木原弘二(きはら ひろじ、1929年2月5日- )は、日本の… 木原弘二(きはら ひろじ、1929年2月5日- )は、日本の生化学者、慶応義塾大学名誉教授。 京都府出身。1951年大阪大学理学部化学科卒、医学博士。大阪市立大学理工学部講師、1963年慶應義塾大学医学部助教授、教授となる。95年定年、名誉教授。
2月5日生まれ:365人
木原弘二(きはら ひろじ、1929年2月5日- )は、日本の… 木原弘二(きはら ひろじ、1929年2月5日- )は、日本の生化学者、慶応義塾大学名誉教授。 京都府出身。1951年大阪大学理学部化学科卒、医学博士。大阪市立大学理工学部講師、1963年慶應義塾大学医学部助教授、教授となる。95年定年、名誉教授。
近藤 公夫(こんどう きみお、1929年2月5日 - 201… 近藤 公夫(こんどう きみお、1929年2月5日 - 2016年9月25日)は、日本の造園家・造園研究者・環境デザイナー。奈良女子大学名誉教授。農学博士。 特別史跡五稜郭跡保存整備委員会委員長、神奈備の郷・川づくり整備検討委員会委員、奈良県古都風致審議会会長、神戸市公園緑地審議会会長を務める。 「都市公園緑地の徒歩誘致圏に関する研究」で、昭和47年度日本造園学会賞論文調査部門受賞。1990年第12回日本公園緑地協会北村賞受賞。2001年、日本造園学会上原敬二賞受賞。 代表作品に、須磨離宮公園整形式庭園部分基本計画(1957年)、白川公園 (名古屋市)計画懸賞公募一等当選案(1958年)、香里団地計画における緑地の計画など。
長谷川 和夫(はせがわ かずお、1929年2月5日 - 20… 長谷川 和夫(はせがわ かずお、1929年2月5日 - 2021年11月13日)は、日本の医学者・精神科医。認知症介護研究・研修東京センター名誉センター長、聖マリアンナ医科大学名誉教授。専門は老年精神医学・認知症。認知症医療の第一人者と称された。 愛知県東春日井郡牛山村(現・春日井市牛山町)で銀行員の子として生まれる。18歳ころにキリスト教徒となる。1953年に東京慈恵会医科大学(慈恵医大)を卒業する。IBC(基督教事業連合委員会)のキリスト教振興事業のひとつである留学生派遣に選ばれて1956年から2年間米国へ留学し、米国で最古かつ最大の精神病院聖エリザベス病院とジョンズ・ホプキンズ病院で研修生として精神医学と脳波学を学ぶ。
勝田 吉太郎(かつだ きちたろう、1928年2月5日 - 2… 勝田 吉太郎(かつだ きちたろう、1928年2月5日 - 2019年7月22日)は、日本の政治学者。京都大学名誉教授、奈良県立大学名誉教授、鈴鹿国際大学名誉学長。専門はロシア政治思想史、ロシア精神史、アナーキズム。法学博士(京都大学)。 愛知県名古屋市生まれ。刑法学の瀧川幸辰に師事した(政治思想史講座の前任は恒藤恭)。 1944年名古屋市立名古屋商業高等学校卒業、1947年大阪外事専門学校卒業。1951年京都大学法学部卒業、同助手。1953年京都大学法学部講師、1954年助教授。1962年3月、京都大学にて「近代ロシヤ政治思想史 西欧主義とスラブ主義」で法学博士の学位を取得。1964年7月教授、1962年コロンビア大学ロシア研究所客員教授、1977年北海道大学スラブ研究センター兼任教授、1981年金沢工業大学工学部客員教授。
土井 茂(どい しげる、1928年2月5日 - 2013年5… 土井 茂(どい しげる、1928年2月5日 - 2013年5月29日 )は、日本の映画監督、テレビドラマ演出家である。広島県府中市府中町出身。 第六高等学校を経て1951年、京都大学経済学部卒業。京都大学に入学後、映画部に所属する。同部員の同僚に映画監督となった松尾昭典と太田昭和がいた。映画好きが高じ、大映京都撮影所の助監督募集に合格し入社。助監督として溝口健二監督の『新・平家物語』(1955年)や木村恵吾監督の『初春狸御殿』(1959年)などの作品に参加。さらに監督として2本の映画に参加するが、映画の衰退でテレビ映画の演出家に転じる。以降、『東京警備指令 ザ・ガードマン』(1965年 - 1971年)、『赤い疑惑』(1975年 - 1976年)、『赤い衝撃』(1976年)、『夜明けの刑事』(1976年)、『噂の刑事トミーとマツ』(1979年 - 1981年)、『少女に何が起ったか』(1985年)など、大映テレビの名作のほとんどを手がけた。
碓田 のぼる(うすだ のぼる、1928年2月5日 - )は、… 碓田 のぼる(うすだ のぼる、1928年2月5日 - )は、歌人、教育運動家。長野県生まれ。本名・登(教育関係の著作には本名を用いる)。 17歳で国鉄長野工場の見習工となり、夜間中学を経て東京物理学校(現・東京理科大学)を卒業。高校教諭を経て、全国私教連委員長、全教副議長などを歴任。渡辺順三に師事。新日本歌人協会全国幹事、日本民主主義文学会員、国際啄木学会会員。歌集『花どき』で多喜二・百合子賞受賞。左翼的な立場から短歌、石川啄木についての文芸評論を行う。 日本共産党の党員でもあり、1992年・1995年の参院選に比例区から出馬した。
暉峻 淑子(てるおか いつこ、1928年2月5日 - )は、… 暉峻 淑子(てるおか いつこ、1928年2月5日 - )は、日本の経済学者、評論家。埼玉大学名誉教授。夫は農業経済学者の暉峻衆三。長男は映画評論家の暉峻創三。弟は音楽プロデューサーの栗山章。 高分子化学の権威であり、九州大学名誉教授となる栗山捨三の三女として大阪府に生まれる。福岡県福岡高等女学校を経て、日本女子大学文学部卒業後、東京大学の東畑精一研究室に勤務しつつ法政大学大学院社会科学研究科経済学専攻に学び、同博士課程満期退学。1955年、東畑精一研究室で知り合った暉峻衆三と結婚。1991年「豊かさとは何か」で経済学博士の学位を取得。鶴見女子大学助教授、教授、1977年埼玉大学教授、1991年定年退官、1993年教育学部名誉教授、日本女子大学教授、1998年退職。
結城 昌治(ゆうき しょうじ、1927年2月5日 - 199… 結城 昌治(ゆうき しょうじ、1927年2月5日 - 1996年1月24日)は、日本の小説家・推理作家。本名:田村 幸雄。都筑道夫の命名によるこの筆名は、本来「ゆうき・まさはる」と読ませたが、しょうじと誤読されることが多いため、そのまましょうじとなった。 まだ日本にハードボイルド小説というものが浸透していなかった時期にハードボイルドを書いたことから「ハードボイルド小説の先駆者」といわれる。生島治郎の筆名の名付親でもある。ユーモアミステリも多く、この分野においても天藤真を奮起させるなど、先覚の位置を占める。 1927年、東京市品川区生まれ。1939年、戸越小学校卒業。旧制中学受験に失敗して1年浪人する。
川浦 康次(かわうら やすじ、1927年2月5日 - 197… 川浦 康次(かわうら やすじ、1927年2月5日 - 1970年11月11日)は、日本経済史家。 愛知県一宮市出身。問屋の家に育つ。愛知県立商業学校を経て、1950年大阪商科大学高等商業部卒業。1953年名古屋大学経済学部経済学科卒業。1958年同大学大学院退学。学部・大学院で塩澤君夫の指導を受け、日本経済史を専攻。1958年名城大学法商学部講師、1959年助教授、1964年教授、1966年同大学大学院教授。1966年「幕藩体制解体期の経済構造」で経済学博士(名古屋大学)。1970年11月11日、持病のため急逝、享年43歳。 主に幕末の日本の経済体制を研究した。『寄生地主制論』(塩沢君夫共著、御茶の水書房、1957年)は大塚久雄が提起した「局地的市場圏」や「蓄積基盤の移行」などを初めて日本史の分析に取り入れ、幕末における経済発展の性格や尾西綿織物業の経営形態などをめぐって論議を呼び起こした。
堀 博俊(ほり ひろとし、1926年2月5日 - 没年不詳)… 堀 博俊(ほり ひろとし、1926年2月5日 - 没年不詳)は、福岡県出身のラグビー選手。主なポジションはスタンドオフ(SO)。
福井 高行(ふくい たかゆき、1926年2月5日 - 201… 福井 高行(ふくい たかゆき、1926年2月5日 - 2017年1月30日)は、日本の経営者。カルピス食品工業(現在のアサヒ飲料)社長を務めた。奈良県出身。 1952年に東京農業大学農芸化学科を卒業し、同年にカルピス食品工業に入社した。1973年2月に取締役に就任し、1979年10月に常務を経て、1985年3月に社長に就任。1988年11月に顧問に就任。 2017年1月30日消化管出血のために死去。90歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
星甲 良夫(ほしかぶと よしお、1926年2月5日 - 20… 星甲 良夫(ほしかぶと よしお、1926年2月5日 - 2000年12月5日)は、千葉県東葛飾郡浦安町(現・浦安市当代島)出身で、井筒部屋(一時期、双葉山道場預かり)に所属した元大相撲力士。本名は、小川 良夫(おがわ よしお)。現役時代の体格は171cm、107kg。最高位は西前頭4枚目(1957年5月場所)。得意手は右四つ、突っ張り、寄り、叩き、蹴手繰り。 体が小さく、身長も体重も足らずなかなか新弟子検査に合格できなかったが、1942年(昭和17年)5月場所で初土俵を踏んだ。そのため出世もゆっくりで、1955年(昭和30年)5月場所に於いて新入幕を果たした時には、既に29歳となっていた。 幕内では地味ではあったが、当時の幕内力士では随一の稽古で鍛えたためか、「努力の人」と讃えられた。
外西 寿彦(ほかにし ひさひこ、1925年2月5日-1993… 外西 寿彦(ほかにし ひさひこ、1925年2月5日-1993年7月21日)は、日本の産婦人科医、産婦人科学者。周産期医療、母子救急医療の権威。鹿児島県の周産期医療・新生児医療の改善と発展に尽力した。鹿児島市立病院第5代院長。 宮崎県出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1951年に旧制県立鹿児島医学専門学校(後の旧制県立鹿児島医科大学、現・鹿児島大学医学部)卒業。1958年4月、旧制県立鹿児島医科大学より医学博士号授与。鹿児島大学産婦人科(町野碩夫教授)に入局し、1958年1月より助手、1961年5月より講師。1966年2月に鹿児島大学助教授となるが、鹿児島市立病院に招かれて7月に退職。
沖 種郎(おき たねお、1925年2月5日 - 2005年)… 沖 種郎(おき たねお、1925年2月5日 - 2005年)は、日本の建築家、都市計画家。通称「オキタネ」。 1925年(大正15年)、京都府峰山町に生まれる。1945年(昭和20年)第六高等学校 (旧制)を卒業後、東京大学に入学。1951年(昭和26年)同大工学部建築学科卒業後、大学院修士課程に進学。丹下健三計画研究室に所属し学ぶかたわら、広島平和記念会館本館、神奈川県立図書館・音楽ホール計画、外務省庁舎計画案、広島子供の家、愛知県民館を担当する。1954年(昭和29年)修士課程修了後、丹下健三のもとで清水市庁舎、図書印刷・原町工場(沼津市)、香川県庁舎を担当するほか、白百合学園(仙台市)や旭洋印刷社屋などを手がける。
山本 進一(やまもと しんいち、1925年(大正14年)2月… 山本 進一(やまもと しんいち、1925年(大正14年)2月5日 - 2013年(平成25年)1月25日)は、日本の法学者・裁判官・弁護士だった人物。法学博士(明治大学)。明治大学学長。専門は民法全般。 東京出身。1942年、慶應義塾商業学校卒業。1944年、明治大学専門部法科卒業。赤紙で召集を受ける。1945年、復員。1947年、高等試験司法科試験合格。1949年、明治大学法学部卒業。東京地方裁判所判事補に任官。1952年、東京簡易裁判所判事を併任。1953年、退官。明治大学法学部助教授(民法担当)。弁護士登録。1954年、明治大学法学部教授。1962年、博士(法学)。論文の題は「無効行為転換の理論」。
藤村 信(ふじむら しん、1924年2月5日 - 2006年… 藤村 信(ふじむら しん、1924年2月5日 - 2006年8月12日、男性)は、日本人ジャーナリストである。本名、熊田 亨(くまた とおる)。 藤村信(本名:熊田亨)のジャーナリズムとしての視点は、処女作『砂漠に乾いたもの-中東1944-58』の時から常に視座が一貫し、いささかも変えることが無かった。いつも支配される立場からの冷静客観的な眼で分析して、ファクト・ファインディングの姿勢で、遺著『歴史の地殻変動をみすえて』に至っている。それは彼の生まれながらのユマニスムの体質のしからしむる由縁である。 ナセルの1956年のスエズ運河エジプト国有化宣言の時も、解放なったスエズ運河一帯を旅して取材し、ポートサイドの国有公社となった古風な建物の円屋根から、英国旗が降ろされたあとに翻った“半月と三つ星”のエジプト国旗に国民が湧いた風景を報道した時に始まって以来、次いで冷戦下のヨーロッパから激動の時代を雑誌『世界』に「パリ通信 藤村信」として送り続けた。
内田 良平(うちだ りょうへい、1924年2月5日 - 19… 内田 良平(うちだ りょうへい、1924年2月5日 - 1984年6月15日)は、日本の俳優、詩人。千葉県銚子市出身。 法政大学予科在学中の内田は、戦況が悪化すると「いずれ自分も特攻隊員に採られて死ぬのだから、学校に居ても仕方が無い」と思い、帰郷後にブラブラしていると家のすぐ近くにある銚子市立飯沼小学校から「教師が不足しているのでどうだ?」と声が掛かり、1945年夏から1946年の夏までの1年間代用教員を務めた。法政大学経済学部在学中の1951年、新協劇団に入って演劇を始める。1951年に杉浦直樹・小松方正らと劇団「新演劇研究所」を結成して活動するが、ほどなく解散した。東映での映画出演を経て1953年に友人から小林正樹を紹介され、その伝手で松竹映画にも出演。
榎本 茂(えのもと しげる、1923年2月5日 - 生死不明… 榎本 茂(えのもと しげる、1923年2月5日 - 生死不明)は、東京都出身の元プロ野球選手。 京王商業から東京鉄道局を経て、1950年に創設された国鉄スワローズへ参加。 同年3月10日の記念すべき開幕戦では6番ライトとして先発出場するも、その後は出場機会に恵まれず同年限りで引退した。
蓮井 良憲(はすい よしのり、1923年(大正12年)2月5… 蓮井 良憲(はすい よしのり、1923年(大正12年)2月5日 - 2019年(令和元年)9月26日[要出典])は、日本の法学者。専門は商法。九州大学教授、福岡大学教授を歴任。香川県出身。 九州地方鉱業協議会委員、福岡県水洗炭業審議会委員、福岡県消費生活審議会会長等を歴任。
中森 義宗(なかもり よしむね、1923年2月5日 - 没年… 中森 義宗(なかもり よしむね、1923年2月5日 - 没年不明)は、日本の美術史家、翻訳家。 東京生まれ。1946年中央大学経済学部卒、1950年東京大学文学部美術史学科卒。1955年同・大学院修了。1952年中央大学附属図書館司書、1965年武蔵野美術大学講師、1970年成城大学短期大学部助教授、1978年千葉大学教養部教授、1986年定年退官、多摩美術大学教授。 1976年、『ホーガス ヨーロッパ美術に占める位置』で日本翻訳出版文化賞受賞。
杉山 忠一(すぎやま ちゅういち、1923年(大正12年)2… 杉山 忠一(すぎやま ちゅういち、1923年(大正12年)2月5日 - 2014年(平成26年)3月30日)は、日本の英語学者、東京大学名誉教授。位階は従四位。 東京出身。1948年東京帝国大学文学部英文科卒業。第一水産講習所講師、東京大学教養学部助教授を経て、1969年教授に就任。1983年定年退官し、名誉教授号を授与。同年、電気通信大学教授に就任。他、帝京大学文学部英文科教授等を歴任。1999年勲三等旭日中綬章受勲。 2014年3月30日午前11時25分、誤嚥性肺炎のため東京都港区の病院で死去。91歳没。歿日付で従四位。
清崎 敏郎(きよさき としお、1922年2月5日 - 199… 清崎 敏郎(きよさき としお、1922年2月5日 - 1999年5月12日)は、日本の俳人・国文学者。本名は星野敏郎。 東京市赤坂区(現・港区赤坂)に生まれる。東京府立第一中学校(現・日比谷高等学校)在学中[要出典]に結核性股関節炎にかかり、療養生活を送る中で句作を始めた。1940年、富安風生が選者をしていた読売俳壇の選に入り、これをきっかけに風生の主宰誌「若葉」に投句、風生に師事する。1942年、慶應義塾大学文学部に入学、折口信夫、池田弥三郎のもとで民俗学を学ぶ。 1943年、父の知人であった高浜年尾に俳句の指導を受け、年尾を介して高浜虚子に会う。同年「ホトトギス」に投句し初入選。1946年、楠本憲吉、大島民郎らとともに慶大俳句研究会設立、会誌として「慶大俳句」を発刊。
古賀 愛人(こが あいと、1922年(大正11年)2月5日 … 古賀 愛人(こが あいと、1922年(大正11年)2月5日 - 2009年(平成21年)12月10日)は、元テレビ西日本(TNC)社長、日本民間放送連盟副会長・顧問。 福岡県出身。明治大学政治経済学部に入学後、柔道部に所属し、大学には柔道界の名人・三船久蔵の自宅から通学した。学徒動員で南方戦線に従軍し、九死に一生を得て帰還し、復学。占領軍の指示で柔剣道が禁止されていた中、柔道部の復活に中心的な役割を果し、明柔クラブ監督なども務めた。 1949年に明大を卒業し、西日本新聞社に入社。東京政治部で活躍し、内閣記者会の幹事などを務め、大平正芳、佐藤栄作など、多くの大物政治家と交流をもち、一時期は政界進出が検討された。
菅原 努(すがはら つとむ、1921年2月5日 - 2010… 菅原 努(すがはら つとむ、1921年2月5日 - 2010年10月1日)は、日本の医学者・医師。京都大学名誉教授。専門は放射線基礎医学。 旧制浪速高等学校を経て、1944年京都帝国大学医学部卒業。1950年大阪大学理学部卒業。三重大学医学部助教授、1960年国立遺伝学研究所変異遺伝部副部長、1961年放射線医学総合研究所室長、京都大学医学部放射能基礎医学教室初代教授。同放射線生物研究センター長、医学部長、1985年定年退官、名誉教授、国立京都病院院長。財団法人慢性疾患・リハビリテイション研究振興財団理事長。 1995年、勲二等瑞宝章を受章。2010年10月1日、慢性腎不全のため死去。
金 鍾吉(キム・ジョンギル、朝鮮語: 김종길、1921年2月… 金 鍾吉(キム・ジョンギル、朝鮮語: 김종길、1921年2月5日 - 1991年1月31日)は、大韓民国の官僚、政治家。第5代韓国国会議員。 慶南南海出身。中央大学法科3年卒業。総務処事務官、国務院事務処書記官・人事課長・総務課長、重機工業協同組合理事などを務めた。崔致煥の公民権制限による1961年の第5代総選挙の補欠選挙で当選し、国会議員を務めた。 第5代議員当選後すぐに発生した5・16軍事クーデターにより3日間しか在籍できず、議員宣誓もできなかった。
小野寺 公二(おのでら こうじ、1920年2月5日 - 19… 小野寺 公二(おのでら こうじ、1920年2月5日 - 1998年10月8日)は、日本の歴史小説作家。別筆名に田原 耕二(たはら こうじ)。 青森県生まれ。後に父の郷里である岩手県胆沢郡胆沢町(現在の奥州市)へ転居し、旧制一関中学校(現岩手県立一関第一高等学校)を卒業。東京の中央大学経済学部へ進学し、卒業した後に病気療養のため帰郷する。 1954年に「奥羽のキリスト」でデビューするが、以後しばらくは「田原耕二」名義で懸賞歌謡の作詞を中心に活動し、1964年に「岩手県民の歌」(作曲:中田喜直)が入選した。 1970年代以降は主に歴史小説を手掛け、東北地方を舞台にしたものや算学を題材にしたものに特色がある。
大河原 良雄(おおかわら よしお、1919年〈大正8年〉2月… 大河原 良雄(おおかわら よしお、1919年〈大正8年〉2月5日 - 2018年〈平成30年〉3月29日)は、日本の外交官、外務省官僚。駐米大使、駐豪大使、世界平和研究所理事長などの重職を歴任した。位階は正三位。勲一等瑞宝章、紺綬褒章受章者。 群馬県安中市中宿に生まれる。埼玉県立浦和中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)、台中州立台中第二中学校[要出典]、第一高等学校を経て、1942年(昭和17年)東京帝国大学法学部卒業。 1942年(昭和17年)に外務省入省。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。第8根拠地隊司令部付兼ラバウル民政部庶務主任となる。
長瀬 彰造(ながせ しょうぞう、1918年2月5日 - 20… 長瀬 彰造(ながせ しょうぞう、1918年2月5日 - 2006年5月31日)は、日本の経営者。長瀬産業社長、会長を務めた。 兵庫県出身。1942年に関西学院大学商経科を卒業。 内外製鋼所での勤務を経て、1944年に長瀬産業に転じ、1947年に取締役に就任し、1956年に常務、1962年に専務を経て、1968年に副社長に就任し、1982年1月には社長に就任。1987年6月に会長に就任し、1999年6月には相談役に就任。 1983年4月に藍綬褒章を受章し、1989年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2006年5月31日心不全のために死去。88歳没。
広瀬 駿二(ひろせ しゅんじ、1918年 <大正7年> 2月… 広瀬 駿二(ひろせ しゅんじ、1918年 <大正7年> 2月5日 - 2006年 <平成18年> 3月1日)は、日本の大蔵官僚。位階は正四位。 山梨県出身。1941年10月 高等試験行政科を合格。同年12月に東京帝国大学法学部政治学科卒業。1942年1月 大蔵省入省。預金部兼銀行局属。1945年4月 福島税務署長。課長補佐、課長時代には主計畑を歩み、国税庁長官官房総務課長などを経て、1963年5月20日 関東信越国税局長。1965年6月18日 理財局次長。1967年8月4日 大臣官房財務調査官(大臣官房担当)。1967年11月7日 証券局長。1969年5月10日 退官。同年5月 関西経済連合会常務理事(〜1971年)。
上杉 隆憲(うえすぎ たかのり、1917年〈大正6年〉2月5… 上杉 隆憲(うえすぎ たかのり、1917年〈大正6年〉2月5日 - 1995年〈平成7年〉10月30日)は、米沢上杉家15代当主。 上杉憲章の三男として東京で生まれる。長兄・定憲と次兄・資憲が早世したため、父の跡を継ぎ米沢上杉家の当主となる。 学習院で初等科から高等科まで学び、中等科時代には海軍大将男爵山下源太郎宅に寄宿し、教育を受けた。 1941年(昭和16年)東京帝国大学文学部教育学科を卒業。文部省に入省。戦時中には山形師範学校助教授となり、一時県教育庁社会教育課に籍をおいたこともあった。 戦後、東京に戻り、児童福祉司、東京都中央児童相談所長、石神井学園長、東京都児童会館長、東京文化会館長など子供の教育施設一筋に歩んだ。
飯田 景応(いいだ けいおう、1916年2月5日 - 196… 飯田 景応(いいだ けいおう、1916年2月5日 - 1967年1月3日)は、石川県金沢市出身の作曲家・編曲家。本名:丹羽景應。別名には、木村武彦、下村信夫、相馬喜久雄、田中晴夫、藤井すすむ などがある。また、「景応」は「かげたか」とも読む。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
多 久興(おおの ひさおき、1915年(大正4年)2月5日 … 多 久興(おおの ひさおき、1915年(大正4年)2月5日 - 1979年(昭和54年)11月17日)は、日本のヴァイオリニスト。元東京芸術大学音楽学部教授。徳島文理大学客員教授。 東京音楽学校卒業。東京都出身。父はヴァイオリニストの多久寅。 東京都出身。東京音楽学校の教授でヴァイオリニストである多久寅の子として生まれ、弟の多久尚もヴァイオリニストである。 1937年(昭和12年)に東京音楽学校を卒業し、1938年(昭和13年)の第6回日本音楽コンクールで第3位となる。 また東京藝術大学で教鞭を執り、同大学の教授を務めたほか、徳島文理大学の客員教授も務めた。 1979年(昭和54年)11月17日、死去。
米山 寅太郎(よねやま とらたろう、1914年2月5日 - … 米山 寅太郎(よねやま とらたろう、1914年2月5日 - 2007年4月19日)は、日本の漢字学者。 長野県出身。東京文理科大学を卒業後、同校助手となる。1949年諸橋轍次編の『大漢和辞典』で、用例を充実する仕事を引き受ける。1960年の完成後、1966年から修訂作業を始め、1986年に完成させた。静嘉堂文庫長、静嘉堂文庫美術館長も務めた。 1986年に勲三等瑞宝章を受章した。2007年4月19日、呼吸不全のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
三浦 靱郎(みうら ゆきお、1912年2月5日 - 1997… 三浦 靱郎(みうら ゆきお、1912年2月5日 - 1997年5月20日)は、日本のドイツ文学者。 東京出身。1934年東京帝国大学文学部独文科卒。1937年第七高等学校教授、陸軍教授、第五高等学校教授、法政大学教授、東京学芸大学教授。1975年日本工業大学教授、1978年学長。1987年勲二等瑞宝章受勲。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
古沢 岩美(ふるさわ いわみ、1912年(明治45年)2月5… 古沢 岩美(ふるさわ いわみ、1912年(明治45年)2月5日 - 2000年(平成12年)4月15日)は、日本の洋画家、前衛美術家。 1920年代から1940年代にかけて、池袋周辺に集う芸術家たちのアトリエ村「池袋モンパルナス」に参加した一人として知られている。 佐賀県三養基郡旭村(現・鳥栖市)出身。1927年に久留米商業学校中退。当時は日本統治下だった朝鮮半島の大邱に渡った後、翌1928年に画家を志して上京。岡田三郎助に師事した。豊島区で画家が集まっていた長崎アトリエ村に移って交流を広げるとともに、前衛美術を志向するようになった。1938年に「創紀美術協会」、1939年には「美術文化協会」創立に参加。
中村 光夫(なかむら みつお、1911年(明治44年)2月5… 中村 光夫(なかむら みつお、1911年(明治44年)2月5日 - 1988年(昭和63年)7月12日)は、文芸評論家、作家。本名、木庭一郎(こば いちろう)。第6代日本ペンクラブ会長、文化功労者、日本芸術院会員。私小説批判で有名。
根来 健一郎(ねごろ けんいちろう、1910年(明治43年)… 根来 健一郎(ねごろ けんいちろう、1910年(明治43年)2月5日 - 2001年(平成13年)7月17日)は、昭和から平成時代の陸水学者、藻類学者。特に珪藻学の分野における貢献で知られる。 和歌山県那賀郡池田村(現・紀の川市打田)の豪農の長男として生まれる。和歌山県立和歌山中学(現・ 和歌山県立桐蔭高等学校)、東京高等師範学校理科三部を経て、東京文理科大学生物学科植物学専攻に入学する。1934年(昭和9年)同大学を卒業と同時に母校の助手となり、1944年(昭和19年)東京高等師範学校教授、1946年(昭和21年)東京文理科大学助教授となる。その後、1948年(昭和23年)11月に大津臨湖実験所(現・京都大学生態学研究センター)に異動する。
大塚 喜一郎(おおつか きいちろう、1910年(明治43年)… 大塚 喜一郎(おおつか きいちろう、1910年(明治43年)2月5日 - 1988年(昭和63年)8月26日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事、学校法人中央大学理事長。京都府舞鶴市出身。 三高に入ったが、寮に門限をつけることに反対して、ストライキ実行委員長をしてストライキに入り、警察に拘束されて放校処分となり、1934年(昭和9年)に中央大学法科を卒業。1935年(昭和10年)9月に高等文官試験司法科に合格し、同年12月に弁護士登録。 堀江専一郎法律事務所に勤務後、1939年(昭和14年)に大塚法律事務所を開設する。1959年(昭和34年)4月に日弁連事務総長、1961年(昭和36年)3月に法学博士、司法研修所教官、1970年(昭和45年)4月に第一東京弁護士会会長に就任。
村井 順(むらい じゅん、1909年〈明治42年〉2月5日 … 村井 順(むらい じゅん、1909年〈明治42年〉2月5日 - 1988年〈昭和63年〉1月12日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。初代京都府警本部長、初代内閣総理大臣官房調査室長(現・内閣情報調査室)、綜合警備保障の創業者で、社長・会長。 東京出身。東京高等学校 (旧制)を経て東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1935年(昭和10年)内務省に入省し、1939年(昭和14年)に福岡県警防課長から、汪兆銘の南京政府を実質的に支配していた上海の興亜院に転出し、中国大陸における特高警察活動や、思想文化統制に従事。 敗戦後は、青森県警察部長を務めている最中に吉田茂に才気を見出され、第1次吉田内閣で内閣総理大臣秘書官に抜擢されるも、のちに内務省に戻り、廃止された特高警察の代わりとして設立された、内務省警保局公安一課(公安警察)の課長として、情報関係業務に従事。
松宮 誠一(まつみや せいいち、1909年2月5日 - 19… 松宮 誠一(まつみや せいいち、1909年2月5日 - 1987年9月25日)は、日本の歯科医師、歯学者。口腔病理学を専門とし、東京歯科大学学長、同大学名誉学長を務めた。 1909年2月5日生まれ。1930年に東京歯科医学専門学校を卒業し、1940年に名古屋帝国大学医学部大学院を修了した。戦時中の特例措置により医師試験に合格し、医師免許も取得した。 東京歯科大学では講師、助教授、教授を歴任した。1971年から1977年まで副学長、同年7月から1983年3月まで学長を務め、1983年4月に名誉学長および名誉教授の称号を受けた。WHO歯学専門委員、日本学術会議会員、医道審議会委員などを歴任した。口腔病理学を専門とし、歯牙硬組織疾患および歯髄疾患を中心とした基礎研究および教育に従事した。
下河辺 孫一(しもこうべ まごいち、1909年〈明治42年〉… 下河辺 孫一(しもこうべ まごいち、1909年〈明治42年〉2月5日 - 1997年〈平成9年〉10月10日)は、日本の実業家で、下河辺牧場の創業者。下河邉 孫一の表記もある。 1909年、元日本鉱業(現・ENEOS)社長・下河辺建二の長男として東京府(現・東京都)に生まれた。東京帝国大学獣医科実科(実科は1935年に東京高等農林学校として独立、現・東京農工大学)卒業後宮内省に入省、御料牧場の獣医師として5年間勤務の後独立して成田市に下河辺牧場を開業し、サラブレッドの育成に努めた。戦後北海道沙流郡門別町(現・日高町)に支場を開設して長男の下河辺俊行が経営にあたった。1975年(昭和50年)成田空港建設に伴い牧場を香取郡栗源町(現・香取市)に移転した。
葛原 妙子(くずはら たえこ、1907年(明治40年)2月5… 葛原 妙子(くずはら たえこ、1907年(明治40年)2月5日 - 1985年(昭和60年)9月2日)は、歌人、潮音社友、日本歌人クラブ会員、女人短歌会会員。現代歌人協会発起人。南日本新聞歌壇選者。現代短歌女流賞選考委員。
矢島 羊吉(やじま ようきち、1907年〈明治40年〉2月5… 矢島 羊吉(やじま ようきち、1907年〈明治40年〉2月5日 - 1986年〈昭和61年〉11月26日)は、日本の倫理学者。文学博士(東北大学)。東北大学名誉教授。 長野県諏訪郡中洲村(現・諏訪市)出身。1923年旧制長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)四年修了。1926年旧制第一高等学校文科甲類卒業、東京帝国大学法学部入学。1930年東京帝国大学文学部倫理学科卒業。1948年東北大学文学部教授。1962年「カントにおける自由の概念」で、文学博士(東北大学)。1971年定年退官、名誉教授、東北福祉大学教授。西洋、東洋、仏教倫理学の融合を目指した。1977年勲三等旭日中綬章受章。1983年日本学士院会員。
堀内 仁(ほりうち まさし、1906年2月5日 - 1988… 堀内 仁(ほりうち まさし、1906年2月5日 - 1988年5月30日)は、日本の弁護士、法学者。 福岡県出身。1928年九州帝国大学法学部卒。弁護士、日本勧業銀行、第一勧業銀行調査部顧問を経て、大東文化大学法学部教授。1976年定年、その後非常勤講師。金融法務が専門。
白井 晟一(しらい せいいち、1905年(明治38年)2月5… 白井 晟一(しらい せいいち、1905年(明治38年)2月5日 - 1983年(昭和58年)11月22日)は、日本の建築家。村野藤吾、吉田五十八、堀口捨巳、谷口吉郎らと並んで、昭和期の住宅において和風を手がけた代表的な建築家として知られる。他に役場や静岡市立芹沢銈介美術館といった公共施設、銀行の建物も手掛けた。 一方で、その独特な作風や言説から「哲学の建築家」「哲人建築家」「異端の作家」などと称されることもある。1950年代の「伝統論争」の論者としても知られる。 1905年2月5日に京都市の三条大宮で、白井七蔵・えんの長男として生まれる。本名は白井成一。兄弟には、7歳上の姉清子と、弟の隆吉がいる。
美濃部 亮吉(みのべ りょうきち、1904年〈明治37年〉2… 美濃部 亮吉(みのべ りょうきち、1904年〈明治37年〉2月5日 - 1984年〈昭和59年〉12月24日)は、日本のマルクス経済学者、政治家。東京都知事(第6・7・8代)、参議院議員(全国区)も歴任した。
今野 大力(こんの だいりき、1904年2月5日 - 193… 今野 大力(こんの だいりき、1904年2月5日 - 1935年6月19日)は、日本の詩人。 宮城県伊具郡丸森町生まれ。幼時に北海道旭川市に移る。小学校卒業後、新聞社給仕を経て、旭川郵便局に勤務。この頃から詩作を始め、1927年に小熊秀雄らと詩誌『円筒帽』を発刊。その後上京し、『婦人戦旗』などの編集にたずさわる。1931年日本プロレタリア文化連盟(コップ)の結成に参加し、『プロレタリア文学』などに反戦詩を発表。1932年3月、駒込署に検挙され、その時の拷問がもとで入院。人事不省に陥り、生死の境をさまよう。回復後の1933年、日本共産党に入党。病気に苦しみながら創作を続けるが、1935年結核で死去。
百井 盛(ももい さかり、1903年〈明治36年〉2月5日 … 百井 盛(ももい さかり、1903年〈明治36年〉2月5日 - 2015年〈平成27年〉7月5日)は、日本の教育者、長寿者(スーパーセンテナリアン)。埼玉県さいたま市中央区在住。2014年6月8日以降死去するまで男性長寿世界一となっていた。 福島県相馬郡石神村(現、南相馬市)出身。福島師範学校卒業後、1924年に東京帝国大学農学部へ入学。1927年に同大学、同学部(専門課程:農芸化学)卒業。同年、咸鏡北道公立新義州高等普通学校に化学教諭として赴任。1948年から1951年まで福島県立塙高等学校(現、福島県立塙工業高等学校)の初代校長、1953年から1959年まで埼玉県立与野高等学校の第5代校長を務めた。
前川 佐美雄(まえかわ さみお、1903年2月5日 - 19… 前川 佐美雄(まえかわ さみお、1903年2月5日 - 1990年7月15日)は、昭和期の歌人。妻の前川緑、長男の前川佐重郎も歌人。五味康祐夫人千鶴子は妻の妹。 奈良県南葛城郡忍海村(現葛城市忍海)の素封家の長男として生まれる。父は佐兵衛、母は久菊。祖父佐重良は一族の長老として分家にも采配を振るっていた。 小学校六年で初めて短歌を作り、14歳で奈良の儒者越智黄華の漢学塾に学ぶ。1921年、下淵農林学校卒業。同年竹柏会「心の花」入会、佐佐木信綱に師事する。1922年に上京して東洋大学専門部倫理学東洋文学科に入学。木下利玄、石槫茂(後の五島茂)ら「心の花」の精鋭が集まる「曙会」にも参加し、「心の花」の新鋭として注目を浴び始める。
山上 八郎(やまがみ はちろう、1902年(明治35年)2月… 山上 八郎(やまがみ はちろう、1902年(明治35年)2月5日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の軍事史学者。特に日本の甲冑についての研究で名を知られる。 山上が帝国学士院より受賞した研究『日本甲冑の新研究』は、上下巻を合わせて2500ページに迫る膨大なもので、その中で紹介されている日本全国の甲冑資料も、非常に豊富である。現代の甲冑研究にも強い影響を与え続けている大著である。 「万巻の書を読み千里の道を行く」を一生の目標とし、大学時代より日本各地を旅行して甲冑を捜索した。服飾史学者の河鰭実英や城郭研究者の鳥羽正雄と親交があったが、特に鳥羽とは小学校以来の付き合いがあり、山上が東洋大学より文学博士号を取得したのも鳥羽の推薦があったためという。