水の也 清美(みずのや きよみ、1916年8月18日 - 没… 水の也 清美(みずのや きよみ、1916年8月18日 - 没年不詳)は、日本の女優である。兵庫県神戸市出身。本名は水谷 貞(みずたに さだ)(根沢 貞子とも)。宝塚歌劇団時代の芸名は左近 八重子(さこん やえこ)。愛称はサアちゃん。 兵庫生まれで兄三人姉一人妹一人がいた。水谷八重子は叔母で9歳のときに叔母とともに初舞台を踏む。幼少期は芸術座にいて芸術座童話劇部として活動していた。東京府立第五高等女学校(現在の東京都立富士高等学校・附属中学校)を三年で中退、宝塚音楽歌劇学校(現在の宝塚音楽学校)に入る。1931年に宝塚少女歌劇団の21期生として入団。同期に轟夕起子、服部富子がいた。1932年4月、『フーピー・ガール』で初舞台を踏んだ。
阿部 善次(あべ ぜんじ、1916年(大正5年)8月18日 … 阿部 善次(あべ ぜんじ、1916年(大正5年)8月18日 - 2007年(平成19年)4月6日)は、日本の海軍軍人。海兵64期。最終階級は、海軍では海軍少佐、空自では一等空佐。ペンネームは阿部善朗(あべ ぜんろう)。 1916年(大正5年)8月18日、山口県に生まれる。1933年(昭和8年)3月、山口中学校を卒業し、海軍兵学校に第64期生として入校。1937年(昭和12年)3月23日、海軍兵学校(64期)を卒業し、任海軍少尉候補生。1937年(昭和12年)11月、熊野に乗組。1938年(昭和13年)3月10日、海軍少尉に任官。同年3月28日、卯月に乗組。同年7月28日、第31期飛行学生を拝命。
尾之内 由紀夫(おのうち ゆきお、1915年8月18日 - … 尾之内 由紀夫(おのうち ゆきお、1915年8月18日 - 2009年2月12日)は、日本の土木工学者。1967年に建設事務次官を務めた。 愛知県知多市八幡出身。愛知一中を経て、1939年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、内務省、人事院で務め、1963年、建設省の道路局長となり、1966年から技監および1967年より建設事務次官を務める。1970年に日本道路公団の副総裁となり、1976年に本州四国連絡橋公団の総裁となる。1975年から1976年にかけて土木学会の会長を務め、1980年から日本道路協会の会長を務めた。1987年、勲一等瑞宝章受章。 2009年2月12日に肺炎のため死去した。叙正四位。
小野 衛(おの まもる、1915年8月18日 - 2001年… 小野 衛(おの まもる、1915年8月18日 - 2001年11月14日)は、日本の邦楽作曲家、演奏家。 福岡県北九州市に生まれる。雅号は猷山。幼少より邦楽に親しみ、1933年福岡県中学修猷館、1935年3月旧制福岡高等学校理科甲類を経て、東京帝国大学理学部物理学科に進学。在学中に、島村卿山に尺八、宮城道雄に箏(琴)と三弦(三味線)を学び、1937年からは尺八のパートとして宮城道雄と共演する。1938年3月に東大を卒業後、宮城道雄の養女・よし子と結婚して婿養子となり、宮城衛と改姓。一方で、諸井三郎に作曲を学んでおり、1947年には諸井門下の柴田南雄、入野義朗、團伊玖磨らと新声会を結成し、『絃楽三重奏曲』、『五重奏曲』などを発表している。
東郷 文彦(とうごう ふみひこ、旧姓:本城、 1915年(大… 東郷 文彦(とうごう ふみひこ、旧姓:本城、 1915年(大正4年)8月18日 - 1985年(昭和60年)4月9日)は、日本の昭和時代の外交官、官僚。旧姓は本城。外務省事務次官、駐アメリカ大使を務めるなど日本の戦後外交におけるアメリカスクール外交官の重鎮の一人であった。
河村 勝夫(かわむら かつお、1914年 <大正3年> 8月… 河村 勝夫(かわむら かつお、1914年 <大正3年> 8月18日 - 2002年 <平成14年> 9月13日)は、日本の経営者。フジクラ社長、会長を務めた。位階は従四位。 山口県出身。1939年に東京商科大学を卒業し、同年に藤倉電線(のちのフジクラ)に入社。1967年11月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1973年11月に専務を経て、1976年12月には社長に就任。1982年6月に会長に就任し、1991年6月から相談役を務めた。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年9月13日肺炎のために死去。88歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
太田 静子(おおた しずこ 1913年(大正2年)8月18日… 太田 静子(おおた しずこ 1913年(大正2年)8月18日 - 1982年(昭和57年)11月24日)は、滋賀県出身の歌人、作家。太宰治の愛人の一人。『斜陽』に材料を提供したことで知られている。 作家の太田治子は、太田静子と太宰治の娘。 滋賀県愛知郡愛知川町(現:愛荘町愛知川)にて、開業医太田守・きさの四女として誕生。実家は九州の大名の御典医の家系。叔父(きさの弟)は大和田悌二(逓信省次官で、退官後日本曹達社長、日本電信電話公社経営委員長)。愛知高等女学校(現:滋賀県立愛知高等学校)卒業後、東京の実践女学校家政科に進む。直後から口語短歌を作り、逗子八郎が主宰する「短歌と方法」に入る。1934年(昭和9年)、口語歌集『衣裳の冬』を芸術教育社から刊行。
松浪 信三郎(まつなみ しんざぶろう、1913年8月18日 … 松浪 信三郎(まつなみ しんざぶろう、1913年8月18日 - 1989年9月2日)は、フランス哲学の研究・翻訳者。サルトル『存在と無』の翻訳で知られる。
多田 裕計(ただ ゆうけい、1912年8月18日 - 198… 多田 裕計(ただ ゆうけい、1912年8月18日 - 1980年7月8日)は、日本の小説家・俳人。福井県福井市出身。 旧制福井中学校、旧制第二早稲田高等学院、早稲田大学文学部仏文科卒業。横光利一に師事し、石塚友二らと交流する。高等学院時代は、八木義徳、辻亮一、中村八朗らと同人誌「黙示」を創刊。 1940年より上海へ渡り、上海中華映画に勤務、1941年、『大陸往来』に寄せた「長江デルタ」で第13回芥川賞受賞。 1945年福井に疎開するが空襲にあい、三国町(現坂井市)に移住し、三好達治らと交流を持つ。 1947年福井県社会教育委員を務め、福井県文化協議会の設立に参加。「蛇師」で大衆文芸懇話会賞佳作。
小林 行雄(こばやし ゆきお、1911年(明治44年)8月1… 小林 行雄(こばやし ゆきお、1911年(明治44年)8月18日 - 1989年(平成元年)2月2日)は、日本の考古学者。京都大学名誉教授。学位は、文学博士。日本学士院恩賜賞受賞者。 兵庫県神戸市に生まれる。1932年(昭和7年)、神戸高等工業学校(現:神戸大学工学部)を卒業し、副手に就任。後に依願退職し、近畿地方を中心に発掘調査に携わる。1935年(昭和10年)、京都帝国大学文学部助手。1945年(昭和20年)に海軍に招集され、戦後は1953年(昭和28年)に京都大学文学部講師、1954(昭和29年)年には日本学士院恩賜賞を受賞。1955年1月、『史林』38巻1号に「古墳発生の歴史的意義」を発表。
内藤 正之(ないとう せいし、1910年 <明治43年> 8… 内藤 正之(ないとう せいし、1910年 <明治43年> 8月18日 - 1996年 <平成8年> 10月31日)は、日本の経営者。日立電線社長を務めた。位階は従四位。 岡山県出身。1935年に大阪帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年4月に日立製作所に入社。1956年10月に日立電線に転じ、1961年5月に取締役に就任し、1965年5月に常務、1968年11月に専務を経て、1970年5月に副社長に就任し、1971年11月には社長に昇格。1979年6月に会長を経て、1983年6月から相談役を務めた。 1981年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1996年10月31日呼吸不全のために死去。86歳没。
中島 栄次郎(なかじま えいじろう、1910年(明治43年)… 中島 栄次郎(なかじま えいじろう、1910年(明治43年)8月18日 - 1945年(昭和20年)5月27日)は、日本の文芸評論家、詩人、哲学者。 京都帝国大学教授の田辺元のもとで、ニーチェの研究などに携わり、毎日新聞に文芸評論を書いた(その際の担当記者が井上靖)。 大阪高等学校 (旧制)の同級生を中心に文芸同人誌『コギト』の創刊メンバーである。はじめ沖崎猷之介の筆名を用い、第16号(昭和8年9月号)以後は本名で主に評論を、また詩、小説を発表した。また、文芸同人誌『日本浪漫派』の創刊メンバーである。その創刊号の巻頭に「浪漫化の機能」を執筆した。同人には第二号から太宰治、檀一雄、第三号からは伊東静雄、大山定一らが加わった。
成田 理助(なりた りすけ、1909年(明治42年)8月18… 成田 理助(なりた りすけ、1909年(明治42年)8月18日 - 1988年(昭和63年)4月1日)は、日本の野球評論家。成田は旧姓。本姓は西田。息子は中日ドラゴンズに所属した西田暢。 長野県上水内郡三輪村(現長野市)で生まれる。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)を経て、1934年(昭和9年)に法政大学法文学部法律学科を卒業する。大学在学中は、野球部選手として活躍し、2回の優勝に貢献する。 1934年東京鉄道局に入局。1940年応召。復員後の1949年に退職し、東鉄野球部監督、東京六大学野球審判員。1951年、明治座入社とともに野球部監督、全日本軟式野球連盟常任理事。1979年日本社会人野球関東連盟副会長。
小林 米三(こばやし よねぞう、1909年8月18日 - 1… 小林 米三(こばやし よねぞう、1909年8月18日 - 1969年2月10日)は、京阪神急行電鉄元社長、宝塚歌劇団元理事長。プロ野球球団阪急ブレーブスのオーナーでもあった。 阪急電鉄や宝塚歌劇団の創業者である小林一三の三男として生まれた。 京都帝国大学経済学部卒業後、1932年に阪神急行電鉄に入社。 1946年に取締役、1951年に専務取締役、1959年に代表取締役社長に就任。 専務時代の1956年に発生した庄内事件では、事件現場となった宝塚線庄内駅に自ら出向き、事態を収拾するため騒ぎを起こした群衆を説得した。 1968年5月から1969年1月まで宝塚歌劇団理事長を務め、2014年には『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂表彰される。
金湊 仁三郎 (かねみなと にさぶろう、 1908年8月18… 金湊 仁三郎 (かねみなと にさぶろう、 1908年8月18日 - 1979年11月23日)は、現在の千葉県船橋市金杉町出身で湊川部屋に所属した大相撲力士。本名は石井 仁三郎。身長164cm、体重86kg。最高位は東前頭5枚目。1940年1月場所のみ金湊利三郎を名乗った[信頼性要検証]。 1927年1月場所に初土俵を踏む。1931年5月、双葉山定次とともに新十両を果たし、2場所連続して双葉山を破る。春秋園事件で一度は脱退するが、1933年1月に十両格別席で復帰、1934年5月場所に新入幕を果たした。 小兵ながら動きの早い相撲で、若手をいじめることが多く、「追いはぎ」とあだ名されている。大きな出羽ヶ嶽文治郎に初顔から連勝したり、新入幕の羽黒山政司に初日に土をつけたり、1939年1月には双葉山の連勝を止めた安藝ノ海節男を終盤に破って負け越しを味わわせたりと、大物食いで名をはせた。
白井新平(しらい しんぺい、1907年8月18日 - 198… 白井新平(しらい しんぺい、1907年8月18日 - 1988年9月28日)は、日本のアナキスト、社会運動家、競馬評論家、実業家。 啓衆社の創業者であり、戦前から戦後初期にかけての日本競馬において多くの先駆的な試みを行った。筆名として山本三郎、アキ・ヤマモト(山本秋)などがある。競馬評論家の白井透、白井牧場創業者の白井民平は実子。元馬術競技選手の白井岳は孫。 京都府舞鶴市余部にて、精密機械の仕上工であった喜代太郎とその妻らいの一人息子として生を受ける。父喜代太郎の生家・小津家は油問屋を家業としていたが、新平の祖父の代には遊び好きの道楽者が祟って準禁治産認定を受けている。喜代太郎は幼少期に豊中市で造り酒屋を営んでいた白井家へ養子に出されたのだがこちらもすぐに破産してしまい、小津家に引き取られたのちに手に職をつけるべく技術者となった。
松井 勇(まつい いさむ、1907年8月18日 - 1996… 松井 勇(まつい いさむ、1907年8月18日 - 1996年8月10日)は、日本の地理学者である。 1907年(明治40年)8月18日、本郷区駒込浅嘉町(現在の文京区本駒込)で誕生。旗本の家系であったという。東京府立第五中学校から第一高等学校を経て東京帝国大学理学部地理学科に進学、1931年(昭和6年)に卒業。理学部大学院に進み、辻村太郎に師事する。1946年(昭和21年)に「地理学に於ける分布論」で理学博士となる。 1947年(昭和22年)より東京女子高等師範学校の講師を務め、1949年(昭和24年)に常勤となる。同年、国立学校設置法に基づき、東京女子高等師範学校はお茶の水女子大学に改組される。
早川 忠篤(はやかわ ただあつ、1907年〈明治40年〉8月… 早川 忠篤(はやかわ ただあつ、1907年〈明治40年〉8月18日 - 1969年〈昭和44年〉4月27日)は、日本の地方政治家。鳥取県倉吉市の初代市長。戦後の地方自治体建設と都市文化形成に尽力し、モダニズム建築による市庁舎建設や将来志向の都市構想を推進したことで知られる。 鳥取県東伯郡上小鴨村(現・倉吉市)出身。1926年(大正15年)倉吉中学校(現・鳥取県立倉吉東高等学校)卒業。1933年(昭和8年)より倉吉町議会議員を務め、1947年(昭和22年)には鳥取県議会議員に選出。1951年(昭和26年)に倉吉町長に就任し、1953年(昭和28年)10月の市制施行により倉吉市の初代市長に選出された。
小山 省二(こやま しょうじ、男性、1906年(明治39年)… 小山 省二(こやま しょうじ、男性、1906年(明治39年)8月18日 - 1989年(平成元年)4月6日)は、東京府(現・東京都)出身の政治家、実業家。元衆議院議員(4期)。 現在の町田市小山町(おやままち)に生まれる。1924年(大正13年)東京府立繊染学校(現・東京都立八王子桑志高等学校)を卒業後、八王子市内において。戦後は1949年(昭和24年)から1955年(昭和30年)まで八王子織物工業協同組合の第9代理事長を務めた。1968年(昭和43年)藍綬褒章受章。 戦後より政治活動に進出し、1947年(昭和22年)に東京都議会議員選挙に八王子選挙区から立候補し当選、以後5期連続当選を重ね、1963年(昭和38年)には都議会議長に就任する。
石本 秀雄(いしもと ひでお、明治39年(1906年)8月1… 石本 秀雄(いしもと ひでお、明治39年(1906年)8月18日 - 昭和40年(1965年)10月5日)は、日本の映画撮影技師である。本名:藤井 秀雄(ふじい ひでお)。 1906年(明治39年)8月18日、淡路島の洲本に生まれる。旧制滝川中学校中退。 1922年(大正11年)、牧野教育映画製作所(等持院撮影所)撮影部に入社する。田中十三らの助手をつとめ、1923年(大正12年)のマキノ映画製作所への改組、1924年(大正13年)7月の東亜キネマへのマキノの吸収合併を経ても等持院撮影所で撮影助手をつとめる。 1925年(大正14年)6月のマキノ・プロダクションの設立に際して、新設の御室撮影所にともに移る。
小林 運美(こばやし かずみ、1905年(明治38年)8月1… 小林 運美(こばやし かずみ、1905年(明治38年)8月18日 - 1978年(昭和53年)10月2日)は、日本の実業家、政治家。男性。 長野県小県郡上田町(現上田市)生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、上田蚕糸専門学校製糸科卒業。山十製糸に入社し、中央蚕糸会、全国産業組合製糸組合連合会、全国共営蚕糸組合などの蚕糸団体の役職を歴任し、昭和4年(1929年)ニューヨークで開かれた第2回国際生糸技術会議に出席した。また日本紡毛会長、東邦製糸取締役、帝国製糸専務などを歴任した。 同22年(1947年)第23回衆議院議員総選挙に長野県第2区から出馬し、初当選した。改進党中央常任委員や、国会対策委員を務めた。
旭川 幸之焏(あさひかわ ゆきのじょう、1905年8月18日… 旭川 幸之焏(あさひかわ ゆきのじょう、1905年8月18日 - 1978年1月31日)は、北海道上川郡旭川町(現:北海道旭川市、出生地は富山県下新川郡(現:富山県魚津市))出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は宮坂 幸吉(みやさか こうきち)。最高位は西関脇。 1905年8月18日、富山県下新川郡(現:富山県魚津市)で生まれる。2歳の時に家族で北海道上川郡旭川町(現:北海道旭川市)へ移住し、1921年の夏に友綱の一行が巡業で北海道へ来る際に、先乗りとして一足先に北海道へやって来た同郷の立浪親方(元小結・緑嶋)に見い出され、立浪部屋へ入門した。1922年1月場所で初土俵を踏み、1927年5月場所で新十両昇進を果たすが、ここから幕下との往復が5年以上繰り返されることとなる。
北畠 教真(きたばたけ きょうしん、1904年8月18日 -… 北畠 教真(きたばたけ きょうしん、1904年8月18日 - 1969年2月14日)は、浄土真宗本願寺派の僧侶、政治家、参議院議員(2期)。 福岡県出身。1928年に龍谷大学文学部を卒業後、ベルリン大学とライプツィヒ大学に留学。山形県天童市の善行寺住職を継承した後に本願寺派の社会部長、教育部長、総務部長を歴任。築地本願寺輪番ならびにあそか病院長、津村別院輪番、宗会議長、全日本仏教会事務総長なども務めた。1954年のビルマにおける世界仏教徒会議では日本代表となった。 1956年の第4回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で立候補したが落選した。第5回、第7回の参議選に自由民主党から全国区で立候補し当選。
山里 永吉(やまざと えいきち 1902年8月18日 - 1… 山里 永吉(やまざと えいきち 1902年8月18日 - 1989年5月5日)は、沖縄の画家、作家。 沖縄県生まれ。日本美術学校中退。田河水泡、村山知義と交わる。『マヴォ』同人。1927年沖縄に帰り、脚本や新聞小説を執筆。戦後は琉球博物館長、琉球芸能連盟会長。脚本に「首里城明渡し」などがある。
馬淵 寅雄(まぶち とらお、1902年8月18日 - 197… 馬淵 寅雄(まぶち とらお、1902年8月18日 - 1977年11月14日)は、日本の経営者。岐阜県揖斐郡大野町出身。 1921年に岐阜県立農林学校を卒業。1926年に攻玉社高等工学校土木科を首席で卒業し、同年に東京横浜電鉄(のちの東京急行電鉄)に入社。1939年9月に工務部保線課長、1946年1月に工務部部長に昇進。1948年6月に取締役に就任し、東急会館・渋谷地下街・東急文化会館など渋谷駅の再開発事業の推進を行った。1955年11月に常務、1958年5月に東急不動産常務、1964年11月に専務、1966年5月に東急電鉄専務、1968年6月に東急建設副社長を経て、1972年7月から1973年5月までに同社社長を務めた。
鈴木 恭助(すずき きょうすけ、1901年8月18日 - 1… 鈴木 恭助(すずき きょうすけ、1901年8月18日 - 1998年4月30日)は、日本の経営者。青森銀行頭取、会長を務めた。岩手県出身。 盛岡中学を経て、1925年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、1930年に日本勧業銀行に入行した。1955年4月に青森銀行常務に就任し、1960年12月に専務、1965年6月に副頭取を経て、1968年11月には頭取に就任した。1974年5月から会長を務めた。 1974年11月に勲四等旭日小綬章を受章した。 1998年4月30日急性気管支炎のために死去。96歳没。
八木 日出雄(やぎ ひでお、1899年(明治32年)8月18… 八木 日出雄(やぎ ひでお、1899年(明治32年)8月18日 - 1964年(昭和39年)5月6日)は日本の医学者、医師(産婦人科医)。岡山大学教授、同大医学部長、1958年-1962年まで第3代学長などを歴任した。義兄(妻の兄)に競泳選手の松沢一鶴。 兵庫県出身。第三高等学校(旧制)、京都帝国大学を卒業し、岡山医科大学(旧制)教授に招かれ産婦人科教室を主宰した。新制岡山大学に移行し、同医学部教授となる。昭和32年8月医学部長、翌33年6月1日より昭和37年5月31日まで岡山大学長(第3代)に就任。 第三高等学校在学時代からエスペラントに惹かれ、普及のための講演活動に従事したが、生涯継続した。
大西 十寸男(おおにし としお、俊夫とも、1896年(明治2… 大西 十寸男(おおにし としお、俊夫とも、1896年(明治29年)8月18日 - 1947年(昭和22年)7月29日)は、日本の政治家、農民運動家。参議院議員(無所属懇談会、1期)。 三重県飯南郡花岡村(現:松阪市)生まれ。早稲田大学で建設者同盟に加わり、卒業後の1922年(大正11年)に日本農民組合関東同盟を組織。翌年には日農総本部書記となり、1927年(昭和2年)に日本共産党に入党。三・一五事件、四・一六事件で検挙された後に共産党から離党し、全国農民組合総本部書記を歴任。一方で労農派の立場から農民運動や左翼運動を指導し、人民戦線事件で検挙された。 戦後、日本農民組合の再建に関わり、1947年(昭和22年)2月には同会書記長になる。
横山 竹男(よこやま たけお、1895年〈明治28年〉8月1… 横山 竹男(よこやま たけお、1895年〈明治28年〉8月18日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。基隆市尹、高雄市長。 横山文吉の長男として香川県三豊郡詫間村(現三豊市詫間町)に生まれる。1910年(明治43年)4月、通信伝習所を卒業後、1911年(明治44年)3月、詫間郵便局に奉職。1915年(大正4年)9月、台湾に渡り、台南郵便局通信手を経て、1922年(大正11年)12月に台湾総督府属、総督官房秘書課勤務を発令される。 1930年(昭和5年)台北高等商業学校書記兼文教局学務課勤務を経て、1934年(昭和9年)5月に交通局副参事鉄道部庶務課勤務に転じ、1935年(昭和10年)10月に地方理事官に進み、台南市助役に就任。
黒田 清(くろだ きよし、1893年〈明治26年〉8月18日… 黒田 清(くろだ きよし、1893年〈明治26年〉8月18日 - 1951年〈昭和26年〉1月22日)は、日本の華族。貴族院議員・財団法人国際文化振興会専務理事。爵位は伯爵。 東京府出身。清は黒木為楨陸軍大将伯爵の三男で、黒田清仲伯爵(内閣総理大臣黒田清隆陸軍中将伯爵の子)に子が無かった為、養子となり爵位を継いだ。 1919年(大正8年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、さらに同文科大学を修了。1924年(大正13年)、フランスに音楽研究のため留学した。1934年(昭和9年)、国際文化振興会常務理事となり、さらに専務理事となる。 1944年(昭和19年)11月、貴族院伯爵議員に就任し、研究会に属し華族制度廃止までその職に在った。
館 哲二 (たち てつじ、1889年8月18日 - 1968… 館 哲二 (たち てつじ、1889年8月18日 - 1968年9月27日)は、日本の内務官僚・政治家。参議院議員(3期)、府県知事。旧姓・木津。 富山県高岡市出身。木津太郎平の二男として生まれ、後に館萩江の入夫となり改姓。富山県立高岡中学校、第一高等学校を経て、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、内務省に入り岐阜県属として内務部学務兵事課に配属された。1917年(大正6年)10月、文官高等試験に合格した。 1918年(大正7年)4月、岐阜県警部となる。以後、同県警視・警務課長兼工場課長、同県内務部産業課長、神奈川県外事課長、茨城県知事官房文書課長兼内務部社会課長、内閣書記官、内閣官房記録課長、同総務課長などを歴任。
石井 光次郎(いしい みつじろう、1889年〈明治22年〉8… 石井 光次郎(いしい みつじろう、1889年〈明治22年〉8月18日 - 1981年〈昭和56年〉9月20日)は、日本の政治家。位階は従二位、勲等は勲一等、勲章は旭日桐花大綬章。衆議院議長(第54代)、副総理、法務大臣、通商産業大臣、行政管理庁長官、北海道開発庁長官、運輸大臣、商工大臣、朝日放送社長を歴任した。久留米市名誉市民。 福岡県久留米市出身。石井百次の四男として生まれ、1897年(明治30年)家督を相続。久留米商業学校(現・久留米市立久留米商業高等学校)、神戸高等商業学校(現・神戸大学)を経て、1914年(大正3年)東京高等商業学校(現・一橋大学)専攻部を卒業する。 1913年(大正2年)に高等文官試験に合格し、東京高商専攻部卒業後に警視庁警部、台湾総督府秘書課長兼外事課長などを経て1922年(大正11年)に朝日新聞社入社。
堀口 功(ほりぐち いさお、1888年8月18日 - 196… 堀口 功(ほりぐち いさお、1888年8月18日 - 1964年2月17日)は、日本の政治家。岡山県玉島市(現・倉敷市)長。 岡山県浅口郡阿賀崎村(のち玉島町→玉島市、現・倉敷市)出身。旧制岡山中学校(現・岡山県立朝日高等学校)、金川中学校(後、岡山県立金川高等学校、現在廃校)を経て、1918年、早稲田大学政治経済学科卒。同年、高等文官試験行政科に合格する。福岡県属、同官房主事、地方課長、兵庫県地方、議事各課長、沖縄、広島、高知、千葉各県の学務部長、宮城、鹿児島各県の経済部長、福井県の総務部長を歴任し、1939年に退官した。退官後は神戸製鋼所総務部長などを経て、1951年、玉島町長に就任。翌年1月、玉島町の市制施行に伴い、玉島市長となった。
石山 徹郎(いしやま てつろう、1888年8月18日 - 1… 石山 徹郎(いしやま てつろう、1888年8月18日 - 1945年7月30日)は、国文学者。 秋田県雄勝郡生まれ。1914年東京帝国大学国文科卒。卒業論文で初めて現代文学を扱ったとされる夏目漱石論を書く。同年広島で中学校教師、1915年退職して万朝報記者となる。1918年「新しき村」会員。1920年北海道帝国大学予科講師、のち教授。1923年松江高等学校教授。1924年大阪府女子専門学校教授。1943年11月退職。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鍋井 克之(なべい かつゆき、1888年8月18日 - 19… 鍋井 克之(なべい かつゆき、1888年8月18日 - 1969年1月11日)は、日本の洋画家。 大阪府出身。旧姓は田丸。東京美術学校卒。1915年「秋の連山」で二科賞。フランスなどに留学後、1923年二科会会員となり、1924年小出楢重、黒田重太郎らと大阪に信濃橋洋画研究所を設立。1947年二紀会の結成に参加。1950年「朝の勝浦港」などで芸術院賞受賞。1964年浪速芸術大学教授。宇野浩二と親しくその挿絵を多く描いた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
佐藤 玄々(さとう げんげん、1888年〈明治21年〉8月1… 佐藤 玄々(さとう げんげん、1888年〈明治21年〉8月18日 - 1963年〈昭和38年〉9月14日)は、20世紀の日本で活躍した彫刻家。 福島県相馬郡中村町(現相馬市)出身、本名・清蔵。1888年宮彫り師の家に生まる。幼い頃から木彫の技術を学ぶ。1905年、17歳で「われ世界第一の彫刻家たらんと祈りき」と上京。翌年山崎朝雲に師事、1913年に朝山の号を貰い独立。30歳で結婚。大森にアトリエを構える。1914年日本美術院同人。院展に出品を続けた後、1922年(大正13年)官費留学により2年間フランスに渡り、アントワーヌ・ブールデルに師事する。 1935年(昭和10年)、帝国美術院の改革が行われると会員に選出されるが、翌1936年(昭和11年)年に示された平生改革案に反対して横山大観ら日本芸術院メンバーなどとともに会員を辞任する。
吉田 享二(よしだ きょうじ、1887年(明治20年)8月1… 吉田 享二(よしだ きょうじ、1887年(明治20年)8月18日 - 1951年(昭和26年)4月29日)は、日本の建築家。建築研究者、工業教育者。 建築材料学の権威で、建築材料協会会長、日本建築学会会長などを歴任した。各地の都市計画にも携わる。建築材料学のほか建築設備学の草創期において、その研究は学界や業界標となる。終始、早稲田大学・同高校での教職と運営にあたる。 1887年(明治20年)兵庫県美方郡生まれ、石川県士族で宮中顧問官の吉田醇一の養子となる。旧姓は宮脇。1912年(大正元年)に東京帝国大学工学部建築学科を卒業し、早稲田大学理工学部建築学科に勤務。また母校の講師、早稲田大学助教授を経て1916年(大正5年)に同校教授。
長内 健栄(おさない けんえい、1886年〈明治19年〉8月… 長内 健栄(おさない けんえい、1886年〈明治19年〉8月18日 - 1961年〈昭和36年〉12月10日)は、日本の政治家、農業経営者。衆議院議員、大光寺村長。 青森県南津軽郡大光寺村(現平川市)で、初代大光寺村長・長内建美の長男として生まれる。東奥義塾3年時に東京の錦城中学校に転じ、1909年(明治42年)、早稲田大学政治経済科を卒業した。 その後帰郷して、1914年(大正3年)、大光寺村会議員に当選。その後、大光寺村長、消防組頭、青森県会議員を歴任。立憲政友会支持一色であった大光寺村において、立憲民政党に入党し、同党南津軽郡分所幹事、同青森県支部幹事を務めた。 1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に青森県第2区から翼賛政治体制協議会(翼協)の推薦を受けずに出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
水野 啓(みずの けい、1885年(明治18年)8月18日 … 水野 啓(みずの けい、1885年(明治18年)8月18日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 水野桃太郎の三男として福井県南条郡武生町(現・越前市)に生まれる。1908年(明治41年)9月、日本大学法律科専門部を卒業し、1912年(明治45年)7月、台湾総督府巡査として赴任する。 台北州・高雄州各警察所勤務、鳳山郡警務課長、岡山郡警務課長、澎湖庁警務課長、台北南警察所長、台南州虎尾郡守などを歴任し、1940年(昭和15年)1月に退官し、台湾故銅鉄屑統制の代表となった。
浦 澄江(うら すみえ、1884年(明治17年)8月18日 … 浦 澄江(うら すみえ、1884年(明治17年)8月18日 - 1951年(昭和26年)1月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡、のちの三里村(現高知市)で生まれた。高知県尋常中学海南学校(現高知県立高知小津高等学校)を経て、陸軍士官学校第16期、陸軍大学校第29期卒業。1928年(昭和3年)6月7日に奉天軍に応聘され、8月10日に陸軍砲兵大佐に進級した。1929年(昭和4年)3月に山砲兵第9連隊長に転じ、1931年(昭和6年)8月に台湾軍参謀に就任した。 1933年(昭和8年)8月1日に陸軍少将進級と同時に佐世保要塞司令官に着任した。1934年(昭和9年)8月に第6師団司令部附となり、1936年(昭和11年)3月に由良要塞司令官に就任。
園田 寛(そのだ ひろし、1883年(明治16年)8月18日… 園田 寛(そのだ ひろし、1883年(明治16年)8月18日 - ?)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 兵庫県に衆議院議員田艇吉の三男として生まれ、母方従弟・園田稔の跡を継いだ。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。専売局書記、拓殖局属、同書記官、文部省参事官、拓殖局調査課長、同庶務課長を務めた。その後、朝鮮総督府事務官・監察官に転じ、総督官房外事課長、同会計課長、財務局理財課長、山林部長を歴任し、1929年(昭和4年)に平安南道知事に就任した。 1931年(昭和6年)に退官した後は、横浜商工会議所理事を務めた。
宮脇 富(みやわき あつし、1883年8月18日 - 196… 宮脇 富(みやわき あつし、1883年8月18日 - 1968年5月29日)は、大正期から昭和期の日本の畜産学者。専門は畜産物理用学。学位は、農学博士(北海道帝国大学)。「宮脇冨」とも表記される。 島根県安濃郡鳥井村(現・大田市)出身。14歳で渡道。1902年、札幌農学校卒業。1902年、浅羽農場に就職。1907年、カンザス州立大学農科大学卒業。1907年、カンザス州立大学農科大学助教授。1911年、帰国後、東北帝国大学農科大学助教授。1918年、北海道帝国大学農科大学助教授。1919年、北海道帝國大学農学部助教授。1920年、北海道帝国大学にて農学博士を受く。1924年、北海道帝国大学農学部教授。
上杉 慎吉(旧字体: 上杉 愼吉、うえすぎ しんきち、187… 上杉 慎吉(旧字体: 上杉 愼吉、うえすぎ しんきち、1878年〈明治11年〉8月18日 - 1929年〈昭和4年〉4月7日)は、日本の憲法学者。東京帝国大学教授。天皇主権説を主張する神権学派(君権学派)であり、天皇機関説と激しい論争を展開した。また、一君万民論の立場から普通選挙導入を主張した。学位は法学博士(1909年・文部大臣)。穂積八束に師事。教え子に竹内賀久治、安岡正篤、岸信介など。 1878年〈明治11年〉8月18日、福井県足羽郡福井町(現・福井市)生まれ。父上杉寛二は大聖寺藩(現・石川県加賀市)藩医だった。弟は大日本紡績(現・ユニチカ)や日本製粉(現・ニップン)取締役を務めた平野復男。
福原 俊丸(ふくばら としまる、1876年〈明治9年〉8月1… 福原 俊丸(ふくばら としまる、1876年〈明治9年〉8月18日 - 1959年〈昭和34年〉2月1日)は、日本の華族(男爵)。貴族院議員。旧宇部領主福原家第27代当主。
松林 桂月(まつばやし けいげつ、1876年8月18日 - … 松林 桂月(まつばやし けいげつ、1876年8月18日 - 1963年5月22日)は、日本画家。山口県萩市生まれ。元の姓は伊藤、本名は篤。字は子敬。別号に香外、玉江漁人。妻の松林雪貞(せってい)も日本画家。 「最後の文人画家」とも評され、渡辺崋山や椿椿山ら崋椿系の流れをくむ精緻で謹直な描写を基礎に、近代の写生画の流行を十分に取り込みながら、そこに漢籍、漢詩の素養に裏付けされた品格の高い作風を特色とする。 萩市中渡(現・山田)出身。尋常小学校卒業後、地元の素封家・瀧口吉良の援助を受けて上京。1894年野口幽谷に師事。南画の表現に新たな世界を開拓し、南画界の重鎮と言われる。官展の中心画家で、1906年日本南宗画会を結成。
細梅 三郎(ほそめ さぶろう、1874年(明治7年)8月18… 細梅 三郎(ほそめ さぶろう、1874年(明治7年)8月18日 - 1951年(昭和26年)7月31日)は、明治から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、山形県北村山郡楯岡町長。ブラジル移民としてサンパウロ州に渡り同地で没した。 山形県村山郡楯岡村(北村山郡楯岡村、楯岡町を経て現村山市楯岡)で、細梅勘六、タニの長男として生れた。1900年(明治33年)1月、家督を相続した。同年、宮城農学校(現宮城県農業高等学校)農科を卒業し、1903年(明治36年)7月、早稲田大学政治経済科を卒業した。農業を営む。 1903年、北村山郡会議員に選出され同議長も務めた。1905年(明治38年)楯岡町長に就任。1907年(明治40年)9月、山形県会議員に選出され、1911年(明治44年)9月まで1期在任した。
鈴木 穆(すずき しずか、1874年(明治7年)8月18日 … 鈴木 穆(すずき しずか、1874年(明治7年)8月18日 - 1933年(昭和8年)8月23日)は、朝鮮総督府官僚。 東京府出身。神田共立中学(現開成中)、第一高等中学(一高)を経て、1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学を卒業。1902年、福山藩士町野精蔵次女鈴子と結婚。大蔵書記官を経て、朝鮮総督府で度支部司税局長、度支部長官・臨時土地調査局長、朝鮮銀行副総裁を歴任した。 1925年(大正14年)に退任後は、京都電機株式会社取締役会長を務め、1932年(昭和7年)からは関東軍司令部嘱託、関東軍特務部財政経済顧問となり、満州に駐在。翌年、パラチフスに罹患し永眠す。多磨霊園(12-1-1-3)に埋葬される。
岸本 賀昌(きしもと がしょう、1868年8月18日(尚泰2… 岸本 賀昌(きしもと がしょう、1868年8月18日(尚泰21年7月1日) - 1928年(昭和3年)2月28日)は、沖縄県出身の日本の内務官僚、政治家。 那覇生まれ。1882年(明治15年)に第1回県費留学生として上京し、学習院(中退)、慶應義塾(別科三級に入学し、正科を卒業)で学ぶ。留学後、沖縄県属、次いで内務省地方局に移り、石川県参事官、沖縄県参事官、同事務官・第二部長などを歴任。1912年(明治45年)に沖縄県最初の衆議院議員選挙に立憲政友会公認で出馬し、当選。その後、憲政会、立憲同志会、立憲民政党など政局に合わせて党を移り、衆議院議員を4期務めた。沖縄毎日新報社長、沖縄共立銀行頭取などを経て1925年(大正14年)に那覇市長に選任された。
朝倉 菊衛(あさくら きくえ、1867年8月18日(慶応3年… 朝倉 菊衛(あさくら きくえ、1867年8月18日(慶応3年7月19日) - 1922年7月1日)は、岡山県小田郡矢掛町出身の実業家、ジャーナリスト。 小田郡矢掛町で生まれる。若い頃は教員をしていた。 1888年、上京し、山縣内閣の機関として設立された時事通信社へ入社する。 1893年、独立して帝国通信社を設立し、常務取締役として経営に携わった。 また、池田寅治郎らと中央生命保険会社を設立した。 1922年7月1日死去。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
中野 善次郎(なかの ぜんじろう、1866年8月18日〈慶応… 中野 善次郎(なかの ぜんじろう、1866年8月18日〈慶応2年7月9日〉 - 1944年6月24日〈昭和19年〉)は、日本の明治・大正期における実業家。滋賀県出身。 1866年(慶応2年)7月9日、近江国野洲郡守山村吉身(現・滋賀県守山市吉身)で誕生。 父は滋賀県議会議長や衆議院議員を務めた岡田逸治郎、母は逸治郎の二番目の妻いを。八男七女の三男として誕生(長男夭折により対外的には次男の扱い)し、久治郎と称した。 その後、1876年(明治9年)8月、愛知県額田郡岡崎の木村家に養子として入るが離縁され復籍。1882年(明治15年)6月20日、滋賀県栗太郡草津村(現・滋賀県草津市)の実業家である中野傳助の娘みさと結婚し、中野家の入り婿として傳助の養嗣子となり中野善次郎と改名した。