小早川 欣吾(こばやかわ きんご、1900年6月16日 - … 小早川 欣吾(こばやかわ きんご、1900年6月16日 - 1944年6月15日)は、日本の法学者(法制史)。元京都帝国大学法学部教授。兵庫県神戸市生まれ。 立命館中学校を卒業し、1922年山口高等学校に入学。1925年に同校を卒業し、京都帝国大学法学部法律学科に入学。1929年3月に卒業し、翌月、日本法制史の研究のため、大学院に進学。1934年、同大学助教授に就任。同志社大学講師も務める。その後、1944年教授に任じられ、また人文科学研究所員に補される。 日本法制史の担当であったが、東洋法制史の講義を担当した。没後の1944年12月、蔵書が「小早川文庫」として京都帝国大学法学部に受け入れられた。
権 五鍾(クォン・オジョン、朝鮮語: 권오종/權五鍾、190… 権 五鍾(クォン・オジョン、朝鮮語: 권오종/權五鍾、1900年6月16日 - 1960年2月1日または6月1日)は、大韓民国の政治家。元慶尚北道議会(朝鮮語版)議員、第3・4代韓国国会議員。本貫は安東権氏(朝鮮語版)。 慶尚北道安東郡出身。明治大学法科卒。大韓独立促成国民会安東郡支部長、国民会安東郡支部長、安東金融組合長、安東煙草耕作組合長などを務めた。第4代国会議員在任中の1960年1月8日に民主党を離党し自由党に入党したが、同年2月1日、ソウル市城北区の自宅で肝炎により死去。61歳没。 1957年、同姓同本間の結婚についての民法案発議時、結婚容認に猛反対した。
重富 卓(重冨、しげとみ たく、1900年(明治33年)6月… 重富 卓(重冨、しげとみ たく、1900年(明治33年)6月16日 - 1979年(昭和54年)2月17日)は、昭和期の農業指導者、実業家、政治家。衆議院議員。 山口県出身。1910年(明治43年)に出家したが1918年(大正7年)に還俗。1920年(大正9年)山口中学校(現山口県立山口高等学校)を卒業。1925年(大正14年)早稲田大学政治経済学部を卒業。同年農林省に入省し農務局雇となる。同年、一年志願兵として入隊し、1926年に除隊した。1927年(昭和2年)農林省に復帰し、同年12月、高等試験行政科試験に合格。1930年(昭和5年)東京府に出向し農林主事補、同属となり、1932年(昭和7年)に退官した。
浦上 衛門(うらがみ もりと、1899年(明治32年)6月1… 浦上 衛門(うらがみ もりと、1899年(明治32年)6月16日 - 詳細不明)は、日本の土木技師であり、実業家である。大阪市技師となり土木局長となった後、大阪地下街社長となる。土木学会名誉会員。岡山県岡山市出身。 1899年(明治32年)岡山県御津郡一宮村(現:岡山市)に生れる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)卒業を経て、1918年(大正7年)に旧制第六高等学校医科(3部)へ進学する。その後、1922年(大正11年)3月同校を卒業し、京都帝国大学工学部へ進学する。1925年(大正14年)3月、工学部土木工学科を卒業する。 京大を卒業後、すぐに大阪市役所に入り、土木技師として働く。第二次世界大戦後、1946年(昭和21年)計画部長となり、翌年、土木部長となる。
沖 豊治(おき とよじ、1899年6月16日 - 1981年… 沖 豊治(おき とよじ、1899年6月16日 - 1981年6月6日)は、日本の経営者。兼松社長を務めた。 石川県金沢市出身。1921年に神戸商科大学を卒業し、同年に神戸兼松商店に入社した。1944年に兼松取締役に就任し、1948年に専務を経て、1952年から1965年11月までに社長を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1969年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1981年6月6日、急性心不全のために死去。81歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
安藤 覚(安藤 覺、あんどう かく、1899年(明治32年)… 安藤 覚(安藤 覺、あんどう かく、1899年(明治32年)6月16日 - 1967年(昭和42年)11月27日)は、昭和期の僧侶、政治家。衆議院議員(5期)。僧名は覚堂。 神奈川県愛甲郡小鮎村(現厚木市)に生まれる。1925年、日本大学専門部宗教科卒業。神奈川県愛甲郡依知村(後厚木市に編入)の曹洞宗安竜寺、同広徳寺の住職を務める。 萬朝報や読売新聞の記者を務め、後に読売新聞社政治部長・編集局次長、日本大学新聞研究室講師、神奈川民声新聞社社長、神奈川中央交通、小田急運送各取締役、神奈川県仏教連盟、同青年連盟各理事となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会推薦で神奈川県3区から立候補して初当選するが、戦後公職追放処分となる。
多湖 實夫(たご じつお、1898年(明治31年)6月16日… 多湖 實夫(たご じつお、1898年(明治31年)6月16日 - 1985年(昭和60年)5月11日)は、日本の内務官僚、実業家。官選山梨県知事、学校法人愛知医科大学理事長、ワシントンホテル社長。 三重県員弁郡笠田村(現いなべ市)出身。多湖實の長男として生まれる。愛知県立第一中学校、第八高等学校を卒業。1922年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し東京府属となる。 以後、内務省社会局勤務、奈良県理事官、内務省社会局事務官・保険部勤務、静岡県書記官・経済部長、第16回国際労働会議出席(1932年ジュネーヴ開催、政府側顧問)、東京府学務部長、宮城県書記官・総務部長、大阪府総務部長などを歴任。
山桝 義寛(やまます よしひろ、1898年(明治31年)6月… 山桝 義寛(やまます よしひろ、1898年(明治31年)6月16日 - 1965年(昭和40年)3月10日)は、日本の養蚕学者である。 鳥取県に生まれ、京都高等蚕業学校(現在の京都工芸繊維大学工芸科学部)に入学する。1921年(大正10年)に卒業後は母校の助教授として活動し、後に教授に昇格した。その後は学校名の改称により京都工芸繊維大学の教授となり、後に京都大学農学部でも養蚕の教鞭を執る。 その傍らでカイコが患う病気予防の消毒やその解毒剤として利用される晒粉の研究に携わった。1945年(昭和20年)には農学博士を取得し、後に同大学の繊維学部長を1952年(昭和27年)の退官まで務める。晩年は日本学術会議の会員を2期務めた。
川本 末治(かわもと すえじ、1898年(明治31年)6月1… 川本 末治(かわもと すえじ、1898年(明治31年)6月16日 - 1983年(昭和58年)12月3日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県愛知郡、のちの長久手村(長久手町を経て現長久手市)で生まれる。1922年(大正11年)明治大学法学部を卒業した。 実業界では、横浜製糸取締役社長、横浜石材取締役社長、東洋製油工業専務取締役、日本螺旋管工業専務取締役、三進興業専務取締役などを務めた。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙に愛知県第2区から民主自由党所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任。この間、民主自由党庶務部副部長などを務めた。 その後、全国消火弾工業会長、消防団員等公務災害保障等共済基金理事などを務めた。
今井 つる女(いまい つるじょ、1897年6月16日 - 1… 今井 つる女(いまい つるじょ、1897年6月16日 - 1992年8月19日)は、俳人。本名は今井鶴(旧姓・池内)。父は高浜虚子の兄池内政夫で、つる女は虚子の姪にあたる。 愛媛県松山市生まれ。生後間もなく一家で上京するも4歳で父と死別し、池内政忠(虚子の長兄)の養女となる。1904年、尋常第一小学校(現 番町小学校)へ入学後、尋常第四小学校(現 東雲小学校)へ編入する。1914年、愛媛県立松山高等女学校(現 愛媛県立松山南高等学校)卒業。今井五郎との結婚を機に上京する。1920年頃から句作をはじめ、1928年『ホトトギス』夫人句会に参加する。1930年、星野立子の『玉藻』創刊に参加。1940年「ホトトギス」同人となる。
石森 延男(いしもり のぶお、1897年6月16日 - 19… 石森 延男(いしもり のぶお、1897年6月16日 - 1987年8月14日)は、日本の児童文学者、国語教育学者、教科書編集者。第二次世界大戦前1939年の『咲きだす少年群』で第3回新潮社文芸賞、大戦後は1957年刊行のベストセラー『コタンの口笛』(全2部)で第1回未明文学賞および第5回産経児童出版文化賞を、1962年の『バンのみやげ話』で第1回野間児童文芸賞を受賞。『石森延男児童文学全集』全15巻がある。 1897年(明治30年)、歌人で「われらが愛する北海道」の作詞者でもある石森和男の長男として北海道札幌市に生まれる。中央区南6条西9丁目に生誕地の碑がある。 東京高等師範学校第二部国語国文科に入学、在学中より詩作や口演童話にたずさわる[要出典]。
硲慈弘(はざま じこう、1896年6月16日-1946年4月… 硲慈弘(はざま じこう、1896年6月16日-1946年4月16日)は、天台宗の僧、仏教学者。 和歌山県生まれ。天台宗大学(のち大正大学)卒。東京帝国大学へ内地留学、島地大等に師事、その『天台教学史』の編纂助手を務める。1927年大正大学講師、助教授、教授。初代天台宗教学研究所長。
金 度演(キム・ドヨン、朝鮮語: 김도연、1894年6月16… 金 度演(キム・ドヨン、朝鮮語: 김도연、1894年6月16日 - 1967年7月19日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。二・八独立宣言、朝鮮語学会事件で検挙された。本貫は永川金氏、号は常山(サンサン、상산)。 京畿道陽川郡の陽東面(金浦郡を経て現・ソウル特別市江西区)にて誕生。父は金鍾遠、母は草渓鄭氏。次男として誕生。7歳の頃から漢字を学習。太極学校で初等教育を受け、普成中学校に進学。 1913年に日本に留学し、錦城学校尋常中学校3年生に編入学。「半島中学会」という組織を作って活動。卒業後は慶應義塾大学部理財科に入学。朝鮮系留学生による組織『朝鮮留学生学友会』で総務として各種活動を主導。
水木 京太(みずき きょうた、1894年(明治27年)6月1… 水木 京太(みずき きょうた、1894年(明治27年)6月16日 - 1948年(昭和23年)7月1日)は、日本の劇作家、演劇評論家である。水木京太は筆名で、本名は七尾 嘉太郎(ななお かたろう)。声優の草分けである女優の七尾伶子は実娘である。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)大町中丁の旧家に、町会議員を何度も務めた七尾重兵衛の長男として生まれる。慶応義塾大学に入学後文学を専攻し、在学中に小山内薫に師事した。盲腸による腹膜炎で一年休学。大正8年(1919年)卒業。 資生堂の嘱託となり、大正9年(1920年)から同14年(1925年)まで『三田文学』の編集に携わりつつ、慶応義塾大学講師として劇文学を担当。
武井 直也(たけい なおや、1893年(明治26年)6月16… 武井 直也(たけい なおや、1893年(明治26年)6月16日 – 1940年(昭和15年)2月5日)は、日本の彫刻家。 長野県出身の彫刻家である。戸張孤雁、アントワーヌ・ブールデルに師事した。日本美術院の同人であったが、脱退して日本彫刻家協会を結成した。代表作となった『髪』は東京国立近代美術館に収蔵されている。そのほか『浴後』と『裸婦』が東京芸術大学大学美術館に収蔵されている。 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)に生まれ、同村の篆刻家の八幡郊処の影響で彫刻家を志した。上京後、戸張孤雁に師事し、東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻本科塑像部を卒業。日本美術院展に3年連続入選した後、1924年フランスへ留学、同郷の清水多嘉示らとパリに住む。
不染 鉄(ふせん てつ、1891年6月16日 - 1976年… 不染 鉄(ふせん てつ、1891年6月16日 - 1976年2月28日)は、大正から昭和にかけて活動した日本画家。 1891年(明治24年)6月16日、東京・小石川の光円寺住職であった不染信翁の子として生まれる。本名は哲治。のち哲爾に改める。別号に鉄二。「不染」の名字は、平民苗字必称義務令にあたり父・信翁自らが名乗ったものだという。当時一般には僧侶の妻帯を認められておらず、母との関係はふせられたまま不染は光円寺で育てられた。 こうした複雑な境遇から、不良少年とみなされていたという。小学4年の春に千葉県富浦の西方寺で修行させられた後、芝中学校、攻玉社中学校、大正大学などで学ぶ。画を志し、山田敬中に師事。
原 捨思(はら すてし、1891年(明治24年)6月16日 … 原 捨思(はら すてし、1891年(明治24年)6月16日 - 1976年(昭和51年)1月31日)は、明治末から昭和期の漁業家、政治家。衆議院議員。 鹿児島県川辺郡西南方村大字泊[要出典](坊津村、坊津町を経て現南さつま市坊津町泊)で生まれる。 15歳から漁業に従事。1927年(昭和2年)から兄・耕と共同で南方漁場開拓に従事し、南洋諸島方面で活動した。その後、鹿児島青年師範学校講師、鹿児島県企画室参与、鹿児島県潜水士協会理事長、同水産振興協議会長、同漁港協会長、同鰹鮪漁業協同組合長、同漁業協同組合連合会長、同海難防止会長、漁村文化協会顧問、全国水産業協同組合共済会理事、全国漁港協会副会長、原水産社長などを務めた。
長 基連(ちょう もとつら、1890年(明治23年)6月16… 長 基連(ちょう もとつら、1890年(明治23年)6月16日 - 1954年(昭和29年)6月6日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧名・本多恭。 旧加賀藩家老・本多政以の二男として生まれる。男爵・本多政樹の弟。従兄の男爵・長克連の死去に伴い家督を継承し、1901年(明治34年)6月7日、男爵を襲爵した。その後、前名・恭を基連と改名した。 1915年(大正4年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1917年(大正6年)三井銀行に入行する。以後、龍王山金山取締役、第一機罐保険社長、東邦物産会頭などを務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任した。
奥野 他見男(おくの たみお、1889年6月16日 - 19… 奥野 他見男(おくの たみお、1889年6月16日 - 1953年12月17日)は、日本の作家。本名・西川他見男。 金沢生まれ。金沢医学専門学校薬学科卒。学生時代「北國新聞」に「凸坊日記」を連載し、1915年『大学出の兵隊さん』で単行本デビュー、爆発的人気を得た。『婦女界』『主婦の友』などに連載し、流行語、新風俗を描きユーモア作家として大正から昭和初期に一世を風靡した。
村上 啓作(むらかみ けいさく、1889年(明治22年)6月… 村上 啓作(むらかみ けいさく、1889年(明治22年)6月16日 - 1948年(昭和23年)9月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 栃木県喜連川町鷲宿(現:栃木県さくら市鷲宿)出身。農業・村上角次の四男として生れる。鷲宿小学校、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校本科を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を優等で卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第3連隊付となる。1916年11月、陸軍大学校(28期)を優等で卒業した。 陸軍技術審査部付(軍事調査部)、歩兵第3連隊付(ロシア出張)、ロシア駐在、陸大教官、兼参謀本部員、参謀本部員、陸大教官、陸軍省軍務局課員(軍事課)、歩兵第34連隊長、陸軍歩兵学校教導隊長、陸軍省兵務課長などを歴任し、二・二六事件当時は軍事課長であった。
金森 太郎(かなもり たろう、1888年〈明治21年〉6月1… 金森 太郎(かなもり たろう、1888年〈明治21年〉6月16日 - 1958年〈昭和33年〉6月12日)は、日本の農商務・内務官僚。東京府(のちの東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町、現東京都渋谷区)出身。勲三等旭日中綬章。 宗教家の金森通倫の長男。第102・103代内閣総理大臣・石破茂の外祖父。 1888年、熊本県人の牧師・金森通倫の長男として誕生。1909年、第二高等学校を卒業。1913年、東京帝国大学法科大学独法科卒業。 農商務属となり、兵庫県朝来・明石各郡長、島根県理事官産業課長、茨城・静岡各県警察部長、福島・長野各県内務部長等を経て、1931年、大阪府警察部長に就任。1932年、東京府内務部長に就任。
曽和 義弌(曾和、そわ ぎいち、1888年(明治21年)6月… 曽和 義弌(曾和、そわ ぎいち、1888年(明治21年)6月16日 - 1968年(昭和43年)1月21日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員、大阪府南河内郡高向村長。 大阪府錦部郡、のちの高向村(南河内郡高向村を経て現河内長野市)で生まれる。 小学校代用教員となる。以後、同訓導、市立堺女子手芸学校教諭、府立大阪医科大学書記、滝畑尋常高等小学校長などを歴任。 大阪府会議員に選出され、高向村長も務めた。河陽新報を創刊し経営を行った。 1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙(大阪府第5区、立憲政友会公認)で当選し、その後、翼賛議員同盟に所属し衆議院議員に1期在任した。戦後に公職追放となった。
池ノ上 賢吉(いけのうえ けんきち、1887年(明治20年)… 池ノ上 賢吉(いけのうえ けんきち、1887年(明治20年)6月16日 - 1975年(昭和50年)7月22日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県、のちの大口市(現伊佐市)で生まれた。陸軍士官学校第21期卒業。1935年(昭和10年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に関東軍司令部附となり、旅順工科大学に配属され、1936年(昭和11年)8月に第1独立守備隊司令部附に転じたが、旅順工科大学配属が続いた。1937年(昭和12年)8月2日に関東軍司令部附となり、12月28日に福岡連隊区司令官に就任した。 1939年(昭和14年)8月1日に陸軍少将進級と同時に留守第4師団司令部附となり、1940年(昭和15年)8月に独立混成第9旅団長に就任。
林 荘太郎(はやし しょうたろう、1885年(明治18年)6… 林 荘太郎(はやし しょうたろう、1885年(明治18年)6月16日 - 1947年(昭和22年)3月26日 )は、日本の実業家である。総合商社である兼松第4代(兼松社長としては初代)取締役統括を務め、海洋化学研究所設立に出資した。この他にも、東邦金属製線、日本絹共販の各取締役、商工省諮問委員、神戸商工会議所顧問も務めた。岡山県倉敷市出身。 1885年(明治18年)、岡山県浅口郡玉島町(現:倉敷市玉島)の父・林廣三郎と母よしの長男として出生する。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学、同期には、東京競馬場長・日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事の横屋潤、山発商店社長(現:アングル)の山本発次郎、大阪無線電気学校(現:大阪電気通信大学)の初代校長となる長野新十郎がいた。
荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年(明治17年… 荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年(明治17年)6月16日 - 1976年(昭和51年)5月20日)は、日本の自由律俳句の俳人、俳論家。位階は従四位。 「層雲」を主宰、尾崎放哉や種田山頭火らを育てた。本名・幾太郎のち藤吉。日本芸術院会員。 東大言語学科卒。河東碧梧桐の新傾向運動に親しみ、機関誌「層雲」を発刊、季題無用論を説き、自由律を主張した。また俳句は宗教的芸術であるとして「道」の句を説いた。句集に『原泉』(1960年)、作家研究に『芭蕉と一茶』(1925年)など。 東京市芝区神明町(現:東京都港区浜松町)で雑貨商・「新田屋」の次男として生まれる。荻原家は越後国高田(現:新潟県上越市)出身で祖父・藤吉が家庭の事情で若いとき家を出奔して江戸に出てきたという。
太田 質平(おおた しちへい、1883年〈明治16年〉6月1… 太田 質平(おおた しちへい、1883年〈明治16年〉6月16日 - 1941年〈昭和16年〉6月16日)は、日本の海軍軍人。日本海軍軍人の標語であった『スマートで目先が利いて几帳面 負けじ魂 これぞ船乗り』を創ったといわれる人物である。最終階級は海軍少将。 新潟県出身。妻は海軍中将野元綱明の娘。長岡中学などを経て海軍兵学校32期を卒業。席次は入校時190名中144番、卒業時192名中13番。堀悌吉、吉田善吾、嶋田繁太郎、山本五十六などが同期生である。「韓崎丸」乗組みとして候補生教育を受け、「笠置」(艦長山屋他人)乗組みとして日本海海戦に参戦した。 大尉進級後、練習艦「宗谷」分隊長として遠洋航海で海兵37期の少尉候補生を指導。
渡辺 水巴(わたなべ すいは、1882年(明治15年)6月1… 渡辺 水巴(わたなべ すいは、1882年(明治15年)6月16日 - 1946年(昭和21年)8月13日)は東京出身の俳人。本名は渡辺義(よし)。 東京府東京市浅草区浅草小島町(現在の東京都台東区小島)に生まれる。父は近代画家の渡辺省亭で、裕福な家庭の中で悠悠自適の少年時代を送る。育英小学校卒業を経て、1899年、日本中学(現在の日本学園中学校・高等学校)第三学年修業後退学。1900年、俳句で身を立てることを志し、翌年内藤鳴雪を訪れ門下生となる。終生俳句以外に職を求めなかった。また同居した妹つゆ女も俳人であった。 1906年、高浜虚子に師事。千鳥吟社より「俳諧草紙」を創刊(1909年「文庫」に合併)。
斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1882年(明治15年)6月… 斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1882年(明治15年)6月16日 - 1955年(昭和30年)1月12日)は、日本の裁判官。 熊本県飽託郡画図村(現在の熊本市東区)出身。1906年(明治39年)、京都帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。広島地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事・大阪区裁判所判事、京都地方裁判所判事、大阪控訴院判事、大津地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事・大阪区裁判所判事、大阪区裁判所監督判事を歴任した。 大審院判事を務めた後、台湾総督府法院判官に転じ、高等法院長を務めた。 1938年(昭和13年)に退官した後は公証人となったが、1940年(昭和15年)に大審院判事に復職した。
大倉 喜七郎(おおくら きしちろう、1882年〈明治15年〉… 大倉 喜七郎(おおくら きしちろう、1882年〈明治15年〉6月16日 - 1963年〈昭和38年〉2月2日)は、大倉財閥2代目総帥。男爵。東京(赤坂区葵町、現東京都港区虎ノ門)生まれ。長唄の名を聴松。 父は大倉財閥創始者の大倉喜八郎。異母弟の大倉雄二(1919年〈大正8年〉 -1991年〈平成3年〉)は父喜八郎・兄喜七郎の回想・評伝を3冊執筆している。 父喜八郎の事業を引き継いで財閥の発展につとめ、戦後の公職追放、財閥解体などの難局に直面しながらも、特にホテルオークラ、川奈ホテル、赤倉観光ホテルをはじめとする、日本のホテル業に大きな足跡を残した。 気さくで気前がよく、派手好みなハイカラ男爵だったため、周囲からは「バロン・オークラ」と呼ばれて親しまれていた。
笠原 敏郎(かさはら としろう、1882年6月16日 - 1… 笠原 敏郎(かさはら としろう、1882年6月16日 - 1969年6月9日)は日本の都市計画家、内務官僚。工学博士(東京帝国大学)。 大正9年施行の都市計画法、市街地建築物法(現・建築基準法)の制定に尽力。戦前は満州国建築局長や日本大学などで教職につくほか、都市計画や営繕事業を主導する。戦後はまた建築法規の作成に貢献した。 新潟県南蒲原郡加茂町(現・加茂市)生まれ。1907年、東京帝国大学工科大学建築学科卒。卒業後、横河民輔率いる横河工務所に勤務後、陸軍技師を経て警視庁技師建設課長(1915年まで)。保安部の工場課勤務。当時の警視庁舎は現在の第一生命ビル(帝劇の南隣)のところに赤煉瓦造りの三階建建物であった。
河内山 楽三(こうちやま らくぞう、1880年(明治13年)… 河内山 楽三(こうちやま らくぞう、1880年(明治13年)6月16日 - 1930年(昭和5年)11月4日)は、朝鮮総督府官僚。 山口県出身。山口高等学校を経て、1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、大蔵省に入省して主税局属となる。その後、統監府財政監査官、朝鮮総督府事務官、度支部司計課長、財務局長、専売局長を歴任。退官後は朝鮮火災海上保険株式会社社長を務めた。
奥平 昌恭(おくだいら まさやす、1877年(明治10年)6… 奥平 昌恭(おくだいら まさやす、1877年(明治10年)6月16日 - 1948年(昭和23年)5月4日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。位階および勲等は従二位・勲三等。幼名は九八郎。旧中津藩主の家系。 東京府出身。伯爵・奥平昌邁の長男として生まれる。父・昌邁の死去に伴い、1885年(明治18年)1月16日、家督を相続し伯爵を襲爵した。幼少より奥平家旧領の中津で学んでいたが、上京して学習院に入学、後に京都帝国大学法科大学を修了。1909年(明治42年)には欧米を漫遊する。 1911年(明治44年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して1932年(昭和7年)7月まで在任し、さらに1946年(昭和21年)5月9日、補欠選挙で再選され、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
藤村 トヨ(ふじむら トヨ、1877年6月16日 - 195… 藤村 トヨ(ふじむら トヨ、1877年6月16日 - 1955年1月18日)は、日本の体育教育者。 香川県阿野郡坂出村(現・坂出市)出身。病気で東京女子高等師範学校を中退。その後、1902年に体操で健康を取り戻し、1904年に体操科教員の文部省検定試験で女性初の合格者となる。同年に東京女子体操音楽学校(現・東京女子体育大学)に就職し、1908年に校長となる。1915年に東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)に入学し、1920年卒業。1928年から1931年まで海外を視察し、帰国後にはドイツの体育教師G・ワルターとK・ブラントを招聘し、ドイツ体操を奨励した。 1950年に東京女子体育短期大学で初代学長となる。
石井 健吾(いしい けんご、1874年(明治7年)6月16日… 石井 健吾(いしい けんご、1874年(明治7年)6月16日 - 1945年(昭和20年)8月31日)は、日本の銀行家。第3代第一銀行頭取を務めた。 東京生まれ。4歳で父を亡くし、阪本小学校、明治小学校を経て、共立学校(現開成高等学校)に進学後渋沢栄一の書生となる。1895年高等商業学校(現一橋大学)卒業。同期に佐野善作(経済学者)、岡崎久次郎(日米富士自転車創業者)など。 卒業後第一銀行に入行。書記、預金係主任兼貸付係主任、横浜支店長次席を経て、1902年には横浜市長に推挙された市原盛宏の後任として横浜支店長に就任。1910年本店営業部支配人。1918年常務取締役。1926年副頭取。1931年頭取。
石破 滝蔵(石破 瀧藏、いしば たきぞう、1874年〈明治7… 石破 滝蔵(石破 瀧藏、いしば たきぞう、1874年〈明治7年〉6月16日 - 没年不明)は、日本の政治家。鳥取県八頭郡大御門村長。大御門村会議員。大御門信用組合監事。鳥取県園芸会評議員。八東園芸組合長。旧姓・山本。 鳥取県岩美郡倉田村円通寺(現・鳥取市)・山本粂七の二男。小学校卒業後、家業の農業に従事する。1909年、石破家入夫となる。 1913年、大御門村会議員となり1917年、満期退任後農業に従事する。傍ら果樹園を経営する。 1927年12月、大御門村長に就任し1929年4月、辞任する。 1912年に刊行された『五百円以上所有者地価表姓名録 因幡の巻』によると、石破の地価所有高は「513円96銭」である。
山崎 正董(やまさき まさただ、明治5年5月11日(1872… 山崎 正董(やまさき まさただ、明治5年5月11日(1872年6月16日) - 昭和25年(1950年)5月29日)は日本の医師(産婦人科医)。私立熊本医学校教授、愛知県立医学専門学校校長、熊本医科大学学長(1925-1932)。60歳の定年後は好きな旅行、歴史に没頭。『横井小楠』『肥後医育史』を著す。1932年と1933年に沖縄を旅行した写真が発見され、写真集ができた。貝や沖縄の古瓦も蒐集した。 字は子勉、号は黙堂。 1872年5月11日 現在の高知県高岡郡佐川町に生まれる。1890年 第三高等学校に入学。1892年 第一高等学校に転学。1900年 東京帝国大学卒業。1901年 私立熊本医学校教授。
俵 孫一(たわら まごいち、1869年6月16日〈明治2年5… 俵 孫一(たわら まごいち、1869年6月16日〈明治2年5月7日〉- 1944年〈昭和19年〉6月17日)は、日本の官僚、政治家。衆議院議員。商工大臣、立憲民政党幹事長などを歴任した。従二位勲一等。 1869年(明治2年)5月7日、石見国浜田(現:島根県浜田市)に俵家の3代目・三九郎、ミナの五男として生まれる。幼少の頃から家業の醤油醸造、ろうそくの製造販売等を手伝う。 浜田中学(現・島根県立浜田高等学校)、泊園書院(現:関西大学)、共立学校(現:開成中学校)、第一高等学校を経て1895年(明治28年)帝国大学法科大学英法科(現:東京大学法学部)を卒業する。卒業後は内務官僚として官界に入り、1907年(明治40年)大韓帝国の学部次官、1910年(明治43年)同国の土地調査局副総裁(後の朝鮮総督府臨時土地調査局副総裁)に就任。
松本 文三郎(まつもと ぶんざぶろう、1869年6月16日(… 松本 文三郎(まつもと ぶんざぶろう、1869年6月16日(明治2年5月7日) - 1944年12月18日)は、仏教学者。インド哲学、インド文化・仏教美術史学者。号は亡洋。京都帝国大学名誉教授。インド哲学の泰斗として知られ、仏教芸術に関しても多くの論文を発表した。 1869年、加賀国金沢(現・石川県金沢市)で生まれた。帝国大学文科大学文学部で学び、1893年に卒業。 1894年9月、立教学校(現・立教大学)教授に就いた。1899年、ドイツに留学。同年、文学博士号を取得。 第一高等学校教授を務めたのち、1906年に京都帝国大学文科大学(現・京都大学文学部)の開設委員となり、同大学インド哲学史教授に就任。
芳賀 矢一(はが やいち、慶応3年5月14日〈1867年6月… 芳賀 矢一(はが やいち、慶応3年5月14日〈1867年6月16日〉 - 昭和2年〈1927年〉2月6日)は、日本の国文学者。東京帝国大学名誉教授、東宮職御用掛、國學院大學学長、帝国学士院会員を歴任した。 1867年、福井県足羽郡生まれ。父は国学者の芳賀真咲。1889年7月第一高等中学校を卒業。1892年、帝国大学文科大学(のちの東京帝国大学文学部)卒業。在学中は小中村清矩に学ぶ。 1895年、第一高等学校教授兼高等師範学校教授。1899年、東京帝国大学助教授。1900年、夏目漱石、藤代禎輔とともに文部省外国留学生としてドイツに留学し、文献学を学ぶ。1902年に帰国し、東京帝国大学教授となる。1903年、文学博士の学位を取得。
大石 熊吉(おおいし くまきち、元治元年5月13日(1864… 大石 熊吉(おおいし くまきち、元治元年5月13日(1864年6月16日) - 昭和20年(1945年)5月11日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。 佐賀藩士大石良英の二男として生まれる。藩校弘道館で学ぶが、東京に出て神田共立学校、大学予備門で学んだ。その後大隈重信の知遇を得、1884年(明治17年)に大隈の勧めでアメリカ合衆国のラトガース大学に留学した。ラトガーズ大学で学位を得た後、1889年(明治22年)にニューヨーク大学に入り、1892年(明治25年)に哲学博士号を得た。 帰国後は『報知新聞』記者や東京専門学校(現在の早稲田大学)講師を務めた。1897年(明治30年)、大隈が農商務大臣に就任するとその秘書官となり、翌年に大隈が内閣総理大臣に就任にすると秘書官となった。
山下 りん(山下 里舞、やました りん、安政4年5月25日〈… 山下 りん(山下 里舞、やました りん、安政4年5月25日〈1857年6月16日〉- 1939年〈昭和14年〉1月26日)は、日本の画家である。女性。常陸国茨城郡笠間(幕藩体制下の常州笠間藩領、現在の茨城県笠間市)の出身。正教徒で、聖名はイリナ。そのため、しばしばイリナ山下りんとも呼ばれる。 日本人初のイコン画家として知られる。日本で最も早期の女性洋画家の一人。 1873年(明治6年)に東京府に出て豊原国周という浮世絵師に学び、後に川上冬崖に洋画を学んだ中丸精十郎に師事する。1877年(明治10年)には工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージの指導を受けた。同窓生の山室政子の影響で正教会に改宗した。
笠井愛次郎(かさい あいじろう、安政4年(1857年)6月1… 笠井愛次郎(かさい あいじろう、安政4年(1857年)6月16日-1935年9月25日) は、日本の土木技師。明治時代の鉄道や電力などの近代化に大きく貢献した。私立鉄道学校創立者、利根発電社長、特殊合金社長、帝国鉄道協会理事、大日本国防義会監事。 岐阜県瑞浪市にて江戸の銅版絵師・笠井大五郎の二子に生まれ、1860-61年頃父とともに上京、神原精二、大沼枕山に漢学を、佐瀬得所に書を、福沢諭吉の学友・千本五郎(千邑五郎?)に英学を学ぶ。 1882年に工部大学校土木科卒業後、徳島県庁に出仕し、南海四県国道貫通工事を担当ののち、海軍省に移り、佐世保・呉の鎮守府 (日本海軍)建設工事を担当、九州鉄道、日本土木会社を経て、1892年小石川に「笠井染工場」と設計事務所「工業事務所」を開業、1897年私財を投じて私立鉄道学校を設立、1898年鉄道協会(帝国鉄道協会前身)設立、1900年京釜鉄道技術長、1909年利根発電社長(大株主)、1912年常総鉄道専務を務め、1915年工学博士号取得。
大森 鍾一(おおもり しょういち、1856年6月16日〈安政… 大森 鍾一(おおもり しょういち、1856年6月16日〈安政3年5月14日〉- 1927年〈昭和2年〉3月3日)は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、皇太后宮大夫、男爵。 幕臣、駿府与力・大森直正(水野忠邦家臣森川源左衛門の男)と先代鯛次郎直由の娘である銀の長男として生まれる。幼名は鍾一郎、後に諱の直興を名乗る。静岡学校、名古屋学校を経て、明治5年10月(1872年11月)に林欽次塾に入り、後に中退。 1873年(明治6年)4月、明治政府に出仕し陸軍造兵司・一等附属となる。司法省、法制局、太政官を経て、1878年(明治11年)10月、内務省に移り四等属に任官。以後、内務権大書記官、兼戸籍局長、内務卿官房長心得、内務大臣秘書官(山縣有朋大臣)、内務書記官・総務局文書課長兼勤、県治局長、兼警保局長などを歴任した。
池上 幸操(いけがみ ゆきこと、1855年6月16日〈安政2… 池上 幸操(いけがみ ゆきこと、1855年6月16日〈安政2年5月3日〉 - 1926年〈大正15年〉8月14日)は、明治・大正時代の神奈川県会議員、自由民権運動家。武蔵国橘樹郡池上新田村(現在の神奈川県川崎市川崎区池上新町)出身。池上新田を開拓した池上幸豊の子孫。 1855年(安政2年)、武蔵国橘樹郡池上新田村の名主・池上家に生まれる。祖先の池上幸豊は大師河原村の名主だったが、宝暦年間に池上新田を開拓すると姉の子を養子にして大師河原村の名主を継がせ、自らは池上新田村の名主となった。 15歳のときに池上新田大島村新組名主役となる。神奈川県では1872年(明治5年)に名主・年寄に代えて戸長・副戸長を置くこととなり、17歳で戸長になる。
三好 退蔵(みよし たいぞう、1845年6月16日(弘化2年… 三好 退蔵(みよし たいぞう、1845年6月16日(弘化2年5月12日) - 1908年(明治41年)8月20日)とは、日本の法曹。初代検事総長、大審院院長を歴任し、退官後は弁護士、貴族院議員を務めた。錦鶏間祗候。 旧暦弘化2年5月(1845年6月)、日向国(現在の宮崎県児湯郡高鍋町)高鍋藩士の家に生まれる。藩校明倫堂で学んだ後、遊学して安井息軒に師事。 明治2年(1869年)に新政府に出仕して高鍋藩の少参事を務めた後、地方官や大蔵省官吏を歴任。この間、大蔵省出仕のまま明治4年7月3日(1871年)、27歳で慶應義塾に入塾した。同塾が芝新銭座(現在の港区浜松町一丁目)から三田に移ったばかりで、同窓には猪飼麻次郎、九鬼隆一、雨山達也、矢野文雄、高嶺秀夫らがいた。
広瀬 宰平(ひろせ さいへい、文政11年5月5日(1828年… 広瀬 宰平(ひろせ さいへい、文政11年5月5日(1828年6月16日) - 大正3年(1914年)1月31日)は、初代住友総理人である。明治期の大阪財界の大立者。位階は従六位勲四等。 広瀬宰平は、近江国野洲郡八夫村(現滋賀県野洲市)の旧家・北脇家の次男として生まれた。幼名・駒之助、維新後は宰平と改名した。 9歳のとき、別子銅山の支配人をしていた叔父の北脇治右衛門に連れられて別子に移り、11歳のときに別子銅山に奉公にあがった。1855年、家長・住友吉左衛門の推薦で、元住友江戸店の支配方であった伊予国新居郡金子村久保田(現・新居浜市)の広瀬義右衛門の養子となる。1865年、別子銅山の近代化を訴えた宰平は、家長により別子銅山の総支配人に抜擢される。
大島 高任(おおしま たかとう、文政9年5月11日(1826… 大島 高任(おおしま たかとう、文政9年5月11日(1826年6月16日) - 明治34年(1901年)3月29日)は、明治時代の鉱山学者。父・大島周意は藩医として盛岡藩に勤めた。 文政9年5月11日(1826年6月16日)、盛岡仁王小路にて盛岡藩侍医・大島周意の長男として生まれる。天保13年(1842年)17歳で留学、江戸で蘭方医の箕作阮甫や坪井信道に師事し、長崎では採鉱術を学ぶ。嘉永6年(1853年)、水戸藩主の徳川斉昭から招かれて那珂湊反射炉を建造。大砲の鋳造に成功するが、原材料が砂鉄の為にその性能は高くはなかった。西洋と並ぶ高品質な鉄を造るべく、良質の鉄鉱石が産出する大橋(釜石)の地にU・ヒュゲーニン著の「ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」を参考として西洋式高炉を建造、安政4年12月1日(新暦1858年1月15日)に鉄鉱石製錬による本格的連続出銑に成功する。
愛風 ゆめ(あいかぜ ゆめ、6月16日 - )は、元宝塚歌劇… 愛風 ゆめ(あいかぜ ゆめ、6月16日 - )は、元宝塚歌劇団月組の娘役。
碧海 さりお(あおみ さりお、6月16日 - )は、宝塚歌劇… 碧海 さりお(あおみ さりお、6月16日 - )は、宝塚歌劇団星組に所属する男役スター。 石川県金沢市、星稜高等学校出身。身長168cm。愛称は「ちゃりお」、「さりお」。 2013年、宝塚音楽学校入学。 2015年、音楽学校卒業後、宝塚歌劇団に101期生として入団。入団時の成績は5番。月組公演「1789」で初舞台。その後、星組に配属。 2020年、礼真琴・舞空瞳トップコンビ大劇場お披露目となる「眩耀の谷」で、新人公演初主演。 小学校高学年の時に宝塚を初観劇し、その日に宝塚受験を志した。 高校在学中に来校したOB・本田圭佑が口にした「何事にも限界はない。あきらめたら自分が負けだ」との言葉を胸に、最後のチャンスとなる4度目の挑戦で音楽学校に合格した。
森多 ヒロ(もりた ヒロ、6月16日 - )は、日本の漫画家… 森多 ヒロ(もりた ヒロ、6月16日 - )は、日本の漫画家。埼玉県久喜市出身。身長は186センチメートルで、森多によると『コロコロ』の漫画家史上、一番背が高い。 6月16日に生まれる。鳥山明の『ドラゴンボール』がきっかけとなり、絵を描き始める。一番好きな漫画に井上雄彦の『スラムダンク』を挙げている。よくドッジボールで遊ぶような小学生時代を過ごす。小学生のころ、友達と最初に行った映画に『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』を挙げている。 畑健二郎のもとで、『ハヤテのごとく!』のアシスタントを経験する。 2014年、『週刊少年サンデー』(小学館)にて、14号より異色な巨大ヒーローを描いた『キリヲテリブレ』の連載を開始。