ、出生時の戸籍名は岡田 千鶴子(… 小嶋 千鶴子(こじま ちづこ、出生時の戸籍名は岡田 千鶴子(おかだ ちづこ)、1916年〈大正5年〉3月3日 - 2022年〈令和4年〉5月20日)は、日本の実業家。イオンの前身であるジャスコの創設者で、イオングループの共同創業者。イオン株式会社名誉顧問などを歴任した。 1916年(大正5年)3月3日に三重県四日市市に生まれる。父は岡田惣一郎で母は岡田(旧姓・美濃部)田鶴。夫妻の第二子で、5人きょうだい(一男四女)の二女であった。千鶴子の後にも2人続けて女子が誕生したことから、5人目も女子なら家系を絶やさぬよう婿養子を迎えることを検討していたが、5人目で男子の卓也が誕生した。千鶴子が誕生した時は血縁関係の父方の祖父の岡田惣七(婿養子に入る前の旧姓が前田末吉)と四日市岡田家の家系の祖父の岡田惣右衛門の2人の四日市岡田家の祖父が存命中であり、2人の祖父からかわいがられて教育された。
龜徳 正之(きとく まさゆき、1916年3月3日 - 201… 龜徳 正之(きとく まさゆき、1916年3月3日 - 2014年3月5日)は、日本の大蔵官僚。財務参事官、大臣官房長、国税庁長官などを歴任。 青森県生まれ。旧制一高を経て、1940年10月、高等試験行政科・外交科に合格。東京帝国大学法学部政治学科卒業後、1941年 大蔵省に入省。主税局属。1966年8月1日 財務参事官。1967年1月10日 大臣官房長。1968年6月7日より国税庁長官。1969年8月6日 退官。1970年1月 協栄生命保険副社長。1971年8月 同代表取締役社長。1986年7月 同代表取締役会長。1992年7月 同相談役。2014年3月5日 誤嚥性肺炎で死去。
山内 隆博(やまうち たかひろ、1915年3月3日 - 19… 山内 隆博(やまうち たかひろ、1915年3月3日 - 1990年10月6日)は、日本の経営者。大和証券社長を務めた。 静岡県磐田市出身。3歳で新宿区大久保に移る。少年期は野球に打ち込んだ。1938年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に住友銀行に入行し、名古屋支店に勤務するもわずか半年で応召。近衛歩兵第1連隊に入営して間もなく甲種幹部候補生に合格し、盛岡陸軍予備士官学校に入学。原隊復帰後、初年兵教育を担当したのち防衛総司令部参謀附に転属。これで戦地に赴くことはないと思い1941年10月に結婚するも間もなく、11月3日に第16軍編成人員に転属、南方へと派遣される。移動中、乗船していた神州丸が雷撃で大破しながらも船にとどまり、2000ギルダーの軍資金を肌身離さず守り抜いた。
川崎 桃太(かわさき ももた、1915年(大正4年)3月3日… 川崎 桃太(かわさき ももた、1915年(大正4年)3月3日 - 2019年(令和元年)9月30日)は、日本の言語学者、歴史学者。京都外国語大学名誉教授。 山口県大津郡俵山村(現・長門市俵山)出身。1930年(昭和5年)にブラジルに渡り、リオ・デ・ジャネイロ州ノーヴァフリブルゴ市アンシェータ大学哲学科卒業、サン・レオポルド市クリスト・レイ大学大学院修了。1955年(昭和30年)に帰国後、カトリック河原町教会で司祭を務める。京都外国語大学ブラジルポルトガル語学科助手を経て、1975年(昭和50年)より教授。1992年(平成4年)に名誉教授となる。 2019年(令和元年)9月30日、食道癌のため死去、享年104歳。
加藤 正二(かとう しょうじ、1914年3月3日 - 195… 加藤 正二(かとう しょうじ、1914年3月3日 - 1958年8月17日)は、香川県出身のプロ野球選手、大学野球指導者。
京都 伸夫(きょうと のぶお、1914年3月3日 - 200… 京都 伸夫(きょうと のぶお、1914年3月3日 - 2004年11月28日[要出典])は、日本の脚本家、作家。本名は長篠 義臣。 1914年(大正3年)生まれ。徳島県出身。京都帝国大学文学部社会学科卒業。 高校生の頃「女の書ける小説家になりたい」という悲願を立て、以来結婚するまで、「広く、浅く、多く」を主義に、プレイボーイくずれのような生活を送った。1934年(昭和9年)京都大学に入ってからは、映画女優クローデット・コルベール、ギャビー・モルレー(フランス語版)、アンナベラ、マリー・ベルに夢中になり、とりわけヴィヴィアーヌ・ロマンスとシモーヌ・シモンにのぼせた。日本人で贔屓にしたのは桑野通子と志賀暁子。
信太 正三(しだ しょうぞう、1914年3月3日 - 197… 信太 正三(しだ しょうぞう、1914年3月3日 - 1972年5月15日)は、日本の比較哲学者。 秋田県出身。旧姓・木村。京都帝国大学哲学科卒。文部省図書局勤務。戦後、横浜専門学校教授、校名変更で神奈川大学教授、1970年東洋大学教授に転じたがほどなく死去。 ヘーゲル、ニーチェ、禅などを研究、翻訳した。彼の著書『永遠回帰と遊戯の哲学 ニーチェにおける無限革命の理論』は神奈川大学の人文学研究所の伝統的研究テーマ無限革命論として神奈川大学にモニュメント「メビウス”永遠”」が立つ。
加藤 正二(かとう しょうじ、1914年3月3日 - 195… 加藤 正二(かとう しょうじ、1914年3月3日 - 1958年8月17日)は、香川県出身のプロ野球選手(投手、内野手、外野手)、大学野球指導者。実弟の稲垣定雄も元プロ野球選手。 旧制高松商業学校時代に甲子園大会に2度出場。中央大学では首位打者を4度獲得。1937年秋に記録した打率.577(26打数15安打)は現在でも東都大学野球連盟記録になっている。 1939年に名古屋軍に入団。1940年に入営するが、復帰した1943年に4本塁打で本塁打王を獲得。1948年に球団代表の赤嶺昌志が辞任に追い込まれると、後を追って、小鶴誠らと共に退団し、永田雅一が結成した大映球団に所属し大映球団が東急フライヤーズに合流する形で急映フライヤーズに移籍した。
小穴 進也(おあな しんや、1914年(大正3年)3月3日 … 小穴 進也(おあな しんや、1914年(大正3年)3月3日 - 2007年(平成19年)11月13日)は、日本の地球化学者。名古屋大学理学部教授、同名誉教授。元日本地球化学会会長。 弁護士の小穴喜一の長男として長野県にて出生。母みどりは松本市議会議長、衆議院議員などをつとめた弁護士森山儀文治の長女。 旧制松本高校理科を経て、1938年に東京帝国大学理学部化学科を卒業した。1942年、名古屋帝国大学理学部化学科分析化学講座に助教授として赴任。1951年に名古屋大学教授に昇格し、1977年定年退官した。1987年勲二等瑞宝章受勲。 1968年(昭和44年)8月、当時、四日市海上保安部警備救難課長であった田尻宗昭が、日本アエロジル四日市工場から排出された廃酸による公害被害(四日市公害の一つ)を立件するにあたり、大企業相手で尻込みする研究者が多い中、塩酸の海中での拡散実験等に協力し田尻を援助した。
金 史良(キム・サリャン、1914年3月3日 - 1950年… 金 史良(キム・サリャン、1914年3月3日 - 1950年10月以降行方不明)は、朝鮮の小説家。本名は金時昌(キム・シチャン)。日本語・朝鮮語両方で創作した。「在日朝鮮人文学」の先駆的存在である。 金史良、本名金時昌は1914年(大正3年)3月3日、日本統治時代の朝鮮平壌府陸路里102番地で生まれた。母と姉は熱心なキリスト教徒であり、一族は平壌屈指の富裕層で、兄の金時明はのちに朝鮮人としては最初の朝鮮総督府専売局長に就任した。 平壌高等普通学校5年の時の1932年(昭和7年)冬に、留学のため初めて日本に渡る。当時の一般的な朝鮮人学生とは異なり、金史良は日本への留学は本意ではなく、北京の大学に憧れていたという。
小野 忠弘(おの ただひろ、1913年3月3日 - 2001… 小野 忠弘(おの ただひろ、1913年3月3日 - 2001年8月5日)は、日本の美術家、造形作家。1959年、米国『LIFE』誌が特集した「ジャンク・アート世界の7人」に選ばれた。青森県弘前市出身。 1931年、青森県立弘前工業学校土木科を卒業した。1938年、東京美術学校彫刻科を卒業した。在学中、鳥海青児のアトリエに出入りするようになり、油彩画を描きはじめた。大学卒業後徳島県立富岡中学校に赴任し、図画担当教員をしながら春陽会に出品を続けた。1942年、(旧制)福井県立三国中学校に転任した。1944年、三国町へ疎開していた詩人の三好達治と交流したり、1946年、同郷の版画家、棟方志功(青森市出身)と同じ下宿になったことがある。
石原 俊(いしはら たかし、1912年 <明治45年> 3月… 石原 俊(いしはら たかし、1912年 <明治45年> 3月3日 - 2003年 <平成15年> 12月31日)は、日本の実業家である。日産自動車社長、日本自動車工業会会長、経済同友会代表幹事として、日本の自動車産業や財界活動に大きな影響を与えた。位階は正三位。 東京の府立四中を経て、旧制浦和高校入学。浦和高時代に学生ストライキを煽ったとして停学処分を受け、2年遅れで東北帝国大学法文学部法科入学。1937年(昭和12年)に東北帝大法科卒業後、日産自動車に入社。経理・財務関係に勤め、その後専務や副社長として長く川又克二社長を支えた。 1954年(昭和29年)、42歳の時に取締役に就任し、将来の「日産の社長候補」と目された。
福家 俊一(ふけ としいち、1912年〈明治45年〉3月3日… 福家 俊一(ふけ としいち、1912年〈明治45年〉3月3日 - 1987年〈昭和62年〉4月17日)は、日本の政治家。勲二等従四位。衆議院議員総選挙に15回立候補し、当選は6回。ニックネームは「政界の寝業師」、「政界の怪物」。 香川県高松市出身。旧制大阪府立生野中学校(現大阪府立生野高等学校)卒業、早稲田大学専門部中退。少年時代に東京憲兵隊本部で甘粕正彦の給仕を務めたことを機に、満洲に渡って満洲国の機関紙「斯民」の記者となる。満洲人脈のメンバーとなり、岸信介と深い仲を築く。軍部と外務省興亜院の肝いりによって上海に国策新聞「大陸新報」が創設され、1937年に25歳で社長就任。白根松介男爵や美濃部達吉の嘆願を受け、同社では美濃部亮吉(達吉の長男で、後の東京都知事)や向坂逸郎、高橋正雄など人民戦線事件で検挙された左派知識人たちを積極的に雇い入れた。
斎藤 信夫(さいとう のぶお、1911年3月3日 - 198… 斎藤 信夫(さいとう のぶお、1911年3月3日 - 1987年9月20日)は、日本の童謡作詞家。「里の秋」などの作詞で知られる。 小学校の教諭をしながら童謡の創作を続けた童謡作詞家である。終戦を境に神州不滅の皇国史観教育をしてきた自分を反省し、教職を辞めてしまうという気骨を持った人物であったが、童謡を通じて子供や動物を見る目は暖かかった。終戦直後に発表した童謡「里の秋」を作詞したことで知られ、生涯の詩作は1万余篇に及ぶ。勲五等双光旭日章を受勲。 1911年3月3日、千葉県山武郡南郷村(現:山武市五木田)に生まれる。南郷尋常小学校(現:山武市立南郷小学校)卒業。1930年、千葉師範学校(現:千葉大学教育学部)第二部に入学し、1931年に卒業し小学校に奉職する。
北島 武雄(きたじま たけお、1910年3月3日 - 197… 北島 武雄(きたじま たけお、1910年3月3日 - 1974年7月27日)は、日本の官僚。国税庁長官、日本専売公社総裁を務めた。 東京都出身。1933年に東京帝国大学法科を卒業し、同年に大蔵省に入省。大臣官房経理課長、主計局総務課長、管財局長、国税庁長官などを歴任し、1960年5月を以って、退官。農林漁業金融公庫副総裁、北海道東北開発公庫総裁を経て、1965年9月から1967年7月までに公正取引委員会委員長を務め、1969年10月には日本専売公社総裁に就任。 1974年7月27日、胃癌のために死去。64歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
高津 忠夫(たかつ ただお、1910年〈明治43年〉3月3日… 高津 忠夫(たかつ ただお、1910年〈明治43年〉3月3日 - 1974年〈昭和49年〉12月6日)は、日本の医師、小児科学者。東京大学名誉教授。栄典は正五位・勲二等旭日重光章。学位は医学博士(東京大学・1939年)。 広島県生まれ。1933年〈昭和8年〉東京帝国大学医学部卒、同年、同大学小児科教室副手、1939年医学博士取得。1944年山梨県立医学専門学校教授、1947年山梨県立病院小児科部長、1949年松本医科大学講師、同年、信州大学教授。 1954年東京大学医学部教授、1961年日本小児科学会理事長(併任)、1966年東京大学医学部保健学科母子保健学初代主任教授(現東京大学大学院医学系研究科国際保健学専攻国際生物医科学講座発達医科学)、1970年東京大学定年退官、東京大学名誉教授。
松田 甚次郎(まつだ じんじろう、1909年(明治42年)3… 松田 甚次郎(まつだ じんじろう、1909年(明治42年)3月3日 - 1943年(昭和18年)8月4日)は、日本の農業指導者、著述家。 宮沢賢治の影響を受けて、郷里で後世の村おこしに当たる活動を実践し、その経験を記した著作『土に叫ぶ』はベストセラーとなった。 山形県出身。1909年(明治42年)3月3日、山形県最上郡稲舟村鳥越(現新庄市)において、当時集落一番の大地主である松田甚五郎の長男として生まれた。 盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)在学中に宮沢賢治と出会い、卒業後に「小作人たれ」「農村劇をやれ」という賢治の言葉を実践する。以後、農民生活の向上と農村文化・芸術の確立に生涯をかけて取り組んだ。
北山 茂夫(きたやま しげお、1909年(明治42年)3月3… 北山 茂夫(きたやま しげお、1909年(明治42年)3月3日 - 1984年(昭和59年)1月30日)は、日本の日本史学者(日本古代史専攻)、立命館大学教授などを歴任する。 和歌山県有田郡鳥屋城村(現在の有田川町)生まれ。和歌山県立耐久中学校、第三高等学校をへて、1934年東京帝国大学文学部国史学科卒業。西洋史の羽仁五郎に傾倒し、近代史を学ぶため大学院に進むが古代史で業績をあげる。横浜の潤光学園講師、ついで郷里に帰り和歌山県立田辺中学校教諭となり、敗戦を迎える。戦後、排斥運動に遭って野に下るが、立命館大学法学部専任講師となり、文学部教授に転じるが学生運動で辞職した。 左翼的な立場に立ちつつ文学的関心が深く、人物史を排斥せず、一般向けに奈良時代史についての書物を多く著した。
石原 三起子(いしはら みきこ、1909年 <明治42年> … 石原 三起子(いしはら みきこ、1909年 <明治42年> 3月3日 - 1999年 <平成11年> 1月19日)は、元福島県教育委員会委員長。観世流名誉師範。位階は従六位。 夫石原幹市郎は自治大臣、福島県知事を務めた。元衆議院議員、元参議院議員の石原健太郎の母。父井上孝哉は戦前の内務次官、衆議院議員、各府県知事を歴任。 1958年5月22日投開票の第28回衆議院議員総選挙に、夫・幹市郎が所属した派閥の領袖大野伴睦より勧められ、衆議院の福島1区に出馬を決意、立候補するが次点に終わる。この選挙には同じく新人の天野光晴が前福島県知事の大竹作摩の支援を受け、河野一郎派から出馬当選している。三起子の衆議院議員選挙の出馬・落選により、福島1区での夫・幹市郎の基盤に陰りが生じ、参議院議員選挙落選へとつながっていく(幹市郎の引退後は息子や孫が地盤を引き継いでいる)。
瀬木 三雄(せぎ みつお、1908年3月3日 - 1982年… 瀬木 三雄(せぎ みつお、1908年3月3日 - 1982年5月8日)は、日本の医学博士。 愛知県名古屋市生まれ。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)第14回生。東京帝国大学医学部卒業。旧厚生省の初代母子衛生課長として母子健康手帳を創設し、東北大学医学部にて公衆衛生学教室を主宰。癌統計学の第一人者として知られ、いわゆる「瀬木の帽子」(胎児の基底顆粒細胞集団)の発見者でもある。1971年に退官。瀬木学園(現 愛知みずほ大学等)理事長、学長、高校長を歴任。
鈴木 俊雄(すずき としお、1908年(明治41年)3月3日… 鈴木 俊雄(すずき としお、1908年(明治41年)3月3日 - 2000年(平成12年)6月8日)は、日本の実業家。日本ガイシ取締役会長 や、中部経済連合会会長や中部経済同友会代表幹事等を歴任する。従四位勲二等瑞宝章。 1928年東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科卒業、日本碍子入社。企画部長を経て、1948年取締役に昇格。1956年常務取締役。1959年専務取締役。1962年取締役副社長。1969年取締役会長。1970年東洋陶器取締役、日本陶器取締役、日本特殊陶業取締役。1971年中部経済同友会代表幹事、中部品質管理協会会長。1975年中部経済連合会会長。1977年日本碍子取締役相談役。
大坪 十喜雄(おおつぼ ときお、1908年(明治41年)3月… 大坪 十喜雄(おおつぼ ときお、1908年(明治41年)3月3日 - 1993年(平成5年)1月9日)とは、シテ方宝生流能楽師である。宝生会常務理事、能楽協会東京支部理事長。 富山県南砺市福野出身。東京に生まれ、宝生流宗家十七世宝生九郎(重英)に入門。1965年(昭和40年)に日本能楽会に入会。1979年(昭和54年)勲五等双光旭日章を受章。 嗣子は大坪喜美雄(重要無形文化財各個認定保持者(人間国宝))。
厚木 たか(あつぎ たか、1907年〈明治40年〉3月3日 … 厚木 たか(あつぎ たか、1907年〈明治40年〉3月3日 - 1998年〈平成10年〉5月19日)は、日本の記録映画作家。本名・芳賀 松江。 1907年(明治40年)群馬県伊勢崎市新町に岡田清平・すみの長女として生まれる。1929年(昭和4年)日本女子大学英文科卒。 1930年(昭和5年)、日本プロレタリア映画同盟に参加。1934年(昭和9年)にPCL(現・東宝)に入社。1938年(昭和13年)芸術映画社に移る。構成を担当した『或る保姆の記録』(芸術映画社、1942年)が国民映画賞を受賞[要検証 – ノート]。 朝日映画にも一時所属したが、1945年(昭和20年)以降はフリーの脚本家となる。1958年(昭和33年)『おふくろのバス旅行』で教育映画祭最高賞ブルーリボン賞受賞。
田村 平治(たむら へいじ、1905年3月3日 - 1996… 田村 平治(たむら へいじ、1905年3月3日 - 1996年2月18日)は、日本の料理人。日本料理研究会名誉師範。 福井県小浜市出身。生家は魚問屋で、14歳で京都の料亭に入門した。複数の店舗で経験を積んだのち、1932年に東京・築地の藍亭で料理長となる。1946年、築地に懐石料理店「つきぢ田村」を開店した。 料理番組や女子栄養大学の講師も務めた。 子は「つきぢ田村」二代目の田村暉昭、孫は同三代目の田村隆。
小山 貞雄(こやま さだお、1905年3月3日 - 1969… 小山 貞雄(こやま さだお、1905年3月3日 - 1969年8月22日)は日本の政治家。下谷区議(2期)、東京都議(5期)、第20代都議会議長。 1905年3月3日、東京都に生まれる。東北帝国大学(現東北大学)卒業。1937年から下谷区議会議員を2期5年。1943年9月13日の第1回東京都議会議員選挙で当時の下谷区選挙区から初当選、5年在任。1951年都議に再選後は交通委員会委員長(1952−53年)、都議会自民党幹事長(1956−57年)、交通水道委員会委員長(1958−59年)を歴任。1965年3月、第20代東京都議会議長選挙で当選、全国都道府県議会議長会会長にも就任するが、この選挙でいわゆる東京都議会黒い霧事件に関与した15名の現職議員が一斉摘発、自身も同年3月16日に贈賄容疑で家宅捜査を受け、同年4月16日に現職議長として逮捕。
鈴木 安蔵(すずき やすぞう、1904年3月3日 - 198… 鈴木 安蔵(すずき やすぞう、1904年3月3日 - 1983年8月7日)は、日本の法学者(憲法学者)・法制史家。静岡大学名誉教授。 1904年、福島県相馬郡小高町(現・南相馬市)生まれ。相馬中学、二高を経て、京都帝国大学哲学科に入学。文学部哲学科に入学したものの、河上肇の影響を受けて経済学部に転じる。1926年(大正15年)京都学連事件で検挙され、この事件が治安維持法違反第1号となり、大学を自主退学、豊多摩刑務所で2年間服役した。出獄後は吉野作造(明治文化研究会を結成し『明治文化全集』を編集)の影響を受け、マルクス主義の立場から大日本帝国憲法の制定史を研究、1933年(昭和8年)、著書『憲法の歴史的研究』として刊行したが「唯物史観的」として発禁処分を受け学界からは完全にパージされてしまった。
今井 達夫(いまい たつお、1904年3月3日 - 1978… 今井 達夫(いまい たつお、1904年3月3日 - 1978年5月6日)は、日本の小説家。筆名は本名と同じ。 長男として横浜市中区野毛に生まれる。父の今井秀松は山形県西村山郡朝日町出身で、横浜で兄弟生糸商を営む。母きみは山形県東村山郡山辺町の生まれで、安達峰一郎の妹。幼年期のほとんど毎夏、鵠沼で過ごす。1910年、横浜市尋常小学校に入学。1912年秋から父の療養のため神奈川県藤沢市鵠沼海岸下鰯に転居。鵠沼尋常小学校(現在の藤沢市立鵠沼小学校)に3年生で転校。同年、父秀松が死去。1916年に鵠沼尋常小学校を卒業、同年開校の私立藤嶺中学校に1回生として入学。 1920年(大正9年)、私立藤沢中学校(1918年改称)を4年で修了し、慶應義塾大学予科に入学。
真井 耕象(まない こうぞう、1901年3月3日 - 200… 真井 耕象(まない こうぞう、1901年3月3日 - 2000年2月16日)は、日本の土木工学者。北海道大学名誉教授。
神原 富保(かんばら とみやす、1901年3月3日 - 19… 神原 富保(かんばら とみやす、1901年3月3日 - 1985年10月5日)は、日本の経営者。豊田通商社長を務めた。岡山県出身。 1925年に名古屋高等商業学校を卒業し、同年に豊田紡織に入社。豊田製鋼(現在の愛知製鋼)取締役、豊田自動織機製作所取締役、豊田製鋼常務を経て、1948年に日新通商(現在の豊田通商)常務に就任し、1950年に専務を経て、1961年11月に社長に就任した。1968年から相談役を務めた。 1985年10月5日、心筋梗塞のために死去。84歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
八代 斌助(やしろ ひんすけ、1900年〈明治33年〉3月3… 八代 斌助(やしろ ひんすけ、1900年〈明治33年〉3月3日 - 1970年〈昭和45年〉10月10日)は、日本のキリスト教伝道者である。 北海道出身。立教大学中退。イギリス留学を経験している。神戸聖ミカエル教会司祭、神戸教区主教。1968年、日本聖公会首座主教。世界教会一致運動に参加。聖公会神学院理事長。オックスフォード大学神学博士、トロント・トリニティーカレッジ神学博士、アメリカのコロンビア大学教理学博士、ゼネラル神学校神学博士。神戸国際大学及び神戸国際大学附属高等学校を運営する学校法人八代学院を創設し理事長・院長を務めたほか、立教学院理事長・院長や松蔭女子学院理事長・院長、桃山学院理事長・院長、聖路加看護大学理事長(聖路加国際病院理事長)、国際基督教大学理事、聖ミカエル保育園理事長、オリンピア幼稚園園長、聖ラファエル幼稚園理事長、鈴蘭台聖ミカエル幼稚園理事長・園長、境港聖心幼稚園園長、神戸市教育委員、ボーイスカウト日本連盟相談役なども務めた。
野口 二郎(のぐち じろう、1900年(明治33年)3月3日… 野口 二郎(のぐち じろう、1900年(明治33年)3月3日) - 1976年(昭和51年)1月18日)は、日本の実業家、政治家、郷土史研究家。甲府市長(官選第18代)、山梨日日新聞社社長、山梨放送社長。 甲府市百石町に、父・英夫、母・いしの二男として生まれる。1906年(明治39年)4月に山梨県尋常師範学校付属小学校に入学、1917年(大正6年)3月に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)、1920年(大正9年)3月に第八高等学校を卒業後、同年4月に東京帝国大学法学部に入学。1922年(大正11年)2月20日に山梨日日新聞社社長であった父親の野口英夫が逝去し、同月21日に学生のまま同新聞社の社長に就任。
石原 文雄(いしはら ふみお、1900年(明治33年)3月3… 石原 文雄(いしはら ふみお、1900年(明治33年)3月3日 - 1971年(昭和46年)4月20日)は、山梨県出身の日本の小説家。 山梨県西八代郡市川大門町(現在の市川三郷町)に生まれる。祖父の代から「奈良屋」という旅館を営み、文雄が5歳の時に父親が26歳で逝去し、以後は祖父母と母親に育てられている。大正7年(1918年)に、当時甲府市伊勢町(甲府市伊勢)に所在していた山梨県立農林学校(現在の山梨県立農林高等学校)を卒業し、長野営林署や小学校の代用教員を務めた。 その後は作家活動をしながら山梨の文化振興に寄与した。また、市川大門町の町会議員として、昭和22年(1947年)5月29日から昭和24年(1949年)6月22日まで議長を務めている。
鈴木 八郎(すずき はちろう、1900年3月3日 - 198… 鈴木 八郎(すずき はちろう、1900年3月3日 - 1985年9月14日)は、日本の写真家。写真雑誌編集者、カメラ文化史研究者。 北海道余市町に生まれた。早稲田工手学校(現早稲田大学芸術学校)建築科を中退する。東京芝にあった丸木利陽門下の前島英男の写真館に入門して、前島の義弟の金丸重嶺と同門になった。また『写真の趣味』『写真月報』を編集していた高桑勝男の紹介で、小野隆太郎に住込みで弟子入りし、ゴム印画法を習得した。その後大正から昭和にかけて、アルスより技法書を多数執筆した。戦前の『カメラクラブ』や戦後復刊の『写真サロン』編集長を務めた。ペンタックスギャラリー館長。古典カメラやカメラの歴史に関する記事を多く執筆した。
北川 桃雄(きたがわ ももお、1899年3月3日-1969年… 北川 桃雄(きたがわ ももお、1899年3月3日-1969年5月19日)は、日本の美術史家。 1899年、東京都港区で生まれた。旧制芝中学を経て、旧制第二高等学校で学んだ。1921年に卒業し、京都帝国大学経済学部に進学。1924年に卒業。 卒業後は、奈良県立五條中学校(現奈良県立五條高等学校)の英語科教諭として勤務。同年8月に笠井ふぢと結婚。その後京都市立第一工業学校教師に転じた。同校での同僚には下村寅太郎、田中忠雄らがいた。 1937年8月13日、北川の参加する文芸雑誌『リアル』がコミンテルンと通じているとの嫌疑で、工業学校の同僚・田中忠雄らとともに治安維持法違反で検挙された。 翌1938年東京に転居し、志賀直哉の勧めで東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。
前田 精(まえだ ただし、1898年3月3日 - 1977年… 前田 精(まえだ ただし、1898年3月3日 - 1977年12月13日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。海兵46期。1945年8月17日のインドネシア独立の平穏無事な実現に重要な貢献をした。栄典はインドネシア共和国建国功労章。兄は大本営海軍報道部長、第10航空艦隊司令長官前田稔海軍中将(41期)。弟は資生堂のデザイナー前田貢。 鹿児島県姶良郡加治木村小山田(現姶良市加治木町)出身。鹿児島県立加治木中学校(旧制)卒業後、海軍兵学校に入学(第46期)。同期生に山階宮武彦王、猪口敏平らがいる。 1918年(大正7年)11月21日卒業。翌年8月、少尉に任官。オランダ公使館付武官、大本営海軍参謀、バタビア在勤武官を歴任し、1945年(昭和20年)に海軍少将およびジャカルタ在勤武官。
田崎 秀夫(たざき ひでお、1898年3月3日 - 1989… 田崎 秀夫(たざき ひでお、1898年3月3日 - 1989年12月19日)は広島文理科大学(現広島大学)の理学研究者。 福島県出身。X線および電子線による結晶解析の研究においてで、メタ硼酸の結晶構造の解析にフーリエ解析法を用いる方法を提案した。 広島大学退官後は、大阪電気通信大学学長に就任し、持ち前の温厚な性格と冷静な発言で、学生紛争を平和裏に終結に導いた。1970年、勲三等瑞宝章受章。1989年、腎不全のため死去。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
三宅 襄(みやけ のぼる、1897年3月3日 - 1965年… 三宅 襄(みやけ のぼる、1897年3月3日 - 1965年12月4日)は、日本の能楽研究家・評論家。 島根県生まれ。本名・石田金一。1917年明治薬学専門学校(現明治薬科大学)卒。山内保の診療所で薬剤業務に従事しつつ演劇評論を書く。1932年から『謡曲界』の編集に携わるかたわら、新聞に能評を書く。『観世』『金剛』の編集を担当、観世流大成版謡本の改訂作業に関与。戦後は能楽協会の設立に従事し、理事兼書記長を務め、機関誌『能』を編集、能楽界の世話役であった。1961年紫綬褒章受勲。
藤井 顕孝(ふじい けんこう、1897年〈明治30年〉3月3… 藤井 顕孝(ふじい けんこう、1897年〈明治30年〉3月3日 - 1979年〈昭和54年〉10月21日)は、日本の地方政治家。初代東久留米市長。 1924年(大正13年)早稲田大学文学部卒。浄牧院住職、鉄道教習所講師、東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)教員、久留米町教育委員長を歴任した。 1959年(昭和34年)の久留米町長選挙に立候補したが、この時は前職の番場憲隆に敗れた。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 1963年(昭和38年)の町長選挙で、社会党の新人を破って、初当選を果たした。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 1967年(昭和42年)の町長選挙では、別の社会党新人との争いとなったが、これを破って再選を果たした。
野中 春三(のなか しゅんぞう、1896年(明治29年)3月… 野中 春三(のなか しゅんぞう、1896年(明治29年)3月3日 - 1960年(昭和35年)6月6日)は、日本の官僚・実業家。西日本鉄道社長を務めた。 福岡県柳川市出身。1921年(大正10年)東京帝国大学法学部を卒業後、鉄道省に入省。1940年(昭和15年)仙台鉄道管理局局長に就任。退官後は日本通運理事を経て、西日本鉄道副社長に就任。1945年(昭和20年)に同社社長に就任。1951年(昭和26年)に同社会長に就任した。このほか、RKB毎日放送、井筒屋の各取締役などを歴任した。 1959年(昭和34年)に西日本鉄道社長に再就任したものの、在任中の1960年(昭和35年)6月6日に九州大学病院(福岡市)で死去。
水野 康孝(みずの やすたか、1896年 <明治29年> 3… 水野 康孝(みずの やすたか、1896年 <明治29年> 3月3日 - 1987年 <昭和62年> 3月11日)は、日本の大正から昭和時代に活動した作曲家、声楽家、音楽教育者。元岡山大学教育学部長。位階は正四位。 現在の岡山市北区出身。医事評論家の水野肇は長男。 1896年(明治29年)、岡山市(現在の北区)中山下に生まれる。1916年(大正5年)に東京音楽学校本科声楽部を卒業し、同校の研究科に所属したが中退ののち大阪市立中大江東尋常小学校(大阪市立中大江小学校の前身校)に音楽専科教員として採用される。同年内に大阪音楽学校講師となり、1922年(大正11年)に楽劇「百合姫」へ出演。1923年(大正12年)に日東蓄音機(ニットーレコード)へ入社し、東京へ拠点を移すが関東大震災で被災し大阪へ戻る。
各務 鑛三(かがみ こうぞう、1896年3月3日 - 198… 各務 鑛三(かがみ こうぞう、1896年3月3日 - 1985年12月3日)は、日本のガラス工芸家。カガミクリスタル創業者。日本藝術院賞受賞。岩田藤七と並び、ガラス工芸を美術品の領域まで高めた。 岐阜県土岐郡笠原町(現多治見市)出身。1913年、愛知県立瀬戸陶器学校(のちの愛知県立瀬戸工科高等学校)卒業。1914年、東京高等工業学校(のちの東京科学大学)附設工業教員養成所工業図案科選科修了。同期の芹沢銈介、1期下の濱田庄司とは生涯交友を持った。同年同校雇員、1917年、同校窯業科嘱託教員。平野耕輔の移籍に伴って、1920年、南満洲鉄道窯業試験所入所。1927年からドイツ・シュツットガルト美術工芸学校に留学し、ウィルヘルム・フォン・アイフ校長に師事。