鵜飼 信成(うかい のぶしげ、1906年(明治39年)3月9… 鵜飼 信成(うかい のぶしげ、1906年(明治39年)3月9日 - 1987年(昭和62年)5月10日)は、日本の法学者。専門は、憲法・行政法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1956年)。元日本学士院会員。美濃部達吉門下。 1906年、東京都生まれ。 この他、1967年~1973年旧司法試験第二次試験考査委員を務めた この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
曾我 正史(そが まさし、1906年3月9日 - 1987年… 曾我 正史(そが まさし、1906年3月9日 - 1987年3月4日)は、日本の映画プロデューサー、実業家、映画監督、脚本家である。旧芸名曾我 正男(そが まさお)、映画監督としては振津 嵐峡(ふりつ らんきょう)を名乗った。戦後、大映専務取締役、東京第一フィルム代表取締役等を歴任した。 1906年(明治39年)、新潟県中蒲原郡亀田町に生まれる。大倉商業学校(現在の東京経済大学)卒業。 初期には、帝国キネマ演芸で脚本を書き、助監督をしていた。記録に登場する最初の作品は、1926年(大正15年)12月1日に公開された、帝国キネマ演芸芦屋撮影所製作、市川百々之助・霧島直子主演、押本七之助監督による『侠客』であった。
嶽山 貞治郎(たけやま ていじろう、1905年 <明治38年… 嶽山 貞治郎(たけやま ていじろう、1905年 <明治38年> 3月9日 - 1989年 <平成元年> 11月4日)は、日本の経営者、銀行家。滋賀銀行頭取を務めた。位階は従五位。 滋賀県出身。1927年に彦根高等商業学校を卒業し、1928年に八幡銀行(のちの滋賀銀行)に入行。1951年に取締役に就任し、1957年10月に常務を経て、1963年10月には頭取に就任。1971年11月に会長を経て、1973年11月には相談役に就任。 1971年10月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲四等瑞宝章を受章。 1989年11月4日、急性肺炎のために死去。84歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
内海 清(うつみ きよし、1904年(明治37年)3月9日 … 内海 清(うつみ きよし、1904年(明治37年)3月9日 - 1991年(平成3年)3月12日)は、日本の内務・警察官僚。芦屋市長。 兵庫県揖保郡、のちの揖西村(現たつの市)で内海仙の二男として生まれる。1928年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、さらに1930年には同大経済学部を卒業した。1929年10月、高等試験行政科試験に合格し、1930年、内務省に入省し山口県属となる。 以後、熊本県警察部警務課長、新潟県警察部警務課長、大阪府土木部総務課長、同総務部議事課長、同人事課長、関東州庁警察部長、石川県警察部長、茨城県経済第二部長、東京都書記官・官房会計課長、兵庫県経済部長、同総務部長などを歴任。
出水 春三(でみず はるぞう、1904年3月9日 - 197… 出水 春三(でみず はるぞう、1904年3月9日 - 1970年10月29日)は、日本の英文学者。 1927年東京帝国大学文学部英文科卒、島根県立三刀屋中学校教諭、29年(旧制)松江高等学校講師、31年教授、37年(旧制)松山高等学校教授、1949年愛媛大学教授、1954年広島大学教授、67年定年退官、名誉教授、親和女子大学教授。在職中に66歳で死去。
三浦 義男(みうら よしお、1904年(明治37年)3月9日… 三浦 義男(みうら よしお、1904年(明治37年)3月9日 - 1999年(平成11年)1月31日)は、日本の官僚。官選山形県知事、衆議院法制局長。旧姓・妹川。位階は正三位。 福岡県福岡市出身。妹川将雄の四男として生まれ三浦良幹の婿養子となる。第五高等学校を経て、1929年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。前年10月、高等試験行政科試験に合格。 1929年、内務省に入り愛知県属となる。以後、茨城県学務課長などを務め、宮内省に転じた。帝室林野局庶務課長、宮内省参事官、内匠寮監理、内蔵寮用度、大膳寮庶務、主馬寮庶務、宮内省大臣官房連絡事務室長などを歴任。 福島県内務部長を経て、1946年10月、山形県知事に就任し1947年3月まで在任。
東野辺 薫(とうのべ かおる、1902年〈明治35年〉3月9… 東野辺 薫(とうのべ かおる、1902年〈明治35年〉3月9日 - 1962年〈昭和37年〉6月25日)は、日本の小説家・劇作家。本名、野辺 慎一。福島県在住者として、初めて芥川賞を受賞した。 福島県二本松出身。旧制安積中学校を経て、1923年早稲田大学高等師範部国漢文科卒業、長野県立大町中学校教諭となる。1925年福島県立安達中学校教諭、1930年、戯曲集『黎明を待つ人々』を自費出版、1940年福島県立会津中学校教諭、1941年、懸賞小説当選作「国土」が『サンデー毎日』に掲載される。1943年福島県立保原中学校教諭。1943年、「和紙」で芥川賞を受賞。 1948年福島県立福島女子高等学校教諭、1949年福島県立福島商業高等学校夜間部教諭を経て、1952年に教員を退職。
倉野 憲司(くらの けんじ、1902年3月9日 - 1991… 倉野 憲司(くらの けんじ、1902年3月9日 - 1991年2月28日)は、日本の国文学者。福岡女子大学名誉教授。学位は文学博士(東京大学・論文博士・1951年)。 福岡県遠賀郡芦屋町に生まれる。1926年に東京帝國大学文学部国文学科を卒業後、ただちに成城高等学校教授となり、以後、東京女子大学教授、広島文理科大学助教授、文部省図書監修官、神宮皇學館大學教授を歴任。 戦後は鈴鹿高等学校教諭等を経て、1950年に福岡女子大学教授に就任。同大学において1952年に学生部長、1956年に文学部長、1962年に図書館長など要職を歴任し、1964年には学長となり、1972年まで3期8年間つとめた。同年退職して同大学名誉教授、また勲二等瑞宝章を受章。
大塚 末子(おおつか すえこ、1902年3月9日 - 199… 大塚 末子(おおつか すえこ、1902年3月9日 - 1998年11月25日)は、日本のファッションデザイナー。 福井県敦賀市出身。実業学校中退後、呉服屋のお針子となり、上京して1932年結婚。夫の勧めで文化服装学院に入学して洋裁を学び、1935年に卒業。 『暮しの手帖』第5号(1949年)に、考案した「もんぺスーツ」が掲載される。1948年に夫と死別し、『装苑』の編集者を務めていたとき、仕事で出会ったイサム・ノグチに、着用していたもんぺスーツの素晴らしさを指摘されて退社、ファッションデザイナーとなる。 1952年から銀座の「たくみ工芸店」に勤務するかたわら、本来は洋裁のものである型紙や洋服地を和服に導入して、機能的な和装デザインを次々と考案した。
篠原 昌三(しのはら しょうぞう、1899年3月9日 - 1… 篠原 昌三(しのはら しょうぞう、1899年3月9日 - 1986年)は、日本の通信技術者、実業家。 篠原多一郎の三男として福岡市に生まれる。1918年福岡県立中学修猷館を経て、1922年7月東京高等工業学校(現・東京工業大学)電気科を卒業。 卒業後、朝鮮総督府逓信局の技手となる。同局において放送用無線電話(ラジオ放送)の調査研究と知識普及のために、官営の実験用無線電話局を開設することが計画され、篠原にその任務が命ぜられる。1924年1月に東京に赴き、技術修得と共に、通信機器を調達、京城に戻り、通信設備工事と機器調整を行い、同年11月、朝鮮半島最初の放送電波を発射した。1926年11月京城放送局(コールサイン「JODK」)が設立され、篠原はその技術責任者として通信設備を構築し、1927年2月16日、1kw放送設備での本放送が開始された。
安西 冬衛(あんざい ふゆえ、1898年〈明治31年〉3月9… 安西 冬衛(あんざい ふゆえ、1898年〈明治31年〉3月9日 - 1965年〈昭和40年〉8月24日)は、日本の詩人である。本名は勝(まさる)。奈良県奈良市出身。 大連で北川冬彦らと詩誌「亞」を創刊。その後、「詩と詩論」の創刊に参加、新しい散文詩運動を推進した。詩集に『軍艦茉莉』(1929年)、『亜細亜の鹹湖』(1933年)、『韃靼海峡と蝶』(1947年)などがある。 旧岸和田藩士の子として生まれる。麹町小学校、堺中学校(現・大阪府立三国丘高等学校)卒業。1920年、父の赴任先であり当時日本の租借地であった大連に渡る。翌1921年、関節炎を患い右脚を切断、文学に興味を示し、1924年11月、北川冬彦らと詩誌「亞」を大連で創刊。
松木 侠(まつき たもつ、1898年〈明治31年〉3月9日 … 松木 侠(まつき たもつ、1898年〈明治31年〉3月9日 - 1962年〈昭和37年〉7月10日)は、日本の政治家、弁護士、旧鶴岡市第8代市長。栄典は正五位・勲三等・旭日中綬章。哲学者・木田元の伯父。
三好 重夫(みよし しげお、1898年(明治31年)3月9日… 三好 重夫(みよし しげお、1898年(明治31年)3月9日 - 1982年(昭和57年)1月19日)は、日本の内務官僚。官選府県知事。
橋本 忠司(はしもと ちゅうじ、1898年3月9日 - 19… 橋本 忠司(はしもと ちゅうじ、1898年3月9日 - 1985年9月12日)は、日本の経営者。蝶理社長、会長を務めた。大阪府出身。位階は従四位。 1919年に神戸高等商業学校を卒業。三井物産、東洋曹達工業での勤務を経て、1951年に互洋貿易社長に就任し、1960年1月には蝶理社長に就任。1970年5月に会長に就任し、1978年6月に相談役を経て、1980年6月には顧問に就任。 1970年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1985年9月12日心不全のために死去。87歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
栗林 徳一(くりばやし とくいち、1896年(明治29年)3… 栗林 徳一(くりばやし とくいち、1896年(明治29年)3月9日 - 1981年(昭和56年)12月27日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、室蘭市名誉市民。 北海道室蘭で、栗林五朔、カス夫妻の長男として生まれる。1918年(大正7年)小樽高等商業学校(現小樽商科大学)を卒業し、父の事業を継いで海運業を営む。栗林 (名) 社員、栗林商会社長、栗林商船社長、室蘭船渠取締役、南洋興発取締役、室蘭商工会議所会頭、胆振縦貫鉄道会長、北海道地方電力調整委員などを務めた。1932年(昭和7年)2月、欧米の温泉場、港湾の視察で外遊し、同年11月に帰国した。 1939年(昭和14年)9月29日、貴族院多額納税者議員に就任。
笹山 忠夫(ささやま ただお、1896年3月9日 - 197… 笹山 忠夫(ささやま ただお、1896年3月9日 - 1974年9月26日)は、日本の実業家。アラスカパルプ社長。 大分県大分市出身。旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学卒。卒業後は日本銀行に入り、その後安田銀行を経て、日本興業銀行に勤める。戦後の1946年、財閥解体による持株会社整理委員長に就任した。持株会社整理委員長時代の1948年、昭和電工に関する問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。1953年、戦後初の海外事業会社アラスカパルプを設立した。1956年、同社の社長に就任、1968年に会長に就任した。1974年死去。 1957年には日本相撲協会に請われて設立されたばかりの運営審議委員会委員となった。
福島 繁太郎(ふくしま しげたろう、1895年〈明治28年〉… 福島 繁太郎(ふくしま しげたろう、1895年〈明治28年〉3月9日 - 1960年〈昭和35年〉11月10日)は、日本の画商、美術評論家。妻・福島慶子も随筆家、評論家として知られた。 株式仲買人で、日露戦争による相場急騰で財を成した福島浪蔵の子として東京に生まれる。。1921年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、翌1922年までイギリスに留学し、次いで1923年にフランスへ渡り、長くパリに滞在した。福島は滞仏期間中に同時代の多くの画家と交流し、特にジョルジュ・ルオーと親しく交際した。また、多数の絵画を収集して、いわゆる「福島コレクション」を形成し、その多くを日本にもたらした。1928年、ないし1929年には、パリでジョルジュ・ワルドマー (George Waldemar) を中心とする美術評論誌『フォルム (Formes)』を創刊した。
中西 敏憲(なかにし としかず、1894年(明治27年)3月… 中西 敏憲(なかにし としかず、1894年(明治27年)3月9日 - 1982年(昭和57年)10月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、南満州鉄道理事、武生市長。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 福井県出身。1918年(大正7年)高等試験行政科試験に合格。翌1919年(大正8年)東京帝国大学法学部(英法)を卒業。南満州鉄道に入り、地方課長、地方、総務の各部長を経て、理事となる。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では郷里の福井県から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。小磯内閣で大東亜参与官となった。 戦後、推薦議員や南満州鉄道理事のため、公職追放となる。1951年(昭和26年)に追放解除となる。
鷹部屋 福平(たかべや ふくへい、1893年(明治26年)3… 鷹部屋 福平(たかべや ふくへい、1893年(明治26年)3月9日 - 1975年(昭和50年)4月24日)は、日本の工学者、アイヌ文化研究者。著書には橋梁や構造力学など力学関係のものが多い。北海道帝国大学、九州大学、防衛大学校などで教授を務めた。 愛知県額田郡岡崎町大字康生(現・岡崎市)に生まれる。父は岡崎藩士で画家の鷹部屋荘一郎。1899年(明治32年)4月4日、岡崎町立連尺尋常小学校(現・岡崎市立連尺小学校)に入学。1903年(明治36年)、額田郡岡崎高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)に入学。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に入学すると、毎日のように暗くなるまでテニスの練習を行ったという。
松沢 竜雄(まつざわ たつお、1893年(明治26年)3月9… 松沢 竜雄(まつざわ たつお、1893年(明治26年)3月9日 - 1970年(昭和45年)1月25日)は、日本の内務官僚、朝鮮総督府官僚、弁護士。 山形県飽海郡北平田村(現在の酒田市)出身。第四高等学校を経て、1919年(大正8年)に東京帝国大学法学部独法科を卒業した。三井物産に入社するが、1923年(大正12年)に高等試験行政科に合格し、内務属となる。島根県美濃郡長、同八束郡長、島根県事務官、岡山県事務官、千葉県書記官・学務部長、福井県書記官・警察部長、群馬県書記官・経済部長を歴任。1936年(昭和11年)、朝鮮総督府に転じ、農林局農務課長、総督官房外事部長を経て、1940年(昭和15年)に専売局に就任。
高瀬 荘太郎(たかせ そうたろう、旧字体:髙瀨莊太郎 189… 高瀬 荘太郎(たかせ そうたろう、旧字体:髙瀨莊太郎 1892年3月9日 - 1966年9月4日)は会計学者、政治家。正三位勲一等瑞宝章。
飯野 哲二(いいの てつじ、1891年3月9日 - 1971… 飯野 哲二(いいの てつじ、1891年3月9日 - 1971年1月3日)は、昭和期の日本の国文学者。松尾芭蕉の研究で知られる。 栃木県芳賀郡二宮町(現・真岡市)出身。第二高等学校を経て、1921年に東京帝国大学文学部国文学科を卒業。 卒業後は鉄道省勤務、東京府立第一商業学校(現・東京都立第一商業高等学校)教諭といった職に就く。1925年に東京帝大大学院に入ったが、修了を待たずに1926年より再度教職に戻り、熊本県女子師範学校と、熊本県立第二高等女学校(熊本県立第一高等学校の前身の一つ)を兼任した。 1928年、宮城県女子専門学校(戦後、新制東北大学に統合)教授に就任する。松尾芭蕉の研究は、この時期に『奥の細道』の講義を仙台放送局の依頼でおこなったことに始まった。
長尾 巧(ながお たくみ、1891年3月9日 - 1943年… 長尾 巧(ながお たくみ、1891年3月9日 - 1943年8月28日)は、日本の地質学者・古生物学者。ニッポノサウルスの化石研究者として知られる。 現在の福岡県田川市出身。東京高等師範学校を卒業後、山口県岩国中学校や鹿児島師範学校で教員を務める。東京高等師範では博物学科に所属し、佐藤伝蔵の講義から地質学への興味を抱いたとされる。 その後東北帝国大学に入学し、理学部で矢部長克の指導を受ける。1921年に東北帝大理学部を卒業後、同大学講師となる。長尾が取り組んだのは、出身地でもある北九州地方の炭田の地質構造研究だった。 1927年から渡仏して2年間パリで研究に従事した。この留学は、教授候補者に対する当時の慣例だったとされる。
吉田 悦蔵(よしだ えつぞう、1890年3月9日 (明治23… 吉田 悦蔵(よしだ えつぞう、1890年3月9日 (明治23年) - 1942年 (昭和17年)11月21日)は、近江兄弟社グループの三創立者の一人で、超教派プロテスタント信徒伝道者。 滋賀県立商業学校在学中の14歳の時、英語教師として着任した24歳のアメリカ人ウィリアム・メレル・ヴォーリズの感化を受け、キリスト教信者となってヴォーリズのビジョンである近江を「神の国」とする事業達成のため、生涯をヴォーリズのパートナーとして働いた。非聖職者としてのプロテスタント伝道活動のかたわらキリスト教青年会(通称YMCA)、建築設計事務所、結核療養所、家庭薬販売、図書館、女学校などの近江八幡市を中心に置いた事業の創設から運営に関わり、近江ミッション(現在の近江兄弟社)の基盤を作った。
山内 盛彬(やまうち せいひん、1890年3月9日 - 19… 山内 盛彬(やまうち せいひん、1890年3月9日 - 1986年3月17日)は、日本の音楽学者、沖縄の音楽家。 沖縄県首里金城町生まれ、幼くして父母に死別し、宮廷音楽家であった祖父盛熹に育てられ、湛水流・野村流を学ぶ。1908年、沖縄師範学校に入学、音楽学を修め、1912年8月、琉球王府最後のおもろ主取であった宜野湾在住の安仁屋真苅より王府おもろ5曲6節を、また国頭在住の宇座徳守より御座楽を伝授され、採譜するなど沖縄各地に残る琉球古典音楽や地域の音楽を渉猟し、記録に残す。1915年、上京し、東洋音楽学校(現 東京音楽大学)の田辺尚雄に師事するが、祖父の危篤によりすぐに帰郷、遺言に従って琉球音楽の研究と伝承に一生を捧げることを決意し、小学校に勤務しながら採訪を進める。
林田 熊一(はやしだ くまいち、男性、1890年3月9日 -… 林田 熊一(はやしだ くまいち、男性、1890年3月9日 - 1959年9月30日)は鹿児島県出身の経営者。 林田産業交通(経営破綻後、いわさきグループ傘下にて「林田バス」→「いわさきバスネットワーク」となる。その後鹿児島交通に吸収)の創業者であり、1929年、私設道路などを整備した近代的保養施設の先駆けである霧島温泉郷の林田温泉の開発をおこなった。
丸山 修一郎(まるやま しゅういちろう、1890年(明治23… 丸山 修一郎(まるやま しゅういちろう、1890年(明治23年)3月9日 - 1965年(昭和40年)1月1日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員、秋田県由利郡亀田町長。 秋田県由利郡亀田町字六呂田(岩城町亀田字六呂田を経て現由利本荘市)で生まれる。1911年(明治44年)秋田県師範学校本科を卒業した。 秋田県公立小学校訓導となる。築山小学校に勤務していた1919年(大正8年)5月、秋田県青年教育者同志会(小原國芳系)を結成し、飯坂兵治の白楊会(手塚岸衛系)と共に秋田県の大正自由教育運動を主導した。1920年(大正9年)4月、秋田県女子師範学校附属小学校長に転任。自由教育運動の実践のため1921年(大正10年)10月、金浦小学校長に左遷された。
熊岡 美彦(くまおか よしひこ、1889年3月9日 - 19… 熊岡 美彦(くまおか よしひこ、1889年3月9日 - 1944年10月1日)は茨城県出身の洋画家。 石岡市生まれ。実家は製糸業を営む素封家。石岡第一尋常小学校在学中に地元の南画家・鬼沢小蘭に日本画を学ぶ。土浦中学校を経て、1909年東京美術学校西洋画科に入学し和田英作、藤島武二に師事する。同期の首席は萬鉄五郎。1913年同校卒。1926年、第1回帝国美術院賞を受賞する。同年フランスへ遊学。1929年帰国。1932年、斎藤与里らとともに東光会を結成。 1939年(昭和14年)4月、陸軍美術協会が発足するに当たり発起人の一人として名を連ねた。同年『珠江口掃海』『虎門要塞攻撃』を第5回海洋美術展に出品。
小出 朋治(こいで ともはる、1888年3月9日 - 194… 小出 朋治(こいで ともはる、1888年3月9日 - 1945年9月10日)は、ホーリネス弾圧事件で堺刑務所で殉教した、ホーリネス系の日本聖教会参与、牧師である。元日本ホーリネス教会、アライアンスの牧師。 日本基督教団ホーリネスの群の重鎮であった小出忍の実父。 1888年(明治21年)に新潟県三条町に生まれる。小学校卒業後に上京する。昼間は商店員として働き、夜間は正則英語学校に通学する。1904年(明治37年)頃に中央福音伝道館で受洗する。 柏木聖書学院に学び、東洋宣教会(後の、日本ホーリネス教会)の牧師になる。 1907年(明治40年)に長岡市の福音伝道館に赴任する。赴任直後、11月24日より、新潟県を巡回した中田重治に同伴し、小出だけ新潟県にとどまり伝道をする。
梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年〈明治21… 梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年〈明治21年〉3月9日 - 1986年〈昭和61年〉1月16日)は、日本の洋画家。京都府京都市下京区生まれ。はじめ龍三郎、1914年(大正3年)までは梅原 良三郎(うめはら りょうざぶろう)と名乗り、再び龍三郎と名乗った。 ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開。昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した。 京都府京都市下京区生まれ。生家は染物問屋だった。京都府立第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)を中退し、伊藤快彦の画塾・鍾美会で学んだ後、浅井忠が主催する聖護院洋画研究所(現・関西美術院)に入った。
新居 格(にい いたる、1888年(明治21年)3月9日 -… 新居 格(にい いたる、1888年(明治21年)3月9日 - 1951年(昭和26年)11月15日)は、日本の文筆家。主に評論や翻訳などで活躍した。
田辺 九万三(たなべ くまぞう、1888年3月9日 - 19… 田辺 九万三(たなべ くまぞう、1888年3月9日 - 1955年6月12日)は、日本ラグビーフットボール協会第2代会長。 神奈川県横須賀市浦賀で生まれる。 1902年(明治35年)、慶應義塾普通部(中学)に入学し端艇部(ボート部)に所属。普通部3年生(中学3年生)からラグビーを始めた。 1906年(明治39年)11月、慶應義塾とYC&ACとの9回目の対戦で、公式戦にフォワード(FW)として初出場。 1910年(明治43年)、慶應義塾大学法学部2年時に慶應義塾體育會蹴球部の主将に就任。同年秋から、慶應義塾独自のFW7人体制(2-3-2 または 3-2-2)を採用した。FW7人体制は、当時のオールブラックス(ニュージーランド代表)が採用しており、慶應義塾はその後17年間FW7人体制を守り、日本国内チームに対して無敗記録を続けた。
金子 堅次郎(かねこ けんじろう、1887年3月9日 - 1… 金子 堅次郎(かねこ けんじろう、1887年3月9日 - 1974年9月5日)は、日本の実業家である。元三井物産取締役。日本トレーディング(現・三井物産プラスチック)元社長。 旧制東筑中学(現在の福岡県立東筑高等学校)、山口高等商業学校(現在の山口大学)を卒業後、三井銀行に入社。本店営業部長などを経て、1936年(昭和11年)三井合名常務理事となる。のち三井物産取締役、東京芝浦電気(現東芝)副社長・副会長などを歴任。1947年(昭和22年)日本トレーディング社長に就任。
川島 理一郎(かわしま りいちろう、1886年3月9日 - … 川島 理一郎(かわしま りいちろう、1886年3月9日 - 1971年10月6日)は、日本の洋画家。栃木県足利市出身。 1886年3月9日、栃木県足利市に生まれる。1890年、祖父母と共に東京へ転居。 1905年、アメリカへ渡り、ワシントンのコーコラン美術学校に入学、1910年に同校卒業。なお、同校在学中の1906年にはニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインへ特待生として学び、褒状を得ている。 1911年にはフランスへ渡って、まずはパリのアカデミー・ジュリアンへ、その後アカデミー・コラロッシに学ぶ。翌1912年にサロン・ドートンヌで入選した。この時期、フランス当地のフォーヴィスム、キュビスムの新運動隆盛に刺激を受け、藤田嗣治、パブロ・ピカソなどと交友を結んだ。
秋山 安三郎(あきやま やすさぶろう、1886年3月9日 -… 秋山 安三郎(あきやま やすさぶろう、1886年3月9日 - 1975年6月19日)は、日本の演劇評論家、随筆家。 東京市浅草生まれ。9歳で奉公に出され、のち少年記者となり、銀行、外人商館、郵便局、横浜市役所などで働き独学する。1909年「二六新報」に入社。その後国民新聞、報知新聞で演劇記者として活躍。1923年東京朝日新聞に入社。1941年朝日新聞定年後も劇評を担当した。 歌舞伎や大衆演劇に精通し、1961年日本演劇協会功労賞受賞(永年にわたって担当した「朝日新聞」の劇評により)。 1966年第1回長谷川伸賞受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
金子 喜代太(かねこ きよた、1883年(明治16年)3月9… 金子 喜代太(かねこ きよた、1883年(明治16年)3月9日 - 1971年(昭和46年)6月6日)は、日本の実業家。結婚によって浅野総一郎の親戚になり、浅野財閥の多数の企業の重役を務めた。 1883年(明治16年)3月に、高知県の金子虎太郎の長男として生まれた。東京高等師範学校(筑波大学)の物理化学科を1907年(明治40年)に卒業した。 或いは数学科を卒業した。 教師として数年間働いてから、東京帝国大学(東京大学)に入学して、穂積八束博士宅に寄寓して、昼は学生、夜は教師をして苦学しながら、法科 または政治科を大正4年に卒業した。 卒業後に最初は三菱合資に就職したが、 穂積八束博士の娘であり穂積重威の妹でもある女性と結婚して、浅野総一郎の親戚となり、大正6年に浅野セメント(太平洋セメント)に転職した。
白勢 黎吉(しろせ れいきち、1883年〈明治16年〉3月9… 白勢 黎吉(しろせ れいきち、1883年〈明治16年〉3月9日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。実業家。 新潟県北蒲原郡新発田町(現在の新発田市)出身。今井文三の二男として生まれ、白勢家を継いだ。1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。台湾総督府鉄道部書記、同事務官、交通局理事、鉄道部長兼総務課長、交通局総長を歴任した。 退官した後は、台湾青果社長、常磐簡易火災保険会社常務取締役、東海運輸株式会社社長、台湾土地建物株式会社取締役、台湾乗合自動車事業組合理事長、台湾自動車事業組合連合理事などを務めた。
広部 達三(廣部 達三、ひろべ たつぞう、1883年〈明治1… 広部 達三(廣部 達三、ひろべ たつぞう、1883年〈明治16年〉3月9日 - 没年不明)は、日本の農学者。東京帝国大学農学部教授。農林省農事試験場技師。旧姓・太田。 宮城県仙台市生まれ。太田可一の弟。1907年、東京帝国大学農学科卒業。1912年、広部銀行頭取・広部清兵衛の養子となる。農科大学講師兼農事試験場嘱託同技師農林技師歴職。また広部拓殖社員である。 『広部農具論』、『広部農用機具』などの著書がある。趣味は庭球、柔道、弓道、スケート、写真。住所は東京市渋谷区神山町。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
田中 芳雄(たなか よしお、1881年3月9日 - 1966… 田中 芳雄(たなか よしお、1881年3月9日 - 1966年5月8日)は、日本の応用化学者。東京大学名誉教授。 埼玉県生まれ。東京帝国大学工科大学応用化学科卒。 石油、油脂、ゴムの権威として、化学工業界の発展に尽力した。1918年東京帝国大学教授、後に東京工業大学教授兼任。1927年(昭和2年)「本邦産石油の成分並びに応用に関する研究」で帝国学士院賞受賞。1938年(昭和13年)帝国学士院会員。1961年(昭和36年)文化功労者。主著に『化学工業総論』、『有機工業化学』等。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
秋月 種英(あきづき たねひで、1880年(明治13年)3月… 秋月 種英(あきづき たねひで、1880年(明治13年)3月9日 - 1961年(昭和36年)10月29日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧高鍋藩主家当主、子爵・秋月種樹の二男として生まれる。兄秋月種繁の死去に伴い家督を相続し、1890年(明治23年)10月2日、子爵を襲爵した。 第四高等学校を経て、1910年(明治43年)7月、京都帝国大学法科大学を卒業。同年、司法省に入省し司法属となる。以後、輸出水産取締役、明治漁業監査役、カルピス製造監査役などを務めた。 1914年(大正3年)7月11日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで5期在任した。
白勢 友彌(しろせ ともや、1880年〈明治13年〉3月9日… 白勢 友彌(しろせ ともや、1880年〈明治13年〉3月9日 - 1916年〈大正5年〉)は、日本の農民、大地主、新潟県多額納税者。族籍は新潟県平民。 新潟県北蒲原郡金塚村(現・新発田市金塚)出身。白勢長衛の弟。1911年(明治44年)、家督を相続した。1914年(大正3年)、早稲田大学推薦校友となる。農業を営み、大地主であった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小山 満雄(おやま みつお、1877年(明治10年)3月9日… 小山 満雄(おやま みつお、1877年(明治10年)3月9日 - 1936年(昭和11年)12月25日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争では第三軍の一員として戦い、のち歩兵第十六連隊長を務めた陸軍少将である。 旧会津藩藩士小山満峻の長男として宇都宮に生まれる。満峻は戊辰戦争後に栃木県に勤務した。小山は陸軍士官学校9期で、稚松会創立会員の一人。陸士同期では武川寿輔などが同様であった。小山の原隊は歩兵第十五連隊(高崎)、兵科は歩兵であり、1898年(明治31年)6月に歩兵少尉へ任官している。中尉時代に日露戦争に出征し、旅順で二〇三高地の攻略戦に加わった。1904年(明治)37年8月大尉に進級し、奉天会戦では田義屯の戦いに功績があった。
三松 武夫(みまつ たけお、1876年(明治9年)3月9日 … 三松 武夫(みまつ たけお、1876年(明治9年)3月9日 - 1934年(昭和9年)5月26日)は、日本の農商務官僚。憲政会・民政党系県知事。 大分県日田町で三松則之の二男として生まれる。第一高等学校を経て、1899年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入り農商務属となる。 以後、農商務省山林局事務官、同省農務局事務官、同省書記官などを歴任。 1914年7月、鳥取県知事に就任。1917年1月、同知事を退任。横浜市助役を経て、1924年6月、山口県知事となる。1925年10月、新潟県知事に就任。1927年4月、同県知事を退任。1929年7月、新潟県知事に再任され、1930年8月まで務め退官した。
天野 健太郎(あまの けんたろう、1875年(明治8年)3月… 天野 健太郎(あまの けんたろう、1875年(明治8年)3月9日 - 1937年〈昭和12年〉6月17日)は、日本の商人(呉服商)、政治家。広島県呉市長。廣島銀行、呉銀行各取締役。広島合同貯蓄銀行常務取締役。族籍は広島県平民。 広島県安芸郡和庄村(のち和庄町、現・呉市)出身。広島県平民・天野健左衛門の長男。生家は代々農業を営む。1897年、呉服商店を開始する。1898年、家督を相続する。23歳の壮齢に早くも和庄町助役となり、2年余在職する。1902年、市会議員に当選し、翌年市助役に就任。 1908年、市参事会員となる。1909年、推されて廣島銀行取締役呉支店長に任ぜられる。1911年、市会議長となる。
梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年〈明治… 梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年〈明治7年〉3月9日 - 1951年〈昭和26年〉1月1日)、または梨本 守正(なしもと もりまさ)は、日本の旧皇族、陸軍軍人。梨本宮家第3代当主。官位は元帥陸軍大将。栄典は大勲位功四級。明仁上皇の大叔父にあたる。また、娘の方子は、大韓帝国最後の皇太子で日本の王公族だった李王垠に嫁いでいる。 久邇宮朝彦親王の第4王子として1874年に誕生。当初は多田と名付けられたが、梨本宮家相続にあたり、守正と改名した。梨本宮家は初代守脩親王のあと、山階宮家出身の菊麿王が後継者となったが、のちに実家を継ぐことになったため梨本宮家を離れ、代わって守正王が相続したものである。
幸田 成友(こうだ しげとも、1873年3月9日 - 195… 幸田 成友(こうだ しげとも、1873年3月9日 - 1954年5月15日)は、日本の歴史学者。
篠原 温亭(しのはら おんてい、1872年3月9日(明治5年… 篠原 温亭(しのはら おんてい、1872年3月9日(明治5年2月1日) - 1926年(大正15年)9月2日)は、俳人、小説家。 1872年(明治5年)、熊本県宇土郡宇土町(現・宇土市)に生まれる。本名は英喜。別号に松濤、家巣など。父親は漢学塾長。京都本願寺文学寮(現・龍谷大学)に学んだのち上京し、徳富蘇峰が主宰する「國民新聞」に勤め活躍した。 その傍ら、ホトトギス同人となり、正岡子規、高浜虚子らに俳句を学んだ。温厚な人柄で、人望があった。1922年(大正11年)、俳誌「土上(どじょう)」を嶋田青峰らと共に刊行した。俳句は「温籍高雅」の作風で、虚子編「新歳時記」には27句が採用されている。1926年(大正15年)、55歳で脳溢血により没した。
真渓 涙骨(またに るいこつ、1869年3月9日(明治2年1… 真渓 涙骨(またに るいこつ、1869年3月9日(明治2年1月27日) - 1956年(昭和31年)4月14日)は日本の宗教思想家、ジャーナリスト、宗教専門紙『中外日報』創刊者。 福井県敦賀市の浄土真宗本願寺派寺院に長男として生まれる。本名は正遵(しょうじゅん)。京都西本願寺の普通教校に16歳で入学するが間もなく退学し、学徳兼備の名僧として知られた博多万行寺の龍華教校で七里恒順に約3年師事。その後、各地を遍歴しながら文筆修行を積んだ。 1897年(明治30年)10月1日、仏教および宗教界の革新を志し、京都で超宗派の宗教新聞『教学報知』を創刊。1902年(明治35年)、報道範囲を拡大し『中外日報』と改題。
久保 彦太郎(くぼ ひこたろう、1867年3月9日(慶應3年… 久保 彦太郎(くぼ ひこたろう、1867年3月9日(慶應3年2月4日)- 1938年(昭和13年)7月10日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員、香川県会議長、香川県木田郡古高松村長。 讃岐国山田郡、のちの香川県山田郡古高松村(木田郡古高松村を経て現高松市古高松)で生まれる。1891年(明治24年)東京専門学校(現早稲田大学)を卒業した。農業を営む。 古高松村長を務めた。香川県会議員に選出され同参事会員も務めた。1903年(明治36年)10月、同議長に就任し1905年(明治38年)9月まで在任した。 井上甚太郎の死去に伴い1905年9月に実施された第9回衆議院議員総選挙香川県郡部補欠選挙で当選し、立憲政友会に所属して衆議院議員に1期在任した。
秋山 雅之介(あきやま まさのすけ、慶応2年1月23日(18… 秋山 雅之介(あきやま まさのすけ、慶応2年1月23日(1866年3月9日) - 昭和12年(1937年)4月11日)は、日本の官僚、法政大学学長。 広島藩の足軽秋山恂一の長男として生まれる。1890年(明治23年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。外務省に入り、イギリス公使館やロシア公使館で書記官として勤務した。しかし病により官を辞した後は、国際法を研究し法学博士の称号を得た。 和仏法律学校や明治法律学校で講師を務めていたが、日露戦争の直前に陸軍省参事官に任命され、さらに法制局参事官も兼ねた。国際法の顧問として尽力したのが寺内正毅陸軍大臣に認められ、後に朝鮮総督となった寺内の招きで朝鮮総督府参事官に就任した。