田代 正治(たしろ しょうじ、1892年(明治25年)9月1… 田代 正治(たしろ しょうじ、1892年(明治25年)9月11日 - 1983年(昭和58年)11月11日)は、日本の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。 新潟県中蒲原郡村松町(現五泉市)で素封家・田代兼次の三男として生まれる。新潟県立新潟中学校を経て、1915年、農林省水産講習所(現東京海洋大学)漁撈科を卒業した。 その後、佐渡島で漁業に従事。1916年、青森県技手に就任。1919年、日魯漁業の平塚常次郎に見いだされ同社に入社。函館製網船具 (株) に転じて新川工場長に就任し漁網の改良に従事。1931年に独立して漁網漁具製造販売業を営んだ。また、函館産業社長、函館青果卸売市場社長、北海道方面委員、函館地方裁判所調停委員、函館調停協会理事などを務めた。
千賀 康治(せんが こうじ、1892年9月11日 - 195… 千賀 康治(せんが こうじ、1892年9月11日 - 1956年2月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、愛知県会議員(3期)、岡崎市会議員(4期)などを歴任した。横に大きく伸びた口ひげから「おひげさん」の愛称で親しまれた。 愛知県額田郡岡崎町連尺(現・岡崎市)で木綿問屋を営む千賀伝三郎の五男として生まれる。愛知県第二師範学校附属小学校、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。木綿織物業に従事する。 1928年(昭和3年)10月5日に行われた岡崎市会議員選挙に立候補し初当選。千賀は立憲民政党の岡崎支部である岡崎民政倶楽部に属していたが、当選の翌月、他の若手の民政党員と共に分派し岡崎民政青年団を結成した。
鍋島 俊策(なべしま しゅんさく、1892年9月10日 - … 鍋島 俊策(なべしま しゅんさく、1892年9月10日 - 1948年4月28日)は、日本の海軍軍人。海軍少将。正五位勲二等瑞宝章。 熊本県下益城郡小川町(現・熊本県宇城市小川町)生まれ。小川小学校、八代中学校卒業。海軍兵学校および陸軍士官学校(第26期)を受験し、双方に合格している。1911年(明治44年)海軍兵学校に入学する。 1914年(大正3年)海軍兵学校を卒業(42期)し、海軍少尉候補生となり阿蘇乗組。1918年(大正7年)水雷学校普通科を卒業し、同年12月に砲術学校学生教程を卒業する。1920年(大正9年)海軍大尉に任ぜられ、翌年の1921年(大正10年)には水雷学校高等科を卒業する。
村瀬 新一郎(むらせ しんいちろう、1892年(明治25年)… 村瀬 新一郎(むらせ しんいちろう、1892年(明治25年)9月10日 - 1978年(昭和53年)12月31日)は、日本の実業家である。三井物産の社長を務めた。 愛知県に生まれ、東京高等商業学校(後の東京商科大学、現在の一橋大学)に入学する。1917年(大正6年)に卒業後は三井物産に入社し、シドニー支店の会計課長や神戸支店営業部の会計課長、福岡支店長、本店整理部長等を歴任した。第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)に取締役経理部長となり、後に常務を務める。 同年には同社が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から解散命令を受け、清算人にあたった。その後は日東倉庫の社長に就任し、1953年(昭和28年)には大合同直前の三井物産の社長を務める。
飯田 憲二(いいだ けんじ、1892年9月10日 - 198… 飯田 憲二(いいだ けんじ、1892年9月10日 - 1983年5月15日)は、日本の柔道家(講道館8段・大日本武徳会教士)。 通信教育と独学で柔道を学んだ後に海軍で本格的に柔道を稽古し、全日本選士権大会や講道館の月次試合、春秋紅白試合等に出場・活躍した。また、少年柔道の普及と振興に腐心して全日本柔道少年団の発足に尽力し、今日の青少年柔道の発展に大きく貢献した事でも知られる。 1892年、北海道浦河郡浦河町の専業農家の家に生まれる。高等小学校を卒業後は笈を負っての上京を望んだが両親の反対で実現せず、代わりに、板垣退助を会長に据え野口清が主宰する帝國尚武會に入会。自宅の馬小屋を改造して小さな柔道場を作り、同会の通信講座を基に独学で柔道修行に励んだ。
須磨 弥吉郎(すま やきちろう、1892年〈明治25年〉9月… 須磨 弥吉郎(すま やきちろう、1892年〈明治25年〉9月9日 - 1970年〈昭和45年〉4月30日)は、日本の外交官、政治家。スペイン特命全権公使・衆議院議員。 秋田県南秋田郡土崎新城町(現秋田市)生まれ。旧制秋田中学校卒業後広島師範学校に進学するも、一転して法律家を志し中央大学法学部に転学。卒業後、1919年に外務省入省。 外国語6カ国語に堪能でイギリス、ドイツ等の在外公館に勤務を経て、1927年、在中国大使館二等書記官として赴任。在広東領事館領事等を経て、1932年、在上海日本公使館情報部長となり、対蔣介石政権の情報収集に努める。その後、南京総領事に転じる。 この中国での諜報活動の経験から、情報の一元管理と総合判断の必要性を痛感、帰国後、同じ考えを抱いていた山本五十六海軍次官とともに奔走し、1937年、対外情報収集と対外広報を目的にした内閣情報部を設立する。
尾形 源治(おがた げんじ、1892年9月9日 - 1978… 尾形 源治(おがた げんじ、1892年9月9日 - 1978年8月6日)は日本の柔道家(講道館9段)。 京都武専や講道館で修業したのち選手として昭和天覧試合や全日本選士権大会等で活躍する一方、指導者としては大日本武徳会や三重県警察部を経て生まれ故郷の山形に道場を構え多くの門人をの育成に当たり、山形柔道界の大家と知られた。 山形県山形市は宮町3丁目の生まれ。山形第三小学校高等科2年の頃、叔父が柔術の先生をしているという小柄な友人西村辨蔵が休み時間に体操場で五六人を前に見様見真似で大柄な友人三沢栄助に後ろから両手で抱き着かせたのを外し投技を仕掛けたところ、大きい体が風車の様に飛んで地響きをうって転倒し目を廻しながら気絶してしまい友人一同びっくり仰天。
渥美 清太郎(あつみ せいたろう、1892年(明治25年)9… 渥美 清太郎(あつみ せいたろう、1892年(明治25年)9月9日- 1959年(昭和34年)8月20日)は、日本の演劇研究者、評論家である。筆名は鈍太郎、今谷久平。 東京市下谷区(現在の東京都台東区下谷)七軒町に生まれる。幼年期より、演劇や歌舞伎等の芝居に興味を持ち、独学で脚本や資料を研究した。郁文館中学校卒業後、青山学院高等部に在学する傍らに、上野図書館(現在の国際子ども図書館)に勤務する。 1911年(明治44年)に演芸画報社に入社し、雑誌『演芸画報』の編纂に携わった。1943年(昭和18年)に廃刊するが、同年その後継である『演劇界』の編纂にも携わった。その後は、歌舞伎や日本舞踊、琴や尺八等の邦楽を研究し、多くの著書や辞典を刊行した。
9代目 桂 文治(かつら ぶんじ、1892年9月7日 - 1… 9代目 桂 文治(かつら ぶんじ、1892年9月7日 - 1978年3月8日)は、落語家。本名∶高安 留吉。生前は落語協会所属。定紋∶結三柏。出囃子∶『野崎』。通称「留さん(文治)」。 東京日本橋小伝馬町の生まれ、実家は魚屋。十思小学校を卒業。1904年、錦城中学校入学も1年ほどで退学し、蕎麦屋などの奉公に出るもそこも転々、父の魚屋を手伝いながら天狗連に出るようになる。 1915年に橘家圓三(「品川の馬鹿銀」)の紹介で一門の総帥の4代目橘家圓蔵に入門し、橘家咲蔵を名乗る。1918年12月、7代目翁家さん馬門下に移って翁家さん好と改名する。後に初代立花家橘之助の一座に加わり巡業に出るが、御難にあい東京に帰れなくなり、1921年大阪に流れつき2代目桂三木助門人となり桂三木弥となる。
川上 大造(かわかみ だいぞう、1892年(明治25年)9月… 川上 大造(かわかみ だいぞう、1892年(明治25年)9月6日 - 1950年(昭和25年)10月2日)は、日本の政治家。新潟県高田市(現・上越市)長。 旧高田藩士の家に生まれる。旧制高田中学校から第四高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学政治科卒。さらに1921年(大正10年)東京帝国大学法律科を卒業した。卒業後は帰郷し、高田市で弁護士事務所を開業した。1924年(大正13年)高田市学務委員に任じられ、同年暮れに高田市会議員に当選した。1931年(昭和6年)には新潟県会議員に当選し、1939年(昭和14年)には市会議長に就任した。 1945年(昭和20年)高田市長中川潤治が召集され、市長が空席となったため、市会は市会議長の川上を推薦し、5月30日に正式に就任した。
関 重広(せき しげひろ、1892年9月6日 - 1982年… 関 重広(せき しげひろ、1892年9月6日 - 1982年2月13日 )は、日本の電気工学者、社会事業家、工学博士、専門は照明工学。「照明の父」といわれる。 広島県出身(本籍は神奈川県小田原市)。海軍少将関重忠(1863-1945)の子。母は男爵渡辺清の娘文子(1872年生)。祖父は小田原藩士で、幕末の佐幕運動家関重麿。東京帝国大学工学部電気工学科卒業。母が早くに亡くなり、父の後妻として佐賀藩士から官僚になった西岡逾明(1835-1912)の娘・喜美子が入った。 東京芝浦電気(現・東芝)に入社し、日本で初めて蛍光灯照明を開発し、その実用化を成功させる。戦後、関東学院大学教授をつとめる傍ら、妻真理子の伯父石井亮一が創立し、実の伯母石井筆子が学園長をつとめた日本初の知的障害者教育・福祉施設滝乃川学園の理事長(第6代)に就任、13年間つとめた。
丸尾 彰三郎(まるお しょうざぶろう、1892年(明治25年… 丸尾 彰三郎(まるお しょうざぶろう、1892年(明治25年)9月4日 - 1980年(昭和55年)7月24日)は、昭和期の日本の美術史家 、美術評論家 。専門は日本彫刻史。 1892年(明治25年)9月4日、岡山県に生まれる。1919年(大正8年)に東京帝国大学文科大学美学美術史科を卒業。1921年(大正10) 文部省図書館員教習所講師、翌年1922年(大正11)文部省古社寺保存計画調査嘱託、1930年(昭和5年)帝国美術院附属美術研究所事務嘱託、その間に東京女子高等師範学校、東京女子大学、慶応義塾大学の講師をつとめ、1932年(昭和7年)から1946年(昭和21年)まで文部省国宝鑑査官を務めた。
延原 謙(のぶはら けん、本名読み:ゆずる、1892年9月1… 延原 謙(のぶはら けん、本名読み:ゆずる、1892年9月1日 - 1977年6月21日)は、日本の編集者、翻訳家。シャーロック・ホームズなど探偵小説の翻訳で知られる。別名に小日向 逸蝶。 妻は劇作家・フランス文学者岸田國士の妹の勝伸枝。 1892年9月1日、京都で生まれた。父は竹内(旧姓馬場)種太郎、母は竹内文で、謙は二男である。父の種太郎は謙出生の翌年に死去し、母と兄とともに暮らすことになった。この際、戸籍上では母方の祖母の妹の養子となり、姓は延原となった。母の文は学校教師をしながら下宿屋を営み生計を立てた。1894年、母と兄とともに、母の実家である岡山県津山に引っ越した。1899年、文は津山に女学校を建て英語などを教えつつ2人の息子を育てた。
藤森 成吉(ふじもり せいきち、1892年8月28日 - 1… 藤森 成吉(ふじもり せいきち、1892年8月28日 - 1977年5月26日)は、日本の小説家、劇作家。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)生まれ。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)卒業、第一高等学校卒業、東京帝国大学文科大学独文科卒業。 東京帝大在学中に執筆した『波』で小説家として広く知られるようになった。1926年以降劇作に転向し『何が彼女をさうさせたか』が話題を呼んだ。社会主義への関心も深め、全日本無産者芸術連盟の初代委員長を務めた。このとき、細井和喜蔵の『女工哀史』の出版にも尽力している。1928年の第16回衆議院議員総選挙に、労働農民党公認で長野3区から立候補したが次々点に終わる。
岡田 利兵衞(おかだ りへえ、1892年(明治25年)8月2… 岡田 利兵衞(おかだ りへえ、1892年(明治25年)8月27日 - 1982年(昭和57年)6月5日)は、国文学者。号は柿衞。聖心女子大学名誉教授。伊丹市長、伊丹市名誉市民。柿衞文庫設立者。逸翁美術館元館長。位階は従五位。 1892年、兵庫県伊丹市生まれ。生家は江戸時代より続く酒造業を営む岡田家であり、22代目当主として利兵衛を襲名。1918年、京都帝国大学文科大学国文科を卒業。 卒業後は梅花女子専門学校で教鞭をとる。1937年10月から1939年7月まで伊丹町長をつとめた。戦後の1945年12月17日、第4代伊丹市市長に就任。1946年11月26日に退任するまで、戦後復興に尽力した。市長退任後は公職追放となった。
秋元 梅吉(あきもと うめきち、1892年8月26日 - 1… 秋元 梅吉(あきもと うめきち、1892年8月26日 - 1975年2月8日)は、日本の社会事業家・教育者・キリスト教指導者・編集者である。 視覚障害当事者として視覚障害者のための福祉ホーム・点字出版社である東京光の家を創設したしたほか、日本初の点字『旧約聖書』シリーズ全巻を刊行した。 1892年 東京・中野の大地主の家に生まれる。先天性の弱視であり、5歳で失明。 1906年(明治39年)、14歳で東京盲唖学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)に入学した。 1913年(大正2年)、台湾人留学生である同級生から『新約聖書』「マルコによる福音書」を紹介され、一章三節の「荒れ野に呼ばわる者の声す。「主の道を備え、その道を直くせよ」」に「電光を受けたように感銘を受けて」キリスト教に入信した。
稲内 清二(いなうち せいじ、1892年(明治25年)8月2… 稲内 清二(いなうち せいじ、1892年(明治25年)8月25日 - 1943年(昭和18年)2月17日)は、内務官僚。千葉県市川市長。 京都府出身。1914年(大正3年)に盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)を卒業した後、1920年(大正9年)に京都帝国大学法学部を卒業した。一年志願兵として陸軍少尉となる。1922年(大正11年)に高等試験に合格した。和歌山県伊都郡長、東牟婁支庁長、熊本県商工課長、同蚕糸課長、香川県社会課長、同地方課長、広島県学務課長、同地方課長、宮崎県学務部長、秋田県学務部長を歴任した。 1940年(昭和15年)に退官した後、同年6月11日に市川市長に就任し、1941年(昭和16年)10月7日まで在任した。
島 保(しま たもつ、1892年〈明治25年〉8月25日 -… 島 保(しま たもつ、1892年〈明治25年〉8月25日 - 1972年〈昭和47年〉1月10日)は、日本の裁判官、最高裁判所判事。東京都出身。 1916年(大正5年)、東京帝国大学法学部卒。殆ど東京地裁に勤務し、1931年(昭和6年)11月に東京控訴院部長、1935年(昭和10年)4月大審院判事、1938年(昭和13年)7月に東京刑事地裁所長、1945年(昭和20年)大審院部長となった。 裁判官任命諮問委員会による諮問の結果、1947年(昭和22年)8月4日、最高裁判所判事に就任。1947年8月4日の最高裁判所発足と同時に最高裁判所判事に就任したうちの1人である。 最高裁では第三小法廷を担当すると共に、大法廷においても死刑合憲判決や三鷹事件・松川事件・八海事件など、戦後司法の根拠となる様々な判決に携わった。
藤田 亮策(ふじた りょうさく、1892年〈明治25年〉8月… 藤田 亮策(ふじた りょうさく、1892年〈明治25年〉8月25日 - 1960年〈昭和35年〉12月12日)は、日本の考古学者。 1892年、新潟県古志郡上北谷村(現見附市/長岡市)に、父・藤田福十郎、母・タケの次男として生まれた。1915年(大正4年)7月、旧制第一高等学校の第三部医科を卒業し、東京帝国大学医科大学に入学するが、近眼のため医者になる道を断念して、同年10月文科大学に転学し、国史学を専攻した。文科大学では黒板勝美の指導を受け、1918年(大正7年)7月、卒業論文「江戸時代の漕運」を提出して史学科を卒業。この時はまでは関心の対象は交通史であり、考古学に深い関心を寄せてはいなかった。
大井上 康(おおいのうえ やすし、1892年(明治25年)8… 大井上 康(おおいのうえ やすし、1892年(明治25年)8月21日 - 1952年(昭和27年)9月23日)は、農業学者、民間育種家。ブドウ「巨峰」の生みの親として、また今日では常識となっている栄養週期理論の提唱者としても知られる。 海軍軍人の子として広島県江田島の海軍兵学校官舎で生まれる。幼少時に病気を患い片足が不自由となったため農業学者を志した。東京農業大学卒業後、茨城県の酒造会社・神谷酒造所牛久葡萄園の技師となる。ここでブドウの交配育種の取り組みと作物栽培法の研究に没頭、また植物に容易に栄養素を与えず、必要な時期に必要な栄養素を最低限与える「栄養週期理論」を提唱した。しかし、この理論は当時の学会では異端視されたため、農学会を去り民間育種家・園芸家となる。
東宮 鉄男(とうみや かねお、旧字体: 東宮 鐵男、1892… 東宮 鉄男(とうみや かねお、旧字体: 東宮 鐵男、1892年〈明治25年〉8月17日 - 1937年〈昭和12年〉11月14日)は、日本の陸軍軍人。「満洲移民の父」と呼ばれた。 満洲を中心に活動した。張作霖爆殺事件の実行者であり、満洲への移民を推進した中心人物として知られる。日中戦争初期の1937年、歩兵第102連隊大隊長として中国で戦死した。死後特進し陸軍大佐となる。 1892年(明治25年)8月17日、群馬県勢多郡宮城村大字苗ヶ島(現:前橋市苗ヶ島町)で9人兄弟の末弟として生まれる。父は群馬県士族で村長も務めた東宮吉勝。旧制前橋中学校利根分校で3年間学んだ後、同本校に編入し1911年(明治44年)に卒業。
山口 多聞(やまぐち たもん、1892年(明治25年)8月1… 山口 多聞(やまぐち たもん、1892年(明治25年)8月17日 - 1942年(昭和17年)6月6日)は、日本の海軍軍人。海兵40期。ミッドウェー海戦において戦死。最終階級は海軍中将。
岡本 季正(おかもと すえまさ、1892年8月16日 – 1… 岡本 季正(おかもと すえまさ、1892年8月16日 – 1967年11月23日)は、日本の外交官。 駐オランダ大使、日蘭協会会長。
鑓田 研一(やりた けんいち、1892年8月16日 - 19… 鑓田 研一(やりた けんいち、1892年8月16日 - 1969年1月28日)は、日本の伝記作家、小説家。作家評伝家。 山口県岩国市生まれ。神戸中央神学校卒業。1915年宇野千代らと回覧雑誌を作る。 トルストイ、プルードンに影響を受け、農民文芸会の機関誌『農民』を拠点に、無政府主義的重農主義を展開。また賀川豊彦に師事しキリスト教、親鸞などに傾倒した。 明治期作家評伝も書き、新島襄の著作の編集も行う。 戦後は一般向け実用書なども執筆した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
田中 たつ(たなか たつ、1892年〈明治25年〉8月14日… 田中 たつ(たなか たつ、1892年〈明治25年〉8月14日 – 1985年〈昭和60年〉8月30日)は日本の政治家、衆議院議員(1期)。旧姓は高坂。 鳥取県米子町(現米子市)に生まれる。小学校卒業後、看護婦養成所に入り、1911年(明治44年)に卒業する。その後、産婆学校を出て、看護婦として病院に勤務し、1922年(大正11年)に産婆を開業した。さらに京都府立医科大学で産婆学を学び、保健婦の資格を得て、1943年(昭和18年)に鳥取県保健婦協会会長に就任した。 1946年(昭和21年)、戦後第1回の総選挙に鳥取県から無所属で立候補して最下位(4位)で当選した。当選後は国民党を経て国民協同党に入った。
森口 多里(もりぐち たり、1892年8月7日 - 1984… 森口 多里(もりぐち たり、1892年8月7日 - 1984年5月5日)は、日本の美術史家・美術評論家、民俗学者。本名は多利(たり)。 岩手県胆沢郡水沢町大町(現:奥州市)にて金物商を営む父森口伊三郎、母カネヨの次男として生まれる。一関中学校(現:岩手県立一関第一高等学校)を経て、1910年(明治43年)に早稲田大学文学部予科に入学。在学中、佐藤功一から美術品の調査を依頼される。また、日夏耿之助主宰の同人誌『假面』同人となる。1914年に早稲田大学文学部英文科を卒業した。卒業後は美術評論活動を行い、『ミレー評伝(ロマン・ロラン著)』の翻訳や『恐怖のムンク』といった評論文を執筆した。森口の多彩な文筆活動は、美術史・美術評論に留まらず、戯曲、建築、そして民俗など多岐にわたり、生涯で50冊余の書作を世に送り出している。
大橋 喜久三(おおはし きくぞう、1892年(明治25年)8… 大橋 喜久三(おおはし きくぞう、1892年(明治25年)8月6日 - 1990年(平成2年)12月24日)は、実業家である。日本油脂取締役、ミサワホーム創業顧問、色材協会会長を務めた。岡山県倉敷市出身。 1892年(明治25年)、岡山県都窪郡倉敷町(現:倉敷市)の名家である大橋良平の三男として生れる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学した。同期には、丸善石油社長になる森寿五郎、日窒コンツェルン首脳陣となる笹田直二郎がいた。その後、1911年(明治44年)同校を卒業し、旧制第六高等学校へ進学する。 1915年(大正4年)に同校を卒業し、1916年(大正5年)東京帝国大学農科大学農芸化学科へ進学する。
田川 誠治(たがわ せいじ、1892年(明治25年)8月5日… 田川 誠治(たがわ せいじ、1892年(明治25年)8月5日 - 1965年 <昭和40年> 9月2日)は、日本の商人(米穀並びに酒類商)、実業家、政治家。位階は従六位。 神奈川県三浦郡田浦町(現横須賀市)出身。田川平三郎の二男。1916年3月、慶應義塾大学部理財科卒業。米穀並びに酒類商を営む。神奈川県会議員に当選し、2期つとめた。 横須賀酒類商業組合理事長、横須賀タクシー会長、湘南商事、神奈川県容器各社長、田浦土地建物、神奈川無尽、神奈川県油工業、神奈川県食糧工業各取締役、神奈川県食糧営団専務理事などをつとめた。1965年死去。死没日付をもって従六位に叙された。 自由主義者で、福沢諭吉の「独立自尊」を信奉しており、子供には干渉しなかった。
藤田 八郎(ふじた はちろう、旧姓・吉田、1892年〈明治2… 藤田 八郎(ふじた はちろう、旧姓・吉田、1892年〈明治25年〉8月5日 - 1976年〈昭和51年〉7月6日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。 三重県出身。吉田徳善の八男。藤田徳三郎の養子となる。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。1919年(大正8年)に判事となった。東京地裁、東京控訴院などを経て、1937年(昭和12年)7月に大審院判事になった。1941年(昭和16年)2月に大阪地裁所長、1944年(昭和19年)3月に札幌控訴院院長に就任。 裁判官任命諮問委員会による諮問の結果、1947年(昭和22年)に最高裁発足と同時に裁判官出身者として56歳で最高裁入りした。
鈴木 里一郎(すずき さといちろう、1892年(明治25年)… 鈴木 里一郎(すずき さといちろう、1892年(明治25年)8月5日 - 1969年(昭和44年)12月12日)は、日本の政治家、実業家。 明治25年(1892年)、静岡県敷知郡篠原村(のち浜名郡篠原村、現・浜松市中央区)に生まれる。 明治大学を経て画商として名を成し、東京・銀座の代表的な画廊の一つ、青樹社画廊を経営する。 昭和22年(1947年)の第23回衆議院議員総選挙では日本自由党から出馬し、当選を果たす。 同年、設立された東京電気自動車の外山保より、義父である鈴木に資金要請の相談が入り、画廊の顧客でもあったブリヂストン社長の石橋正二郎から出資を得ることとなった。石橋が400万円、鈴木その他が300万円を出資し、資本参加することとなり、昭和24年1月、鈴木が経営上の全責任を負う社長に就任し、石橋は会長に就任。
石橋 義雄(いしばし よしお、1892年 <明治25年> 8… 石橋 義雄(いしばし よしお、1892年 <明治25年> 8月4日 - 1976年 <昭和51年> 2月26日)は、日本の経営者、銀行家。北國銀行頭取を務めた。位階は従五位。 福岡県出身。1914年に長崎高等商業学校を卒業し、同年5月に日本銀行に入行。 1945年4月に監事に就任し、1947年2月には北國銀行頭取に就任し、1961年1月から1966年7月までに会長を務めた。 1957年に黄綬褒章を受章し、1965年に勲四等旭日小綬章を受章。 1976年2月26日、心不全のために死去。83歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
林田 正治(はやしだ まさはる、1892年8月3日 - 19… 林田 正治(はやしだ まさはる、1892年8月3日 - 1979年12月14日)は、日本の内務官僚、政治家。 衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)、熊本市長(16代)、新竹州知事。 熊本県下益城郡城南町(現熊本市南区)に生まれる。済々中学、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業し、1918年(大正7年)内務省に入省する。のち渡台し、1939年(昭和14年)新竹州知事を務める。 終戦後の1946年(昭和21年)第22回衆議院議員総選挙に熊本選挙区から日本進歩党より出馬し当選。1948年(昭和23年)熊本市助役を経て、1952年(昭和27年)第16代熊本市長に就任。1956年(昭和31年)第4回参議院議員通常選挙では熊本県選挙区から無所属で出馬し当選する。
新田 愛祐(にった あいすけ、1892年〈明治25年〉8月3… 新田 愛祐(にった あいすけ、1892年〈明治25年〉8月3日 - 没年不明)は、日本の実業家。新田ベニヤ工業社長。日本皮革工聯理事長。父は新田帯革製造所(現・ニッタ)創業者の新田長次郎。 大阪府平民、新田帯革製造所社長・新田長次郎の四男、あるいは五男。1913年、東京高等工業学校応用化学科を卒業。 新田帯革北海道工場長、新田ベニヤ十勝工場長、日本畜産増殖、新田化学工業、新田帯革製造所各代表、日本皮革工聯理事長、新田膠質工業顧問、新田産業取締役、新田ベニヤ工業、日新ボード、新田産業各社長などをつとめる。 新田宗一、新田長三、新田昌次の弟である。会社重役である。1921年、分家する。 趣味は蹴球、競馬、読書。
藤井 新一(ふじい しんいち、1892年(明治25年)8月2… 藤井 新一(ふじい しんいち、1892年(明治25年)8月2日 – 1971年(昭和46年)3月4日)は、大正末から昭和期の政治学者、法学者、政治家。参議院議員(1期)。 香川県三木郡平井村井上(木田郡平井村、平井町を経て現三木町井上)で、藤井宇平の三男として生まれる。平井村北尋常小学校、木田郡五ケ村組合立白山高等小学校高等科、香川県立大川中学校(現香川県立三本松高等学校)を経て、1917年(大正6年)7月、早稲田大学高等師範部英語科を卒業した。アメリカ合衆国に留学し、同年9月、語学習得のためカリフォルニア州サンタバーバラ郡ユバチノ公立小学校第1学年に入学し、1918年(大正7年)1月に同州サンノゼ市公立ヘスター第1小学校に転校し、同年7月、小学課程を9ヶ月で卒業した。
増谷 麟(ますたに りん、1892年8月 - 1967年5月… 増谷 麟(ますたに りん、1892年8月 - 1967年5月)は日本の現像技師、実業家である。PCL(現在のソニーPCL)創立社長、日本ポリドール社長等を歴任、「ソニー育ての親」として知られる。 福留繁海軍中将は自著『海軍生活四十年』の中で、増谷の厚い友情にふれている。 ソニー創業者井深大は増谷の葬儀のとき読んだ弔辞の中で次のように述べている。「今のソニーも、増谷さんには創立前から相談にのっていただき、山のものとも海のものとも分からない時に、多額の出資もお願いしました。爾来、名前は、相談役や監査役でしたが、いつも親身になって心配し、喜んでくださいました。…」。
山口 馬城次(やまぐち まきじ、1892年(明治25年)8月… 山口 馬城次(やまぐち まきじ、1892年(明治25年)8月6月 - 1987年(昭和62年)6月17日)は、大正から昭和期の山林地主、実業家、政治家。衆議院議員、大分県宇佐郡麻生村長、初代旧宇佐市長、宇佐市名誉市民。 大分県宇佐郡麻生村大字山口(四日市町を経て現宇佐市)で、山口格の二男として生まれる。大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1914年(大正3年)早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。帰郷して1924年(大正13年)父の隠居に伴い家督を相続し農業を営む。 1930年(昭和5年)麻生村長に就任し4期在任。1931年(昭和6年)大分県会議員に選出され3期在任し、同副議長を務め、1940年(昭和15年)同議長に就任した。
魚木 忠一(うおき ただかず、1892年7月31日 - 19… 魚木 忠一(うおき ただかず、1892年7月31日 - 1954年12月10日)は、日本のプロテスタント神学者、同志社大学神学部および大学院神学研究科教授、文学博士。 愛媛県松山市三番町生まれ。松山夜学校(現・松山学院高等学校)に5年間通った後同校教師となり、西村清雄校長から人格と学業において大きな影響を受ける。1917年同志社大学神学部に入学。卒業後1922年から米国シカゴ大学、ユニオン神学校、コロンビア大学、さらにドイツ・マールブルク大学神学部で学び、特にユニオン神学校ではA・C・マッギファート(英語版)の影響を受けた。帰国後の1927年に同志社大学文学部神学科講師、1930年に教授となる。
金森 誠之(かなもり しげゆき、1892年7月27日 - 1… 金森 誠之(かなもり しげゆき、1892年7月27日 - 1959年8月19日)は、日本の河川技術者、内務官僚。発明家、映画人でもあった。 土木の仕事を、「地球芸術」と称していた。 和歌山県有田郡出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省に入省。東京土木出張所に勤務し、利根川第二期改修工事に従事した。1927年、「煉瓦積ノ改善、特二其ノ補強二関スル研究」(『土木学会誌』)で工学博士号を得ている。 1918年(大正7年)から1921年(大正10年)までは、多摩川改修事務所に勤務。その後、1924年(大正13年)から1929年(昭和4年)まで、1年間の欧米諸国出張を挟んで、1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)までの2度にわたり、同事務所の所長を務めた。
佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1892年〈明治25年〉… 佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1892年〈明治25年〉7月26日 - 1973年〈昭和48年〉4月19日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。参議院議員(1期)。 栃木県河内郡豊郷村(現宇都宮市)出身。1909年(明治42年)栃木県立宇都宮農学校(現栃木県立宇都宮白楊高等学校)を卒業した。 1927年(昭和2年)河内郡農会代議員に就任。その他、1929年(昭和4年)豊郷村会議員に選出され、同村消防組頭も務めた。1937年(昭和12年)満洲国に移り南満洲鉄道嘱託、軍人、官吏となる。 終戦後に帰国し、豊郷村農業会長、同農業協同組合長を務め、1947年(昭和22年)栃木県議会議員に選出され2期在任し、1951年(昭和26年)同議長となった。
北村 文衛(きたむら ふみえ、1892年(明治25年)7月2… 北村 文衛(きたむら ふみえ、1892年(明治25年)7月25日 - 1957年(昭和32年)1月12日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 宮城県桃生郡鷹来村(現在の東松島市)出身。第二高等学校を経て、1917年(大正6年)に京都帝国大学法科大学を卒業。大阪商船株式会社に入社し、上海、神戸、大阪の支店で勤務した。1923年(大正12年)、仙台市に弁護士事務所を開業し、仙台弁護士会副会長を務めた。1927年(昭和2年)からは宮城県会議員に選出された。 1939年(昭和14年)、衆議院補欠選挙で当選を果たした。 1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。
大村 義雄(おおむら よしお、明治25年(1892年)7月2… 大村 義雄(おおむら よしお、明治25年(1892年)7月24日 - 没年不詳)は日本の実業家。 大正9年(1920年)東大経済学部卒。 人権擁護委員、出雲大社神社総代を歴任。 八田工業(株)取締役会長、出雲造船(株)取締役。 宗教は神道。住所は島根県簸川郡大社町(現出雲市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
三宅 周太郎(みやけ しゅうたろう、1892年(明治25年)… 三宅 周太郎(みやけ しゅうたろう、1892年(明治25年)7月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、演劇評論家。媚びぬ劇評に徹し、また、文楽の興隆に尽くした。 兵庫県加古川市寺家町の造酒屋に生まれた。6歳のとき父が建てた芝居小屋に、入りびたって育った。同志社中学校、慶應義塾大学予科、本科文学部と進んだ学生時代にも、歌舞伎や文楽を見続けた。 1917年(大正6年)(25歳)、三田文学に『新聞劇評家に質す』を寄せ、三木竹二、杉贋阿弥、岡鬼太郎らを称揚し、饗庭篁村、伊原青々園、七代目松本幸四郎らを批判して、劇壇・文壇に反響を呼び、小山内薫らに認められた。『演藝画報』誌にも書くようになった。
瀬戸 英一(せと えいいち、1892年7月21日 - 193… 瀬戸 英一(せと えいいち、1892年7月21日 - 1934年4月11日)は、日本の劇作家。 大阪市曾根崎新地生まれ。父は文士の瀬戸半眠。英一は大倉商業学校、日本中学高等学部などに学んだが、生来、文学を好み、早くから新聞雑誌記者生活に入り、岡鬼太郎に師事し、閻太郎の筆名で劇評を書いた。 明治45年(1912年)11月、明治座の伊井蓉峰のもとに狂言作者として入り、「経国美談」の脚色を機に、新派劇の作者となり、のち松竹文芸部専属となり新派劇の脚本を数多く創作した。 その中でも「人来鳥」「夜の鳥」「わくら葉」「怪談小車双紙」「花の夜がたり」「二筋道」などが代表作とされる。凋落の新派の人気を一時盛り返させた。
大西 新蔵(おおにし しんぞう、1892年(明治25年)7月… 大西 新蔵(おおにし しんぞう、1892年(明治25年)7月17日 - 1988年(昭和63年)1月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 東京府(現・東京都江戸川区)出身。東京府立第三中学校から海軍兵学校(42期)へ進む。席次は入校時120名中首席、卒業時は117名中3番。海軍砲術学校高等科学生に進み、砲術専攻士官となる。また東京帝国大学で教育学を学んでいる。海軍大学校甲種学生に進んだが、入試は不合格であった。航空関係者を入校させるため人数あわせで入校を許されている。 1928年(昭和3年)10月、42期首席であった三木繁二少佐が死去すると、大西がクラスヘッドになっている。海軍兵学校教官を経てドイツ駐在となった。
辰野 九紫(たつの きゅうし、1892年7月16日 - 19… 辰野 九紫(たつの きゅうし、1892年7月16日 - 1962年8月6日)は日本の小説家。鳥取県鳥取市出身。東京帝国大学法学部卒。本名、小堀竜二。別名に双竜子。 大学卒業後、十年以上のサラリーマン生活を経た後、1929年(昭和4年)懸賞小説として「青バスの女」を「新青年」に投稿、以後、作家となる。 その後は「モダン日本」「サンデー毎日」「スタイル」などに寄稿。主にユーモア小説の第一人者となった。1936年(昭和11年)には、佐々木邦らとともにユーモア作家倶楽部を結成、自ら世話人もつとめた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
箸本 太吉(はしもと たきち、1892年(明治25年)7月1… 箸本 太吉(はしもと たきち、1892年(明治25年)7月16日 – 1961年(昭和36年)7月25日)は、衆議院議員(立憲政友会)、外務参与官。ジャーナリスト。 石川県金沢市出身。日本大学で学んだ後、『中外商業新報』政治部記者となり、ロンドン特派員を務めた。その後『萬朝報』に入社し、常務取締役営業局長・編集局長、専務取締役・主筆を歴任した。また平沼騏一郎日本大学総長の秘書や日本大学講師を務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に石川県第1区から出馬し、初当選。合計で5期務めた。その間、平沼内閣で外務参与官に就任した。 1946年(昭和21年)、大政翼賛会の推薦議員のため、公職追放となった。
武谷 甚太郎(たけたに じんたろう、1892年(明治25年)… 武谷 甚太郎(たけたに じんたろう、1892年(明治25年)7月16日 - 1976年(昭和51年)2月28日)は、大正から昭和期の新聞編集者、実業家、政治家。衆議院議員、金沢市長、石川県会議長。 石川県石川郡鶴来町(現白山市)で、武谷久太郎、イトの二男として生まれる。1914年(大正3年)早稲田大学に入学し政治経済科で学んだ。政治運動に参加して検束され、1917年(大正6年)12月に早大を中退した。 その後、太平洋通信記者となり、1918年(大正7年)6月、中国民報(現山陽新聞)記者、さらに1922年(大正11年)3月、帰郷して北陸毎日新聞(現北國新聞)主筆に就任し、編輯長、取締役を歴任した。
結城 鉄雄(ゆうき てつお、1892年7月15日 - 197… 結城 鉄雄(ゆうき てつお、1892年7月15日 - 1971年6月18日)は、日本の経営者。大日本セルロイド社長を務めた。福岡県久留米市出身。 1915年に東京高等商業学校を卒業。三井物産での勤務を経て、大日本セルロイドに転じ、1937年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1955年1月には社長に就任。1964年1月から1968年1月までに会長を務めた。富士写真フィルム監査役も務めた。 1962年に藍綬褒章を受章し、1966年に勲三等旭日中綬章を受章。 1971年6月18日急性心不全のために死去。78歳没。
田辺 勝正(たなべ かつまさ、1892年7月15日 - 19… 田辺 勝正(たなべ かつまさ、1892年7月15日 - 1973年12月29日)は、日本の農学者、官僚。北海道拓殖短期大学初代学長。北海道拓殖短期大学名誉学長。「田邊勝正」とも表記される。 愛媛県出身。1920年(大正9年)北海道帝国大学農学部卒業。農商務省に入省し、同小作官を務める。1946年農林省農政局農地部長兼東京農地事務局長。1949年同農地局管理部長。1950年農林省を退官。財団法人農政調査会副会長。1951年東京大学経済学部講師。1952年東京教育大学農学部講師。1955年拓殖大学経済学部教授・同大学院経済学研究科教授(農業政策論を担当)。1966年北海道拓殖短期大学学長。1968年北海道拓殖短期大学退任。
田万 清臣(たまん きよおみ、1892年(明治25年)7月8… 田万 清臣(たまん きよおみ、1892年(明治25年)7月8日 - 1979年(昭和54年)5月22日)は、昭和時代の政治家、弁護士。労働運動家。衆議院議員(3期)。配偶者は婦人活動家の田万明子。 香川県に生まれる。1919年(大正8年)京都帝国大学独法科を卒業する。大学では弁論部初代部長を務め、河上肇に傾倒した。 卒業後、弁護士を開業し労働運動に参加。大阪市会議員、同参事会員、同学務委員、借地借家調停委員、大日本興亜同盟理事を歴任した。1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙では大阪府第1区から社会大衆党所属で出馬し当選。つづく第20回、第21回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算3期務めた。