前田 光嘉(まえだ みつよし、1916年(大正5年)9月16… 前田 光嘉(まえだ みつよし、1916年(大正5年)9月16日 - 2009年(平成21年)4月13日)は、日本の官僚。元建設事務次官。三重県出身。 建設省都市局長、営繕局長、住宅局長、大臣官房長を経て、1965年(昭和40年)建設事務次官に就任。1967年(昭和42年)に退官。 1970年(昭和45年)から1978年(昭和53年)まで日本道路公団総裁を務めた。1989年(平成元年)の春の叙勲で勲一等瑞宝章を受章。
北川 謙次(きたがわ けんじ、1916年(大正5年)9月16… 北川 謙次(きたがわ けんじ、1916年(大正5年)9月16日 - 1989年(平成元年)12月23日)は、日本の政治家。東大阪市長(第3代、2期)。息子は元国土交通副大臣を務めた自由民主党元参議院議員の北川イッセイ(北川一成)。日本社会党の大阪府議だった北川信次は従兄。勲等は勲三等瑞宝章。 大阪府出身。1934年(昭和9年)旧制大阪府立八尾中学校(現大阪府立八尾高等学校)を卒業した。 日本社会党公認で布施市(現・東大阪市)議会議員に当選の後に社会党を離党して市会議長などを経て、1967年(昭和42年)4月の統一地方選挙で自民党から立候補し大阪府議会議員(旧布施市選挙区、定数4)に伏見格之助(日本社会党)を抑え得票数4位で当選(伏見は次点に終わる)。
重松 通雄(しげまつ みちお、1916年9月16日 - 19… 重松 通雄(しげまつ みちお、1916年9月16日 - 1979年12月16日)は、愛媛県出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督。 NPBにおけるアンダースロー第1号ともいわれる。 越智中学校から広島県呉市の呉海軍工廠電気部に所属し、11チームあった同社の硬式野球部の電気部エースとして「オール呉」が編成されるといつも選抜された。また、1936年に創設された現行プロ野球に名乗りを上げたが、加盟は認められなかった名古屋市の球団「セントラル・シティ」に偽名で登録し、数試合投げていた。しかし、試合後に酒を飲んで警察に拘留された件で呉工廠への復帰が閉ざされ、先に阪急入りしていた倉本信護から阪急入団テストの話を聞いてテストに合格し、1936年に創立したばかりの阪急軍に入団すると、三宅大輔監督からアンダースローへの変更を言い渡される。
及位 ヤヱ(のぞき やえ、1916年(大正5年)9月16日 … 及位 ヤヱ(のぞき やえ、1916年(大正5年)9月16日 - 2005年(平成17年))は、日本の女性パイロットで秋田県山本郡八竜町出身。通称は、及位ヤエ、及位野衣。戸籍名は『ヤヱ』であったが、第一航空学校在籍時に男性名ばかりの名札の中で目立つことを嫌い、漢字を当てた『野衣』の名で飛行活動を行った。単発小型機で日本一周に成功、NHK連続テレビ小説『雲のじゅうたん』のモデルのひとりである。元社団法人日本婦人航空協会の設立者で理事長。
大友 一明(おおとも かずあき、1916年9月16日 - 没… 大友 一明(おおとも かずあき、1916年9月16日 - 没年不明)は、静岡県浜松市出身の元プロ野球選手。ポジションは二塁手、投手。
高田 敏子(たかだ としこ、1914年9月16日 - 198… 高田 敏子(たかだ としこ、1914年9月16日 - 1989年5月28日)は、日本の詩人。 女学校時代から詩作を始める。結婚後は主婦・母親の視点で日常生活の哀歓を平明な言葉でうたい、好評を得た。詩集に『月曜日の詩集』(1962年)、『藤』(1967年)、『夢の手』(1985年)などがある。 東京市日本橋区(現東京都中央区)の陶器卸業の次女として誕生する。跡見女学校(現跡見学園女子大学・跡見学園中学校・高等学校)卒業。学校卒業後に兄の友人と結婚。 1946年に台湾から引揚げて詩作を開始。 1949年、「若草」に投稿した「夜のフラスコの底に」で注目を浴びる。 1960年より1963年までは朝日新聞に詩を連載する(毎週月曜日)。
前田 透(まえだ とおる、大正3年(1914年)9月16日 … 前田 透(まえだ とおる、大正3年(1914年)9月16日 - 昭和59年(1984年)1月13日)は、歌人。 東京府豊多摩郡大久保町(現新宿区)に、歌人前田夕暮の長男として生まれる。昭和10年(1935年)旧制成蹊高等学校文科乙類卒業。昭和13年(1938年)東京帝国大学経済学部卒業、扶桑海上(現三井住友海上)入社。翌年1月、台湾歩兵第2連隊補充隊に入隊。9月、経理部幹部候補生となり東京陸軍経理学校に入学。昭和15年(1940年)9月、同校卒業。のち中国、フィリピン、ジャワ、ポルトガル領チモール島に派遣される。チモール島では、宣撫を名目に現地王族の独立運動に協力した。昭和21年(1946年)帰国。
佐藤 長(さとう ひさし、1913年(大正2年)9月16日 … 佐藤 長(さとう ひさし、1913年(大正2年)9月16日 - 2008年(平成20年)1月6日)は、日本の歴史学者、チベット学者。古代チベット史を研究。京都大学名誉教授。 佐藤の住んでいた、京都市中京区丸太町堺町の築100年(明治42年建造)になる木造二階建ての町屋は、遺言により友人の瀬戸内寂聴に譲渡され、2009年(平成21年)に文化サロン「羅紗庵(らさ・あん)」としてオープン。名称はチベット仏教の聖地「ラサ」に因んで命名された。老朽化が進んでいたため、佐藤の没後2008年(平成20年)11月から3ヶ月かけて修理改修が進められた。佐藤と瀬戸内の親交は1943年(昭和18年)瀬戸内が新婚生活を送っていた北京の集合住宅の上階に留学中の佐藤が下宿して以来。
惣郷 正明(そうごう まさあき、1912年9月16日 - 1… 惣郷 正明(そうごう まさあき、1912年9月16日 - 1993年4月16日)は、日本の英学史・辞書史学者。 広島県出身。九州帝国大学法文学部卒、朝日新聞記者、国立国語研究所国語辞典編纂員、のち朝日新聞社友。
原 百代(はら ももよ、1912年9月16日 - 1991年… 原 百代(はら ももよ、1912年9月16日 - 1991年8月12日、女性)は、日本の作家、翻訳家。 東京生まれ。1934年に津田英学塾(現津田塾大学)卒業。戦前から英文翻訳業を行い占領下では、GHQ機関に勤務、独立後は翻訳家に戻った。 知人から贈られたヘレン・ミアーズ(Helen Mears、1900 - 1989)『Mirror for Americans.JAPAN』を読み感銘を受け著者の承諾を得て、1949年にCIE(民間情報教育局)へ翻訳許可を願い出たが認可されず、講和独立後の1953年に訳書『アメリカの反省』を上梓した(新訳は1995年に、伊藤延司訳『アメリカの鏡・日本』で刊行)。
鳳 誠三郎(ほう せいざぶろう、1912年〈大正元年〉9月1… 鳳 誠三郎(ほう せいざぶろう、1912年〈大正元年〉9月16日 - 2005年〈平成17年〉1月10日)は、日本の工学者。東京大学工学部教授。成蹊大学工学部教授。電気学会第60代会長。専門は電気工学で、放電に関する多岐にわたる研究に携わった。 鳳秀太郎の三男、与謝野晶子の甥。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、工学・技術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:技術と産業)。
小野寺 喜得 (おのでら きとく、1911年 <明治44年>… 小野寺 喜得 (おのでら きとく、1911年 <明治44年> 9月16日 -1993年 <平成5年> 4月4日) は、日本の地方政治家。岩手県一関市長(5期)。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 岩手県西磐井郡真滝村(現・一関市)生まれ。1936年早稲田大学政治経済学部政治学科卒。卒業後は岩手県庁に入り、6年間勤務したのち、一関市役所に移る。1958年教育長、翌1959年助役となり、1963年一関市長に当選する。 市長在職中は国立一関工業高等専門学校や日本電気の誘致、駅前など土地区画整理事業の実施、両磐地区広域市町村圏指定、同地区広域消防組合の発足、市役所の移転、国土庁モデル定住圏策定圏域選定、東工業団地の造成と工場誘致などに参画した。
浦野 匡彦(うらの まさひこ、1910年〈明治43年〉9月1… 浦野 匡彦(うらの まさひこ、1910年〈明治43年〉9月16日 - 1986年〈昭和61年〉12月2日)は、元二松學舍大学理事長・学長、日本遺族会副会長、全国社会福祉協議会評議員・理事。故郷・群馬県では「上毛かるた」の生みの親として知られている。 群馬県吾妻郡長野原町林に、浦野安・倶子の六男として生まれる。浦野家の先祖は、大戸城主・浦野真楽斎の次男・浦野左衛門尉村信であるという。浦野家は代々大乗院住職・王城山(みこしろやま)神社別当を世襲し、その墓所には初代村信の墓という「御塚」(長野原町指定文化財)が所在する。 父・安は地元の小学校校長を務めたのち東京法学院(現・中央大学)を卒業して大蔵省主計局に勤務し、帰郷後は長野原町長などの公職に就任、神職としても群馬県皇典講究所理事、全国神職会群馬県代表などを務めた。
伊藤 祐太郎(いとう ゆうたろう、1910年9月16日 - … 伊藤 祐太郎(いとう ゆうたろう、1910年9月16日 - 1983年2月5日)は、日本の経営者。千代田火災海上保険社長を務めた。東京都出身。 1933年に明治大学法学部政治学科を卒業し、1935年4月に千代田火災海上保険に入社。1960年6月に取締役に就任し、1963年6月に常務、1965年6月に専務、1969年6月に副社長を経て、1977年7月から1980年7月までに社長を務めた。 1980年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1983年2月5日に急性心不全のために死去。72歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山内 広(廣、やまうち ひろし、1907年(明治40年)9月… 山内 広(廣、やまうち ひろし、1907年(明治40年)9月16日 - 1974年(昭和49年)5月21日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。 北海道室蘭郡室蘭町(室蘭区を経て現室蘭市)で生まれる。4歳の時に函館市に転居。1925年(大正14年)北海道庁立函館商業学校(現北海道函館商業高等学校)を卒業。 鉄道省に入省し函館駅貨物掛に就任。大山郁夫の演説に感銘を受け、1929年(昭和4年)濱口内閣の官吏減俸政策への職場の反対運動を主導した。太平洋戦争中に函館駅助役館俊三らと社会主義研究グループを結成し、戦後の労働運動解禁を受けて指導者となる。1946年(昭和21年)函館地方労働組合会議議長に就任。
浜本 正勝(はまもと まさかつ、明治38年(1905年)9月… 浜本 正勝(はまもと まさかつ、明治38年(1905年)9月16日 - 平成8年(1996年)11月)は、日本の陸軍軍人、実業家。ホセ・ラウレルフィリピン大統領特別顧問(閣僚待遇)、東條英機首相秘書官、山下奉文陸軍大将軍属通訳などを歴任。戦後は戦犯となってGHQから追われ、完全に表舞台から姿を消してその生涯を閉じた。 アメリカに最後まで抵抗したとして「ダグラス・マッカーサーが最後までその行方を探した男」といわれる。 北海道余市町にニシン漁を業とする家に生まれる。正勝の名は、日露戦争終戦後に「正義は必ず勝つ」という意味を込めて名付けたという。やがて父親がハワイ沖にまで漁業に出るようになり、同地に移住すると同時に正勝も同行してオアフ島で教育を受ける。
塚本 憲甫(つかもと けんぽ、1904年9月16日 - 19… 塚本 憲甫(つかもと けんぽ、1904年9月16日 - 1974年6月7日)は日本の医学者。専門は放射線医学。国立がんセンター総長を務めた。 東京府で塚本道遠、塚本ハマの三男として生まれる。旧制静岡高校卒業。静岡高校時代以来の親友に長沼弘毅がいる。1927年東京帝国大学医学部に入学。1928年憲甫は年子(旧姓小林)と結婚。1929年10月29日長女ルリ子が生まれる。1931年4月、憲甫、東大臨床医学修了。稲田龍吉の内科医局に在籍した後、癌研究会附属病院の放射線科に入りがんの放射線治療にあたる。戦後茅誠司らの薦めで放射線医学総合研究所の二代目所長となる。1967年、久留勝の引きで国立がんセンター病院長となり、久留の後任として国立がんセンター総長となるが、自身ががんに罹り1974年6月7日総長在職のまま死去。
橋本 二郎(はしもと じろう、1904年(明治37年)9月1… 橋本 二郎(はしもと じろう、1904年(明治37年)9月16日 - 1977年(昭和52年)3月14日)は、昭和期の農業指導者、政治家。衆議院議員、熊本県玉名郡滑石村長、玉名市長、玉名市名誉市民。 熊本県玉名郡滑石村(現玉名市滑石)で、橋本静太の二男として生まれる。1926年(大正15年)早稲田大学専門部政治経済学科を卒業。 1933年(昭和8年)滑石村会議員に選出された。その後、滑石村長、熊本県会議員に在任した。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に熊本県全県区から無所属で出馬して当選し、国民協同党に所属して衆議院議員に1期在任した。この間、協同民主党常任中央委員などを務めた。
石村 英雄(いしむら ひでお、1903年(明治36年)9月1… 石村 英雄(いしむら ひでお、1903年(明治36年)9月16日 - 1963年(昭和38年)4月24日)は、昭和期のジャーナリスト、労働運動家、実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 山口県吉敷郡大歳村出身。1926年(大正15年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。 中外商業新報社に入社し記者として勤務。経済部に所属して、国内外の経済や財政金融の調査研究を行った。記者と並行して労働運動に身を投じ、日本俸給生活者組合評議会執行委員として会社員の生活向上に尽力した。1928年(昭和3年)中外商業新報社を退職、その後もときには触法行為となりながらも労働運動を続けた。山口に帰郷、山口県燃料配給統制組合理事長、山一燃料取締役社長、山口県地方労働委員会委員、中日文化研究所理事などを務めた。
鄭 島栄(チョン・ドヨン、朝鮮語: 정도영/鄭島榮、1901… 鄭 島栄(チョン・ドヨン、朝鮮語: 정도영/鄭島榮、1901年9月16日または1902年 - 1979年8月12日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家、教育者。制憲韓国国会議員。 本貫は迎日鄭氏(朝鮮語版)。初名は鄭寿容、字は華一、号は白坡。仏教徒。 慶尚北道永川郡出身。京城中東中学校を経て大邱啓聖学校中退、京都第一府立中学校卒。三・一運動参加後、新幹会の設立に参加し、永川青年会会長、全国青年総連盟メンバーを経て、日中戦争中に治安維持法違反で投獄されたが、3年間の起訴猶予により釈放された。その後は仏教に入信し、禅房で7年間修行した。光復後は米軍政庁永川郡守顧問、韓国民主党慶北道党常務委員、独促国民会永川郡支部長・中央常務委員・慶北道党部常務委員、国民会支会長を務めた。
島原 帆山(しまばら はんざん、1901年9月16日 - 2… 島原 帆山(しまばら はんざん、1901年9月16日 - 2001年12月18日)は、広島県佐伯郡五日市町(現・広島市佐伯区)出身の都山流尺八演奏家、作曲家。1982年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。広島市名誉市民。本名は島原重蔵。
小笠原 道生(おがさわら みちなり、1899年(明治32年)… 小笠原 道生(おがさわら みちなり、1899年(明治32年)9月16日 - 1955年(昭和30年)11月27日)は、文部官僚。 和歌山県出身。小笠原誉至夫の長男として生まれた。旧制和歌山中学時代には野球部員として第1回および第2回の全国中等学校優勝野球大会に出場している。第四高等学校を経て東京帝国大学医学部に進み、1925年(大正14年)卒業。文部省に入り、体育官兼体育研究所技師、大臣官房体育課長を経て、体育局長となる。体育研究所長となり、戦時中に退官した。 戦後は大映監査役、同取締役、文部省厚生振興会会長、横綱審議委員を務めた。
留岡 清男(とめおか きよお、1898年9月16日 - 19… 留岡 清男(とめおか きよお、1898年9月16日 - 1977年2月3日)は、日本の教育者・教育学者。専攻は価値心理学、教育科学・生活教育論。 東京府北豊島郡巣鴨村(現・豊島区)出身。旧制早稲田中学校を経て1920年6月、第二高等学校卒業。東京帝国大学法学部に入学し、翌年文学部に転部、1923年3月、東京帝国大学文学部心理学科卒業。 1923年4月、東京農業大学予科大学部講師(英語等担当)。1925年3月、東京農業大学予科大学部教授。1926年から法政大学講師、武蔵高等学校講師を兼務。1929年法政大学児童研究所設立に参画。1929年病気に伏した留岡幸助に代わり、教職を辞して北海道遠軽の家庭学校社名渕分校教頭に就き教護事業を継ぐ。
池田 清就(いけだ きよなり、1898年〈明治31年〉9月1… 池田 清就(いけだ きよなり、1898年〈明治31年〉9月16日 - 1966年〈昭和41年〉6月4日)は、因幡若桜藩(鳥取西館新田藩)池田家当主、会社役員。最後の藩主であった池田徳定の子。母は、池田慶徳の養女・池田常子(池田敬三郎の長女)。1910年から1947年まで子爵であった。 池田徳定の三男。1910年(明治43年)に襲爵し、学習院高等科を経て、1923年(大正12年)に京都帝国大学経済学部を卒業する。横浜正金銀行に入る。1946年(昭和21年)に退行する。 1951年(昭和26年)にエース商会監査役となり1952年(昭和27年)に取締役、1960年(昭和35年)に常務となる。 菩提寺は向島の弘福寺で、関東大震災後の区画整理により昭和3年に清就が合葬したという記載がある。
谷 鼎(たに かなえ、1896年〈明治29年〉9月16日 -… 谷 鼎(たに かなえ、1896年〈明治29年〉9月16日 - 1960年〈昭和35年〉7月15日)は、日本の歌人・国文学者。元大東文化大学教授。 父・谷鼎次郎、母・タツの長男として、小田原市にて出生。4歳まで小田原市で過ごし、中郡西秦野村千村(現在秦野市)の実家に戻り、幼少年期を過ごす。実家は大地主であり、鼎次郎は中郡の代議士を務め、白山神社の宮司も引き受けるなど地元の名士でもあった。 中郡西秦野村立尋常高等渋沢小学校に在学中、県下の作文コンクールにて「父母の恩」という題で入選。 少年時代より、文筆に優れ、神奈川師範学校(鎌倉師範)に進学した頃より、作歌を試む。鎌倉師範の同学年に詩人の八木重吉がいる。
円地 与四松(圓地 與四松、えんち よしまつ、1895年9月… 円地 与四松(圓地 與四松、えんち よしまつ、1895年9月16日 - 1972年11月26日)は、日本のジャーナリスト。 小説家・円地文子の夫。 石川県生まれ。1920年東京帝国大学法学部卒業後、東京日日新聞記者となり、ベルリン特派員としてツェッペリン飛行船の報道をして知られた。 1930年に文子(上田萬年の娘)と結婚。1940年東京商工会議所参事。 戦後は衆議院地方行政委員会調査室長、国立国会図書館受入局長、外務省情報部新聞研究室主事、東海大学教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
山崎 巌(やまざき いわお、1894年〈明治27年〉9月16… 山崎 巌(やまざき いわお、1894年〈明治27年〉9月16日 - 1968年〈昭和43年〉6月26日)は、日本の内務官僚、政治家。内務三役(警保局長、警視総監、内務次官)を経て政界入りし、内務大臣、自治大臣兼国家公安委員会委員長を歴任した。正三位。勲一等。農林大臣・逓信大臣の山崎達之輔は実兄。 福岡県大川市に生まれる。福岡県立中学伝習館、第五高等学校を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。 同年、内務省入省。厚生省社会局長、官選静岡県知事、内務省土木局長、警保局長などを経て、1940年(昭和15年)警視総監に就任する。総監時代には企画院事件などを捜査する。東條内閣では内務次官を務める。
久能木 慎治(久能木 愼治、くのき しんじ、1892年〈明治… 久能木 慎治(久能木 愼治、くのき しんじ、1892年〈明治25年〉9月16日 - 没年不明)は、日本の弁護士、弁理士、久能木法律事務所主、会社役員。関東興業監査役。 東京府人・久能木宇兵衛の二男。久能木宇兵衛の弟。鈴木信太郎、團伊能、山田珠樹らと共に構想し、1917年、『攻魂珠』が創刊される。東京高師附属中学、第一高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学仏法科卒業。事務所を設立し、開業する。一般の法律事務に従事する。 趣味は乗馬、釣り。宗教は浄土宗。住所は東京日本橋室町2丁目。
荻原 廣(おぎわら ひろし、1891年9月16日 - 197… 荻原 廣(おぎわら ひろし、1891年9月16日 - 1972年11月25日)は、日本の実業家。 長野県上伊那郡中箕輪村(現箕輪町)に生まれ、高等尋常小学校を卒業後上京し、1909年明治薬学校を卒業、薬剤師の国家試験に合格。 1912年太田胃散本舗に入社し、1915年東西製薬営業部長、1918年星製薬細菌部販売部長、1922年高木商店製薬部東京支店長と職を転じる。関東大震災を機に独立し、1923年東洋新薬社を設立。1928年東京市神田区に水道橋診療所を開設。1931年杏林化学研究所を設立し、1940年杏林製薬として株式会社に改組させ、販売部門を杏林薬品として独立させた。 また、1941年星薬学専門学校の設立に参加し、大学昇格と同時に理事長となった。
真鍋 儀十(眞鍋 儀十、まなべ ぎじゅう、1891年(明治2… 真鍋 儀十(眞鍋 儀十、まなべ ぎじゅう、1891年(明治24年)9月16日 - 1982年(昭和57年)4月29日)は日本の政治家、俳人、文学研究家。松尾芭蕉の研究家として知られ、そのコレクションは江東区芭蕉記念館に寄付された。高浜虚子に師事、「ホトトギス」同人。俳号は蟻十。 長崎県壱岐郡箱崎村(現壱岐市芦辺町)生まれ。長崎師範学校(現・長崎大学教育学部)を卒業後明治大学法学部に入学し、雄弁部に所属する。在学中から普選運動にかかわり、1920年(大正9年)1月18日の学生普選促進大会(日比谷公園)で検挙された。 明大中退後憲政会に入党。六十数回の拘禁を受けながら1930年(昭和5年)旧東京4区から立憲民政党公認で第17回衆議院議員総選挙に立候補し初当選、戦前は通算5回の当選を果たす。
功刀 亀内(くぬぎ きない、1889年(明治22年)9月16… 功刀 亀内(くぬぎ きない、1889年(明治22年)9月16日 - 1957年(昭和32年)12月30日)は、山梨県出身の実業家、郷土史料蒐集家、研究家。蒐集した山梨県に関する郷土資料群は「甲州文庫」と命名されている。 山梨県中巨摩郡豊村(現在の南アルプス市上今井)出身。生家は蚕糸業者で父は六蔵、亀内は三男。豊村高等小学校卒業後、家業を手伝う。 1919年(大正8年)1月には結婚し、甲府市穴切町に転居する。戦後に行われた対談の証言に拠れば、30歳頃には当時の最先端の流行であったオートバイを愛好し、本業の蚕糸業に活用し、趣味のツーリングを行ったという。「甲州文庫」の史料の一つである「山梨県下写真貼込帳」には、1916年(大正5年)の長野県諏訪(諏訪市)へのツーリングの写真が残され、群衆の中に亀内も写っているとされる。
本郷 かまと(ほんごう かまと、1887年9月16日?(また… 本郷 かまと(ほんごう かまと、1887年9月16日?(または1888年-1893年頃4月8日の可能性あり) - 2003年10月31日)は、かつて世界最高齢の人物としてギネス世界記録に認定されていた鹿児島県徳之島在住の日本人女性。戸籍上は1887年9月16日生まれで死去時には116歳であったが、年齢に異論が唱えられ2012年に世界記録の認定を取り消された。通称「かまとバア」。 鹿児島県大島郡徳之島面縄方(現在の伊仙町、徳之島の南部)出身。戸籍上は9月16日生まれだが、ひ孫によると実際の誕生日は4月8日であるという。1908年(明治41年)、本郷福佑と結婚。7児の母となる。その後曾孫、さらには玄孫(やしゃご)にも恵まれた。
豊田 実(とよだ みのる、1885年9月16日 - 1972… 豊田 実(とよだ みのる、1885年9月16日 - 1972年11月22日)は、英語学者、英文学者。
竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、1884年〈明治17年〉9月1… 竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、1884年〈明治17年〉9月16日 - 1934年〈昭和9年〉9月1日)は、日本の画家・詩人。本名は竹久 茂次郎(たけひさ もじろう)。 数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれた。大正ロマンを代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、中でも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けの一人ともいえる。
野間 左衛(のま さえ、1883年(明治16年)9月16日 … 野間 左衛(のま さえ、1883年(明治16年)9月16日 - 1955年(昭和30年)8月1日)は、講談社第3代社長。旧姓:服部。 1883年(明治16年)9月16日、徳島県に生まれる。徳島師範学校(後の徳島大学)卒業後、地元の徳島県で小学校教員(訓導)となる。1907年(明治40年)、野間清治と結婚して上京。 1909年(明治42年)4月に長男・恒を出産する。同年11月、大日本雄弁会(現・講談社)の創立にあたり、夫の清治を助け「創業の母」と呼ばれた。 1910年(明治43年)11月に次男・康清を出産するが、翌1911年(明治44年)に亡くしている。 1938年(昭和13年)2月、恒は町尻量基の長女・登喜子と結婚するが、同年10月16日に清治が、11月7日に恒が急逝したため、講談社第3代社長に就任する。
中村 謙作(なかむら けんさく、1882年(明治15年)9月… 中村 謙作(なかむら けんさく、1882年(明治15年)9月16日 - 1966年(昭和41年)8月31日)は、日本の政治家。愛知県西尾市長(1期)、西尾町長(3期)などを歴任した。 1901年(明治34年)3月、愛知県第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。 1920年(大正9年)、西尾町会議員に就任。1924年(大正13年)から1939年(昭和14年)まで西尾町長を務めた。町長時代には愛知県立西尾中学校(現・愛知県立西尾高等学校)の誘致を行っている。 1954年(昭和29年)7月5日、初代西尾市長の千葉蝶二が任期中に死去。これに伴って同年8月28日に行われた市長選挙に立候補し、無投票により初当選した。
今岡 信一良(いまおか しんいちろう、1881年(明治14年… 今岡 信一良(いまおか しんいちろう、1881年(明治14年)9月16日 - 1988年(昭和63年)4月11日)は、日本の教育者、宗教家、翻訳家。正則学院名誉理事、日本自由宗教連盟、東京帰一教会各会長、神学博士。 その他、兵庫基督教会牧師・日本大学講師・新目黒計器会長などを歴任した。
米窪 満亮(よねくぼ みつすけ、1881年(明治14年)9月… 米窪 満亮(よねくぼ みつすけ、1881年(明治14年)9月16日 - 1951年(昭和26年)1月16日)は、日本の労働運動家、小説家、政治家。日本海員組合副会長を経て、戦後、日本社会党に所属し、片山内閣の国務大臣、初代労働大臣を歴任した。小説家としての筆名は「米窪太刀雄」がある。
岡本 癖三酔(おかもと へきさんすい、明治11年〈1878年… 岡本 癖三酔(おかもと へきさんすい、明治11年〈1878年〉9月16日 - 昭和17年〈1942年〉1月12日)は、戦前日本の俳人、画家。有季自由律を代表する俳人で、俳画の先覚者としても非常に評価が高い。本名は簾太郎、別号に笛声、碧山水など。 父親は小田原藩士の岡本貞烋で、家庭は厳格を極めた。父の赴任先である群馬県高崎で生まれる。出生地は高崎とも前橋とも。幼稚舎から慶應義塾普通部に進み、慶應義塾大学を卒業。日本画を川端玉章に師事。 芸術としての俳句は正岡子規・河東碧梧桐に至って完成されたとの観点から、慶大在学中から正岡子規に師事。俳句、俳文、連句を学び、日本派、秋声会系の俳人として出発し、26歳の若さで第一期黄金時代の『ホトトギス』、『時事新報』の俳句選者を務め、松根東洋城、高浜虚子らと共に「俳諧散心(「日盛会」とも称した)」を唱える。
八杉 貞利(やすぎ さだとし、1876年9月16日 - 19… 八杉 貞利(やすぎ さだとし、1876年9月16日 - 1966年2月26日)は、日本のロシア語学者。 1876年、東京府で生まれた。1888年8月、高等師範学校附属小学校高等科(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1894年に高等師範学校尋常中学科(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業し、第一高等学校を経て、東京帝国大学言語学科に進学、卒業した。卒業後はロシアに留学し、比較言語学、スラブ比較文法を学んだ。 帰国後の1903年に東京外国語学校教授となり、母校である東京帝国大学、早稲田大学でも講師を務めた。言語学の研究者として研究を進めると同時に、米川正夫、中村白葉、昇曙夢、木村彰一などのロシア文学者を育成した。
大島 慶治郎(おおしま けいじろう、1871年9月16日 -… 大島 慶治郎(おおしま けいじろう、1871年9月16日 - 1935年5月12日)は、大正から昭和時代前期にかけて活動した日本の実業家、新聞経営者。愛知県東春日井郡小幡村(現在の名古屋市守山区)出身。名前の表記を「慶次郎」とする資料も見られる。 明治4年8月2日(西暦1871年9月16日)、新愛知新聞社を創業した大島宇吉の長男として出生。宇吉は小幡大島本家10代・大島宇右衛門の三男として出生したのち東大島家を分家した大島為三郎の養子となっていたが、慶治郎は宇吉の次兄で伯父に当たる12代・大島竹三郎の養子として小幡大島本家を継ぎ第13代当主となった。 愛知県立第一中学校を卒業したのち日露戦争当時は小幡村の村長を務め、村政への功により勲七等青色桐葉章を受章している。
前田 金四郎(まえだ きんしろう、1871年〈明治4年〉9月… 前田 金四郎(まえだ きんしろう、1871年〈明治4年〉9月16日 - 1962年〈昭和37年〉2月15日)は北海道十勝地方の富農。本別村会議員などを務め本別町の開拓功労者に認定されている。 1871年(明治4年)9月16日、岡山県真島郡新庄村(現在の真庭郡新庄村)に生まれる。1898年(明治31年)に故郷を離れ、池田町青山に移住する。翌1899年(明治32年)本別町美里別に入植。青山トメと結婚する。 1915年(大正4年)から1937年(昭和12年)の間、6期18年にわたって本別村会議員を務めたほか、農会総代人、評議員、副会長を歴任、1935年(昭和10年)には本別農会長となった。また本別町立本町中学校(現在の北海道本別高等学校)の敷地の提供、設立資金の寄付なども行った。
日下部 三九郎(くさかべ さんくろう、1870年9月16日(… 日下部 三九郎(くさかべ さんくろう、1870年9月16日(明治3年8月21日) - ?)は、日本の外交官。東京府平民。 旧暦明治3年8月21日(1870年9月16日)、伊勢国桑名(現:三重県桑名市)生まれ。共立学校(現:開成中学校・高等学校)、第一高等中学校を経て、1894年6月に帝国大学法科大学卒業。 1894年9月に外交官補となった後、領事官補、在スウェーデン・ノルウェー臨時代理公使、在イタリア臨時代理公使などを経て、1906年1月より公使館一等書記官・大使館一等書記官、1908年1月より関東都督府外事総長を務めた後、1909年2月に休職となる。1915年から1918年時点では福岡県にあった堀鉱業の監査役・取締役を務めていた。
杉坂 実(すぎさか みのる、慶応4年8月1日(1868年9月… 杉坂 実(すぎさか みのる、慶応4年8月1日(1868年9月16日) - 没年不詳)は、日本の裁判官。 伊勢国飯高郡粥見村(現在の三重県松阪市)出身。1891年(明治24年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。1893年(明治26年)、判事検事登用試験に合格し、司法官試補となる。高知区裁判所検事、大阪区裁判所判事、大阪控訴院判事、京都地方裁判所判事、大阪地方裁判所部長、宮城控訴院検事、岐阜地方裁判所検事正、富山地方裁判所所長、前橋地方裁判所所長、新潟地方裁判所所長を歴任した。 その後、台湾総督府法院に転じ、高等法院長を務めた。
名村 忠治(なむら ちゅうじ、1865年9月16日(慶應元年… 名村 忠治(なむら ちゅうじ、1865年9月16日(慶應元年7月27日)- 1923年(大正12年)9月11日)は、明治から大正期の、農業指導者、地主、政治家。衆議院議員、福井県坂井郡三国町長。旧姓・藤田。 越前国今立郡横越村(福井県今立郡新横江村横越、鯖江町を経て現鯖江市横越町)で、藤田惣左衛門の六男として生れる。1881年(明治14年)2月、坂井郡坂井港松ケ下町(三国町を経て現坂井市)の名村ゆうの養子となる。普通学、漢学を修めた。1891年(明治24年)6月に家督を相続した。 1888年(明治21年)荒地を開墾して桑園とし私立接木伝習所を設置。三国輸出米商組合長、坂井郡農会副会長、福井県農工銀行監査役、福井県実業会員などを務めた。
高川 定次郎(たかがわ ていじろう、1856年9月16日(安… 高川 定次郎(たかがわ ていじろう、1856年9月16日(安政3年8月18日)- 1921年(大正10年)11月25日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県会議長、兵庫県赤穂郡坂越村長。 播磨国赤穂郡坂越村(兵庫県赤穂郡坂越村、坂越町を経て現赤穂市坂越)で、油製造業、廻船業、塩業・高川定十郎の息子として生まれた。室井源仙に師事し、漢学、習字、算数を修めた。その後、赤穂郡北野中村の鍋島智成から漢籍を学んだ。 1877年(明治10年)坂越村小学校教員となり数年間在任。1883年(明治16年)3月、赤穂郡全町村連合会議員に就任。1885年(明治18年)12月、兵庫県会議員に選出され、同常置委員、同副議長、同議長も務めた。
三須 宗太郎(みす そうたろう、1855年9月16日〈安政2… 三須 宗太郎(みす そうたろう、1855年9月16日〈安政2年8月6日〉- 1921年〈大正10年〉12月24日)は、明治時代の海軍軍人。官位は海軍大将・正三位勲一等功二級男爵。近江国(現:滋賀県)出身。 彦根藩士三須熊次郎の長男として生まれた。藩主井伊直弼がペリー来航に際して江戸湾防衛を担当した際、死を覚悟して事前に「宗観院柳暁覚翁居士」の戒名を手に入れて赴任したことにちなみ、熊次郎は藩主の戒名から最初の一字を頂き、長男を宗太郎と命名した。三須本人も開国に殉じた藩主を尊敬し、元服しても名を改めようとしなかった。 明治4年(1872年)8月、海軍兵学寮に入った。カリキュラムを修了するまでの7年間、兵学寮に留まったが、生徒の多くが薩摩藩や佐賀藩の出身者で、彦根出身の三須には居心地のよい場所ではなかったらしい。
佐藤 與三(さとう よぞう、天保14年8月23日〈1843年… 佐藤 與三(さとう よぞう、天保14年8月23日〈1843年9月16日〉 - 没年不詳)は、明治期の商工官僚。官選群馬県知事。 長門国阿武郡萩平安湖町(現萩市)に生まれる。 明治5年(1872年)工部省五等出仕に任官。さらに鉄道助・燈台権守を務めた。1873年、燈台頭に昇進。以後、工部大書記官として、鉱山権頭、鉱山局長、内国勧業博覧会審査部長、工作局長、総務局鉱山課長、品川硝子製造所長、参事院員外議官補などを歴任。 1884年7月30日、群馬県令に就任。1886年7月19日、地方官官制改正に伴い同県知事となる。明治21年(1888年)6月限りで廃止とされた公娼について、同年5月に廃娼延期令を発布し、世論の反発を受けて廃止の期限を限るなどの妥協を行うが、県会から辞職を迫られ議会解散を行う。
海部 ハナ(かいふ ハナ、1831年9月16日(天保2年8月… 海部 ハナ(かいふ ハナ、1831年9月16日(天保2年8月11日) - 1919年(大正8年)6月30日)は、日本の染織家。阿波しじら織の創始者。 阿波国那賀郡平易村(現徳島県阿南市横見町)出身。幼い頃から機織りを得意とし、25歳のときに名東郡安宅村(徳島市安宅)の差し物大工・海部勝蔵に嫁いだ。嫁いでからも農業の傍ら内職として機織りをして家計を助けていた。その後、1866年(慶応2年)に阿波しじら織を創案し、各地で開かれる供進会、博覧会などに出品し、数多くの表彰を受けた。 しじら織は安部重兵衛らの宣伝と販売により有力な地場産業に発展した。また徳島市眉山町大滝山(眉山)には阿波しじら創製紀功碑が建てられている。
矢嶋 マキ(やじま マキ、9月16日 - ) は日本のピアニ… 矢嶋 マキ(やじま マキ、9月16日 - ) は日本のピアニスト、キーボーディスト、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー。東京都出身。夫はギタリストの矢島賢、次女はアートディレクターの矢島沙夜子。Whisper Notes Music代表。 2才の頃より音に対する恐怖症を克服するため、ピアノの前に座り弾き始める。東洋英和女学院幼稚園から小中高等部へと進学し、その間父親の転勤で台湾にて5〜8歳まで過ごす。この頃台北の著名な演奏家に師事すると、ピアノの才能を認められる。 中学・高校時代は学園祭のためのバンドを結成し、バート・バカラックの曲やボサノヴァなどをレパートリーとすると、クラシック以外の音楽を演奏する事に強く惹かれるようになる。