小山 清(こやま きよし、1911年(明治44年)10月4日… 小山 清(こやま きよし、1911年(明治44年)10月4日 - 1965年(昭和40年)3月6日)は、日本の小説家。太宰治の門人としても知られる。 東京府東京市浅草区新吉原(現在の東京都台東区千束)の廓内に生まれる。生家は兼東楼という貸座敷業を営んでいたが、盲目の父は家業に関係せず義太夫を謡っていた。 府立三中を経て、明治学院中等部卒業。18歳のとき人生への煩悶から洗礼を受けるも、数年で脱会。母の死後、一家離散の憂き目を見る。島崎藤村の世話で日本ペンクラブ初代書記になるも、公金を使い込み、水戸刑務所に8ヶ月間服役する。出所後、下谷竜泉寺町界隈で新聞配達をしていたが、1940年に太宰治の門人となる。
日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年〈明治44年〉1… 日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年〈明治44年〉10月4日 - 2017年〈平成29年〉7月18日)は、日本の医師、医学者。位階は従三位。学位は医学博士(京都帝国大学)。聖路加国際病院名誉院長、上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長、公益財団法人笹川記念保健協力財団名誉会長。 京都帝国大学医学部副手、大日本帝国海軍軍医少尉などを経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長、一般財団法人ライフ・プランニング・センター理事長、公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所理事長、英知大学客員教授などを歴任した。 京都帝国大学医学部第三内科副手、大日本帝国海軍軍医少尉等を経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、自治医科大学客員教授、ハーバード大学客員教授、国際内科学会会長、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長等を歴任した。
橋本 達吉(はしもと たつきち、1911年〈大正元年〉10月… 橋本 達吉(はしもと たつきち、1911年〈大正元年〉10月4日 - 没年不明)は、日本の実業家。 大阪電気軌道入社後、近鉄百貨店(近畿日本鉄道百貨店部)勤務を経て、京都近鉄百貨店(旧・丸物、現在の近鉄百貨店)で社長を務めた。 広島県尾道市出身。日本画家の橋本関雪と姻戚関係にあり、子供時代は画家になりたいと思っていた。しかし、関雪の一門であった叔父から「画家で飯は食えない」と言われたことから、グラフィックデザイナーに志望変更し、京都工業専門学校(現在の京都工芸繊維大学)図案課へ進学した。 尾道へ帰省の時は丸物本店で土産を買って帰っており、創業時の建物の北側に鉄筋コンクリート造の新館ができているのを目にしていた。
関根 慶子(せきね よしこ、1909年10月4日 - 199… 関根 慶子(せきね よしこ、1909年10月4日 - 1998年9月12日)は、日本の国文学者。文学博士(東京教育大学・論文博士・1962年)。お茶の水女子大学名誉教授。 国文学者・関根正直の娘で、仏文学者の関根秀雄は実兄、旧約聖書学者の関根正雄は実弟。経済学者の関根友彦や、倫理学者関根清三は甥。 東京生まれ。1927年、内村鑑三の聖書講義を聞いて入信し、1930年、塚本虎二の丸の内聖書研究会の会員となる。1931年、東京女子高等師範学校卒、1939年、東京文理科大学国文科卒業、副手となる。1940年、実践女子専門学校教授。1949年、お茶の水女子大学専任講師、1953年、助教授。1962年、「中古私家集の研究」で東京教育大学文学博士。
栗谷川 平五郎(くりやがわ へいごろう、1908年10月4日… 栗谷川 平五郎(くりやがわ へいごろう、1908年10月4日 - 1993年2月20日)は、北海道名寄市出身のクロスカントリースキー、ノルディック複合選手。 戦前を代表する名選手の一人である。 旧制札幌第一中学校 → 札幌鉄道管理局(現・JR北海道鉄道事業本部) → 明治大学 → 札幌鉄道管理局 札幌一中から札幌鉄道管理局に入り、1928年の第6回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキーの個人30kmとリレーで優勝。その後明大に進み、1929年から31年までの全日本学生スキー選手権大会の個人18kmで3連覇した他、1930年の全日本スキー選手権大会のノルディック複合で優勝する。1932年レークプラシッドオリンピックでは、クロスカントリースキー個人長距離(18km)と個人耐久(50km)、ノルディック複合の3種目にエントリーする。
森 喜作(もり きさく、1908年〈明治41年〉10月4日 … 森 喜作(もり きさく、1908年〈明治41年〉10月4日 - 1977年〈昭和52年〉10月23日)は、群馬県桐生市出身の農学者(農学博士)。森式純粋培養菌種駒製造法の発明者で、現在の原木シイタケ栽培技術を確立した。森産業株式会社創業者。歴史学者の羽仁五郎は叔父。 1908年(明治41年)、群馬県桐生市の素封家・森家の次男として生まれる。桐生中学校、宇都宮高等農林学校を経て1935年(昭和10年)京都帝国大学農学部を卒業。 大学在学中に大分県を訪れた際、シイタケの発茸を祈る農夫の姿を見てシイタケ栽培の研究を決意(後述)、大学卒業の翌年に森食用菌蕈研究所を設立して研究を開始した。1942年(昭和17年)森式純粋培養菌種駒製造法を開発し、翌1943年(昭和18年)に特許を取得した。
中島 斌雄(なかじま たけお 1908年10月4日 - 19… 中島 斌雄(なかじま たけお 1908年10月4日 - 1988年3月4日)は、東京府東京市出身の俳人・国文学者。本名は武雄。旧号月士。 芝区(現港区)生。東京帝国大学文学部国文科大学院修了。近世文学、俳諧史を専攻。日本女子大学名誉教授。 旧制芝中学校在学時、同級生の漫画家・小川たけしが刊行した『虎落笛』という雑誌に投句している。後に俳句を小野蕪子に師事し「鶏頭陣」に所属。東大俳句会で高浜虚子の指導を受け「ホトトギス」「馬酔木」に投句。 一時中断を経て1946年「麦」を創刊。同誌に俳諧史研究からの理念をもとに現代俳句に関する評論を連載。句作においては知的な構成と叙情とを特徴とし、時に難解な表現に傾きつつも独自の道を辿った。
久保田 豊(くぼた ゆたか、1905年10月4日 ‐ 196… 久保田 豊(くぼた ゆたか、1905年10月4日 ‐ 1965年10月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。韮山村長(2期)。
石井 一郎(いしい いちろう、1905年10月4日 - 19… 石井 一郎(いしい いちろう、1905年10月4日 - 1980年6月18日)は、日本の経営者。日産化学工業社長を務めた。 熊本県玉名市出身。1929年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1950年4月に取締役に就任し、1951年5月に常務、1961年11月に副頭取を経て、1964年11月には日産化学工業社長に就任。1971年6月に会長を経て、1972年12月には取締役相談役に退いた。 1973年4月に藍綬褒章を受章。 1980年6月18日、心筋梗塞のために死去。。74歳没。
今泉省三(いまいずみ せいぞう、1905年10月4日 - 1… 今泉省三(いまいずみ せいぞう、1905年10月4日 - 1978年12月14日)は、日本の歴史家。 新潟県長岡市生まれ。1929年、明治大学政治経済科専門部卒業。長岡市役所に勤務し、厚生課長、秘書課長等を務める傍ら、長岡地方の郷土史研究を行い、『長岡の歴史』の執筆や資料集『越佐叢書』の編纂を行う。1955年には長岡市立互尊文庫館長となり、1965年退職。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
矢口 孝次郎(やぐち たかじろう、1903年10月4日 - … 矢口 孝次郎(やぐち たかじろう、1903年10月4日 - 1978年11月12日)は、日本の経済学者。関西大学教授、第22代関西大学学長、第4期・6期・7期・8期日本学術会議会員、文部省の学術奨励審議会専門委員等を歴任。 長野県松本市出身。旧制松本商業学校を経て、1927年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。1928年関西大学専任講師、助教授を経て1934年関西大学教授となった。1959年に関西大学第22代学長、1974年より大阪商業大学教授。神戸商業大学の宮下孝吉、大阪商科大学の五島茂とともに関西におけるイギリス経済史研究をリードした。学外においては、1937年社会経済史学会の評議員に選ばれ、 理事、 常務理事を歴任。 戦後、1950年には日本西洋史学会評議員を務めるなど学会の発展に尽くした。
池田 潔(いけだ きよし、1903年10月4日 - 1990… 池田 潔(いけだ きよし、1903年10月4日 - 1990年3月14日)は、日本のイギリス文学者、評論家、随筆家である。
呉 衡根(オ・ヒョングン、朝鮮語: 오형근/吳衡根、1903… 呉 衡根(オ・ヒョングン、朝鮮語: 오형근/吳衡根、1903年10月4日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の教員、大韓民国の政治家。甕津郡郡守、加平郡郡守、長湍郡郡守、第3代韓国国会議員を歴任した。 平安北道宣川郡出身。定州五山中学校、南京東明学院、日本大学法科卒。中学校教員を10数年間務め、新義州電気会社でも勤務した。宣川警察署保安係長を務めた時に越南し、加平郡で勤務した後、甕津郡守、加平郡守、長湍郡守を務めた。1954年の第3代総選挙では洪翼杓を抑えて当選し、自由党所属の国会議員を1期務めた。
河盛 好蔵(かわもり よしぞう、1902年10月4日 - 2… 河盛 好蔵(かわもり よしぞう、1902年10月4日 - 2000年3月27日)は、日本のフランス文学者、評論家、翻訳家。仏文学者としてはモラリストの著作を日本に紹介した。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 大阪府堺市出身。1920年に旧制大阪府立堺中学校から第三高等学校へ入学し、1923年に同校を卒業。京都帝国大学文学部仏文科で落合太郎・河野与一に師事。1926年、京都帝国大学仏文科を卒業して関西大学に赴任し、フランス語を教える。 1928年学校騒動で関西大学を辞職して渡仏し、ソルボンヌ大学に学ぶ。1930年に帰国。堺の生家でジャン・コクトー『山師トマ』を翻訳。 上京後、ファーブル『昆虫記』を三好達治と共訳。
飯塚 盈延(いいづか みつのぶ、1902年10月4日 - 1… 飯塚 盈延(いいづか みつのぶ、1902年10月4日 - 1965年9月4日)は、日本共産党党員で特別高等警察のスパイ。「スパイM」とも呼ばれる。変名は松村昇、峰原暁助、天野煕、高瀬正敬。愛媛県出身。 1902年に愛媛県周桑郡小松町(現西条市)に生まれ、1909年尋常小学校に入学。成績が良く天才と呼ばれた。米騒動などをきっかけに日本共産党最初の労働者党員になり、渡辺政之輔が率いていた東京合同組合に身を投じることで労働運動にかかわっていった。その後、若手の労働運動活動家として日本共産党(第二次)の派遣により、モスクワの東方勤労者共産大学(クートヴェ)に留学した(留学中の変名は「フョードロフ」)。しかし留学中共産党に幻滅し、帰国後に検挙され転向したうえで警察のスパイになったとされる。
北 通文(きた みちぶみ、1901年10月4日- 1987年… 北 通文(きた みちぶみ、1901年10月4日- 1987年4月23日)は、日本のドイツ文学者。 大分県生まれ。1926年東京帝国大学文学部独文科卒。旧制東京高等学校教授、戦後東京大学教養学部教授、1962年定年、早稲田大学商学部教授。1972年退職。
増田 甲子七(ますだ かねしち、1898年(明治31年)10… 増田 甲子七(ますだ かねしち、1898年(明治31年)10月4日 - 1985年(昭和60年)12月21日)は、昭和戦後期の政治家。吉田茂の側近として、運輸大臣、労働大臣、内閣官房長官、自由党幹事長などを歴任。
高木 松吉(たかぎ まつきち、1898年(明治31年)10月… 高木 松吉(たかぎ まつきち、1898年(明治31年)10月4日 - 1965年(昭和40年)12月9日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 福島県双葉郡広野村(現広野町)で生まれる。1922年(大正11年)中央大学法律科を卒業。弁護士となり、報知新聞法律相談所長に就任した。 1948年(昭和23年)、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で福島県第3区から民主自由党公認で出馬して当選。その後、第27回総選挙まで連続4回当選した。1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙では落選した。この間、運輸大臣秘書官、裁判官訴追委員会代理委員長、第3次吉田内閣・法務政務次官、衆議院行政監察特別委員長、日本民主党全国委員会副委員長、同代議士会副会長、日本交通公社法律顧問などを歴任した。
田中 斉(田中 齊、たなか ひとし、1897年10月4日 -… 田中 斉(田中 齊、たなか ひとし、1897年10月4日 - 1966年12月27日)は、昭和時代前期日本の政治家、実業家、経営学者。衆議院議員(当選1回)。旧姓・鈴木。 1897年(明治30年)、愛知県東春日井郡坂下村(現在の春日井市)で鈴木実太郎の長男として出生する。名古屋商業学校を経て、1920年(大正9年)に明治大学専門部商科を卒業。1923年(大正12年)、ジョンズ・ホプキンズ大学大学院修了。 帰国後は母校の明治大学で講師を経て商学部教授に就いていたが、1925年(大正14年)に田中仁三郎の長女・とみ子に入婿する。仁三郎の実父は新愛知新聞社を創業した大島宇吉であり、外戚として同紙の経済部長に迎えられた。
平井 清(ひらい きよし、1896年10月4日 - 1979… 平井 清(ひらい きよし、1896年10月4日 - 1979年1月16日)は、日本のキリスト教聖職者。日本福音ルーテル教会牧師。 久留米ルーテル教会伝道者平井輝熊の長男として、福岡県遠賀郡に生まれる。1911年4月博多ルーテル教会で山内量平より受洗。1916年福岡県立中学修猷館を経て、同年九州学院(現・九州学院中学校・高等学校)神学部に入学。在学中に渡米してレノア・リン・カレッジ、フィラデルフィア・ルーテル神学校、更にドイツに渡ってライプツィヒ大学神学部で学び、1927年帰国。 名古屋の千種教会牧師、目黒(都南)教会初代牧師を歴任。日本ルーテル神学専門学校(1964年日本ルーテル神学大学となり、1996年ルーテル学院大学と改称)教授も務めた。
蜂谷 輝雄(はちや てるお 1895年10月4日 - 197… 蜂谷 輝雄(はちや てるお 1895年10月4日 - 1979年7月2日)は、日本の外交官。自由インド仮政府初代公使や内閣総理大臣秘書官を務めた。
奥村 博史(おくむら ひろし、1889年(明治22年)10月… 奥村 博史(おくむら ひろし、1889年(明治22年)10月4日 - 1964年(昭和39年)2月18日)は、日本の洋画家、工芸家。妻は社会運動家の平塚らいてうである。 1889年(明治22年)、藤沢市に奥村市太郎の長男として生まれる。藤沢小学校、逗子開成中学校を卒業。 1909年(明治42年)、画家を志すことを父に伝えるも許されず、家出をして上京した。大下藤次郎主宰の日本水彩画研究所に入学。1911年(明治44年)に大下が亡くなると油絵に転向した。 1912年(明治45年)、巽画会に油絵『青いリンゴ』を出品した。 1914年(大正3年)に婦人運動家の平塚らいてうと恋愛結婚し話題となる。第一回二科展に油絵『灰色の海』を出品し入選した。
中原 悌二郎(なかはら ていじろう、1888年10月4日 -… 中原 悌二郎(なかはら ていじろう、1888年10月4日 - 1921年1月7日)は、大正期日本を代表する彫刻家の一人。 北海道釧路市の生まれ。1897年に母とともに旭川市に移り、母方の叔父の養子となる。1902年に忠別尋常高等小学校高等科(現・旭川市立日章小学校)を卒業し北海道庁立札幌中学校(現・北海道札幌南高等学校)に入学する。 医師を目指していたが、美術教師の林竹治郎に影響を受けて17歳の時に画家を志し、3年生のとき落第したのを機に札幌中を中退して上京、白馬会研究所・太平洋画会研究所洋画部で学び中村彝と親交を結ぶ。その後荻原碌山の感化によって彫刻に転じ、太平洋画会研究所彫塑部で新海竹太郎に師事。
大西 克禮(おおにし よしのり、1888年10月4日 - 1… 大西 克禮(おおにし よしのり、1888年10月4日 - 1959年2月6日)は、日本の美学者。東京帝国大学名誉教授。東京生まれ。 シラー、ヘーゲルなどの美学を学び、これを日本美に応用して『幽玄とあはれ』などの著作に結実させ、また京都帝国大学教授・深田康算によるカント『判断力批判』の未完訳を完結させた。比較美学の先駆者である。定年後は博多に隠棲し研究と著述に明け暮れた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
二見 直三(ふたみ なおぞう、1888年〈明治21年〉10月… 二見 直三(ふたみ なおぞう、1888年〈明治21年〉10月4日 - 1953年〈昭和28年〉12月30日)は、日本の内務・警察・台湾総督府官僚。官選滋賀県知事、盛岡市長。 岩手県盛岡市出身。二見直吉の長男として生まれる。盛岡中学、第八高等学校を卒業。1915年、東京帝国大学法科大学を卒業。1917年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年2月、内務省に入省し福井県属となる。 以後、福井県警視、山口県理事官、秋田県書記官・学務部長、大分県書記官・警察部長、奈良県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長、宮城県内務部長、北海道庁土木部長などを歴任。 1936年4月、滋賀県知事に就任。同年9月、台湾総督府警務局長に転じた。
春日 篤(かすが あつし、1887年10月4日 - 1976… 春日 篤(かすが あつし、1887年10月4日 - 1976年2月11日)日本の帝国海軍提督。最終階級は海軍少将。 戦艦「陸奥」艦長。重巡洋艦「鳥海」艦長。第1潜水戦隊司令官。佐世保防備戦隊司令官。グアムの戦いにおけるグアム島攻略部隊指揮官及びマリアナ方面防衛部隊第5根拠地隊司令官。第5特別根拠地隊司令官。 長野県下高井郡穂波村佐野(現在、山ノ内町)出身。長野県会議員(第1回県議選~第4回県議選)を務めた春日与市の長男の春日喜一郎の息子として生まれる。穂波小学校から旧制長野中学(長野県長野高等学校)に進学して卒業。1909年(明治42年)11月、海軍兵学校(37期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。
国枝 史郎(くにえだ しろう、1887年10月4日 – 19… 国枝 史郎(くにえだ しろう、1887年10月4日 – 1943年4月8日)は日本の小説家。怪奇・幻想・耽美的な伝奇小説の書き手。他に探偵小説、戯曲なども執筆。現在の長野県茅野市出身。 長野県諏訪郡宮川村(現在の茅野市)に、県庁・郡役所勤めの父の四男に生まれる。父の仕事の都合で小学校を点々とし、旧制長野中学に入学、剣道に熱中する。しかし蛮勇が元で放校処分を受け、海軍士官の兄により東京に引き取られ、郁文館中学校入学。 1908年中学卒業後、海軍兵学校を受験するが失敗し、早稲田大学英文科に入学。詩や演劇などの創作活動に熱中し、『文庫』『三田文学』『太陽』などに小説を寄稿、大学の先輩小川未明の主宰した青鳥会にも参加。
阿野 季忠(あの すえただ、1886年(明治19年)10月4… 阿野 季忠(あの すえただ、1886年(明治19年)10月4日 - 1944年(昭和19年)12月3日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員、陸軍主計少尉。旧公家の阿野家。 子爵・阿野実允の三男として生まれ、父の死去に伴い、1887年(明治20年)10月20日、子爵を襲爵した。 1912年(明治45年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1913年(大正2年)十五銀行に入行し、秘書業務部副長、監理課長、大阪支店長、取締役、副頭取などを歴任。その他、藤永田造船所取締役、第一信託取締役、園池製作所会長、蓬莱殖産専務取締役、帝国倉庫運輸監査役などを務めた。 1944年3月24日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動したが、出征し同年12月に戦死した。
中村 武羅夫(なかむら むらお、1886年(明治19年)10… 中村 武羅夫(なかむら むらお、1886年(明治19年)10月4日 - 1949年(昭和24年)5月13日)は、日本の編集者、小説家、評論家。 北海道岩見沢村生まれ。家は鳥取県からの開拓移民で旧士族の家系。岩見沢村立東小学校卒。岩見沢尋常高等小学校卒業後、進学を望むも家のりんご園経営が没落したため断念。小学校の代用教員を経て、博文館の「文章世界」で小説が次点佳作となったのをきっかけに1907年に上京。大町桂月、徳田秋声と親しくなり彼らの紹介で、小栗風葉門下に入る。 後に真山青果の紹介で『新潮』記者となり、明治末から大正期にかけて同誌の中心的編集者として活躍した。『中央公論』の滝田樗陰と並んで大正期の名編集者と称された。
小林 與次右ヱ門(与次右衛門、こばやし よじえもん、1886… 小林 與次右ヱ門(与次右衛門、こばやし よじえもん、1886年〈明治19年〉10月4日 - 1962年〈昭和37年〉11月9日)は、昭和時代の政治家。神奈川県高座郡相模原町長、相模原市長。 神奈川県高座郡上溝村(溝村、上溝町を経て、現相模原市中央区)に生まれる。上溝小学校高等科、津久井郡湘南村葉山島東林教校修業、溝村立上溝実業補習学校を経て、早稲田大学講義録中学科、文学科、法律科などに取り組む。家業の農業に従事する傍ら1911年(明治44年)から1916年(大正5年)まで鳩川農業学校教諭嘱託、助教諭を務め、鎌倉郡立農事講習所講師を歴任した。1932年(昭和7年)神奈川県会議員に当選し、2期務め、1941年(昭和16年)上溝町助役、同年相模原町会議員に転じ、1947年(昭和22年)には相模原町長に就任した。
江坂 徳蔵(えさか とくぞう、1885年〈明治18年〉10月… 江坂 徳蔵(えさか とくぞう、1885年〈明治18年〉10月4日 - 1964年〈昭和39年〉8月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍機関少将。新潟県高田市長。 新潟県中頸城郡高田町(のち高田市、現・上越市)生まれ。旧制高田中学(現・新潟県立高田高等学校)卒業後、海軍機関学校に入り、1911年(明治44年)卒業する(16期)。戦艦「山城」機関長などを歴任し、1927年(昭和2年)、海軍機関大佐に進級、第3戦隊、練習艦隊、第2艦隊、連合艦隊の各機関長を務め、1933年(昭和8年)海軍機関少将に進級、燃料廠平壌鉱業部長に就任し、1936年(昭和11年)3月、予備役となった。同年7月4日、郷里の高田市長に就任した。
鈴木 氏亨(すずき しこう、1885年〈明治18年〉10月4… 鈴木 氏亨(すずき しこう、1885年〈明治18年〉10月4日 – 1948年〈昭和23年〉1月15日)は、日本の新聞記者、編集者。菊池寛の秘書を務めたのち、1923年に創刊された月刊誌『文藝春秋』の編集に加わり、のちに文藝春秋社の専務取締役を務めた。 1885年(明治18年)10月4日、宮城県仙台市に生まれる。早稲田大学を卒業後、文芸誌『新小説』の記者として編集・執筆の道に入った。 1923年(大正12年)、菊池寛が創刊した『文藝春秋』に編集同人として参加。創刊号には「時代は移る」を寄稿している。以後、編集・経営の両面で同誌の発行体制を支え、専務取締役に就任した。 1948年(昭和23年)1月15日、長野県軽井沢の自宅にて死去。
辻 潤(つじ じゅん、1884年10月4日 - 1944年1… 辻 潤(つじ じゅん、1884年10月4日 - 1944年11月24日?)は、日本の翻訳家、思想家である。日本におけるダダイスムの中心的人物の一人とされる。画家、詩人の辻まことは長男である。
右近 福次郎(うこん ふくじろう、1883年〈明治16年〉1… 右近 福次郎(うこん ふくじろう、1883年〈明治16年〉10月4日 - 没年不明)は、日本の実業家、資産家。族籍は福井県平民。 福井県・右近権左衛門の男。右近和作の養弟。1901年、大阪府立北野中学校卒業。慶應義塾に学ぶ(1927年に特選)。1918年、分家する。 日本海上保険常務、同専務取締役、朝鮮電気社長、右近商事、元山水力電気、南朝鮮水力電気各取締役、日海興業、大阪酸水素、和歌山紡績各監査役等をつとめる。 実業界に入り日本海上保険、朝鮮電気、元山水力電気等の重役だった。兵庫県在籍で、住所は神戸葺合町、武庫郡住吉村室ノ内(現・神戸市東灘区住吉本町)。
原 志免太郎(はら しめたろう、1882年〈明治15年〉10… 原 志免太郎(はら しめたろう、1882年〈明治15年〉10月4日 - 1991年〈平成3年〉6月18日)は、日本の医師。100歳で『新しい灸学』を出版し、104歳まで聴診器を持ち、108歳で死去した時点では男性長寿日本一だった。 1882年10月4日に、原田種紀・トエの四男として生まれ、父は黒田藩に仕える武士であったが明治維新を体験、県庁の役人、しかし失業と不遇の中、これ以上「子」はいらぬと「締め」、志免太と名づけたが戸籍係の間違いか「郎」が足され「志免太郎」になった。 高等小学校卒業後、親元を離れ福岡市大浜三丁目(現・博多区大博町)の原三信の医学生となり、独学。(後に原一族の女婿となる。)検定資格を取り京都府立医専(現・京都府立医科大学)に入り、卒業。
江原 小弥太(えはら こやた、1882年10月4日〜1978… 江原 小弥太(えはら こやた、1882年10月4日〜1978年4月2日)は、作家。新潟県柏崎生まれ。1900年新潟県立高田師範学校卒。小学校教員ののち、1903年東京物理学校入学。キリスト教に接近し、江原書店を経営するなどしたのち、1921年『新約』を刊行しベストセラーとなる。以後戦時下まで作家として活動。
岡本 馬太郎(おかもと うまたろう、1881年〈明治14年〉… 岡本 馬太郎(おかもと うまたろう、1881年〈明治14年〉10月4日 - 1958年〈昭和33年〉4月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県風早郡横谷村(温泉郡河野村、北条町、北条市を経て現松山市横谷)出身。1901年愛媛県小学校教員養成所(現・愛媛大学教育学部)卒。小学校教諭、河野村長、愛媛県議、同議長、県農会長、同乾繭組合連合会長となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では愛媛1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。1958年死去。
上田 万平(うえだ まんぺい、1880年(明治13年)10月… 上田 万平(うえだ まんぺい、1880年(明治13年)10月4日 - 1935年(昭和10年)7月8日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。 熊本県天草郡高浜村(現天草市)に上田稲穂の長男として生まれ、上田松彦の養子となる。江戸時代中期から後期に同村の名主を務め、国学者や陶芸家として活動した上田宜珍は先祖にあたる。第五高等学校を卒業。1906年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、北海道庁事務官、香川県事務官・警察部長、農商務参事官、同書記官、静岡県内務部長、京都府内務部長、大阪府内務部長などを歴任。 1921年5月、岐阜県知事に就任。
高山 輝義(たかやま てるよし、1879年(明治12年)10… 高山 輝義(たかやま てるよし、1879年(明治12年)10月4日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。第16代若松市長。 福島県出身。会津中学(4回生)を経て陸軍士官学校を卒業(12期)。同期生に畑俊六、杉山元両元帥、小磯国昭らがいる。1901年(明治34年)6月、歩兵少尉任官。歩兵第65連隊中隊長、同連隊副官、近衛歩兵第2連隊大隊長などを経て、1928年(昭和3年)には歩兵第79連隊連隊長に就任し同職を3年勤めた。1931年(昭和6年)8月1日少将に進み、同月に予備役編入となる。1942年(昭和17年)には若松市長に就任し、戦前最後の市長となった。 1944年(昭和19年)、会津松平家当主・松平保男の急逝に際し、旧領代表として葬儀に参列したが、会津地方からは多数の参列者が物品を持参して上京した。
伊良子 清白(いらこ せいはく、1877年〈明治10年〉10… 伊良子 清白(いらこ せいはく、1877年〈明治10年〉10月4日 - 1946年〈昭和21年〉1月10日)は、日本の詩人。本名、暉造(てるぞう)。もともと筆名を「すずしろのや」と称し、後に清白と改めた。 医業のかたわら詩を書き、詩集『孔雀船』を出版し河井醉茗、横瀬夜雨と並ぶ文庫派の代表的詩人。 鳥取県八上郡曳田村大字曳田(八頭郡を経て、現在は鳥取市河原町曳田)に、伊良子政治とツネの長男として出生。父政治は医師で、郡家町大門の医師だった岡田道叔の次男だが、1875年(明治8年)7月に曳田村にいた伊良子春郊の長女つねと結婚し、伊良子の姓を名乗った。母つねは、清白が生まれて満1歳にもならない、1878年(明治11年)9月5日に死去した。
新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日… 新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日 - 1967年(昭和42年)8月17日)は、日本の言語学者、文献学者。京都大学教授・名誉教授で、ソシュールの言語学の受容やキリシタン語の資料研究などを行った日本人の草分けである。
富田 八郎(とみた はちろう、1876年10月4日 - 19… 富田 八郎(とみた はちろう、1876年10月4日 - 1947年11月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。東京専門学校で学ぶ。酒造業を営む。伊香郡議、同議長、滋賀県議、所得税調査委員、木之本町(現・長浜市)長、伊香相救社理事社長、木之本製糸、滋賀県農工銀行、滋賀県合同貯蓄銀行、江州日日新聞社各(株)取締役、江北銀行取締役頭取、滋賀県酒造組合連合会会長、全国酒造組合連合会評議員、近江信託(株)監査役となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において滋賀県全県区から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1930年の第17回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
佐藤 庄助(さとう しょうすけ、1876年(明治9年)10月… 佐藤 庄助(さとう しょうすけ、1876年(明治9年)10月4日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 水沢県栗原郡有馬村有壁(宮城県栗原郡萩野村、金成町を経て現栗原市金成有壁)で、旧有壁宿本陣の佐藤家に生まれた。札幌農学校を卒業し、さらに慶應義塾、養正塾、セントアンドリーチャーチ英語学校で学んだ。農業を営む。 1896年(明治29年)徴兵され陸軍騎兵少尉となり除隊。1903年(明治36年)9月、宮城県会議員に選出された。1904年(明治37年)6月に応召して県議を辞職し、満州軍に属して日露戦争に出征した。陸軍騎兵中尉に昇進して除隊。
松田 源治(まつだ げんじ、1875年〈明治8年〉10月4日… 松田 源治(まつだ げんじ、1875年〈明治8年〉10月4日 - 1936年〈昭和11年〉2月1日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選9回)。族籍は大分県平民。拓務大臣、文部大臣、衆議院副議長を務めた。 大分県宇佐郡柳ヶ浦村出身。松田録兵衛の二男。家は貧しく学資はなく、郷里で小学代用教員や電信技手をつとめた。1894年(明治27年)、上京した。苦学しながら、東京法学院(現:中央大学)や日本法律学校(現:日本大学)で学んだ。 法学博士、岡村輝彦の玄関番として住み込みをしながら1896年(明治29年)に、日本法律学校を卒業した。1897年(明治30年)、文官高等試験並びに判検事登用試験に合格。
留岡 菊子(とめおか きくこ、旧姓:寺尾(てらお)、1874… 留岡 菊子(とめおか きくこ、旧姓:寺尾(てらお)、1874年(明治7年)10月4日 - 1933年(昭和8年)4月19日)は留岡幸助の妻。社会福祉活動家。愛媛県喜多郡内子町出身[信頼性要検証]。 愛媛県喜多郡天神村(現在の内子町)に寺尾家の長女として誕生した。その後、設立したばかりの岡山県上房郡高梁町(現在の高梁市)にあった順正女学校(現在の岡山県立高梁高等学校)に学び、東京に出て巣鴨家庭学校の保母となる。1901年(明治34年)6月1日に留岡幸助と結婚した。菊子が26歳のときだった。 結婚した年の10月に菊子は慈善事業師範学校を開設して従事者の養成をはかるなど事業を拡大し、1906年7月には財団法人なった。
川口 虎雄(かわぐち とらお、1871年10月4日〈明治4年… 川口 虎雄(かわぐち とらお、1871年10月4日〈明治4年8月20日〉- 1944年〈昭和19年〉5月16日)は、日本の土木工学者・教育者。 福岡県上妻郡津江村(現・八女市津江)に生まれる。1890年福岡県立尋常中学修猷館、1892年第五高等中学校工科を経て、1895年帝国大学工科大学土木工学科を卒業する。 1895年熊本県技手、翌1896年技師となり、国の重要文化財に2004年に指定された旧郡築新地甲号樋門(郡築三番町樋門、熊本県八代市)などを設計している。1900年第五高等学校教授・工学部土木科主任に就任。1905年から2年間アメリカ、フランスに留学してコロンビア大学等で学び、1906年官制改革により第五高等学校工学部から改称された熊本高等工業学校の教授となる。
金田 平兵衛(かねだ へいべえ、1870年10月4日(明治3… 金田 平兵衛(かねだ へいべえ、1870年10月4日(明治3年9月10日)- 1938年(昭和13年)11月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 備後国御調郡宇津戸村(広島県御調郡宇津戸村、世羅郡甲山町を経て現世羅町)出身。1893年、東京法学院卒。農業を営み、宇津戸村長、広島県議、同参事会員、同郡部会副議長、尾道穀物、尾道鉄道、尾道銀行各(株)取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において広島10区から憲政会公認でで立候補して当選した。1924年の第15回衆議院議員総選挙でも再選した。衆議院議員を2期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1938年死去。
木村 栄(きむら ひさし、旧字体:榮、1870年10月4日〈… 木村 栄(きむら ひさし、旧字体:榮、1870年10月4日〈明治3年9月10日〉- 1943年〈昭和18年〉9月26日)は、日本の天文学者、理学博士。Z項(木村項)の発見者。恩賜賞 (日本学士院)、英国王立天文学会ゴールドメダル受賞者。 石川県石川郡野村字泉野(現・石川県金沢市泉野町)出身。幼い頃に漢学塾を経営する親戚の木村民衛の養子となり、上山小三郎から数学を学ぶ。この時の学友に西田幾多郎がいる。 幼少期より優秀であった木村は、1880年(明治13年)に県立の石川県専門学校に一番で入学し(但し同校開校は1881年)、1885年に赴任した北条時敬に学んで数学に目覚め、1887年に同校が官立の第四高等中学校に転換すると飛び級で同校本科第二部(理科・工科)に進み、今川覚神より天文学を学んで、1889年に首席で卒業した。
金子 有道(かねこ ありみち、1869年10月4日(明治2年… 金子 有道(かねこ ありみち、1869年10月4日(明治2年8月29日)- 1938年(昭和13年)3月18日)は、明治後期から昭和初期の政治家、歌人、神職、華族。貴族院男爵議員。旧名・健麿。 石見国安濃郡川合村(現島根県大田市川合町川合)で物部神社社家・金子有卿の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1920年(大正9年)8月30日、男爵を襲爵した。 皇典講究所で学び、1896年(明治29年)物部神社禰宜に就任。1916年(大正5年)御歌所編纂部に嘱託として加わり、『明治天皇御集』『昭憲皇太后御集』の編纂に従事した。その他、久邇宮家御用掛、大礼使典儀官、御歌会始奉行、同頌講、御歌所参候などを務めた。
田島 錦治(たじま きんじ、慶応3年9月7日(1867年10… 田島 錦治(たじま きんじ、慶応3年9月7日(1867年10月4日) - 昭和9年(1934年)6月28日)は、日本の経済学者。号は「赤城」。京都帝国大学初代経済学部学部長。立命館大学第2代学監。同大学第3代学長。財団法人立命館初代協議員。大日本武徳会弓道範士。日本漕艇協会第三代会長。関西漕艇協会初代会長。帝国学士院会員。 江戸・牛込赤城元町(現・東京都新宿区赤城元町)に生まれる。旧制一高から帝国大学法科大学政治学科に進学し、経済学者・社会政策学者で東大七博士の一人に数えられた金井延の指導を受け、欧米留学も経験した。 帰国後は京都帝国大学法科大学にて「経済理論」、「財政学」の講義を担当。京大法科から経済学部が独立したのを機に、1919年(大正8年)京都帝国大学初代経済学部長に就任。