小野 市兵衛(おの いちべえ、1913年2月4日 - 198… 小野 市兵衛(おの いちべえ、1913年2月4日 - 1989年2月12日)は、日本の経営者。大阪府大阪市出身。 1936年に大阪商科大学を卒業し、同年に小野市兵衛商店(現在の小野薬品工業)に入社。 1947年4月に専務に就任し、1956年5月には社長に昇格。1977年2月から会長を務めた。 1989年2月12日肺炎のために死去。76歳没。
2月4日生まれ:319人
小野 市兵衛(おの いちべえ、1913年2月4日 - 198… 小野 市兵衛(おの いちべえ、1913年2月4日 - 1989年2月12日)は、日本の経営者。大阪府大阪市出身。 1936年に大阪商科大学を卒業し、同年に小野市兵衛商店(現在の小野薬品工業)に入社。 1947年4月に専務に就任し、1956年5月には社長に昇格。1977年2月から会長を務めた。 1989年2月12日肺炎のために死去。76歳没。
青葉山 徳雄(あおばやま のりお、1913年2月4日 - 1… 青葉山 徳雄(あおばやま のりお、1913年2月4日 - 1972年3月1日)は、宮城県仙台市青葉区出身で陣幕部屋に所属した大相撲力士。本名は阿部 徳雄(あべ のりお)。最高位は西前頭4枚目。得意手は右四つ、寄り。現役時代の体格は173cm、112kg。 大坂相撲で大関だった12代陣幕に弟子入りし、1929年1月場所に初土俵を踏んだ。がっぷり四つに組まないと力が出ないタイプで、勝ち身も遅く、じっくりした相撲ぶりだったという。そのため水入りも多く、「バケツ」とあだ名された。それでも1934年5月場所に幕下で11戦全勝優勝を遂げて、翌1935年1月場所に十両昇進してからは注目も浴び、1937年5月場所に新入幕を果たした。
中村 哲(なかむら あきら、1912年2月4日 - 2003… 中村 哲(なかむら あきら、1912年2月4日 - 2003年8月10日)は、日本の政治学者、憲法学者。法政大学総長、参議院議員。父方の叔母に竹越光代(婦人運動家、歴史家・政治家竹越与三郎の妻)がいる。 東京府出身。府立三中、旧制成城高等学校(現成城大学)を経て、1934年に東京帝国大学法学部卒業(美濃部達吉門下生)。台北帝国大学文政学部の助教授・教授を経て、戦後我妻栄の引きで法政大学法学部教授に。法学部長・常務理事を歴任し、1968年に法政大学総長となった。 総長就任時は学生運動が激しく、学内で内ゲバ殺人事件(海老原事件)が発生するなど危機的な状況にあったが、警官隊の学内導入をほのめかした秦野章警視総監と対立しながらも大衆団交を繰り返し、終に警官隊を導入することなく事態を乗り切った。
横山 正克(よこやま まさかつ、1912年〈明治45年〉2月… 横山 正克(よこやま まさかつ、1912年〈明治45年〉2月4日 - 没年不詳)は日本の実業家。島根県安来市出身。 政治家の亀井久興の父親亀井茲建とは中学の同窓、高等学校で同級生だった。また亀井久興の後援会「明るい日本をつくる会」の会長を務めた。また、娘・陽子は亀井久興の妻となった。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
金原 まさ子(きんばら まさこ、1911年2月4日 - 20… 金原 まさ子(きんばら まさこ、1911年2月4日 - 2017年6月27日)は、俳人。東京生まれ。本名:金原 マサ。 父は三和信託に勤めるサラリーマンで家庭は裕福であった。少女時代は友達を作らず『新青年』『苦楽』『譚海』といった文芸雑誌を購読し、夢野久作や初期の江戸川乱歩、龍膽寺雄、川端康成の「片腕」などの作品を好んで読んでいた。三輪田高等女学校を卒業後、飯田橋の料理学校に入り、ここで知り合った友人を介してダンスの世界に触れる。その後結婚し、以降はほぼ専業主婦として生活。戦時下では育児日記を書き綴りNHK『新・ドキュメント太平洋戦争』シリーズで取り上げられた。戦後は49歳で俳句をはじめる。1970年、桂信子主催の『草苑』創刊同人、1973年、草苑しろがね賞を受賞、1979年、草苑賞を受賞。
馬淵 薫(、1911年(明治44年)2月4日 - 1987年… 馬淵 薫(、1911年(明治44年)2月4日 - 1987年(昭和62年)5月3日)は日本の脚本家。筆名は木村 武()。脚本は筆名と本名と両方の名義で執筆していた。東京出身。 関西大学を中退し、1930年に日本共産党に入党。その後、約10年間入獄したのち、日本共産党の佐賀県委員長を務める。1950年(昭和25年)に離党し、その後八住利雄に師事し脚本家になる。 1953年(昭和28年)、映画『赤線基地』で脚本家デビュー。東宝特撮路線を支えたプロデューサーの田中友幸や常連出演者の志村喬とは関西大学からの演劇仲間だが、上京しての映画界入り後も関西演劇界とはつながりがあり、演劇青年時代の筒井康隆とも親交があり、香村菊雄に紹介している。
近藤 吾朗(五郎)(こんどう ごろう、1911年〈明治44年… 近藤 吾朗(五郎)(こんどう ごろう、1911年〈明治44年〉2月4日 - 1999年〈平成11年〉1月11日)は、日本の芸術家。戦前は中国に在住し東洋美術を学び、パリを中心に西洋美術、中近東やアジア諸国の古代文明跡に漂泊の旅を重ね、「写実の美」、「存在のリアリティー」を追求した。 晩年は富士山麓の静岡県裾野市にアトリエ「無暦庵」を構え、黙々と富士山を描き続けた。どの絵画も丹念なマチエールでダイナミックで重厚感のある油絵が特徴である。 他数百点以上の作品を残している。
関 綾二郎(せき あやじろう、1911年(明治44年)2月4… 関 綾二郎(せき あやじろう、1911年(明治44年)2月4日 - 2016年(平成28年)5月29日。本名の正しい読み方は、せき りょうじろう)は、東京都小金井市の市長を1967年から1971年まで務めた。当時のローカル新聞は「関綾二郎助役は旧家の生れであり柔和で清廉の紳士である」と同時に「強固な意志の持ち主である」と綴っている。日本の歴代市長の中では当時は最も長生きし、2016年に105歳で亡くなった。 1911年に小金井にゆかり深い旧家に生まれた。小金井市助役(現在でいう副市長)を務めた後に1967年に小金井市第2代目の市長に就任。「愛情ある、市民と直結した市政」を目指し、「新しい町づくり、みんなの市政に愛情を」と呼びかけた。
三輪 壽雪(みわ じゅせつ、1910年(明治43年)2月4日… 三輪 壽雪(みわ じゅせつ、1910年(明治43年)2月4日 - 2012年(平成24年)12月11日)は、日本の陶芸家。第11代三輪休雪。1983年に人間国宝に認定された。位階は従五位。本名は節夫。 山口県萩市出身。代々萩焼を家業とし、旧萩藩御用窯であった三輪窯の九代休雪・三輪雪堂の三男として誕生する。1927年旧制萩中学校卒業後、兄である十代休雪(隠居後は休和)を助けながら伝統技法を学んだ。1941年に三重県津市に工房を構えていた川喜田半泥子に師事し、茶陶の制作技法を身につける。独立までの約30年間ひたすら修練に打ち込み、召集令が出された1944年以外は作陶の手を休める事はなかった。 1955年に雅号を「休」と称し作家活動を開始。
平塚 勝一(ひらつか かついち、1910年(明治43年)2月… 平塚 勝一(ひらつか かついち、1910年(明治43年)2月4日 - 1983年(昭和58年)10月29日)は、昭和期の地方公務員、政治家。埼玉県所沢市長。 所沢市出身。1933年(昭和8年)海軍経理学校修了。1948年(昭和23年)所沢町役場に就職。所沢市収入役、助役を経て、1967年(昭和42年)所沢市長に当選し、4期在任した。市長在任中の1983年(昭和58年)10月29日、肝硬変のため73歳で死去。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
工藤 孝一(くどう こういち、1909年2月4日 - 197… 工藤 孝一(くどう こういち、1909年2月4日 - 1971年9月21日)は、岩手県岩手郡川口村(現:岩手町)出身のサッカー選手、サッカー指導者。ベルリンオリンピックのサッカー日本代表コーチを務めた。 旧制・岩手県立盛岡中学校(現:岩手県立盛岡第一高等学校)から1927年に第一早稲田高等学院へ進学。ゴールキーパーとして全国高等学校ア式蹴球大会に出場、1929年の第6回大会の優勝に貢献した。1930年に早稲田大学商学部に入学し、ア式蹴球部に入部。一時はフォワードに転向して競技を続けたが、体格に劣ることから選手生活に見切りを付け、マネージャーとして活動するようになった。 1933年に大学を卒業後、一時大同生命保険に就職したが、後に同盟通信社に転職。
潮 万太郎(うしお まんたろう、1909年2月4日 - 20… 潮 万太郎(うしお まんたろう、1909年2月4日 - 2000年4月8日)は、日本の俳優。本名は、柴田 作治郎(しばた さくじろう)。 長女は女優の弓恵子、長男は元俳優の柴田昌宏、次男は俳優の柴田侊彦。娘婿は俳優の宮口二郎。 東京市浅草区七軒町(現・東京都台東区元浅草)出身。旧制攻玉社中学校を経て、太平洋美術学校(現・太平洋画会研究所)卒業。 1923年、小笠原映画研究所製作第一作の無声映画『三色すみれ Love in Idleness』で花房 綾夫の芸名でデビュー。1929年、無声映画『修羅城』より芸名を潮 万太郎に改め、本格的に芸能活動を始める。 小笠原プロダクションを経て、日活太秦撮影所、日活多摩川撮影所などで活躍後、合併し設立された大映では脇役として多くの作品に出演した。
平山 博三(ひらやま はくぞう、1906年〈明治39年〉2月… 平山 博三(ひらやま はくぞう、1906年〈明治39年〉2月4日 - 1990年〈平成2年〉1月6日)は、日本の政治家。浜松市長、全国市長会会長。旧姓・安間。位階は従四位。 静岡県浜名郡河輪村(現浜松市中央区西町)で、農業・安間伊三郎の三男として生まれ、引佐郡奥山村(現浜松市浜名区)の平山家の養子となる。県立蚕業学校(現静岡県立浜松大平台高等学校)を経て、1928年、早稲田大学専門部法律科を卒業。 卒業後に帰郷し、1928年に静岡県庁に入り、総務部調査課長、労働部長などを歴任。その後、1956年、浜松市助役に就任。1959年5月に浜松市長に選出され、1979年4月まで市長を五期20年にわたり務めた。
小泉 貞三(こいずみ ていぞう、1905年2月4日 - 19… 小泉 貞三(こいずみ ていぞう、1905年2月4日 - 1975年2月9日 )は、経済学者、経営学者、経済学博士。関西学院大学名誉教授・ 元関西学院大学商学部長。 交通経済学の研究において数多くの研究、業績を残し、その学問の発展に寄与された。滋賀県神崎郡生まれ。
中村 吉治(なかむら きちじ、1905年2月4日 - 198… 中村 吉治(なかむら きちじ、1905年2月4日 - 1986年12月10日)は、日本の歴史学者。東北大学名誉教授。社会史・農民史および村落共同体に関する著書多数。 長野県上伊那郡朝日村平出(現在の辰野町)に生まれる。朝日尋常高等小学校、長野県諏訪中学校を経て、旧制第三高等学校に進学し、中村直勝の講義を聞き、歴史学に興味を持つ。1925年3月に同校文科丙類を卒業。京都帝国大学入学後、1926年、東京帝国大学文学部国史学科に再入学し、卒業論文「近世初期の農政」をまとめ、1929年3月に同大学文学部卒業。 1929年、東京大学史料編纂所に入所し、1933年3月まで勤めたのち、東北帝国大学法文学部助教授。
大森 志郎(おおもり しろう、1905年2月4日 - 199… 大森 志郎(おおもり しろう、1905年2月4日 - 1992年9月9日)は、日本史・民俗学者。 福島県生まれ。1928年東北帝国大学史学科卒。同大学院、南満州鉄道撫順図書館長、建国大学教授。戦後、東京女子大学教授、1956年「魏志倭人伝の研究」で東北大学文学博士。創価大学教授。
床次 徳二(床次 德二、とこなみ とくじ、1904年(明治3… 床次 徳二(床次 德二、とこなみ とくじ、1904年(明治37年)2月4日 - 1980年(昭和55年)2月22日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(10期)、総理府総務長官を歴任した。また目白学園理事長及び目白学園女子短期大学(現・目白大学短期大学部)学長も務めた。 鹿児島県鹿児島市新照院町出身(東京都港区生まれ)。床次竹二郎の二男または三男。父の竹二郎が官選徳島県知事に就任して間もない頃に生まれたことにちなんで徳二と命名された。 旧制麻布中学校に入り、2年次に東京府立第四中学校(現:東京都立戸山高等学校)へ転校。1923年3月第一高等学校文科乙類、1926年東京帝国大学法学部政治科を卒業。
武藤 重勝(むとう しげかつ、1904年2月4日 - 199… 武藤 重勝(むとう しげかつ、1904年2月4日 - 1990年6月19日)は、日本の詩人、図書館情報学者。 1904年(明治37年)、日本統治下の台湾に生まれる。幼少期を父の郷里である宮崎県児湯郡高鍋町で過ごし、東京府の旧制第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)を経て旧制宮崎中学校(現在の宮崎県立宮崎大宮高等学校)へ移る。旧制宮崎中5年生の時には武者小路実篤が児湯郡木城町に開いていた「新しき村」を友人らと訪問し、実篤の薫陶を受けている。 旧制宮崎中を卒業後、立教大学文学部哲学科に進学。1930年(昭和5年)に卒業した後、そのまま大学図書館の職員となる。1938年(昭和13年)、神戸市が募集していた『神戸市歌』(初代、1951年廃止)の歌詞募集において応募作が一等入選で採用された。
船越 義房(ふなこし よしふさ、1904年〈明治37年〉2月… 船越 義房(ふなこし よしふさ、1904年〈明治37年〉2月4日 - 没年不明)は、日本の会社役員、工学博士。熊谷組顧問。旧姓・北垣。 島根県能義郡大塚村(現・安来市)出身。北垣仁之助の三男。1925年、松江高等学校理科卒業、同年に鳥取県米子市紺屋町、船越作一郎の養子となる。1929年、東京帝国大学工学部建築学科卒業。同大学院にて建築音響学を専攻する。 日本大学講師、教授。藤原工業大学、東京府立高校、成蹊高校各講師、厚生科学研究所員、三星産業技術部長。1952年、日建設計工務常務取締役。1969年、熊谷組入社、同社専務取締役、のちに同社顧問。 宗教は仏教。趣味は写真、庭球、ゴルフ。住所は東京都杉並区上荻2丁目。
猿丸 吉左衛門(さるまる きちざえもん、1903年(明治36… 猿丸 吉左衛門(さるまる きちざえもん、1903年(明治36年)2月4日 - 1983年(昭和58年)1月4日)は、日本の実業家・政治家。芦屋市長(1948年 - 1952年)、兵庫県議会議員。初名は吉雄。 スポーツ黎明期に万能選手として知られた人物である。相撲では学生横綱となり、柔道でも活躍、陸上競技では砲丸投とハンマー投で日本記録を残した。 現在の兵庫県芦屋市出身。芦屋の猿丸家は猿丸大夫の末裔を称する旧家で、そのうち当主が「吉左衛門」の名を世襲する家系の出身である。 同じ名を名乗った父の猿丸吉左衛門(1853年 - 1932年)は、1928年から1930年にかけて精道村(芦屋市の前身)の村長を務めた。
武原 はん(たけはら はん、1903年(明治36年)2月4日… 武原 はん(たけはら はん、1903年(明治36年)2月4日 - 1998年(平成10年)2月5日)は、徳島県出身の日本舞踊家。本名・武原幸子。 1903年2月4日、徳島県徳島市籠屋町に生まれる。家は花街の裏手にあり、父親はブリキ職人だった。1915年、大阪宗右衛門町の大和屋芸妓学校に入学。山村流の上方舞を修行。14歳で芸者になり、20歳まで大和屋で働いた。1930年、青山二郎の後妻として結婚。青山を通じて小林秀雄、永井龍男、中原中也、宇野千代らとの交流が始まる。1931年、上京し、料亭「灘万」の若女将を務める。藤間勘十郎や二世西川鯉三郎に師事、関西の上方舞を東京に根付かせるのに尽力した。1934年、青山と離婚。
駒形 十吉(こまがた じゅうきち、1901年(明治34年)2… 駒形 十吉(こまがた じゅうきち、1901年(明治34年)2月4日 - 1999年(平成11年)2月7日)は、日本の実業家。大光相互銀行社長、新潟総合テレビ(現・NST新潟総合テレビ)社長、新潟日報社監査役。新潟県長岡市出身。 長岡の米穀・味噌醤油醸造を営んでいた駒形宇多七の三男(11人兄弟の10番目)として生まれる。新潟県立長岡中学校卒業後、旧制新潟高等学校に進むが中退。大阪の株式取引商で実務経験を積んだ。 1922年(大正11年)父の死去に伴い、帰郷し家業に従事する。1928年(昭和3年)に北陸産業無尽の設立に参画し支配人、1941年(昭和16年)に社長となる。翌1942年(昭和17年)3月には国民無尽商会と合併し、大光無尽に商号を変更し、1951年(昭和26年)に大光相互銀行に改組した。
金 東鳴(キム・ドンミョン、朝鮮語: 김동명、1900年2月… 金 東鳴(キム・ドンミョン、朝鮮語: 김동명、1900年2月4日 - 1968年1月21日)は、朝鮮の詩人、政治評論家、随筆家。 号は超虚(チョホ、초허)。別名は金東嗚(キム・ドンオ、김동오)。教員生活を送りながら民族的悲哀の漂う抒情詩を多く残した。解放後は評論家、政治家としても活動している。 1900年6月4日、江原道溟州郡沙川面蘆洞里に生まれる。父は金済玉、母は申錫愚の一人息子である。幼いころは郷里の書堂に通い、漢文を学んだ。8歳のとき、咸鏡南道の元山に引越し、そこで小学校に入学する。母が苦労して学費を捻出してくれたおかげで、金は1915年に咸鏡南道の永生中学校に進学し、1920年に卒業した。
芙蓉 良順(ふよう りょうじゅん、1900年2月4日 - 1… 芙蓉 良順(ふよう りょうじゅん、1900年2月4日 - 1983年8月13日)は、日本の仏教学者、僧侶。大正大学教授、学長。真言宗智山派管長。智積院62世能化。専門は密教学。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 宗教/ウィキプロジェクト 宗教)。
伊東 深水(いとう しんすい、1898年(明治31年)2月4… 伊東 深水(いとう しんすい、1898年(明治31年)2月4日 - 1972年(昭和47年)5月8日)は、大正昭和期の浮世絵師・日本画家・版画家。本名伊東一。娘に女優の朝丘雪路がいる。 歌川派浮世絵の正統を継いでおり、日本画独特の柔らかな表現による美人画が有名。人気の「美人画」以外の画題を描きたくとも、それ以外の注文が来ず、画家として困惑する時期もあった。本妻の好子をモデルに大作を数多く発表し評価を高めた。戦後は美人画とも並行し、個人的に独自の題材で日本画を制作することが多かった。人気のあまり、戦後には多くの作品が複製版画として頒布されるようになった。 1898年、東京府東京市深川区深川西森下町(現東京都江東区森下一丁目)に伊東半三郎とまさ子の長男として生まれる。
高橋 新次郎(たかはし しんじろう、1897年(明治30年)… 高橋 新次郎(たかはし しんじろう、1897年(明治30年)2月4日 - 1973年(昭和48年)10月5日)は、日本の歯学者、歯科医師、矯正歯科医。埼玉県出身。 東京高等歯科医学校(現・東京医科歯科大学)矯正歯科学教室教授、東京医科歯科大学教授、東京医科歯科大学歯学部長、東京医科歯科大学附属病院院長、東京医科歯科大学附属歯科技工士学校長を歴任。日本矯正歯科学会会長、国際歯科研究学会日本部会会長も務めた。 息子は植物学者の高橋信孝、孫は内分泌学者の高橋伸一郎。
金光 邦三(かねみつ くにぞう、1897年〈明治30年〉2月… 金光 邦三(かねみつ くにぞう、1897年〈明治30年〉2月4日 - 2001年〈平成13年〉11月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。初代魚津市長(1期)。弁護士。 富山県下新川郡魚津町(現魚津市)で生まれた。1918年立命館大学法律科卒。弁護士となり、神戸市議、兵庫県議を経て、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)で兵庫1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。 戦後の1946年(昭和21年)1月19日に魚津町長に就任するが、推薦議員のため、公職追放となったため、同年10月2日に町長職を退いた。その後は富山県下新川郡下野方村(現:魚津市)で弁護士を営んでいた。
赤津 庄兵衛(あかつ しょうべえ、1895年(明治28年)2… 赤津 庄兵衛(あかつ しょうべえ、1895年(明治28年)2月4日 - 1981年(昭和56年)9月20日)は、福島県勿来市(現・いわき市)長(2期)。位階は正六位。 福島県菊多郡窪田村(のち石城郡窪田村→勿来町→勿来市、現・いわき市)に生まれる。1912年福島県立磐城中学校卒。卒業後は家業の味噌醤油醸造業に従事、1920年磐城造林会社を設立、取締役社長となる。1932年勿来町長を2期、1940年福島県会議員を2期務める。1950年植田信用金庫理事長、1953年福島県教育委員、1956年福島県公安委員を歴任する。1959年勿来市長に初当選。1963年に再選。勿来市長をいわき市に合併するまで務めた。
小山 亮(こやま まこと、1895年2月4日 - 1973年… 小山 亮(こやま まこと、1895年2月4日 - 1973年2月9日)は、日本の政治家(衆議院議員)。 自由民権運動家で衆議院議員を務めた長野県小諸出身の小山久之助の次男として、東京市麹町に生まれる。6歳の時に父が亡くなり、父の郷里である小諸に移る。1912年3月、小諸町立小諸商工学校(現・長野県小諸商業高等学校)を卒業後上京し、父と知遇のあった大隈重信から援助を得て三重県立鳥羽商船学校(現・鳥羽商船高等専門学校)に入学したが1年で退学、新潟県立新潟商業学校(現・新潟県立新潟商業高等学校)の商船科に移ったがここもその年に退学し、1914年3月に愛媛県立弓削商船学校(現・弓削商船高等専門学校)に移り、1919年に卒業した。
奥田 喜久司(おくだ きくじ、1894年(明治27年)2月4… 奥田 喜久司(おくだ きくじ、1894年(明治27年)2月4日 - 1939年(昭和14年)11月4日)は、日本の海軍軍人。少年飛行兵制度を発案することで予科練に至る基礎をつくり、のちに航空隊司令として作戦指揮中に戦死した海軍少将である。 奥田は兵庫県出身で、神戸一中を経て1914年(大正3年)に海軍兵学校を卒業した海兵42期生である。席次は117名中54番であった。翌年12月海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科学生を経て、「洲埼」分隊長。次いで「神威」艤装員としてアメリカ合衆国に出張した。同艦分隊長、「島風」砲術長兼分隊長と砲術畑を歩む。 同期生の先頭を切って近藤泰一郎と共に海軍大学校甲種学生(23期)に進み、卒業後航空に転科。
仁田 竹一(にた / にだ / にった たけいち、1894年… 仁田 竹一(にた / にだ / にった たけいち、1894年(明治27年)2月4日 - 1976年(昭和51年)6月14日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、広島県佐伯郡大柿町長。 広島県佐伯郡深江村(大柿町を経て現江田島市)で仁田笹松の二男として生まれ、仁田久米次の養子となる。1912年(明治45年)広島県立呉中学校(現広島県立呉三津田高等学校)を卒業した。 呉商工会議所副会頭、呉第一銀行頭取、江田島汽船社長、瀬戸内海汽船社長、広島緑地建設社長、広島湾海運会長、因島運輸社長、ラジオ中国取締役、全日本観光連盟中国支部長、広島県観光連盟会長、日本経営者団体連盟(現日本経済団体連合会)常任理事、中国ヨット連盟会長、中国操艇協会会長などを務めた。
今村 春吉(いまむら はるきち、1894年〈明治27年〉2月… 今村 春吉(いまむら はるきち、1894年〈明治27年〉2月4日 - 1989年〈平成元年〉7月19日)は、長崎市の外科医師、洋画家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
徳重 種彦(とくしげ たねひこ、1892年(明治25年)2月… 徳重 種彦(とくしげ たねひこ、1892年(明治25年)2月4日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 鹿児島県鹿児島市常磐町に生まれる。1912年(明治45年)鹿児島市立商業学校を卒業し、1916年(大正5年)渡台する。 内務局地理課勤務を皮切りに、高雄州属、交通局書記を経て、1939年(昭和14年)地方理事官に進み、高雄州東港郡守に就任。ついで1942年(昭和17年)新竹州新竹郡守に転じた。
岩切 秀(いわきり ひで、1892年(明治25年)2月4日 … 岩切 秀(いわきり ひで、1892年(明治25年)2月4日 - 1971年(昭和46年)2月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。旧姓は前原。 鹿児島県薩摩郡永利村(川内市を経て現薩摩川内市)出身。陸軍士官学校第26期卒業。1938年(昭和13年)に陸軍歩兵大佐に進級し、1939年(昭和14年)に歩兵第80連隊長に就任。1939年(昭和15年)に第7師団参謀長、1941年(昭和16年)陸軍歩兵学校教導連隊長を歴任し、1942年(昭和17年)に陸軍少将に進級し、仙台陸軍教導学校長に着任。 1943年(昭和18年)に歩兵第69旅団長に転じ、中国戦線に出動。揚州の警備に当たり、1944年(昭和19年)には支那派遣軍歩兵教育隊長に転じた。
三上 於菟吉(みかみ おときち、1891年2月4日 - 19… 三上 於菟吉(みかみ おときち、1891年2月4日 - 1944年2月7日)は、大正・昭和時代の小説家。大衆文学の流行作家となり、文壇の寵児と呼ばれた。代表作に『雪之丞変化』など。活躍期にはその作風から「日本のバルザック」とも呼ばれた。内縁の妻は作家の長谷川時雨。 埼玉県中葛飾郡桜井村生まれ(現在の春日部市木崎)。代々儒医(漢方医)家業で、祖父はまた漢詩人大沼枕山門下の詩人でもあった。旧制粕壁中学校(現在の埼玉県立春日部高等学校)を経て田山花袋に私淑。父純太郎も於菟吉を医師に進ませようとしたが、中学校時代から文学少年となり白夜のペンネームで『文章世界』『中学世界』などに投稿していた。 1911年早稲田大学文学部英文科予科に入学し、広津和郎や谷崎精二らと交友を持ち、ロシア文学で片上伸に認められて「片門十哲」の一人とも言われた。
安井 大吉(やすい だいきち、1891年2月4日 - 196… 安井 大吉(やすい だいきち、1891年2月4日 - 1968年8月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。浦和市長(1期)。旧姓、花沢。 静岡県出身。日本大学法学部で学ぶ。岐阜県羽島郡長、同県地方課長、庶務課長、東京都区政課長、財政課長、厚生局長、生活局長を歴任し、1942年9月28日から1944年10月25日まで第4代浦和市長を務める。 戦後の1953年、時の首相吉田茂の予算委員会での発言に対する懲罰動議が可決されたため、可決の原因となった広川弘禅(広川は鳩山一郎、三木武吉らに同調し採決を欠席、のち内閣不信任案の可決、解散(バカヤロー解散)に繋がる)の対立候補として第26回衆議院議員総選挙で東京3区から自由党公認で立候補して当選した(広川は分党派自由党から立候補し、落選)。
岡田 三郎(おかだ さぶろう、1890年(明治23年)2月4… 岡田 三郎(おかだ さぶろう、1890年(明治23年)2月4日 - 1954年(昭和29年)4月12日)は日本の小説家。 北海道松前郡福山町(現・松前町)の鰊の漁師の家に生まれる。家は近江商人の家系。14歳で小樽に移住。庁立小樽中学校(同校は現在、北海道小樽潮陵高等学校となっており、その校歌を岡田三郎が作詞している)を卒業し、小樽で税務署員を務め、旭川で兵役につく。画家を志望して太平洋画会研究所に入るが兵役後に文学志望へ転じ、徳田秋声に師事。早稲田大学英文科在学中に『涯なき路』『影』を発表して文壇に登場。1919年に大学を卒業すると博文館に入社し、『文章世界』編集部に入る。のち、実の姉である日本女子大学の英語の教師であった岡田 一(いち)の援助により1921年にパリに遊学。
前田 郁(まえだ いく、1889年(明治22年)2月4日 -… 前田 郁(まえだ いく、1889年(明治22年)2月4日 - 1965年(昭和40年)3月30日)は日本の政治家であり実業家。 鹿児島県肝属郡大根占町(後の錦江町)出身。明治大学政治経済学部卒業。第二次大戦後の1947年、衆議院議員に初当選し、以来当選3回。衆議院運輸委員長、第2次岸内閣運輸政務次官、日本自由党代議士会副会長等を歴任。また、実業家として東京時計製造株式会社専務取締役、東京遊覧乗合自動車株式会社取締役社長、東京ミシン株式会社取締役社長、東京観光バス社長、東京観光自動車社長などを務めた他、国際観光文化協会会長、日本有線放送連合会会長などの公職も務めた。 福島ヨネらと共にモーターボート競走法の制定に力を注ぎ、1951年(昭和26年)6月に成立。
池松 林一(いけまつ りんいち、1889年〈明治22年〉2月… 池松 林一(いけまつ りんいち、1889年〈明治22年〉2月4日 - 1971年〈昭和46年〉4月)は、日本の政治家、実業家、銀行家。長崎県諫早市長(第3代)。長崎県会議員(1期)。HKT48の元メンバー田島芽瑠の高祖父である。 長崎県北高来郡諫早町(現・諫早市)出身。池松佐八の次男。池松ノエの養子となる。1906年(明治39年)、家督を相続する。 東京大成中学校を経て1918年(大正7年)、早稲田大学専門部政治経済科を卒業。貸金業・貸地業を営む。 1921年(大正10年)、諫早町長に就任する。1939年(昭和14年)9月、北高来郡選出の県会議員となった。1940年(昭和15年)に諫早市制が施かれると10月1日に初代市会議長に選ばれた。
朝緑 冨五郎(あさみどり とみごろう、1889年2月4日 -… 朝緑 冨五郎(あさみどり とみごろう、1889年2月4日 - 1947年12月3日)は、現在の山形県鶴岡市出身で立田川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は石田 富五郎(旧姓伊藤)。173cm、86kg。最高位は東前頭13枚目。大起男右エ門の岳父。 1907年5月初土俵、1912年5月十両昇進。1916年1月新入幕したが、連続負け越しで十両陥落。1919年1月廃業した。その後は相撲茶屋の伊勢福の養子になった。 番付上の表記揺れを無視すれば改名歴なし。 ただし、番付上の表記揺れとして、1908年1月場所は「浅ミとり 冨五郎」、1908年5月場所 - 1911年5月場所は「浅緑 冨五郎」と記されている。
森 清(もり きよし、1888年2月4日 - 1933年6月… 森 清(もり きよし、1888年2月4日 - 1933年6月30日)は、日本の俳優である。森 きよしとクレジットされた作品もある。本名大塚 秀次郎(おおつか ひでじろう)。サイレント映画の時代、日活向島撮影所の女形役者として知られる。 1888年(明治21年)2月4日、滋賀県栗太郡草津村(現在の同県草津市)に生まれる。 『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)および『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)には、旧制・岩倉鉄道学校(現在の岩倉高等学校)を卒業した旨の記述があるが、『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』(揚幕社)によれば、旧制小学校を卒業後、旧制の「大津中学校」(滋賀県第二中学校、現在の滋賀県立膳所高等学校)を2年次に落第して中途退学し、1907年(明治40年)、数え年20歳のときに京都大丸呉服店(現在の大丸京都店)の店員、同年、大阪三越呉服店(のちの三越大阪店、2005年閉店)の店員になったとあり、岩倉鉄道学校については一切言及されていない。
田端 幸三郎(たばた こうざぶろう、1886年2月4日 - … 田端 幸三郎(たばた こうざぶろう、1886年2月4日 - 1963年7月31日)は、日本の内務・台湾総督府官僚。 第3代台北市尹、第7代新竹州知事。 1886年、和歌山県にて田端幸七の二男として生まれる。1911年、高等文官試験に合格し、翌1912年に東京帝国大学英法科を卒業。神奈川県県属や高知県理事官を経た後、台湾総督府警視兼警務官として台湾に赴任。以後総督府事務官や理事官を務めた後、1927年に台北市尹(現在の台北市長)に就任。市尹在任中に台北市電敷設計画を提出したが、市民の反対に遭い計画は頓挫した。1929年新竹州知事に転じ、1931年5月依願免本官。1932年総督府専売局長として復帰し、1936年殖産局長に就任。
宮川 米次(みやかわ よねじ、1885年(明治18年)2月4… 宮川 米次(みやかわ よねじ、1885年(明治18年)2月4日 - 1959年(昭和34年)12月26日)は、日本の医学者、病理学者、細菌学者。東京帝国大学伝染病研究所所長を務め、伝染病・感染症の拡大防止、撲滅などに寄与した。号は「豊山」。 愛知県渥美郡豊岡村(現:豊橋市)で、今泉七作の四男として生まれる。愛知県第四中学校卒業後、福江町(現:田原市)の資産家・宮川家の養子となる。 その後、第六高等学校を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学医科大学卒業。1917年(大正6年)2月、医学博士の学位を取得。 1934年(昭和9年)から1940年(昭和15年)には、東京帝国大学伝染病研究所所長を務める。
鳩山 秀夫(はとやま ひでお、1884年2月4日 - 194… 鳩山 秀夫(はとやま ひでお、1884年2月4日 - 1946年1月29日)は、日本の法学者、元衆議院議員。専門は民法。東京都出身。
佐賀ノ海 初太郎(さがのうみ はつたろう、1884年2月4日… 佐賀ノ海 初太郎(さがのうみ はつたろう、1884年2月4日 - 1937年3月24日)は、現在の福岡県柳川市出身で湊部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は松永 初太郎。7代二子山。170cm、90kg。最高位は西前頭6枚目。 生まれは福岡県三潴郡蒲池村(現在の柳川市)だが、その後佐賀市唐人町に移住。このことが、のち四股名の由来となった。 大坂相撲に在籍したが、1906年に東上。常陸山谷右エ門の弟子になり、5月に幕下付出で初土俵。1908年5月に十両昇進。1911年2月に入幕した。左四つからの上手投げ、立ち合いからの叩き込みを得意とした。1916年1月に引退し、先代師匠の未亡人と婚姻し二子山を襲名したが、常陸山の逆鱗に触れ1918年5月に廃業した。
遠藤 光徳(えんどう みつのり、1881年〈明治14年〉2月… 遠藤 光徳(えんどう みつのり、1881年〈明治14年〉2月4日 - 1973年〈昭和48年〉4月24日)は、日本の実業家、政治家。鳥取県米子市名誉市民。 鳥取県西伯郡外江村(現在の境港市外江町)出身。遠藤久壽の長男。1895年、弓ケ浜高等小学校を卒業。 少年時代に米子の坂口平兵衛本店に入店、店員となる。3年はただ働きだった。忠実に奉公しているうちに坂口平兵衛に認められ、同家の大番頭に挙げられる。1924年、坂口合名会社の支配人となる。 1921年、米子町会議員に当選後、米子市議会議員・鳥取県議会議員などの公職をつとめ、米子市議会議長に15年8ケ月にわたり在職する。 鋳物諸工具製造業を営む。幾多の事業に関係し、米子製鋼所、大谷オフセット印刷各社長、米子電車軌道、皆生温泉土地各取締役、山陰農具監査役などをつとめる。
藤田 元春(ふじた もとはる、1879年2月4日 - 195… 藤田 元春(ふじた もとはる、1879年2月4日 - 1958年4月13日(79歳没))は、地理学者。 京都府美山町の神官の家に生まれる。1900年京都府師範学校を卒業、教員となる。1916年京都帝国大学文学部史学科に選科生として入学、京都帝国大学卒。小川琢治、内藤湖南に学ぶ。1925年第三高等学校教授兼大阪高等学校教授。1944年定年退官、戦後は山梨大学教授、立命館大学教授。1947年「日支交通の研究」で京都帝大文学博士。
中根 貞彦(なかね さだひこ、1878年(明治11年)2月4… 中根 貞彦(なかね さだひこ、1878年(明治11年)2月4日 - 1964年(昭和39年)1月24日)は、日本の実業家、政治家、歌人。三和銀行頭取、貴族院勅選議員。旧姓・片切、号・九峯。 大分県海部郡二王座村(のち北海部郡臼杵町を経て現臼杵市)に生まれた。大分士族・片切八三郎の三男。幼くして両親と死別し、佐伯の中根祚胤(百九銀行頭取)の養子となる。1901年(明治34年)第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業した。1905年(明治38年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 日本銀行に入行する。以後、同行ロンドン代理店監督役、同国庫局長、同大阪支店長、同理事などを歴任。1933年(昭和8年)に三十四銀行・山口銀行・鴻池銀行の3行が合併して三和銀行が創立され初代頭取に就任し、1945年(昭和20年)まで在任した。
中山 嘉兵衛(なかやま かひょうえ、1877年〈明治10年〉… 中山 嘉兵衛(なかやま かひょうえ、1877年〈明治10年〉2月4日 - 1923年〈大正12年〉9月27日)は、明治から大正時代の政治家。貴族院多額納税者議員。旧名・嘉太郎。 鹿児島県囎唹郡岩川村(現・曽於市)で、豪商・先代中山嘉兵衛の長男として生まれる。1905年(明治38年)1月、家督を相続し嘉兵衛を襲名した。1912年(大正元年)9月、囎唹郡会議員となった。囎唹郡米穀商同業組合長、鹿児島県酒造組合連合会長、岩川村会議員、所得税調査委員などを歴任した。米の生産や品質向上、消防などに尽力した。また、志布志線敷設問題では鉄道院総裁の床次竹二郎を岩川に招くなどした。 1918年(大正7年)鹿児島県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1922年(大正11年)9月4日まで在任した。
林 博太郎(はやし ひろたろう、1874年(明治7年)2月4… 林 博太郎(はやし ひろたろう、1874年(明治7年)2月4日 - 1968年(昭和43年)4月28日)は明治時代から昭和時代にかけての日本の教育学者、実業家、政治家。伯爵、文学博士。