今井 正雄(いまい まさお、1914年12月17日 - 没年… 今井 正雄(いまい まさお、1914年12月17日 - 没年不明)は、日本の経営者。明電舎社長、会長を務めた。京都府出身。 1939年に東京帝国大学経済学科を卒業し、同年に住友電気工業に入社。1962年11月に東海ゴム工業常務、1964年11月に同社専務、1965年5月に明電舎常務、1967年11月に住友電気工業取締役、1968年5月に同社常務、1972年11月に明電舎専務を経て、1974年11月には明電舎副社長に就任し、1977年6月には社長に昇格。1984年6月には会長に就任し、1991年6月から相談役を務めた。 1982年4月に藍綬褒章を受章し、1987年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
桜井 正寅(さくらい まさとら、1914年12月17日 - … 桜井 正寅(さくらい まさとら、1914年12月17日 - 1969年2月28日)は、日本のドイツ文学者。東京教育大学教授。 静岡県出身。旧制静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部独文科卒業。東京教育大学助教授、教授。学生による筑波移転反対闘争の際、機動隊導入の日の深夜に帰宅後、心筋梗塞の発作で急死した。
浜口 玄吉(はまぐち げんきち、1914年〈大正3年〉12月… 浜口 玄吉(はまぐち げんきち、1914年〈大正3年〉12月17日 - 2001年〈平成13年〉8月24日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。第15代舞鶴地方総監。海機45期。最終階級は海軍少佐、海将。 1914年(大正3年)12月17日、浜口徳兵衛・くにの長男として和歌山県新宮市で誕生。浜口家は代々三重県二木島町で廻船問屋を営んでいたが、海事代理士となった父・徳兵衛の代に勝浦港へ移住。浜口は中学卒業まで本籍地である和歌山県東牟婁郡那智勝浦町で過ごした。 1932年(昭和7年)、新宮中学を卒業し海軍兵学校を受験するも失敗。 叔母・美代子が熊野速玉大社宮司・上野殖に嫁いでいたことから、浪人中に新宮市の神倉神社(熊野三山の元宮)の社務所に間借りする。
土居 寛之(どい ひろゆき、1913年12月17日 - 19… 土居 寛之(どい ひろゆき、1913年12月17日 - 1990年8月6日)は、日本のフランス文学者。 大分県杵築出身、東京生まれ。1939年東京帝国大学仏文科卒。1944年外務省嘱託、1950年埼玉大学助教授、1963年東京大学教養学部教授、1967年東洋大学教授、1970年福岡大学教授、1985年退任。 サント=ブーヴ、アミエルなどを研究し、東大仏文科で立花隆にアミエルを教え、立花が「四十近くまで童貞なんてことがあるもんでしょうか」と問うと、「そりゃ、ありますよ」と答えたという。 父は杵築町長を務めた土居寛申(どい ひろみ、1882 - 1965)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
花布 辰男(はなぶ たつお、1912年12月17日 - 没年… 花布 辰男(はなぶ たつお、1912年12月17日 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名同じ。花布 辰夫と表記に揺れがある。大映の名脇役の一人である。 1912年(大正元年)12月17日、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)に生まれる。1930年(昭和5年)、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)卒業と共に日本映画俳優学校の1期生として入校し、1934年(昭和9年)に卒業する。同期に織田政雄がいた。 1937年(昭和12年)、新興キネマ大泉撮影所に入社し、同年に公開された青山三郎監督映画『煙る故郷』で映画デビュー。以後、脇役として多数の作品に出演した。1942年(昭和17年)、大映に統合された後は東京撮影所に所属し、1971年(昭和46年)に倒産するまで脇役として長く活躍した。
大井 正(おおい ただし、1912年12月17日 - 199… 大井 正(おおい ただし、1912年12月17日 - 1991年1月27日)は、日本の哲学者。明治大学名誉教授。 山形県出身。1938年東京帝国大学文学部哲学科卒。1970年「唯物史観の形成過程」で明治大学経済学博士。満鉄調査局員、高崎市立短期大学教授、明治大学政経学部助教授、教授を務め、1984年定年、名誉教授となる。
成瀬 幡治(なるせ ばんじ、1910年12月17日 - 19… 成瀬 幡治(なるせ ばんじ、1910年12月17日 - 1992年12月3日)は、日本の政治家、労働運動家。参議院議員(4期、日本社会党)。 愛知県西加茂郡小原村(現豊田市)に生まれる。本城小学校(現豊田市立本城小学校)卒業。1931年(昭和6年)、愛知第一師範学校専攻科卒業。教員となり、終戦後、愛知県教員組合の初代委員長に就任し、組合運動に参加。学校生活協同組合理事長なども務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に愛知県選挙区から日本社会党公認で立候補し、地方区としては全国最多得票数で初当選を果たした。1962年(昭和37年)に3選。 1966年(昭和41年)、翌年2月執行の愛知県知事選挙の候補者に社会党は成瀬を擁立。
大石 良世(おおいし よしつぐ、1909年 <明治42年> … 大石 良世(おおいし よしつぐ、1909年 <明治42年> 12月17日 - 1976年 <昭和51年> 2月2日)は、日本の経営者。日産火災海上保険社長を務めた。 島根県松江市出身。1932年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に日産火災海上保険に入社。 1953年に取締役に就任し、1956年に常務、1960年6月に専務を経て、1963年11月に副社長に就任し、1966年6月には社長に就任。1974年3月には会長に就任。 1972年9月に藍綬褒章を受章。 1976年2月2日、胃癌のために死去。66歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
夏目 伸六(なつめ しんろく、1908年(明治41年)12月… 夏目 伸六(なつめ しんろく、1908年(明治41年)12月17日 - 1975年(昭和50年)2月11日)は、日本の随筆家。 夏目漱石と夏目鏡子の二男として東京市牛込区(現在の東京都新宿区)早稲田南町に生まれる。伸六の上に姉4名と兄がいた。漱石は、名前を「申年に生まれた6番目の子ども」ということで「申六」とする予定だったが、「先生、いくらなんでも人間の子供ですから、ニンベンをつけて『伸』にしましょう」と漱石の弟子である小宮豊隆から言われ、「伸六」となった。 父の死去時には数えで9歳(小学校2年生)であった。暁星小学校および同中学校を経て慶應義塾大学文学部予科に進み、その後、日本フィルハーモニー交響楽団からチェリストとして声がかかり、同独文科を中退した。
山室 耕(やまむろ こう、1907年12月17日 - 没年不… 山室 耕(やまむろ こう、1907年12月17日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は西森 高茂(にしもり たかしげ)。旧芸名は村上 英二(むらかみ えいじ)、光 一(ひかり はじめ)。 1907年(明治40年)12月17日、高知県高知市に生まれる。高知城東商業学校(現在の高知中学校・高等学校)を卒業。 1927年(昭和2年)、村上英二という芸名で日活大将軍撮影所(後に日活京都撮影所・日活太秦撮影所)に入社。一時期、本名の西森高茂名義で活動した時期もある。1933年(昭和8年)には日活多摩川撮影所現代劇に移籍。後に芸名も光一と改名して、1936年(昭和11年)公開の内田吐夢監督映画『人生劇場 青春篇』などに出演。
湯浅 佑一(ゆあさ ゆういち、1906年12月17日 - 1… 湯浅 佑一(ゆあさ ゆういち、1906年12月17日 - 1994年4月17日)は、日本の実業家。ユアサコーポレーション、ユアサ商事社長、会長を務めた。京都府出身。 1930年に京都帝国大学法学部を中退し、父親が経営する金物問屋湯浅七左衛門商店に入社した。取締役、専務を経て、1945年から社長に就任し、1983年から会長に就任した。 関西経済同友会初代代表幹事、関西経済連合会副会長、関西経営者協会会長、湯川記念財団理事長などを歴任し、関西財界の重鎮として活躍した。また、1975年から日本高校野球連盟最高顧問も務めた。 1964年に紺綬褒章を受章し、1973年に藍綬褒章を受章し、1978年に勲二等瑞宝章を受章し、1987年に第3回ヒューマン大賞を受賞し、1989年に京都府スポーツ賞特別栄誉賞を受賞した。
小泉 清明(こいずみ きよあき、1904年12月17日 - … 小泉 清明(こいずみ きよあき、1904年12月17日 - 1977年10月26日)は、日本の生物学者。理学博士(1935年)。信州大学教授などを歴任。 長野県上田市生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1928年京都帝国大学農学部農林生物学科卒業。翌年、母校講師。理学博士(1935年)。 1930年台北帝国大学助教授、1944年熱帯医学研究所所長、1949年岐阜師範学校(学制改革により岐阜大学教育学部)教授、1958年信州大学教授、1960年同繊維学部長などを歴任し、1969年定年退官。 日本生態学会環境問題専門委員会委員長、長野県水質審議会委員、日本学術会議自然保護研究連絡委員会委員なども務める。
高野 信(たかの まこと、1903年(明治36年)12月17… 高野 信(たかの まこと、1903年(明治36年)12月17日 - 1982年(昭和57年)1月9日)は、日本のジャーナリスト、実業家。九州朝日放送(KBC)、日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)社長を務めた。 福島県いわき市出身。1929年(昭和4年)東京帝国大学を卒業後、朝日新聞社に入社する。 東京本社編集局長、西部本社代表、国策パルプ代表などを歴任し、1967年1月から1973年5月までに九州朝日放送社長を務め、1973年5月から1974年11月までに同社会長を務めた。 1974年(昭和49年)11月、NET社長に転じ、同じ朝日出身の副社長、中川英造と相談し三浦甲子二を編成、制作担当役員に抜擢した。
長田 恒雄(おさだ つねお、1902年(明治35年)12月1… 長田 恒雄(おさだ つねお、1902年(明治35年)12月17日 - 1977年(昭和52年)3月30日)は、日本の詩人、作詞家。9歳で得度したが、詩人として仏教と向き合う道を選び多くの仏教詩を遺した。静岡県出身。 1902年(明治35年)、静岡県清水市、真宗大谷派の寺院に生まれる。静岡県立静岡中学校に学ぶ。東洋大学中退。1925年(大正14年)、「詩洋」の同人となる。1926年(大正15年)、三省堂勤務。1929年(昭和4年)、第1詩集「青魚集」を刊行。のちに北園克衛らを知り、モダニズムに近づく。1936年(昭和11年)、雑誌「科学ペン」(三省堂)の編集・発行を担当。戦後「現代詩研究」を創刊、主宰した。
印 泰植(イン・テシク、1902年12月17日 - 1975… 印 泰植(イン・テシク、1902年12月17日 - 1975年5月22日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の官僚、政治家。元財務部長官、第3・4・6代国会議員。本貫は喬桐印氏。 忠清南道唐津出身。京城第一高等普通学校(のちの京畿高等学校)を経て、1927年に山口高等学校文科乙類、1930年に東北帝国大学法文学部法科を卒業。朝鮮総督府の税務管理部門で勤務し、洪川税務署長、清州税務署長、江原道財務部間税課長を歴任。 第二次世界大戦終戦後、第一共和国にて江原道内務局長、財務部司税局長(1949年)、管財庁長(1953年)、財務部長官(1956年〜1957年)を歴任。自由党内では財務通として評価を受けた。
志波 西果(しば せいか、1900年12月17日 - 196… 志波 西果(しば せいか、1900年12月17日 - 1960年代半ば)は、日本の映画監督、脚本家である。本名-頼之(よりゆき)、。 1900年(明治33年)12月17日、佐賀県佐賀市城内町(現在の同市城内)に生まれる。旧制・佐賀県立佐賀中学校(現在の佐賀県立佐賀西高等学校)を卒業後、1922年(大正11年)、東京の国際活映に入社、同社の常設館に勤務する。同年、志波が書いたオリジナルストーリーが同社の巣鴨撮影所で採用され、細山喜代松監督によって映画化され、『雲光の岐に』として同年9月1日に公開された。 1923年(大正12年)5月、22歳のときに、オリジナル脚本『彼の山越えて』がマキノ映画製作所に採用され、衣笠貞之助監督によって映画化され、脚本家としてデビューするとともに、同社の等持院撮影所に助監督として入社する。
駒井 健一郎(こまい けんいちろう、1900年(明治33年)… 駒井 健一郎(こまい けんいちろう、1900年(明治33年)12月17日 - 1986年(昭和61年)10月2日)は、日本の実業家、第三代日立製作所社長・会長。
伊藤 泰吉(いとう たいきち、1899年〈明治32年〉12月… 伊藤 泰吉(いとう たいきち、1899年〈明治32年〉12月17日 - 1965年〈昭和40年〉7月31日)は、日本の政治家、朝鮮総督府官僚。川越市長(6期)。 埼玉県入間郡川越町(現川越市)で生まれる。第一高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。朝鮮総督府に入府し平安南道庁に配属された。 以後、忠清北道学務課長、忠清北道警察部長、慶尚北道警察部長、総督府警務局警務課長、同総督官房人事課長、同司政局勅任事務官などを歴任。その後、1942年10月23日、同府専売局長に就任。1943年12月1日に専売局が廃止され同府事務官に就任。1944年8月17日、同府逓信局長に就任し終戦を迎えた。
伊東 月草(いとう げっそう、1899年(明治32年)12月… 伊東 月草(いとう げっそう、1899年(明治32年)12月17日 - 1946年(昭和21年)12月4日)は、長野県出身の日本の俳人。本名は秀治(ひでじ)。 1899年(明治32年)長野県上伊那郡藤沢村 (現在の伊那市)に生まれる。16歳から俳句を始め、大須賀乙字に師事、乙字の死後は同じ乙字門下の吉田冬葉が立ち上げた「獺祭」に参加、1928年に独立し「草上」を主宰する。 満州事変、日中戦争を機に新体制運動に傾倒、大野林火との戦火想望俳句論争を皮切りに、俳句報国のための団体を結成すべしと全国の主要俳人、結社に「この昭和維新に際会して、新体制に協力しないやうな非国民はあるまい」と檄文を送り、『俳句研究』を中心に論陣を張った。
谷岡 登(たにおか のぼる、1894年12月17日 - 19… 谷岡 登(たにおか のぼる、1894年12月17日 - 1974年11月22日)は、日本の学校経営者。大阪城東大学(現・大阪商業大学)初代学長、学校法人谷岡学園理事長などを務めた。 奈良県磯城郡朝倉村黒崎(現・桜井市黒崎)に、谷岡角松・きんの長男(弟四人、妹二人)として生まれた。谷岡家は、三町歩の田畑と山林を所有する裕福な農家で、父は村の総代を務める地域の有力者であり、製粉所の経営も行う実業家であった。生来の負けず嫌いから小学校では首席だった。それ以外にも生家の隣にある大日寺の住職から論語や四書を習い、少し長じて長谷寺方丈の漢学院で漢学を学んだ。1920年、常岡米蔵の長女・花枝と結婚。妻と兵庫県武庫郡住吉村呉田(現・神戸市東灘区住吉南町)に居を構え、大阪府西成郡役所に勤務。
森山 鋭一(もりやま えいいち、1894年(明治27年)12… 森山 鋭一(もりやま えいいち、1894年(明治27年)12月17日 - 1956年(昭和31年)6月9日)は、大正から昭和前期の法制官僚、政治家、弁護士。貴族院勅選議員、法制局長官。 現在の三重県桑名市で、伊藤伊右衛門の三男として生まれ、森山兵介の養子となる。1914年(大正3年)7月、第八高等学校一部丙を首席で卒業。1919年(大正8年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し、同月、内務省に入り内務属・土木局工営課に配属された。1920年(大正9年)10月、高等試験行政科試験に合格。 その後、兼警察講習所教授、埼玉県視学官、帝都復興院計画局制度課、復興局事務官・長官官房計画課などを歴任。
大野 良蔵(良藏、おおの りょうぞう、1890年(明治23年… 大野 良蔵(良藏、おおの りょうぞう、1890年(明治23年)12月17日 - 1976年(昭和51年)2月18日)は、大正から昭和期の外科医、政治家。貴族院勅選議員、医学博士。 福岡県御笠郡二日市村(筑紫郡二日市町、筑紫野町を経て現筑紫野市)で大野良作の長男として生まれる。1917年(大正6年)九州帝国大学医学部を卒業した。卒業後、同医学部第一内科教室、同外科教室で勤務した。1923年(大正12年)7月24日、九州帝大より医学博士号を授与された。 1924年(大正13)大阪で外科大野病院を開業した。その他、港病院院長、木津川病院院長も務めた。 1946年(昭和21年)6月19日、貴族院勅選議員に任じられ、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
近藤 駿介(こんどう しゅんすけ、1890年(明治23年)1… 近藤 駿介(こんどう しゅんすけ、1890年(明治23年)12月17日 - 1966年(昭和41年)4月30日)は、日本の内務官僚。県知事、南洋庁長官。 長崎県出身。呉服商・近藤九右衛門の五男として生まれる。長崎県立中学猶興館、第五高等学校を経て、1916年5月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1915年10月、文官高等試験に合格した。 1916年5月、内務省に入り警視庁警部として保安部保安課に配属された。以後、総監官房文書課審査係長、保安部保安課長、日本橋堀留警察署長、芝三田警察署長、深川西平野警察署長などを歴任。 1921年7月、高知県内務部商工水産課長に就任。以後、同県教育課長、東京府内務部学務兵事課長、同府視学官、同学務部長、山口県書記官・警察部長、警視庁書記官・衛生部長、同保安部長、青森県書記官・内務部長、京都府書記官・内務部長などを歴任。
大澤 雅休(おおさわ がきゅう、1890年〈明治23年〉12… 大澤 雅休(おおさわ がきゅう、1890年〈明治23年〉12月17日 - 1953年〈昭和28年〉9月12日)は、昭和時代の日本の書家・歌人。平原社主宰。日本の書道界における前衛派の先駆けである。本名・雅休(まさやす)。 群馬県群馬郡大類村(現・高崎市柴崎町)の農家の長男として生まれる。高陽義塾を経て高山社に学ぶ。 1908年(明治41年)群馬郡金島村金島小学校代用教員となり、翌1909年同郡倉賀野町へ転勤。1911年高崎歩兵第15連隊に入営、除隊後大類小学校に勤務。村上鬼城や村上成之(蛃魚)に俳句の指導を受ける。 1916年(大正5年)栃木県那須開墾地に入植。このころ『ホトトギス』に小説や俳句を発表、また『アララギ』会員となり島木赤彦の指導を受ける。
伊藤 幸太郎(いとう こうたろう、1889年(明治22年)1… 伊藤 幸太郎(いとう こうたろう、1889年(明治22年)12月17日 - 1966年(昭和41年)9月9日)は日本の政治家。衆議院議員(1期)、三重県長島村長、長島町長。桑名市名誉市民。三重県桑名郡長島村(現・桑名市)出身。
竹内 京治(たけうち きょうじ、1887年(明治20年)12… 竹内 京治(たけうち きょうじ、1887年(明治20年)12月17日 - 1966年(昭和41年)12月11日)は、日本の政治家、新聞記者。第10-12代岡崎市長(3期)、愛知県会議員(1期)、岡崎市会議員(2期)、東海市長会長、愛知県市長会長などを歴任した。 愛知県宝飯郡赤根村(現・豊川市御津町赤根)生まれ。トヨタ自動車工業会長を務めた花井正八は甥。幼少時代を男川村大字大平(現・岡崎市大平町)の薮田家で過ごした。1905年(明治38年)3月、東京中学校(現・東京高等学校)卒業。一年志願兵として騎兵第25連隊に入隊。除隊後、日刊新聞『岡崎朝報』初代社長の竹内竹五郎の娘と結婚、それとともに竹内家の養子となる。
佐藤 重遠(さとう じゅうえん、1887年12月17日 - … 佐藤 重遠(さとう じゅうえん、1887年12月17日 - 1964年1月5日)は、日本の政治家、教育者、事業家。衆議院議員(4期)。研心学園(現・目白研心中学校・高等学校)設立。政治家として、また教育者として近代日本における私学教育の振興に大きく寄与。 父・米四郎、母・カクの長男として宮崎県東臼杵郡南方村(現・延岡市中三輪町)で生まれ、傳次郎と名付けられる。父は渡し守を生業としており、赤貧の中で苦学をして延岡中学校から一高、東京帝大と進学した。1910年に家督を相続し、重遠と改名。妻は内務大臣などを歴任した床次竹二郎の二女・フユ。
室積 徂春(むろづみ そしゅん、1886年(明治19年)12… 室積 徂春(むろづみ そしゅん、1886年(明治19年)12月17日 - 1956年(昭和31年)12月4日)は、滋賀県出身の日本の俳人。別号に碌々子、平明居主人、碌二道人など。旧姓は増永、本名は尚(たかし)。 1886年(明治19年)滋賀県大津市に生まれる。13歳から俳句を始め、正岡子規に入門、岡野知十にも学ぶ。早稲田大学に進むも、突如役者になると言い出し中退。新派の喜多村緑郎の一座に大木緑二という芸名で加わるが、しばらくして退団。役者業の断念を決めた巡業先の愛媛県宇和島市にそのまま住み、1913年、南予時事新聞(現在の愛媛新聞)に入社。また翌年には婿入りし室積姓となった。子規亡き後は高浜虚子門下としてホトトギスに拠り、虚子の『進むべき俳句の道』にて賞賛されホトトギス派の有力俳人となる。
星島 義兵衛(ほしじま ぎへえ、1885年(明治18年)12… 星島 義兵衛(ほしじま ぎへえ、1885年(明治18年)12月17日 - 1968年(昭和43年)7月25日)は、日本の実業家。元岡山県農工銀行頭取。岡山商工会議所設立者・初代会頭。 岡山県児島郡藤戸村生まれ。1905年岡山県立岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)卒業。1909年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。1913年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部銀行科卒業。 星島銀行入行後、1925年岡山県農工銀行取締役。1928年岡山県農工銀行頭取。1934年初代岡山ロータリークラブ会長。1936年日本赤十字社評議員。 1943年岡山県商工経済会会頭。1944年日本勧業銀行顧問。1946年岡山商工会議所発起人総代・初代会頭。
有馬 頼寧(ありま よりやす、明治17年(1884年)12月… 有馬 頼寧(ありま よりやす、明治17年(1884年)12月17日 - 昭和32年(1957年)1月9日)は、日本の政治家。農政研究者。農林大臣。日本中央競馬会第2代理事長。プロ野球オーナー。旧筑後国久留米藩主・有馬家の第15代当主。伯爵。
山崎 麓(やまざき ふもと、1883年12月17日 - 19… 山崎 麓(やまざき ふもと、1883年12月17日 - 1943年9月11日)は、日本の国文学者。 神奈川県横浜生まれ。本籍・兵庫県出石郡。第四高等学校卒、1909年東京帝国大学文科大学国文科卒。1910年逓信省機関逓信協会主幹嘱託(-1914年)、英字新聞『ジャパンマガジン』編集嘱託(-1918年)、1916-1919年駿台英和女学校教員嘱託、1919年山口高等学校教授、1922年國學院大學教授。1932年同辞職、死去時には日本文学報国会所属。別名・目黒麦男。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
春名 成章(はるな せいしょう、1883年(明治16年)12… 春名 成章(はるな せいしょう、1883年(明治16年)12月17日 - 1952年(昭和27年)9月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→昭和会)、外務参与官。ジャーナリスト。 静岡県富士郡今泉村(現在の富士市)出身。鳥取県立鳥取第一中学校を経て、1906年(明治39年)に早稲田大学政治経済学科を卒業した。『時事新報』『東京朝日新聞』『東京日日新聞』の各社で記者を務めた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回、第20回でも再選を果たした。犬養内閣では床次竹二郎鉄道大臣の秘書官を務め、岡田内閣で床次が逓信大臣に就任すると再度秘書官を務めた。1935年(昭和10年)には昭和会の結党に参加。
河合 裸石(かわい らせき、1883年〈明治16年〉12月1… 河合 裸石(かわい らせき、1883年〈明治16年〉12月17日 - 1941年〈昭和16年〉3月6日)は日本の新聞記者。文筆力のみならず企画力にも優れ、趣味のスキーの振興に力を尽くした。 1883年(明治16年)12月17日、新潟県三島郡寺泊町にて、河合勝十郎の4男として生まれる。兄3人、姉3人に次ぐ第7子だったので、本名は七郎とつけられた。生まれつき体が弱い子だったため、母親は村はずれにある「裸石地蔵」に通って願掛けし、その加護で丈夫に育つことができたと七郎に聞かせた。 七郎が3歳のとき、経済的に困窮した河合家は、呉服商を開いていた親戚筋を頼って、北海道の岩見沢に移住した。やがて長兄の俊太郎が小樽で味噌や醤油の問屋を手掛けて成功したため、七郎は兄に引き取られて、少年時代を小樽で過ごすことになった。
高石 弁治(高石 辨治、たかいし べんじ、1882年〈明治1… 高石 弁治(高石 辨治、たかいし べんじ、1882年〈明治15年〉12月17日 - 1940年〈昭和15年〉3月8日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者・実業家である。愛知県岡崎市の電力会社岡崎電灯に技師として入社し、技師長・常務取締役と昇進、後身の中部電力(岡崎)では副社長を経て社長まで昇った。愛媛県出身。 高石弁治は1882年(明治15年)12月17日、愛媛県宇摩郡寒川村(現・四国中央市)に高石佐吉の長男として生まれた。愛媛県立西条中学校を経て京都の第三高等学校へ進み、1906年(明治36年)7月第二部工科を卒業。次いで1909年(明治42年)7月京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業した。
田邊 宗英(たなべ むねひで、1881年12月17日 - 1… 田邊 宗英(たなべ むねひで、1881年12月17日 - 1957年3月18日)は、日本の実業家。帝拳プロモーション会長、株式会社後楽園スタヂアム(現・東京ドーム)第4代社長、日本ボクシングコミッション(JBC)初代コミッショナー。株式会社よみうりランド初代社長。新東宝社長、日本テレビ放送網会長を歴任した人物である。 田邊 宗英(旧名:五四三)の兄の田邊七六とその息子田邊圀男は衆議院議員、第一勧業銀行理事の田邊加多丸は弟、阪急東宝グループの創業者小林一三は異母兄、後に後楽園スタヂアム社長を務めた東京弁護士会真鍋八千代は義従弟である。息子の田邊英蔵は後楽園スタヂアム副社長、熱海後楽園社長、文教大学国際学部教授を務めた。
藤原 喜一(ふじわら きいち、1880年〈明治13年〉12月… 藤原 喜一(ふじわら きいち、1880年〈明治13年〉12月17日 - 1990年〈平成2年〉3月6日)は、編集者、東洋美術史・中国書道史研究者。号は楚水(そすい)。書や漢詩に関する著書多数。男性長寿日本一だった(109歳)。 大分県西国東郡呉崎村(現:豊後高田市)生まれ。呉崎小学校教師を経て、1901年、関西法律学校を卒業後、明治法律学校で法律・経済学を学び、1904年、実業之日本社に入社。編集長、理事を務める。1928年、退社後は三省堂出版部顧問に。 戦後は東洋美術史、中国書道史の著述をする傍ら、駒澤大学、東京学芸大学、横浜国立大学で東洋美術史、中国書道史を講義。1961年、論文『中国書道史』で博士号(文学、駒澤大学)を取得。
天岡 直嘉(あまおか なおよし、1880年〈明治13年〉12… 天岡 直嘉(あまおか なおよし、1880年〈明治13年〉12月17日 - 1957年〈昭和32年〉1月8日)は、明治・大正・昭和初期の内務・逓信官僚。売勲事件で知られる。 内閣総理大臣桂太郎の娘・輝子の夫。逓信省為替貯金局長、逓信省貯金局長、賞勲局総裁を歴任。位階勲等は従三位勲二等、後に失位・褫奪。岐阜県出身。 岐阜県安八郡大垣町(現大垣市)で、旧大垣藩士・天岡通剣の長男として生まれた。1906年東京帝国大学法科大学卒業、内務省入省。 1907年、内閣書記官。1912年、内閣会計課長。1917年に逓信省に移って逓信省為替貯金局長となり、1920年に貯金局が分離すると逓信省貯金局初代局長になった。
倉元 要一(くらもと よういち、1879年(明治12年)12… 倉元 要一(くらもと よういち、1879年(明治12年)12月17日 - 1942年(昭和17年)11月12日)は、日本の政治家、立憲政友会所属の衆議院議員。 福岡県宗像郡上西郷村(現・福津市)出身。明治大学法科専門部卒業。大阪府属、滋賀県警部、鳥取県警部、福井県今立郡長、坂井郡長、福井県理事官、静岡県浜名郡長、静岡県理事官・産業課長を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、6回の当選を重ねた。その間、浜松市会議員を兼ね、文部大臣秘書官を務め、平沼内閣では司法政務次官に就任した。 1939年(昭和14年)の政友会分裂に際しては中島知久平総裁が率いる政友会革新同盟に所属し、政党解消後は翼賛議員同盟に加わらず興亜議員同盟に所属。
庄司 良朗(しょうじ よしろう、1879年(明治12年)12… 庄司 良朗(しょうじ よしろう、1879年(明治12年)12月17日 - 1931年(昭和6年)6月22日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。実業家。 静岡県駿東郡原町(現在の沼津市)出身。静岡中学校を経て、1901年(明治34年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)行政科を卒業した。1903年(明治36年)、沼津商業学校教諭となるが、翌年に起こった日露戦争に陸軍近衛歩兵少尉として出征し、中尉に昇進した。その後、1908年(明治41年)に早稲田大学英語科を卒業した。 駿豆新聞社社長兼主筆、東駿銀行監査役、沼津市畜産組合長、東海石炭株式会社社長、静岡朝報社社主などを務めた。また駿東郡会議員、同議長、静岡県会議員、同参事会員に選出された。
野間 清治(のま せいじ、1878年〈明治11年〉12月17… 野間 清治(のま せいじ、1878年〈明治11年〉12月17日 - 1938年〈昭和13年〉10月16日)は、明治から昭和時代前期の日本の実業家、剣道家。講談社創業者、元報知新聞社社長。「雑誌王」と呼ばれ、昭和時代前期の出版界を牽引した。 父の野間好雄は北辰一刀流の剣豪森要蔵の高弟で、母の文は森要蔵の長女である。清治も剣道に励んだが、1912年(明治45年)、東京帝国大学での稽古中にアキレス腱を断裂し、修行を断念。その後は剣道家のパトロンとして活動する。屋敷内に野間道場を開設し、持田盛二や中山博道など有名な剣道家を歓待するとともに、講談社の全社員に剣道を奨励するなど全人教育として剣道の普及に努め、「剣道社長」と呼ばれた。
伊坂 秀五郎(いさか ひでごろう、明治11年(1878年)1… 伊坂 秀五郎(いさか ひでごろう、明治11年(1878年)12月17日 - 昭和15年(1940年)12月17日)は、衆議院議員(4期)、鉄道実業家。昭和会所属。 三重県河曲郡、のちの河芸郡若松村(現鈴鹿市)出身。慶應義塾で学ぶ。 若松村長、三重県会議員、三重県参事官、三重県議会副議長を経て、三重県会議員議長(26代)を歴任。鉄道会議員となり、伊勢鉄道会社社長、その後の伊勢電鉄株式会社取締役。1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙に立憲政友会からの推薦を受けて当選(以降3回当選)。のちに昭和会の結成に参加し、所属する。 他には、「開国曙光碑」の発起人となる。 五私鉄疑獄事件で贈賄罪で公判に付される。
三上 剛太郎(みかみ ごうたろう、明治2年11月15日(18… 三上 剛太郎(みかみ ごうたろう、明治2年11月15日(1869年12月17日) - 昭和39年(1964年10月27日))は、日本の医師・軍医・新聞記者。日露戦争に従軍した時のエピソード(後述)で後世に名を残した。最終階級は陸軍一等軍医。 1869年(明治2年)11月15日、陸奥国三戸県佐井村(現在の青森県下北郡佐井村)の代々医家である三上家の長男(8代目)として生まれた。1875年(明治8年)に佐井小学校(現在の佐井村立佐井小学校)に入学。1884年(明治17年)に上京して、三田英学校(現在の錦城学園高等学校)で学ぶ。そこで漢文学者の森田思軒の影響を受け、文学へ傾倒した。1888年(明治21年)に英学校を卒業後、読売新聞社社会部記者となり、新聞記者の世界へ足を踏み入れた。
井上 仁吉(いのうえ じんきち、1868年12月17日(明治… 井上 仁吉(いのうえ じんきち、1868年12月17日(明治元年11月4日)- 1947年(昭和22年)3月14日)は、日本の応用化学者。東北帝国大学総長、工学博士。号・青崖。 蘭方医・井上勤所の二男として京都に生まれる。京都一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)を経て、1892年(明治25年)第一高等学校を卒業。1896年(明治29年)帝国大学工科大学応用科学科を卒業し、横浜瓦斯に入社。1899年(明治32年)東京帝大工科大学助教授に就任した。1903年(明治36年)ドイツのドレスデン大学に私費留学し、日露戦争のため1905年(明治38年)に帰国し東京帝大教授に昇任し応用化学第1講座を担任した。
小野田 鉄弥(おのだ てつや、元治元年11月19日〈1864… 小野田 鉄弥(おのだ てつや、元治元年11月19日〈1864年12月17日〉 - 1948年)は、明治時代の社会事業家。小橋勝之助らとともに日本で最も古い児童施設の一つである博愛社(現在の社会福祉法人博愛社)を創設し、勝之助の弟・小橋実之助、林歌子らと孤児の養育に尽力したほか、石井十次と岡山孤児院の運営を行った。 1864年(元治元年)、現在の茨城県古河市に生まれる。その後、東京・築地の立教大学校(現在の立教大学)で修学した。 1890年(明治23年)に兵庫県赤穂郡矢野村(現在の相生市)で、貧しい家庭の子供たちを育てる施設として『博愛社』を小橋勝之助、小橋実之助(小橋兄弟)、沢田寸二、前田英哲らとともに創設し、林歌子らの協力者と孤児の養育に尽力する。
牛尾 梅吉(うしお うめきち、1864年12月17日〈元治元… 牛尾 梅吉(うしお うめきち、1864年12月17日〈元治元年11月19日〉 - 1934年〈昭和9年〉5月4日)は、日本の政治家(姫路市会議員)、相場師、実業家、兵庫県多額納税者、資産家。姫路商工会議所会頭。姫路水力電気、姫路信託各社長。姫路銀行頭取。牛尾合資会社代表社員。山陽商事代表取締役。族籍は兵庫県平民。 神戸銀行副頭取、中国合同電気社長牛尾健治の父。ウシオ工業社長牛尾吉朗、ウシオ電機会長牛尾治朗の祖父。 播磨国姫路(現・兵庫県姫路市)に生まれた。牛尾政五郎の二男。牛尾政次郎の弟。1882年、兄・政次郎方より分かれて一家を創立した。分家の二男だった梅吉は自分で生計をたてる必要があった。呉服の行商から始めた。
正木 直彦(まさき なおひこ、1862年12月17日〈文久2… 正木 直彦(まさき なおひこ、1862年12月17日〈文久2年10月26日〉 - 1940年〈昭和15年〉3月2日)は、明治から昭和初期の美術行政家。文部官僚出身で、東京美術学校(現東京藝術大学)の第五代校長を1901年から1932年までの長期にわたって務めた。号十三松堂。 1862年(文久2年)和泉国堺夕栄町(現・大阪府堺市)に、父林作の三男として生まれた。幼名政吉。 1892年(明治25年)に東京帝国大学法科大学法律科卒業後、奈良県の教育行政全般の指導を請われ、はじめ奈良県尋常中学校長を任ぜられる。1895年(明治28年9月)に奈良県師範学校校長に就く。在職期間は短かったが、長野宇平治の設計である師範学校校舎の新築に尽力した。
石井 信(いしい しん、1861年12月17日(文久元年11… 石井 信(いしい しん、1861年12月17日(文久元年11月16日)- 1923年(大正12年)4月9日)は、明治から大正期の政治家、神職。衆議院議員。旧姓・天神林。幼名・信吉。 出羽国雄勝郡湯沢町(秋田県雄勝郡湯沢町を経て現湯沢市)で、久保田藩士・天神林久平(儀敬)の二男として生まれ、同藩士、叔父・石井忠良の養子となる。養父の私塾・立志堂で学び、藩儒・西宮藤長に師事して漢学を修めた。1877年(明治10年)2月、養父の死去に伴い家督を相続した。 自由民権運動に加わり、武石敬治、添田飛雄太郎らと自ら学ぶ私塾・麗沢舎を設立して英語など新時代の知識を伝えた。1886年(明治19年)10月、秋田県会議員に選出され5期在任。
桐原 捨三(きりはら すてぞう、1855年12月17日(安政… 桐原 捨三(きりはら すてぞう、1855年12月17日(安政2年11月9日) - 1926年(大正15年)8月25日)は、明治期の教育者、ジャーナリスト。大阪商業講習所所長。旧姓・河野(こうの)。桐原式と呼ばれる新聞販売法で業績を残した。 武蔵国足立郡糠田村(現・埼玉県鴻巣市)に河野家の四男として生まれ、桐原家に養子に入る。浦和中学に学び、1874年(明治7年)慶應義塾に入り、1878年(明治11年)の卒業後に駅逓局に入る。 1880年(明治13年)三菱商業学校を卒業し、福澤諭吉の紹介で大阪商業会議所の五代友厚に聘せられ大阪商業講習所所長となる。府立になると共に大阪高等商業学校に改編。次いで大阪新報に入り、神戸新報、改進新聞を経る。
平田 箴(ひらた ただし、1855年12月17日(安政2年1… 平田 箴(ひらた ただし、1855年12月17日(安政2年11月9日)- 1925年(大正14年)8月15日)は、明治から大正期の弁護士、政治家。衆議院議員、岩手県会議長。 陸奥国磐井郡、のちの岩手県西磐井郡一関町(現一関市)で、一関藩士の家に生まれた。藩校教成館で文武の課程を修めた。 警察官を志願し、盛岡警察署(現盛岡東警察署)詰巡査となる。その後退職して自由党に加わり、代言人(弁護士)の業務に従事。その清潔公平な働きで信頼を得て、村会議員、一関町会議員に選出された。その後、岩手県会議員となり、同副議長、同議長を務めた。その他、所得税調査委員、郡徴兵参事員、破産管財人なども務めた。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(岩手県第5区、自由党)で初当選し、第4回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
浜野 昇(はまの のぼる、1854年12月17日(安政元年1… 浜野 昇(はまの のぼる、1854年12月17日(安政元年10月28日) - 1920年(大正9年)2月11日)は、日本の医師、政治家。