佐藤 四郎(さとう しろう、1883年〈明治16年〉 - 1… 佐藤 四郎(さとう しろう、1883年〈明治16年〉 - 1974年〈昭和49年〉)は、日本の建築家。大同電力(関西電力などの前身)に入社し、長野県から岐阜県にかけて木曽川沿いに点在する、いくつかの水力発電所の建物設計を手がけた。 山形県米沢市に生まれる。1907年(明治40年)に東京帝国大学(現・東京大学)へ入学。在学中の罹患により、同級生である高松政雄、安井武雄、内藤多仲らに遅れて1913年(大正2年)に卒業。すぐ横浜市の山田七五郎のもとで開港記念会館の設計に携わる。1917年(大正6年)に工場建築を主とする野村建築事務所(大阪市)に入所。1921年(大正10年)、福澤桃介に招かれ大同電力に入社。
鳥居 信平(とりい のぶへい、明治16年(1883年) - … 鳥居 信平(とりい のぶへい、明治16年(1883年) - 昭和21年(1946年))は、台湾で活動した農業土木技術者。 1883年、静岡県周智郡上山梨村(現・袋井市)に生まれる。1900年静岡県静岡中学校卒業。第四高等学校(四高)、東京帝国大学農科大学を卒業後、農商務省などを経て、1914年に農業土木の専門家として台湾製糖へ入社する。四高では八田與一の3年先輩にあたる。台湾南部一帯でサトウキビなど農業生産を高めるための工事を指揮した。現在も屏東県には鳥居が工事に携わった二峰圳などの地下ダムや農業用水路が現存している。
安田 耕之助(やすだ こうのすけ、1883年〈明治16年〉 … 安田 耕之助(やすだ こうのすけ、1883年〈明治16年〉 - 1944年〈昭和19年〉)は第八代京都市長。大蔵省出身で衆議院議員や京都市会議長などを歴任した。 安田平四郎とその妻・津留(井上嘉助三女、1860年生)の二男として京都に生まれる。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、その翌年には文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入り税務監督局に所属すると司税官、税関事務官、税務監督官、及び兼任で朝鮮総督府事務官等を務めた。 1925年(大正14年)京都市長に選出されたが、1927年(昭和2年)8月に病気を理由に辞任。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙では京都府第一区より出馬し当選(当選一回)。
楢岡 徹(ならおか とおる、1883年 - 1956年)は、… 楢岡 徹(ならおか とおる、1883年 - 1956年)は、日本の内務官僚。新庄町長(1期)、山形県新庄市出身。 戦後、公職追放となる。
石神 球一郎(いしがみ きゅういちろう、1883年〈明治16… 石神 球一郎(いしがみ きゅういちろう、1883年〈明治16年〉- 1932年〈昭和7年〉)は甑島出身の技術者。金瓜石鉱山所長及び台湾鉱業会理事を務めた。本項では甑島における鹿の子百合球根輸出の先駆けとなった父の石神弘志についても併せて記述する。 石神家は鹿児島県上甑島の士族であり、1862年(文久2年)の文久の法難の際に地頭の石神萬兵衛を派遣したという記録が残っている。その後明治維新を経て父・弘志は東京の警視庁に警部として勤める。1873年(明治6年)に西郷隆盛が官職を辞し鹿児島へ帰ると、多くの同調者がそれに倣った。弘志もまた職を辞し故郷の鹿児島に戻ったが、私学校の生徒らに官軍のスパイと疑われ捕らえられてしまう。
友松 文雄(ともまつ ふみお、明治16年(1883年) - … 友松 文雄(ともまつ ふみお、明治16年(1883年) - 昭和31年(1956年))は、日本の教育者。元鳥取県米子市教育長友松康雄の父。 鳥取県久米郡小鴨村(現在の倉吉市)に生まれた。 鳥取県師範学校卒業後、角盤・箕蚊屋高小教諭を務めたのち淀江・義方・啓成小校長を歴任し、傍ら第14代西伯教育会長として教育界に尽くした。 鈴木千代松角盤高小校長らと諮り山陰連合教育大会結成によって教権の拡大強化を考え京都府・兵庫県・島根県の加盟に成功、大正7年(1918年)第1回を米子市で開催。以来昭和5年(1930年)まで22回開催。 一方、体育振興に努め米子公設運動場の設置に奔走し大正15年(1926年)開場を記念して第1回中国オリンピック大会を実現させた。
牧野 昌広(まきの まさひろ、1883年‐1939年)は、明… 牧野 昌広(まきの まさひろ、1883年‐1939年)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 小林清親及び寺崎広業の門人。1883年に本荘県(現・秋田県)本荘市(現・由利本荘市)中横町に、お抱え絵師の牧野雪僊の孫として生まれる。本名は昌造。1897年頃、清親に入門したといわれ、1900年、昌広18歳の時に東京へ上京する。この頃、浮世絵は衰退期にあたり、後に郷里の先輩であった寺崎広業に師事した。昌広は身体が病弱であったため、実力を発揮することができなかった。1939年に東京で没す。
玉木 信助(たまき しんすけ、別表記:玉木 信介、1883年… 玉木 信助(たまき しんすけ、別表記:玉木 信介、1883年〈明治16年〉 - 1905年〈明治38年〉9月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少尉。 新潟県南蒲原郡三条一之町(現 三条市本町3丁目)の呉服商・玉木善作の四男として出生。新潟中学校に学び、同級生に青木得三、安倍邦太郎、伊藤精司、白勢量作などがいた。 1901年(明治34年)3月に新潟中学校で4年を修了後、4月に東京の日比谷中学校に入学、7月7日から8月2日にかけての海軍兵学校(32期)の生徒召募試験に及第して12月16日に入校、同期に同郷の山本五十六がいた。 1904年(明治37年)11月14日に日露戦争のため海軍兵学校を1カ月繰り上げ卒業、同日に海軍少尉候補生を命じられ、卒業試験に落第した西村七三郎を除く同期190名と「韓崎丸」に乗艦して練習に従事。
中野 並助(なかの なみすけ、1883年(明治16年) - … 中野 並助(なかの なみすけ、1883年(明治16年) - 1955年(昭和30年)5月23日)は、日本の検察官。日本の検事総長。弁護士。群馬県南甘楽郡神川村(現神流町)出身。
李 宣威(り せんい、1883年 – 没年不明)は、清末民初… 李 宣威(り せんい、1883年 – 没年不明)は、清末民初の官僚。字は律閑、律閣、津閣。王克敏の側近的存在で、北京政府と中華民国臨時政府で王を補佐した。 清末に日本へ留学し、1907年(光緒33年・明治40年)7月に東京高等工業学校電気科選科を修了・卒業した。帰国後は郵伝部員外郎をつとめている。 中華民国成立後の李宣威は、北京政府の財政部で秘書などを歴任したと見られる。1923年(民国12年)4月21日、全国財政討論委員会委員に任命され、11月23日には塩務署秘書をつとめた。なお、財政総長から失脚した王克敏が馮玉祥に逮捕されそうになった際に、身一つで逃げる王を李が救援し、日本大使館の庇護を受けられるようにしたとされる。
石井 秀吉(いしい ひでよし、1883年 - 1941年11… 石井 秀吉(いしい ひでよし、1883年 - 1941年11月2日)は、将棋棋士。七段。東京の京橋生まれで深川育ち。川井房郷七段門下。 日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 戦前死没者のため、日本将棋連盟ウェブサイト内「物故棋士一覧」に名前の掲載はないが、「棋士データベース」における加藤恵三八段、佐瀬勇次名誉九段の「師匠」欄、および「棋士系統図」においてその名を確認することができる。 明治43年(1910年)28歳の時に入段、大正4年(1915年)までに将棋同盟会(後の将棋同盟社、日本将棋連盟の前身の一つ)に付け出し二段で加入し、同年中に三段、大正7年(1918年)四段、大正11年(1922年)五段、大正14年(1925年)に六段に昇段した。
恵比寿洋 直三郎(えびすなだ なおさぶろう、1883年 - … 恵比寿洋 直三郎(えびすなだ なおさぶろう、1883年 - 1915年8月10日)は、富山県旧婦負郡野積村(富山市八尾町)出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は邑崎 直次郎(むらさき なおじろう)。 1883年に富山県旧婦負郡野積村(現富山市八尾町)に生まれ、その後地元の布谷小学校(現富山市立八尾小学校)を卒業した。上京後、25歳でヱビスビールに関係する会社に勤務。身長約185cmの大柄な体格から、同社の重役に角界入りを勧められた。初めは断ったものの、横綱常陸山ら大相撲関係者の熱心な誘いで、27歳だった1911年に出羽海部屋に入門。しこ名はヱビスビールにちなんだ。出羽海部屋へ入門後は自身の武器である怪力を活かして番付を上げ、1915年1月場所において、序ノ口から所要8場所で新十両へと昇進するというスピード出世を果たした。
13代 稲葉 市郎右衛門(いなば いちろうえもん、1882年… 13代 稲葉 市郎右衛門(いなば いちろうえもん、1882年〈明治15年〉12月31日 - 1954年〈昭和29年〉8月2日)は、京都府熊野郡久美浜村(現・京都府京丹後市)出身の実業家・銀行家・政治家。京都府会議長、久美浜町長。稲葉市郎右衛門景介(いなば いちろうえもん けいすけ)とも呼ばれる。国鉄峰豊線(現・京都丹後鉄道宮津線)の開業に際して多額の私財を投じたことで知られる。 1882年(明治15年)12月31日、京都府熊野郡久美浜村(現・京丹後市)に生まれた。幼名は景介。 父は12代稲葉市郎右衛門(稲葉市郎右衛門英裕)、母はきせ。12代稲葉市郎右衛門は前妻のきせとの間に一男三女、後妻のとしとの間に四女を儲けており、景介は長男だった。
田寺 俊信(たでら としのぶ、1882年(明治15年)12月… 田寺 俊信(たでら としのぶ、1882年(明治15年)12月30日 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、姫路市長。族籍は兵庫県平民。 兵庫県飾西郡今宿村(飾磨郡高岡村を経て現姫路市)出身。兵庫県議会議長・田寺敬信の長男。第三高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し鳥取県属となる。 以後、鳥取県試補、同県八頭郡長、同理事官・庶務課長、高知県理事官・教育課長、同地方課長・視学官、奈良県理事官・教育課長・視学官、奈良県警察部長、長野県警察部長、香川県内務部長、埼玉県内務部長、愛知県警察部長などを歴任。
佐々木 謙一郎(ささき けんいちろう、1882年(明治15年… 佐々木 謙一郎(ささき けんいちろう、1882年(明治15年)12月29日 – 1953年(昭和28年)6月29日)は、日本の大蔵官僚。南満州鉄道副総裁。 第一銀行頭取佐々木勇之助の長男として生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。大蔵省に入り、税務監督局属、税務監督官、税関監視官、同事務官、神戸税関監視部長、横浜税関監視部長、大蔵参事官、大蔵書記官、大臣官房会計課長等を歴任した。1923年(大正12年)より専売局経理部長、事業部長、販売部長を経て、1932年(昭和7年)に専売局長官に就任した。専売局長在任中に収集品取扱係を設置し、浮世絵・喫煙具などたばこ関係の歴史資料の収集を始め、それらの収集品はたばこと塩の博物館の母体となった。
倉橋 惣三(くらはし そうぞう 1882年12月28日 - … 倉橋 惣三(くらはし そうぞう 1882年12月28日 - 1955年4月21日)は、日本の児童心理学者。
岡 正雄(おか まさお、1882年〈明治15年〉12月27日… 岡 正雄(おか まさお、1882年〈明治15年〉12月27日 - 1948年〈昭和23年〉10月3日)は、日本の内務・警察官僚。憲政会系官選県知事、内務省警保局長。 島根県松江市出身。岡政徳の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年、内務省に入省し、北海道庁属となる。 以後、北海道庁事務官補、同理事官、佐賀県理事官、新潟県理事官、青森県警察部長、鳥取県内務部長、愛知県警察部長などを歴任。 1924年7月、富山県知事に就任。県営林造成、第二次伏木港築港工事、県営電力開発などに尽力。憲政会系と見られていたが、公正な県政運営により県民の信頼を得た。
豊田 勝蔵(とよだ / とよた かつぞう、1882年(明治1… 豊田 勝蔵(とよだ / とよた かつぞう、1882年(明治15年)12月27日 - 1939年(昭和14年)11月23日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選福井県知事、樺太庁長官、台湾総督府内務局長、萩市長を歴任。 山口県阿武郡萩町細工町(現萩市細工町)出身。豊田三蔵の長男。旧制山口高等学校を経て、1908年東京帝国大学法科大学法律学科卒業。内務省に入省し、埼玉県属となる。1909年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、鹿児島県事務官、同理事官、秋田県警察部長、静岡県警察部長、台湾総督府警務官、台北高等商業学校長兼総督府参事官などを歴任。 1924年7月、福井県知事就任。郡役所廃止後に備えた吏員講習所の設置、県営印刷所の設置、自作農創設の新政策の実施などを推進した。
今成 留之助(いまなり とめのすけ、1882年(明治15年)… 今成 留之助(いまなり とめのすけ、1882年(明治15年)12月26日 - 1965年(昭和40年)6月17日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 新潟県高田市(現在の上越市)出身。税務属となった後、日露戦争に従軍。後、1907年(明治40年)に日本大学を卒業し、判事検事登用試験に合格した。司法官試補を経て、甲府地方裁判所・甲府区裁判所判事、新潟地方裁判所判事を務めた。その後新潟市で弁護士を開業し、新潟市会議員、同参事会員、新潟県会議員、同参事会員に選出された。 1937年(昭和12年)、第20回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第21回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。戦後、日本進歩党の結成に参加するが、大政翼賛会の推薦議員だったため、公職追放となった。
増永 正一(ますなが しょういち、1882年(明治15年)1… 増永 正一(ますなが しょういち、1882年(明治15年)12月25日 - 1944年(昭和19年)8月1日[要出典])は、日本の裁判官、検事。勲二等、従三位。 千葉県出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補となった。前橋地方裁判所判事、横浜地方裁判所判事、横須賀区裁判所判事、横浜区裁判所判事を歴任。1920年(大正9年)に朝鮮総督府裁判所に転じ、1925年(大正14年)に欧米に出張した。帰国後、高等法院判事、高等法院部長を経て、1934年(昭和9年)に朝鮮総督府法務局長となり、1937年(昭和12年)に高等法院検事長に就任した。 1943年(昭和18年)、退官。
橋本 進吉(はしもと しんきち、1882年12月24日 - … 橋本 進吉(はしもと しんきち、1882年12月24日 - 1945年1月30日)は、日本の言語学者・国語学者。 1882年、福井県敦賀市に医師の長男として生まれる。京都府第一中学校(現洛北高校)、第三高等学校(現・京都大学)を経て、1906年に東京帝国大学文科大学言語学科を卒業(銀時計受領)。卒業論文は「係り結びの起源」。 文部省国語調査委員会補助委員、東京帝国大学文科大学国語学教室助手を経て、1927年、同大学国語国文学第一講座助教授に就任。1934年、東京帝国大学より文学博士の学位を取得。1929年には教授に昇任した。1942年、日本文学報国会国文学部会長。1944年、国語学会会長。 1945年、病没。
河本 文一(かわもと ぶんいち、1882年(明治15年)12… 河本 文一(かわもと ぶんいち、1882年(明治15年)12月24日 - 1960年(昭和35年)2月22日)は、日本の大蔵官僚。会計検査院長、枢密顧問官。 山口県美祢郡岩永下郷村(現:美祢市秋芳町岩永下郷)で、河本勝の四男として生まれ、河本兵四郎の養嗣子となる。山口高等学校を経て、1907年7月、京都帝国大学法科大学経済科を卒業。 1907年8月、大蔵省に入省し税務監督局税務属兼大蔵属となり、東京税務監督局に配属された。1908年11月、文官高等試験に合格。以後、宇都宮税務監督局経理部長、税務監督官、秋田税務監督局所得審査委員、税務監督局事務官・仙台税務監督局直税部長、熊本税務監督局直税部長、税務副監督官・札幌税務監督局関税部長、広島税務監督局経理部長事務取扱、大蔵省主計局書記官・臨時官有財産課長、臨時国有財産整理部書記官・総務課長兼管理課長、国有財産整理局書記官、臨時震災救護事務局事務官、兼臨時営繕局書記官、大蔵省参事官兼臨時営繕局書記官・臨時営繕局総務部長心得、兼臨時議院建築局理事などを歴任。
松村 光三(まつむら こうぞう、1882年(明治15年)12… 松村 光三(まつむら こうぞう、1882年(明治15年)12月24日 – 1962年(昭和37年)6月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→自由党)、商工参与官、大蔵政務次官、軍需政務次官。 栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)出身。1909年(明治42年)、東京高等商業学校専攻部(現在の一橋大学)を卒業。その後、ベルリン大学、ベルリン高等商業学校に留学した。古河合名会社参与、大日本人造肥料株式会社監査役、旭電化工業株式会社監査役、八戸水力電気株式会社監査役、日光登山鉄道株式会社取締役、協調会社会政策学院講師を務めた。 1928年(昭和3年)、日本初の普通選挙となった第16回衆議院議員総選挙に出馬して当選。
谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日… 谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日 - 1947年(昭和22年)4月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 陸士15期、陸大24期(優等)。師団参謀長、旅団長、師団長を歴任し、第6師団師団長として第二次上海事変、南京攻略戦に参加した。第二次世界大戦後、南京軍事法廷で、南京事件の首脳クラスの責任者の一人とされ死刑判決、銃殺刑に処せられた。 岡山県の農民出身。岡山中学校、東京府立四中(現東京都立戸山高等学校)卒業。 1937年(昭和12年)10月29日施行を昭和天皇に裁可された、帷幄上奏勅令軍事機密『軍令陸甲第34号』を根拠とした、軍政上の奉勅命令である中支那方面軍司令部の動員命令が、陸軍大臣杉山元大将によって動員担任官へ伝宣され、同司令部の動員がなされた。
江崎 利一(えざき りいち、1882年〈明治15年〉12月2… 江崎 利一(えざき りいち、1882年〈明治15年〉12月23日 - 1980年〈昭和55年〉2月2日)は日本の実業家。江崎グリコの創業者。現・会長の江崎勝久と、その弟の江崎正道の祖父。 佐賀県神埼郡蓮池村(現・佐賀市蓮池町)に生まれた。父は清七、母はタツといって江崎が生まれる二年前から薬種業を始めていた。ときには近在近郷を一軒ずつめぐり歩き、医療の相談相手もつとめていた。暮らしは貧しかった。6人兄弟姉妹の長男(姉2人と弟と妹2人)だった江崎は家事の手伝いや弟妹の子守りに明けくれた。 1897年(明治30年)春、小学校高等科を卒業した。薬の商売のほかに朝食前の塩売りを始めた。1901年(明治34年)6月、父が死去。
岡田 茂吉(おかだ もきち、1882年〈明治15年〉12月2… 岡田 茂吉(おかだ もきち、1882年〈明治15年〉12月23日 - 1955年〈昭和30年〉2月10日)は、日本の芸術家、実業家、思想家、自然農法の創始者、浄霊法の創始者、世界救世教の教祖であり、さまざまな分野で活動した。箱根美術館、熱海美術館(現:MOA美術館)などを創設した。 1882年(明治15年)、東京府浅草区橋場町(現在の東京都台東区橋場)に古道具屋の次男として生まれる。日新尋常小学校を経て、浅草尋常高等小学校(現在の台東区立浅草小学校)に入学する。画家を志し、1897年(明治30年)9月に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)予備ノ課程に入学するも、眼病のため中退を余儀なくする。
岡崎 栄松(おかざき えいまつ、1882年(明治15年)12… 岡崎 栄松(おかざき えいまつ、1882年(明治15年)12月22日 - 1960年(昭和35年)4月28日)は、かつての仙台市長である。 公選による終戦後初めての仙台市長として、同市の戦災復興に尽力した。 宮城県名取郡秋保村(現在の仙台市太白区西部)長袋字町に生まれ、宮城師範学校を経て日本大学法律学科に進学した。 大学卒業後は教育者となり、丸森小学校(宮城県丸森町)訓導、岩出山小学校(同・岩出山町)校長、宮城県桃生郡視学(教育行政官)を経て、1916年(大正5年)には宮城県県視学に就任した。 1919年(大正8年)からは行政職に転じ、横浜市役所、東京市社会局保護課長、同福利課長、同監査課長、同下谷区長、同大森区長、同電気局電灯部長を歴任した。
大島 破竹郎(おおしま はちくろう、1882年(明治15年)… 大島 破竹郎(おおしま はちくろう、1882年(明治15年)12月20日 - 1953年(昭和28年)6月12日)は、日本の官僚。佐賀県知事、高知県知事、郡山市長を歴任した。 福島県若松町に生まれる。会津中学、一高を経て、1908年(明治42年)東京帝国大学を卒業。同年文官高等試験に合格した。合格者106名中の首席は後藤文夫で、大島の席次は8番である。 大島の官歴は大蔵属に始まる。警視庁方面監察、兵庫県事務官などを経て、1914年(大正3年)以後群馬県警察部、石川県警察部、熊本県警察部、佐賀県警察部で県警察部長を務める。1921年(大正10年)からは、徳島県、朝鮮総督府忠清南道の内務部長を歴任した。
中島 権吉(なかじま ごんきち、1882年(明治15年)12… 中島 権吉(なかじま ごんきち、1882年(明治15年)12月20日 - 1946年(昭和21年)12月22日)は、大日本帝国の軍人である。海軍入隊後、海軍少将まで出世し、その後、海軍大学校の教頭を務めた。岡山県高梁市出身。 1882年(明治15年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市川端町)で中島岩松・嘉代の次男として生まれる。旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高校)を経て、1902年(明治35年)海軍兵学校を優等で卒業し、エリートコースを歩むことになる。日露戦争では、東郷艦隊付けとなり、佐世保海兵団附で津島海峡警備に当たった。 1908年(昭和41年)海軍砲術学校特修科を修了し、1917年(大正6年)に3ヶ月渡米出張した後、大正7年から10年まで(1918~21年)英国に駐在した。
寺師 義信(てらし よしのぶ、1882年(明治15年)12月… 寺師 義信(てらし よしのぶ、1882年(明治15年)12月20日 - 1964年(昭和39年)8月13日)は、日本の医師。陸軍軍医中将。日本初の衛生飛行機を作成したことで知られる。 1882年(明治15年)、士族の漢方医伊東楽之助の次男として鹿児島県日置郡日置村(現日置市日吉町日置)に生まれる。満5歳の時に同じく士族である寺師清の養子となり寺師家を継いだ。寺師家では医師が多数いたため義信も医師に成ることを望まれたが、義信は漢詩や文筆を好み小説家を志向していた。鹿児島一中に進み、在学時に森鷗外の『水沫集』の影響を受け地方新聞に小説の連載を持っていた。実父の楽之助から何としても医者になるよう命じられたため義信は思い悩んでいたが、一中の岩崎行親校長から「鴎外先生は大文豪であると共に優れた医学者だ。
山田 正三(やまだ しょうぞう、1882年〈明治15年〉12… 山田 正三(やまだ しょうぞう、1882年〈明治15年〉12月20日 - 1949年〈昭和24年〉1月6日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。法学博士。京都帝国大学名誉教授。京都帝国大学法学部長。衆議院議員山田喜之助の異母弟。雉本朗造門下。弟子に中田淳一、小野木常など。 大阪府大阪市生まれ。山田八郎兵衛の四男。幼い頃東京市に転住、同地に於て初等教育及び中等教育を終えた。1906年、金沢の第四高等学校を卒業した。1909年、京都帝国大学法科大学独法科を卒業した。大学院に進んだが司法官試補となって1910年7月14日、大学院を退学した。 1911年、兄・喜之助方より分家して一家を創立した。1911年11月10日、京都帝国大学法科大学の講師を嘱託された。
平山 訓子(ひらやま おしえこ、1882年12月20日 - … 平山 訓子(ひらやま おしえこ、1882年12月20日 - 1925年5月1日)は、女性ジャーナリスト、文筆家、歌人、実業家。 本名は平山 訓(ひらやま おしえ)、旧姓蔵原、元和歌山県知事で衆議院議員の蔵原敏捷は実弟である。 熊本県下益城郡小川町(現・宇城市)出身、父・蔵原穆、母・そでの長女として生まれる。 1900年3月、熊本女学校を卒業。翌1901年、徳島県出身(生まれは東京府)の平山八十五郎と結婚、一児をもうけるが、1903年5月、夫八十五郎が米国スタンフォード大学留学中に客死したため、同年9月、幼子を実家に預け、九州日日新聞社(のち、熊本日日新聞社に社名変更)に入社した。熊本の女性記者第一号として活動する。
佐上 信一(さがみ しんいち、1882年(明治15年)12月… 佐上 信一(さがみ しんいち、1882年(明治15年)12月19日 - 1943年(昭和18年)11月29日)は、日本の内務官僚。岡山県知事、長崎県知事、京都府知事、北海道庁長官などの要職を歴任した。 広島県佐伯郡五日市村(現在の広島市佐伯区)出身。佐上兵次郎の長男として生まれる。父兵次郎は第4回内国勧業博覧会に灯油を出品した商人であった。広島県立一中(現在の広島県立広島国泰寺高等学校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学(現・東京大学)卒業。 東京帝大卒業後、高等文官試験合格。内務畑を歩み1916年、内務省内務書記官・土木局道路課長。1922年内務省参事官兼内務大臣秘書官・大臣官房文書課長となり、道路課長を兼務。
横山 有策(よこやま ゆうさく、1882年(明治15年)12… 横山 有策(よこやま ゆうさく、1882年(明治15年)12月18日 - 1929年(昭和4年)4月2日)は、日本の英文学者。 1882年(明治15年)岡山県川上郡玉川村(現・高梁市)に生まれる。その後、1895年に旧制高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)の一期生として進学した。1900年に同学校を卒業し、早稲田大学高等予科へ進学。1902年9月に早稲田大学へ入学した。1904年9月には、ラフカディオ・ハーン(日本名:小泉八雲)葬儀で早稲田学生総代として弔辞朗読する。1905年に早稲田大学文学部英文科卒業。1907年渡米しハーバード大学に学び、1910年5月に卒業する。 1911年帰国、早稲田中学校の英語教師となる。
高橋 房次(たかはし ふさじ、1882年12月18日 - 1… 高橋 房次(たかはし ふさじ、1882年12月18日 - 1960年6月29日)は、日本の医師。高木兼寛の「病気を診ずして病人を診よ」の言葉に感銘を受け、北海道白老町で地域医療に貢献した。アイヌも和人も差別せず、貧しい者からは治療代もとらなかった。患者の往診の依頼があれば大雪や吹雪の中でも深夜でも絶対に断らなかった。自身が賞を贈られることについては信条に反することであった。「コタンの赤ひげ」とか「コタンのシュバイツァー」とも呼ばれる。白老小学校に胸像が建てられた。 栃木県下都賀郡間々田村(現・小山市)生まれ。間々田尋常小学校、栃木県立中学校を経て済生学舎で学ぶ。1903年、医師国家試験に合格。日露戦争では従軍医として召集された。
高石 弁治(高石 辨治、たかいし べんじ、1882年〈明治1… 高石 弁治(高石 辨治、たかいし べんじ、1882年〈明治15年〉12月17日 - 1940年〈昭和15年〉3月8日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者・実業家である。愛知県岡崎市の電力会社岡崎電灯に技師として入社し、技師長・常務取締役と昇進、後身の中部電力(岡崎)では副社長を経て社長まで昇った。愛媛県出身。 高石弁治は1882年(明治15年)12月17日、愛媛県宇摩郡寒川村(現・四国中央市)に高石佐吉の長男として生まれた。愛媛県立西条中学校を経て京都の第三高等学校へ進み、1906年(明治36年)7月第二部工科を卒業。次いで1909年(明治42年)7月京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業した。
安孫子 孝次(あびこ こうじ / たかつぐ、1882年(明治… 安孫子 孝次(あびこ こうじ / たかつぐ、1882年(明治15年)12月16日 - 1973年(昭和48年)3月26日)は、日本の農学者、教育者、政治家。衆議院議員、北海道札幌郡琴似町長。 北海道札幌郡琴似村屯田兵村(現札幌市西区琴似)で旧会津藩士・屯田兵、安孫子倫彦の長男として生まれる。農作業の経験から、寒冷地農業の確立の志を持つようになる。北海道庁立札幌中学校を経て札幌農学校に入学。同校が改称した東北帝国大学農学部を1908年に卒業した。 卒業後、北海道庁地方農事試験場技手として採用され、北見分場長に就任。1910年、北海道庁技師・北海道農事試験場渡島支場長に就任。1927年、北海道農事試験場長となる。
久布白 落実(落實、くぶしろ おちみ、1882年 <明治15… 久布白 落実(落實、くぶしろ おちみ、1882年 <明治15年> 12月16日 - 1972年 <昭和47年> 10月23日)は、日本の女性解放運動家。戦前戦後を通じ、女性参政権運動、廃娼運動に尽力した。婦選獲得同盟の総務理事を務めた。位階は正五位。 1882年、熊本県鹿本郡出身の牧師、大久保真次郎と、徳富蘇峰、徳冨蘆花の妹・音羽の長女として生まれる。真次郎は、1902年に渡米し、ハワイとオークランドに日系移民のための教会の設立した人物。幼いころ洗礼を受ける。 1903年(明治36年)、女子学院高等科卒業後、両親の伝道に同行しアメリカへ赴く。1906年に起きたサンフランシスコ地震で、落実は被災者の支援活動を行った際に、日本から移民した娼婦たちが住む地域に通訳として赴き、日系移民女性の悲惨な生活を目の当たりにする矯風会。
川上 親俊(かわかみ ちかとし、1882年(明治15年)12… 川上 親俊(かわかみ ちかとし、1882年(明治15年)12月15日 - 1926年(大正15年)9月6日)は、日本の内務官僚。三重県四日市市長。初名は為繁。 鹿児島県の士族大重為廉の長男として生まれ、川上親晴の養子となった。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格。東京府属、山梨県事務官、同理事官、秋田県警察部長、滋賀県警察部長、愛媛県内務部長などを歴任した。 1923年(大正12年)より四日市市長を務めた。
仁部 富之助(にべ とみのすけ、1882年(明治15年)12… 仁部 富之助(にべ とみのすけ、1882年(明治15年)12月15日 - 1947年(昭和22年)1月11日)は、日本の鳥類研究家、農業改良家。「鳥のファーブル」と称された。 秋田県岩城町(現在の由利本荘市の一部)出身。1901年に秋田県農学校を卒業し、大曲の農商務省農事試験場陸羽支場に農業技師として勤めた。ここで、寺尾博とともに新品種のイネ「陸羽132号」を生み出した。 イネの新品種の開発の傍ら鳥類の観察を始め、1915年に「敦公の蕃殖に関する研究」を発表した。1923年の行政整理に際し依願退官し、1925年には農商務省により委嘱を受け、野鳥の生態研究に専念した。1936年に著書「野の鳥の生態」を発表した。
相生 枩五郎(あいおい まつごろう、1882年12月11日 … 相生 枩五郎(あいおい まつごろう、1882年12月11日 - 1922年3月16日)は、現在の和歌山県和歌山市出身で朝日山部屋および高田川部屋(大阪)出羽海部屋(東京)に所属した力士。本名は川口 清一郎。身長166cm、体重109kg。最高位は東大関。 大阪相撲の朝日山部屋に入門し二瀬川 清二郎を名乗って1898年10月見習となる。1903年5月十両。1904年1月歌舞伎から取った放駒 長吉と改名。同年5月入幕。1907年1月新大関となりその場所9戦全勝を記録した。1910年2月7勝2分の土付かずで2度めの優勝相当成績を残すが場所後に脱走して東京相撲に移った。 東京では相生 枩五郎と名乗り1911年1月三役格付け出し。
東郷 茂徳(とうごう しげのり、1882年〈明治15年〉12… 東郷 茂徳(とうごう しげのり、1882年〈明治15年〉12月10日 - 1950年〈昭和25年〉7月23日)は、日本の外交官、政治家。 東條内閣で外務大臣と拓務大臣、鈴木貫太郎内閣で外務大臣と大東亜大臣を務め、太平洋戦争開戦時および終戦時の外務大臣であった。この他、欧亜局長や駐ドイツ大使および駐ソ連大使を歴任。 萩原延壽『東郷茂徳 伝記と解説』によれば、茂徳は1882年12月10日に「朴茂徳」として鹿児島県日置郡苗代川村(現在の日置市東市来町美山)で生まれた。苗代川は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に捕虜になり島津義弘の帰国に同行させられた朝鮮人陶工の一部が、薩摩藩によって集められて形成された集落であった。
工藤 忠(くどう ちゅう、初名は工藤 鉄三郎(くどう てつさ… 工藤 忠(くどう ちゅう、初名は工藤 鉄三郎(くどう てつさぶろう)、のち満洲国執政溥儀から「忠」名を与えられて、戸籍上も工藤忠に改名。明治15年(1882年)12月10日 - 昭和40年(1965年)12月18日)は、明治、大正、昭和期におけるアジア主義者の大陸活動家及び満州国の政治家。満州国の侍衛長。最終階級は満州国侍衛処長、宮内府顧問官。
池田 魁(いけだ かい、1882年(明治15年)12月10日… 池田 魁(いけだ かい、1882年(明治15年)12月10日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。東京市豊島区長。 鹿児島県大島郡住用村(現在の奄美市)出身。第一高等学校を経て、1917年(大正6年)3月、東京帝国大学法科大学を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格し、朝鮮総督府逓信局に勤務した後、鎮南浦府尹を務めた。 1932年(昭和7年)、東京市に入り、芝区会計課長を経て、豊島区長に就任した。
栂野 明二郎(明次郎)とがの めいじろう、明治15年(188… 栂野 明二郎(明次郎)とがの めいじろう、明治15年(1882年)12月6日 - 昭和15年(1940年)10月20日)は、日本の発明家、実業家。新潟県立長岡高等学校卒業生名簿では「栂野明次郎」と記載されている。 新潟県長岡市出身。明治35年(1902年)に新潟県立長岡中学校を卒業する。日露戦争時に補充兵として半月の軍隊生活を送る。明治42年(1909年)に帝国大学農科大学農芸化学科(現・東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部)を卒業した。その後、日本醤油株式会社に入社するが明治43年(1910年)に辞め、樺太庁の依嘱を受けて木屑酒精製造調査のために北米に差遣された。明治44年(1911年)に大蔵省醸造試験所技師に任官した。
杉田 つる(すぎた つる、通称・鶴子、1882年(明治15年… 杉田 つる(すぎた つる、通称・鶴子、1882年(明治15年)12月6日 - 1957年(昭和32年)4月20日)は、兵庫県神戸市出身の小児科医、歌人。 第二次世界大戦後、国立東京第一病院二宮分院主任医を務めた。歌壇では、1920年(大正9年)「朝の光」創刊に参加し、窪田空穂、宇都野研に師事したのち「勁草」(けいそう)同人となった。 杉田玄白の5世孫に当たるが、鶴子は生涯未婚であったため、彼女が玄白の血筋を引く最後の医師になった。 杉田鶴子は、杉田玄白の4世孫で開業医だった杉田雄の一人娘として生まれた。1905年(明治38年)、大阪市の私立関西医学院に入学するが、翌年、彼女が14歳の時に父の雄が死去した。
国府田 敬三郎(こうだ けいざぶろう、1882年12月6日 … 国府田 敬三郎(こうだ けいざぶろう、1882年12月6日 - 1964年12月16日)は、日本の福島県出身の農場経営者。アメリカ合衆国カリフォルニア州で、大農方式による同地の気候に合った良質な米「国宝ローズ」の大量生産に成功し、「ライス・キング」と呼ばれた。 福島県磐城郡小川村(現・いわき市)に生まれる。父は磐城平藩士であったが、戊辰戦争に敗れた後は精米業を営んでいた。 少年時代は、同郷出身でアメリカ帰りの実業家が学校に贈与した「米国富豪伝」というロックフェラーやカーネギーなどの成功列伝を綴った本を読んで以来、アメリカへの憧れを抱くようになる。一時は家出をしてまで両親に渡米を願い出るが、結局叶わず福島県師範学校に進んで教師となる。
羽原 又吉(はばら ゆうきち、1882年12月5日 - 19… 羽原 又吉(はばら ゆうきち、1882年12月5日 - 1969年3月19日)は、日本の経済史学者。 大分県直入郡都野村(現・竹田市)出身。1909年7月東京帝国大学理科大学動物学科卒業。1912年北海道庁技師として小樽水産試験場勤務。1918年農林省水産講習所(現東京海洋大学)嘱託となり、1931年に教授、1942年退官。 学生時代の専攻分野は水産動物学であり、卒業後は漁業経済学、ついで漁業経済史の分野を開拓、全国の水産漁業史料・古記録を調査・研究し、1950年「近世日本水産業の発展過程に関する経済史的研究」により、経済学博士(慶応義塾大学)の学位を授与される。1950年朝日賞受賞。「日本漁業経済史」で1955年日本学士院賞受賞。
宮原 清(みやはら きよし、1882年12月4日 - 196… 宮原 清(みやはら きよし、1882年12月4日 - 1963年10月16日)は、日本の実業家。日本社会人野球協会初代会長。
加藤 利吉(かとう りきち、1882年〈明治15年〉12月3… 加藤 利吉(かとう りきち、1882年〈明治15年〉12月3日 - 1962年〈昭和37年〉3月24日)は、日本の教育者。仙台育英学園創立者。 福島県北会津郡、のちの若松町(現会津若松市)で、米屋を営む加藤利喜次郎、こま の二男として生まれた。家業の手伝いをしながら漢文などの学びを続けた。 その後、親が準備してくれた炭百俵を持って上京し、炭を売却して学費・生活費を工面した。まず、神田区猿楽町(現千代田区神田猿楽町)の東京学院に入学し国漢学を学び、1901年(明治34年)3月に卒業。さらに神田正則英語学校(現正則学園高等学校)に入学。炭の売却金も底をつき始め米屋で奉公しながら通学し、1904年(明治37年)3月に卒業した。