薗田 憲一(そのだ けんいち、本名:市川船昇、1929年11… 薗田 憲一(そのだ けんいち、本名:市川船昇、1929年11月22日 - 2006年7月12日)は、日本のトロンボーン奏者。島根県生まれ、高知県須崎市吾桑出身。 兄は薗田祐司(本名:市川鯉之介)で、薗田憲一とデキシーキングスで結成当初の1960年から2003年の引退までの約43年間、チューバを担当していた。 長女・市川文香改めFUMIKAは新生薗田憲一とデキシーキングスでボーカルを担当、長男・市川勉慶改め薗田勉慶は同バンドでトロンボーンを担当している。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
日比野 光鳳(ひびの こうほう、1928年11月22日 - … 日比野 光鳳(ひびの こうほう、1928年11月22日 - 2023年8月23日)は、日本の書家。勲等は旭日中綬章。水穂会会長、公益社団法人日展顧問、日本芸術院会員、文化功労者。本名は日比野 尚(ひびの ひさし)。 宝酒造株式会社での勤務を経て、同志社大学文学部講師、社団法人日展常務理事などを歴任した。 書家・日比野五鳳の子として京都市に生まれる。幼い頃より書に親しむ。同志社大学経済学部卒業、1953年宝酒造に勤務、1965年まで勤める。同志社大学文学部講師、京都新聞書き初め書道展審査委員長、京都市展審査員などを歴任。1987年日本美術展覧会(日展)会員賞。1992年京都府文化賞功労賞。1994年京都市文化功労者。
北島 忠男(きたじま ただお、1928年11月22日 - 2… 北島 忠男(きたじま ただお、1928年11月22日 - 2009年)は、日本の経営学者。 埼玉県生まれ。明治大学商学部卒、1957年同大学院商学研究科博士課程満期退学。1966年「株式所有権の分散と集中に関する研究」で明大商学博士。明治大学商学部講師、助教授、教授。1999年定年、名誉教授。アジア市場経済学会初代会長。
野口 祐(のぐち たすく、1926年11月22日 - 201… 野口 祐(のぐち たすく、1926年11月22日 - 2016年5月7日)は、日本の経営学者。学位は、経済学博士(1966年)。慶應義塾大学名誉教授。 栃木県生まれ。1950年慶應義塾大学経済学部卒、1966年「生産管理の経営学」で経済学博士の学位を取得。1951年慶大経済学部副手、1955年助手、1958年慶應義塾大学商学部助教授、1964年同教授。1992年定年、名誉教授、日本大学教授、創価大学経営学部教授。2001年退任。日本経営学会理事長、日本学術会議会員、ベルリン自由大学客員教授、パリ大学客員教授。 戦前の三井財閥などの財閥研究、金融史(銀行史)、人事労務管理論、経営管理論、組織論、企業経営分野において業績を残す。
大塚 初重(おおつか はつしげ、1926年(大正15年)11… 大塚 初重(おおつか はつしげ、1926年(大正15年)11月22日 - )は、日本の考古学者。明治大学名誉教授。主として弥生時代と古墳時代を研究領域としている。
中島 一(なかじま はじむ、1925年(大正14年)11月2… 中島 一(なかじま はじむ、1925年(大正14年)11月22日 - 2012年(平成24年)6月11日)は、日本の政治家。彦根市長(3期)。 滋賀県守山市出身。旧制名古屋工業専門学校(現・名古屋工業大学)建築科卒業。旧建設省技官、滋賀県庁を経て、愛知工業大学教授に就任。 1993年(平成5年)に彦根市長選挙に立候補して、現職の獅山向洋、共産党の新人を破って初当選。 ※当日有権者数:72,781人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 市長選に立候補して、無所属の新人、元職となった獅山、共産党の新人を破って再選を果たした。 ※当日有権者数:77,223人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 市長選に立候補して、大久保貴ら無所属新人2人と共産党の新人1人を破って3選を果たした。
飯田 喜四郎(いいだ きしろう、1924年11月22日 - … 飯田 喜四郎(いいだ きしろう、1924年11月22日 - 2025年1月4日)は、日本の建築史家。専攻は、フランス建築史(中世ゴシック建築)・建築保存修復学。工学博士。名古屋大学名誉教授。博物館明治村館長、財団法人明治村副理事長。NPO法人歴史建築保存再生研究所理事。 日本における西洋建築史学の研究者としての著作、翻訳が多数あるほか、新宿御苑御休所、原爆ドーム等多くの保存修復事業の委員長を歴任した。 現在の東京都新宿区生まれ。松本高等学校理科甲類、東京大学第二工学部建築学科卒業。1953年から1956年にフランス留学、フランス文部省文化財保護事業部主任建築家事務所にて研鑽を積む。帰国後、宮内庁管理部勤務を経て、1963年、名古屋大学工学部助教授。
青田 昇(あおた のぼる、1924年11月22日 - 199… 青田 昇(あおた のぼる、1924年11月22日 - 1997年11月4日)は、兵庫県三木市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。愛称は「ジャジャ馬」。2009年、野球殿堂入り。
岸 朝子(きし あさこ、1923年11月22日 - 2015… 岸 朝子(きし あさこ、1923年11月22日 - 2015年9月22日)は、日本の料理記者、食生活ジャーナリスト。旧姓は宮城(みやぎ)。 沖縄出身の両親のもと、東京で生まれる。父親はアメリカで苦学して養殖業を学び、カナダと日本で牡蠣養殖を成功させた人物。女子栄養学園卒の友人がつくったロールサンドの味に魅了され料理に興味を持つ。永田町小学校(現:麹町小学校)から東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)に転入し卒業。東京府立第三高等女学校(現:東京都立駒場高等学校)を経て、1942年、女子栄養学園(現:日本栄養大学)卒業。東大農学部勤務後、21歳で軍人と見合い結婚し、1947年から夫婦で千葉県でカキの養殖業を手がける。
乗富 一雄(のりとみ かずお、1923年(大正12年)11月… 乗富 一雄(のりとみ かずお、1923年(大正12年)11月22日 - 2011年(平成23年)6月27日)は、日本の地震学の研究者・教育者。元日本地震学会・物理探査学会会長、九州大学・秋田大学・東北大学・東京大学地震研究所・工業技術院地質調査所(現・産業技術総合研究所)教授等を歴任。 1923年(大正12年)11月22日、福岡県に生まれ。福岡縣中學傳習館(現・福岡県立伝習館高等学校)を経て、興亜工業大学(現・千葉工業大学)に進学し、その後、東北大学で地球物理学について学ぶ。1949年(昭和24年)には同大助手となり、1956年(昭和31年)には秋田大学鉱山学部助教授に任官。1968年(昭和43年)の十勝沖地震や1983年(昭和58年)の日本海中部地震の時には地震調査を主導した。
大江戸 勇二(おおえど ゆうじ、1923年11月22日 - … 大江戸 勇二(おおえど ゆうじ、1923年11月22日 - 1996年1月4日)は、東京都江東区出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は小林 勇(こばやし いさむ)。身長173cm、体重81kg。得意手は左四つ、上手投げ。最高位は西前頭16枚目(1949年10月場所)。 1939年5月場所初土俵。同部屋の栃錦とは共に小柄ということで仲がよく、2人で出世を競い合った。栃錦や常ノ山と2人で初っ切りをしたこともある。ある時に栃錦に「お前が一流の力士になったら東京中を逆立ちして歩いてやる」と賭けをして、横綱へ昇進した栃錦から当時の賭けの話を言われて苦笑したことがある。1948年5月場所新十両、十両は3場所で突破し、1949年5月場所で新入幕を果たした。
須貝 富安(すがい とみやす、1922年〈大正11年〉11月… 須貝 富安(すがい とみやす、1922年〈大正11年〉11月22日 - 2015年〈平成27年〉)は、日本の実業家。スガイ・エンタテインメント社長、会長。父は須貝興行創始者の須貝富蔵。 1922年(大正11年)11月22日、北海道札幌市の須貝富蔵とシゲの間に次男として生まれる。父は1899年(明治32年)に北海道に渡り博徒となった人物で、樺太で漁業に携わった後、1909-1910年頃に一丁一家の二代目を襲名。1910年(明治43年)に先代の親分である高橋直吉より小林館を譲り受け、1918年(大正7年)札幌館として開館させた。富安は戦時中の1944年(昭和19年)に早稲田大学商学部を卒業し、大日本帝国海軍の志願兵となったが、1945年(昭和20年)に太平洋戦争終戦を迎えた。
はた たかし(1921年(大正10年)11月22日 - 20… はた たかし(1921年(大正10年)11月22日 - 2013年(平成25年)8月11日)は、日本の児童文学作家。元桃山学院短期大学教授。本名は秦敬。 愛媛県新居郡大町村(現西条市)に生まれる。名教中学校(現・東海大学付属浦安高等学校)卒業。早稲田大学専門部を中退し、1945年(昭和20年)に法政大学高等師範部国語漢文科を卒業する。1946年(昭和21年)に西条高等実践女学校教諭となり、1947年(昭和22年)より西条市内で小・中学校で教師を務める。教師定年退職ののち、1981年(昭和56年)桃山学院短期大学教授(1992年1月まで)に就任する。一方、児童文学作家として作品を発表し、同人誌「ぷりずむ」を主宰するなど、愛媛県の児童文学活動で指導的役割を担った。
佐々木 倫生(ささき りんしょう、1921年11月22日 -… 佐々木 倫生(ささき りんしょう、1921年11月22日 - 1996年5月28日)は、日本の哲学者。京都女子大学名誉教授。元京都女子大学学長、鳥取女子短期大学学長。 福岡県築上郡吉富町出身。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
市原 麟一郎(いちはら りんいちろう、1921年11月22日… 市原 麟一郎(いちはら りんいちろう、1921年11月22日 - 2023年9月24日)は、日本の民話研究家、児童文学作家。 土佐民話の会主宰、文学館・語りと紙芝居の会代表。 高知県出身。日本大学高等師範部地歴科を卒業。 高知県の民話の採話と記録に努め、月刊『土佐の民話』を発行する傍ら、民話を子どもたちに語り継ぐため、手づくり紙芝居をもって、県内各地の保育・幼稚園、小学校、図書館などへの巡回公演を行った。また小学生、一般対象に紙芝居講座(演じ方、作り方)の講師を務めた。1987年、民話の発掘と伝承の仕事により高知県文化賞を受賞。 2023年9月24日、老衰のため死去、101歳。
三ッ林 弥太郎(三ッ林 彌太郎、みつばやし やたろう、191… 三ッ林 弥太郎(三ッ林 彌太郎、みつばやし やたろう、1918年〈大正7年〉11月22日 - 2003年〈平成15年〉8月18日)は、日本の政治家。位階は正三位。自由民主党所属の衆議院議員(10期)。 科学技術庁長官(第3次中曽根内閣)を務めた。 埼玉県北葛飾郡行幸村千塚(のち幸手町、現・幸手市)、三ッ林幸三の長男として生まれる。埼玉県立杉戸農業学校、埼玉青年師範学校(現・埼玉大学教育学部)卒業。奉天予備士官学校卒業。 青年学校教諭兼小学訓導、埼玉県農業会勤務を経て1948年に埼玉県指導農協連北葛飾支所経営課長となり1951年以来4回県議に当選。 自民党県連副幹事長を務め1960年に県議会副議長、1964年に議長に選ばれる。
小林 ちづ(こばやし ちづ、1918年(大正7年)11月22… 小林 ちづ(こばやし ちづ、1918年(大正7年)11月22日 - 平成時代まで存命。没年は不明)は、日本社会党衆議院議員。衆議院議員(1期)当選1回。小林正美(日本社会党衆議院議員)の未亡人。三重県では数少ない女性議員であった。 福岡県戸畑市生まれ。1936年(昭和11年)に、奈良県育英高等女学校を卒業した。その後に衆議院議員となる小林正美と結婚をして、職業は議員秘書を務めた。 1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙では同じ選挙区から複数候補者を樹立する日本社会党執行部の方針で三重1区から日本社会党の2人目の公認候補として、小林ちづの夫の小林正美も出馬したが、亀山市を境界として、四日市市を中心とする北部地域は新人の四日市市出身の小林正美候補の地盤で、伊賀や津市などの南部地域は現職の中井徳次郎候補の地盤とする地盤割りが成功して小林正美・中井徳次郎の2人共が当選した。
吉川 政己(よしかわ まさき、1918年11月22日 - 2… 吉川 政己(よしかわ まさき、1918年11月22日 - 2002年2月6日)は、日本の医学者、老人医学が専門。 東京出身。父は実業家の吉川長三郎。岳父は日産の浅原源七。東京帝国大学医学部卒。1949年医学博士、東京大学医学部教授(冲中重雄の後任)。1975年から1976年にかけて医学部長。1979年定年退官、名誉教授、東京警察病院。息子は吉川洋・東大教授。
二宮 洋一(にのみや ひろかず、1917年11月22日 - … 二宮 洋一(にのみや ひろかず、1917年11月22日 - 2000年3月7日)は、兵庫県出身のサッカー選手、サッカー指導者。第二次世界大戦後初のサッカー日本代表監督を務めた。現役時代のポジションはフォワード。 兵庫県御影師範学校付属小学校を経て、1934年に旧制第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)を卒業し、慶應義塾大学予科に進学。予科時代より慶應義塾体育会ソッカー部に入部して、予科1年より関東大学リーグに出場した。1938年より慶應義塾大学法学部政治学科に進学。1941年の大学卒業まで慶應義塾ソッカー部および慶應BRBの選手として、全日本選手権大会(現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会)で、4度の優勝(1936年、1937年、1939年、1940年)を経験した。
武藤 英司(むとう えいじ、1917年11月22日 - 19… 武藤 英司(むとう えいじ、1917年11月22日 - 1999年1月5日)は、日本の俳優である。本名:武藤 栄治(読みは同じ)。岐阜県武儀郡美濃町(現:美濃市)出身。
菊地 又男(きくち またお、1916年〈大正5年〉11月22… 菊地 又男(きくち またお、1916年〈大正5年〉11月22日 - 2001年〈平成13年〉7月1日)は、日本の画家。北海道札幌市出身。北海道美術界の重鎮、抽象絵画の牽引者とされ、反骨精神に富んだ姿勢から「反骨の画家」とも呼ばれた。 画家である兄の菊地精二に、絵を教わった。旧制北海中学校(後の北海高等学校)在学中の1933年(昭和8年)、16歳で道展に初入選した。当初は独立展に出展していたが、その後、自由美術展に移った。北海中学を卒業後は北海道庁に勤務したが、戦中の1938年(昭和13年)に兵役につき、中国に渡った。2年後の1940年(昭和15年)に帰国、北海中学の美術教師となり、教職の傍らで美術展への出展を続けた。
見川 鯛山(みかわ たいざん、1916年11月22日 - 2… 見川 鯛山(みかわ たいざん、1916年11月22日 - 2005年8月5日)は、日本の医師、作家。本名は見川 泰山。栃木県安蘇郡植野村(現・佐野市)出身。 昭和医学専門学校卒業後、栃木県那須郡那須村(現・那須町)に見川医院を開設、60年以上にわたって地域医療に従事する傍ら、那須の風土に根ざした短編小説や随筆を14冊執筆した。製薬会社のPR誌に連載した作品などをまとめた「山医者シリーズ」が有名。獅子文六に師事した。 2男2女の4人の子供がおり、長男は見川医院の院長を引き継いでいる。次女はイラストレーターの米倉万美で、2004年7月に地元佐野市のギャラリー酒蔵楽で「見川鯛山&米倉万美父娘展」を開催した。
戸田 藤一郎(とだ とういちろう、1914年11月22日 -… 戸田 藤一郎(とだ とういちろう、1914年11月22日 - 1984年7月11日)は、兵庫県神戸市出身の元プロゴルファー。本名「阪野 藤一郎」。 戦前、戦後を通じ「トイチ」のニックネームで天才プロと謳われた。 実家の近くに日本で2番目に出来たゴルフコース「横屋ゴルフ・アソシエーション」があり、近所に住んでいた日本プロ第1号の福井覚治にゴルフを教えてもらった。小学生の時からキャディを始め、客のプレーを盗み見しながらゴルフを覚える。 1933年に出来たばかりの廣野ゴルフ倶楽部にプロ助手として入社し、この頃は200ヤード先にある松を目標に、毎日何百発、何千発とアイアンで打ち込み、ついに松を枯らしてしまったことがあった。
若松 栄一(わかまつ えいいち、1914年〈大正3年〉11月… 若松 栄一(わかまつ えいいち、1914年〈大正3年〉11月22日 - 1987年〈昭和62年〉9月13日)は、日本の厚生技官、医師。医学博士。元厚生省医務局長、国立身体障害者リハビリテーションセンター初代総長。日本公衆衛生学会名誉会員。 新潟県新潟市東堀通13番町(現 新潟市中央区東堀通13番町)の新潟県農工銀行職員・若松重太郎の次男として出生。 1931年(昭和6年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1934年(昭和9年)3月に新潟高等学校を卒業、1938年(昭和13年)3月に新潟医科大学を卒業。 1938年(昭和13年)4月に新潟医科大学病理学教室(教授:赤崎兼義)副手に就任、1940年(昭和15年)7月に助手に就任。
斎藤 英四郎(さいとう えいしろう、1911年11月22日 … 斎藤 英四郎(さいとう えいしろう、1911年11月22日 - 2002年4月22日)は、日本の実業家。新日本製鐵(新日鉄、現・日本製鉄)の元社長。経済団体連合会(経団連)第6代会長。 新潟県北蒲原郡安田町(現・阿賀野市)出身。新潟中学校、旧制新潟高等学校を卒業。東京帝国大学法学部(東京大学)の入試に失敗、神戸商業大学に入学するも、翌年、東京帝大経済学部に入学。 経済学部を卒業後、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)入社。のち、日本製鐵に移り、八幡製鐵専務、新日鉄専務、副社長などを経て社長。2002年4月22日、心不全のため死去。90歳没。 2002年の死去に伴う遺産相続において、長男(当時、新日本製鉄常務)が相続財産の一部である約16億3000万円を申告せず、相続税約9億8000万円を脱税したとして、2005年8月に相続税法違反の罪で在宅起訴された。
西川 英夫(にしかわ ひでお、1911年11月22日- 20… 西川 英夫(にしかわ ひでお、1911年11月22日- 2000年11月12日 )は、日本の経営者、不動産鑑定士。東京建物社長、会長を務めた。 大阪府出身。1934年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に東京建物に入社した。1957年8月に取締役に就任し、1961年1月に常務、1972年8月に専務を経て、1975年6月に社長に就任。1979年3月に会長に就任し、1989年3月には取締役相談役に就任。 1980年11月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2000年11月12日、脳梗塞のために死去。88歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
江下武二(えした たけじ、1910年(明治43年)11月22… 江下武二(えした たけじ、1910年(明治43年)11月22日 - 1932年(昭和7年)2月22日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は工兵伍長。佐賀県神埼郡蓮池村(現:佐賀市蓮池町)大字古賀1010番地あるいは佐賀県杵島郡大町村大字福母杵島炭砿126舎出身で爆弾三勇士の一人。 親の事業の失敗から佐賀県東松浦郡相知村(現・唐津市相知町)字久保や小城郡の別府、杵島郡の福母に転住。炭鉱を転々とし、少年期から杵島炭鉱で働く。父も兄二人も久留米歩兵連隊に入営した軍人一家で武二は海軍志望だったが、1931年(昭和6年)、父兄と同様に久留米工兵第18連隊に入営。翌年には混成旅団工兵中隊に編入され、陸軍一等兵として第一次上海事変に出征。
梅澤 純夫(うめざわ すみお、1909年11月22日 - 2… 梅澤 純夫(うめざわ すみお、1909年11月22日 - 2000年3月30日)は、日本の有機合成化学者。専門は抗生物質。慶應義塾大学名誉教授。 東京都生まれ。旧制武蔵高等学校を経て、北海道帝国大学理学部卒業。北海道帝国大学助教授、藤原工業大学助教授を経て、1944年慶應義塾大学工学部(現理工学部)教授となる。 1944年「ペニシリン委員会」のメンバーとして、次弟の梅澤濱夫博士と共同で研究にあたり、日本初のペニシリン採取に成功。ペニシリン、ストレプトマイシン等の抗生物質の研究で世界的に知られる。また、梅澤濱夫らが発見した国産初の本格的抗生物質カナマイシンの化学構造の決定に寄与した。世界に先駆け、ストレプトマイシン(1974年)その他の数多くの抗生物質の全合成を達成し、日本の有機合成化学、抗生物質の研究をリードした。
村井 資長(むらい すけなが、1909年(明治42年)11月… 村井 資長(むらい すけなが、1909年(明治42年)11月22日 - 2006年(平成18年)3月31日)は日本の工学者、早稲田大学名誉教授、日本カナダ教育文化交流財団理事長。早稲田大学第10代総長、早稲田奉仕園第6代理事長、恵泉女学園大学初代学長。キリスト教プロテスタントである。次男村井吉敬は早稲田大学客員教授を務めた。旧姓日野西。 北海道茅部郡石倉村(現森町)濁川の広大な日野西牧場で農場を経営していた日野西長輝(日野西光善三男)の三男として生まれた。日野西家は京都の堂上華族。1916年に父親が日本統治下の朝鮮・慶尚南道の村井進永農場の農場長に就任したため翌年から一年間、現地の内地人用小学校に通う。
遠山 喜一郎(とおやま きいちろう、1909年(明治42年)… 遠山 喜一郎(とおやま きいちろう、1909年(明治42年)11月22日 - 1999年(平成11年)9月15日)は、元体操選手。ラジオ体操を考案した人物のひとり。位階は正四位。 茨城県多賀郡日立村(現・日立市)出身。東京高等師範学校を卒業し、熊本師範学校教諭となる。教諭時代に1936年ベルリンオリンピックに出場。 1954年(昭和29年)世界選手権の日本代表団監督、1956年メルボルンオリンピック体操国際審判員などを歴任したのち千葉大学教授となり、1975年(昭和50年)に退官する。退官後は東京女子体育大学教授に転じ1982年(昭和57年)まで務めた。ほか、日本体操協会副会長なども務めた。1999年死去。
梅澤 純夫(うめざわ すみお、1908年11月22日 - 2… 梅澤 純夫(うめざわ すみお、1908年11月22日 - 2000年3月30日)は、日本の有機合成化学者。専門は抗生物質。慶應義塾大学名誉教授。
岡田 武彦(おかだ たけひこ、1908年(明治41年)11月… 岡田 武彦(おかだ たけひこ、1908年(明治41年)11月22日 - 2004年(平成16年)10月17日)は、日本の哲学者・著述家。 兵庫県飾磨郡白浜村字中村(白浜町を経て、現在の姫路市白浜町)で生まれる。姫路高等学校を経て、1934年(昭和9年)九州帝国大学法文学部支那哲学史専攻(当時)を卒業した。富山県立神通中学校(現在の富山県立富山中部高等学校)教諭を務め、1938年(昭和13年)に宮崎県立延岡中学校(現在の宮崎県立延岡高等学校)教諭、1939年(昭和14年)に福岡県立中学修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)教諭を務めた。1943年(昭和18年)に長崎師範専門学校(現在の長崎大学教育学部)教諭、1945年(昭和20年)に熊本陸軍幼年学校教官、1946年(昭和21年)に福岡県立修猷館高等学校教諭を務めた。
内野 壮児(うちの そうじ、1908年11月22日 - 19… 内野 壮児(うちの そうじ、1908年11月22日 - 1980年12月26日)は、昭和時代の社会運動家。労働運動研究所代表理事。日本共産党中央委員候補。 長崎県下県郡鶏知町(現対馬市)に生まれる。1928年旧制第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部に入学。入学と同時に新人会に加入、柳島のセツルメント労働学校を運営。同年9月検挙され、東大を中退。1929年日本労働組合全国協議会(全協)関東金属労働組合大崎支部書記を経て同本部常任委員となり、以降オルグ活動に従事。1930年6月全協本部を批判して全協刷新同盟(刷同)の結成に参加、同年10月プロフィンテルンの決議により刷同を解散。1933年全協日本金属労働組合に復帰。
赤松 照彦(あかまつ てるひこ、1907年(明治40年)11… 赤松 照彦(あかまつ てるひこ、1907年(明治40年)11月22日 - 1994年(平成6年)12月21日)は、日本の政治家。初代磐田市長。第2代磐田東高等学校理事長・校長。 静岡県出身。男爵赤松範一の長男として生まれる。祖父は元幕臣赤松則良。1934年(昭和9年)京都帝国大学経済学部を卒業後、陸軍に入る。中尉、大尉に進む。除隊後、満洲パルプに勤務。 その後、1947年(昭和22年)株式会社万年社社長となる。同年4月に磐田町長に当選。翌年、磐田町の市制施行により、初代磐田市長(在任期間(1948年(昭和23年) - 1963年(昭和38年))に就任し、磐田町長時代も含めて4期16年にわたり地域の発展に貢献し、戦後の磐田市の復興を牽引した。
井上 達雄(いのうえ たつお、1907年11月22日-199… 井上 達雄(いのうえ たつお、1907年11月22日-1995年4月24日)は、日本の会計学者・商学者。公認会計士。専門は簿記・会計学。学位は、商学博士(中央大学・1961年)(学位論文「原価会計論」) 。恩師は、黒澤清・太田哲三。元中央大学学長。大分県津久見市出身。 1932年中央大学商学部卒業。1934年中央大学大学院商学研究科(旧制)修了。中央大学商学部専任講師。1944年海軍省経理局主計官。1945年復員。中央大学商学部教授。1949年公認会計士試験合格。1958年中央大学評議員。1959年中央大学商学部長(~1968年)。1961年中央大学大学院商学研究科長(~1965年)。1963年中央大学経理研究所所長(~1977年)。
前田 陳爾(まえだ のぶあき、1907年〈明治40年〉11月… 前田 陳爾(まえだ のぶあき、1907年〈明治40年〉11月22日 - 1975年〈昭和50年〉7月3日)は、囲碁の棋士。兵庫県出身、日本棋院所属、九段、本因坊秀哉門下。詰碁創作の大家として知られ、「詰碁の神様」と称される。1947年囲碁新社結成。棋風は接近戦を得意とする力戦型で「攻めの前田」とも言われる。第1期王座戦準優勝、第1期最高位戦リーグ3位など。随筆での毒舌でも知られた。 兵庫県揖保郡新宮町(現たつの市)に生まれる。10歳頃に囲碁を始め、1920年に神戸に在住していた鳥居鍋次郎三段に師事、続いて久保松勝喜代五段に入門。1922年に久保松の推薦により、上京して本因坊秀哉の内弟子となる。中央棋院及び若手棋士の研究会である六華会に所属。
丹羽 文雄(にわ ふみお、1904年〈明治37年〉11月22… 丹羽 文雄(にわ ふみお、1904年〈明治37年〉11月22日 - 2005年〈平成17年〉4月20日)は、日本の小説家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階は従三位。 三重県出身。複雑な生い立ちに立脚した私小説風作品や宗教的作品、マダム物をはじめとする風俗小説、戦争物などを独自のリアリズムで旺盛に執筆し、多数の読者と高い評価を得た。昭和を代表する作家の一人である。また、文壇の大御所的存在であり、各種文学賞の選考委員や、日本文芸家協会会長・理事長などを歴任したほか、「文学者」を主宰して後進の育成にも尽力した。中村光夫と風俗小説論争を展開したことでも知られる。 三重県四日市市北浜田にある真宗専修寺高田派の崇顕寺(現存する。
三村 征雄(みむら ゆきお、1904年11月22日 - 19… 三村 征雄(みむら ゆきお、1904年11月22日 - 1984年10月16日)は、日本の数学者。
吉村 成一(よしむら せいいち 1904年11月22日 - … 吉村 成一(よしむら せいいち 1904年11月22日 - 1962年8月18日)は、東京府出身の元大蔵官僚。元横浜銀行頭取。
志茂 源吉(しも げんきち、1903年 <明治36年> 11… 志茂 源吉(しも げんきち、1903年 <明治36年> 11月22日 - 1994年 <平成6年> 2月10日)は、日本の経営者、銀行家。奈良県出身。位階は従五位。 1928年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に日本銀行に入行。 華興商業銀行、東洋水産での勤務を経て、1951年8月には七福相互無尽(のちの阪神相互銀行)社長に就任。1973年5月に会長、1975年5月に取締役相談役を経て、1979年11¥2月には相談役に就任。 1968年9月に黄綬褒章を受章し、1974年11月に勲四等瑞宝章を受章を受章。 1994年2月10日老衰のために死去。90歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
岩片 秀雄(いわかた ひでお、1903年(明治36年)11月… 岩片 秀雄(いわかた ひでお、1903年(明治36年)11月22日 - 1970年(昭和45年)6月11日)は、昭和時代の電気工学者、通信技術者。 東京に生まれる。1927年(昭和2年)早稲田大学電気科を卒業後、1931年(昭和6年)早稲田大学助教授、1943年(昭和18年)教授となる。1942年(昭和17年)工学博士。早稲田大学では電気通信工学科主任教授を務めた。ほか、電気通信学会副会長、東京支部長などを歴任した。著書に『電磁界及空中線』、『無線工学原論』など。 戦前は主にアンテナおよびマイクロ波伝送回路について研究し、その応用研究の成果は軍用レーダーの開発に生かされた。戦後はファラデー効果をマイクロ波で実現する研究を行い、マイクロ波用の高性能フェライト材料を試作・開発。
佐藤 井岐雄(さとう いきお、1902年〈明治35年〉11月… 佐藤 井岐雄(さとう いきお、1902年〈明治35年〉11月22日 - 1945年〈昭和20年〉8月11日)は日本の生物学者。サンショウウオを中心とする両生類研究の世界的権威であった。 岐阜県郡上郡奥明方村(現・郡上市)に生まれる。命名の由来は、父の出身地・岐阜県の「岐」と母の出身地福井県の「井」にちなむ。 奈良県の中学を卒業したのち広島高師に入学し長野県の自然誌を研究[要出典]、高師卒業後は長野県で中学校教諭として勤務した。その後旧制広島文理科大学(現在の広島大学)に入学、阿部余四男教授に師事した(のち佐藤は自分が確認した新種のサンショウウオに命名する際、恩師の名にちなみ「アベサンショウウオ」とした)。
荒牧 寅雄(あらまき とらお、1902年11月22日 - 1… 荒牧 寅雄(あらまき とらお、1902年11月22日 - 1994年8月8日)は、日本の自動車技術者、実業家。いすゞ自動車社長や、同社会長、自動車技術会会長、日本兵器工業会会長などを務めた、正四位勲二等瑞宝章。 福岡県田川郡糸田町出身。1926年横浜高等工業学校(現横浜国立大学理工学部)機械工学科卒業、東京帝国大学工学部助手。1928年東京石川島造船所入社、自動車部。1937年東京自動車工業鶴見製造所設計課長。1944年ヂーゼル自動車工業技術部次長。1946年同社取締役。1952年いすゞ自動車常務取締役。1962年同社専務取締役、自動車技術会会長。1966年藍綬褒章受章。同年からいすゞ自動車取締役副社長を務め、1970年からは代表取締役社長としてゼネラルモーターズとの提携を行った。
佐伯 孝夫(さえき たかお、1902年11月22日 - 19… 佐伯 孝夫(さえき たかお、1902年11月22日 - 1981年3月18日)は、日本の作詞家。 東京市出身。本名、和泉 孝夫(いずみ たかお)。 早稲田大学文学部仏文科卒業。在学中西條八十に師事し、その主宰する雑誌『白孔雀』『愛誦』に詩を発表していた。1931年に国民新聞社(現:東京新聞社)入社、1937年には東京日日新聞(現:毎日新聞社)へと移る。1939年、ビクターレコード専属作詞家となる。西條八十門下生の1人。 戦前は、佐々木俊一と組み、多くを小畑実や灰田勝彦に作品を提供。戦後は、作曲家・吉田正とコンビを組み、『有楽町で逢いましょう』、『東京ナイト・クラブ』、『潮来笠』、『いつでも夢を』(第4回日本レコード大賞受賞曲)、『恋をするなら』など数々のヒット曲を生み出した。
三木 瀧蔵(滝藏、みき たきぞう、1899年〈明治32年〉1… 三木 瀧蔵(滝藏、みき たきぞう、1899年〈明治32年〉11月22日 - 1981年〈昭和56年〉4月10日)は、日本の実業家。三共生興株式会社創業者で、神戸生絲取引所理事長など歴任した経済人。また、公益財団法人三木瀧蔵奨学財団(旧:財団法人三木記念会)を設立した、独自の「推譲の心」を持つ社会貢献者。 位階は正四位。 生家は兵庫県城崎郡港村津居山(現在の豊岡市)で代々栄えた主に生糸、絹織物を扱う廻船問屋。鉄道による代替で家業が傾き、学校で首席を通したにもかかわらず旧制中学校への進学かなわず、1913年(大正2年)高島屋飯田に入社、働きながら大倉商業学校(現東京経済大学)の夜間部に通い、1920年(大正9年)に独立して横浜で輸出織物商三木商店を創業、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災ですべてを失うが、同年9月30日神戸で匿名組合三共商会として再起、繊維製品を取り扱い、1938年(昭和13年)には株式会社に改組、1944年(昭和19年)には三共生興株式会社と改称、1981年(昭和56年)4月10日病身を厭うことなく自民党蚕糸絹業対策特別委員会に神戸生絲取引所理事長として出席し、国際情勢に後れをとる蚕糸行政に対し「経済原則に反する政策は必ずつぶれる、今や破壊の時になった。
中野 敏雄(なかの としお、1898年(明治31年)11月2… 中野 敏雄(なかの としお、1898年(明治31年)11月22日 - 1999年(平成11年)11月1日)は、昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、初代佐賀県武雄市長。 佐賀県杵島郡武雄町(現武雄市武雄町)で、温泉旅館・春慶屋経営、中野祐市、いち夫妻の長男として生まれる。1916年(大正5年)慶應義塾大学部理財科に入学したが、志望校ではなかったため両親に内緒で旧制高等学校を受験して合格し、親の許しを受けて1918年(大正7年)4月、第七高等学校造士館に入学。1921年(大正10年)3月、七高を卒業し、同年4月、東京帝国大学文学部社会学科に入学。1925年(大正14年)同大文学部を卒業したが、不況の最中での卒業であったため、じっくり学問に取り組もうと同年4月、同大法学部政治学科に入学し、1928年(昭和3年)3月に卒業した。
菊池 朝三(きくち ともぞう、1896年11月22日 - 1… 菊池 朝三(きくち ともぞう、1896年11月22日 - 1988年1月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。茨城県土浦市議会議員。 福島県郡山市出身。菊池喜久蔵の四男として生まれる。安積中学校を経て、1917年11月、海軍兵学校(45期)を卒業。席次は89名中48番。翌年8月に海軍少尉任官。横須賀航空隊と霞ヶ浦航空隊で航空術学生として学んだ。霞ヶ浦海軍航空隊・横須賀海軍航空隊の各分隊長、各飛行隊長、「鳳翔」「加賀」「赤城」の各分隊長、「鳳翔」飛行長、大村航空隊飛行長、欧米出張、海軍航空廠飛行実験部員、「赤城」飛行長、第二航空戦隊参謀、海軍航空本部教育部員、第1連合航空隊・第2連合航空隊の各参謀、航空本部教育部員などを歴任。
河野 文彦(こうの ふみひこ、1896年(明治29年)11月… 河野 文彦(こうの ふみひこ、1896年(明治29年)11月22日 - 1982年(昭和57年)8月11日)は、日本の航空技術者、実業家。三菱重工業社長。栃木県大田原市生まれ。次女は岩倉具忠の夫人。 1921年、東京帝国大学工学部機械科を卒業し、三菱内燃機製造に入社する。 三菱内燃機製造では機体設計を担当した。 1937年、陸軍九七式司令部偵察機の主任設計技師を務める(同機の試作機の1機は朝日新聞社に払い下げられ、ロンドンへの飛行を実施した「神風号」として著名になった)。このほか、海軍の九六式艦上戦闘機や零式艦上戦闘機などの軍用機の設計に関与した。 三菱重工第一製作所、川崎機器製作所各所長を経て、1950年に三菱日本重工取締役となる(同年、三菱重工業は財閥解体により3社に分割)。
鹿目 善輔(かのめ ぜんすけ、1893年(明治26年)11月… 鹿目 善輔(かのめ ぜんすけ、1893年(明治26年)11月22日 - 1960年(昭和35年)9月21日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争開戦前の出師準備にあたった兵備局課長で開戦時の軍令部先任副官、北方部隊の幹部、大湊警備府参謀長を歴任し、終戦後は大湊地方復員局長、横須賀地方復員局残務処理部長を務めた海軍少将で、後に米海軍横須賀基地(横須賀海軍施設)警備隊の初代隊長に就任。 1870年(明治3年)に浦賀に移住した会津藩士 鹿目常吉(幸之助)の孫として、1893年(明治26年)神奈川県三浦郡浦賀町(現・横須賀市浦賀)で生まれた。横須賀中学校を経て、1916年(大正5年)に海軍兵学校を卒業後、少尉候補生として軍艦「常磐」に乗り組み、北米および南洋諸島を回航。
谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年〈明治26年〉11… 谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年〈明治26年〉11月22日 - 1985年〈昭和60年〉6月17日)は、新宗教「生長の家」創始者・初代総裁。旧名は同訓異字の“正治”。兵庫県八部郡烏原村東所(現:兵庫県神戸市兵庫区烏原町)に生まれ、大阪市港区の大阪府立市岡中学(旧制)出身。早稲田大学文学部英文科中退。同学科には青野季吉、木村毅、坪田譲治らが在学していた。 著作は400冊以上に及び、主著『生命の實相』は通算1,900万部を超える。他に『新版真理』全11巻、『新選谷口雅春選集』全20巻、『新選谷口雅春法話集』全12巻等、多数の著書(聖典)がある。他にも、彼が受けたとした33の神示(総称:『七つの燈臺の點燈者の神示』)や自由詩の形態を取る「聖経」として『甘露の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』等がある。