大山 康晴(おおやま やすはる、1923年〈大正12年〉3月… 大山 康晴(おおやま やすはる、1923年〈大正12年〉3月13日 - 1992年〈平成4年〉7月26日)は、将棋棋士。十五世名人。棋士番号26。木見金治郎九段門下。 主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代2位)、一般棋戦優勝44回(歴代2位)、通算1433勝(歴代2位)等がある。永世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将の5つの永世称号を保持。 順位戦A級に在籍しながら、1976年(昭和51年)12月から1989年(平成元年)5月まで日本将棋連盟会長を務めた。弟子には有吉道夫、中田功、行方尚史などがいる。1990年(平成2年)には将棋界から初めて文化功労者に選ばれた。正四位勲二等瑞宝章。
仮谷 志良(かりや しろう、1922年(大正11年)3月13… 仮谷 志良(かりや しろう、1922年(大正11年)3月13日 - 1997年(平成9年)9月2日)は、日本の政治家。和歌山県出身。和歌山県知事を5期務めた。 1922年(大正11年)3月13日、和歌山県西牟婁郡串本町(現・東牟婁郡串本町)で生まれる。1947年(昭和22年)に京都帝国大学法学部を卒業し、1949年(昭和24年)に和歌山県庁に入庁した。1959年(昭和34年)に土木部次長、1963年(昭和38年)に経済部長、1967年(昭和42年)10月16日には出納長に就任している。1975年(昭和50年)に副知事となった。 同年10月4日の和歌山県知事・大橋正雄の急逝を受けて行われた和歌山県知事選挙に立候補して当選。
川村 克己(かわむら かつみ、1922年3月13日- 200… 川村 克己(かわむら かつみ、1922年3月13日- 2007年6月14日)は、日本のフランス文学者。立教大学名誉教授。 東京生まれ。1934年(昭和9年)、津久戸小学校を卒業。 1945年(昭和20年)東京帝国大学文学部仏文科卒業後、助手を経て、立教大学文学部助教授、教授、1988年(昭和63年)定年、名誉教授。 立教大学退職後は、新潟産業大学副学長を務めた。 1989-93年日本フランス語フランス文学会会長を務めた。 子に国文学者の川村裕子。
嘉瀬 誠次(かせ せいじ、1922年〈大正11年〉3月13日… 嘉瀬 誠次(かせ せいじ、1922年〈大正11年〉3月13日 - 2023年〈令和5年〉12月14日は、日本の花火師。 戦時中途絶えていた長岡大花火大会の復興に尽力し、また海外活動を積極的に行った。第50回吉川英治文化賞受賞など。 現・新潟県長岡市に生まれる。父・嘉瀬誠喜、祖父・亀吉も花火製造に携わっており、煙火業として三代目にあたる(亀吉は農業との兼業)。 1943年 (昭和18年) 4月10日、新発田歩兵第158連隊に入隊。同連隊は第42師団に編入され 、翌1944年 (昭和19年) 3月3日に松輪島上陸、同島防衛の任に就く。 終戦後、シベリア抑留を経て1948年 (昭和23年) 復員。
高橋 昌郎(たかはし まさお、1921年3月13日 - 20… 高橋 昌郎(たかはし まさお、1921年3月13日 - 2016年11月4日)は、日本の歴史学者。日本近代史専攻。元清泉女子大学教授。 1921年、群馬県高崎市で生まれた。東京帝国大学文学部に進学し、国史学科で学んだ。1946年9月に卒業。 卒業後は、教諭として東京都立北園高等学校に勤務。1974年から1991年まで清泉女子大学の教授を務めた。日本プロテスタント史研究会の世話人を務め、また3年間牧師を務めた。2016年に死去。
能戸 清司(のと きよし、1921年3月13日 - 2014… 能戸 清司(のと きよし、1921年3月13日 - 2014年9月14日)は、日本の新聞記者、小説家。 北海道函館市生まれ。東京大学法学部政治学科卒業後、朝日新聞社入社。学芸部長、論説委員を歴任し、「天声人語」の執筆も担当した。記者のかたわら木戸織男のペンネームで小説も書き、1960年「夜は明けない」で第1回サンデー毎日小説賞第二席、第44回直木賞候補。1961年には「朝のたそがれ」で第13回文學界新人賞候補(能戸清司名義)。朝日新聞退社後、名古屋保健衛生大学(現・藤田医科大学)教授となる。
吉田 茂夫(よしだ しげお、1920年3月13日 - 200… 吉田 茂夫(よしだ しげお、1920年3月13日 - 2009年2月23日)は、日本の経営者。京都府福知山市出身。 1943年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に阪神急行電鉄(のちの阪急電鉄)に入社。1961年1月に阪急国際交通社(のちの阪急交通社)に転じ、1969年5月に取締役に就任し、1975年5月に常務、1980年5月に専務を経て、1985年6月に社長に就任。1991年6月に会長に就任し、1994年6月から1年間相談役を務めた 2009年2月23日に死去。88歳没。
小山 俊一(おやま しゅんいち、1919年3月13日 - 1… 小山 俊一(おやま しゅんいち、1919年3月13日 - 1991年9月18日) 日本の哲学者。 福岡県門司市(現北九州市)生まれ、直方に育つ。 1935年4月、中学4年終了で旧制福岡高校理科乙類(ドイツ語)に入学。一年留年して、福高卒業。1939年4九州帝国大学農学部に入学。10月、矢山哲治を中心に福岡から創刊された同人誌「こをろ」に参加。同人に阿川弘之、島尾敏雄、那珂太郎、眞鍋呉夫らがいた。 1941年12月、九大を繰り上げ卒業、1943年5月、陸軍雇員募集に応募、軍属として6月、ボルネオに赴任。ボルネオ山中でマラリアにかかり、敗戦後、捕虜収容所に収容される。1946年春、復員。同年秋、福岡県庁農地部に就職するも、半年で退職。
滝 謙太郎(たき けんたろう、1919年3月13日 - 没年… 滝 謙太郎(たき けんたろう、1919年3月13日 - 没年不詳)は、日本の俳優。長野県北佐久郡本牧村(現佐久市)出身。旧漢字表記は瀧 謙太郎。本名は笠原 敬三。 長野県北佐久農学校、帝国高等音楽学校研究科卒業。関屋敏子、古関裕而、下八川圭祐、原信子らに師事し声楽を学ぶ。原信子歌劇団、日本劇場、創作座、芸術座小劇場を経て、1941年に日活多摩川撮影所に入社。大映、松竹大船撮影所を経て、東映に入社。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
三宅 春恵(みやけ はるえ、旧字体: 三宅 春惠、旧姓:豊田… 三宅 春恵(みやけ はるえ、旧字体: 三宅 春惠、旧姓:豊田、1918年〈大正7年〉3月13日 - 2005年〈平成17年〉12月9日)は、日本の声楽家(ソプラノ)・オペラ歌手・音楽教育者。二期会の創設者の一人。夫はピアニストでフェリス女学院短期大学教授兼学長の三宅洋一郎。 福岡市生まれ。父は英文学者・九州帝国大学教授の豊田実。1939年(昭和14年)東京音楽学校を卒業する。ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。 実質的なデビューは1939年(昭和14年)12月の新交響楽団(現: NHK交響楽団)定期演奏会のベートーヴェン『フィデリオ』マルツェリーネである。 戦時中の1945年(昭和20年)1月においても新交響楽団の演奏会に出演しているのが確認できる。
杉浦 睦夫(すぎうら むつお、1918年3月13日 - 19… 杉浦 睦夫(すぎうら むつお、1918年3月13日 - 1986年8月26日)は、日本で初めて胃カメラを開発した技術者である。 静岡県浜松市生まれ。1938年4月にオリンパス光学工業株式会社に入社。35ミリカメラの開発などに取り組む。 1949年7月、東京大学付属病院小石川分院の外科医、宇治達郎が勤務先のオリンパス光学工業に相談に来て、杉浦がその対応にあたった。胃の中の写真を撮る「胃カメラ」を開発したいが可能かどうか尋ねられたところ、「光があり、レンズがあり、フィルムがあればたとえカメラがどこにあっても撮影は出来る」という内容にて回答したという。当時は胃の病気の診断を、レントゲンか胃鏡で実施していたが、レントゲンでは胃の内壁まではわからず、胃鏡では診断できる者が少ない上、確認しづらい部分があることや患者に与える苦痛も大きかったという状況であった。
佐藤 勇(さとう いさむ、1918年3月13日 - 1999… 佐藤 勇(さとう いさむ、1918年3月13日 - 1999年4月14日)は、日本競馬会、国営競馬および日本中央競馬会に所属した騎手、調教師。騎手時代には八大競走で3勝、中央競馬史上初めての通算500勝を記録した。調教師転身後も1975年に全国リーディングトレーナー(年間最多勝利調教師)を獲得、天皇賞(春)優勝馬ヒカルポーラ、東京優駿(日本ダービー)優勝馬オペックホースなどを管理し、通算1074勝を挙げた。騎手500勝・調教師1000勝は中央競馬史上唯一の記録である。 1933年、北海道上川郡士別町(現・士別市)に、小作農の長男として生まれる。少年期は教師を志していたが、家計の逼迫から学業を断念。
長田 裕二(おさだ ゆうじ、1917年3月13日 - 200… 長田 裕二(おさだ ゆうじ、1917年3月13日 - 2003年4月28日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲章は勲一等旭日大綬章。 参議院議長(第19代)、科学技術庁長官(第34代)、自由民主党参議院議員会長(第16代)、参議院予算委員長、参議院議員(4期)等を歴任した。元参議院議員の佐藤泰三は縁戚にあたる。 千葉県出身。東京府立第四中学校、旧制第一高等学校、東京帝国大学法学部卒業。1939年、逓信省(後の郵政省、現総務省)に入省。企画課属。経理局担当審議官、経理局長、郵務局長などを経て、1966年7月1日より郵政事務次官。退官後、1968年の第8回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から出馬し、初当選した。
洪 璡基(ホン・ジンギ、朝鮮語: 홍진기、1917年3月13… 洪 璡基(ホン・ジンギ、朝鮮語: 홍진기、1917年3月13日 - 1986年7月13日)は、韓国の実業家、政治家。 本貫は南陽洪氏。号は維民(ユミン、유민)。日本名は徳山 進一。1940年に京城帝国大学法文学部法学科で学士号を取得して、その年の日本の高等文官試験に合格した。 李承晩政権に加わった後、洪璡基は1954年に法務部副長官、1958年に法務部長官を務め、1960年に内務部長官に就任した。1960年6月15日、尹潽善(第4代大統領)と張勉(第2代国務総理)が率いる第二共和国は、新憲法によって発足した。第二共和国発足の際、経済情勢には多くの問題があり、最終的には国家再建最高会議の下で軍事政権によって終結した。
森 英介(もり えいすけ、本名:佐藤重男、1917年3月13… 森 英介(もり えいすけ、本名:佐藤重男、1917年3月13日 - 1951年2月8日)は、日本の詩人。生前はまったく無名であったが、没後に評価されるようになった。 佐藤重男として、1917年(大正6年)3月13日、山形県米沢市に生まれる。1936年(昭和11年)、早稲田大学文学部哲学科に入学するも、1939年(昭和14年)に中退。1940年(昭和15年)、結婚。1941年(昭和16年)に召集され浜松の航空隊に入隊後、青森県三沢基地に転属、病気のため豊橋の陸軍病院に送還され、1943年(昭和18年)に召集解除。長男、次男が生れた後、1945年(昭和20年)の敗戦前に離婚。1946年(昭和21年)9月に総合雑誌『労農』を米沢で創刊(第3号で休刊)。
小田 豊四郎(おだ とよしろう、1916年3月13日 - 2… 小田 豊四郎(おだ とよしろう、1916年3月13日 - 2006年8月3日)は、日本の実業家。六花亭創業者。北海道函館市出身。 旧制野付牛中学校(現・北海道北見北斗高等学校)卒業。父の事業の失敗で進学を断念し、1933年に母方の叔父・岡部式二が経営する札幌千秋庵に入社。 1937年にもう一人の叔父・岡部勇吉が創業した帯広千秋庵(現在の六花亭の前身)の経営を引き継ぐ。当初は同業他社が多かったことから苦戦を強いられる。だが、1939年に価格等統制令が敷かれ、他の店が砂糖不足で思うように商品を作れなくなった際、知人の会社社長の薦めもあり、前もって砂糖を大量に購入していたため、小田の店は従来どおりに製品を作ることができ、次第に客足が増えるようになった。
曺 逸煥(チョ・イルァン、朝鮮語: 조일환/曺逸煥、1916… 曺 逸煥(チョ・イルァン、朝鮮語: 조일환/曺逸煥、1916年3月13日 - 1980年1月28日)は、大韓民国の政治家。第4・5・7・8代韓国国会議員。本貫は昌寧曺氏(朝鮮語版)。24保安法波動の時に負傷し病院に搬送された野党議員の1人であった。 日本統治時代の大邱府出身。明治大学法学部卒。大邱大学(現・嶺南大学校)講師、民主党中央党政策委員・中央常務委員・大邱戊区党委員長、新民党慶尚北道第4地区党委員長・全党大会副議長・中央党指導委員、国会財政経済委員会幹事、国会大邱西門市場(朝鮮語版)火災事件救護調査特別委員会委員長を務めた。 1980年1月28日、持病により大邱市内の自宅で死去。享年64。
加藤 長治(かとう ちょうじ、1916年(大正5年)3月13… 加藤 長治(かとう ちょうじ、1916年(大正5年)3月13日 - 2004年(平成16年)11月4日)は、日本の政治家。戦後から平成初期にかけて活躍した相模原市議会議員。位階は従五位。 1916年3月13日、神奈川県津久井郡青根村で、加藤開・妻フジの第4子として生まれる。当時、山間部である津久井郡青根村(280戸)と青野原村(320戸)は平均耕作面積が狭く、炭焼きなどの山仕事しかない貧しい村であったが、過剰な人口を抱えて、昭和15年には県の経済更生指定村となった為、国策に基づき分村計画を立て満州に開拓団を送り出すことが義務付けられた。丁度、加藤長治が名古屋の騎兵第三連隊から二年十一か月の軍隊生活を終わり除隊して帰宅した頃であった。
渡海 元三郎(とかい もとさぶろう、1915年3月13日 -… 渡海 元三郎(とかい もとさぶろう、1915年3月13日 - 1985年5月2日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(10期)、自治大臣、建設大臣などを歴任。文部科学大臣(第9代)、自由民主党政務調査会長(第62代)を勤めた渡海紀三朗の父。渡海晴平の子。 兵庫県印南郡曽根町(現:高砂市)出身。姫路中学、姫路高校文科乙類を経て、1939年京都帝国大学法学部卒。卒業後はブリヂストンタイヤに就職するが、同年12月に応召され、日中戦争に従軍。1943年に除隊となり、川崎重工に入社するが、翌1944年に再招集され、姫路の部隊で終戦を迎える。 戦後は地元で鋳造業を始める傍ら、故郷・曽根町の青年団長、印南郡連合青年団長を務めた。
伊藤 順吉(いとう じゅんきち、1914年(大正3年)3月1… 伊藤 順吉(いとう じゅんきち、1914年(大正3年)3月13日 - 2009年(平成21年)1月9日)は、日本の物理学者。大阪大学名誉教授。専門は原子核物理学、物性物理学。 伊藤竹之助、ときの次男として生まれる。父・竹之助は伊藤忠兵衛 (初代) の長女・ときの婿養子。兄は伊藤英吉。妻は後藤文夫の次女保子。 甲南小学校(9回生)、旧制甲南高等学校を経て、1936年に大阪帝国大学理学部物理学科(一期生)を卒業後、同学科の菊池正士の下につく。高エネルギー電子線を活用する原子核研究を行うため、日本で最初のサイクロトロン建設に携わり、戦時中には同学科教授、1943年春から海軍嘱託として、海軍極超短波レーダーの基礎的部分の研究を山口省太郎(同学科助教授)と共に担当し、菊池グループで重要な役割を果たす。
江間 章子(えま しょうこ、1913年3月13日 - 200… 江間 章子(えま しょうこ、1913年3月13日 - 2005年3月12日)は昭和を代表する唱歌の作詞家、詩人。代表作に「夏の思い出」、「花の街」などがある。 新潟県高田市(現・上越市)に生まれる。しかし2年後に父が急逝し、岩手県岩手郡平館村(現・八幡平市平舘)の母の実家に移住する。 満12歳となる1925年には静岡県に再度転居し、旧制静岡高等女学校に進学する。『詩と詩論』から影響を受けて学生時代から作詞家を目指した。 高等女学校卒業後に上京し、1930年に駿河台女学院(後の東京YWCA専門学校)に入学する。1936年に詩集『春への招待』を自費出版で発表した。 1938年、北園克衛、村野四郎、山中散生、山本悍右らと『夜の噴水』を編輯。
石野 信一(いしの しんいち、1912年3月13日 - 19… 石野 信一(いしの しんいち、1912年3月13日 - 1996年1月19日)は、日本の大蔵官僚、実業家。第8代大蔵事務次官、さくら銀行名誉会長。文芸評論家の村上一郎は従兄弟。 神戸三中、大阪高校を経て、1935年、東京帝国大学法学部政治学科卒業後、大蔵省入省。主計局配属。理財局総務課長、大臣官房調査部長、理財局次長の後、1957年6月11日に俗に「森 - 石 ライン」と呼ばれることとなった森永貞一郎の下で官房長を務め、1959年に銀行局長、1961年に主計局長を経て、1963年に大蔵事務次官に就任、池田勇人首相の高度経済成長政策のブレーンとして活躍した。熟慮断行タイプとして知られ、大臣官房財務調査官(大臣官房調査課担当)だった1954年度予算編成では緊縮型予算を主張し貫徹した話は伝説になっている。
山路 ふみ子(やまじ ふみこ、1912年〈明治45年〉3月1… 山路 ふみ子(やまじ ふみこ、1912年〈明治45年〉3月13日 - 2004年〈平成16年〉12月6日)は、日本の女優・実業家・社会事業家・慈善家。兵庫県神戸市長田区出身。本名・大久保 ふみ子(おおくぼ ふみこ)。映画人の育成、功績のあった人の賞賛、教育・文化・福祉事業への支援活動に、私財を投げ打った。 1912年、兵庫県神戸市に生まれる。1930年、森高等女学校(現・神戸学院大学附属高等学校)在学中に神戸新聞社主催のミス神戸に選出され、同年、大阪松竹楽劇部(現・OSK日本歌劇団)を経て、帝国キネマ演芸株式会社に新人幹部候補生として入社し、『時代の反抗児』で映画デビューを飾る。たちまち看板スターとして脚光を浴び、雑誌や広告にもモデルとして登場するが、演技への評価はあまり高くなかった。
松下 達夫(まつした たつお、1912年3月13日 - 19… 松下 達夫(まつした たつお、1912年3月13日 - 1985年8月20日)は、日本の俳優。太陽プロモーション所属。奈良県出身。 大阪府大阪市福島区生まれ。早稲田大学文学部英文学科卒業。 北支那方面軍へ兵役後、1934年、中央演劇会を経て同年中に村山知義らの新協劇団に研究生として参加する。1935年に映画デビューする。その後スマトラ島からタイへの兵役を経て、1952年に滝沢修、宇野重吉らの劇団民藝に入団、『セールスマンの死』などの舞台に立った。1973年に民藝を退団し、フリーとなった。舞台のほか、映画、テレビドラマでも渋い脇役として活躍した。 趣味・特技は関西弁、剣道(2段)。
阿具根 登(あぐね のぼる、1912年〈明治45年〉3月13… 阿具根 登(あぐね のぼる、1912年〈明治45年〉3月13日 - 2004年〈平成16年〉1月16日)は、日本の政治家。参議院議員(5期、日本社会党)。参議院副議長。位階は正三位。 福岡県大牟田市出身。海軍横須賀通信学校卒。三井三池炭鉱に就職し、戦後大牟田市議を経て1949年に三井三池労組の初代組合長に就任。1953年、参院選に全国区から社会党公認で立候補し当選する。党参議院国対委員長を歴任し、三井三池争議では社会党の一員として調停役に回った。1965年の参院選で落選、1967年には熊本県知事選にも立候補するが落選し、翌1968年の参院選で国政に返り咲いた。 1978年、飛鳥田一雄委員長の下で下平正一、北山愛郎らと共に党中央執行副委員長に就き、1980年の衆参同日選後は党参議院議員会長に就任。
中島 亥太郎(なかじま いたろう、1911年3月13日 - … 中島 亥太郎(なかじま いたろう、1911年3月13日 - 1993年5月20日)は、日本の陸上競技選手。専門は短距離走。400mの元日本記録保持者。早稲田大学在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに200m走およびリレー2種目(4×100m、4×400m)で出場。 静岡県御殿場市出身。沼津商業学校(現在の静岡県立沼津商業高等学校)卒業後、早稲田大学に進む。 早稲田大学在学中の1930年から1933年にかけて、400mの日本記録(ならびに日本男子学生記録)を6回更新している。 1932年ロサンゼルスオリンピックの代表となり、男子200メートル、男子400メートルリレー走(吉岡隆徳、南部忠平、阿武巌夫、中島亥太郎)、男子1600メートルリレー走(中島亥太郎、増田礒、大木正幹、西貞一)に出場。
最上 武雄(もがみ たけお、1911年(明治44年)3月13… 最上 武雄(もがみ たけお、1911年(明治44年)3月13日 - 1987年(昭和62年)12月15日)は、昭和時代の土木工学者。 1934年(昭和9年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、同大講師、助教授を経て、1947年(昭和22年)教授となり、1968年(昭和43年)工学部長に就任した。1971年(昭和46年)定年退官とともに名誉教授となり、同年日本大学理工学部教授に転じ、1981年(昭和56年)同大顧問となった。この間、攻玉社短期大学客員教授を務めた。日本学術会議会員。 ほか、土質工学会会長(名誉会員)、国際土質基礎工学会議副会長、日本建設機械化協会会長(名誉会員)、土木学会会長などの要職を歴任した。
清元 寿國太夫(きよもと じゅくにだゆう、1909年3月13… 清元 寿國太夫(きよもと じゅくにだゆう、1909年3月13日 - 1998年12月6日)は、清元節の太夫。本名、新野剛一。東京都墨田区出身。
秋元 寿恵夫(秋元 壽惠夫、あきもと すえお、1908年3月… 秋元 寿恵夫(秋元 壽惠夫、あきもと すえお、1908年3月13日 - 1994年2月4日)は、医師、著作家。筆名室田 有。 長野県長野市生まれ。一家は旧諏訪藩士の家系。精神医学者秋元波留夫は実兄。旧制東京府立第五中学、旧制第一高等学校卒業後、東京帝国大学医学部医学科で血清学を専攻し、1938年卒業、1943年大学院博士課程修了、医学博士。同年満州国平房の関東軍防疫給水部本部(731部隊)に加わった。 戦後は東京民主医療機関連合会結成に参加。1949年、臨床検査法の確立と検査技師の教育・育成を目的とする秋元研究所(1952年より病体生理研究所)を開設。長尾研究所、神奈川保健所勤務を経て、1959年3月-1966年3月横浜市衛生研究所長、1966年4月-1984年5月病体生理研究所長、1967年1月新日本臨床検査技師学校長。
吉田 法晴(よしだ ほうせい、本名:法晴(みちはる)、190… 吉田 法晴(よしだ ほうせい、本名:法晴(みちはる)、1908年〈明治41年〉3月13日 - 1981年〈昭和56年〉1月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)、参議院議員(3期)。初代北九州市長(1期)。 福岡県宗像郡河東村(現宗像市)出身。旧制福岡高校を経て1936年同志社大学法学部卒業後、日本炭鉱に入社。 1947年日本社会党から福岡県議会議員に初当選。 1950年の第1回参議院議員通常選挙福岡県地方区補選で日本社会党公認で立候補して当選。以来、参議院議員を3期務め、その間に参議院労働委員長となる。 参議院議員任期途中の1963年、北九州市の発足に伴い選出される市長選挙に立候補(告示日の同年2月28日付で公職選挙法の規定により参議院議員を退職(自動失職))。
大橋 貞雄(おおはし さだお、1908年3月13日 - 20… 大橋 貞雄(おおはし さだお、1908年3月13日 - 2009年3月28日 )は、日本の経営者。共同印刷社長、会長を務めた。 東京都出身。1930年に東京商科大学を卒業し、同年に帝国教育会出版部に入社。1944年に国民図書刊行会に転じ、1947年に東京インキ社長に就任。1957年5月には共同印刷社長に就任。1977年8月に会長に就任し、1988年6月に取締役兼名誉会長に就任し、1990年6月から相談役兼名誉会長を務めた。 1968年10月に藍綬褒章を受章し、1978年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 2009年3月28日、老衰のために死去。101歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
堀江 知彦(ほりえ ともひこ、1907年〈明治40年〉3月1… 堀江 知彦(ほりえ ともひこ、1907年〈明治40年〉3月13日 - 1988年〈昭和63年〉6月28日)は、日本の書家・書道史家。 東京生まれ。号は秋菊。早稲田大学国文科卒。1934年から1969年まで東京国立博物館勤務。その後、1982年まで二松學舍大学教授を務めた。古筆鑑定、会津八一の研究を行った。
吉田 忠一(よしだ ちゅういち、1906年(明治39年)3月… 吉田 忠一(よしだ ちゅういち、1906年(明治39年)3月13日 - 1993年(平成5年)10月22日)は、日本の内務・厚生官僚、実業家。最後の官選鳥取県知事。 兵庫県明石市出身。大阪高等学校を卒業。1928年10月、高等試験行政科試験に合格。1929年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、石川県属となる。 以後、労働局事務官、島根県書記官・警察部長、厚生省会計課長、同勤労局長などを歴任。 1947年2月、鳥取県知事に就任。昭和22年度当初予算を編成し、知事選挙を執行して、同年4月に退任。その後、埼玉県副知事に就任した。 1950年、警察予備隊に参加し第1管区総監となるが、部下の不祥事の責任を取り辞職。
秋元 順朝(あきもと なおとも、1905年3月13日 - 1… 秋元 順朝(あきもと なおとも、1905年3月13日 - 1967年9月18日)は、日本の経営者、銀行家。埼玉銀行頭取を務めた。群馬県館林市出身。 秋元春朝子爵の長男として生まれる。1928年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に高文行政科に合格し、1929年には大蔵省に入省。 1932年に茨木税務署長、大阪税務監督局管内茨木税務署所轄内相続税審査委員。1933年に淀川税務署長、大阪税務監督局轄内淀川税務署所轄内相続税審査委員。1934年に北税務署長、大阪税務監督局管内北税務署所轄内相続税審査委員。 1940年に関税等不服審査会幹事、阿片委員会幹事、台湾関税等不服審査会委員、不当廉売委員会幹事。
井形 卓三(いがた たくぞう、1904年(明治37年)3月1… 井形 卓三(いがた たくぞう、1904年(明治37年)3月13日 - 1991年(平成3年)3月13日)は、昭和時代の政治家。位階は正五位。東京都本郷区長、文京区長。文京区名誉区民。 埼玉県に生まれる。旧制熊谷中学、第八高校を経て、東京帝国大学経済学部卒業。1945年(昭和20年)12月、本郷区長に就任。1947年(昭和22年)4月、文京区初代区長に就任し、1967年(昭和42年)9月16日の任期満了まで5期20年にわたり区長を務めた。在任中は文京区庁舎と公会堂を建設し、第2庁舎を設置する。1958年には日本国際連合協会を代表して東京都議会副議長の浦部武夫と共にブラッセル(ベルギー)を視察。1965年に東京都の区長会会長に選ばれた。
中峠 国夫(なかたお くにお、1903年(明治36年)3月1… 中峠 国夫(なかたお くにお、1903年(明治36年)3月13日 - 没年不詳)は、日本の政治家。衆議院議員を1期務めた。 広島県出身。苦学の末、旧制広島高等学校、京都帝国大学(文学士)、東京帝国大学(工学士)卒業。 計15回の選挙に立候補するが、当選は1952年の第25回衆議院議員総選挙の1回のみであった。文部大臣秘書官。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
小出 保太郎(こいで やすたろう、1903年〈明治36年〉3… 小出 保太郎(こいで やすたろう、1903年〈明治36年〉3月13日 - 2016年〈平成28年〉1月19日)は、名古屋市守山区に在住していた長寿の男性である。2015年7月5日から死去するまでの間、ギネス世界記録に認定されていた世界最高齢の男性であった。 福井県敦賀市出身。若いころは洋服仕立屋として働き、105歳まで畑仕事を続けていた。106歳のとき名古屋市に引っ越した。110歳を超えても眼鏡を使用せずに新聞を読み、入れ歯なしでの食事が可能であった。晩年は守山区内のデイサービス施設に通っていた。自身の長寿の秘訣として「無理しないで、喜びながら暮らす」ことを挙げている。 2014年1月2日、老人学研究団体ジェロントロジー・リサーチ・グループ(GRG)の検証済みスーパーセンテナリアンリストに登録される。
清水 一(しみず はじめ、1902年3月13日 - 1972… 清水 一(しみず はじめ、1902年3月13日 - 1972年3月17日)は、日本の建築家。 総合建設会社の設計部要職にあって、和風様式や伝統技術に精通した建築家として輻広い交友を築いた。また、職人仕事や日本の住まいに関する一般向けの軽妙な随筆に健筆をふるった。 東京府出身。1926年、東京帝国大学工学部を卒業し、大倉土木(現・大成建設)に入社。1963年まで設計に従事し、ホテルオークラやホテルニューオータニなどを手がけた。ほか建築作品に大倉集古舘 (1938)、サンフランシスコ博覧会日本館 (1939) など。 1950年、大成建設取締役建築技師長。1953年取締役、1959年常務取締役、1963年退任、顧問。
里村 欣三(さとむら きんぞう、1902年3月13日 - 1… 里村 欣三(さとむら きんぞう、1902年3月13日 - 1945年2月23日)は、日本の小説家。 岡山県和気郡福河村(現在の備前市)生まれ。本名: 前川 二享(にきょう)。谷周平(昌武)ら新選組の谷三兄弟は母方の家系である。関西中学校中退。1922年、徴兵検査で甲種合格、岡山の歩兵第10連隊に入営したが脱走、水死を装って逃亡し、満洲を放浪する。 のち上京し『文藝戦線』に投稿、1924年に深川貧民窟のルポルタージュ『富川町から』を発表して注目される。1925年に中国での体験をもとにした小説「苦力頭の肖像」を発表し、プロレタリア文学の新進作家として認められる。この時代は、脱走兵であることを知られぬために、写真の公表を拒んでいた。
入江 直祐(いりえ なおすけ、1901年3月13日 - 19… 入江 直祐(いりえ なおすけ、1901年3月13日 - 1991年)は、日本の英文学者、翻訳家。 岡山県出身。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高校)旧制第六高等学校を経て、六稜学舎では詩人でもある山宮允に学び、1938年東京帝国大学卒業、市河三喜に学ぶ。アルフレッド・テニスン、ウォルター・スコットなどの翻訳で知られる。1962年まで法政大学教授、その後神奈川大学教授。1989年まで創価大学教授を務めた。
西村 俊成(にしむら としなり、1901年3月13日 - 1… 西村 俊成(にしむら としなり、1901年3月13日 - 1977年)は、昭和期の雑誌編集者。大日本雄辯會講談社(現・講談社)「少年倶楽部」の編集長を務め、のち常務、顧問を歴任。八王子市の曹洞宗信松院住職を務めた。 東京都生まれ。曹洞宗大学(今の駒澤大学)卒業。大日本雄辯會講談社入社。 「婦人倶楽部」などの編集を担当し、「少年倶楽部」の編集長を務めた。1956年1月31日、取締役就任。1964年1月28日に取締役(元常務)を退任し顧問。 1971年、児童文化功労者(日本児童文芸家協会)。1968年「追想の広川弘禅」(私家版)の編集を務めた。
白井 俊明(しらい としあき、1900年3月13日 - 19… 白井 俊明(しらい としあき、1900年3月13日 - 1975年1月8日)は、日本の化学者。 1923年東北帝国大学理学部化学科を卒業。東京帝国大学理学部助手に採用。1940年、東京大学地震研究所、理化学研究所に勤務。 1950年、東京大学教養学部教授となった。1951年、東京大学に学位論文を提出して理学博士号を取得。1960年、東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は東京理科大学教授として教鞭をとった。1970年に東京理科大学を退職。
島 マス(しま マス、1900年3月13日 - 1988年7… 島 マス(しま マス、1900年3月13日 - 1988年7月9日)は、沖縄県の教育者、社会福祉活動家。第二次世界大戦後、米統治下の沖縄で、おもに児童・青少年に関わる様々な社会福祉事業に関わり、「戦後沖縄の "福祉の母"」と称された。 1900年、当時の美里間切伊波村(現在のうるま市)に、貧しい小作農であった伊波家の末子として生まれる。1919年、沖縄県女子師範学校を卒業して、山田尋常高等小学校訓導となり、以降、長く小学校教員を務めた。1921年、同じく小学校教員であった島有剛と結婚して島姓となり、翌1922年以降、5男2女をもうける。1945年、沖縄戦の中でふたりの子を失う。 1948年、小学校教員を依願退職して、越来村(現在の沖縄市)へ移り、越来村婦人会を結成して戦災母子世帯の救済や青少年の健全育成をめざす活動に取り組む。
田代 順七(たしろ じゅんしち)1900年(明治33年)3月… 田代 順七(たしろ じゅんしち)1900年(明治33年)3月13日 - 1985年(昭和60年)10月11日)は、昭和期の洋画家。現在の熊本県玉名市出身。 教員を務める傍ら熊本在住者として初めて帝展入選を果たし、以後1985年まで、文展(文部省美術展覧会、現在の日展)、日展に連続出品。具象絵画団体東光会支部としての銀光会を結成し、熊本の洋画史をリードしながら郷土熊本の自然の美をテーマに一貫して具象絵画の世界を追求、熊本における美術振興に寄与した。 その絵画精神は自然観照にもとづく美学の実践であり、力強く表現されている。 画業60余年、とりわけ1950年代中頃から展開する「球磨川」「天草」そして晩年の「阿蘇」シリーズの作品は、田代芸術の写実観を如実に物語っている。
佐藤 義夫(さとう よしお、1899年〈明治32年〉3月13… 佐藤 義夫(さとう よしお、1899年〈明治32年〉3月13日 - 1961年〈昭和36年〉7月29日)は、日本の実業家。中部日本放送社長を務めた。現在の岩手県奥州市(旧江刺市域)出身。 1922年に慶應義塾大学を卒業し、星製薬、時事新報社での勤務を経て、1935年に岩手日報社専務に就任する。その後、1942年に中日新聞社の前身である新愛知新聞社に入社し、取締役と常務を歴任した。 1950年に中部日本放送の専務に就任し、副社長を経て、1959年11月から社長に就任した。 1961年7月29日社長在職中に心筋梗塞で死去。62歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田中 繁松(たなか しげまつ、1898年〈明治31年〉3月1… 田中 繁松(たなか しげまつ、1898年〈明治31年〉3月13日 - 1976年〈昭和51年〉2月26日)は、日本の経営者。三井造船社長を務めた。位階は正四位。 大阪府岸和田市出身。1918年に大阪高等工業学校造船学科を卒業し、同年に三井物産に入社。1942年1月に三井造船に転じ、1946年5月に取締役、同年11月に常務、1947年5月に専務を経て、1958年5月に副社長に就任し、1960年5月には社長に昇格。1970年5月に取締役相談役を経て、1972年5月には相談役に就任。 1968年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1976年2月26日脳血栓のために死去。77歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
久保 岩太郎(くぼ いわたろう、1897年3月13日 - 1… 久保 岩太郎(くぼ いわたろう、1897年3月13日 - 1980年4月29日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1953年)。一橋大学名誉教授。山口弘一の弟子。 香川県木田郡十河村(現高松市)生まれ。1916年旧制香川県立高松中学校(現香川県立高松高等学校)卒業、1919年旧制山口高等商業学校(現山口大学経済学部)卒業。1923年東京商科大学(現一橋大学)卒業。論争を機に交流のあった江川英文との縁で、1953年東京大学より法学博士の学位を取得。 大学院の指導学生に秌場準一(一橋大学名誉教授)、海老澤美廣(元名古屋高等裁判所判事、元青山学院大学教授)。 1923年4月関西学院大学高等商業学部教授、1938年東京商科大学附属商学専門部教授兼東京商科大学講師、1940年東京商科大学教授兼任、1949年東京商科大学教授、1951年一橋大学法学部教授、1955年から1957年まで一橋大学法学部長及び評議員。
佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30年)3月1… 佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30年)3月13日 - 1968年(昭和43年)12月13日)は、日本初のレコード歌手。本名は佐藤千代。山形県東村山郡天童村(現:天童市)出身。中山晋平の歌謡曲を世に広め、古賀政男の才能を発見したことで、それ以後の日本大衆音楽史の発展に大きな功績がある。華々しくかつ浮き沈み激しい人生は、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」のモデルとなった。
若槻 有格(わかつき ありのり、明治30年(1897年)3月… 若槻 有格(わかつき ありのり、明治30年(1897年)3月13日 - 昭和46年(1971年)8月19日)は、日本の実業家、元日本銀行証券局長。 第25代および第28代内閣総理大臣若槻禮次郎と若槻徳子の長男。 東京市小石川区(現在の文京区)に生まれる。大正10年(1921年)に東京帝国大学経済学部卒業、日本銀行入行。検査役、静岡支店長、松江支店長、証券局長等を歴任する。昭和20年(1945年)に利久醗酵工業会長、昭和22年(1947年)に同常任監査役となったが、同社が協和醗酵工業との合併を機会に辞任し、セロハン販売興進社社長となる。昭和46年(1971年)没。 趣味は文学。宗教は真宗。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
草葉 隆圓(くさば りゅうえん、1895年(明治28年)3月… 草葉 隆圓(くさば りゅうえん、1895年(明治28年)3月13日 - 1966年(昭和41年)9月20日)は、日本の社会福祉事業家、政治家、僧侶。参議院議員(4期)、厚生大臣(第24代)。雅号・隆月。 福岡県出身。1920年(大正9年)、大谷大学を卒業し欧米に留学。1921年(大正10年)から社会福祉事業に従事し、愛知県遺友会会長となる。 1947年(昭和22年)4月、第1回参議院議員通常選挙に愛知地方区から出馬し当選(任期3年)。以後、第2回、第4回、第6回参議院議員通常選挙で再選され、連続4回当選を果たした。 参議院議員としては、参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員長、同議院運営委員長、同外務委員長、同日米安全保障条約等特別委員長を務める。