高田 敏子(たかだ としこ、1892年4月10日 - 197… 高田 敏子(たかだ としこ、1892年4月10日 - 1974年4月1日)は日本の女子教育および英語教育を先駆的に推進した教育者。静岡県田方郡三島町(現在の三島市)出身。名前の表記は「敏」の例もあるが、戸籍上の表記は「敏子」。高田常三郎と常子の娘として生まれる。大正から昭和初期に「高田女塾」、「高田女学校」を、戦後は「日本キリスト会川崎教会・高田英語学園」を設立して、女性や子供の英語教育に終生献身した。姉の坂本真琴は大正・昭和期に日本の婦人参政権運動に尽力したことで知られる。 高田家は三島の裕福な士族で、敏子の父常三郎は画家を志し(画号常斎)、なおかつキリスト教に入信するなど、明治という時代にあっては大変開明的な家庭環境にあった。
河合 正臣(かわい まさおみ、1891年〈明治24年〉4月1… 河合 正臣(かわい まさおみ、1891年〈明治24年〉4月10日 - 1958年〈昭和33年〉7月18日)は、大正から昭和時代の政治家。埼玉県川越市長。 秋田県に生まれる。中央大学を卒業し、東京興信所書記、同興信所川越出張所主事を経て、1930年(昭和5年)民政党系同志会が改称した愛市同盟に所属して川越市会議員に当選した。1938年(昭和13年)から1942年(昭和17年)の間に市会議長を2度務めた。1945年(昭和20年)同市長に就任。終戦を挟んで1946年(昭和21年)7月、ソースを公定価格の3倍近い価格で市民に配給した「ソース事件」の責任を取り、8月に辞任した。
原 久一郎(はら ひさいちろう、1890年4月10日 - 1… 原 久一郎(はら ひさいちろう、1890年4月10日 - 1971年10月19日)は、ロシア文学者。
菊池 義郎(きくち よしろう、1890年4月10日 – 19… 菊池 義郎(きくち よしろう、1890年4月10日 – 1990年2月4日)は、日本の政治家、植民政策学者。自由民主党衆議院議員。日本商科大学(廃校)の学長も務めた。
恩田 経介(おんだ きょうすけ、1888年4月10日 - 1… 恩田 経介(おんだ きょうすけ、1888年4月10日 - 1972年4月18日)は、日本の植物学者。旧姓は小山。 長野県北佐久郡大井村(現・小諸市)に生まれる。小諸義塾に通い、島崎藤村から国語を学ぶ。1906年(明治39年)、恩田重信の養子となる。第一高等学校を経て1916年東京帝国大学理学部植物学科卒業、同大学院中途退学。在学中は三好学の指導を受けた。水産講習所(現・東京海洋大学)非常勤講師を経て、1923年(大正12年)明治薬学専門学校教授となり、第一高等学校講師を経て明治薬科大学の初代学長となる。牧野富太郎に師事し、木本植物を研究した。
堺 武志(さかい たけし、1888年(明治21年)4月10日… 堺 武志(さかい たけし、1888年(明治21年)4月10日 - 1955年(昭和30年)3月1日)は、日本の医師。政治家。宮城県石巻市長。旧姓白坂。 宮城県栗原郡若柳町(現・栗原市)の白坂家に生まれる。仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)に入り、在学中に堺家の養子となる。卒業後は牡鹿病院の内科長に就任し、その後石巻市で医院を開業した。戦時中は警防団副団長、防空委員を務めた。 終戦後の1946年(昭和21年)3月石巻市長の岩崎孫八が公職追放の対象となるため市長を辞職。後継の市長をこれまで通り市会で推薦することも検討されたが、新しい時代を迎えて一部の市民が首長の公選制を検討していたことから「公選によって市長を選ぼう」という機運が高まり、市内で市民大会が開催された。
藤ノ川 雷五郎(ふじのかわ らいごろう、1888年4月10日… 藤ノ川 雷五郎(ふじのかわ らいごろう、1888年4月10日 - 1966年2月22日)は、現在の新潟県上越市出身で伊勢ノ海部屋に所属した力士。本名は飯田 繁治。14代春日山。174cm、94kg。最高位は西関脇。 1908年1月初土俵、1913年5月十両昇進。1917年5月入幕し、前頭2枚目で迎えた1919年春場所において横綱栃木山に勝利、生涯唯一の金星を獲得した。この場所は5勝5敗の成績だったが、同年5月に関脇昇進。しかし10戦全敗に終わってこの関脇が現役唯一の三役経験となり、以降は三役に戻る事無く前頭の上位と下位を往来している。 1925年1月に引退し14代春日山を襲名。しかしこの頃辺りから伊勢ノ海一門の勢いに翳りが見られ、1946年に伊勢ノ海一門が消滅すると14代春日山は同年11月に部屋を閉じて弟子を全て立浪部屋に譲渡移籍。
土屋 竹雨(つちや ちくう、1887年(明治20年)4月10… 土屋 竹雨(つちや ちくう、1887年(明治20年)4月10日 - 1958年(昭和33年)11月5日)は、日本の漢詩人。本名・久泰。字は子健。大東文化大学学長(初代)などを歴任。山形県鶴岡市出身。 1914年、東京帝国大学法学部卒。1928年、芸文社を興し『東華』を創刊、1931年、大東文化学院講師、のち教授、東京文政大学・文政大学・大東文化大学学長(初代)を務める。国分青崖のあと漢詩壇の第一人者となり、1949年、日本芸術院会員。余香吟社などの詩社を指導した。『日本百人一詩』(砂子屋書房、1943)の著作がある。
趙 素昻(チョ・ソアン、1887年旧暦4月10日 - 195… 趙 素昻(チョ・ソアン、1887年旧暦4月10日 - 1958年9月10日)は、朝鮮の独立運動家、政治家、法学者、政治思想家。第2代韓国国会議員。京畿道坡州出身。本貫は咸安趙氏。本名は趙 鏞殷(チョ・ヨンウン)。字は敬仲、素昻は号である。 生六臣(朝鮮語版)の趙旅の17世孫で、共に独立運動家である趙鏞夏は兄、趙鏞周、趙鏞漢、趙時元(元国会議員、本名・趙鏞元)は弟、趙鏞済は妹。独立運動家の趙時済と趙仁済は息子。 両班の家系に生まれる。1902年に成均館に入学し、同年に申采浩などと声討文を作って李夏栄などに抗議した。1904年に成均館を修了後、大韓帝国皇室派遣留学生として来日し、東京府立第一中学校に入学した。
高木 義人(たかぎ よしと、1886年(明治19年)4月10… 高木 義人(たかぎ よしと、1886年(明治19年)4月10日 - 1956年(昭和31年)8月15日)は、日本の政治家、陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。政治家としては衆議院議員を歴任した。長野県出身。陸士19期、陸大26期。 長野県南安曇郡高家村(現在の安曇野市)出身。松本中学を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官。1914年(大正3年)には陸軍大学校(26期)を卒業した。浦塩派遣軍参謀、参謀本部員、第14師団参謀、第6師団参謀、台湾歩兵第1連隊大隊長、奉天独立守備第2大隊長、福井連隊区司令官、歩兵第26連隊長、第8師団参謀長、歩兵第39旅団長などを歴任し、1938年(昭和13年)7月15日には留守第2師団長に就任し、1939年(昭和14年)3月9日陸軍中将に進級した。
井上 登(いのうえ のぼり、1885年〈明治18年〉4月10… 井上 登(いのうえ のぼり、1885年〈明治18年〉4月10日 - 1971年〈昭和46年〉7月26日)は、日本の最高裁判所判事。千葉県出身。 井上義行の息子として生まれる。1913年(大正2年)3月に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1917年(大正6年)に判事となる。1926年(大正15年)、東京地方裁判所部長時代に、ジュネーブで開催された第八回国際労働会議に政府代表顧問として参加。1927年(昭和2年)12月に東京控訴院判事、1933年(昭和8年)に大審院判事、1937年(昭和12年)に司法省の初代調査部長となる。1939年(昭和14年)から再び大審院判事を務め、在官中は慶応、明治、専修大学で民事法を講義した。
石原 栄三郎(石原 榮三郎、いしはら えいざぶろう、1880… 石原 栄三郎(石原 榮三郎、いしはら えいざぶろう、1880年〈明治13年〉4月10日 - 没年不明)は、日本の商人(かぢ平、金物商)、愛知県多額納税者。石原商店金物部代表。 愛知県人、鍛冶平、金物商・石原平左衛門の弟。1915年、分家して一家を創立し、金物卸商を営む。名古屋商工会議所議員に選ばれる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。趣味は石灯籠、庭石、茶器、書画。宗教は浄土宗。住所は愛知県名古屋市西区江川端町、店舗は中区広小路西通。 石原家は名古屋に於ける一流金物店である。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
井上 桂(いのうえ かつら、1879年(明治12年)4月10… 井上 桂(いのうえ かつら、1879年(明治12年)4月10日 - 没年不詳)は、東京市区長。教育者。 秋田県雄勝郡湯沢町(現在の湯沢市)出身。1900年(明治33年)、秋田県師範学校を卒業し、1904年(明治37年)に東京高等師範学校国漢科を卒業した。東京女子高等師範学校教諭、静岡県女子師範学校校長、長崎県師範学校校長、福島県師範学校校長を歴任した。1928年(昭和3年)、東京市に入り、視学・学務課長に就任した。1932年(昭和7年)、豊島区長に転じ、のち赤坂区長、本郷区長を歴任した。
藤沢 周次(ふじさわ しゅうじ、1875年4月10日 - 1… 藤沢 周次(ふじさわ しゅうじ、1875年4月10日 - 1945年11月29日)は明治・大正期日本の英文学者、劇作家。学習院名誉教授。号は古雪(こせつ)。 1875年(明治8年)、新潟県士族(元佐渡奉行所幕臣)・藤沢親之の次男として東京府に生まれる。幼名は菊丸(きくまる)。東京帝国大学文学部英文科に入学し、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)から英語を学んだ。在学中、英作文の優秀者に与えられる賞を受賞しているが、その理由は英文の正確さ以上に「内容が優れている」と評されてのものであった。同期には森清(子爵、森有礼長男)、内ヶ崎作三郎(衆議院議員)、小日向定次郎(英文学者)、栗原基(同)、小島武雄(旧制第五高校教諭)らがいる。
2代 阿部 孫左衛門(孫左衞門、あべ まござえもん、1874… 2代 阿部 孫左衛門(孫左衞門、あべ まござえもん、1874年〈明治7年〉4月10日 - 1914年〈大正3年〉12月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、山形県東田川郡新堀村長。幼名・直之助。 山形県田川郡新堀村(のち東田川郡新堀村大字新堀、現酒田市)で、地主・先代阿部孫左衛門、野江夫妻の長男として生まれる。新堀村止善学校初等学科、酒田琢成学校を経て、1889年(明治22年)、酒田尋常高等小学校を卒業。1890年(明治23年)に東京に出て二松学舎、東京数学院などで学んだ。 1904年(明治37年)、父の死去に伴い家督を相続し、孫左衛門(2代)を襲名した。吉田堰水利組合会議員、東田川郡会議員、新堀村長などを務めた。
皆川 マス(みなかわ マス、別表記:マス女、1874年(明治… 皆川 マス(みなかわ マス、別表記:マス女、1874年(明治7年)4月10日 - 1960年(昭和35年)7月8日)は、栃木県芳賀郡益子町の益子焼の絵付け師:陶画工である。 その益子焼の「山水土瓶」の陶画は、濱田庄司に「自分と益子の縁を結んだ」と言わしめ、そして土瓶の絵付けを濱田庄司や柳宗悦たち民藝運動家に称賛され、「無名の工人」の代表的人物として有名となった。 1874年(明治7年)4月10日、栃木県真岡市西田井に生まれた。 1884年(明治17年)、10歳の時に益子の「鳥羽絵師」皆川伝次郎の養女となり、養父から土瓶の絵付けの描き方を文字通り仕込まれた。 与えられた手本をただその通りに原本通りに描き写して習得していくものであり、創意や創案といったものは一切無かった。
下村 観山(しもむら かんざん、1873年(明治6年)4月1… 下村 観山(しもむら かんざん、1873年(明治6年)4月10日 - 1930年(昭和5年)5月10日)は、明治 - 昭和初期の日本画家。本名は晴三郎。 1873年(明治6年)、和歌山県和歌山市小松原通5丁目に、代々紀州藩に仕える小鼓方幸流の能楽師の3男として生まれる。1881年(明治14年)8歳のとき、一家で東京へ移住。父は篆刻や輸出象牙彫刻を生業とし、兄2人も後に豊山、栄山と名乗る彫刻家となった。観山は祖父の友人だった藤島常興に絵の手ほどきを受ける。常興は狩野芳崖の父・狩野晴皐の門人だったことから、芳崖に観山を託す。観山初期の号「北心斎東秀」は芳崖が授けたとされ、1883年(明治16年)観山10歳の頃にはもう使用していたとされる。
伊東 知也(いとう ともや、1873年(明治6年)4月10日… 伊東 知也(いとう ともや、1873年(明治6年)4月10日 - 1921年(大正10年)11月26日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(3期)。号は明、士徳、懐亭、鳳南、別名に正基。 酒田本町(現酒田市)の医師伊東清基の長男として生まれる。上京し、東京専門学校で政治学を修め、1896年(明治29年)卒業し台湾総督府旧慣調査会嘱託となる。はじめ佐田白茅、須田古龍について漢学を学んだが、のち札幌の露清学校に転じ中国語、ロシア語を習得し、1898年(明治31年)から東部シベリア、満州、福建、広東などを巡遊し対外問題の処理に尽瘁した。中国、朝鮮には十数回に渡り赴き、1911年(明治44年)の辛亥革命の折には孫文らと交わり「支那浪人」と称された。
板谷 波山(いたや はざん、1872年4月10日〈明治5年3… 板谷 波山(いたや はざん、1872年4月10日〈明治5年3月3日〉 - 1963年〈昭和38年〉10月10日)は、茨城県出身の、明治後期から昭和中期にかけて活動した日本の陶芸家。本名は板谷 嘉七(いたや かしち)。号は、始め「勤川」、のち「波山」。「勤川」は故郷を流れる五行川の別名「勤行川(ごんぎょうがわ)」に、「波山」は故郷の名山である「筑波山」に因む。 日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家としては初の文化勲章受章者である。茨城県名誉県民。下館市名誉市民(合併により筑西市への移行に伴い、現在は筑西市名誉市民)。 日本の陶芸は縄文時代からの長い歴史をもつが、「職人」ではない「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからであった。
北山 一郎(きたやま いちろう、1872年4月10日(明治5… 北山 一郎(きたやま いちろう、1872年4月10日(明治5年3月3日) - 1949年(昭和24年)2月12日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、青森市長。 青森県津軽郡浅瀬石村(現黒石市)で北山長作の長男として生まれる。南津軽郡中学校を経て、1897年、東京専門学校政治科(現早稲田大学政治経済学部)を卒業。卒業後に帰郷し郡青年団を組織した。実業界では、リンゴ輸出商社・(株) 青浦商会社長、日出セメント (株) 取締役、(株) 青森映画劇場社長、青森商工会議所特別議員を務めた。 政界では、1900年に青森県会議員に選出され、県会議長を二度務めた。1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で青森県第一区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
横山 源之助(よこやま げんのすけ、明治4年2月21日〈18… 横山 源之助(よこやま げんのすけ、明治4年2月21日〈1871年4月10日〉- 大正4年〈1915年〉6月3日)は、富山県中新川郡魚津町(現在の魚津市)出身のジャーナリスト。号は天涯茫々生。他に有磯逸郎・無膓・夢蝶・漂天痴童・樹下石上人といった筆名を用いた。 魚津の網元の家に私生児として生まれ、すぐに左官職人の横山伝兵衛の養子となる。1881年、魚津明理小学校を卒業後、商家(醤油醸造業)に住み込み奉公をしながら独学し、1885年に富山県立富山中学校に1期生として入学する。しかし2年生の時に中退、代言人(弁護士)を目指して上京し、英吉利法律学校(現在の中央大学)に学ぶ。その後、弁護士試験を数度にわたって受験するが合格できず、各地を放浪する。
西田 当百 (にしだ とうひゃく、1871年4月10日(明治… 西田 当百 (にしだ とうひゃく、1871年4月10日(明治4年2月21日) - 1944年6月30日)は、日本の俳人、川柳作家。本名、嘉吉。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
山崎 直方(やまさき なおまさ、明治3年3月10日(1870… 山崎 直方(やまさき なおまさ、明治3年3月10日(1870年4月10日) - 昭和4年(1929年)7月26日)は、日本の地理学者。高知県生まれ。日本の近代期の地理学の功労者で、しばしば「日本近代地理学の父」として称えられている。専門は地形学であるが、人文地理学でも功績がある。
松崎 壽三(まつざき としぞう、1870年4月10日(明治3… 松崎 壽三(まつざき としぞう、1870年4月10日(明治3年3月10日) - 1960年(昭和35年)11月25日)は、明治後期から昭和前期の官僚、実業家。初代日本水産社長。 山口県出身。松崎源左衛門の長男として生まれた。旧制山口高等学校卒業。1895年(明治28年)帝国大学法科大学(現:東京大学法学部)政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、同年農商務省に入省し農務局属に任官。以後、水産講習所技師兼農商務省参事官、農商務書記官兼特許局審判官兼樺太庁事務官、農商務書記官・水産局漁政課長、水産局長などを歴任。1917年(大正6年)に退官した。 1919年(大正8年)9月27日、「共同漁業株式会社」(現・日本水産)の社長として就任。
杉 贋阿弥(すぎ がんあみ、1870年4月10日(明治3年3… 杉 贋阿弥(すぎ がんあみ、1870年4月10日(明治3年3月10日) - 1917年(大正6年)5月13日)は、日本の明治・大正期の劇評家。本名は諦一郎。 備中国阿哲郡野馳村(現、岡山県新見市哲西町)に生まれた。幼少期から漢文を学ぶ一方で、芝居に親しんだ。 1886年(明治19年)(16歳)、上京して明治法律学校に入学し、中退した。郷土の先輩犬養毅の手配で、犬養がいた朝野新聞に入社し、郵便報知新聞に移り、1894年から歌舞伎の劇評を書いた。 演劇雑誌が少なく、新聞紙上の劇評が読まれる時代だった。贋阿弥の評は媚びなくて、松居松葉・岡鬼太郎と共に『三暴れ』と称され、興行側から脅される事もあったと言う。
赤羽 克己(あかばね かつみ、1869年4月10日(明治2年… 赤羽 克己(あかばね かつみ、1869年4月10日(明治2年2月29日) - 1941年(昭和16年)7月5日)は、日本の実業家。南満州鉄道理事としてオイルシェール事業に取り組んだ。 赤羽家は「高遠以来」と称される保科家時代からの会津松平家家臣である。山形藩時代には1000石、500石、400石、150石を食む赤羽家があり、江戸時代を通じ100石以上の赤羽家が複数存在した。赤羽四郎(スペイン公使)や、陸軍航空草創期の軍人である赤羽佑之(航空兵大佐)などは同族である。赤羽の実父は禄100石の会津藩勘定頭、斗南藩大属会計係であった赤羽治平友温。克己はその三男で、同藩士赤羽友春の養子となる。養母は若松市長松本時正の妹、長男はコーネル大学出身の中島飛行機技師で、第二次世界大戦期は同社の誉発動機推進主任を務める。
鷲尾 順敬(わしお じゅんきょう、慶応4年3月18日(186… 鷲尾 順敬(わしお じゅんきょう、慶応4年3月18日(1868年4月10日) - 昭和16年(1941年)1月13日)は、摂津国(大阪府)出身の仏教史学者。 東洋大学卒業後、曹洞宗大学林、その後身の駒澤大学、東洋大学にて教授。明治25年(1892年)、境野黄洋、村上専精と協力して溯源窟を興し『仏教史林』を刊行。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
松本 与右衛門(與右衞門、まつもと ようえもん、1868年4… 松本 与右衛門(與右衞門、まつもと ようえもん、1868年4月10日(明治元年3月18日)- 1920年(大正9年)8月10日)は、明治から大正期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国胆沢郡塩竃村(岩手県胆沢郡水沢町、水沢市を経て現奥州市水沢中上野町)で、庄屋・松本元助、きさ の長男として生まれた。1888年(明治21年)明治法律学校(現明治大学)に入学した。 1889年(明治22年)帰郷して条約改正反対運動を進めた。その後、岩手自由青年会を組織して幹事に就任。1897年(明治30年)憲政党岩手支部幹事となる。また、胆沢郡会議員、水沢町会議員、岩手県会議員にも在任した。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(岩手県郡部、立憲政友会)で当選し、1903年(明治36年)3月、第8回総選挙(岩手県郡部、立憲政友会)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
小林 源蔵(こばやし げんぞう、慶応3年3月6日(1867年… 小林 源蔵(こばやし げんぞう、慶応3年3月6日(1867年4月10日) - 大正10年(1921年)1月9日)は、日本の鉄道官僚、衆議院議員(立憲政友会)。位階勲等は正四位勲三等。 出羽国旧米沢藩士の秋山家に生まれ、小林家の養子となった。1894年(明治27年)、東京帝国大学法科大学を卒業。逓信省に入り、鉄道書記となった。1897年(明治30年)、鉄道事務官に昇進。1902年(明治35年)から翌年にかけて欧米各国の鉄道事務を視察した。 日露戦争が勃発すると野戦鉄道経理部庶務課長に任命されたが、戦地に赴く途中、乗船していた佐渡丸がロシアの攻撃を受け、捕虜となった。1年半にわたって虜囚生活を送ったが、1905年(明治38年)に帰国することができた。
寺崎 広業(てらさき こうぎょう、慶応2年2月25日(186… 寺崎 広業(てらさき こうぎょう、慶応2年2月25日(1866年4月10日) - 1919年2月21日)は、秋田県出身の日本画家。 放浪の画家といわれた寺崎広業は慶応2年(1866年)久保田古川堀反(秋田市千秋明徳町)の母の実家久保田藩疋田家老邸で生まれた。寺崎家も藩の重臣であった。父の職業上の失敗もあって横手市に移って祖母に育てられた。幼児から絵を好みすぐれていたというが貧しく、明治10年(1877年)には太平学校変則中学科(現秋田県立秋田高等学校)に入学するも一年足らずで退学。10代半ば独り秋田に帰り牛島で素麺業をやったりしたという。秋田医学校にも入ったが学費が続かなかった。結局好きな絵の道を選び、16歳で手形谷地町の秋田藩御用絵師だった狩野派の小室秀俊(怡々斎)に入門、19歳で阿仁鉱山に遊歴の画家第一歩を印したが、鹿角に至った時戸村郡長の配慮で登記所雇書記になった。
秋山 一裕(あきやま いちゆう、1865年4月10日(元治2… 秋山 一裕(あきやま いちゆう、1865年4月10日(元治2年3月15日) - 1943年(昭和18年)3月4日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 山縣銃太郎の弟、山縣昌繁の二男として駿河国志太郡島田宿(静岡県志太郡島田町を経て現島田市)に生まれ、1884年(明治17年)4月、秋山家の養子となり、同年6月、家督を相続する。1881年(明治14年)静岡師範学校高等師範科を卒業し、小学校教諭を経て、師範学校訓導となる。1887年(明治20年)10月、上京し慶應義塾に入り、1891年(明治24年)4月、同校を首席で卒業した。安田銀行に入行したのち、イーストレイクらと共に日本英学院を創立し教鞭をとる。
太田 峰三郎(おおた みねさぶろう、文久3年2月23日(18… 太田 峰三郎(おおた みねさぶろう、文久3年2月23日(1863年4月10日) - 大正3年(1914年)4月6日)は、明治時代の官僚。福岡藩出身。貴族院書記官長などを務めた。位階および勲等は正三位・勲一等。 福岡藩士・太田來作の三男として生まれる。明治21年(1888年)、東京帝国大学法科卒業後、判事試補、法制局参事官補になる。明治22年(1889年)に欧米諸国を視察して、翌年帰国すると新設された貴族院書記官に任じられる。明治31年(1898年)6月に農商務省に転じて農務局長に任じられるが、9月には今度は行政裁判所評定官に転じ、更に同年11月18日に貴族院書記官長を兼ねた。従三位勲一等に叙され、明治44年(1911年)7月1日以降は書紀官長専任となる。
山極 勝三郎(やまぎわ かつさぶろう、1863年4月10日(… 山極 勝三郎(やまぎわ かつさぶろう、1863年4月10日(文久3年2月23日) - 1930年(昭和5年)3月2日)は、日本の病理学者。人工癌研究のパイオニアとして知られる。 信濃国上田城下(現在の長野県上田市)に上田藩士の山本政策(まさつね)の三男として生まれる。後に同郷の医師である山極吉哉の養子となり、ドイツ語を学びつつ医師を目指した。1880年に東京大学予備門、1885年には東京大学医学部(のちの東京帝国大学医学部)に入学し、二位で卒業する。1891年に東京帝大医学部助教授となる。1892年からドイツに留学し、コッホ、フィルヒョウに師事。帰国後の1895年に東京帝大医学部教授に就任。専門は病理解剖学。
浅野 応輔(あさの おうすけ、1859年4月10日(安政6年… 浅野 応輔(あさの おうすけ、1859年4月10日(安政6年3月8日) - 1940年(昭和15年)9月23日)は、明治から昭和時代前期の電気工学者、通信技術者。 備中国都宇郡茶屋町(現・岡山県倉敷市)に生まれる。浅口郡船穂村の医師浅野意俊の三男。 1881年(明治14年)工部大学校電気工学科(現:東京大学)を卒業し、同年工部大学校教官となる。同校助教授、東京電信学校長兼幹事、逓信省電務局電気試験所(現:電子技術総合研究所)初代所長、逓信技師、電気試験所所長を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学(現:東京大学工学部)教授となる。その後、早稲田大学教授、早稲田大学工科長を経て1920年(大正9年)早稲田大学理工学部学部長となる。
須田 利信(すだ としのぶ、1856年4月10日(安政3年3… 須田 利信(すだ としのぶ、1856年4月10日(安政3年3月6日)- 1925年(大正14年)5月25日)は、明治時代から大正時代の造船技師(工学博士)、実業家。日本郵船の副社長を務めた。位階および勲等は従五位・勲三等。 日向国都城で、薩摩藩島津氏一族である都城島津家の家臣の須田利昌の三男として生まれる。1870年12月分家する。1873年から勧学義塾で学び、1874年に工学寮付属学校に入学し、1875年に工学寮に進学した。1881年に工部大学校を卒業し、工部省の技手となる。のち神戸川崎工場分局に移り技師となり、1884年、農商務省管船局を経て、日本郵船に入社する。 1888年、船舶の発注のためにイギリスに渡り、造船所で監督をしながら造船学を研究した。
江角 柳四郎(えすみ りゅうしろう、1848年4月10日(嘉… 江角 柳四郎(えすみ りゅうしろう、1848年4月10日(嘉永元年3月7日)- 1906年(明治39年)3月22日)は日本の地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 出雲国出雲郡、のちの原鹿村(簸川郡久木村を経て現島根県出雲市斐川町原鹿)で、豪農の家に生まれる。機業を営み、簸川銀行取締役などを務めた。また、島根県元出雲郡連合村戸長、島根県会議員、久木村会議員、同村長などを歴任。1904年、貴族院多額納税者議員に選出され、同年9月29日に就任し、死去するまで在任した。 公益事業にも関心が高く、貧民救済、公共建築・道路修繕・衛生事業、居村児童への奨学金支給などに多額の寄付を行った。
岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい、文政10年3月… 岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい、文政10年3月15日(1827年4月10日) - 明治33年(1900年)8月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。勲一等子爵。通称は左次右衛門、左二。 文政10年(1827年)、薩摩藩士・岩下亘の長男として鹿児島城下の下加治屋町に生まれる。その後、岩下典膳道格の養子となる。安政3年(1856年)、相良長基の紹介により30歳で平田銕胤の国学塾気吹舎の門人となった。 安政5年より始まる安政の大獄では、江戸において水戸浪士と結託して幕政打開を図ったが、挫折して帰藩する。安政6年(1859年)11月、精忠組に参加。文久2年(1862年)、伏見において銕胤嫡男平田延胤と面会し、島津久光挙兵上京の目的や寺田屋騒動の顛末について延胤に報告した。
岡 熊臣(おか くまおみ、天明3年3月9日(1783年4月1… 岡 熊臣(おか くまおみ、天明3年3月9日(1783年4月10日) - 嘉永4年8月6日(1851年9月1日))は、幕末に活躍した日本の国学者。石見国鹿足郡木部村(現・島根県鹿足郡津和野町)出身。 富長山八幡宮の神官・岡忠英の子として生まれる。本居宣長の影響を受け、村田春門の下で国学を学ぶ。1811年から神職自祭葬運動を展開した。1815年には家塾の桜蔭館を開いた。1849年、津和野藩校・養老館初代国学教師に就任。津和野国学隆盛の礎を築いた。 本居宣長と平田篤胤の思想を折衷し、独自の論考を構築した『千世の住処』、『古事記伝』を模した『日本書紀私伝』などの著書を著した。 1907年、従四位を追贈された。
鈴木 マリナ(すずき マリナ、4月10日 - )は、日本の女… 鈴木 マリナ(すずき マリナ、4月10日 - )は、日本の女性DJ、歌手。松竹芸能からデビューした元アイドル。関西学院大学卒業後、モデル、DJとして全国で活動している。