尾崎 翠(おさき みどり、1896年(明治29年)12月20… 尾崎 翠(おさき みどり、1896年(明治29年)12月20日 - 1971年(昭和46年)7月8日)は、小説家。 作家活動は短かったが、今なお斬新さを失わぬ彼女の作品は、近年になり再評価が進んでいる。 鳥取県岩美郡岩井村(現・岩美町)にて教員の父長太郎と母まさ(西法寺住職の三女)との間に1896年(明治29年)、長女として生まれた。兄3人、妹3人の7人兄弟姉妹の中で育つ。まもなく父の転勤のため鳥取市に移り、1903年(明治36年)に醇風尋常小学校に入学した。1905年(明治38年)自宅に近い面影尋常高等小学校尋常科三年に編入し、1907年(明治40年)同校尋常科四年を卒業した。そして引き続き高等科に進学し、1909年(明治42年)3月に二年の課程を首席で修了した。
園田 晟之助(そのだ せいのすけ、1895年(明治28年)1… 園田 晟之助(そのだ せいのすけ、1895年(明治28年)12月20日 - 1942年(昭和17年)4月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 兵庫県出身。鳳鳴義塾塾長・園田定太郎の長男として生まれる。鳳鳴中学校(現兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第70連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した。 1925年(大正14年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、陸軍兵器本廠付兼整備局課員、参謀本部付(支那研究員)、整備局課員、軍務局課員を務め、1932年(昭和7年)8月、歩兵少佐に進級し整備局課員・参謀本部員を兼務した。
菅 円吉(かん えんきち、1895年12月20日 - 197… 菅 円吉(かん えんきち、1895年12月20日 - 1972年9月23日)は、日本の神学者、教育者、翻訳家。 立教大学名誉教授、立教大学文学部長、立教学院理事、立教高等女学校(現・立教女学院中学校・高等学校)校長、立教女学院小学校校長、立教女学院院長・理事、世界キリスト教協議会理事長、日本聖公会司祭。 1895年、京都府で生まれた。父の菅寅吉は日本聖公会の聖職者で、岸和田聖保羅教会で牧師を務めた人物である。主教であるチャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)は、寅吉一家と一時期京都で生活を共にしたこともあり、その後も一家と深く親交した。寅吉の3人の子供たちは、洗礼名として長男の円吉から順にウィリアムズ、チャニング、ムーアとそれぞれウィリアムズの名前からとって名づけられ、ウィリアムズも子供たちを可愛がった。
辻 荘一(つじ しょういち、1895年(明治28年)12月2… 辻 荘一(つじ しょういち、1895年(明治28年)12月20日 - 1987年(昭和62年)4月21日 )は、日本の音楽学者。専攻は西洋音楽史。特にキリスト教音楽の歴史。立教大学名誉教授。 1895年、岐阜県生まれ。東京帝国大学文学部で学び、弘田龍太郎、田村寛貞に師事。1920年に同大学を卒業。 1923年(大正12年)、立教大学文学部教授に就任。キリスト教音楽史の講義を担当した。同年立教大学グリークラブを創部した。また、週に1度、母校である東京大学文学部で非常勤講師を務めた。東大での教え子に、音楽学者の皆川達夫がいる。 戦後、日本音楽学会の設立に尽力し、1964年4月から1970年3月には第2代会長も務めた。
関根 久蔵(久藏、せきね きゅうぞう、1894年(明治27年… 関根 久蔵(久藏、せきね きゅうぞう、1894年(明治27年)12月20日 - 1969年(昭和44年)3月29日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)、埼玉県児玉郡金屋村長。 埼玉県児玉郡金屋村(のち児玉郡児玉町、現:本庄市)で生まれる。1913年、群馬県立富岡中学校を卒業し、農業を継いだ。 1920年、金屋村助役に就任し、農業恐慌への対策に取り組む。その後、金屋村信用販売購買組合長、同村産業組合長、同村農業会長、埼玉県信販購利用組合連合会専務理事、同農業会専務理事、同農業共済組合連合会長、同信用農業協同組合連合会長、同養蚕農業協同組合連合会長、全国乾繭組合連合会副会長、全国養蚕農業協同組合連合会長、農林中央金庫評議員などを務めた。
小松 勇次(こまつ ゆうじ、1893年〈明治26年〉12月2… 小松 勇次(こまつ ゆうじ、1893年〈明治26年〉12月20日 - 1962年〈昭和37年〉7月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。熱海市長。 静岡県で小松鹿太郎の長男として生まれる。旧制韮山中(現・静岡県立韮山高等学校)卒。農業・漁業を営み、多賀村議、同村長、熱海市議、静岡県議を経て、1947年の第23回衆議院議員総選挙において静岡2区から民主党公認で立候補して初当選。2期務め、1952年の第25回衆議院議員総選挙で改進党から立候補したが落選した。 その後、1956年に熱海市長となり、1960年にも再選された。観光都市熱海の発展に尽力した。再選から2年後の1962年、在職中に死去した。
上野 敬三(うわの けいぞう、1891年12月20日 - 1… 上野 敬三(うわの けいぞう、1891年12月20日 - 1985年9月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 岩手県雫石町出身。県議・上野広成の三男として生まれる。盛岡中学校を経て、1913年12月、海軍兵学校(41期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。航空術学生として学び、横須賀航空隊付、同教官、「三笠」乗組、佐世保航空隊分隊長、霞ヶ浦航空隊分隊長、同飛行隊長心得、大村航空隊飛行隊長、「鳳翔」航空長、霞ヶ浦航空隊飛行隊長、欧米出張、霞ヶ浦航空隊・「赤城」・「加賀」の各飛行長などを歴任。 さらに、海軍航空本部教育部員、「能登呂」艦長、霞ヶ浦航空隊副長、「蒼龍」艦長、大分航空隊・横須賀航空隊の各司令などを歴任し、1941年10月、海軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた。
松岡 一衛(まつおか かずえ、1891年(明治24年)12月… 松岡 一衛(まつおか かずえ、1891年(明治24年)12月20日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。嘉義市尹、台北市尹、台中州知事。 広島県出身。1916年(大正5年)、中央大学経済科を卒業し、拓殖局雇、同属となった。1919年(大正8年)、高等試験に合格。台中州地方課長・水利課長、台湾総督府中央研究所庶務課長、嘉義市尹、殖産局特産課長・附属茶検査所長・茶業伝習所長等を歴任。1933年(昭和8年)、台北市尹となり、1936年(昭和11年)には台中州知事となった。1939年(昭和14年)には殖産局長に就任し、営林署長、天然瓦斯研究所長を兼ねた。1941年(昭和16年)に退官した。退官後は台湾石炭社長に就く。
柴田 徳次郎(しばた とくじろう、1890年12月20日 -… 柴田 徳次郎(しばた とくじろう、1890年12月20日 - 1973年1月26日)は、日本の右翼で教育者。国士舘創立者。正四位勲二等、瑞宝章受章。経済学博士。
大河原 重信(おおかわら しげのぶ、1890年(明治23年)… 大河原 重信(おおかわら しげのぶ、1890年(明治23年)12月20日 - 没年不詳)は、日本の検事。朝鮮総督府官僚。海軍司政長官。弁護士。 長野県に石田善吉の三男として生まれ、大河原昇五郎の養子となった。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、朝鮮銀行に入ったが翌年に退職した。1919年(大正8年)に司法官試補となり、東京地方裁判所判事、土浦区裁判所検事・水戸地方裁判所検事、八日市場区裁判所検事・千葉地方裁判所検事、東京区裁判所検事・東京地方裁判所検事を歴任。 1930年(昭和5年)、朝鮮総督府道事務官に転じ、咸鏡北道財務部長、黄海道警察部長、全羅南道警察部長、慶尚北道警察部長、咸鏡北道内務部長、忠清南道内務部長、釜山税関長を務めた。
古屋 貞雄(ふるや さだお、1889年(明治22年)12月2… 古屋 貞雄(ふるや さだお、1889年(明治22年)12月20日 - 1976年(昭和51年)1月4日)は、日本の政治家、弁護士、社会運動家。 山梨県東山梨郡七里村下於曽(現・甲州市)出身。1919年、明治大学法科専門部特科卒業。山梨県で小作人組合を組織し、日本農民組合の役員となる。1921年、自由法曹団の弁護士となり、各地の労農運動を支援した。朝鮮や台湾でも弁護士活動を行った。 戦後、自由法曹団、日本社会党に参加。1952年10月、第25回衆議院議員総選挙に山梨県全県区から出馬して当選し、以後第27回総選挙まで連続3回の当選を果たした。 1955年には、古屋を団長とする国会議員訪朝団で北朝鮮を訪問し金日成と会見。
早川 孝太郎(はやかわ こうたろう、1889年(明治22年)… 早川 孝太郎(はやかわ こうたろう、1889年(明治22年)12月20日 - 1956年(昭和31年)12月23日)は、日本の民俗学者・画家。 愛知県南設楽郡長篠村(現・新城市)出身。画家を志して松岡映丘に師事、映丘の兄柳田國男を知り、民俗学者となる。愛知県奥三河の花祭と呼ばれる神楽を調査し、1930年『花祭』を刊行。農山村民俗の実地調査を行った。
吉田 鞆明(よしだ ともあき、1888年(明治21年)12月… 吉田 鞆明(よしだ ともあき、1888年(明治21年)12月20日 – 1955年(昭和30年)9月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。
後藤 隆之助(ごとう りゅうのすけ、1888年12月20日 … 後藤 隆之助(ごとう りゅうのすけ、1888年12月20日 - 1984年8月21日)は、日本の政治活動家。近衛文麿のブレーンとして彼を支え、大政翼賛会の組織局長を務めた。 茨城県出身。千葉県佐原出身ともされる。第一高等学校入学。在籍中、野球害毒論に関連し、新渡戸稲造校長を押川春浪が批判した際、単身押川の自宅を訪れ、謝罪文を書かせたとされる。一高には、6年通い、新渡戸稲造校長の「これ以上留年させても仕方がない。卒業させた方が社会のためになるだろう」との言により卒業したというエピソードがある。豪傑肌の反面、求道的なところがあり、いきなり徳富蘆花を訪れ「人生とはなんだ、教えてくれ」と迫って蘆花を困らせたり、人生の意義が判るまで帰らないと言って、関東一円をぐるぐると彷徨したりした。
柳沢 保承(やなぎさわ やすつぐ、旧字体: 柳澤 保承、18… 柳沢 保承(やなぎさわ やすつぐ、旧字体: 柳澤 保承、1888年〈明治21年〉12月20日 - 1960年〈昭和35年〉10月25日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 伯爵・柳沢保申の長男として生まれ、義兄柳沢保恵の養子となる。養父・保恵の死去に伴い1936年(昭和11年)6月15日、伯爵を襲爵した。 1914年(大正3年)京都帝国大学法科大学を卒業。1921年(大正10年)私立大阪信愛高等女学校講師となる。以後、柳沢統計研究所総裁、日本錫工業取締役会長、太平洋海上火災保険取締役などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
庄野 理一(しょうの りいち、1888年12月20日 - 1… 庄野 理一(しょうの りいち、1888年12月20日 - 1954年5月23日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。香川県出身。 1913年(大正2年)に東京帝国大学独法科を卒業し、すぐに弁護士になった。民事が専門。弁護士をしながら、東邦商事など数社の役員や顧問をし、実業界でも活動した。東京弁護士会会長も務め、戦後は公職資格審査委員会委員長に選出されたりもした。 裁判官任命諮問委員会による諮問の結果、1947年(昭和22年)8月に最高裁判所判事となる。1948年(昭和23年)2月10日、東京帝大出身の弁護士を中心として開かれた会合で、平野事件に関して「牧野英一公職適否審査委員長が西尾末広から50万円を貰い、委員に10万ずつ渡した」旨の発言をした。
山内 亮(やまうち りょう、1886年(明治19年)12月2… 山内 亮(やまうち りょう、1886年(明治19年)12月20日 - 1960年(昭和35年)7月26日)は、日本の政治家。青森県八戸市の5代目市長。終戦直前の1945年8月、米軍による空襲の予告を受けて全市民に総退去を命じた。 戦争末期に青函連絡船を撃沈したハルゼー機動部隊により1945年(昭和20年)7月14日に八戸・三沢が空襲を受け、日東化学工業や尻内駅が被害を受けた。さらに8月5日にB29爆撃機が八戸市に飛来し八戸空襲を予告、8月9日にハルゼー機動部隊により八戸港にいた海防艦・稲木が撃沈された。こうした状況を受け、空襲や艦砲射撃による攻撃を見越し、8月10日に八戸市中心市街地からの総退去命令を決断した。
喜多 誠一(きた せいいち、1886年〈明治19年〉12月2… 喜多 誠一(きた せいいち、1886年〈明治19年〉12月20日 - 1947年〈昭和22年〉8月7日)は、日本の陸軍軍人。陸士19期・陸大31期。最終階級は陸軍大将、栄典は正三位[要出典]勲一等功四級。 滋賀県出身。喜多三郎の子として生まれる。滋賀二中(現・滋賀県立膳所高等学校)を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる。天津駐屯歩兵隊付などを経て、1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業した。 1920年(大正9年)2月、歩兵第68連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員、参謀本部付(支那駐在)、歩兵第19連隊大隊長などを歴任。
橋田 東聲(はしだ とうせい、1886年12月20日 - 1… 橋田 東聲(はしだ とうせい、1886年12月20日 - 1930年12月20日)は、日本の歌人・経済学者。号は東声とも書く。高知県出身。元妻は同じく歌人で、『平城山』の作詞者でもある北見志保子。 高知県中村市(現・四万十市)有岡の農家の二男として生まれる。本名・丑吾。宿毛小学校高等科時代に、一年上の川島朝野(後の北見志保子)と出会う。中村中学時代に短歌をはじめ、雑誌『青年』に投稿。第七高等学校在学中に『明星』の社友となり、与謝野鉄幹に東聲の号を授けられる。級友には中村憲吉、堀内卓造、森園天涙など。東京帝国大学英文科に進学するが、後に経済学科に転科して卒業。東京帝大進学後はいったん作歌から離れ、小説・新劇にも興味を持ち、森田草平と同居をしていた。
石黒 英彦(いしぐろ ひでひこ、1884年12月20日 - … 石黒 英彦(いしぐろ ひでひこ、1884年12月20日 - 1945年6月21日)は、日本の文部・朝鮮総督府・台湾総督府官僚。 広島県出身。石黒清左衛門の五男として生まれる。広島中学、第三高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1911年5月、文部省維新史料編纂事務局書記となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年6月、文部属となり普通学務局に配属。その後、兼内務属・地方局勤務、秋田県理事官、群馬県視学官などを歴任。 1919年8月、朝鮮総督府に転じ江原道第三部長に就任。さらに平安北道第三部長、同警察部長、朝鮮総督府内務局地方課長などを歴任した。
曄道 文芸(てるみち ぶんげい、1884年(明治17年)12… 曄道 文芸(てるみち ぶんげい、1884年(明治17年)12月20日 - 1966年(昭和41年)8月11日)は、日本の法学者。専門は民法。実業家。学位は、法学博士。元京都帝国大学教授。 明治17年(1884年)、石川県能美郡川北町で、静泉寺住職・曄道大圓の長男として生まれる。第四高等学校を経て、明治42年(1909年)、京都帝国大学法学部を首席で卒業。曄道の卒業と同年に東京帝国大学を卒業した鳩山秀夫が、曄道が高等文官試験を受けると聞き付け、首席を取られることを恐れて、自身の高等文官試験受験を取り止めたとの逸話がある。 後に、京都帝国大学助教授、次いで教授を務め、京大民法学の基礎を固めたが、大正9年(1920年)、京大教授を退官、実業界に入った。
富田 松彦(とみた まつひこ、1884年(明治17年)12月… 富田 松彦(とみた まつひこ、1884年(明治17年)12月20日 - 1930年(昭和5年)10月24日)は、日本の大蔵官僚。台湾総督府官僚。 福島県出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。大蔵省理財局銀行課勤務、司税官、亀戸税務署長、広島税務監督局事務官、大蔵事務官、専売局副参事を務めた。1921年(大正10年)、台湾総督府に転じて財務局主計課長となり、1926年(大正15年)に財務局長に就任した。
浜田 勇(はまだ いさむ、1884年12月20日 - 194… 浜田 勇(はまだ いさむ、1884年12月20日 - 1945年1月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1884年(明治17年)12月、高知県安芸郡羽根村(現在の室戸市)に浜田勇次郎の子として生まれた。海南中学を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉任官。 1917年(大正6年)、歩兵大尉になり歩兵第44連隊中隊長に就任。1919年(大正8年)、シベリア出兵に従軍。1929年(昭和4年)、歩兵中佐に進級。1931年(昭和6年)、予備役に編入された。1937年(昭和12年)、日中戦争(日華事変)で召集。1943年(昭和18年)、陸軍大佐に進んだ。
北野 清治(きたの せいじ、1883年〈明治16年〉12月2… 北野 清治(きたの せいじ、1883年〈明治16年〉12月20日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家、貝塚市有功者。貝塚市議会議員。北野織布合名会社代表社員。北野タオル工場工場主。日本浴巾取締役。岸和田タオル商会取締役。族籍は大阪府平民。 大阪府泉南郡麻生郷村大字海塚(現・貝塚市)出身。北野定治郎の長男。兵役満期後は一時祖業の農業を営む。農を廃して商業に転じ、親族関係を有する岡田伊平商店に入り、木綿仲買業に3年従事する。 独立し綿布製織を創める。父が蕩尽した家産は回復し、以前より倍の産を築く。1920年、兼松商店の浴巾製織工場が海塚に建設されると、清治はこれに賛与し自家営業を廃して同会社に投資し、役員選挙の結果、常務取締役の重任に選ばれ、就任する。
大島 破竹郎(おおしま はちくろう、1882年(明治15年)… 大島 破竹郎(おおしま はちくろう、1882年(明治15年)12月20日 - 1953年(昭和28年)6月12日)は、日本の官僚。佐賀県知事、高知県知事、郡山市長を歴任した。 福島県若松町に生まれる。会津中学、一高を経て、1908年(明治42年)東京帝国大学を卒業。同年文官高等試験に合格した。合格者106名中の首席は後藤文夫で、大島の席次は8番である。 大島の官歴は大蔵属に始まる。警視庁方面監察、兵庫県事務官などを経て、1914年(大正3年)以後群馬県警察部、石川県警察部、熊本県警察部、佐賀県警察部で県警察部長を務める。1921年(大正10年)からは、徳島県、朝鮮総督府忠清南道の内務部長を歴任した。
中島 権吉(なかじま ごんきち、1882年(明治15年)12… 中島 権吉(なかじま ごんきち、1882年(明治15年)12月20日 - 1946年(昭和21年)12月22日)は、大日本帝国の軍人である。海軍入隊後、海軍少将まで出世し、その後、海軍大学校の教頭を務めた。岡山県高梁市出身。 1882年(明治15年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市川端町)で中島岩松・嘉代の次男として生まれる。旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高校)を経て、1902年(明治35年)海軍兵学校を優等で卒業し、エリートコースを歩むことになる。日露戦争では、東郷艦隊付けとなり、佐世保海兵団附で津島海峡警備に当たった。 1908年(昭和41年)海軍砲術学校特修科を修了し、1917年(大正6年)に3ヶ月渡米出張した後、大正7年から10年まで(1918~21年)英国に駐在した。
寺師 義信(てらし よしのぶ、1882年(明治15年)12月… 寺師 義信(てらし よしのぶ、1882年(明治15年)12月20日 - 1964年(昭和39年)8月13日)は、日本の医師。陸軍軍医中将。日本初の衛生飛行機を作成したことで知られる。 1882年(明治15年)、士族の漢方医伊東楽之助の次男として鹿児島県日置郡日置村(現日置市日吉町日置)に生まれる。満5歳の時に同じく士族である寺師清の養子となり寺師家を継いだ。寺師家では医師が多数いたため義信も医師に成ることを望まれたが、義信は漢詩や文筆を好み小説家を志向していた。鹿児島一中に進み、在学時に森鷗外の『水沫集』の影響を受け地方新聞に小説の連載を持っていた。実父の楽之助から何としても医者になるよう命じられたため義信は思い悩んでいたが、一中の岩崎行親校長から「鴎外先生は大文豪であると共に優れた医学者だ。
山田 正三(やまだ しょうぞう、1882年〈明治15年〉12… 山田 正三(やまだ しょうぞう、1882年〈明治15年〉12月20日 - 1949年〈昭和24年〉1月6日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。法学博士。京都帝国大学名誉教授。京都帝国大学法学部長。衆議院議員山田喜之助の異母弟。雉本朗造門下。弟子に中田淳一、小野木常など。 大阪府大阪市生まれ。山田八郎兵衛の四男。幼い頃東京市に転住、同地に於て初等教育及び中等教育を終えた。1906年、金沢の第四高等学校を卒業した。1909年、京都帝国大学法科大学独法科を卒業した。大学院に進んだが司法官試補となって1910年7月14日、大学院を退学した。 1911年、兄・喜之助方より分家して一家を創立した。1911年11月10日、京都帝国大学法科大学の講師を嘱託された。
平山 訓子(ひらやま おしえこ、1882年12月20日 - … 平山 訓子(ひらやま おしえこ、1882年12月20日 - 1925年5月1日)は、女性ジャーナリスト、文筆家、歌人、実業家。 本名は平山 訓(ひらやま おしえ)、旧姓蔵原、元和歌山県知事で衆議院議員の蔵原敏捷は実弟である。 熊本県下益城郡小川町(現・宇城市)出身、父・蔵原穆、母・そでの長女として生まれる。 1900年3月、熊本女学校を卒業。翌1901年、徳島県出身(生まれは東京府)の平山八十五郎と結婚、一児をもうけるが、1903年5月、夫八十五郎が米国スタンフォード大学留学中に客死したため、同年9月、幼子を実家に預け、九州日日新聞社(のち、熊本日日新聞社に社名変更)に入社した。熊本の女性記者第一号として活動する。
梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明… 梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明治14年)12月20日 - 1940年(昭和15年)4月10日)は、日本の実業家である。岡山県高梁市出身。 1881年(明治14年)に岡山県上房郡松山村(現:高梁市)の備中松山藩士である高松元貞の五男として生れる。父の元貞は、父の母親の実家である高松家を相続し高松姓となっていた。猶太郎は祖父方の梅野家を相続し、再び名字を梅野へ戻した。梅野はその後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学。 同期には、早稲田大学教授になる横山有策、大日本帝国海軍中将の杉政人、海軍大学校教頭を務めた中島権吉、衆議院議員になる則井万寿雄がいた。
山川 均(やまかわ ひとし、1880年(明治13年)12月2… 山川 均(やまかわ ひとし、1880年(明治13年)12月20日 - 1958年(昭和33年)3月23日)は、日本の社会主義者、社会運動家、思想家、評論家。労農派マルクス主義の指導的理論家であった。山川菊栄は2番目の妻。 岡山県窪屋郡倉敷村字城ノ内に生まれる。小学校時代の友人に大原孫三郎がいた。同志社尋常中学部に学び、柏木義円らから影響を受ける。在学中に教育勅語や教会のキリスト教に対して反感と不信を抱き、同志社教師森田久萬人としばしば論争した。 同志社を中退して上京。1900年(明治33年)、守田有秋らの友人と語らって発行していた雑誌『青年の福音』に掲載した皇太子の結婚事情について書いた論説「人生の大惨劇」が不敬罪に問われ、重禁固刑を受ける。
平ノ石 辰治郎(ひらのいし たつじろう、1880年12月20… 平ノ石 辰治郎(ひらのいし たつじろう、1880年12月20日 - 1925年11月9日)は、現在の福島県いわき市出身で玉垣部屋、尾車部屋、峰崎部屋に所属した元大相撲力士。12代玉垣。本名は緑川 辰次郎。167cm、94kg。最高位は西前頭4枚目。 磐城炭坑で石炭運搬に従事していたが、相撲の強さを見出した上司から勧められて入門。1900年1月、初土俵・序ノ口。三段目に在位していた1905年に、師匠の死によって玉垣部屋が消滅し、それに伴い尾車部屋に移籍し、横綱大砲、大関荒岩の指導を受け、1908年5月十両昇進した。1911年2月新入幕。新入幕までには序ノ口から11年(22場所)かかっており、このうち三段目は4年半(9場所)に及んだ。
渋谷 米太郎(しぶや よねたろう、1877年(明治10年)1… 渋谷 米太郎(しぶや よねたろう、1877年(明治10年)12月20日 - 1971年(昭和46年)9月28日)は、日本の実業家。三菱ふそう自動車初代会長などを務めた。妻・ミサは山口鋭之助の長女。長女・光子は井上薫の妻。 渋谷家は、山形県東田川郡藤島町西川原(現・鶴岡市)の代々地主農であった。米太郎は渋谷五右衛門の4男として生まれる。 1903年(明治36年)、東京帝国大学英法科卒業後、三菱合資会社入社。門司副支店長、香港、神戸各支店長を歴任。 その後、三菱商事に移り、金属部長を経て取締役に選任され、常務に進み、かたわら北洋漁業常務を兼任し、三菱内燃機、三菱航空各常務を務めた。 戦後は、三菱重工業、理研金属各監査役、国際電気通信取締役、三菱ふそう自動車を発足させると初代会長、太平興業相談役、第一貨物顧問を歴任したほか、庄内地方出身者の男子学生寮を運営する荘内館の理事を務めた。
若林 徳懋(わかばやし のりしげ、1874年(明治7年)12… 若林 徳懋(わかばやし のりしげ、1874年(明治7年)12月20日 - 1939年(昭和14年)1月24日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。 島根県周吉郡、のちの中条村、現在の隠岐の島町中央部出身。1896年(明治29年)島根県師範学校を卒業。ほか、明治法律学校、早稲田専門学校に学ぶ。小学校長となったのち農業に転じ、ついで中条村長、村農会長、島根県会議員、同参事会員、西郷町外十一箇村組合議員を歴任。ほか、満韓塩業社員、原田興業社長、同顧問を務めた。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙で島根県第6区から立憲政友会所属で出馬して当選し、1期務めた。のち政友本党所属に転じた。
朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月… 朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月20日 - 1948年(昭和23年)8月10日)は、日本の歴史学者。日本人初のイェール大学教授。 福島県二本松市出身。父は旧二本松藩士朝河正澄、母は旧田野口藩士の長女杉浦ウタ(ウタは貫一が2歳の時に亡くなったため、その後は父正澄と継母エヒに育てられる)。 1874年(明治7年)、父正澄が「伊達郡立子山村小学校」(現福島市立立子山小学校)の校長格として赴任するため、現在の福島県福島市立子山にある天正寺に移住した後、新校舎とともに建設された校長住宅へ移る。天正寺には朝河が4歳の時に描いた馬の絵が現存する。 1878年(明治11年)、立子山小学校初等科に入学後、初等科首席卒業し、飛び級により同校普通科・高等科(3級まで)を修了する。
走り坊主または走り坊さん(はしりぼうず、はしりぼんさん、18… 走り坊主または走り坊さん(はしりぼうず、はしりぼんさん、1872年12月20日〈明治5年11月20日〉 - 1918年〈大正7年〉11月20日)は、日本の僧である。明治・大正時代の京都市中を阿弥陀如来の使いとして一日中走るという奇行で知られた。本名は新田 常治(にった つねじ)、法名を旗 玄教(はた げんきょう)。「走り坊主の常さん」の通称で親しまれた。 師僧は大蓮寺18世芳井教岸大僧正で、旗姓は同師の旧姓。 出身地は、和泉国泉南郡清児村(現・大阪府貝塚市清児)。18歳で京都の大蓮寺に弟子入りする。当時の大蓮寺は、京都市下京区佛具屋町五条通下るの地に在ったが、第二次大戦中の五条通拡幅に伴い、左京区岡崎の地に移転している。
上原 平太郎(うえはら へいたろう、1872年12月20日(… 上原 平太郎(うえはら へいたろう、1872年12月20日(明治5年11月20日)- 1950年(昭和25年)10月8日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。衆議院議員。 香川県香川郡一宮村(現高松市)で上原秀次郎の長男として生まれる。1896年5月27日、陸軍士官学校(7期)を卒業し、1897年1月25日、陸軍歩兵少尉に任官。義和団の乱、日露戦争に出征。陸軍大学校(17期)で学び、1903年11月28日に卒業した。 以後、参謀本部部員、陸軍大学校教官、第4師団参謀、歩兵第62連隊長、第11師団参謀長、陸軍航空部附、航空部員などを歴任。1921年7月20日、陸軍少将に進み近衛歩兵第1旅団長に就任。
山田 三良(やまだ さぶろう、1869年12月20日(明治2… 山田 三良(やまだ さぶろう、1869年12月20日(明治2年11月18日) - 1965年(昭和40年)12月17日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は法学博士。法華会創立者。 1869年、奈良県高市郡越智村(現・高取町)に村長山田平三郎の三男として生まれる。東京専門学校(現早稲田大学)を経て、1896年帝国大学法科大学(現東京大学大学院法学政治学研究科・法学部)卒業。同大学院修了。その後東京帝国大学法科大学助教授に就き、文部省外国留学生としてドイツのハイデルベルク大学、フランスのソルボンヌ大学に3年間留学し国際法を学ぶ。1901年7月19日帰国。 帰国後、東京帝国大学法科大学教授、京城帝国大学総長、東京帝国大学法学部長などをつとめた。
佐藤 達次郎(さとう たつじろう、1868年12月20日(明… 佐藤 達次郎(さとう たつじろう、1868年12月20日(明治元年11月7日) - 1959年(昭和34年)7月20日)は、日本の明治から昭和における外科医。初代東京医学専門学校長・第3代順天堂医院長・初代順天堂医科大学長・女子美術大学理事長を歴任。福井県出身。 1868年(明治元年)11月、若狭国三方郡西郷村(現福井県三方郡美浜町金山)の漢方医河合貞輔の次男として誕生した。1884年(明治17年)、上京して獨逸学協会学校で学び、大学予備門に入学。1887年(明治20年)6月第一高等中学に転入し、1892年(明治25年)東京帝国大学医科大学に入学した。1896年(明治29年)12月同大学を卒業、明治30年度卒業同期生としては後に軍医総監になる佐藤恒丸・京城帝国大学総長となった志賀潔らがいる。
磯村 豊太郎(いそむら とよたろう、1868年12月20日(… 磯村 豊太郎(いそむら とよたろう、1868年12月20日(明治元年11月7日) - 1939年(昭和14年)10月26日)は、明治期の官僚、実業家、貴族院議員。 豊前国中津生まれ。慶應義塾卒業後、後藤新平の紹介で安岡雄吉らと共に1880年(明治13年)、逓信省入り。その後まもなく辞職して日本銀行に転じ、また転じて三井家に入る。益田孝と面会し三井物産に入社。北海道炭礦汽船に移り社長に就任。日本工業倶楽部四代目総裁を務めた。また、1929年(昭和4年)7月1日には貴族院議員に勅選され、研究会に所属して死去するまで在任した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、な… 中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、なかむら これきみ、1867年12月20日〈慶応3年11月25日〉- 1927年〈昭和2年〉3月1日)は、日本の官僚・実業家・政治家である。南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁、鉄道院総裁、東京市長、貴族院議員などを歴任した。 作家・夏目漱石の親友としても知られ、官僚出身らしからぬ豪放磊落な性格で、「べらんめい総裁」「フロックコートを着た猪」「独眼龍」などの異名をとった。 安芸国佐伯郡五日市村(五日市町を経て現:広島県広島市佐伯区)に酒造業・柴野宗八の五男として生まれる。柴野家の墓は現在でも広島市佐伯区五日市の光禅寺にある。兄は大審院検事・鈴木宗言。
竹内 栖鳳(たけうち せいほう、元治元年11月22日〈186… 竹内 栖鳳(たけうち せいほう、元治元年11月22日〈1864年12月20日〉 - 1942年〈昭和17年〉8月23日)は、戦前の日本画家。戦前の京都画壇の中心として多数の弟子を育成し、日本画の近代化に足跡を残した。帝室技芸員。第1回文化勲章受章者。 本名は竹内 恒吉(たけうち こうきち/つねきち)。最初は棲鳳と号した。霞中庵の号もある。 京都府京都市中京区御池通油小路の料理屋「亀政」に生まれる。竹内政七・きぬ夫妻の長男で、きょうだいには姉の琴がいる。「亀政」の常連であった北村甚七という友禅画家が短冊に墨で燕子花を描いたのを幼少期に目にし、心を奪われたという。母は1877年(明治10年)に死去。
遠藤 秀景(えんどう ひでかげ、1854年12月20日(安政… 遠藤 秀景(えんどう ひでかげ、1854年12月20日(安政元年11月1日)- 1911年(明治44年)5月16日)は、明治時代の政治家、漁業家。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。幼名は岩太郎。 加賀藩士で素封家の父、遠藤柳の長男として加賀国河北郡浅野村(石川県河北郡中口村、小坂村を経て現金沢市小橋町および昌永町)に生まれる。幼くして関兵次郎、矢野三内、太田清蔵、秦秀植、南部虎之助などに付き剣術や槍術を学んだ。ついで島田定静の門に入り文学を修め、同門の塾長となった。18歳の時、仏学校に入るが退学し、県立中学に転じた。 1877年(明治10年)西南戦争が勃発すると島田一郎らが西郷隆盛を援けることを主張したが、これに反対した。
大森 治豊(おおもり はるとよ、嘉永5年11月10日(185… 大森 治豊(おおもり はるとよ、嘉永5年11月10日(1852年12月20日) - 1912年2月19日)は日本の外科医、医学博士。日本の腹部外科の開拓者。 1852年(嘉永5年)、上山藩御典医、大森快春の長男として江戸に生まれる。以後、出羽国上山藩に移り、藩校の明新館に入学。 1879年東京大学医学部卒業後、福岡医学校に赴任し、1885年同校校長となる。1885年日本で初めて帝王切開手術に成功し、以来次々に腹部手術を行う。 1903年、福岡医科大学が創設された際に、初代学長兼付属医院長となり、外科学講座をもつ。1909年病気により退官、1911年九州帝国大学名誉教授。 1910年、九州大学医学部に大森の銅像が建てられた。
近藤 廉平(こんどう れんぺい、1848年12月20日(嘉永… 近藤 廉平(こんどう れんぺい、1848年12月20日(嘉永元年11月25日)- 1921年(大正10年)2月9日)は、幕末から大正期の武士(徳島藩士)、実業家、政治家、華族。男爵、日清汽船社長、日本郵船会社第3代社長、貴族院男爵議員。 阿波国麻植郡(のちの鴨島町西麻植江川、現・徳島県吉野川市)の医者の家に生まれる。 1862年(文久2年)に徳島藩中老である仁尾内膳の書生となる。同年、新居水竹の小心塾にて益田永武と共に学ぶ。その後、柴秋邨の思斉塾に転学。当時出会った阿部興人とは終生の親友となる。師であった水竹が庚午事変に関係して切腹を命じられた際は、徳島市の潮見寺に遺髪を葬った。 慶應義塾、大学南校に学び、1872年(明治5年)淡路出身の星合常恕に勧められ岩崎弥太郎が経営する三菱商会に入る。
山本 貴三郎(やまもと きさぶろう、1846年12月20日(… 山本 貴三郎(やまもと きさぶろう、1846年12月20日(弘化3年11月3日)- 1899年(明治32年)12月22日)は、幕末の佐賀藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 肥前国高来郡、のちの長崎県北高来郡諫早町(現諫早市)で生まれた。郷校で学び、その後、熊本に遊学し漢学、武術を修めた。16歳で帰郷し、佐賀藩の選抜生となり長崎の江戸町英学校で学び、さらに何礼之に師事し英学を修めた。 1868年(慶応4年)戊辰戦争が開戦すると、副島種臣らと長崎に赴き、振遠隊として長崎、島原、大村から隊員を募り、その後、秋田に向かい新政府軍に加わった。 その後、官途には就かず天草、肥前松島、平戸などで採炭事業を営む。
香川 敬三(かがわ けいぞう、1839年12月20日〈天保1… 香川 敬三(かがわ けいぞう、1839年12月20日〈天保10年11月15日〉- 1915年〈大正4年〉3月18日)は、江戸末期の水戸藩出身の勤皇志士で、明治から大正期の日本の宮内官僚。位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。東山道軍総督府大軍監・皇后宮大夫・皇太后宮大夫・枢密顧問官などを歴任し、美子皇后(昭憲皇太后)に長きに渡って仕えた。 諱は広安。旧姓は蓮田。幼名は、了介または徳松。旧名、鯉沼 伊織(こいぬま いおり)。変名は、小林彦次郎。明治になり香川広安、のちに敬三に改名。士族だったが、後に華族の子爵、ついで伯爵に列する。生年は1841年(天保12年)という説もある。 下伊勢畑(現在の常陸大宮市)の水戸藩郷士蓮田重右衛門孝定・袖の3男に生まれる。
和泉要助(いずみ ようすけ、文政12年11月25日(1829… 和泉要助(いずみ ようすけ、文政12年11月25日(1829年12月20日) - 明治33年(1900年)9月30日)は明治時代の発明家。人力車の発明者の1人とされる。姓は「長谷川」とも表した。 筑前国鞍手郡中泉村(現・福岡県直方市)生まれ。筑前福岡藩の藩士出水要の養子となり、のち和泉要助と名を改めた。1870年(明治3年)に鈴木徳次郎、高山幸助と人力車の製作を行い、同年3月22日に東京府より製造と営業の許可を得た。翌年、和泉らは人力車総行事に任命されたが、1873(明治6年)の税制整備によって雑税が廃止され、人力車総行事の職は廃止された。第1回内国勧業博覧会で龍紋賞を受章した。 1871年(明治4年)「専売略規則」の制定時や1885年(明治18年)の「専売特許条例」の公布時に専売特許を出願したものの、すでに一般に普及していたことを理由に、人力車は発明品として特許を得ることはできなかった。
丸山 恵理(まるやま えり、12月20日 - )は日本のフリ… 丸山 恵理(まるやま えり、12月20日 - )は日本のフリーアナウンサー。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。
新井田 雅樹(あらいだ まさき、12月20日 - )は日本の… 新井田 雅樹(あらいだ まさき、12月20日 - )は日本の女性声優、ナレーター。北海道出身。シグマ・セブン所属。 1986年東鳩製菓(現・東ハト)主催のキャンペーンガール「東鳩オールレーズンプリンセスコンテスト」でグランプリを受賞(テレビコマーシャルでは平仮名の「あらいだ まさき」として出演)。また、1991年にはミス北海道、1992年にはミス日本コンテスト・ミスフラワーに選ばれた。 以後、主としてナレーションを中心に活躍している。 趣味は映画、音楽鑑賞、料理。