渡名喜 守定(となき しゅてい、1902年2月5日 - 19… 渡名喜 守定(となき しゅてい、1902年2月5日 - 1993年2月1日)は、日本の海軍軍人。
2月5日生まれ:365人
渡名喜 守定(となき しゅてい、1902年2月5日 - 19… 渡名喜 守定(となき しゅてい、1902年2月5日 - 1993年2月1日)は、日本の海軍軍人。
山本 米治(やまもと よねじ、1902年2月5日 - 199… 山本 米治(やまもと よねじ、1902年2月5日 - 1993年11月30日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。国際決済銀行理事、大蔵政務次官。金融財政通として国会内外に知られた。 愛知県蒲郡町(現蒲郡市竹谷町)に生まれる。1926年(大正15年)3月、東京帝国大学法学部卒業。 日本銀行ロンドン監督役付海外駐在参事を経て、ドイツ駐在中に日銀総裁代理として国際決済銀行理事を務める。1947年(昭和22年)7月、日本銀行名古屋支店長に就任。日銀調査局長兼統計局長、外国為替管理委員会委員、経済安定本部副長官なども務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に愛知県選挙区から自由党公認で立候補し初当選。
岩本 薫(いわもと かおる、1902年〈明治35年〉2月5日… 岩本 薫(いわもと かおる、1902年〈明治35年〉2月5日 - 1999年〈平成11年〉11月29日)は、大正・昭和の囲碁棋士。第3、4期本因坊で本因坊 薫和と号する。島根県益田市出身、広瀬平治郎八段門下。 中盤の戦いに強く、序盤はあちこちに散在する石が徐々に関連して相手に圧力をかけてくるところから「豆まき碁」と呼ばれた。 1945年の第3期本因坊戦での橋本昭宇本因坊との挑戦手合において、広島市郊外の五日市(現佐伯区五日市町)で行われた6番勝負の第2局は原爆下の対局として有名。1948年から日本棋院理事長、1954年から中央会館館長を歴任。囲碁の海外普及に尽力し、また私財を投じた岩本基金により、サンパウロ、アムステルダム、ニューヨーク、シアトルの囲碁会館設立に多大な貢献をした。
吉田 暎二(よしだ てるじ、1901年〈明治34年〉2月5日… 吉田 暎二(よしだ てるじ、1901年〈明治34年〉2月5日 ‐ 1972年〈昭和47年〉9月30日)とは、大正から昭和にかけての浮世絵・歌舞伎の研究家。 東京本所区(現在の墨田区)の東両国で生まれる。父は東海銀行支店長の吉田源次郎。1907年(明治40年)相生尋常小学校に入学、1914年(大正3年)東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校・附属中学校)に入学。1919年(大正8年)早稲田大学露文科に入学したが、のちに関東大震災により中退する。1924年(大正13年)東京歌舞伎座に入社、雑誌『歌舞伎』、『歌舞伎研究』の編集を担当する。1927年(昭和2年)に歌舞伎座を退社、その後高見沢木版社、また北光書房に勤務することがあった。
速水 敬二(はやみ けいじ、1901年(明治34年)2月5日… 速水 敬二(はやみ けいじ、1901年(明治34年)2月5日 - 1974年(昭和49年)7月8日)は、日本の哲学者。専門はヘーゲルの哲学。 1901年、三重県で生まれた。京都帝国大学で学び、卒業。 1946年に國學院大學教授となった。1962年、学位論文『誰:顔の形而上学』を國學院大學に提出して文学博士号を取得。1974年に死去。 「学者一家」として知られる東畑家の次男坊で、速水家に婿養子に入った。
宇佐美 洵(うさみ まこと、1901年〈明治34年〉2月5日… 宇佐美 洵(うさみ まこと、1901年〈明治34年〉2月5日 - 1983年〈昭和58年〉2月19日)は、日本の銀行家。三菱銀行頭取、全国銀行協会会長を経て、第21代日本銀行総裁を務めた。 東京市芝三田小山町に生まれる。市谷小学校に入学して1年後、父の勝夫が富山県知事に就任したことから、一家は富山に越し、2年間をすごした。その後、父が韓国統監府参事官に転任することになったため、父のみが京城に赴任し、母子は東京に戻った。だが、母・よしが急死し、父は母の姉・みつを後添に迎えることになったため、祖父・池田成章に連れられ、みつと子どもたちは朝鮮に渡った。 京城中学校を経て1924年に慶應義塾大学経済学部を卒業。
竹内 俊吉(たけうち しゅんきち、1900年2月5日 - 1… 竹内 俊吉(たけうち しゅんきち、1900年2月5日 - 1986年11月8日)は日本の政治家、文人。青森県知事、青森放送会長などを務めた。長男の竹内黎一も政治家で、科学技術庁長官などを務めた。 1900年、青森県西津軽郡出精村(後の木造町、現在のつがる市)の農家に生まれる。尋常小学校卒業後、三田英学校を中退し、1925年に東奥日報に入社。『サンデー東奥』編集責任者、社会部長、整理部長、取締役を歴任。1940年に退社(後に顧問)。青森県議会議員を経て、1942年の第21回衆議院議員総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け、初当選。 第二次世界大戦後は公職追放されたが、追放解除後に民主党公認で立候補した1955年より衆議院青森県第2区で3期連続で当選。
内藤 吐天(ないとう とてん、1900年2月5日 - 197… 内藤 吐天(ないとう とてん、1900年2月5日 - 1976年5月12日)は、岐阜県出身の俳人、薬学者。本名は多喜夫。別名に龍膽寺旻、別号に萱雨亭(けんうてい)がある。 岐阜県大垣市生まれ。東京帝国大学薬学科卒。のち名古屋市立大学薬学部長、名城大学薬学部教授などを歴任。岡山六高時代より志田素琴、大須賀乙字に俳句を学び、「獺祭」「草上」「東炎」などに関わる。1946年に「早蕨」を創刊・主宰。「野薊にぴしりぴしりと夕立来ぬ」「あたたかな案山子を抱いて捨てにゆく」など、格調の高い句風で知られたが、晩年はより自由な作風になった。句集に『落葉松』『雨滴声』『早蕨』『鳴海抄』『点心』『臘八』など。また詩を日夏耿之介に師事し、海外の小説や詩集の翻訳もある。
石原 昌淳 (いしはら しょうじゅん、1900年(明治33年… 石原 昌淳 (いしはら しょうじゅん、1900年(明治33年)2月5日 - 1995年(平成7年)10月16日)は、沖縄県の政治家、実業家。 戦前は旧美里村議会議員、美里村助役、沖縄県会議員を、戦後のアメリカ施政権下では沖縄民政(沖縄民政府)議会議員、群島議会議員、琉球政府立法院議員、同中央教育委員会委員長、琉球工業連合会副会長、沖縄製塩社長などを務めた。勲五等瑞宝章受章。 1900年(明治33年)、現在の沖縄県沖縄市泡瀬地区にて生まれる。 大正の末期から昭和10年頃にかけての沖縄の政治界は、本土の二大政党であった民政党と政友会との対立に巻き込まれて、激しい勢力争いが続いていた。沖縄県選出の国会議員や県会議員のほとんどもこの二大政党のいずれかに属し、選挙の際には自派の議員の選出に懸命であった。
兼岩 伝一(かねいわ でんいち、1899年2月5日 - 19… 兼岩 伝一(かねいわ でんいち、1899年2月5日 - 1970年9月15日)は、日本の都市計画家、土木技術者、政治家。1935年に創刊された雑誌「区画整理」の表紙を飾った標語として知られる「土地区画整理は都市計画の母」の造語を生み出した。 1899年、愛知県丹羽郡布袋町(現・江南市)の中小製紙工場の家に生まれる。 岐阜市立岐阜商業、名古屋中学校、第八高等学校を経て、1925年東京帝国大学工学部土木工学科卒。内務省に入り復興局技師となる。その後、愛知県都市計画技師に転出。1936年、三重県に移り、都市計画課長となる。巨大コンビナートを生み出す四日市市などの都市計画を立案。 1942年には東京府道路課長に、1943年には埼玉県土木課長に就任する。
戸田 止戈夫(とだ しかお、1899年(明治32年)2月5日… 戸田 止戈夫(とだ しかお、1899年(明治32年)2月5日 - 不明)は日本の実業家である。戸田工業の創業者であり、元社長である。岡山県井原市出身。 1899年(明治32年)岡山県後月郡西江原村(現:井原市)の戸田生一の四男として出生。1911年(明治44年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1916年(大正5年)17歳で同校を卒業。戸田接三の死去により、中備機業合資会社を引き継ぐ。同年、東洋除虫材を設立した。 東洋除虫材はその後、蚊取り線香の製造を始め、1920年(大正9年)に西江原にあった工場は、営業所とあわせて広島県安佐郡横川町(現:広島市西区)へ移転した。1926年(大正15年)広島県安佐郡深川にあった弁柄製造工場を買収し、1933年(昭和7年)に広島市横川町に弁柄の製造販売を事業目的とする戸田工業株式会社を資本金50万円で設立。
岩田 欣三(いわた きんぞう、1898年2月5日 - 198… 岩田 欣三(いわた きんぞう、1898年2月5日 - 1986年6月5日)は、翻訳家、医師。本名・良吉。東京生まれ。1925年東京帝国大学英文科卒。45年日本医科大学卒。法政大学教授。 W・H・ハドソン、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジャック・ロンドン、アーサー・ランサムなど、少年向けの英国小説を訳した。岩田良吉、欣三双方の名を用いた。
尾崎 士郎(おざき しろう、1898年(明治31年)2月5日… 尾崎 士郎(おざき しろう、1898年(明治31年)2月5日 - 1964年(昭和39年)2月19日)は、日本の小説家。新聞連載小説『人生劇場』がヒットし、流行作家になった。 愛知県幡豆郡横須賀村宮前(現・西尾市吉良町上横須賀宮前)に生まれる。尾崎が生まれた年に父の嘉三郎は自宅で三等郵便局を開業した。1904年(明治37年)8月、神奈川県横浜市野毛町(現・中区野毛町)で耳鼻咽喉科医院を営む田島藤一郎(母の兄)の養子となる。1905年(明治38年)、心臓疾患とホームシックを理由に離籍、生家に戻った。 1910年(明治43年)、横須賀尋常高等小学校(現・西尾市立横須賀小学校)卒業。同年、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に進学した。
大河内 傳次郎(おおこうち でんじろう、新字体:伝次郎、18… 大河内 傳次郎(おおこうち でんじろう、新字体:伝次郎、1898年(明治31年)2月5日(戸籍上は3月5日)- 1962年(昭和37年)7月18日)は、日本の映画俳優。本名:大邊 男(おおべ ますお)。 戦前を代表する時代劇スターの一人であり、阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。サイレント期は、伊藤大輔監督・唐沢弘光撮影のトリオで『忠次旅日記』『新版大岡政談』などの名作を生んだ。悲愴()感ただよう演技とスピード感あふれる殺陣で、従来の時代劇スターの定型を破り、人気を不動のものとした。当たり役は丹下左膳で、トーキー時代の作品では地元の豊前なまりで「シェイハタンゲ、ナハシャゼン(姓は丹下、名は左膳)」と言う決めゼリフで人気を得た。
槇 有恒(まき ゆうこう、「ありつね」とも、1894年〈明治… 槇 有恒(まき ゆうこう、「ありつね」とも、1894年〈明治27年〉2月5日 - 1989年〈平成元年〉5月2日)は、宮城県仙台市出身の日本の登山家。日本山岳会設立者・会長(2期)、日本山岳協会会長・名誉会員を歴任し、ヒマラヤの8,000m峰・マナスル第3次登頂隊長として日本隊のマナスル初登頂を成功させた。近代アルピニズムの開拓者・紹介者。位階は従四位。文化功労者、仙台市名誉市民。 父・槇武は新潟県の士族であったが、幕末・維新期に仙台藩が越後国長岡藩と友好的であったことや、福澤諭吉の推薦などによって、有恒が生まれる頃は『奥羽日日新聞』主幹として仙台に赴任していた。 本籍地は東京都文京区。宮城県師範学校付属小学校、仙台第二中学校(現、宮城県仙台第二高等学校)を経て、1911年(明治44年)、慶應義塾大学部予科に入学する。
信氏 良吉(のぶうじ りょうきち、1894年(明治27年)2… 信氏 良吉(のぶうじ りょうきち、1894年(明治27年)2月5日 - 1981年(昭和56年)3月25日)は、日本の陸軍軍人、火薬学者。最終階級は陸軍中将。 京都府京都市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官した。陸軍派遣学生として京都帝国大学工学部工業化学科で学び、1923年(大正12年)3月に卒業した。 1930年(昭和5年)8月、砲兵少佐に進級。1934年(昭和9年)8月、砲兵中佐に進み、1935年(昭和10年)8月、陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所長に就任。1937年(昭和12年)6月、陸軍科学研究所員に転じ、1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に昇進した。
近藤 正二(こんどう しょうじ、1893年〈明治26年〉2月… 近藤 正二(こんどう しょうじ、1893年〈明治26年〉2月5日 - 1977年〈昭和52年〉1月22日)は、日本の衛生学者、医師。医学博士。東北大学名誉教授。 生涯を通して食生活改善の啓蒙・普及に尽力し、欧米人と比較して著しく劣っていた日本人の体格、体力、寿命の向上に貢献した。 新潟県新潟市本町通10番町(現 新潟市中央区本町通10番町)の薬種商・近藤市蔵の次男として出生。 1910年(明治43年)3月に新潟中学校を卒業、1913年(大正2年)7月に第一高等学校を卒業、1917年(大正6年)12月に東京帝国大学医科大学医学科を卒業。 1918年(大正7年)1月に東北帝国大学医科大学細菌学教室細菌学講座(担任:青木薫教授)助手に就任、1920年(大正9年)11月に東北帝国大学医学部細菌学教室細菌学講座講師に就任、1921年(大正10年)3月に助教授に就任。
押谷 富三(おしたに とみぞう、1893年〈明治26年〉2月… 押谷 富三(おしたに とみぞう、1893年〈明治26年〉2月5日 - 1985年〈昭和60年〉4月15日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(5期)。幕末出石藩家老、河合長孝の孫にあたる。 滋賀県東浅井郡浅井町(現・長浜市)出身。1916年(大正5年)関西大学法科を卒業。弁護士となる。 1931年(昭和6年)9月25日、大阪府会議員選挙に大阪市北区選挙区から立候補して当選した。その後、再選して1936年(昭和11年)1月25日に辞職した。1939年(昭和14年)9月25日に3選を果たした。1946年(昭和21年)12月29日から1947年(昭和22年)4月29日まで第40代大阪府会副議長を務めた。
野津 龍三郎(のづ りゅうざぶろう、1892年(明治25年)… 野津 龍三郎(のづ りゅうざぶろう、1892年(明治25年)2月5日 - 1957年(昭和32年)10月27日は、日本の大正から昭和期の化学者、京都帝国大学教授・甲南大学理学部長。滋賀県出身者として2人目の理学博士(博士登録番号234番)。 1892年(明治25年)2月5日、滋賀県彦根市近郊の士族野津家に生まれる。彦根第一中学校、1913年(大正2年)7月第三高等学校第二部乙類を卒業し、1916年(大正5年)京都帝国大学理科大学を卒業する。卒業後神戸の鈴木商店(現双日のルーツの一つ)に入社し化学研究所に勤務、1921年(大正10年)1月大日本木管(紡績用木管類を生産)に転職した後、同年12月京都帝国大学理学部小松茂教授の下で講師になる。
栃木山 守也(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1… 栃木山 守也(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1959年10月3日)は、栃木県下都賀郡赤麻村(現:栃木県栃木市藤岡町赤麻)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第27代横綱。本名は中田 守也(なかた もりや)(旧姓:横田)。 1892年2月5日、栃木県下都賀郡(現:栃木県栃木市藤岡町赤麻)の農家に長男として生まれる。遅くに誕生した男子だったことで「家を守り立てて欲しい」との願いから“守也”と名付けられた。幼少期から家業を手伝いつつ漢学塾に通いながら、自宅近所にあった岩船山の石を人力トロッコで渡良瀬川へ運ぶ仕事に従事し、強健な体になる。17歳で結婚するが、18歳の時に妊娠中だった妻を残して上京し、出羽ノ海部屋に入門する。
水野 智彦(みずの ともひこ、1891年2月5日 - 199… 水野 智彦(みずの ともひこ、1891年2月5日 - 1997年12月11日)は、日本の経営者。日本特殊陶業社長、会長を務めた。東京都出身。 1915年に慶應義塾大学部理財科を卒業し、同年に森村組に入社。1956年に取締役に就任し、1934年に日本陶器取締役にも就任し、1944年には日本特殊陶業専務に就任し、1949年に取締役、1961年に監査役、1963年に顧問を経て、1971年に社長に就任。1973年に会長に就任。 1972年に勲三等瑞宝章を受章。 1997年12月11日、呼吸不全のために死去。106歳没。
大戸平 吉太郎(おおとひら きちたろう、1889年2月5日 … 大戸平 吉太郎(おおとひら きちたろう、1889年2月5日 - 1963年8月7日)は、現在の宮城県石巻市出身で尾車部屋、峰崎部屋に所属した力士。本名は阿部 吉太郎(あべ きちたろう)。4代尾車。176cm、98kg。最高位は東関脇。 石巻中学校1年で同郷の尾車から勧誘され、「将来は師名を継がせる」という証文を貰って入門した。1906年5月序ノ口、1911年6月十両昇進。1912年5月新入幕、1916年5月新横綱西ノ海を破り8勝1敗1預で、翌1917年1月関脇昇進。地味な風貌であったが大錦を破ったり横綱栃木山の預かりの相撲を取るなど大物食いとして上位で活躍。1922年5月に引退し、尾車を襲名。勝負検査役や木戸部長を務め、1961年1月71歳で定年退職。
上原 敬二(うえはら けいじ、1889年2月5日 - 198… 上原 敬二(うえはら けいじ、1889年2月5日 - 1981年10月24日)は、日本の造園研究家。学位は、林学博士。東京農業大学名誉教授。 東京高等造園学校(現・東京農業大学地域環境科学部造園科学科)の創設者。日本の造園教育の創始者として知られる。また造園の技術者としても、東京帝国大学大学院在学時に本多静六等と明治神宮の造園などを設計。その他、横浜山手の西洋庭園をはじめ、築造した庭園は三百余になるといわれている。 上原の著書の多くは造園系学校・学科の学生の参考書として現在も多く活用されている。 東京深川で材木業の家に生まれる。上原の先祖は丹波綾部が郷国で、北面の武士になり、祖父が京都鷹司家分身朽木近江守一族で代々藩主の祐筆を務めていたといい、上原本人も父から書の塾へ通わされていたという。
円谷 光衛(圓谷 光衞、つむらや みつえ、1889年(明治2… 円谷 光衛(圓谷 光衞、つむらや みつえ、1889年(明治22年)2月5日 - 1962年(昭和37年)3月6日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員。 福島県西白河郡、のちの大信村(現白河市)出身。1909年、福島県師範学校を卒業。小学校訓導、同校長、郡視学、福島県視学、国民学校長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に福島県選挙区から日本自由党所属で出馬し当選。その後、第24回総選挙まで連続3回当選した。この間、経済安定本部嘱託、衆議院文部委員長、日本自由党政調会文教委員長などを歴任した。 その他、西白河郡連合青年団長、日本教育会福島県支部長、福島県教育会理事長を務めた。
高木 市之助 (たかぎ いちのすけ、1888年(明治21年)… 高木 市之助 (たかぎ いちのすけ、1888年(明治21年)2月5日 - 1974年(昭和49年)12月23日)は 、日本の国文学者である。愛知県名古屋市出身。
難波 英夫(なんば ひでお、1888年2月5日 - 1972… 難波 英夫(なんば ひでお、1888年2月5日 - 1972年3月7日)は岡山県出身の社会運動家。 高梁川の支流成羽川の一支流、日名川の源である熊之谷(現・高梁市成羽町上日名)に生まれる。父は小学校の校長であった。自身は部落外の出身だが、9歳で部落差別の存在を知る。経済的理由で旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)への進学を断念。15歳で準教員の試験に合格。16歳で阿部小学校の準訓導となる。翌年、近似(ちかのり)という被差別部落の分教場に派遣されて生徒指導に悩み、自信を失って教師を辞職。 1912年、朝鮮の京城日報記者となり、1917年に帰国。1918年、東京時事新報社に入り、1919年、大阪時事新報社社会部長に転じる。
緒方 大象(おがた だいぞう、1886年2月5日 - 195… 緒方 大象(おがた だいぞう、1886年2月5日 - 1956年7月20日)は、日本の医学者。九州大学名誉教授。リンパ心臓の研究で知られる。緒方道平の次男。弟には政治家緒方竹虎と医師緒方龍がいる。長男は同じく九州大学医学部生理学教授を務めた緒方道彦。 福岡市に生まれる。1904年福岡県立中学修猷館、1907年第五高等学校医科を経て、1907年9月東京帝国大学医学部に入学するが、同年12月に京都帝国大学福岡医科大学に転学し、1911年11月同大学の後身である九州帝国大学医学部を卒業する。五高の同期には大川周明がおり、共に五高の校友会雑誌「龍南会雑誌」の雑誌部委員を務めた。 1912年1月九州帝大医学部の石原誠教授の生理学教室に入室。
堀 義貴(ほり よしあつ、1885年(明治18年)2月5日 … 堀 義貴(ほり よしあつ、1885年(明治18年)2月5日 - 没年不詳)は、日本の外交官。駐メキシコ公使兼初代駐エルサルバドル公使、初代駐グアテマラ公使、初代駐ホンジュラス公使、初代駐ニカラグア公使、初代駐コスタリカ公使。 鹿児島県に吉利靖の三男として生まれ、堀千夫の養子となった。1905年(明治38年)、東京高等商業学校(現在の一橋大学)専攻科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。領事官補、シンガポール領事、外務事務官・書記官、外務大臣秘書官、内閣総理大臣秘書官、中華民国公使館一等書記官、浦塩派遣軍政務部長、ロンドン総領事、中華民国大使館参事官、イギリス大使館参事官を歴任。 ロンドン海軍軍縮会議に全権事務所情報部長として参加し、1931年(昭和6年)、旭日中綬章受章。
小島 七郎(こじま しちろう、1883年(明治16年)2月5… 小島 七郎(こじま しちろう、1883年(明治16年)2月5日 – 1930年(昭和5年)3月5日)は、衆議院議員(憲政会)、弁護士。 山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)出身。1913年(大正元年)、東京帝国大学法科大学を卒業。ハルビンで西伯利亜新聞社の社長となり、さらに東京通信社の理事を務めた。 牛込区会議員、同議長、東京市会議員を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。その後、東京市会議長に就任した。 その他に関東醸造株式会社取締役、哈爾浜取引所監査役などを務めた。墓所は多磨霊園。
鈴木 與平(すずき よへい、1883年(明治16年)2月5日… 鈴木 與平(すずき よへい、1883年(明治16年)2月5日 - 1940年(昭和15年)5月2日)は、明治から昭和にかけての日本の実業家、政治家。鈴与創業者。清水市会議長、静岡県会議長、貴族院多額納税者議員等を歴任した。旧名山崎通太郎。 2021年現在、鈴与会長を務める鈴木与平は8代目で、孫にあたる(没後に誕生した為、面識はない)。 静岡県有度郡上清水村(現静岡市清水区清水)で、沢野道太郎出生。静岡県静岡中学校に学ぶ。静岡中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)に所属した。東京高等商業学校(現一橋大学)在学中に鈴木家の婿養子となる。1906年に同校専攻部を卒業。1917年に家督相続し第6代鈴木與平の名を継ぐ。
鷲津 貞二郎(わしづ ていじろう、1883年2月5日 - 1… 鷲津 貞二郎(わしづ ていじろう、1883年2月5日 - 1927年12月15日)は、日本基督教会の牧師である。 1883年(明治16年)、東京小石川に永井久一郎、恒の次男として生まれる。兄の永井壮吉は後の永井荷風である。母方の祖母と母はW・シュピンナー宣教師から受洗した普及福音教会の熱心な信徒であった。 母方の鷲津家の養子になる。東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業して、三菱銀行本店に勤務する。1902年(明治35年)に洗礼を受ける。東京神学社で学び植村正久の薫陶を受ける。卒業後に、日本基督教会の牧師の按手礼を受け、1912年(明治45年)に山梨教会に、1914年(大正3年)に水戸教会、富士見町教会、明星教会(小石川明星教会)の牧師を歴任する。
岩松 玄十(いわまつ げんじゅう、1881年〈明治14年〉2… 岩松 玄十(いわまつ げんじゅう、1881年〈明治14年〉2月5日 - 1976年〈昭和51年〉3月5日)は、日本の検事。 佐賀県佐賀市出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。大津地方裁判所判事、奈良区裁判所検事、東京区裁判所検事、長野地方裁判所検事、千葉地方裁判所検事、同検事正、台湾総督府高等法院検察官長、横浜地方裁判所検事正、東京控訴院検事、司法省行刑局長、宮城控訴院検事長、長崎控訴院検事長を歴任し、1941年(昭和16年)からは大阪控訴院検事長を務めた。 1976年(昭和51年)3月、急性心不全で死去した。
宮脇 長吉(みやわき ちょうきち、1880年2月5日 - 1… 宮脇 長吉(みやわき ちょうきち、1880年2月5日 - 1953年2月16日)は、日本の陸軍軍人、政治家、実業家。最終階級は陸軍航空兵大佐。衆議院議員。紀行作家宮脇俊三の父。軍人時代に教え子だった佐藤賢了に黙れ事件を起こされるなど戦前は自由主義者で、そして戦後は元軍人であるがゆえに政治家としては不遇な立場に置かれてしまった。 愛媛県大川郡誉水村(現・香川県東かがわ市西部の一部)の農業・宮脇清吉の四男。兄弟には田中義一内閣や幣原喜重郎内閣等で大臣を務めた政治家の三土忠造(漢学者の家柄であった三土家の養子となった)、内務官僚として埼玉県や千葉県等の知事を歴任した宮脇梅吉(埼玉県知事時代に、初めて大宮・浦和・与野の「埼玉市」を構想した)がおり、地元では優秀な兄弟として知られ、後に雑誌『少年倶楽部』の「兄弟出世クラブ」というグラビアで紹介されるほどだった。
森岡 京次郎(もりおか きょうじろう、1879年2月5日 -… 森岡 京次郎(もりおか きょうじろう、1879年2月5日 - 1920年6月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 奈良県山辺郡出身。東京帝国大学政治科卒。森岡銀行頭取、日本紙業、玉造倉庫運輸信託各(株)社長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において奈良2区から無所属で立候補して当選する。選挙中に森岡銀行が取り付け騒ぎに遭って破綻したため、当選から間もない6月27日、預金者に申し訳ないとして短刀で自殺を図り死去した。
木村 彦右衛門(きむら ひこえもん、1879年(明治12年)… 木村 彦右衛門(きむら ひこえもん、1879年(明治12年)2月5日 - 1933年(昭和8年)3月31日)は、日本の商人(薬種商)、成見屋薬局経営者、薬学者。 正七位勲六等。薬学博士。大阪薬学専門学校校長。大阪府薬剤師会長。日本薬剤師会副会長。族籍は大阪府平民。 大阪府出身。先代・木村彦右衛門の長男。幼くして父母を喪う。博聞強記で、4歳の頃には百人一首の全部を暗誦した。1883年1月、家督を相続し先代を襲名する。1893年、大阪共立薬学校に入り専ら薬学を修めた。 1899年、第五高等学校医学部薬学科(現・長崎大学薬学部)を卒業。1年志願兵として入営。東京帝国大学医科大学に入り薬学を研究した。長井博士に就いて薬化学を研究すること5年に及んだ。
野田 三郎(のだ さぶろう、1879年〈明治12年〉2月5日… 野田 三郎(のだ さぶろう、1879年〈明治12年〉2月5日 - 没年不明)は、日本の篤農家、新潟県多額納税者、地主。族籍は新潟県平民。 新潟県北蒲原郡水原町(現・阿賀野市)出身。野田三郎の五男。1906年、家督を相続し前名・又五郎を改め襲名する。農業を営む。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は新潟県北蒲原郡水原町(現・阿賀野市)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
百瀬 渡(ももせ わたる、1874年2月5日 - 1945年… 百瀬 渡(ももせ わたる、1874年2月5日 - 1945年12月21日)は、長野県出身の政治家。
国府 犀東(こくぶ さいとう、明治6年(1873年)2月5日… 国府 犀東(こくぶ さいとう、明治6年(1873年)2月5日 - 昭和25年(1950年)2月27日)は、戦前日本の記者、官僚、漢詩人。本名は種徳。石川県金沢市出身。新潟、台湾、東京で新聞記者を務めた後、内閣、宮内省、文部省等で地方改良運動、近代社格制度、詔勅起草、文化財行政等に関わった。また慶應義塾大学予科、旧制東京高等学校で漢文を講義した。 号は金沢西部を流れる犀川の東畔に生まれたことに由来する。対岸で生まれた室生犀星はこれを受けて犀西の意で犀星と名乗った。また、美術編集者坂井犀水の号も犀川による。 明治6年(1873年)、石川県石川郡金沢城下(金沢市竪町)の左官職鹿島家に生まれた。初名は長松。
太田 信治郎(おおた しんじろう、1873年(明治6年)2月… 太田 信治郎(おおた しんじろう、1873年(明治6年)2月5日 - 1957年(昭和32年)5月17日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 東京府葛飾郡、のちの東京市深川区で、材木商・太田重吉の長男として生まれる。家業を継承し材木商を営む。 万信材木店社長、大日本林業社長、東京材木問屋組合役員、東京製材組合組長などを務めた。 政界では、深川区会議員、同議長、同学務委員、東京市会議員、内閣国有財産調査委員、同特別都市計画委員などに在任した。 1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙に東京府第4区から出馬して当選し、以後、第17回総選挙まで連続して再選された。1936年(昭和11年)2月の第19回総選挙でも再選され、立憲民政党に所属して衆議院議員に通算5期在任した。
柳沢 保恵(やなぎさわ やすとし、1871年2月5日〈明治3… 柳沢 保恵(やなぎさわ やすとし、1871年2月5日〈明治3年12月16日〉 - 1936年〈昭和11年〉5月25日)は、日本の統計学者、政治家、実業家、華族(伯爵)。第一生命保険の初代社長。 柳沢氏傍系の越後柳沢家当主で黒川藩藩主の柳沢光昭の次男として、越後国北蒲原郡黒川村(現・新潟県胎内市)に生まれる。幼名は利丸、前名は光敏。保恵の出生前に父の家督は養子で大和郡山藩藩主の息子である柳沢光邦(高家旗本武田信之の六男)がすでに継いでいた。 柳沢一族のなかの優秀な男子ということで本家の養子に選ばれ、明治19年(1886年)、旧大和郡山藩主の柳沢保申の次女秀子と婚約し養子となった(光昭も郡山藩主家の出身であり、保申は保恵の従兄に当たる)。
服部 米次郎(はっとり よねじろう、明治3年12月16日(1… 服部 米次郎(はっとり よねじろう、明治3年12月16日(1871年2月5日) – 昭和39年(1964年)7月1日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。大日本帝国陸軍軍人。 伊勢国一志郡高茶屋村(現在の三重県津市)出身。1894年(明治27年)7月27日に陸軍士官学校(5期)を卒業し、同年9月18日、砲兵少尉に任官。1898年(明治31年)には陸軍砲工学校普通科・高等科を卒業した。砲兵少佐に昇進し、その間に重砲兵第1連隊大隊長、永興湾要塞司令官を歴任した。1910年(明治43年)、憲兵少佐に転じ、統監府警務部長、朝鮮総督府警務部長を歴任した。1918年(大正7年)7月24日に待命となり、1919年(大正8年)、憲兵大佐で予備役に編入された。
吉田 賢龍(よしだ けんりゅう、1870年2月5日 - 19… 吉田 賢龍(よしだ けんりゅう、1870年2月5日 - 1943年1月5日)は、日本の教育者、元広島文理科大学学長。
小田 堅立(おだ けんりゅう、1865年2月5日(元治2年1… 小田 堅立(おだ けんりゅう、1865年2月5日(元治2年1月10日) - 1944年(昭和19年)5月26日)は、日本の教育者。 1865年(元治2年)、備中国下道郡岡田村(現・岡山県倉敷市)出身。幼名は三宅武助。小田家を再興するに際し堅立と改名。 同志社英学校を卒業後、渡米してオハイオ州のオーバリン大学を卒業。1887年に帰国し、岡山県尋常中学校、1896年福岡県立尋常中学修猷館の教諭・教頭を経て、1898年岡山県商業学校の初代校長に就任する。「商業に国境なし」の信念のもとに、修身にかえて倫理を原書で教え、実用英語の講座を開くなど、世界に通用する商人の教育に努めた。1902年に岡山市立岡山商業学校が創立すると、1909年までその校長を兼任した。
足立 正(あだち せい、元治2年1月10日(1865年2月5… 足立 正(あだち せい、元治2年1月10日(1865年2月5日) - 昭和22年(1947年)10月29日)は、日本の教育者、郷土史家、政治家。きよしこの夜の訳詞者由木康の実父。実業家足立荘の実兄。 坪井正五郎、喜田貞吉、沼田頼輔など一流の学者と親交を持ち、西伯耆を中心とする考古学、歴史学の研究と資料収集にその生涯を捧げた。元境町長。 島根県松江師範学校卒業後は上道小学校で教員となり、1888年(明治21年)からは上道の弓浜高等小学校に12年間務めた。 1900年(明治33年)からは西伯郡淀江町今津の養良高等小学校の校長に就任した。20年以上の在職中には1903年(明治36年)設立の養良農業補習学校での業績を評価され、表彰もされている。
麻生 観八(あそう かんぱち、1865年2月5日(元治2年1… 麻生 観八(あそう かんぱち、1865年2月5日(元治2年1月10日) - 1928年(昭和3年)8月2日)は、大分県出身の実業家である。 1865年2月5日(元治2年1月10日)、日田豆田町で酒造業を営む草野家に五男として誕生するが、12歳の時に家が破産。1880年(明治13年)に玖珠郡で「舟来屋」の屋号で酒造業を営んでいた麻生家に養子に入る。当時、麻生家の初代麻生東江、2代麻生豊助は家業の傍ら、私財を投げうって井路の整備に力を注いていたが、完成には至らず、麻生家は家財や山野を失い、酒造の権利も手放すことになる。 しかし、1885年(明治18年)、観八は酒造免許を取得し舟来屋・麻生酒造場(現在の八鹿酒造)を再興。
小島 相陽(こじま そうよう、万延元年12月26日(1861… 小島 相陽(こじま そうよう、万延元年12月26日(1861年2月5日) - 昭和11年(1936年)4月21日)は、日本の衆議院議員。弁護士。 信濃国水内郡安茂里村(現在の長野県長野市)出身。明治法律学校(現在の明治大学)に学ぶ。 明治12年7月埼玉県の代言人免許を受けて代言人となる。 明治26年、弁護士法制定にともない弁護士登録。 1893年(明治26年)4月28日、松本、上田、長野の三代言人組合が合同し、長野弁護士会設立後、初代近藤牧太のあとを受けて1896年(明治29年)長野弁護士会会長に就任し、1935年(昭和10年)まで39年間にわたり会長を務めた。また上水内郡会議員、長野県会議員に選出された。
名倉 誾一郎(なぐら ぎんいちろう、1860年2月5日(安政… 名倉 誾一郎(なぐら ぎんいちろう、1860年2月5日(安政7年1月14日) - 1930年6月20日もしくは6月22日)は日本の植物研究家である。三河地方の植物調査を行った。 三河国西尾(現在の愛知県西尾市)に福島藩(のち重原藩)の貝吹陣屋代官家に生まれた。はじめは医者を志して東京の慶應義塾や京都で学ぶが兄をなくし家を継ぐために西尾に戻った。愛知県水産試験場の嘱託となり、岡村金太郎の指導を受けて、「尾三沿海植物調査」などを発表した。牧野富太郎の指導も受け、愛知県の陸上植物の研究を行い、『愛知県植物志料』を発表した。 ミカワタヌキモなどを発見し、ミカワタヌキモは、牧野によってUtricularia nagurai Makino(Utricularia gibba L. = イトタヌキモのシノニム)と命名された。
鎌田 大三郎(かまだ だいざぶろう、1859年2月5日〈安政… 鎌田 大三郎(かまだ だいざぶろう、1859年2月5日〈安政6年1月3日〉 - 没年不明)は、日本の醸造家、会社役員。族籍は香川県平民。 香川県平民・鎌田大三郎の長男。1875年、家督を相続する。清酒・生酢醸造業を営む。坂出銀行常務取締役、鎌田産業取締役などをつとめる。住所は香川県綾歌郡坂出町(現坂出市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
浅羽 靖(あさば しづか、安政元年1月8日(1854年2月5… 浅羽 靖(あさば しづか、安政元年1月8日(1854年2月5日) - 大正3年(1914年)10月22日)は、政治家・官僚で北海英語学校創設者。北海学園の父とも称されている。 大坂に生まれる。大阪城定番与力の3男という。1875年大蔵省に入省後、根室県や、北海道理事官、1886年には札幌区長を経て、1887年現在の北海高等学校の前身にあたる夜間私立学校北海英語学校の校長に就任。1891年北海道庁会計主務官を最後に退官。札幌製糖社長となる。1893年からは同学校の校主も兼任している。校長在任中も、1901年の中学校令に伴い北海英語学校中等部を創設している。1904年の第9回衆議院議員総選挙にて札幌選挙区から出馬して当選、1914年まで衆議院議員(立憲同志会に所属)を務めた。
石橋 絢彦(いしばし あやひこ、嘉永5年12月27日(185… 石橋 絢彦(いしばし あやひこ、嘉永5年12月27日(1853年2月5日) - 昭和7年(1932年)11月25日)は、日本の武士(幕臣)、土木技術者。工学博士。位階および勲等は従四位・勲二等。 幕臣与力の中井国蔵長親・中井ふくの五男として嘉永5年12月27日、江戸浅草新堀端に生まれる。元治元年、幕臣石橋和三郎福庵の養子となったが、義父福庵は明治元年4月2日失踪した。明治12年(1879年)工部大学校(現在の東京大学工学部)卒業。同年、下谷区仲御徒町に住する幕臣青山安保(義父福庵の異母兄)の長女の菊(文久3年6月28日生)と結婚。逓信省に出仕。イギリスに留学し灯台工事、その他の海上工事を研究する。