岡田 栄(おかだ さかえ、1924年6月30日 - 没年不明… 岡田 栄(おかだ さかえ、1924年6月30日 - 没年不明 )は、プロ野球球団阪急ブレーブス球団代表である。 京都府出身。1949年に京都大学工学部電気工学科を卒業し、京阪神急行電鉄に入社した。 1979年から1987年までに阪急ブレーブス球団代表を務めた。 1987年12月に丹後海陸交通の社長に就任した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
村松 貞次郎(むらまつ ていじろう、1924年6月30日 -… 村松 貞次郎(むらまつ ていじろう、1924年6月30日 - 1997年8月29日)は、日本の建築史家。東京大学名誉教授。 静岡県島田市出身、旧制八高を経て東京大学第二工学部建築学科卒業。1973年、『大工道具の歴史』で毎日出版文化賞受賞。1974年、東京大学生産技術研究所教授。1983年、日本近代建築の評価に基づく都市計画の業績により日本建築学会賞受賞。1984年、定年退官、法政大学教授、明治村館長を務めた。門下生の一人が藤森照信。 日本の建築生産について研究を進め、煉瓦造・鉄筋コンクリート造などの新しい技術が導入される過程を労作『日本近代建築技術史』にまとめた。また、同時代の建築に関わるルポとして、『現代建築をつくる人々 設計組織ルポ』(浜口隆一と共著)がある。
戸谷 松司(とたに まつじ、1921年 <大正10年> 6月… 戸谷 松司(とたに まつじ、1921年 <大正10年> 6月30日 - 1999年 <平成11年> 6月26日)は、日本の政治家。姫路市長を務めた。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 印南郡米田町(現・加古川市)に6人きょうだいの3男として生まれる。実家は宝殿駅前の料亭「荒熊」で、父は大阪相撲の元関脇だった。姫路中学校(旧制)、姫路高等学校(旧制)を経て1944年(昭和19年)京都帝国大学工学部土木工学科卒業。建設省に入り、九州電力嘱託、島根県土木砂防電気課長補佐、徳島県土木部河川課長、広島県土木建築部河川課長を歴任。島根時代には竹下登の知遇を得た。 1966年(昭和41年)、兵庫県庁に入り土木部河川部長、企画部長、土木部長を経て1976年(昭和51年)から1983年(昭和58年)まで兵庫県副知事を務めた。
伊勢川 真澄(いせがわ ますみ、1921年6月30日 - 1… 伊勢川 真澄(いせがわ ますみ、1921年6月30日 - 1996年7月26日)は、和歌山県紀の川市出身のプロ野球選手(捕手)。 粉河中学を卒業後、1940年にライオン軍(1941年から朝日軍)へ入団。新人ながら正捕手・広田修三の控えとして49試合に捕手として出場し、1941年・1942年は正捕手を務めた。42年暮れに応召。戦後の1946年に旧朝日軍の選手が独立してゴールドスターを立ち上げる中、伊勢川は旧朝日軍の流れを汲むパシフィックに参加する。ここでも引き続き正捕手を務め、1946年は打率.230(リーグ37位)ながら、主砲の森下重好(54打点)に次ぐ51打点を挙げ、1947年は打率.257(リーグ19位)を記録している。
笹田 和子(ささだ かずこ、1921年(大正10年)6月30… 笹田 和子(ささだ かずこ、1921年(大正10年)6月30日 - 2007年(平成19年)11月30日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、オペラ歌手、音楽教育者。 大阪府大阪市出身。小学生の時に美声をかわれて教会の日曜学校で歌う。1939年(昭和14年)、東京音楽学校(現: 東京藝術大学)予科入学。木下保と原信子に師事。本科の同期には同じ声楽部の内田るり子、石井好子、畑中更予(米田更子)、前田幸市郎、器楽部の森正(指揮者)などがいた。1942年(昭和17年)に卒業と同時に藤原歌劇団に入り、同年11月にワーグナーのオペラ『ローエングリン』ヒロインのエルザでデビューを果たす。以来、同歌劇団で1000回余りの舞台を踏み、ワーグナー『タンホイザー』日本初演のエリーザベトなども務めた。
城田 すず子(しろた すずこ、1921年6月30日 - 19… 城田 すず子(しろた すずこ、1921年6月30日 - 1993年)は、日本の元娼婦。17歳で芸者屋に奉公に出たのを皮切りに、南洋の遊郭等で働く。太平洋戦争中慰安所の帳簿係を務めたこともある。戦後はGI(アメリカ軍軍人)を相手に娼売した。更生施設でキリスト教に入信。 下町のパン屋の5人兄弟の長女として生まれ、14歳で母親と死別。17歳で神楽坂の芸者屋に奉公に出た。横浜の新天地の遊郭に住み替えした時点では、芸者屋に1800円ほどの借金があったという。その後、3年契約2500円の話を受け、台湾の澎湖島の妓楼に移る。同地では8か月間働いたが、生活費や着物代で借金は減らなかった。一度東京に戻るも、弟妹の暮らしぶりを見て、3000円の借金で南洋行きを決断する。
三村 正(みむら ただし、1920年6月30日 - 没年不明… 三村 正(みむら ただし、1920年6月30日 - 没年不明)は香川県出身のプロ野球選手(捕手)。 志度商(現・香川県立志度高等学校)卒業。後にイーグルスでプレーした小野寺洋は1年後輩に当たる。1939年より全京城でプレー。当時の全京城は強豪として知られ、三村の在籍時に2回(1940年、1942年)優勝。三村も正捕手として大きく貢献した。都市対抗野球でバッテリーを組んだ投手に、野村清がいる。 終戦後の1948年、南海に入団。しかし28歳での高齢の入団だったことや、正捕手・筒井敬三が活躍したこともあり、僅か10試合の出場(スタメンに名を連ねた事は一度もなかった)にとどまり、同年末に1年間のプロ野球生活をもって、引退した。
佐野 圭司(さの けいじ、1920年6月30日 - 2011… 佐野 圭司(さの けいじ、1920年6月30日 - 2011年1月6日)は、日本の医学者。
熊崎 俊二郎(くまざき しゅんじろう、1920年(大正9年)… 熊崎 俊二郎(くまざき しゅんじろう、1920年(大正9年)6月30日 - )は、日本の銀行家。元北日本銀行会長、頭取。 愛媛県出身。 1982年、当時の北日本相互銀行社長である田中正一郎が入院しているさなか、見舞いを口実にある大蔵官僚が病室を訪れ、こう切り出したという。「徳陽(徳陽相互銀行)と合併して頂けませんか。」と。しかし、自主独立路線を堅持する方針であった田中は、申し出を拒絶。話はその場限りとなったという。 この折に大蔵官僚を病室まで案内したのが、同行専務取締役であった熊崎俊二郎その人であった。 熊崎は、熱心な金融再編論者として知られ、平成銀行構想があきらかにされた際には日本銀行、大蔵省間のパイプ役を自任し、同行の大株主であった企業を訪れ、合併に対する根回しを行っていたとされる。
西川 辰美(にしかわ たつみ、本名同じ、1916年(大正5年… 西川 辰美(にしかわ たつみ、本名同じ、1916年(大正5年)6月30日 - 1971年(昭和46年)3月7日)は、日本の昭和期に活動した漫画家。東京府東京市南葛飾郡(現・東京都葛飾区)出身。
苫米地 俊博(とまべち としひろ、1916年6月30日 - … 苫米地 俊博(とまべち としひろ、1916年6月30日 - 2010年10月20日)は、日本の実業家。三菱商事副社長、米国三菱商事社長、三菱自動車工業副会長、国際大学理事長、ニューヨーク日本商工会議所会頭などを歴任した。 北海道小樽市出身。1941年東京商科大学(現一橋大学)卒業、三菱商事入社。大学在学中、日米学生会議に参加し、宮澤喜一(のちに内閣総理大臣)、奈良靖彦(のちに駐カナダ大使)、山室勇臣(のちに三菱銀行副頭取)らと交遊を持った。財閥解体後、奈良らとともに、野間省一講談社社長の協力を得て貿易会社・飛鳥(「奈良」から「飛鳥」を連想して命名)を設立し、宮澤の弟宮澤泰(のちに駐西ドイツ大使)なども参画したが、1年で倒産した。
加藤 克巳(かとう かつみ、1915年6月30日 - 201… 加藤 克巳(かとう かつみ、1915年6月30日 - 2010年5月16日)は、昭和・平成期の歌人。 京都府綾部市生まれ。旧制埼玉県立浦和中学校在学中に短歌を作り始め、若山牧水系の歌誌「菁藻」(主宰:髙橋俊人)に入会。1933年、國學院大學予科入学、1935年、國學院大學国文科進学、折口信夫、武田祐吉らの薫陶を受ける。在学中に新芸術派短歌運動に加わり「短歌精神」を創刊。1936年、若手歌人の集まり「四月会」に参加。1937年、第一歌集『螺旋階段』を刊行。1938年、國學院大學卒業。 その後応召し、敗戦まで軍隊生活を経験する。戦後は浦和中学校の教諭に復帰。1946年、常見千香夫、大野誠夫らと「鶏苑」を創刊、近藤芳美、宮柊二らと「新歌人集団」を結成。
橋本 輝雄(はしもと てるお、1915年6月30日 - 20… 橋本 輝雄(はしもと てるお、1915年6月30日 - 2001年10月1日)は、日本の騎手、競走馬調教師。 1933年に騎手デビュー。太平洋戦争最中の1944年に「能力検定競走」として行われた東京優駿(日本ダービー)をカイソウで制したほか、1950年にはクモノハナに騎乗して皐月賞、日本ダービーのクラシック二冠を制した。騎手通算成績は1154戦154勝、うち八大競走3勝を含む重賞5勝。 1953年に調教師へ転身し、それぞれ菊花賞に優勝したコマヒカリ、アカネテンリュウ、中山大障害を4連勝し海外でも2勝したフジノオー、日本ダービー優勝馬メリーナイスなど数々の活躍馬を手掛けた。1993年に定年引退。調教師成績は日本中央競馬会が発足した1954年以降で通算7361戦931勝、うち八大競走・GI級競走4勝を含む重賞30勝。
遠藤 正則(えんどう まさのり、1914年(大正3年)6月3… 遠藤 正則(えんどう まさのり、1914年(大正3年)6月30日 - 2009年(平成21年)4月26日)は、昭和から平成時代の政治家。東京都文京区長。文京区名誉区民。 茨城県水戸市出身。茨城県立水戸中学校(現茨城県立水戸第一高等学校)を卒業後上京し、1933年(昭和8年)7月、東京市本郷区に奉職し、1939年(昭和14年)中央大学商学部二部を卒業した。戦時中は千葉県市川市国府台の高射砲隊にいた。のち文京区教育委員会学務課長、総務部長、助役を経て、1973年(昭和48年)12月、文京区長に就任した。1999年(平成11年)4月の任期満了まで6期24年務めた。この間、特別区長会会長を歴任した。ほか、特別区人事・厚生事務組合管理者、特別区協議会理事長を務めた。
小長谷 睦治(こながや むつはる、1914年6月30日[要出… 小長谷 睦治(こながや むつはる、1914年6月30日[要出典] - 1988年4月3日[要出典])は、大日本帝国海軍軍人で、のちに日本の実業家となる。 広島県江田島町(現江田島市)に生まれる。1936年に海軍機関学校を卒業し、翌1937年海軍機関少尉に任官した。空母加賀、大村海軍航空隊、横須賀海軍航空隊での勤務の後、海軍機関学校教官、第三航空艦隊参謀などを歴任した。 1945年8月の終戦後、海軍少佐として厚木連絡委員会委員を命じられ、マニラのダグラス・マッカーサー連合国最高司令官の下に派遣される降伏軍使の搭乗する緑十字機の準備など、終戦処理に従事した。 1946年の海軍解体により、千葉県銚子市で水産加工業、水飴澱粉製造、肥料製造などを手がけた。
戸田 華子(とだ はなこ、1909年〈明治42年〉6月30日… 戸田 華子(とだ はなこ、1909年〈明治42年〉6月30日 - 2003年〈平成15年〉5月10日)は、日本の元皇族、元華族夫人。閑院宮載仁親王の第5女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子。旧名は、華子女王(はなこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。皇籍離脱後の名は、「華頂 華子(かちょう はなこ)」から「竹村 華子」を経て、「戸田 華子」。旧皇族の離婚第1号。 1909年(明治42年)6月30日 、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第5女子(第7子/末子)として、神奈川県小田原市の閑院宮御別邸で誕生した。 1926年(大正15年)12月13日に侯爵華頂博信と結婚し、「華頂 華子(かちょう はなこ)」となり、2男1女をもうける。
野田 一雄(のだ かずお、1908年6月30日 - 1995… 野田 一雄(のだ かずお、1908年6月30日 - 1995年3月31日)は、日本の競泳選手。400m・800m・1500m自由形元日本記録保持者。 静岡県浜松市出身。静岡県立浜松商業学校(現・静岡県立浜松商業高等学校)卒業後、慶應義塾大学に進学。 1924年、浜商在学中にパリオリンピック代表に選出され、400m自由形・1500m自由形に出場。また、男子4×200mリレーにおいて小野田一雄、高石勝男、宮畑虎彦とともに4位の成績を修めた。 1925年、第7回極東選手権競技大会に出場。400ヤード第3位。 1926年、第5回全国学生水上競技大会に出場。100m・800m自由形優勝。 1928年アムステルダムオリンピックで水泳主将を務め、男子4×200mリレーの予選のみ出場した。
沼田 一夫(ぬまた かずお、1908年〈明治41年〉6月30… 沼田 一夫(ぬまた かずお、1908年〈明治41年〉6月30日 - 1965年〈昭和40年〉11月22日)は、福島県内郷市(現・いわき市)長。位階は従六位。勲五等双光旭日章。 青森県弘前市出身。福島県立磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)、旧制第二高等学校を経て、東北帝国大学を卒業する。 卒業後は満州国に渡り、大同学院に入り、満州国の官吏となる。1943年、上海の満州国総領事館領事となる。終戦後は日本に引揚げ、経済安定本部に入り、同嘱託から経済査察官となった。 1951年、福島県内郷町の町長選挙に立候補し、当選する。1954年、内郷町の市制施行により、市長となる。1955年の市長選挙で再選。1959年と1963年の市長選挙で連続当選した。
楢原 健三(ならはら けんぞう、1907年6月30日 - 1… 楢原 健三(ならはら けんぞう、1907年6月30日 - 1999年8月14日)は、洋画家、日本芸術院会員。
勝木 司馬之助(かつき しばのすけ、1907年6月30日 -… 勝木 司馬之助(かつき しばのすけ、1907年6月30日 - 1993年4月20日)は、日本の医師。熊本大学教授、九州大学教授、宮崎医科大学(現・宮崎大学医学部)初代学長を務めた。脳血管障害のコホート研究である久山町研究を始めた。長男は分子生物学者の勝木元也。 若い時は、脳橋と呼吸調節中枢や、熊本大学時代は、間脳の臨床を行ったが、九州大学の教授になってから、福岡県糟屋郡久山町における脳血管障害の疫学的研究を始めた。1961年春から全教室員協力のもとに40歳以上の男女全住民を対象として循環器検診から開始した。その際、死亡者の解剖を重視し、1963年以降は剖検率は90%以上を維持、対象者全員を全員追跡するという徹底した疫学的調査が行われた。
内田 常雄(うちだ つねお、1907年〈明治40年〉6月30… 内田 常雄(うちだ つねお、1907年〈明治40年〉6月30日 - 1977年〈昭和52年〉12月29日)は、日本の政治家。厚生大臣(第47代)、経済企画庁長官(第24代)、衆議院議員(9期)。 旧制松本高等学校文科甲類、東京帝国大学経済学部卒。1930年、大蔵省入省。入省同期に河野一之(大蔵事務次官)、渡辺武(財務官)ら。管財局属。 戦後、経済安定本部財政金融局長、大蔵省管財局長などを経て、1952年に山梨全県区から衆院選に立候補し初当選。自民党内派閥は宏池会(池田勇人→前尾繁三郎→大平正芳派)に所属。1970年1月、第3次佐藤内閣の厚生大臣として初入閣。第2次田中角栄第1次改造内閣で経済企画庁長官をつとめる。
石田 英一郎(いしだ えいいちろう、1903年6月30日 -… 石田 英一郎(いしだ えいいちろう、1903年6月30日 - 1968年11月9日)は、日本の文化人類学者・民族学者。元男爵。 1903年、男爵石田八弥の長男として大阪府で誕生。父の死去に伴い、1925年6月1日に男爵を襲爵。天王寺中学から東京府立四中に転校し、卒業。第一高等学校文科に進学したが、肋膜炎を患い休学。1年遅れて復学した後、菊川忠雄の勧誘を受けて一高内の社会思想研究会に入会した。 1924年、第一高等学校文科を卒業業して、京都帝国大学経済学部に進学するも京都学連事件により中退。 京都学連事件に連座したことに伴い、1926年3月24日に爵位を返上。不敬罪と出版法違反の容疑で逮捕され入獄したが、不敬罪については1927年の大喪の礼に伴う恩赦で赦免された。
久米田 七之助(くめだ しちのすけ、1903年6月30日 -… 久米田 七之助(くめだ しちのすけ、1903年6月30日 - 1980年3月2日)は、日本の経営者、銀行家。羽後銀行(現在の北都銀行)頭取を務めた。秋田県出身。 1925年に中央大学商学部を卒業し、同年4月に三和銀行に入行。1944年10月に羽後銀行に転じ、1956年4月に専務に就任し、1961年7月には頭取に昇格。1973年3月には会長に就任。 1968年10月に藍綬褒章を受章。 1980年3月2日に急性心不全のために死去。76歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
田辺 繁子(たなべ しげこ、1903年6月30日 - 198… 田辺 繁子(たなべ しげこ、1903年6月30日 - 1986年6月8日)は、日本の法学者、専修大学名誉教授。京都府出身。1925年、同志社女学校専門学部英文科卒業、1928年、同志社大学法学部法律学科卒業。旧姓・星野。田辺平学の妻。穂積重遠に師事して家族法を研究、専修大学助教授、1956年教授。74年定年退任。古代インドのマヌ法典を翻訳、ハンムラビ法典における女性の地位を研究、家族制度の復活に反対した。
井戸崎 好次(いどさき よしつぐ、1902年 <明治35年>… 井戸崎 好次(いどさき よしつぐ、1902年 <明治35年> 6月30日 - 1977年 <昭和52年> 10月27日)は、日本の経営者。栗本鐵工所社長を務めた。 和歌山県出身。1926年に関西大学専門部経済科を卒業し、同年に栗本鐵工所に入社。 1946年11月に副社長に就任し、1961年5月には社長に昇格。1967年10月に相談役を経て、1969年6月には特別顧問に就任した。 1964年に藍綬褒章を受章し、1974年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1977年10月27日、老衰のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
外島 健吉(としま けんきち、1902年6月30日 - 19… 外島 健吉(としま けんきち、1902年6月30日 - 1994年1月23日)は、日本の実業家。神戸製鋼所社長、会長を務めた。奈良県出身。 1927年に京都帝国大学工学部を卒業し、1932年11月に神戸製鋼所に入社した。1949年8月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1958年11月から社長に就任し、在任中は鉄鋼業界で初めてプラントの輸出に手掛けたり、同社で初の海外事務所を開設し、海外進出にも積極的に取り組んだ。1972年5月から1974年11月までに会長を務めた。 1976年11月から1982年10月までに神戸商工会議所会頭と日本商工会議所副会頭を務め、1981年の神戸ポートアイランド博覧会の開催に尽力した。
山崎 清(やまざき きよし、1901年6月30日 - 198… 山崎 清(やまざき きよし、1901年6月30日 - 1985年2月22日)は、日本の歯科医、画家、顔の研究家。 埼玉県越谷市生まれ。春日部中学校を経て、1923年に日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)卒業。 1920年に風景画で二科展に入選。1924年から1930年にかけてフランスで歯科と絵画を学ぶ。 1937年に「日本人下顎骨の増齡殊に齒牙発生脱落に伴ふ形態変化の研究」で新潟医科大学より医学博士を授与される。 1931年日本歯科医学専門学校講師、助教授、教授、外科部長、1964年鶴見大学教授、1972年定年、名誉教授。
宇多 五郎(うだ ごろう、1901年6月30日 - 1982… 宇多 五郎(うだ ごろう、1901年6月30日 - 1982年10月11日)は、ドイツ文学者、翻訳家。 東京出身。1927年上智大学文学部独文科卒。上智大学講師、助教授、教授。外国語学部を創設し初代学部長。1972年定年、名誉教授。高村光太郎に師事した。次男は宇多文雄。
小林 富佐雄(こばやし ふさお、1901年6月30日 - 1… 小林 富佐雄(こばやし ふさお、1901年6月30日 - 1957年10月1日)は、日本の実業家、東宝、東洋製罐代表取締役社長。 小林一三の長男として山梨県に生まれる。東京外国語学校(現東京外国語大学)卒業。1929年に東洋製罐入社。1936年に取締役に就任。その後常務を経て1946年に代表取締役社長に就任。1941年8月29日に東京宝塚劇場取締役、大阪電気軌道を経て、阪神急行電鉄取締役、帝国劇場代表取締役社長を経て1950年9月28日に東宝代表取締役社長に就任。それ以外に日経連常任理事を務めた。新東宝分裂後の東宝再建などに尽力した。1951年9月28日に社長の座を父・一三に譲り代表取締役に退く。
山田 秀三(やまだ ひでぞう、1899年6月30日- 199… 山田 秀三(やまだ ひでぞう、1899年6月30日- 1992年7月28日)は、日本のアイヌ語地名研究家、官僚、実業家。
青戸 辰午(あおと たつご、明治30年(1897年)6月30… 青戸 辰午(あおと たつご、明治30年(1897年)6月30日 - 昭和47年(1972年)5月)は、日本の弁護士、政治家。旧名は貞吉。 鳥取県日野郡日南町出身。甚太郎の長男。 米子中学、松江中学を経て、大正7年(1918年)早大中退。昭和3年(1928年)、朝鮮において弁護士開業。昭和6年(1931年)に鳥取県米子市に移住した後も引き続き開業した。 戦前に米子市会議員を1期務め、戦後は鳥取県地方労働委員会委員、人権擁護委員、米子市選挙管理委員会委員、鳥取県人事委員会委員などに選任され、その功績により昭和37年(1962年)に藍綬褒章を授与された。 昭和47年(1972年)5月、74歳で亡くなった。
神田 盾夫(かんだ たてお、1897年6月30日 - 198… 神田 盾夫(かんだ たてお、1897年6月30日 - 1986年7月19日)は、日本の言語学者、聖書学者(新約聖書学)。国際基督教大学の設立に尽力した一人である。 1897年、東京市麹町区で英語学者神田乃武の四男として生まれた。1916年に第一高等学校英法科に入学。この頃、内村鑑三門下となった。1919年、東京帝国大学英文科に入学。しかし、翌1920年に師事した田中秀央の転出に伴い、神田も京都帝国大学文学部言語学科に転じた。京都では、田中秀央のほか、新村出、波多野精一らに師事した。1924年に同大学を卒業。その後は同大学大学院に進んだ。オックスフォード大学、ハイデルベルク大学に留学し、英国ではC・H・ドッドに、ドイツではマルティン・ディベリウスに師事し、主として西洋古典学を修めた。
土居 明夫(どい あきお、1896年(明治29年)6月30日… 土居 明夫(どい あきお、1896年(明治29年)6月30日 - 1976年(昭和51年)5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 旧土佐郷士、警察署長・土居正明の二男として生まれる。海南中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第11連隊付となる。1920年(大正9年)9月から翌年11月まで、シベリア出兵に出征。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を優等で卒業し騎兵第11連隊中隊長に就任。 1928年(昭和3年)12月、陸軍騎兵学校教官に就任し、参謀本部付を経て、1932年(昭和7年)1月から1934年(昭和9年)9月までポーランド・ソ連に駐在した。
宇田 荻邨(うだ てきそん、1896年〈明治29年〉6月30… 宇田 荻邨(うだ てきそん、1896年〈明治29年〉6月30日 - 1980年〈昭和55年〉1月28日)は、日本画家、日本芸術院会員。三重県松阪市生まれ。本名・善次郎。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
下地 玄信(しもじ げんしん、明治27年(1894年)6月3… 下地 玄信(しもじ げんしん、明治27年(1894年)6月30日 - 昭和59年(1984年)5月23日)は、日本の公認会計士。沖縄県宮古島市出身。日本公認会計士協会初代副会長を務めた。 東亜同文書院卒業。関西公認会計士協会支部長、財団法人下地玄信育英会 の設立者でもある。 宮古島平良市の下地玄忠の長男として生まれる。小さい時から大柄でその風貌から「今西郷」と言われていた。旧制首里中学(沖縄県立首里高等学校)校卒。その後、東亜同文書院を卒業後、森恪を慕って三井物産に入社後、三井三池炭鉱で働く。連隊で一年志願兵として従軍し、退社後、鉱山業失敗で100万円の負債を抱えるも保険会社の外交員として関西経済界で頭角を現す。
弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう、1892年(明治25年)… 弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう、1892年(明治25年)6月30日 - 1952年(昭和27年)11月17日)は、日本の作曲家。 1892年(明治25年)高知県安芸市に生まれる。一絃琴の名手であった母親から、音楽的才能を受け継いだと言われている。 父の転任に従って3歳の時高知を離れ、千葉師範学校附属小学校、三重県立第一中学校(現:三重県立津高等学校)を経て、1910年(明治43年)東京音楽学校(現:東京芸術大学)器学部ピアノ科に入学する。東京音楽学校では本居長世に師事。在学中に歌曲『昼』を発表した。文部省唱歌の『鯉のぼり』は作者不詳とされてきたが、弘田龍太郎が在学中に作曲したものと言われている。
坂東 舜一(ばんどう しゅんいち、明治25年(1892年)6… 坂東 舜一(ばんどう しゅんいち、明治25年(1892年)6月30日 - 昭和52年(1977年)11月3日)は、日本の航空実業家。日本航空株式会社創立者。 兵庫県津名郡五色町(現・洲本市)生まれ。大正5年(1916年)慶應義塾大学部理財科を卒業したのち、日本郵船に入社。大正7年(1918年)同社を退社し、中島飛行機の前身である合資会社日本飛行機製作所の創設に関わり、事務長に就任。大正9年(1920年)から川西機械製作所飛行機部支配人を務めた後、大正12年(1923年)には日本航空株式会社を創立し、取締役支配人となる。 以後、昭和3年(1928年)川西航空機械株式会社取締役常務、昭和12年(1937年)日本航空工業株式会社専務取締役などを歴任。
渡辺 覚造(わたなべ かくぞう、1891年(明治24年)6月… 渡辺 覚造(わたなべ かくぞう、1891年(明治24年)6月30日 - 1972年(昭和47年)3月1日)は、日本の医師、政治家。貴族院議員多額納税者、水戸市長、医学博士。 茨城県久慈郡世矢村(現・常陸太田市)出身。茨城県立太田中学校卒、1919年(大正8年)旧制愛知医科大学(現・名古屋大学医学部)卒。同大学付属病院に勤務。1929年(昭和4年)に水戸市で病院を開業する。1936年(昭和11年)大洗海岸に結核患者のサナトリウム大貫海岸病院を開設した。 1942年(昭和17年)1月、茨城県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税議員に互選され、同月23日に就任し同成会に所属。同年10月、水戸市会の推薦により水戸市長に就任した。
亀岡 崇(かめおか たかし、1891年6月30日 - 195… 亀岡 崇(かめおか たかし、1891年6月30日 - 1954年12月26日)は、日本の洋画家。東京都出身。 1891年6月30日、東京府東京市赤坂区青山に生まれる。父は陸軍工兵中佐・従五位・勲四等の亀岡為定。陸地測量部課長等を歴任し、大正9年12月3日没。祖父は幕臣の亀岡平次で、曽祖父の樋田豊治も幕臣であった。母は旧幕臣・上田登代。父方の従兄に陸軍中将・杉原美代太郎、陸軍中将・黒澤準がいる。また母方の従兄に海軍中将・上田宗重がいる。 府立一中を経て東京美術学校卒業。岡田三郎助、黒田清輝の門下。在学中に中村彝と知り合い交遊を結ぶ。彝の名作「友の像」のモデルとなる。第1回より欠かさず二科展に出品。
鈴木 正吾(すずき しょうご、1890年(明治23年)6月3… 鈴木 正吾(すずき しょうご、1890年(明治23年)6月30日 – 1977年(昭和52年)6月1日)は、大正から昭和期の政治家・ジャーナリスト。衆議院議員、愛知県豊川市長。旧姓・渥美。 愛知県碧海郡志貴村(矢作町を経て現岡崎市)で渥美半五郎の三男として生まれた。1899年(明治32年)宝飯郡佐脇村下佐脇村(御津村、御津町を経て現豊川市)の鈴木金次郎家を相続。1907年(明治40年)学生団体・丁未倶楽部に加わり第一次護憲運動で反桂内閣として活動した。1914年(大正3年)明治大学政治科を卒業した。 卒業後は読売新聞記者を経て、雑誌『第三帝国』編集長、雑誌『大観』編集長などを務める。1915年(大正4年)2月から3月にかけて大隈伯後援会遊説部員として第12回衆議院議員総選挙で遊説を行った。
穂積 真六郎(ほづみ しんろくろう、1889年(明治22年)… 穂積 真六郎(ほづみ しんろくろう、1889年(明治22年)6月30日 - 1970年(昭和45年)5月23日)は、朝鮮総督府官僚、参議院議員。
高田 良平(たかだ りょうへい、1886年(明治19年)6月… 高田 良平(たかだ りょうへい、1886年(明治19年)6月30日 - 1972年(昭和47年)9月15日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県榛沢郡、のちの大里郡深谷町(現:深谷市)で、高田惣五郎、ひこ夫妻の二男として生まれる。旧制熊谷中学卒業。 深谷物産専務取締役、深谷商業銀行取締役、深谷製材社長、武蔵土地証券社長、富岡製織取締役、大里郡織物同業組合織物研究会長、深谷商工会副会長、関東商事社長などを務め、商工業の振興に尽力した。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で埼玉県第三区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
小林 久七(こばやし きゅうしち、1885年〈明治18年〉6… 小林 久七(こばやし きゅうしち、1885年〈明治18年〉6月30日 - 1971年〈昭和46年〉4月)は、大正から昭和戦前期にかけて活動した日本の銀行経営者。 父が創業した長野実業銀行を継ぎ、1930年(昭和5年)にはその後身である信濃銀行の第2代頭取に就任。しかし直後に昭和恐慌のため信濃銀行は破綻、その影響で没落した。「久七」は父も名乗った名であり、襲名前は辰治を名乗った。 1885年(明治18年)6月30日、小林久七(先代)の長男として生まれる。旧名は辰治。生家の小林家は長野の新町にて油問屋「美濃屋」を営む旧家で、父・久七は金融業にも進出して明治中期に「崇成社」を結成、1903年(明治36年)にはこれを元に長野実業銀行を起こして頭取となっていた。
瀧谷 善一(たきたに ぜんいち、1883年6月30日 - 1… 瀧谷 善一(たきたに ぜんいち、1883年6月30日 - 1947年9月18日)は、日本の商学者。神戸経済大学(現神戸大学)名誉教授。初代日本経営学会理事長。 大阪府貝塚市出身。1908年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部卒業。村瀬春雄門下。1910年神戸高等商業学校(現神戸大学)教授。1913年英米留学。1923年欧米出張。1924年同校商業研究所調査部長。1929年神戸商業大学(現神戸大学)教授。1935年商学博士の学位を取得。1941年日本経営学会初代理事長。1942年依願退官。同年従三位。のち、東洋紡績経済研究所初代所長、神戸市助役、神戸市最高顧問を歴任した。
末次 信正(すえつぐ のぶまさ、1880年〈明治13年〉6月… 末次 信正(すえつぐ のぶまさ、1880年〈明治13年〉6月30日 - 1944年〈昭和19年〉12月29日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将、従二位・勲一等。第1次近衛内閣の内務大臣。実弟に古河鉱業取締役の末次猛。坊ノ岬沖海戦で戦死した末次信義海軍中佐は長男。 旧徳山藩士・末次操九郎の次男として山口県に生まれる。広島一中から海軍兵学校(27期)に進み、114名中50番で卒業した。卒業席次は平凡であったが、日露戦争に出征後、海軍最高学府である海軍大学校甲種学生(7期)を首席で卒業した。 1910年(明治43年)、海軍砲術学校教官となった末次は、艦の中心線上一列に主砲を装備し、一斉射撃の効率を高める独創案を無断で学生に伝授した。
矢頭 良一(やず りょういち、1878年(明治11年)6月3… 矢頭 良一(やず りょういち、1878年(明治11年)6月30日 - 1908年(明治41年)10月16日)は、日本の発明家。「漢字早繰辞書」や自働算盤と呼んだ機械式計算機を発明し、これらの製造、販売で得た資本をもとにして中学校時代から興味を持った鳥類の飛翔を研究し、動力航空機の発明を試みたが31歳で没した。 福岡県上毛郡黒土村(現在の豊前市)で、後に岩屋の村長となった父、道一、母、タミの長男として生まれた。久路土小学校と岩屋小学校を経て13歳の時、豊津中学校(現:福岡県立育徳館高等学校)に進んだが鳥の飛翔に関心を持ち、さらに研究するために16歳で退学し大阪へ出た。大阪で数学、工学や語学などの知識の必要性を痛感し、英国人の私塾にもかよって学習したと伝えられる。
東 くめ(ひがし くめ、旧姓:由比(ゆい)、1877年6月3… 東 くめ(ひがし くめ、旧姓:由比(ゆい)、1877年6月30日 - 1969年3月5日)は、和歌山県東牟婁郡新宮町(現:新宮市)出身の童謡作詞家。日本で初めて口語による童謡を作詞した。1899年に東京女子高等師範学校教授・東基吉と結婚し、東くめとなる。
力石 雄一郎(ちからいし ゆういちろう、1876年(明治9年… 力石 雄一郎(ちからいし ゆういちろう、1876年(明治9年)6月30日 - 1933年(昭和8年)3月17日)は、日本の内務官僚。政友会系官選府県知事。族籍は愛媛県士族。 愛媛県喜多郡大洲町(現:大洲市)で、旧大洲藩士・力石八十綱の長男として生まれる。東京に移り、府立一中、第一高等学校を経て、1900年7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年、文官高等試験に合格。内務省に入省。 以後、徳島県参事官、岩手県警部長、岩手県事務官・第四部長、石川県事務官・警察部長、関東都督府大連民政署長、長野県・岐阜県の各内務部長などを歴任。 1914年4月、第2次大隈内閣が成立し長野県知事に発令された。以後、大分県・茨城県・宮城県・秋田県・新潟県の各知事を経て、1928年5月、大阪府知事に就任。
載仁親王妃 智恵子(ことひとしんのうひ ちえこ、1872年6… 載仁親王妃 智恵子(ことひとしんのうひ ちえこ、1872年6月30日〈明治5年5月25日〉- 1947年〈昭和22年〉3月19日)は、日本の皇族。閑院宮載仁親王の妃。身位は親王妃で、皇室典範における敬称は殿下。母方を通じて、東山天皇の7世孫にあたる。 1872年6月30日(明治5年5月25日)、公爵・三条実美の二女として誕生。母は、鷹司輔煕の九女・治子。旧名は、三条 智恵子(さんじょう ちえこ)。 6歳ほどより跡見女学校へ通い、跡見花蹊に学ぶ。絵画を得意とし、四條派の写生画、南宗派の文人画を修め、「花堤」の雅号を持つ。1891年(明治24年)閑院宮載仁親王と結婚する。載仁親王との間には、篤仁王(夭折)、恭子女王(安藤信昭夫人)、茂子女王(黒田長礼夫人)、季子女王、春仁王、寛子女王、華子女王(華頂博信夫人、後に戸田豊太郎夫人)の2男5女を儲けた。
鈴木 幾次郎(すずき いくじろう、1869年6月30日(明治… 鈴木 幾次郎(すずき いくじろう、1869年6月30日(明治2年5月21日)- 1938年(昭和13年)10月11日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。高松市長。旧姓・佐々木。 讃岐国香川郡高松城下西瓦町(現香川県高松市瓦町)で「大和屋」佐々木清三の二男として生まれ、1889年(明治22年)7月、高松古馬場町「伏石屋」鈴木伝五郎の養子となる。東京専門学校を卒業。1904年(明治37年)3月に家督を相続した。 香川銀行頭取、中国銀行重役などを務めた。 1908年(明治41年)5月25日、第3代高松市長に就任。教育施設の充実、水道敷設の推進、市歌の制定などを推進した。観光案内書「高松しるべ」の作成を行い観光の振興にも尽くした。