古山 高麗雄(ふるやま こまお、1920年〈大正9年〉8月6… 古山 高麗雄(ふるやま こまお、1920年〈大正9年〉8月6日 - 2002年〈平成14年〉3月11日)は、日本の小説家、随筆家、編集者。芥川賞作家。 主として太平洋戦争(大東亜戦争)下の徴兵での従軍体験や、復員後の生活を舞台にした小説を発表し、いかなる場においても変わることのない人間のありかたを描き出した。 PL教団主宰の『芸術生活』誌では編集専従のデスク(副編集長)で入社し、のち編集長。『季刊藝術』誌では、音楽を担当する遠山一行、文学を担当する江藤淳、美術を担当する高階秀爾と共に、専任の編集長として同人を組み発行した。 編集者として、森敦を見出すなど、広い識見を高く評価される。また人脈も広く、予備校時代の安岡章太郎をはじめ、遠藤周作、寺山修司、田中小実昌、吉田満、小島信夫、円地文子らと深い交流を持った。
小笠原 忠統(おがさわら ただむね、1919年(大正8年)8… 小笠原 忠統(おがさわら ただむね、1919年(大正8年)8月6日 - 1996年(平成8年)5月10日)は、小倉小笠原家第32代当主。伯爵。長野県松本市立図書館長、相模女子大学教授を務めた。 兄に小笠原忠春(第31代当主となるがのちに分家)、小笠原忠幸(小笠原長丕養子で分家の小笠原子爵家14代)、姉に明子(多久龍三郎夫人)、妹に鞠子(伊達興宗夫人)。子に小笠原長雅。 小笠原長幹の三男として生まれる。東京帝国大学文学部卒業。昭和19年(1944年)、長兄の忠春が結婚問題を機に当主を辞することとなり隠居、分家した。次兄の忠幸はすでに分家を継いでいたため、忠統が小笠原伯爵家の家督を継いだ。また、総領家が代々藩主であった小倉藩の茶道小笠原古流の家元にも就任した。
野口 明(のぐち あきら、1917年8月6日 - 1996年… 野口 明(のぐち あきら、1917年8月6日 - 1996年10月5日)は、日本の野球選手。プロ野球・中日ドラゴンズの監督も務めた。明、二郎、昇、渉とプロ野球選手を輩出した野口四兄弟の長兄。
力石 健次郎(ちからいし けんじろう、1916年〈大正5年〉… 力石 健次郎(ちからいし けんじろう、1916年〈大正5年〉8月6日 - 1995年〈平成7年〉2月9日)は、日本の外交官。 愛媛県喜多郡大洲町(現:大洲市)出身。旧大洲藩士・力石八十綱の三男・力石敏三郎(海軍中佐)の次男として母マツ(海軍主計中将池辺安雄の妹)との間に横須賀市汐入で生を受ける。 敏三郎は力石雄一郎の弟にあたる。幼少期は海軍士官だった父の赴任先である朝鮮鎮海にも帯同している(妹 スミ子の出生地)。 父が本土に戻った後、一時期母マツの実家でもある熊本で暮らし熊本市立春日尋常小学校卒業~中学校入学となるが、その後横浜(神奈川区台町とも)に移り住み神奈川県立第一中学校に転校。 その後旧制第一高等学校を経て1940年(昭和15年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。
池田 敏雄(いけだ としお、1916年(大正8年)8月6日 … 池田 敏雄(いけだ としお、1916年(大正8年)8月6日 - 1981年(昭和56年)3月31日)は、島根県生まれの民俗学者。台湾の民俗学研究に携わった。 父は池田朝(旧姓:山崎)で、池田家の養子となった。池田敏雄は1923年に父親の仕事の都合で渡台し、台北市旭小学校に入学した。 1929年、台北第一師範学校に入学。石川啄木に憧れて短歌を創作し、同人誌『原生林』を発行した。 1935年に師範学校を卒業後、龍山公学校(中国語版)の教員となる。 1939年、師範学校時代に短歌を通して西川満を知り、最初の台湾民族に関する文章「台湾挑灯考」を『台湾風土記』に発表。 1940年4月、龍山公学校の任期が切れて総督府情報部嘱託となった。
伊原 徳栄(いはら とくえ、1914年8月6日 - )は、福… 伊原 徳栄(いはら とくえ、1914年8月6日 - )は、福井県出身のプロ野球選手。
村上 素男(むらかみ もとお、1914年8月6日 - 200… 村上 素男(むらかみ もとお、1914年8月6日 - 2004年5月11日)は、日本の経営者、銀行家。東京都民銀行頭取を務めた。 東京都出身。1938年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1962年に取締役、1965年に常務を経て、1972年2月に東京都民銀行専務に就任し、1973年5月に副頭取を経て、1976年8月には頭取に就任。1979年6月から1982年6月までに会長を務めた。1983年3月から1988年3月に日本銀行政策委員を務めた。 1980年11月に藍綬褒章を受章。 2004年5月11日心不全のために死去。89歳没。
浜田 敦(はまだ あつし、1913年〈大正2年〉8月6日 -… 浜田 敦(はまだ あつし、1913年〈大正2年〉8月6日 - 1996年〈平成8年〉9月21日)は、日本の日本語学者。京都大学名誉教授。 浜田耕作の子として京都に生まれる。 1939年に京都帝国大学文学部卒。新村出に師事。戦後に大阪市立大学助教授となるが、1956年に京都大学文学部助教授となり、1969年より国語学主任教授を1977年まで務めた。 1996年に心不全のため死去。 国語学で扱う主要テーマはほぼ全て網羅していたが、中心は上代日本語・中古日本語・中世日本語であった。音韻に関しては、その歴史的変遷を辿ることによって、日本語の音韻の歴史を明らかにするという方向であり、音韻体系そのものではなく、音韻体系の外側にあった音(あるいは体系の外側に生まれてきた音)について綴った。
岡田 一幸(おかだ かずゆき、1913年8月6日 - 198… 岡田 一幸(おかだ かずゆき、1913年8月6日 - 1982年1月24日)は、日本の経営者。北海道出身。 1936年に早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業し、同年に日本石油に入社。1964年5月に取締役に就任し、1968年5月に常務を経て、1976年6月に副社長に就任し、1978年6月に社長に昇格した。1980年から相談役を務めた。 1982年1月24日肝不全のために死去。68歳没。
鏡島 元隆(かがみしま げんりゅう、1912年8月6日 - … 鏡島 元隆(かがみしま げんりゅう、1912年8月6日 - 2001年2月19日)は、日本の仏教学者。道元・曹洞禅研究を研究。駒澤大学名誉教授。 静岡県生まれ。1935年、駒澤大学仏教学科卒。1961年、「道元禅師と引用経録の研究」で駒澤大学より文学博士の学位を取得。1942年駒澤大学予科講師、1949年佛教学部助教授、54年教授、総長を務め、1993年に退任、名誉教授。
山本 秀雄(やまもと ひでお、1911年8月6日 - 199… 山本 秀雄(やまもと ひでお、1911年8月6日 - 1991年11月16日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 東京市品川の二本榎に生まれた。父が寺の住職をしていた関係で小学校と中学校時代は北海道の函館で過ごし、函館中学校(後の函館中部高校)を経て早大一高に進学、この頃から柔道で頭角を現し始めた。同時期、小内落を考えだし研究し完成させた。膝を柔らかく保って両足の指先は左右に開かず真っ直ぐ平行に構え、小柄な体格と他人には真似のできないその独特の足運びから小さな大選手として名を馳せた。1933年10月の第7回明治神宮大会柔道競技では準決勝戦で東京高等師範学校の加藤幸蔵5段を小内落で降し、同門対決となった決勝戦では早大専門部の山口利雄5段の払釣込足に辛酸を舐めたものの準優勝という成績を残した。
田淵 久(たぶち ひさし、1911年〈明治44年〉8月6日 … 田淵 久(たぶち ひさし、1911年〈明治44年〉8月6日 - 1995年〈平成7年〉4月4日)は、日本の政治家。岡山県岡山市長。位階は従六位。 1911年(明治44年)岡山県岡山市生まれ。1939年3月、関西大学法学部政治学科卒業。 大学卒業後は満州国へ渡り、満州国協和会に勤務。満州国興安総省興北地区指導科長等を務めた。1945年にシベリア抑留され、1950年帰国。香川県財田町長を経て、1955年5月、岡山市長に就任。岡山市名誉市民制度を制定したほか、姉妹都市提携をアメリカ合衆国カリフォルニア州サンノゼ市と結んだ。 退任後に1959年の参院選に無所属で全国区に出馬するが落選、また1972年の衆院総選挙でも民社党公認で岡山県第1区から出馬するが落選している。
田所 太郎(たどころ たろう、1911年8月6日 - 197… 田所 太郎(たどころ たろう、1911年8月6日 - 1975年6月6日)は日本の編集者、新聞経営者。『図書新聞』の創刊者として、その名を知られる。 1911年、東京都に生まれる。京華商業学校から、銀行勤務を経て、旧制松江高等学校に進む。旧制高校時代、花森安治と出会い、校友会雑誌を編集する。花森とは生涯の親友であった。 東京帝国大学に入学し、同じく東京帝国大学に進んだ花森とともに、当時6万部を発行していた「帝国大学新聞」(東京大学の学生新聞「東京大学新聞」の前身)の編集に携わる。当時の編集部員には、他に田宮虎彦、扇谷正造、岡倉古志郎、杉浦明平などがいた。 東京帝国大学仏文科を卒業後、三省堂宣伝部、文部省社会教育局映画課を経て、昭和16年、日本出版文化協会にはいり、機関紙「日本読書新聞」の編集長として書評新聞のスタイルをつくる。
坂井 菴(さかい いおり、1909年(明治42年)8月6日 … 坂井 菴(さかい いおり、1909年(明治42年)8月6日 - 没年不詳)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者。少候13期。第二次世界大戦に参加した最古参の現役戦闘機乗りのひとりで、教官やテストパイロットとしても活躍した。最終階級は陸軍少佐。 1909年(明治42年)8月6日、岐阜県旧稲葉郡蘇原村(現各務原市蘇原町)に生まれる。岐阜中学校を卒業後、民間パイロットを目指して所沢陸軍飛行学校で操縦教育を受けた。飛行学校卒業後の1928年(昭和3年)2月、予備役下士官を志願して陸軍に入隊、航空兵伍長として平壌の飛行第6連隊に配属された。同年5月、第三次山東出兵で半年間中国へ出動し、のち明野陸軍飛行学校で助教を務めた。
原 ひさ子(はら ひさこ、1909年(明治42年)8月6日 … 原 ひさ子(はら ひさこ、1909年(明治42年)8月6日 - 2005年(平成17年)12月4日)は、日本の女優。本名は石島 久(いしじま ひさ)。旧芸名に原緋紗子、原緋沙子。 1909年(明治42年)、静岡県静岡市に四人兄妹の末っ子として生まれた。父は銀行員だったが、6歳の時に亡くなっている。 不二高等女学校(現:静岡雙葉高等学校)を卒業すると同時に上京し、伯父夫婦の養子となった。伯父は会社のエンジニアだったが、東京大学の近くで下宿と喫茶店も経営していた。この当時原は家業を手伝ったり、長唄や生け花を習うなど花嫁修業をしていた。 1933年(昭和8年)、新聞の広告で見た前進座の座員募集に応募した。
石川桂郎(いしかわ けいろう、1909年8月6日 - 197… 石川桂郎(いしかわ けいろう、1909年8月6日 - 1975年11月6日)は、日本の俳人・随筆家・小説家・編集者。東京出身。石田波郷に師事、「鶴」「壺」「馬酔木」同人、「風土」主宰。本名は石川一雄。 東京市芝区三田聖坂の理髪店の息子として生まれる。御田高等小学校卒業。家業の理髪店の仕事をしながら俳句を作りはじめ、1934年、杉田久女に入門。1937年、石田波郷の「鶴」創刊より投句し、1939年に同人となる。また、小説を横光利一に師事する。 父の死後に店主となった理髪店を文具店とするが、店員が次々に召集されて人手不足となり廃業。工場・工事関係など様々な職を転々とする。1942年、理髪店時代を描いた小説『剃刀日記』を発表。
清宮 博(せいみや ひろし、1908年8月6日 - 1976… 清宮 博(せいみや ひろし、1908年8月6日 - 1976年4月27日)は電気工学者、実業家。元富士通社長、会長。日本のコンピューターパイオニアの一人。旧姓根岸。 広島県広島市大手町(現在の同市中区)出身。広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属高校)から第一高等学校をへて東京帝国大学電気工学科卒(1932年)。逓信省電気試験所第4部に入り、光通信、電子管(マグネトロン、速度変調管)などの研究を担当。1936年、関杜夫とともにグラスファイバーを光通信に使うアイデアを発明した。 終戦後の1947年12月23日、アメリカベル電話研究所でトランジスタが発明され、翌1948年6月30日公表された。
瀧口 丈夫(たきぐち たけお、1907年8月6日 - 200… 瀧口 丈夫(たきぐち たけお、1907年8月6日 - 2002年9月21日)は、日本の経営者。東京都出身。 1931年に慶應義塾大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本石油に入社。1960年に取締役に就任し、1961年5月に常務を経て、1968年5月に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格。1978年6月に会長に就任し、1980年6月から相談役を務めた。 石油連盟会長、日本経営者団体連盟・経済団体連合会各常任理事なども務めた。 1970年10月に藍綬褒章を受章。 2002年9月21日肺炎のために死去。95歳没。
李 相佰(イ・サンベク、1904年8月6日 - 1966年4… 李 相佰(イ・サンベク、1904年8月6日 - 1966年4月14日)は、朝鮮(大韓帝国)に生まれ、日本および大韓民国で活動した歴史学者・社会学者、バスケットボール選手・指導者。 早稲田大学に留学、日本における黎明期の大学バスケットボール選手となり、スポーツ理論・競技技術の普及や、スポーツ組織の結成・運営に大きな足跡を残した。戦後の韓国においてもスポーツ界の重鎮として活動、国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めた。学生バスケットボールの日韓対抗戦である李相佰盃に名を残している。また、学者としてはソウル大学校教授を務め、歴史学・社会学に業績を残している。号は想白(サンベク/상백、発音は本名と同じ)、百無一斎。
坂本 泰良(さかもと たいら、1904年(明治37年)8月6… 坂本 泰良(さかもと たいら、1904年(明治37年)8月6日 - 1982年(昭和57年)9月6日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(6期)。中央大学名誉教授。衆議院功労議員表彰。日本社会党熊本県支部連合会会長。 1970年4月の春の叙勲で、勲二等に叙され旭日重光章を受章する。 1982年9月6日、死去。78歳没。同月10日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で正四位に叙された。
五十嵐 丈夫(いがらし たけお、1903年8月6日 - 19… 五十嵐 丈夫(いがらし たけお、1903年8月6日 - 1994年12月12日)は、日本の経営者。白洋舎社長を務めた。東京都出身。 1927年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、渡米を経て、1934年12月に白洋舎取締役に就任。 1943年12月に社長に就任し、1975年2月から1983年2月までに相談役を務めた。 1976年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1994年12月12日腸閉塞のために死去。91歳没。
真室 亜夫(まむろ つぐお、1903年(明治36年)8月6日… 真室 亜夫(まむろ つぐお、1903年(明治36年)8月6日 - 1945年(昭和20年)5月31日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、海軍司政官。 香川県綾歌郡山田村(現・綾川町)に生まれる。松山高等学校を卒業。1927年(昭和2年)12月、高等試験行政科に合格し、1928年(昭和3年)3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業する。 卒業後直ちに渡台し、交通局書記逓信部庶務課に勤務。1932年(昭和7年)3月、地方理事官に進み、台北州新荘郡守に就任。1934年(昭和9年)9月、台北州内務部勧業課長に転じ、ついで拓務事務官殖産局勤務、拓務事務官管理局管理課長、企画院書記官、拓務書記官、拓殖調査部第二課長、殖産局商工課長、水産課長兼務、殖産局水産課長、殖産局水産課事務官などを経て、1942年(昭和17年)5月、海軍司政官に選任された。
植村 諦(うえむら たい、1903年〈明治36年〉8月6日 … 植村 諦(うえむら たい、1903年〈明治36年〉8月6日 - 1959年〈昭和34年〉7月1日)は、日本の詩人、アナキスト。本名は植村諦聞(たいもん)。 奈良県吉野郡に生まれる。佛教専門学校(現佛教大学)卒。郷里で小学校の教諭をしていたが水平社運動に関係して職を追われ、朝鮮に渡って独立運動に参加。1930年に上京して、秋山清らとアナキズム系の詩誌『弾道』『文学通信』を編集。 1934年(昭和9年)に発足した日本無政府共産党では党中央委員長兼教育部長を務めるも、翌1935年(昭和10年)に発生した日本無政府共産党事件に連座して検挙される。第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)には日本アナキスト連盟結成に参加。
胡桃沢 源人(くるみさわ げんじん、1902年(明治35年)… 胡桃沢 源人(くるみさわ げんじん、1902年(明治35年)8月6日 - 1992年(平成4年)3月23日)は、日本の洋画家である。本名は源市。 長野県松本市の生まれ。矢野橋村が設立した大阪美術学校に入学し、在学中の1928年(昭和3年)に自身の作品が帝展に初入選される。1929年(昭和4年)に卒業後は、斎藤与里の門人となった。1935年(昭和10年)には東光会の会員となり、1941年(昭和16年)及び翌1942年(昭和17年)には2年連続で新文展に出品され特選となる。 その後は大阪美術学校の後輩だった日本画家の融紅鸞と結婚し、1964年(昭和39年)には浪速芸術大学(現在の大阪芸術大学)の教授となり、会員だった東光会の理事長や大阪市立美術研究所の講師も務めた。
本庄 季郎(ほんじょう きろう、1901年8月6日 - 19… 本庄 季郎(ほんじょう きろう、1901年8月6日 - 1990年4月21日)は、日本の航空技術者。三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に所属し、一式陸上攻撃機をはじめ第二次世界大戦期の航空機設計に携わった。 戦後、GHQにより航空機の開発、製造を禁じられた三菱が航空機設計の技術を使用して民間用に販売した自転車、三菱十字号や、讀賣テレビの「鳥人間コンテスト選手権大会」第一回大会(1977年)で82.44mを飛んで優勝した岡良樹パイロット操縦のハンググライダーは、本庄の設計であった。1990年、前立腺癌のため死去。 2013年公開のアニメーション映画『風立ちぬ』においては、主人公である堀越二郎の帝大時代からの親友かつ三菱での同僚として描かれた(声:西島秀俊)。
5代 上野 喜左衛門(うえの きざえもん、1901年(明治3… 5代 上野 喜左衛門(うえの きざえもん、1901年(明治34年)8月6日 - 1971年(昭和46年)8月9日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員、参議院議員。南国殖産、南国交通、長崎自動車などの創業者。 豪商・先代上野喜左衛門の長男として鹿児島県薩摩郡隈之城村大字東手の向田(のちの川内市(現薩摩川内市)向田町)に生まれ、父の死去に伴い1921年(大正10年)家督を相続し、前名次郎七を改め襲名する。 1920年(大正9年)東京商科大学(現一橋大学)予科に入学し、1927年(昭和2年)に同大学を卒業する。キッコーマンの茂木啓三郎とは大学時代からの親友。 1925年(大正14年)川内電気社長となる。
青木 重臣(あおき しげとみ、1900年〈明治33年〉8月6… 青木 重臣(あおき しげとみ、1900年〈明治33年〉8月6日 - 1982年〈昭和57年〉4月21日)は、日本の内務・警察官僚、公選初代愛媛県知事(1期)。 長野県更級郡牧郷村(現:長野市)に青木善蔵の三男として生まれる。第二高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、京都帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、石川県警部となる。 以後、麻布警察署長、六本木警察署長、深川警察署長、西平野警察署長、関東局警務課長、同特別高等警察課長、同警察官教習所長、満州国治安部特務科長、福井県書記官・警察部長、内務事務官、厚生省監理課長、情報局第一部第二課長、首相秘書官、内務省監査官、千葉県書記官・警察部長などを経て、福島県内政部長に就任。
内野 信二(うちの しんじ、1900年(明治33年)8月6日… 内野 信二(うちの しんじ、1900年(明治33年)8月6日 - 没年不明)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争中に第二次遣独潜水艦作戦を完遂した伊号第八潜水艦長である。最終階級は海軍大佐。 鹿児島県出身。鹿児島二中を経て海軍兵学校49期を卒業。皇族2名を除いた席次は174名中29番。同期に原為一、長澤浩、鹿岡円平などがいる。1922年(大正13年)5月海軍少尉に任官した。中尉時代に5艦の呂号潜水艦に乗艦し、大尉進級。水雷学校高等科へ進み、さらに同専攻科を卒業。伊号潜水艦水雷長、潜水学校教官を務め、1933年(昭和8年)11月、少佐へ進級。以後潜水学校甲種学生(潜水艦長養成過程)をはさみ5艦の潜水艦長を歴任。
横田 喜三郎(よこた きさぶろう、1896年(明治29年)8… 横田 喜三郎(よこた きさぶろう、1896年(明治29年)8月6日 - 1993年(平成5年)2月17日)は、日本の法学者、裁判官。専門は国際法。学位は、法学博士(東京帝国大学・1949年)(学位論文「国際裁判の本質」)。東京大学名誉教授。第3代最高裁判所長官。栄典は従二位・勲一等・文化勲章・文化功労者・紺綬褒章・江南市名誉市民など。 かつてはマルクス主義の読書会(ベルリン社会科学研究会)に参加するなど親社会主義的な法学者として知られ、軍部に睨まれたこともあった。1931年(昭和6年)の満洲事変に際し、自衛権範囲の逸脱だと軍部を批判した。1930年から1931年にかけて、『国家学会雑誌』上でケルゼンの純粋法学をめぐり、擁護する立場から美濃部達吉と論争を行う。
石井 悌(いしい てい、1894年8月6日 - 1959年1… 石井 悌(いしい てい、1894年8月6日 - 1959年11月19日)は、日本の昆虫学者。学位は、農学博士(東京大学・論文博士・1932年)。 神奈川県出身。東京帝国大学農科大学実科卒。農商務省入省、農事試験場技手、1932年、「日本産跳小蜂亜科ニ関スル研究(英文) 」で、東京大学より農学博士の学位を取得。1935年東京高等農林学校(現東京農工大学)教授。のち日本植物防疫協会常務理事・研究所長、日本応用動物昆虫学会評議員・会計監査。病害虫防除、農業昆虫や寄生バチの研究を行った。
井上 武士(いのうえ たけし、1894年〈明治27年〉8月6… 井上 武士(いのうえ たけし、1894年〈明治27年〉8月6日 - 1974年〈昭和49年〉11月8日)は、日本の作曲家。東京音楽大学教授。群馬県勢多郡芳賀村(現・前橋市)出身。代表作は「チューリップ」「海」。作曲数は約500曲とも200曲以上ともされ、日本音楽史上に残る数々の唱歌・童謡の作品を遺した。上記2曲は日本の歌百選に選ばれている。 日本教育音楽協会会長・全日本児童音楽連盟会長などの要職を歴任。各地の学校の校歌作曲にも多く携わった。 戦後は、新宿区戸山町の戸山ハイツに居住。活動の傍ら地元の東戸山小学校PTAコーラスの指導も行っていた。 死後の1975年(昭和50年)、生前の業績をたたえて、母校の群馬大学に群馬大学教育学部同窓会と群馬県音楽教育協会によって石碑が建立された。
東 前豊(ひがし まえとよ、1893年(明治26年)8月6日… 東 前豊(ひがし まえとよ、1893年(明治26年)8月6日 - 1974年(昭和49年)5月6日)は、日本の政治家。岐阜市長。 戦後の地方自治法による公選で選ばれた、最初の岐阜市長である。 鹿児島県大島郡知名村(現在の知名町)出身。鹿児島県師範学校(現鹿児島大学)を経て1918年(大正7年)広島高等師範学校(現広島大学)地歴科を卒業し、岐阜県師範学校教諭・訓導となった。1923年(大正12年)京都帝国大学(現京都大学)経済学部選科修了。その後、高知県師範学校教諭、熊本県立人吉高等女学校教諭を歴任した。1930年(昭和5年)に岐阜市視学・学務兵事課長に就任した。 1932年(昭和7年)から1946年(昭和21年)1月まで岐阜市助役を務めた後、辞職。
高田 眞治(たかた しんじ、1893年8月6日 - 1975… 高田 眞治(たかた しんじ、1893年8月6日 - 1975年11月24日)は、日本の漢学者。文学博士。東京帝国大学教授、大東文化大学教授。漢学会設立者。号は陶軒。西洋由来の支那学(シノロジー)ではなく日本伝統の漢学を重視した。 中国文学者、学習院大学名誉教授の高田淳は長男。 1893年、大分県宇佐郡宇佐町(現・宇佐市)生まれ。高田豊市の三男。1917年、東京帝国大学文科大学支那哲学科卒業。 卒業後は水戸高等学校教授、1924年より京城帝国大学予科教授。1928年から1930年までドイツ留学。1930年より東京帝国大学助教授。アメリカ合衆国、中華民国に留学し、帰国後の1934年より教授。1936年、文学博士が授与される。
大橋 喜久三(おおはし きくぞう、1892年(明治25年)8… 大橋 喜久三(おおはし きくぞう、1892年(明治25年)8月6日 - 1990年(平成2年)12月24日)は、実業家である。日本油脂取締役、ミサワホーム創業顧問、色材協会会長を務めた。岡山県倉敷市出身。 1892年(明治25年)、岡山県都窪郡倉敷町(現:倉敷市)の名家である大橋良平の三男として生れる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学した。同期には、丸善石油社長になる森寿五郎、日窒コンツェルン首脳陣となる笹田直二郎がいた。その後、1911年(明治44年)同校を卒業し、旧制第六高等学校へ進学する。 1915年(大正4年)に同校を卒業し、1916年(大正5年)東京帝国大学農科大学農芸化学科へ進学する。
髙島 野十郎(たかしま やじゅうろう、1890年(明治23年… 髙島 野十郎(たかしま やじゅうろう、1890年(明治23年)8月6日 - 1975年(昭和50年)9月17日)は、大正 - 昭和時代の画家。本名は彌壽(やじゅ)、字は光雄。 東京帝国大学水産学科を首席卒業した後に独学で絵の道に入り、画壇との付き合いを避け、独身を貫いた。透徹した精神性でひたすら写実を追求し、隠者のような孤高の人生を送った。生前はほぼ無名だったが、1986年に福岡県立美術館で初の回顧展が開かれ、再評価が進んだ。 福岡県御井郡合川村足穂(現・久留米市合川町)の醸造家である髙島善蔵・カツの六男二女の五男として生まれた。足穂尋常小学校、御井高等小学校を経て県立明善中学(27期生)に進む。
河目 悌二(かわめ ていじ、1889年8月6日 - 1958… 河目 悌二(かわめ ていじ、1889年8月6日 - 1958年4月23日)は、大正・昭和期の日本の画家(童画・商業美術)。愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身。初山滋、岡本帰一、川上四郎、武井武雄らとともに「童画の第一世代」のひとりである。父は教育者の河目正平。 1889年(明治22年)8月6日、愛知県碧海郡刈谷町大字熊字本屋敷(旧・碧海郡熊村、現・刈谷市八幡町)に生まれた。父親の河目正平は碧海郡熊村出身であり、刈谷藩の藩校である文礼館の教員を務めていた。母親の徳丸あやは刈谷藩江戸屋敷に生まれ、10歳の時に刈谷に移住していた。悌二は次男であり、兄1人と姉2人がいる。兄の河目揆一は小高原尋常小学校(現・刈谷市立小高原小学校)などで校長を務めた教育者である。
鈴木 祥枝 (すずき さかえ、1887年(明治20年)8月6… 鈴木 祥枝 (すずき さかえ、1887年(明治20年)8月6日- 1957年(昭和32年)2月11日)は、日本の実業家、商学博士。東京海上火災保険社長を務めた。 香川県出身。1903年(明治36年)香川県立商業学校(現香川県立高松商業高等学校)卒業。1907年(明治40年)神戸高等商業学校(現神戸大学)を第一期生として卒業。1907年(明治40年)、東京海上保険(1918年に東京海上火災保険に改称)に入社。ロンドン駐在時、鈴木商店ロンドン支店長高畑誠一、台湾銀行ロンドン支配人佐々木義彦などと親交を結ぶ。鈴木商店破綻後、日本商業(日商、現在の双日の前身企業の一つ)の創立に当たり高畑に大きな援助を与えた。
山口 政二(やまぐち まさじ、1887年(明治20年)8月6… 山口 政二(やまぐち まさじ、1887年(明治20年)8月6日 - 1927年(昭和2年)2月23日)は、衆議院議員、弁護士。 埼玉県比企郡小見野村(現在の川島町)に山口喜一郎の二男として生まれる。1910年7月に第一高等学校大学予科を、1914年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。高等文官試験に合格し、同年、朝鮮総督府試補に任ぜられ、翌1915年朝鮮総督府道事務官。その後、陸軍省御用掛、青島守備軍民政部事務官を歴任した後、1921年10月に弁護士登録し、開業した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に埼玉県第3区から立候補し、当選した。無所属であったが、1924年5月30日に中正倶楽部設立に参加し、同年10月23日に立憲政友会に移るも、1925年6月1日には新正倶楽部設立に参加した。
吉川 晴十(きっかわ はるじゅう、1885年8月6日 - 1… 吉川 晴十(きっかわ はるじゅう、1885年8月6日 - 1952年6月5日)は、日本の冶金学者。 長野県諏訪郡玉川村(現・茅野市)に生まれる。諏訪郡立実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1907年旧制第一高等学校卒業、1910年東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業する。同年より呉海軍工廠付となる。 1911年にドイツに留学する。1914年にはイギリスに渡り、マンチェスター大学で研究員を務めた。 1915年、呉海軍工廠製鋼部造兵監督官に就任する。1922年に海軍造兵中佐となる。呉海軍工廠製鋼部長(1927年)を経て、1932年に海軍造兵少将に昇進した。 1933年に東京帝国大学教授に就任。
米倉 龍也(よねくら りゅうや、1885年(明治18年)8月… 米倉 龍也(よねくら りゅうや、1885年(明治18年)8月6日 - 1980年(昭和55年)10月24日)は、日本の政治家。衆議院議員、参議院議員。 長野県南安曇郡烏川村(現安曇野市)出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、盛岡高等農林学校卒業。在学中に「平民新聞」を愛読し、河上肇の著作に感銘を受け、産業組合運動に強い関心を持つ。1907年に卒業後は千葉県農業会技師から1916年南安曇郡北部農業学校(長野県穂高商業高等学校)校長となり、烏川信用購買組合創立に参加し、理事となる。1920年から長野県農商課産業組合理事、1925年に長野県信連主事となり、昭和初期の金融恐慌に緊急貸し出しで手腕を発揮し、県下各地の産業組合や農協の充実に奔走し、各農業団体の最高責任者を歴任する。
藤井 日達(ふじい にったつ/にちだつ、1885年(明治18… 藤井 日達(ふじい にったつ/にちだつ、1885年(明治18年)8月6日 - 1985年(昭和60年)1月9日)は、熊本県阿蘇(現・阿蘇市一の宮町)出身の僧侶。 大分県の臼杵農学校に学び、1903年(明治36年)に臼杵の日蓮宗法音寺にて出家。1912年(大正元年)日蓮宗大学(現在の立正大学)入学。さらに浄土宗大学院、真言宗学林、法隆寺勤学院、真言宗連合大学、臨済宗建仁寺僧堂にて学ぶ。 1918年(大正7年)10月、旧満州の遼陽に最初の日本山妙法寺を建立、日本国内では1924年(大正13年)に最初の日本山妙法寺を、静岡県富士市の田子の浦に建立する。1930年(昭和5年)にインドに渡り、1933年(昭和8年)ガーンディーと出会い、非暴力主義に共鳴。
中山 友次郎(なかやま ともじろう、1881年(明治14年)… 中山 友次郎(なかやま ともじろう、1881年(明治14年)8月6日 - 1946年(昭和21年)11月15日)は、日本の海軍軍人、教育者。最終階級は海軍大佐。 1881年(明治14年)8月6日、高知街通町の商家阿波屋・中山友治の長男に生まれる。海南学校(現在の高知県立高知小津高等学校)を経て、1901年(明治34年)12月、海軍兵学校(29期)を卒業し、少尉候補生になる。1903年(明治36年)1月に海軍少尉任官。 その後、兵学校教官、「富士」航海長などを歴任。第一次世界大戦では駆逐艦艦長として紀淡海峡の警備につく。また地中海では第二特務艦隊第22駆逐隊(第10駆逐隊から改称)司令として英国商船の護衛に当り、ドイツ潜水艦を捕獲し勇名をあげた。
後藤 和佐二(ごとう わさじ、1880年(明治13年)8月6… 後藤 和佐二(ごとう わさじ、1880年(明治13年)8月6日 - 没年不詳)は、日本の検事、裁判官。 長野県上水内郡三輪村(現在の長野市)出身。水品安吉の二男として生まれ、後藤省三の養子となった。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。1907年(明治40年)、陸軍三等主計。東京地方裁判所予備判事、横浜区裁判所・横浜地方裁判所判事、横浜地方裁判所部長、東京控訴院判事、静岡地方裁判所部長を歴任した。 広島控訴院部長を務めた後、台湾総督府法院判官に転じ、高等法院上告部判官、高等法院検察官長、高等法院長を務めた。 1933年(昭和8年)に退官した後は、公証人となった。
宮崎 通之助(みやざき みちのすけ、1880年(明治13年)… 宮崎 通之助(みやざき みちのすけ、1880年(明治13年)8月6日 - 1964年(昭和39年)9月17日)は、日本の内務・警察官僚。官選愛媛県知事、静岡市長。 後の静岡県有渡郡大里村(現静岡市)出身。宮崎政吉の長男として生まれる。静岡県静岡尋常中学校に学び、第二高等学校を卒業。1906年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。逓信省に入省。1907年、内務省に転じ京都府属となる。 以後、福島県事務官、島根県事務官・警察部長、宮城県警察部長、北海道庁警察部長、警視庁警務部長などを歴任。 1921年6月、愛媛県知事に就任。県会多数派の政友会の後援で県政を運営したが、中央の政友会が分裂した影響で1924年6月に休職となり、1926年6月23日、休職満期となり退官。
二代目 河原崎 権十郎(かわらざき ごんじゅうろう、1880… 二代目 河原崎 権十郎(かわらざき ごんじゅうろう、1880年(明治13年)8月6日 - 1955年(昭和30年)1月11日)は、歌舞伎役者。本名は長谷 幸太郎。屋号は山崎屋。俳名に紫扇。 東京・日本橋の芝居茶屋の子として生まれる。九代目市川團十郎門人となり、明治18年(1885年)市川薫の名で新富座の『菅原伝授手習鑑・寺子屋』の菅秀才で初舞台。その後十一代目片岡仁左衛門門人となり下阪。明治38年(1905年)大阪弁天座で二代目市川権三郎を襲名する。 大阪での修業ののち帰京、大正8年(1919年)4月歌舞伎座で師匠の九代目團十郎の前名をおそって二代目河原崎権十郎を襲名。浅草の宮戸座、常盤座などの小芝居で活躍、『源平布引滝・実盛物語』の実盛や『神明恵和合取組』(め組の喧嘩)の辰五郎など、十五代目市村羽左衛門の当たり役を好んで演じ、しかも容貌や芸風までもが似ていたので「浅草の羽左衛門」と呼ばれ人気があった。
新保 寅次(しんぼ とらじ、1874年(明治7年)8月6日 … 新保 寅次(しんぼ とらじ、1874年(明治7年)8月6日 - 1955年(昭和30年))は、日本の教育者。 1874年、新保正與の次男として新潟県蒲原郡、のちの西蒲原郡曽根村(曽根町、西川町を経て現新潟市西蒲区)で生まれ、新保宇源太の養子となった。第一高等学校を経て、1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学国文科を卒業し、大学院に進んだ。 卒業後は、高田中学校教諭、福岡県立中学伝習館教諭、真岡中学校校長、宇都宮中学校校長、鹿児島県立第二鹿児島中学校校長、山口高等学校校長、松本高等学校校長を歴任し、1932年(昭和7年)から広島高等学校校長を務めた。
八木 春樹(やぎ はるき、1871年8月6日(明治4年6月2… 八木 春樹(やぎ はるき、1871年8月6日(明治4年6月20日) - 1943年(昭和18年)1月25日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・長野。 伊予国越智郡今治町(現愛媛県今治市)で、長野謙吉の弟として生まれる。1892年(明治25年)12月、素封家、酒造業・八木守三郎の養子となり、1911年(明治44年)2月に家督を相続した。 1904年(明治37年)以降、愛媛県越智郡酒造組合長、四国酒造連合会評議員、愛媛県酒造組合連合会会長、同県商工団体連合会副会長、今治商業銀行取締役、伊予相互貯蓄銀行取締役、今治清酒取締役、愛媛水力電気監査役、伊予鉄道電気監査役などを務めた。
出井 兵吉(いでい ひょうきち、1871年8月6日(明治4年… 出井 兵吉(いでい ひょうきち、1871年8月6日(明治4年6月20日)- 1960年(昭和35年)8月14日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(6期)、立憲政友会総務、羽生市初代市長等を歴任。 武蔵国埼玉郡下羽生村(のち埼玉県北埼玉郡須影村、現:羽生市)で、地主・出井熊吉の三男として生まれる。慶應義塾大学を2年で中退し、農業を営む。のち埼玉新聞社を経営。 北埼玉郡会議員、須影村会議員、須影村村長を経て、埼玉県会議員、同副議長、同議長などを務めた。1928年(昭和3年)2月20日の第16回衆議院議員総選挙に立憲政友会の推薦を受けて当選。以後、1942年(昭和17年)4月の第21回総選挙まで連続6回の当選を果し政友会総務を歴任。
堀 喜幸(ほり きこう、1868年8月6日(慶応4年6月18… 堀 喜幸(ほり きこう、1868年8月6日(慶応4年6月18日) - 1931年(昭和6年)12月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 鶴来村(現・白山市)生まれ。1880年(明治13年)3月に鶴来町立小学校を卒業した。同年4月から、1883年(明治16年)12月まで金沢で漢学を学んだ。その後は家業の醤油醸造業に従事した。1893年(明治26年)10月28日に石川郡選挙区から自由党所属で石川県会議員に当選した。1894年(明治27年)12月30日の解散に伴い退任した。1895年(明治28年)11月から1899年(明治32年)9月まで石川郡会議員を務めた。1907年(明治40年)9月30日に再び郡会議員となり、郡制が廃止となる1923年(大正12年)3月31日まで4期務めた。
武藤 虎太(むとう とらた、慶応3年7月7日(1867年8月… 武藤 虎太(むとう とらた、慶応3年7月7日(1867年8月6日) - 昭和9年(1934年)3月29日)は、日本の教育者。 肥後国菊池郡今村(熊本県菊池郡戸崎村、菊池町を経て現菊池市)に熊本藩士武藤一忠の長男として生まれた。1895年(明治28年)、東京帝国大学文科大学国史科を卒業。第五高等学校教授、第二高等学校教授、同校長を務め、1920年(大正9年)より2年間欧米を視察した。1921年(大正10年)、第四高等学校校長となり、のち第五高等学校校長に転じた。 退官後は、第五高等学校名誉教授の称号を受けた。その他、維新史料編纂会委員を務めた。