小尾 知愛(おび ともちか、1918年7月5日 - 201… 小尾 知愛(おび ともちか、1918年7月5日 - 2014年12月31日)は、日本の経営者。大分銀行頭取を務めた。 山梨県出身。1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1971年10月に大分銀行専務に就任し、1973年6月には頭取に昇格。1984年6月に会長に就任し、1992年4月には特別顧問に就任。日銀政策委員も務めた。 1981年11月に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2014年12月31日、老衰のために死去。96歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
平田 恭助(ひらた きょうすけ、1916年7月5日 - 19… 平田 恭助(ひらた きょうすけ、1916年7月5日 - 1940年5月12日)は、昭和戦前期の登山家。伯爵平田栄二(松堂)の四男。母は前田利昭の娘・静子。東京府出身。 慶應義塾大学在学中より谷川岳の登山を行い、1939年9月26日に共に未踏であった一ノ倉沢の滝沢下部の初登攀を果たして山岳界に衝撃を与えた(山岳ガイドの浅川勇夫が同行)。同年には社会人山岳団体である東京登歩渓流会に加入する。 慶應義塾大学には槇有恒・三田幸夫・大島亮吉・早川種三ら優れた登山家を輩出した山岳部があったが、平田は山岳部に所属せずに「モルゲンロートコール」というサークルに所属していた。東京登歩渓流会の幹部であった杉本光作によれば、山岳部は内部進学者が多く、外部から慶應に進学した平田はその空気に馴染めなかったのだという。
阪田 勝三(さかた かつぞう、1915年7月5日 - 201… 阪田 勝三(さかた かつぞう、1915年7月5日 - 2010年9月19日)は、日本の英米文学者。専門はジョン・キーツ、ウィリアム・フォークナー。 和歌山県生まれ。東北帝国大学法文学部英文科卒業。土居光知に師事。海軍大学校教授、戦後宮城学院女子大学助教授、教授を経て、1969年同大学および同短期大学にて公選制最初の学長。1972年日本大学文理学部教授、1976年「ジョン・キーツ論考 自己解体としての想像力」で日本大学文学博士。1986年日本大学定年後、96年までクラーク学園理事長を務めた(95-96年は和泉短期大学学長も兼務)。 多くのキーツ研究者が「思想の詩人としてのキーツ」を重く見るのに対し、阪田は「感覚の詩人としてのキーツ」に愛着を持った数少ない研究者である。
飛鳥 寛栗(あすか かんりつ、1915年7月5日 - 201… 飛鳥 寛栗(あすか かんりつ、1915年7月5日 - 2016年9月30日)は、浄土真宗の僧、仏教音楽研究家、元飛鳥山善興寺住職。近代日本の仏教音楽を体系化した人物である。 浄土真宗本願寺派善興寺(富山県高岡市)に生まれる。父は、同寺第17代住職で、浄土真宗本願寺派の監正局長をつとめた飛鳥寛徹。1939年龍谷大学文学部仏教学科卒業。学校法人清光学園清光女子高等学校(現高岡龍谷高校)初代常務理事、浄土真宗本願寺派教学伝道研究センター顧問をはじめ、財団法人国際仏教文化協会顧問や社会福祉法人中田保育園理事長などを歴任。仏教音楽コレクション・A主宰(現在は相愛大学の図書館に寄贈)。東洋音楽学会会員。善興寺第18代住職。
太田 緑子(おおた みどりこ、1915年(大正4年)7月5日… 太田 緑子(おおた みどりこ、1915年(大正4年)7月5日 - 2010年(平成22年)10月22日)は、日本の病院経営者。太田綜合病院の副理事長、夫の死後は理事長を経て名誉理事長を務めた。経営者として地域医療の充実、病院の発展に努める傍ら、福島県教育委員会委員長、福島県社会福祉協議会長、郡山国際フィルハーモニー協会副会長などを歴任して、地域の医療、社会福祉、教育、文化の発展に寄与し、福島県および郡山市の興隆のために尽くした。 1915年(大正4年)、福島県郡山町にて太田醫院を創業した医師の父三郎、母祥(さが)の七女として双子の妹薫子とともに生まれた。小学校を経て、安積高等女学校を卒業し、実践女子専門学校に進学し二年で中途退学した。
下光 軍二(しもみつ ぐんじ、1914年7月5日 - 200… 下光 軍二(しもみつ ぐんじ、1914年7月5日 - 2009年2月1日)は、日本の弁護士。1980年に破産したネズミ講「天下一家の会・第一相互経済研究所」の破産管財人。朝日法律相談所の設立メンバー。第一東京弁護士会所属。東京医科大学教授の下光輝一は息子。 1914年、広島県に生まれる。1941年、中央大学法学部卒業。1946年、弁護士開業。1949年、朝日新聞法律相談所を開設。 2009年、多発性脳梗塞にて死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。
内田 俊郎(うちだ しゅんろう、1913年7月5日 - 20… 内田 俊郎(うちだ しゅんろう、1913年7月5日 - 2005年11月2日)は、日本の生物学者。個体群生態学の、日本における草分けの一人である。 内田は京都大学農学部を主な活躍の場として、個体群生態学の研究を行った。彼の手法は実験室内において、マメゾウムシなどのモデル生物の実験個体群を対象として、恒温機の中のシャーレという、極めて管理された条件下での個体群動態を調べる、というものであった。これはいかにも人工的な実験に見えるため、そんなシャーレの中の研究で本当の自然は分からない、という批判を受けたこともあった。しかし彼はこのような手法を用いての研究を続け、密度効果や相変異など、様々な成果を上げ、多くの弟子を育てた。
樫村 寛一(かしむら かんいち、1913年(大正2年)7月5… 樫村 寛一(かしむら かんいち、1913年(大正2年)7月5日 - 1943年(昭和18年)3月6日)は、日本海軍の戦闘機操縦士、最終階級は、海軍少尉。「片翼帰還の英雄」として知られる。 香川県善通寺町に生まれた。丸亀中学卒業後、1933年5月、佐世保海兵団入団。1934年(昭和9年)2月に第24期操縦練習生に入隊し、7月に卒業する。日中戦争開始後は第十三航空隊に所属し、上海・南京と転戦した。 1937年12月9日、九六式艦上戦闘機で南昌攻撃の際、中国軍機と接触して左翼の1/3以上を失ったが、600km以上操縦を続けて南京基地に帰還した。帰還の様子は基地に滞在していた従軍報道員によって撮影された。
木村 謙二(きむら けんじ、1912年7月5日 - 没年不明… 木村 謙二(きむら けんじ、1912年7月5日 - 没年不明)は、日本の心理学者・教育者。稚内北星学園、北星学園女子短期大学の学長を務めた。専門は特殊児童心理学で、日本における障害児教育の先駆者の一人。 北海道夕張市出身。1935年、北海道札幌師範学校を卒業して深川尋常高等小学校の教員となる。しかしキリスト教徒のため天皇礼拝を拒んだ事などが原因で1937年に辞職し、同年に上京して東京市内の尋常小学校の代用教員などを務めながら1943年に法政大学法文学部を卒業した。 法政大学商業学校教員などを経て、1951年に北海道大学教育学部の助教授となる。1954年からは、北星学園が開設した一年制の幼児教育専修学校で教育心理学の講義を担当している。
結城 吉之助(ゆうき きちのすけ、1910年(明治43年)7… 結城 吉之助(ゆうき きちのすけ、1910年(明治43年)7月5日-2003年(平成15年)12月17日)は日本の政治家。山形県村山市長、引揚者団体全国連合会副理事長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 1910年(明治43年)7月5日、山形県に生まれる。1933年(昭和8年)に法政大学を卒業し、鏡泊学園に第一期生として入学する。2年目からは鏡泊学園の教官に任命されるが、応召され、咸興歩兵第74連隊で兵役を務める。 なお、鏡泊学園は、創立者山田悌一を含む学園関係者等15名が匪賊により殺害され、また、学園の財政難もあいまって、創立3年で学園は解散する。 除隊後、満州国の官吏となり、吉林省懐徳県街村指導官、1938年(昭和13年)に伊通県地方課長、1940年(昭和15年)に樺甸県総務部長、1942年(昭和17年)から満州国協和会に出向し、鶏寧県本部事務長、協和会副参事に就任する。
石塚 太喜治(いしづか たきじ、1908年7月5日 - 19… 石塚 太喜治(いしづか たきじ、1908年7月5日 - 1994年8月8日)は、日本の美術史研究者、美術教育者、洋版画家。太平洋戦争中から戦後にかけて活動した。 千葉県山辺郡東金町(現・東金市)に父・石塚留吉、母・きせの長男として生まれる。生家は鶴牧藩士の出自といわれるが、父の代では瓦屋を営み裕福な家ではなかった。幼少の頃からその才能を見込まれ、教育の機会を得た。 千葉県立成東中学校(現・千葉県立成東高等学校)から第六高等学校文科乙類に進む。中学時代より油絵の制作を始める。六高では独語部に入り、部長の山岡望教授の下で昭和三年度と四年度に委員を務める。東京帝国大学文学部美学美術史学科に進学して1933年3月に卒業した。
桜井 成夫(さくらい なるお、1907年7月5日 - 199… 桜井 成夫(さくらい なるお、1907年7月5日 - 1993年2月21日)は、フランス文学者、翻訳家、元早稲田大学教授。東京生まれ。早大仏文科卒、1978年まで早大教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
平畑 静塔(ひらはた せいとう、1905年(明治38年)7月… 平畑 静塔(ひらはた せいとう、1905年(明治38年)7月5日 - 1997年(平成9年)9月11日)は、日本の俳人、精神科医。和歌山県出身。 本名は富次郎。海草郡和歌浦町(現・和歌山市)に生まれる。父は銀行員で静塔は三男。和歌山県立和歌山中学校、第三高等学校を経て、1931年に京都帝国大学医学部を卒業。大学時代は精神医学を専攻した。1932年結婚。1937年兵庫県立精神病院に赴任。1944年応召し南京陸軍病院に勤務。1946年京都帝大医学博士。戦後は大阪女子医学専門学校(現関西医科大学)教授、阪本病院(布施市 現・東大阪市)院長、京阪病院院長(守口市)、を歴任。1961年に宇都宮市に移り、宇都宮病院の顧問となった。
北村 謙次郎(きたむら けんじろう、1904年7月5日 - … 北村 謙次郎(きたむら けんじろう、1904年7月5日 - 1982年6月30日)は、日本の作家、評論家。本名は北村謙二郎。別名に喜多謙。 東京市麹町生まれ。本籍は山形県米沢市。父は逓信省の判任官だった。兄は造園家の北村徳太郎。 1912年に一家で満洲に移住し、大連の小学校と大連一中に通う。大連一中時代に、同級生と文芸同人誌「アンジェラス」を出す。卒業後は東京に帰り、青山学院高等科、國學院大學文学部予科に学ぶが、卒業はしていない。1930年に赤松月船の協力で文芸雑誌「文芸プランニング」を創刊し、宮沢賢治と文通を交わした。太宰治や今官一をはじめ井伏鱒二の家に集う若い作家たちとも交友を持つようになり、「青い花」の創刊に参加し、大半のメンバーが引き継がれた「日本浪曼派」同人となって、小説を発表する。
古川 丈吉(ふるかわ じょうきち、1904年7月5日 - 1… 古川 丈吉(ふるかわ じょうきち、1904年7月5日 - 1994年1月5日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(6期)。 大阪府出身。1930年東京帝国大学政治科卒。卒業後は東京市書記、同主事、杉並区議となった。1955年の第27回衆議院議員総選挙で大阪4区から無所属で立候補して初当選した。第2次池田内閣法務政務次官、衆議院運輸、逓信の各委員長を務め、党内では自民党副幹事長、大阪府連会長などを歴任した。1972年の第33回衆議院議員総選挙で落選。その後も2回立候補し続けたが、2回とも落選となり、復帰はならなかった。1980年に勲二等旭日重光章を受章した。この他、旭冷蔵社長を務めた。 1994年1月、死去。
田村 賢作(たむら けんさく、1904年7月5日 - 198… 田村 賢作(たむら けんさく、1904年7月5日 - 1989年1月11日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。 栃木県下都賀郡国分寺町(現下野市)出身。栃木師範学校を卒業。小学校教員を経て、国民学校校長や県視学官などを歴任。1951年(昭和26年)から栃木県議会議員を4期務める。この間、1959年(昭和34年)5月から1960年(昭和35年)9月まで県議会副議長を、1964年(昭和39年)2月から1965年(昭和40年)3月まで県議会議長を務めた。1965年の第7回参議院議員通常選挙で栃木県選挙区から立候補して当選。参議院議員は1期務め、第2次佐藤第1次改造内閣では行政管理政務次官を務めている。
石川 光陽(いしかわ こうよう、本名:石川 武雄。1904年… 石川 光陽(いしかわ こうよう、本名:石川 武雄。1904年(明治37年)7月5日 - 1989年(平成元年)12月26日)は、日本の警察官・写真家。福井県福井市出身。 警視総監直々の命令を受けて東京大空襲の惨状などを撮影したことで知られる。 1904年(明治37年)7月5日、福井県で石川竹次郎、とく夫妻の息子として生まれる。幼少期は、国鉄職員であった父親の仕事の関係上、福井、沼津、松本と転居している。 1919年(大正8年)、松本駅長を最後に退職した父親が写真館を開きたいといったため、東京薬学校(現・東京薬科大学)を中退し東京九段下の蜂谷写真館において修行を積む。2年間の修行後、松本で父親とともに写真館を開く。
廣田 昴(ひろた こう、1902年7月5日 - 没年不詳)は… 廣田 昴(ひろた こう、1902年7月5日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名喜多 猶光(きた なおみつ)、新字体表記広田 昴のほか、広田 昂、広田 昻、広田 宏と表記に揺れがある。 1902年(明治35年)7月5日、兵庫県西宮市に生まれる。 大阪の旧制・大阪市立工業学校(現在の大阪市立都島工業高等学校)建築科を卒業し、喜多村緑郎、秋月桂太郎らが道頓堀の朝日座を拠点にした新派の劇団「成美団」(第2期)の俳優になる。1926年(大正15年)、御室撮影所時代のマキノ・プロダクションに入社する。1928年(昭和3年)、同社を退社、同じく同社を退社して独立した中根龍太郎が設立した中根龍太郎喜劇プロダクションに合流する。
矢口 麓蔵(やぐち ろくぞう、1902年(明治35年)7月5… 矢口 麓蔵(やぐち ろくぞう、1902年(明治35年)7月5日 - 1990年(平成2年)8月13日)は、日本の外交官。初代外務省入国管理部長、初代外務省移住局長、駐チリ特命全権大使、駐キューバ特命全権大使。 山形県出身。旧制山形県立鶴岡中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)を経て、1924年神戸高等商業学校(現神戸大学)本科卒業。1931年外務省入省。特別調達庁事業局次長兼経営部長、連絡調整中央事務局第三部長、外務省管理局入国管理部長などを経て、外務省移住課参事官として移民政策を構想した。日本・カンボジア平和条約が締結された1955年からは外務省移住局長を務め、農業労働者のカンボジアへの移民を行う旨の大綱について合意を獲得した。
三品 彰英(みしな あきひで、みしな しょうえい、1902年… 三品 彰英(みしな あきひで、みしな しょうえい、1902年7月5日 - 1971年12月19日)は、日本の歴史学者、神話学者。海軍教授、大谷大学教授、同志社大学教授、大阪市立博物館館長、佛教大学教授などを歴任。 1928年、京都帝国大学文学部史学科を卒業。戦前は、智山大学講師、京都帝国大学講師、海軍教授などを務めた。 戦後の1945年、海軍教授を退職して大谷大学講師となり、1946年に同教授、1955年から同志社大学教授を1960年まで務める。退職後は大阪市立博物館館長・佛教大学教授など歴任。朝鮮古代史で著名な東北大学名誉教授の井上秀雄などを指導したほかに、1960年から日本書紀研究会を主宰するなどして関西の日本古代史研究者を多く育てた。
深水 惣吉(ふかみ そうきち、1902年7月5日 - 198… 深水 惣吉(ふかみ そうきち、1902年7月5日 - 1982年5月24日)は、日本の実業家。山陽電気鉄道社長・会長、山陽百貨店代表取締役・会長などを務め、山陽グループの発展に大きく関与した。経理・会計部門出身の実務家として知られ、鉄道、百貨店、交通、観光、メディアなど幅広い関連事業の経営に携わった。 山口県大津郡仙崎通村(現在の長門市)出身。 彦根高等商業学校(現 滋賀大学経済学部)を1927年3月に卒業し、同年4月に宇治川電気(のちの関西電力、山陽電気鉄道)へ入社した。のちに会計畑を歩み、1942年4月に山陽電気鉄道の会計課長、1946年3月に会計部長となる。その後は山陽電気鉄道の経営陣に加わり、1947年10月に取締役、1952年2月に常務取締役、1954年11月に専務取締役へ昇進した。
岸本 誠二郎(きしもと せいじろう、1902年7月5日 - … 岸本 誠二郎(きしもと せいじろう、1902年7月5日 - 1983年4月5日)は、日本の経済学者。京都大学名誉教授。専門は理論経済学。「分配と価格」に関する基本原理を作り上げた。 岡山県出身。第六高等学校を経て1925年東京帝国大学経済学部卒、同大学院入学。1940年「価格の理論」で経済学博士(東京商科大学 (旧制))。法政大学経済学部長、東京高等師範学校教授を経て、1946年京都帝国大学教授・経済学部長となる。京都大学経済研究所の創設に尽くし1962年初代所長となる。1966年定年退官、名誉教授、國學院大學経済学部教授。その後、同経済学部長。1979年國學院大學栃木短期大学3代学長(~1981年)に就任。
明石 海人 (あかし かいじん、1901年(明治34年)7月… 明石 海人 (あかし かいじん、1901年(明治34年)7月5日 - 1939年(昭和14年)6月9日) は、昭和初期に活動した日本の歌人である。本名は野田勝太郎。「もし長寿を保ったなら、昭和時代を代表する大歌人となったろう」とは大岡信の言である。 1901年 (明治34年) 7月5日、沼津市に三男として生まれた。2人の兄と1人の妹がいる。もう1人弟がいたが出生後間もなく亡くなっている。生家は経済的に恵まれており、沼津商業学校を終えると静岡師範学校へ入り教職の道に進み、1920年 (大正9年) に師範学校を卒業後、小学校教員となった。 1924年、同僚の麻子と結婚、翌1925年 (大正14年) には長女の瑞穂、続いて次女の和子をもうけた。
岡本 潤(おかもと じゅん、1901年〈明治34年〉7月5日… 岡本 潤(おかもと じゅん、1901年〈明治34年〉7月5日 - 1978年〈昭和53年〉2月16日)は、日本の詩人、脚本家である。本名-保太郎。 1901年(明治34年)7月5日、埼玉県児玉郡本庄町(現在の同県本庄市)に岡本保太郎として生まれる。 1906年(明治39年)ごろ両親が離婚し、母とともに、京都に住む母方の祖父に引き取られる。旧制・深草尋常高等小学校(現在の京都市立深草小学校)に入学するが、4年を終了した時点で本庄に帰る。1年後に京都に戻り、旧制・平安中学校(現在の龍谷大学付属平安中学校・高等学校)に入学した。卒業後上京し、中央大学、東洋大学にそれぞれ入学し、いずれも中途退学した。 大杉栄、クロポトキンらのアナキズムに共鳴、19歳になる1920年(大正9年)、同年に結成された日本社会主義同盟に参加した。
山階 芳麿(やましな よしまろ、1900年〈明治33年〉7月… 山階 芳麿(やましな よしまろ、1900年〈明治33年〉7月5日 - 1989年〈平成元年〉1月28日)は、日本の旧皇族。日本の鳥類学者。山階宮菊麿王と同妃範子(先妃)の第2王子。旧名:芳麿王。山階鳥類研究所の創設者。階級は陸軍中尉。位階勲等は正三位勲一等。爵位は侯爵。学位は理学博士(北海道帝国大学)。生前に受けた栄誉及び表彰歴としては第1級ゴールデンアーク勲章受勲及びジャン・デラクール賞受賞などがある。 1900年(明治33年)7月5日、皇族・山階宮菊麿王の第2子として東京市麹町区に誕生した。昭和天皇とは実母(範子妃)を、香淳皇后とは継母(常子妃)を通じての従兄にあたる。山階宮邸は敷地が約5500坪。
小田 嶽夫(おだ たけお、1900年7月5日 - 1979年… 小田 嶽夫(おだ たけお、1900年7月5日 - 1979年6月2日) は、日本の小説家。本名は、小田武夫。 新潟県高田町字(現・上越市)竪春日町出身。実家は呉服商。呉服商を営む父熊吉と母登美の間に生まれる。高田中学(現新潟県立高田高等学校)時代は短歌と野球に熱中。東京外国語学校(現東京外国語大学)支那語学科を卒業後、外務省亜細亜局入省。当時の局長は芳澤謙吉(後の外務大臣)。外務書記として中国・杭州の領事館などに勤務。 1926年に蔵原伸二郎の紹介で同人誌『葡萄園』に参加。のちに『文藝都市』にも寄稿する。 1930年7月に外務省を退職して文筆で身を立てることを決め、1931年に寺崎浩、田畑修一郎らと同人誌「雄鶏」(後に「麒麟」と改題)を創刊。
錦洋 与三郎(にしきなだ よさぶろう、1900年7月5日 -… 錦洋 与三郎(にしきなだ よさぶろう、1900年7月5日 - 1960年3月1日)は、鹿児島県姶良郡福山町(現霧島市)出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は豊平 才蔵。最高位は関脇(関西角力協会では大関をつとめた)だった。現役時代の体格は176cm、111kg。得意技は押し、寄り、掬い投げ。 井筒部屋に入門し、1917年5月場所に初土俵をふむ。1923年5月、新十両、1925年1月に新入幕を果たす。出足早く、攻めの相撲で鳴らした。1925年5月場所には、前頭12枚目で10勝1敗の好成績を挙げたが、優勝は同じ平幕でも上位の大蛇山酉之助に奪われた。そこから上昇気流に乗り、1927年10月には新小結、1928年には関脇に昇進した。
九代目嘉納治郎右衛門(きゅうだいめかのうじろうえもん、189… 九代目嘉納治郎右衛門(きゅうだいめかのうじろうえもん、1898年(明治31年)7月5日 - 1972年(昭和47年)3月10日)は、日本の実業家。嘉納財閥・本嘉納家9代目当主。菊正宗酒造元会長。灘育英会元理事。従七位勲六等。 岡山県出身。神戸市東灘区在住。貴族院議員や山陽銀行(現:中国銀行)頭取を務めた土居通博の次男に生まれる。 1919年(大正8年)に八代目嘉納治郎右衛門(本嘉納家8代目当主)の養子となり、本嘉納商店取締役に就任。1923年(大正12年)関西学院高等商業学部を卒業。1935年(昭和10年)3月に、8代目死去と同時に前名・文治を改め治郎右衛門を襲名し、社長に就任。以来、25年の長い間社長の重責を務め、1960年(昭和35年)会長。
田崎 勇三(たざき ゆうぞう、1898年(明治31年)7月5… 田崎 勇三(たざき ゆうぞう、1898年(明治31年)7月5日 - 1963年(昭和38年)5月24日)は、日本の医師。医学博士。癌研究会附属病院長。 長崎県出身。1924年(大正13年)東京帝国大学医学部卒。病理学、内科学を専攻し、癌研究会附属病院に入り、内科部長、副院長、院長となる。日本内科学会評議員、日本消化学会理事、日本癌学会理事、会長を歴任した。このほか横綱審議委員、巣鴨学園理事長などを務めた。1963年(昭和38年)に癌で死去した。墓所は多磨霊園。
児玉 希望(こだま きぼう、1898年 <明治31年> 7月… 児玉 希望(こだま きぼう、1898年 <明治31年> 7月5日 - 1971年 <昭和46年> 5月2日)は、日本画家、日本芸術院会員。位階は従四位。 広島県高田郡来原村原田(現・安芸高田市高宮町原田)出身。本名・省三。尾竹竹坡門下を経て、1918年に川合玉堂の門に入る。「希望」の号は竹坡がつけたもの。帝展に出品し、1921年「夏の山」で初入選。1928年帝展では洋画の手法を取り入れた「盛秋」で特選となる。以後、新文展、日展に出品。1950年日展運営会参事、伊東深水門下の白鳥映雪らとともに日月社を結成。1952年の作品「室内」により日本芸術院賞を受賞。1958年日展評議員、1959年日本芸術院会員。
原 玉重(はら たましげ、1896年7月5日 - 1983年… 原 玉重(はら たましげ、1896年7月5日 - 1983年7月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。弁護士。 岐阜県出身。1920年中央大学法律学科卒。弁護士となり、三木武吉の法律事務所で働く。その後、牛込区議、東京府議を経て、1936年の第19回衆議院議員総選挙で東京1区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。続く第20回衆議院議員総選挙でも再選された。1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて立候補したが次点で落選した。しかし、翌年大神田軍治の死去により繰り上げ当選となった。 戦後、翼賛政治体制協議会の推薦議員のため、公職追放となった。
浅野 長武(あさの ながたけ、1895年(明治28年)7月5… 浅野 長武(あさの ながたけ、1895年(明治28年)7月5日 - 1969年(昭和44年)1月3日)は、日本の美術史家、政治家、華族。貴族院侯爵議員、東京国立博物館長を歴任した。 東京市出身。侯爵・浅野長之の息子として生まれる。学習院高等科を経て、1920年、東京帝国大学文学部国史科を卒業し、さらに同大学大学院を修了。父・長之が1940年12月20日に隠居し家督を相続する。同月28日、侯爵を襲爵し、貴族院侯爵議員に就任する。火曜会に所属し、1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1927年、学習院講師に就任する。その他、内務省嘱託、帝国学士院嘱託、東京府嘱託、文部省委員、歌御会始読師などを歴任する。
仙石 久英(せんごく ひさひで、1895年(明治28年)7月… 仙石 久英(せんごく ひさひで、1895年(明治28年)7月5日 - 1960年(昭和35年)10月13日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧出石藩主家嗣子・仙石政敬の長男として生まれる。父の死去に伴い家督を相続し、1935年(昭和10年)11月15日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1921年(大正10年)3月、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。1925年(大正14年)日本郵船に入社した。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。墓所は多磨霊園(12-1-5-17)。
星野 重次(ほしの じゅうじ、1895年(明治28年)7月5… 星野 重次(ほしの じゅうじ、1895年(明治28年)7月5日 - 1985年(昭和60年)8月1日)は、昭和期の政治家。参議院議員(1期)、山梨県議会議長。 山梨県北都留郡初狩村(現大月市)で生まれる。1909年、初狩高等小学校を卒業。1937年、大月町会議員に就任。 戦後、1947年、山梨県議会議員に当選し、その後、同議長を務めた。1956年9月大月市手引動力ポンプ購入資金として10万円寄付により1957年11月27日紺綬褒章受章。1956年6月大月市立初狩中学校新築費として10万円寄付により1957年12月18日紺綬褒章受章(飾版)。1956年7月大月市立初狩中学校屋内体育館建築費として10万円寄付により1957年12月25日紺綬褒章受章(飾版)。
大屋 晋三(大屋 晉三、おおや しんぞう、1894年〈明治2… 大屋 晋三(大屋 晉三、おおや しんぞう、1894年〈明治27年〉7月5日 - 1980年〈昭和55年〉3月9日)は、日本の政治家、実業家。運輸大臣、商工大臣、参議院議員、帝人社長。戦前から戦後にかけて通算26年間にわたって帝人社長を務めた。妻は大屋政子。 群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣(現・明和町)に生まれた。父・央(なかば)は佐貫村尋常小学校の校長をしていた。母・ツネは埼玉県粕壁の本陣杉田家の娘。大屋家は代々川越藩士で、祖父は大屋門平といって柔術を指南していた。晋三が生まれた佐貫村大字川俣は館林から利根川の岸に沿う街道筋で、明治のはじめまでは宿場として本陣もあった。 1901年(明治34年)に尋常小学校に入学。
東 栄二(ひがし えいじ、1894年(明治27年)7月5日 … 東 栄二(ひがし えいじ、1894年(明治27年)7月5日 - 1947年(昭和22年)1月9日)は、日本の商工官僚。実業家。 鹿児島県出身。旧制郁文館中学、第一高等学校を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学経済学部を卒業、同年に高等試験に合格。農商務属、農商務省統計官、農商務事務官、商工省統計官、商工事務官、特許局事務官・登録課長、商工書記官・通報課長、臨時産業合理局事務官・大臣大臣官房会計課長、東京鉱山監督局長、商工省商務局長、同鉱山局長を歴任。1937年(昭和12年)、企画院産業部長となり、さらに商工省工務局長・臨時物資調整局事務官、同総務局長・機械試験所長事務取扱、燃料局長官を歴任した。
松尾 高一(まつお たかいち、1888年 <明治21年> 7… 松尾 高一(まつお たかいち、1888年 <明治21年> 7月5日 - 1973年 <昭和48年> 5月19日)は、日本の実業家。尼崎信用金庫理事長を務めた。位階は正五位。 岡山県英田郡作東町(現在の美作市)出身。1912年に関西大学専門部経済科を卒業した。 大阪市役所、日本木管での勤務を経て、1921年1月に尼崎信用組合(現在の尼崎信用金庫)を創立し、理事に就任した。1944年5月には組合長(1951年の尼崎信用金庫への改組後は、理事長)に就任した。1954年1月には尼崎商工会議所会頭にも就任した。 1952年に緑綬褒章を受章し、1959年に紺綬褒章を受章し、1965年11月に勲四等旭日小綬章を受章し、1968年には尼崎市名誉市民の表彰を受けた。
山崎 佐(やまざき たすく、1888年〈明治21年〉7月5日… 山崎 佐(やまざき たすく、1888年〈明治21年〉7月5日 - 1967年〈昭和42年〉7月30日)は、日本の弁護士、法学博士、医学博士、医史学者、医事法制学創始者。日本弁護士連合会会長、日本医史学会理事長、公安審査委員会委員長などを歴任した。 1888年(明治21年)、千葉県君津郡木更津町の医家に生まれる。1909年(明治42年)に旧制第七高等学校造士館を卒業後、1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法兼修)を卒業した。 1913年(大正2年)7月に医事法制の志を立て、東京地方裁判所予審判事として法曹実務に携わる傍ら、翌1914年(大正3年)春から医学者及び医学史家の富士川游に師事して医史学や医事法制等の研究を開始し、両分野にまたがる独特の地歩を築いた。
田尻 生五(たじり せいご、1887年(明治20年)7月5日… 田尻 生五(たじり せいご、1887年(明治20年)7月5日 - 1944年(昭和19年)7月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、鉄道政務次官。商工官僚。 福岡県山門郡大和村(現在の柳川市)出身。旧制一高を経て、1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。1916年(大正5年)、朝鮮総督府試補となり、事務官、全羅北道財務部長を歴任した。1921年(大正10年)、官営八幡製鉄所に転じ、参事、労務部長、理事を歴任した。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回、第20回でも再選を果たした。その間、第1次近衛内閣で鉄道政務次官を務めた。
平野 復男(ひらの またお、1886年(明治18年)7月5日… 平野 復男(ひらの またお、1886年(明治18年)7月5日 - 没年不明)は、日本の実業家。平野大豆工業元社長。大日本紡績(現:ユニチカ)元取締役。日本製粉(現:ニップン)元取締役。 石川県金沢市出身。大聖寺藩士であった上杉寛二の四男(または三男)として生まれる。兄は憲法学者で東京帝国大学教授の上杉慎吉。 1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学英法科を優等の成績で卒業し、同年高等文官試験に合格。神奈川県に奉職し、理事官を務める。1910年(明治43年)辞職。 その頃、たまたま縁戚にあたるユアサコーポレーション創業者の湯浅七左衛門(早川千吉郎の弟)の紹介で、摂津紡績(現:ユニチカ)取締役を務めた平野平兵衛(金沢仁作の弟)の長女・いちと結婚。
奥村 栄同(おくむら てるあつ、1886年(明治19年)7月… 奥村 栄同(おくむら てるあつ、1886年(明治19年)7月5日 - 1944年(昭和19年)12月30日)は、大正から昭和期の華族(男爵)。 加賀藩重臣奥村宗家第14代当主奥村栄滋の子として生まれる。1923年5月10日、父の死去に伴い男爵を襲爵した。 早稲田大学を卒業し金沢市役所に勤務した。 永福 - 栄明 - 栄政 - 栄清 - 時成 - 有輝 - 有定 - 修古 - 栄輇 - 尚寛 - 栄実 - 栄親 - 栄通 - 栄滋 - 栄同 - 純松 - 栄純 易英 - 庸礼 - 悳輝 - 明敬 - 温良 - 保命 - 易直 - 煕殷 - 成象 - 隆振 - 質直 - 惇叙 - 直温 - 篤輝 - 則友 - 則英 - 内膳 - 弘 - 隆弘
清瀬 一郎(きよせ いちろう、1884年〈明治17年〉7月5… 清瀬 一郎(きよせ いちろう、1884年〈明治17年〉7月5日 - 1967年〈昭和42年〉6月27日)は、大正、昭和時代の日本の弁護士、法学者、政治家。学位は法学博士。東京弁護士会会長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 弁護士としては極東国際軍事裁判で東條英機の弁護人などを務め、また政治家としては文部大臣、衆議院議長を歴任。 兵庫県飾磨郡夢前町(現・姫路市)出身。弁護士としては小作争議裁判や思想事件等の他、特許事件を多く手掛けて著作物も多く、工業所有権法(知的財産法)の分野においては実務・学問の両面において草分け的な存在であった。 政界入りしてからは普通選挙運動の推進や台湾議会設置運動への支援、治安維持法への反対などリベラルな政治家として知られてきた。
浅野 泰治郎(あさの たいじろう、1884年〈明治17年〉7… 浅野 泰治郎(あさの たいじろう、1884年〈明治17年〉7月5日 - 1947年〈昭和22年〉11月29日)は、日本の実業家。浅野財閥二代目総帥として苦境にあった浅野財閥を再建した。二代目浅野総一郎を襲名する。 初代浅野総一郎の長男で、浅野セメント深川工場で生まれた。早稲田大学商科を卒業後、セメント業研究のために欧米を何度も視察した。1930年(昭和5年)、父の死後に浅野財閥総帥になると浅野総一郎を襲名したが、弟の浅野良三に実務を任せた。1938年(昭和13年)に刊行された中外産業調査会による『中堅財閥の新研究 関東編』という書籍には「独裁的」な先代と比較して「うって変って温和な性格、よく云えば長老の風があり、悪く云えば長男型で、平々凡々だ」という人物評がある。
木村 久一(きむら きゅういち、1883年7月5日 - 19… 木村 久一(きむら きゅういち、1883年7月5日 - 1977年2月28日)は、日本の教育学者、百科事典編集者である。 山形県生まれ。1913年、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、麻布中学校、青山女学院、早稲田大学などの教壇に立った。早教育の提唱者であり、『早教育と天才』(木村久一 1917)の著がある。島中雄三を介して下中弥三郎を知り、1931年、請われて平凡社に入り、『世界大百科事典』の編集長に就いた。一説に、英単語の encyclopedia を「百科事典」と訳したのは木村である。同百科事典全28巻を完結させた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
佐藤 剛蔵(さとう ごうぞう、1880年(明治13年)7月5… 佐藤 剛蔵(さとう ごうぞう、1880年(明治13年)7月5日 ‐ 1960年(昭和35年)5月13日)は日本の医師、医学博士、医学教育者。旧姓、夏目。 新潟県長岡藩の士族、夏目洗蔵(長岡洋学校等の教員であった)の弟として生まれ、古志郡立長岡尋常中学校(現在の新潟県立長岡高等学校)を1899年(明治32年)に卒業、1902年に佐藤織居の養子となる。1906年 (明治39年)に京都帝国大学医科大学(現在の京都大学医学部)を卒業し、1907年6月に、1906年開院の平壌同仁医院長として朝鮮半島に渡った。 佐藤は 大韓医院医育課長、1916年京城医学専門学校教授、1924年に京城帝国大学医化学教授を兼任し、 1927年に京城医学専門学校の校長(第7代)を1945年まで務めた。
里見 純吉(さとみ じゅんきち、1878年(明治11年)7月… 里見 純吉(さとみ じゅんきち、1878年(明治11年)7月5日 - 1952年(昭和27年)8月3日)は、日本の実業家、社会教育家。大丸社長、大阪ユネスコ協会会長などを務めたほか、大阪夕陽丘学園高等学校および大阪夕陽丘学園短期大学の源流となる大丸洋裁研究所を創設した。 現在の千葉県山武市松尾町に生まれる。1882年、日本基督教会で受洗する。1903年、慶應義塾大学部理財科を卒業。同大学部助手に就き、直後、助手兼舎監となる。 1908年、三越に入社。1919年、業界視察のために欧米に出張する。1921年、三越を退社し、国際労働機関の会議に商業使用人顧問として出席する。 1923年、大丸の上席専務取締役として入社。
中島 秋圃 (なかしま しゅうほ、明治11年(1878年)7… 中島 秋圃 (なかしま しゅうほ、明治11年(1878年)7月5日 - 昭和36年(1961年)11月30日)は、明治時代から昭和にかけて活躍した四条派の日本画家。 東京四谷で、旧佐賀藩士の司法省検事・中島盛有(藤次郎)の長男として生まれる。本名・次郎。明治35年(1902年)7月に東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)日本画科を卒業。秋圃は川端玉章に師事し円山派を学ぶ。納富介次郎の勧誘で、あるいは定塚武敏『富山の美と心』(桂書房、1990年)に録された次郎の長女・久栄の証言によれば、父と同じく佐賀出身の大隈重信より『三年のみ』と勧められ、同年7月に富山県高岡市の県立工芸高校(現・富山県立高岡工芸高等学校)に赴任する。
田原 淳(たわら すなお、たはら すなお、1873年7月5日… 田原 淳(たわら すなお、たはら すなお、1873年7月5日 - 1952年1月19日)は、日本の病理学者。 大分県東国東郡瀬戸田村(国東市安岐町)の中嶋家の長男として生まれる。1889年に上京して東京英語学校と独逸学教会学校で学ぶ。1892年、伯父の中津藩医・田原春塘の養子となる。 1898年第一高等学校卒業、1901年東京帝国大学医学部卒業。1903年に私費でドイツに留学し、小久保恵作の勧めにより、マールブルク大学の病理学教室でルードヴィッヒ・アショフ(Ludwig Aschoff)に師事した。 ここで田原は心筋について研究を行い、1905年刺激伝導系の存在を明らかにし、刺激伝導系において重要な役割を持つ「房室結節(田原結節、田原・アショフ結節)」を発見した。
松井 康義(まつい やすよし、1871年7月5日(明治4年5… 松井 康義(まつい やすよし、1871年7月5日(明治4年5月18日) - 1915年(大正4年)10月15日)は、明治期の武家華族。子爵。旧川越藩藩主・松井松平家14代当主。旧姓は松平(まつだいら)。 川越藩の元藩主松平康英の次男に生まれる。幼名は栄松。康英は、松井松平家分家の旗本時代(当時の諱は康直)に講武所頭取、外国奉行、神奈川奉行、文久遣欧使節の副使、勘定奉行、大目付、南町奉行を歴任、旧暦元治元年(1864年)に本家を相続の後、寺社奉行、老中を歴任、また棚倉藩を襲封ののち川越藩へ転封されたが、明治2年(1869年)に家督を養子の康載(最後の川越藩主)に譲って隠居していた。 新暦1879年(明治12年)3月15日に康載の養子となり、松井姓を名乗る(松井松平家は廃藩後に松平姓を廃して松井に復姓した)。
山脇 房子(やまわき ふさこ、1867年7月5日(慶応3年6… 山脇 房子(やまわき ふさこ、1867年7月5日(慶応3年6月4日)- 1935年(昭和10年)11月19日)は、日本の教育者。夫は法学者で女子実脩学校(後の山脇高等女学校)創立者の山脇玄。旧姓・小倉。聖公会信徒。 1867年(慶應3年)出雲国松江北田町(現在の島根県松江市北田町)で松江藩士小倉忠の長女として生まれた。 1883年(明治16年)松江女子師範学校を卒業後、松江の宣教師の紹介で仙台に赴き、アメリカ人宣教師スワルツ夫妻のもとで半年間英語を学んだ。 1885年(明治18年)上京し、麻布飯倉片町のイギリス人ホールのもとで2年間、経済学や文学を学んだ後、女子教育奨励会の教師であったイングランド国教会の宣教師カロライン・カルクスのもとで25歳まで英語や洋風作法を学んだ。