中村 四郎(なかむら しろう、1924年9月8日 - 200… 中村 四郎(なかむら しろう、1924年9月8日 - 2005年2月1日)は、日本の運輸官僚。帝都高速度交通営団総裁を務めた。 埼玉県出身。1944年、短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。同年9月、海軍経理学校に入学。1945年に経理学校を卒業し呉施設部物資主任となる。同年6月、海軍主計少尉に任官。第514設営隊主計長(築城海軍航空隊)として終戦を迎えた。 1947年に東京大学法学部政治学科を卒業し、同年に運輸省に入省した。1976年に自動車局長に就任し、1978年に官房長に就任し、1979年から1982年までに運輸事務次官を務めた。1983年に帝都高速度交通営団副総裁に就任し、1986年から1991年までに総裁を務め、東京地下鉄名誉顧問も務めた。
大高 正人(おおたか まさと、1923年9月8日 - 201… 大高 正人(おおたか まさと、1923年9月8日 - 2010年8月20日)は日本の建築家、都市計画家。福島県三春町出身。 福島県三春町に生まれる。祖父が三春藩士で河野広中をリーダーに自由民権運動の激しい戦いに身を投じ、苦難の境涯に屈することはなかったが、運動はもはやこれまでと自ら命を絶ったとされ、大高の父は、これを隠して弾圧を逃れる生活を送り、大高の生後間もなく福島市近郊に移った。 1940年旧制福島県立福島中学校(現福島県立福島高等学校)卒業。在学中器械体操部のマネージャーと美術部部長をつとめる。このころや少年時代のもっとも楽しかった想い出は、風景を水彩で写生したことだという。 41年旧制浦和高等学校理科入学。
犬丸 直(いぬまる ただし、1923年9月8日 - 2010… 犬丸 直(いぬまる ただし、1923年9月8日 - 2010年6月27日)は、日本の文部官僚。 愛知県生まれ。東京帝国大学法学部在学中に学徒出陣し、甲種幹部候補生として1945年1月に千葉陸軍高射学校を卒業、北支派遣軍隷下の唐山の高射砲中隊に配属される。4月に内地に転属し、国府台の高射砲隊にいた。 戦後復学して1948年に卒業後、文部省入省。1975年学術国際局審議官、76年管理局長、77年文化庁長官をへて退官。1980年国立劇場理事、1986-88年東京国立近代美術館館長、ユネスコ・アジア文化センター理事長、1990-2004年日本藝術院院長。
橋口 收(はしぐち おさむ、1921年(大正10年)9月8日… 橋口 收(はしぐち おさむ、1921年(大正10年)9月8日 - 2005年(平成17年)7月13日)は、日本の大蔵官僚。初代国土事務次官、公正取引委員会委員長、広島銀行頭取・会長、広島商工会議所会頭を歴任した。 学習院初等科、中等科(旧制)を経て、高等科(旧制)を卒業。中等科3年次から高等科卒業までは首席で通していた。模擬試験も上位に進出し、第一高等学校(旧制)在学生にも「学習院のすごい奴」として知られていた。1943年(昭和18年)に東京帝国大学法学部を卒業。当時助教授だった川島武宜ゼミでも抜きん出た存在であり、川島からは大学に残るように勧められていた。しかし、橋口は「象牙の塔にこもるのは性に合わない」と振りきった。
瀧 正男(たき まさお、1921年9月8日 - 2012年4… 瀧 正男(たき まさお、1921年9月8日 - 2012年4月2日)は、日本のアマチュア野球指導者、元アマチュア野球選手、体育学者。長男は野外活動、レクリエーション活動研究を専門とする中京大学スポーツ科学部スポーツ健康科学科教授の瀧克己。 愛知県一宮市出身。1936年に中京商業学校に入学し野球部に入り、5回甲子園大会に出場。1937年夏の第23回全国中等学校優勝野球大会及び1938年春の第15回選抜中等学校野球大会で捕手として優勝を経験している。バッテリーを組んだのは野口二郎であった。 中京商業を卒業後に名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学経済学部)に進学した後、軍隊に入りマレーシアへ出征。終戦後のマレーシアでの捕虜生活を経て1947年に内地復員を果たす。
中山 好三(なかやま よしぞう、1919年9月8日 - 19… 中山 好三(なかやま よしぞう、1919年9月8日 - 1982年10月8日)は、日本の経営者。日興証券社長を務めた。山口県出身。 1940年に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業し、同年に日興証券に入社した。 1962年11月に取締役に就任し、1964年11月に常務、1968年8月に専務、1972年11月に副社長を経て、1975年3月に社長に就任。1981年12月には会長に就任。 1982年10月8日肺炎のために死去。63歳没。
中村 良夫(なかむら よしお、1918年9月8日 - 199… 中村 良夫(なかむら よしお、1918年9月8日 - 1994年12月3日)は、本田技研工業(ホンダ)のエンジン技術者で、元ホンダF1チームの監督。山口県下関市入江町出身。 山口中学校、山口高等学校を経て、1940年4月に東京帝国大学工学部航空学科(原動機專修)入学、1942年9月繰り上げ卒業。同年中島飛行機(富士重工業「スバル」の前身の一つ)に入社、航空エンジン開発部門のエンジニアを務め、同時に帝国陸軍の航技中尉(技術中尉)として陸軍航空技術研究所や陸軍航空審査部に属し、超大型重爆撃機「富嶽」や ジェット戦闘襲撃機キ201「火龍」などの開発に携わる。 敗戦後、1950年オート三輪メーカーの日本内燃機製造(後の東急くろがね工業、現・日産工機)に転職。
中村 良夫(なかむら よしお、1918年9月8日 - 199… 中村 良夫(なかむら よしお、1918年9月8日 - 1994年12月3日)は、本田技研工業(ホンダ)のエンジン技術者で、元ホンダF1チームの監督。山口県下関市入江町出身。
井上 親一郎(いのうえ しんいちろう、1918年9月8日 -… 井上 親一郎(いのうえ しんいちろう、1918年9月8日 - 没年不明)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手(捕手)・高校野球監督、高校野球解説者。 米子中では捕手として清水秀雄とバッテリーを組み、5年次の1935年には甲子園に春夏連続出場したが、いずれも初戦敗退に終わる。中学卒業後は慶應義塾大学に進学し、中学の後輩である成田啓二の球を受け、東京六大学リーグで何度か首位打者争いを展開した。リーグ通算61試合出場、190打数45安打、打率.237、1本塁打を記録。大学卒業後は帝国鉱業開発、大阪鉄道管理局でプレー。終戦後は1947年のみ母校・米子中で監督を務め、地元の米子鉄道管理局へ入社。1950年に国鉄スワローズ結成に伴って入団し、初代主将として開幕から正捕手を務めた。
町村 鉄雄(まちむら てつお、1917年9月8日 - 199… 町村 鉄雄(まちむら てつお、1917年9月8日 - 1992年6月10日)は、日本の実業家。 1917年(大正6年)9月8日、北海道石狩町樽川にて、町村農場創業者の町村敬貴三男として誕生する。11歳の1928年(昭和3年)に東京の大久保町立戸山尋常小学校に転校した。旧制武蔵高等学校(入学は尋常科)から東京帝国大学に進み、1941年(昭和16年)に東京帝国大学法学部を卒業した。 1942年(昭和17年)住友銀行に入行するも、軍隊への入営のため休職となり、短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、同年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年(昭和18年)11月、海軍主計大尉に昇進した。
林 月雲(りん げつうん、英字表記:Lim Goat-hun… 林 月雲(りん げつうん、英字表記:Lim Goat-hun、1915年9月8日 - 1992年6月19日)は、日本統治時代の台湾の陸上競技選手。日本女子体育専門学校卒。オリンピック日本代表の候補に2度選出され、もし出場が実現していれば、台湾初の女子オリンピック選手となる選手であった。 1915年(大正4年)、日本統治時代の台湾の台中州彰化郡和美庄(現・彰化県和美鎮)柑子井に生まれる。彰化女子公学校を卒業後、彰化高等女学校(現・国立彰化女子高級中学)に進学する。1931年(昭和6年)彰化高女在学中、台湾籍の女性として初めて明治神宮体育大会(第6回)に出場し、三段跳で2位に入賞した。1933年(昭和8年)の第7回明治神宮体育大会では三段跳で優勝、100mで12秒5、走幅跳で5m39と2種目で台湾記録を樹立した。
山本 満夫(やまもと みつお、1915年9月8日 - 没年不… 山本 満夫(やまもと みつお、1915年9月8日 - 没年不明)は、日本の経営者。中国放送社長を務めた。広島県出身。 1941年に早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業し、同年に同盟通信社に入社。1946年に共同通信社、1949年に中国新聞社を経て、1952年に中国放送に転じ、1971年に取締役に就任し、1973年に常務、1977年に専務を経て、1980年3月から1986年6月までに社長を務めた。
三森 英逸(みもり えいいつ、大正4年(1915年)9月8日… 三森 英逸(みもり えいいつ、大正4年(1915年)9月8日 - 没年不詳)は、昭和の郷土史家。秋田県仙北郡大曲町(現大仙市)出身。 先祖は由利郡矢島(由利本荘市矢島町)の人。江戸時代の前に大曲村に移住。代々、義右衛門を名乗り、子孫は大曲に残った者、角館町(仙北市角館)に分家した者、のちに東京都へ移住した者がいるのだと云う。 旧陸軍の経理学校を卒業後、第二次世界大戦が始まり、召集され戦地へ。復員後に大曲少史編纂に関わる。1959年(昭和34年)4月10日、「仙北友報」創刊。仙北友報(現・三森印刷)代表。秋田県歴史調査委員、大曲市郷土史編纂委員、大曲文化財審議委員。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
山崎 五郎(やまざき ごろう、1913年(大正2年)9月8日… 山崎 五郎(やまざき ごろう、1913年(大正2年)9月8日 - 1976年(昭和51年)4月6日)は、昭和期の労働官僚、政治家。参議院議員(2期)。 秋田県山本郡上岩川村(琴丘町上岩川を経て現三種町上岩川)で生まれる。1932年(昭和7年)秋田県立能代中学校(現秋田県立能代高等学校)を卒業した。 秋田県庁に入庁。内務省に転じ、戦後は厚生省労政局勤務、労働省労政局労働組合課長、公共企業体等労働委員会事務局長、中央労働委員会事務局長などを歴任した。 1967年(昭和42年)1月の第31回衆議院議員総選挙で秋田県第1区から自由民主党公認で出馬して落選。1968年(昭和43年)7月の第8回参議院議員通常選挙で秋田県地方区から自民党公認で出馬して初当選。
関根 龍之焏(せきね りゅうのじょう、1913年(大正2年)… 関根 龍之焏(せきね りゅうのじょう、1913年(大正2年)9月8日 - 没年不明)は、日本の政治家。埼玉県岩槻市長(第6代 – 第8代)。 埼玉県出身。組合立中部実業学校(現・埼玉県立岩槻商業高等学校)卒。岩槻市教育委員、同市議会議員を経て、1967年、同市助役に就任する。1973年、岩槻市長であった折原一が収賄容疑で逮捕されて辞任した事に伴う岩槻市長選挙に立候補して当選し、第6代岩槻市長に就任。1985年に退任するまで、岩槻市長を3期務めた。
西谷 能雄(にしたに よしお、1913年9月8日 - 199… 西谷 能雄(にしたに よしお、1913年9月8日 - 1995年4月29日)は、出版社・未來社の創業者。新潟県佐渡島出身(北海道生まれ)。 旧制佐渡中学卒業後、ストライキで東京外国語学校ロシヤ語科を退学になり、1937年明治大学文藝科卒業。京都大学で哲学を教えていた従兄西谷啓治の世話により京都の弘文堂に勤務する。当時、弘文堂は学術出版社として名高く、「東の岩波、西の弘文堂」と言われたほどで、ほぼ官立大学・国立大学の教授の著書しか出版せず、権威主義の傾向が強かった。しかし西谷は当時まだ無名だった木下順二の『夕鶴』を弘文堂の啓蒙的叢書「アテネ文庫」に入れることを企画会議で頑強に提案した。この企画が当たって『夕鶴』が版を重ねたことから、無名の著者の原稿でも優れていれば刊行すべきであるとの信念を持つに至る。
小川 義男(おがわ よしお、1913年9月8日 - 2011… 小川 義男(おがわ よしお、1913年9月8日 - 2011年11月10日)は、日本の実業家。元住友軽金属工業(現・UACJ)社長・会長、名誉相談役、住軽アルミニウム工業社長、日本アルミニウム連盟会長。 北海道小樽市出身。1937年に東京帝国大学法学部を卒業し、住友金属工業に入社。企画課長、商務部長、東京支社長などを経て、1961年取締役、1962年支配人、1964年常務、1967年専務、1971年副社長。日向方斎社長の有力な後継者候補と言われたが、1974年に経営危機に陥っていた住友軽金属工業社長に転出。同社の再建に尽くした。1977年に住軽アルミニウム工業社長を兼任。1980年に住友軽金属工業会長となり、1986年に相談役となった。
小江 慶雄(おえ よしお/おおえ よしお、1911年 <明治… 小江 慶雄(おえ よしお/おおえ よしお、1911年 <明治44年> 9月8日 - 1988年 <昭和63年> 11月7日)は日本の考古学者。位階は従四位。 1911年滋賀県東浅井郡湖北町尾上(現・長浜市湖北町尾上)に生まれる。1933年九州帝国大学法文学部入学。考古学を学び、1936年に卒業。1948年、京都師範学校教授となり、ついで京都学芸大学で考古学を教え、後進の指導も熱心に行なった。京都学芸大学学長に就任後も精力的に国内外の遺跡調査に奔走した。 1983年勲二等瑞宝章受章。1988年死去。死没日付をもって従四位に叙された。 1970年代以降に地中海を中心として調査が進められていた欧米の水中考古学を幅広く日本の考古学会に紹介し、島国である日本における水中遺跡調査の必要性を積極的に教授したが、当時は陸上の遺跡調査が優先であって協力・賛同を得ることは困難であった。
八田 貞義(はった さだよし、1909年9月8日 - 198… 八田 貞義(はった さだよし、1909年9月8日 - 1986年12月20日)は、日本の政治家。位階は従三位。 自由民主党衆議院議員(9期)。 現在の福島県会津若松市出身。父は陸軍省参与官などを務めた八田宗吉。会津中学を経て1933年に日本医科大学を卒業後、東京市衛生試験所医学部長、厚生省国立衛生試験所細菌部長、日本医科大学教授を経て、1955年の第27回衆議院議員総選挙に自由党公認で福島2区から立候補し初当選。以後通算当選9回。恩給問題に詳しく、予算編成では党の実力者として恩給予算の適正化に尽力した。 自由民主党では池田→前尾→大平派に所属し、1962年には第2次池田内閣第2次改造内閣において内閣官房副長官を務めるなどしたが、1963年に同一選挙区から初当選した伊東正義が大平正芳の古くからの親友であったため、以降伊東に地盤を切り崩されるようになる。
片桐 典徳(かたぎり つねのり、1909年9月8日 - 19… 片桐 典徳(かたぎり つねのり、1909年9月8日 - 1991年9月21日)は、日本の実業家、鉄道実業家。京浜急行電鉄代表取締役社長、会長など重職を歴任。中興の祖と言われる。 長野県下伊那郡神稲村(現豊丘村)生まれ、旧制飯田商業学校(長野県飯田長姫高等学校)を経て、1930年昭和鉄道学校高等科卒業、湘南電気鉄道入社、駅務係として勤務しながら旧制横濱専門学校高等商業科(現:神奈川大学)1934年卒業。大東急解体後、京浜急行電鉄1955年総務部長、1975年5月27日から1981年6月25日まで社長。1975年からエヌケービー代表取締役社長。1980年12月に横浜新都市センターが設立されると同社社長に就任。
位野木 寿一(いのき(いのぎ) かずいち、1909年(明治4… 位野木 寿一(いのき(いのぎ) かずいち、1909年(明治42年)9月8日 - 2006年(平成18年)7月16日)は、日本の地理学者。学位は、理学博士(東京教育大学)。大阪教育大学名誉教授。 香川県生まれ。1935年東京文理科大学地理学科卒、1935年静岡中学校(現・静岡県立静岡高等学校)教諭、1936年大阪府天王寺師範学校教諭、1949年大阪学芸大学助教授、校名変更で大阪教育大学教授、1966年附属図書館長、1975年定年退官、名誉教授。1961年「戦後における戦災衛星都市堺の変貌」で、理学博士(東京教育大学)。 2006年7月16日、心不全のため死去。
出雲 八重子(いずも やえこ、1909年9月8日 - 没年不… 出雲 八重子(いずも やえこ、1909年9月8日 - 没年不詳)は、日本の女優である。本名は泉 ヤエ(いずみ やえ)。別名に出雲 八枝子、出雲 八恵子がある。 1909年(明治42年)9月8日、青森県八戸町(現八戸市)に生まれる(原籍地は鹿児島県鹿児島市新照院町九八)。実科高等女学校卒業後、エリアナ・パヴロワのもとでダンスを習う。 1930年(昭和5年)5月、松竹蒲田撮影所に入社、五所平之助監督の『微笑む人生』で映画デビューする。1932年(昭和7年)に斎藤寅次郎監督の『女は寝て待て』で主演の小倉繁の相手役に抜擢され、以来、剽軽で愛敬のある顔が買われて、斎藤監督の短編喜劇映画に重用された。『腰の抜けた女』では主役を務め、キネマ旬報ベストテンに第7位でランキングされた『この子捨てざれば』では女房役を好演、短編喜劇の三枚目女優として活躍した。
十朱 久雄(とあけ ひさお、1908年9月8日 - 1985… 十朱 久雄(とあけ ひさお、1908年9月8日 - 1985年12月18日)は、日本の俳優。本名は小倉 久雄。東京府東京市日本橋区小網町(現:東京都中央区日本橋小網町)出身。 軽妙洒脱な演技で多くの映画に出演し、個性派の脇役俳優として活躍した。戦前は長岡輝子らのテアトル・コメディに参加し舞台で活動、戦後から映画に出演し、作品数は250本を超える。 幼いころから芸の世界に親しみ(⇒人物)、暁星小学校から京華中学校を経て法政大学経済学部に入学し、在学中の1928年に高見順主宰の劇団制作座に参加。 1930年、大学の先輩だった三島雅夫の紹介で知り合った金杉惇郎や、フランスから帰国したばかりの長岡輝子らが結成したテアトル・コメディの創立に参加し、『ジャン・ド・ラ・リュンヌ』の主役で初舞台を踏む。
夏目 忠雄(なつめ ただお、1908年(明治41年)9月8日… 夏目 忠雄(なつめ ただお、1908年(明治41年)9月8日 - 1997年(平成9年)9月30日)は、参議院議員(2期)。長野県長野市長(3期)。長野県議会議員。 長野市生まれ。松本高等学校文科甲類、1932年東京帝国大学法学部卒業。1955年長野県議会議員当選、2期目の途中で辞職し、1962年長野市長選挙に当選、1974年第10回参議院議員通常選挙長野県選挙区に自由民主党から出馬し、初当選。1979年第2次大平内閣科学技術政務次官、1980年第12回参議院議員通常選挙で再選した。 長野市長在任中は篠ノ井市等との2市6町村合併による「大長野市」の実現に尽力した。
小林 稔(こばやし みのる、1908年(明治41年)9月8日… 小林 稔(こばやし みのる、1908年(明治41年)9月8日 - 2001年(平成13年)1月6日)は、日本の理論物理学者。京都大学名誉教授。 1933年京都大学を卒業後、理学部副手を経て、翌年理化学研究所に入所する。仁科研究室で坂田昌一博士に教えを受ける。同じく仁科研に在籍した日本で最初のノーベル物理学賞受賞者、湯川秀樹博士の中間子論の確立に協力する。 1946年、日本の研究活動を国外に知らせるため、湯川秀樹博士とともに欧文による学術誌『Progress of Theoretical Physics』(理論物理学の前進)の発行を開始し、初代編集長を務めた。 1949年(昭和24年)11月3日深夜、当時京都大学の総長だった鳥養利三郎は、新聞社からの電話で湯川秀樹のノーベル賞受賞の報に接し、すぐに大学として記念事業を行うことを思い立った。
坂本 徳松(さかもと とくまつ、1908年9月8日 - 19… 坂本 徳松(さかもと とくまつ、1908年9月8日 - 1988年8月13日)は、日本の国際政治評論家。 高知県中村市出身。東京帝国大学文学部社会学科卒業後、南満州鉄道株式会社(満鉄)東亜経済調査局に入る。1954年、日本ベトナム友好協会を創立。1955年、ニューデリーで開かれたアジア諸国民会議に出席、のちアジア・アフリカ人民連帯日本委員会、日本カンボジア友好協会理事長など。1956年より愛知大学政経学部教授。社団法人中国研究所評議員。1974年、北方領土返還促進運動を組織。
津田 四郎(つだ しろう、1908年9月8日 - 1965年… 津田 四郎(つだ しろう、1908年9月8日 - 1965年2月23日)は、兵庫県氷上郡柏原町(現:丹波市)出身のプロ野球選手(捕手・内野手・外野手)、プロ野球審判員。 旧制関西中学校卒業後、中国大陸へ渡って満洲電信電話社員として勤務しながらノンプロ野球チームである大連実業團に入ってプレーする。大連実業のメンバーとして第2回全日本都市対抗野球大会(1928年)に出場している。その後、奉天日満実業團へ移ってプレーした。 1934年、日本へ戻ると大日本東京野球倶楽部(現在の巨人軍)結成に加わり、翌年の第一次アメリカ合衆国遠征に参加した。 1936年、第二次アメリカ合衆国遠征に際して田部武雄の後を受けて第3代巨人軍主将に任命される。
高田修(たかた おさむ、1907年9月8日 - 2006年1… 高田修(たかた おさむ、1907年9月8日 - 2006年10月27日)は、日本の仏教学者。東北大学名誉教授。インド哲学・仏教美術専攻。 三重県生まれ。1931年東京帝国大学文学部印度哲学科卒業。副手、52年東京国立文化財研究所に入る。60年「醍醐寺五重塔の壁画」(共同研究)で日本学士院賞恩賜賞受賞。61年「仏像の起源」で東京大学文学博士。62年文化財研究所美術部長、1969年東北大学文学部教授、71年定年退官、名誉教授、成城大学教授、78年退職。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
生田 宏一(いくた こういち、1905年(明治38年)9月8… 生田 宏一(いくた こういち、1905年(明治38年)9月8日 - 1982年(昭和57年)9月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。 徳島県名西郡石井村石井で生田和平の息子として生まれる。徳島県立徳島中学校を卒業。 1935年(昭和10年)、徳島県会議員に当選。父の後継として1953年(昭和28年)、第26回衆議院議員総選挙に徳島県全県区から立候補し初当選。以来、1963年(昭和38年)まで4期を務める。 1958年(昭和33年)に第2次岸内閣で労働政務次官、1962年(昭和37年)に第2次池田第2次改造内閣で防衛政務次官を歴任した。 1975年(昭和50年)11月の秋の叙勲で勲八等から勲二等に叙され、瑞宝章を受章する。
桂 鎔黙(けいようもく、ケ・ヨンムク、1904年9月8日 -… 桂 鎔黙(けいようもく、ケ・ヨンムク、1904年9月8日 - 1961年8月9日)は、朝鮮の小説家。本貫は遂安桂氏。短篇小説を多く執筆した。なかでも「白痴アダダ (백치 아다다)」は桂の代表作となっている。 1904年9月8日、平安北道宣川郡南面三省洞群賢里706番地に生まれる。父は桂恒教、母は竹山朴氏、1男3女の長男。祖父の桂昌琠は参奉(官職従九位)を勤め、詩文にも優れた人であった。桂の教育は祖父により行われ、幼い頃より漢文を学んだ。10歳になると、新教育を受ける許しを得て、三峰公立普通学校に入学する。また、この頃、順興安氏の安静鈺と結婚する。 厳しい祖父の古い教育としきたりに反発するように、1921年、桂は祖父に無断で上京する。
木島 公之(きしま きみゆき、1904年〈明治37年〉9月8… 木島 公之(きしま きみゆき、1904年〈明治37年〉9月8日 - 2001年〈平成13年〉)は、日本の実業家、政治家。鳥取県八頭郡若桜町長。鳥取県議会議長(45代、48代、54代)。日本海新聞社長。自民党鳥取県連顧問。 鳥取県八頭郡若桜村(現・若桜町)出身。木島岩太郎の長男。1929年(昭和4年)、慶應義塾大学経済学部を卒業する。林業を営む。27歳で若桜運送取締役、ついで大同木材、若桜林材などの経営に参画する。 1944年(昭和19年)、若桜町長に選ばれる。終戦後の最初の衆議院選に進歩党(のちの民主党)公認として出馬したが、次点に終わる。1951年(昭和26年)、県議選に出馬して当選する。 1952年(昭和27年)6月24日、県議会議長に就任する。
石田 磊(いしだ らい、明治36年(1903年)9月8日 -… 石田 磊(いしだ らい、明治36年(1903年)9月8日 - 昭和62年(1987年))は、日本の商工官僚・実業家。通産省鉱山局長。 鳥取県米子市明治町出身。石田悦の長男。 大正14年(1925年)、文官高等試験行政科に合格。昭和2年(1927年)東京商科大学(現一橋大学)卒。商工省に入省。 昭和15年(1940年)博覧会主任官として渡米、昭和16年(1941年)より満州国政府招聘、昭和20年(1945年)商工省復帰、鉱山局長、大阪商工局長を歴任。 昭和24年(1949年)退官、同年平仙レース(株)顧問、大日実業(株)取締役、昭和28年(1953年)カナダ国トロント市国際見本市に参加、欧米各国を歴訪した。
大島 一郎(おおしま いちろう、1903年9月8日 - 19… 大島 一郎(おおしま いちろう、1903年9月8日 - 1985年4月21日)は、日本の実業家。中日新聞社社主、東海テレビ放送会長、東海ラジオ放送会長を務めた。愛知県東春日井郡小幡村(守山町→守山市を経て現在の名古屋市守山区)出身。 東海テレビ放送、東海ラジオ放送の創業者。 1927年(昭和2年)に早稲田大学政治経済学部を卒業し、時事新報を経て1929年(昭和4年)に祖父の大島宇吉が興した新愛知新聞社へ入社。傘下の國民新聞総務局長を経て1935年(昭和10年)に伯父の大島慶治郎が死去した後を受けて新愛知支配人となり、1941年(昭和16年)より同社社長に就任。翌1942年(昭和17年)には戦時下の新聞統制を受けて競合紙の名古屋新聞との合併により発足した中部日本新聞社の初代社長に就任し、名古屋新聞総務局長の小山龍三(小山松寿の娘婿)を副社長に迎える。
和達 清夫(わだち きよお、1902年(明治35年)9月8日… 和達 清夫(わだち きよお、1902年(明治35年)9月8日 - 1995年(平成7年1月5日))は、日本の地球物理学者・歌人。専門は、気象学・地震学。理学博士(東京帝國大学・1932年)。初代気象庁長官。深発地震の存在を証明し、分布を指摘してプレートテクトニクスに先鞭をつけた。 愛知県名古屋市生まれ。息子に物理学者・和達三樹がいる。 西須諸次(さいす もろじ)の名でエッセーを執筆した。 天王寺中学、東京開成中学、一高を経て、1925年(大正14年)3月に東京帝國大学理学部物理学科を卒業。中央気象台に入り、1932年、東京帝國大学から理学博士の学位を取得する。 1947年(昭和22年)第6代中央気象台台長につき、1956年(昭和31年)に組織改変により初代気象庁長官に就任。
大谷 一雄(おおや かずお、1902年9月8日 - 1985… 大谷 一雄(おおや かずお、1902年9月8日 - 1985年6月28日)は、日本の実業家。住友化学元社長。富山県出身。 1928年に京都帝国大学法学部を卒業し、住友合資本社に入社した。 1935年に住友化学工業に転職、1944年から1946年まで住友金属工業で勤務したのち、1946年に住友化学工業に復帰し、1956年から専務を務め、1963年2月から1965年2月まで社長を務めた。 関西経済同友会幹事や全日本剣道連盟顧問、副会長なども務めた。 1963年11月に藍綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1985年6月28日心筋梗塞のために大阪市内の病院で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
伊波 南哲(いば なんてつ、1902年9月8日 - 1976… 伊波 南哲(いば なんてつ、1902年9月8日 - 1976年12月28日)は日本の詩人・作家。 八重山諸島石垣島出身。本名・興英。高等小学校卒。1923年近衛兵として上京。除隊後警視庁に入り、丸の内警察に勤務。佐藤惣之助に師事し詩之家同人となる。27年詩集『南国の白百合』を出版。41年警視庁を退職、敗戦時には福岡にいて火野葦平らと交わっていた。火野の『革命前後』に「志波春哲」として登場する。 東京練馬区の自宅にて肺炎のため死亡(享年74)。 代表作は1500年に石垣島で起こったオヤケアカハチの乱を題材にした長編叙事詩『オヤケ・アカハチ』。沖縄地方の民話・怪談を多数書き残している。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
飯国 壮三郎(飯國 壯三郎、いいぐに / いいくに そうざぶ… 飯国 壮三郎(飯國 壯三郎、いいぐに / いいくに そうざぶろう、1901年(明治34年)9月8日 - 1955年(昭和30年)10月27日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 島根県簸川郡塩冶村上塩冶(現出雲市上塩冶町)で、飯国恒一の六男として生まれる。同郷出身の宍道政一郎(出雲製織創業者)の書生を務めながら、堺中学(現大阪府立三国丘高等学校)、関西大学専門部法律科を卒業した。 宍道が経営していた大阪帆布、出雲製織で勤務。1941年(昭和16年)、出雲製織、錦華紡績、日出紡織、和歌山紡織が合併して大和紡績が設立されると、出雲工場長に就任。戦後は、常務、専務取締役を務めた。その他、島根県商工経済会評議員、石見人絹工場取締役、島根繊維工業取締役・社長、大和工業取締役、浜田機械工業取締役、大和農機具工業社長なども務めた。
三枝 源次郎(さえぐさ げんじろう、1900年9月8日 - … 三枝 源次郎(さえぐさ げんじろう、1900年9月8日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。 1900年(明治33年)9月8日、東京府豊多摩郡渋谷村、のちの東京市渋谷区渋谷3丁目8番地に当たる地に生まれる。 1921年(大正10年)3月、東京物理学校(旧制専門学校、現在の東京理科大学)を卒業し、同年5月、日活向島撮影所監督部に入社する。細山喜代松、若山治、鈴木謙作に師事、同僚助監督の溝口健二とは連日酒杯を傾け、論じあう仲であった。1923年(大正12年)8月10日に公開された若山治監督の『男性の意気』には、脚本家としてクレジットされている。同年9月1日に起きた関東大震災によって同撮影所は壊滅し、現代劇部は日活京都撮影所に移転し、三枝は、そこでも脚本を書き、鈴木謙作の監督作に採用されている。
関 鑑子(せき あきこ、1899年(明治32年)9月8日 -… 関 鑑子(せき あきこ、1899年(明治32年)9月8日 - 1973年(昭和48年)5月2日)は、日本の声楽家、音楽教育者、音楽評論家。プロレタリア音楽同盟の委員長に選ばれ、「アカイ歌手」と騒がれた。 第二次世界大戦後、日本共産党員として同党の文化政策に基づく実践活動を行い、国内外において、日本のうたごえ運動の創始者と見なされるようになった。 父 関厳(美術評論家。雅号 "関如来")、母 トヨの長女として、東京都本郷区龍岡町(当時)に生まれる。弟に関忠亮。関家は代々郡山藩の江戸詰め御典医の家系で、読売新聞の美術担当だった父親は美術評論の草分けであり、鑑子が生まれた時はパリ万国博覧会 (1900年)へ出品する美術品の鑑定官をしていたことから、娘の名に「鑑」の字をつけ、秋生まれであったことから「アキ」と読ませた。
舘脇 操(たてわき みさお、1899年9月8日 - 1976… 舘脇 操(たてわき みさお、1899年9月8日 - 1976年7月18日)は、日本の植物学者。 神奈川県横浜市生まれ。1918年、北海道帝国大学予科入学。農学部に進み、植物学教室の宮部金吾に学ぶ。1924年同大学卒業。1933年農学博士取得、1945年理学博士取得。1935年北海道帝国大学助教授を経て1952年に北海道大学教授となり、1958年からは北海道大学附属植物園長を兼務した。1963年、定年により北大を退職した後は酪農学園大学、札幌商科大学教授を歴任。 植物分類地理学を専門とし、森林生態学に業績をあげた。1949年に北海道文化賞、1960年に日本農学賞、1972年に北海道新聞文化賞を受賞した。
西岡 喜平(にしおか きっぺい、1899年(明治32年)9月… 西岡 喜平(にしおか きっぺい、1899年(明治32年)9月8日 - 没年不明)は、日本の政治家。元小松島市長。旧制神戸育英高等学校卒業。徳島県小松島市出身。 小松島市出身。1916年(大正5年)、旧制神戸育英高等学校中退。 その後、小松島町役場に就職し、土木係技手・土木係主任・土木課長を経て1947年(昭和22年)に小松島町助役に就任。1949年(昭和24年)には小松島町長に就任。 1951年(昭和26年)に初代小松島市長に当選。1953年(昭和28年)まで2期を務めた。また小松島選挙管理委員長等を歴任した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
数藤 鉄臣(すどう かねおみ、1896年(明治29年)9月8… 数藤 鉄臣(すどう かねおみ、1896年(明治29年)9月8日 - 1994年(平成6年)3月26日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、海軍司政長官。旧姓・村上。 本籍島根県。旧松江藩士・地方行政官、村上寿夫の二男として岡山県に生まれる。松江市北堀尋常小学校、松江中学校を卒業。海軍兵学校を志願したが、試験前の水泳で外耳炎となり身体検査で不合格となる。1915年2月、第一高等学校数学教授・数藤斧三郎の養子となる。第一高等学校第一部甲類を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年4月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年7月、内務省に入省し内務属となり警保局図書課に配属された。
四宮 久吉(しのみや ひさきち、1895年9月8日-1980… 四宮 久吉(しのみや ひさきち、1895年9月8日-1980年11月10日)は、日本の政治家であり弁護士。徳島県石井町出身。位階および勲等は、従四位・勲二等。 医師の書生として明治大学を卒業後、弁護士となる。 東京府会議員(3期)、東京都議会議員(文京区選出・5期)、東京都議会議長、全国都道府県議会議長会会長をへた後鳩山一郎の後見を得て、文京区で衆議院議員として第30回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第31回までの6年間を衆議院議員として国政に携わる。この間、青色申告や戦後帰還事業、競艇事業の推進に貢献し、中曽根康弘の最初の派閥メンバーとして参画したのちに引退。 最終的に都議会議員時代に秘書であった深谷隆司に議席を譲る。
坪井 誠太郎(つぼい せいたろう、1893年9月8日 - 1… 坪井 誠太郎(つぼい せいたろう、1893年9月8日 - 1986年9月22日)は、日本の地球科学者。専門は、地質学・鉱物学・岩石学。
陳 建功(チン・ケンコウ、1893年9月8日 - 1971年… 陳 建功(チン・ケンコウ、1893年9月8日 - 1971年4月11日)は、中国の数学者。杭州大学副学長、中国数学会副理事長などを務めた。日本への外国人留学生初の理学博士号取得者。 浙江省紹興市出身。杭州の両級師範学校を経て、1913年から日本に留学し、1918年東京高等工業学校(のちの東京科学大学)色染科卒業。並行して夜学に通い、1919年東京物理学校(のちの東京理科大学)数学科卒業。1923年東北帝国大学理学部数学科卒業。 1924年国立武昌大学教授。1926年東北帝国大学大学院に進学。外務省の対支文化事業の特選留学生に選定され、1929年には外国人留学生として初めて理学博士(東北帝国大学)の学位を取得した。
舞出 長五郎(まいで ちょうごろう、明治24年(1891年)… 舞出 長五郎(まいで ちょうごろう、明治24年(1891年)9月8日 - 昭和39年(1964年)7月15日)は、日本の経済学者。経済学博士。東京大学名誉教授。日本学士院会員。五女は政治評論家三宅久之の兄で元福島大学経済学部教授三宅皓士の妻。 神奈川県出身。幸次郎の四男。 大正6年東大政治科卒業。同大学院特選給費学生を経て大正8年1月助教授に任ぜられ経済学研究のため欧米に留学。同12月経済学部教授となり経済学部長に就任。 昭和10年学術視察のため欧米に出張。昭和22年12月学位を受け昭和24年10月学士院会員に選ばれ昭和27年3月東大教授を退職。翌月学習院大学教授となり政経学部長を依嘱さる。 厚木中学、一高を経て東京帝国大学では高野岩三郎に師事する。
三浦 義秋(みうら よしあき、1890年(明治23年)9月8… 三浦 義秋(みうら よしあき、1890年(明治23年)9月8日 - 1953年(昭和28年)12月23日)は、日本の外交官。駐メキシコ公使。 滋賀県出身。1916年(大正5年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1919年(大正8年)、高等試験外交科に合格した。外務事務官、対支文化事務局事務官、アメリカ合衆国大使館三等書記官、中華民国公使館三等書記官、関東庁事務官・長官官房外事課長、上海領事、中華民国公使館二等書記官、廈門領事・台湾総督府事務官、中華民国公使館一等書記官、漢口総領事、ロンドン総領事、上海総領事、中華民国大使館参事官を歴任。1940年(昭和15年)、駐メキシコ公使に任命され、1943年(昭和18年)に退官した。
矢野 橋村(やの きょうそん、1890年(明治23年)9月8… 矢野 橋村(やの きょうそん、1890年(明治23年)9月8日 - 1965年(昭和40年)4月17日)は、日本画家。愛媛県越智郡(現今治市)出身。本名一智、別号「知道人」。晩年、日本南画院の設立に関わった。 1890年(明治23年)9月8日、愛媛県越智郡に生まれる。大阪陸軍造兵廠にて勤務中に左手首切断の負傷を負う。その後南画家を志し永松春洋へ師事し、右手一本で創作活動を行う。 1914年(大正3年)、第8回文展にて「湖山清暁」が褒章を受賞。1919年(大正8年)、直木三十五、福岡青嵐らと「大阪文化の抜本的改革を提唱する美術・文学・哲学などを文化総体として捉えた研究団体」として主潮社を結成、毎年東京と大阪で個展を開催する。
阿部 規秀(あべ のりひで、1887年(明治20年) 9月8… 阿部 規秀(あべ のりひで、1887年(明治20年) 9月8日 ‐ 1939年(昭和14年) 11月7日)は、日本陸軍の軍人。陸士19期。最終階級は中将。正四位勲一等功三級(追贈)。 日中戦争にて八路軍との交戦中に戦死し、中将としては帝国陸軍の創設以来初の戦死者となった。 青森県旧北津軽郡七和村羽野木沢(現五所川原市)出身。衆議院議員・阿部武智雄の次男。就学前から一つ上の兄について行って小学校に出入りしており、教師の計らいで二年生に中途入学扱いとなる。そのため、兄と同学年として青森県立第一中学(現:青森県立弘前高等学校)に進学した。弘前では中士士族の鎌田家に下宿し、城陽館で剣道に打ち込んだ。 1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校を卒業。
飯田 精太郎(いいだ せいたろう、1885年(明治17年)9… 飯田 精太郎(いいだ せいたろう、1885年(明治17年)9月8日 - 1952年(昭和27年)3月7日)は、明治末から昭和前期の鉄道技術者、政治家、華族。貴族院男爵議員、参議院議員。 山口県出身。陸軍士官・飯田俊助、マサ夫妻の長男として生まれる。1907年(明治40年)京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業。父・俊助の死去に伴い、1914年(大正3年)4月23日、家督を相続し男爵を襲爵した。 1908年(明治41年)臨時台湾工事部嘱託に就任。以後、臨時台湾工事部技師、鉄道技師、鉄道省新橋電力事務所長、同東京電気事務所長、同電気局長、運輸通信次官、技術院参与、鉄道電気工業 (株) 相談役、鉄道電化協会会長、鉄道会議議員、工作機械製造事業委員会委員、帝都高速度交通営団評議員、産業設備評価中央委員会委員などを務めた。