庵原 順一(いはら じゅんいち、1897年10月28日 - … 庵原 順一(いはら じゅんいち、1897年10月28日 - 1958年5月24日) は、日本の水産学者。東京水産大学学長。 兵庫県高砂市出身。1919年水産講習所(現東京海洋大学)漁労科卒業。葛原冷蔵入社後、水産講習所練習船一等運転士、水産講習所助教授兼水産講習所技手、大日本帝国陸軍歩兵少尉を経て、1932年水産講習所教授。1958年東京水産大学(現東京海洋大学)学長。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
袋一平(ふくろ いっぺい、1897年10月27日 - 197… 袋一平(ふくろ いっぺい、1897年10月27日 - 1971年7月2日)は、日本の翻訳家、映画評論家。 東京生まれ。1915年(大正4年)工手学校(wikidata)(現・工学院大学)化学学科卒業(第12回特待生)。 1922年東京外国語学校ロシア語科卒。ロシア語の和訳を専門とした。またソ連映画の研究家、日本山岳会会員。 翻訳対象はフィクションとノンフィクションの両分野にまたがる。 フィクションではアントン・チェーホフやマクシム・ゴーリキーなど近代ロシア文学もあるが、むしろ現代の小説やヴィタリー・ビアンキなど児童向け作品の翻訳が主体である。またアレクサンドル・ベリャーエフ、ゲオルギー・グレーウィッチらの作品を初めて邦訳するなど、ロシア(ソ連)SFの日本紹介に関して先駆的な役割を果たした。
中島 一郎(中嶋、なかじま いちろう、1897年(明治30年… 中島 一郎(中嶋、なかじま いちろう、1897年(明治30年)10月25日 - 没年不明)は、大正後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 熊本県菊池郡に生まれる。第一高等学校を経て、1921年(大正10年)4月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年、大蔵省に入省し理財局属となる。翌年11月、高等試験行政科に合格。水戸税務署長、両国橋税務署長を経て、1929年(昭和4年)12月、台湾総督府に出仕。 財務局主計課長、台湾電力管理官、台湾官有財産評価委員会幹事、防衛委員会幹事、山地開発調査委員会幹事を経て、1939年(昭和14年)7月に嶺田丘造に代わり財務局長に就任した。1943年(昭和18年)退官した。
黄 朝琴(おう ちょうきん、1897年〈明治30年〉10月2… 黄 朝琴(おう ちょうきん、1897年〈明治30年〉10月25日 - 1972年〈民国61年〉7月5日)は台湾嘉義県塩水港(現:台南市塩水区)出身の政治家。 妹は日本統治時代の台南で有名な詩人、黄金川。 内地とアメリカ国際法を学んだ後、中華民国に渡って国民政府外交部に勤務した。台湾光復後は台湾省議会議長、中国国民党中央委員等を歴任し、省議会を20年近く主宰した。連震東、黄国書、林頂立らとともに1950年代の台湾政治を代表する「半山(中国語版)」の一人である。 東京やアメリカへの留学を経て政治学に親しみ、国民党の台湾統治の仲介役を務めた。 1897年10月25日、台湾嘉義県塩水港の裕福な家庭に生まれた。
三島 一(みしま はじめ、1897年10月24日 - 197… 三島 一(みしま はじめ、1897年10月24日 - 1973年10月12日)は、東洋史学者。東洋大学教授、二松學舍大学教授、明治大学教授、戦後に専修大学教授。専門は唐代寺院経済史。 1897年、実業家・三島桂のの長男として埼玉県で生まれた。幼少の頃は病弱な体質で、大森の小学校に入学したのは、9歳の時であった。東京府立第四中学校に入学したが、中学も2年遅れで卒業。同級生には羽仁五郎がいた。中学卒業の年は祖父・三島中州が没した年であり、また自身も病の床に就いたため第一高等学校の受験を失敗。第三高等学校に入学して学び、1920年に卒業。 東京帝国大学の東洋史学科に入学、池内宏および加藤繁の指導を受けた。
加瀬 俊一(かせ しゅんいち、1897年10月23日 - 1… 加瀬 俊一(かせ しゅんいち、1897年10月23日 - 1956年9月9日)は、日本の外交官。太平洋戦争終戦当時の駐スイス公使で、戦後西ドイツ大使を務める。 外務大臣秘書官や国連大使を務めた加瀬俊一(としかず)とは同姓同名の別人である。外務省内では彼と区別するため「大加瀬」と俗称されていた。 東京生まれ。早稲田中学校、第一高等学校から東京帝国大学に進む。東京帝大在学中の1920年に高等文官試験外交科試験に合格したために、大学を中退して外務省に入省する。外務省同期に阪本瑞男、鹿島守之助など。 1935年に欧亜局第一課長、1938年に在アメリカ合衆国日本国大使館の一等書記官となる。太平洋戦争開戦後の1942年にイタリア公使となった。
田中 敬吉(たなか けいきち、1897年(明治30年)10月… 田中 敬吉(たなか けいきち、1897年(明治30年)10月23日 - 1975年(昭和50年)1月13日)は、日本の機械工学者。第33期日本機械学会会長。東京帝国大学教授、千葉工業大学教授・学長、上智大学教授を歴任。東京帝国大学航空研究所で、航研機やA-26の開発に携わった。 三重県亀山市出身。第八高等学校を経て、1922年東京帝国大学機械科卒業。東京帝国大学航空研究所嘱託、助教授を務め、1929年「円錐座吸気弁の空気の流動研究(実験的研究・理論的研究)」により工学博士を取得。1930年航空原動機研究のため欧米を訪れた後、1933年教授となる。1939年より東京工業大学教授を兼任。1949年千葉工業大学学長、1957年名古屋大学教授、1961年上智大学教授・理工学部長。
井深 八重(いぶか やえ、1897年10月23日 - 198… 井深 八重(いぶか やえ、1897年10月23日 - 1989年5月15日)は日本の看護婦。台北生まれの湾生。父は衆議院議員をつとめた井深彦三郎。明治学院総理の井深梶之助は伯父。ソニーの創始者井深大とは遠縁にあたる。遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』のヒロインのモデルでもある。 八重が7歳の時に両親が離婚、母は八重を井深家に置いて去る。父・彦三郎も多忙なため伯父の梶之助に預けられ育つ。1910年、小学校を卒業して同志社女学校普通学部に入学。家族から離れた8年間の寄宿舎生活を始める。1918年、同志社女学校(現在の同志社女子大学)専門学部英文科卒業。長崎県立長崎高等女学校の英語教師となったが、1919年ハンセン病と診断されて神山復生病院に隔離入院。
古川 伝一(ふるかわ でんいち、1897年(明治30年)10… 古川 伝一(ふるかわ でんいち、1897年(明治30年)10月20日 - 1967年(昭和42年)1月7日)は、福島県勿来市(現・いわき市)長。 福島県石城郡鮫川村(のち植田町→勿来市、現・いわき市)出身。酒造業を営み、その傍ら、地方自治に参加し、福島県議会議員、植田町長、勿来市長を歴任した。植田町は1955年に合併により、勿来市となり、合併後の市長選挙に立候補して当選した。鮫川の水利開発に力を入れ、また、常磐地区の低品位石炭の利用を主張し、常磐共同火力発電所の開設を基礎づけた。勿来市長は1期務め、いわき市誕生後の1967年に死去した。
神崎 三益(かんざき さんえき/さんます、1897年(明治3… 神崎 三益(かんざき さんえき/さんます、1897年(明治30年)10月19日 - 1986年(昭和61年)7月27日)は、日本の医学者・教育者であり、日本赤十字武蔵野短期大学学長、日本赤十字常任理事、アジア病院連盟会長を務めた。また、日本病院協会会長として当時開業医中心の日本医師会に対抗した。岡山県高梁市出身。 1897年(明治30年)岡山県上房郡有漢村(現:高梁市)神崎秀甫の三男として出生する。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学した。同期に、明治大学学長を務めた小出廉二、東京帝国大学教授で経済学の宇野学派を率いた宇野弘蔵、第一次日本共産党の西雅雄、キリスト教伝道師で内務官僚の松田享爾、関西大学法学部教授になる高木益郎がいた。
壺井 繁治(つぼい しげじ、1897年〈明治30年〉10月1… 壺井 繁治(つぼい しげじ、1897年〈明治30年〉10月18日 - 1975年〈昭和50年〉9月4日)は、日本の詩人。日本共産党員。 香川県小豆郡苗羽村(現在の小豆島町)出身、早稲田大学に学ぶ。1920年代にはアナキズムの陣営に属し、『赤と黒』などに拠って詩作をはじめた。その後、共産主義に接近、プロレタリア文学の詩の分野で活躍した。1930年代には何度か投獄され、その後は小熊秀雄や村山知義たちと〈サンチョ・クラブ〉を結成し、風刺的な詩を作っていた。 1925年(大正14年)に作家の壺井栄と結婚。 戦後は新日本文学会の創立に参加し、発起人となる。しかし、戦後登場した武井昭夫や吉本隆明たち若手からは、戦時中の行動との差のために批判の対象にされた。
森口 淳三(もりぐち じゅんぞう、1897年(明治30年)1… 森口 淳三(もりぐち じゅんぞう、1897年(明治30年)10月17日 - 1975年(昭和50年)3月10日)は、昭和時代の政治家。衆議院議員。静岡県引佐郡気賀町長。大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中尉。 静岡県引佐郡気賀町(細江町を経て現浜松市浜名区)に生まれる。1917年(大正6年)浜松商業学校卒業。 陸軍歩兵中尉として支那事変に従軍した。気賀町長、静岡県会議員、同副議長を歴任。ほか、在郷軍人会郡連合分会長などを務めた。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では静岡県第3区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。議員在任中は、翼賛会政調幹事、内閣、農林兼務委員を歴任した。
森本 軍蔵(軍藏、もりもと ぐんぞう、1897年(明治30年… 森本 軍蔵(軍藏、もりもと ぐんぞう、1897年(明治30年)10月17日 - 1979年(昭和54年)5月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 熊本県出身。森本徳次郎の長男として生まれる。熊本中学校(現熊本県立熊本高等学校)卒業を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第71連隊付となる。1919年(大正8年)8月から1920年(大正9年)5月までシベリア出兵に出征した。1922年(大正11年)3月、歩兵中尉に昇進。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業し飛行第7連隊付となる。 1926年12月、兵科を航空兵に転科し航空兵中尉に任官。
大宮 伍三郎(おおみや ごさぶろう、1897年(明治30年)… 大宮 伍三郎(おおみや ごさぶろう、1897年(明治30年)10月17日 - 1957年(昭和32年)6月14日)は、大正から昭和期の新聞編集者、実業家、政治家。衆議院議員(2期)。号・呉山楼。 広島県沼隈郡赤坂村(現福山市)で、大宮亀吉の長男として生まれる。1921年(大正10年)5月、名古屋新聞東京支局に入社し、その後明治大学で学んだ。 1925年(大正14年)名古屋新聞東京支局長に就任し、新聞広告の分野でその才能を発揮した。その後、名古屋本社に転じ専務理事に就任した。戦時下に入り新聞統制が強化されて日本新聞連盟が成立し名古屋新聞から大宮が派遣され、新聞用紙の供給減に対処するため共販制を考案してその実現に尽力した。
神田 喜一郎(かんだ きいちろう、1897年(明治30年)1… 神田 喜一郎(かんだ きいちろう、1897年(明治30年)10月16日 - 1984年(昭和59年)4月10日)は、日本の東洋学者、書誌学者。号を鬯盦、書室を佞古書屋と称した。
都田 恒太郎(みやこだ つねたろう、1897年(明治30年)… 都田 恒太郎(みやこだ つねたろう、1897年(明治30年)10月15日 - 1983年(昭和58年)11月16日)は、日本の牧師、日本基督教団の指導者、キリスト教学者、日本基督教協議会総書記、日本聖書協会総主事、青山学院理事長。長年、毎年秋にバックストン記念聖会の指導を行っていた。 岳父は、ホーリネスの都田友次郎。 1897年(明治30年)、鳥取県境港市に生まれる。旧制佐倉中学校に入学して、1908年(明治41年)笹尾鉄三郎が佐倉に巡回伝道に来た時に、佐倉中学四年生だった都田は笹尾の説教を聞いて深い感銘を受けた。1914年に笹尾鉄三郎から洗礼を授けられた。旧制佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を卒業する。
三宅 幾三郎(みやけ いくさぶろう、1897年10月15日 … 三宅 幾三郎(みやけ いくさぶろう、1897年10月15日 - 1941年5月1日)は、小説家、翻訳家。兵庫県生まれ。東京帝国大学英文科卒業。在学中に十一谷義三郎とともに同人雑誌『行路』を創刊し、小説を書く。高知高等学校教授。十一谷とともに川端康成らの『文藝時代』に参加。1926年高知高校を辞職し上京、文化学院講師となる。のち翻訳に力を入れ、『嵐が丘』『虚栄の市』などを翻訳した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
十一谷 義三郎(じゅういちや ぎさぶろう、1897年10月1… 十一谷 義三郎(じゅういちや ぎさぶろう、1897年10月14日 - 1937年4月2日)は、昭和初期の小説家、翻訳家。 神戸市元町生まれ。早くに父を失い、兵庫県立第一神戸中学校を卒業後、苦学と病気を経て第三高等学校から1922年東京帝国大学英文科卒。1920年学生時代に三宅幾三郎、本田喜代治らと同人誌『行路』を創刊、東京府立第一中学校の英語教師をしながら創作を行い、1924年川端康成、横光利一らの『文藝時代』に参加。文化学院英語英文学主任。1928年『唐人お吉』が好評を得て、国民文芸賞を受賞した。知的な文体で知られ、敗残者への共感、現世放棄的傾向に特徴がある。他に代表作『静物』『仕立屋マリ子の半生』など。
長山 英一(ながやま えいいち、明治30年(1897年)10… 長山 英一(ながやま えいいち、明治30年(1897年)10月14日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手、登山家、政治家。元境港市議会議員。 鳥取県西伯郡中浜村大字佐斐神(現・境港市佐斐神町)出身。長山善完の長男。長山家は大農家だった。鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)卒業。 大正8年(1919年)日本体育会主催の第7回全国オリンピックに出場した英一は、1,500メートル、4分28秒(日本新記録)で第1位、同タイムの早大・麻生武治と優勝を分け合い、優勝カップを夫々受賞した。 大正11年(1922年)松本秀松(渡村出身)と鳥取県で初めて冬山大山登山に挑んだ。 戦後、村会議員、市会議員などをつとめた。
永山 忠則(ながやま ただのり、1897年(明治30年)10… 永山 忠則(ながやま ただのり、1897年(明治30年)10月14日 - 1984年(昭和59年)6月13日)は、昭和期の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(11期)、自治大臣・国家公安委員会委員長、広島県庄原市長を歴任した。勲一等旭日大綬章受章(1969年)。広島県比婆郡敷信村(現・庄原市)出身。庄原市名誉市民(1981年)。 広島県立広島中学校(現・広島県立国泰寺高校)出身で岩畔豪雄と同級。1924年に中央大学法学部予科を卒業後、女子師範学校の教師を務めた。1926年、20代で敷信村(現・庄原市)村長となり、八期務めた。その後、広島県議会議員を経て1936年の第19回衆議院議員総選挙に昭和会公認で初当選。
田保橋 潔(たぼはし きよし、1897年10月14日 - 1… 田保橋 潔(たぼはし きよし、1897年10月14日 - 1945年2月26日)は、日本の歴史学者。 1897年、北海道函館市で生まれた。本籍は石川県。東京帝国大学文学部国史学科で学び、1921年に卒業。 1924年に京城帝国大学予科講師となった。ヨーロッパ留学ののち、1927年に京城帝国大学教授となり、国史学の担当教授となった。1933年から朝鮮総督府の朝鮮史編修会第6編修主任も務め、ついで同会編纂主任を兼任した。1945年に死去。 専門は東洋史で、日本近代外交史、朝鮮近代史の研究を行った。 1882年の壬午軍乱の鎮圧に際して、呉長慶は「遼東三省と左堤右挈し、実に東方の一大塀障」と述べており、つまり清の東三省と朝鮮半島で守りを固めれば怖いものなし、と考えており、張謇は『朝鮮善後六策』を作成して、朝鮮は漢の時代は中国の植民地(漢四郡)であったから、李氏朝鮮王を廃止して監国にして属藩とし、清の東三省に朝鮮省を含めて「東四省」にすることで李氏朝鮮を併合し、「内政の自己改革と新軍の訓練を、我が東三省とつらねて、一気と為す」べきとする意見を上申した。
飯塚 定輔(いいづか さだすけ、1897年(明治30年)10… 飯塚 定輔(いいづか さだすけ、1897年(明治30年)10月14日 - 1970年(昭和45年)11月5日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(5期)。 秋田県雄勝郡、のちの羽後町出身。1927年(昭和2年)日本大学法文学部法律学科を卒業した。 協調会嘱託、国務大臣秘書官、立憲民政党政務調査会専門調査員、末広汽船社長、菊谷工業取締役会長などを務めた。1945年(昭和20年)2月14日、従六位に叙される。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で旧秋田県第2区から民主党公認で立候補して次点で落選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に民主自由党公認で立候補して初当選。
水谷 一雄(みずたに かずお、1897年10月12日 - 1… 水谷 一雄(みずたに かずお、1897年10月12日 - 1981年9月12日)は、日本の経済学者。学位は、経済学博士(神戸経済大学・1955年)(学位論文「数学的思惟と経済理論」)。神戸大学名誉教授。従四位勲二等瑞宝章。 1897年、愛知県渥美郡高豊村字七根に生まれる。1923年、神戸高等商業学校卒業、1926年、東京商科大学卒業。 1926年神戸高等商業学校講師、1929年神戸高等商業学校附属商業専門部教授、1932年神戸商業大学助教授、1939年同大学教授、1944年神戸経済大学教授に就任。 1946年、授勲三等瑞宝章、叙従四位。 1953年、神戸大学経済学部教授(1950年とする記述もある)に就任、1955年、学位論文「数学的思惟と経済理論」で神戸経済大学から経済学博士の学位を取得。
岩畔 豪雄(いわくろ ひでお、1897年10月10日 - 1… 岩畔 豪雄(いわくろ ひでお、1897年10月10日 - 1970年11月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 陸軍中野学校(設立時の名称は防諜研究所)の設立他、多くの諜報機関の設立に関わり、「謀略の岩畔」の異名をとった。また日米開戦回避に奔走した他、戦中はインド国民軍(INA)及び自由インド仮政府の樹立に中心的に関わった。戦後は京都産業大学設立者として理事を務めた。 広島県安芸郡倉橋島(現・呉市)出身。倉橋島は海軍兵学校があった江田島の隣の島である。島育ちながら「なんとはなしに船に乗ることはあまり好きではない」という理由で、陸軍を志願し、広島中学校(現広島県立国泰寺高校)から名古屋陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。
松原 地蔵尊(まつばら じぞうそん、 本名:重造、 明治30… 松原 地蔵尊(まつばら じぞうそん、 本名:重造、 明治30年(1897年)10月10日 - 昭和48年(1973年)10月7日)は、日本の俳人。 富山県氷見郡阿尾村(現・氷見市)阿尾生まれ。学生時代からホトトギスに投句し、1917年樺太庁中学校卒業。1920年小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)卒業。1923年東京商科大学(現・一橋大学)卒業。 新興俳句運動の俳人として活動した。また、小池銀行営業部長、小池証券取締役、山一証券大阪支店長、山一証券取締役、山一証券監査役幹事長、小柳証券参与等を歴任した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
坂本 一角(さかもと いっかく、1897年(明治30年)10… 坂本 一角(さかもと いっかく、1897年(明治30年)10月10日 - 1947年(昭和22年)4月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、大学教授。 東京府西多摩郡檜原村出身。日本歯科医学専門学校(現在の日本歯科大学)を卒業。また、明治大学法律科にも学び、在籍中は柔道部に所属した。東京府立第二商業学校教諭、日本大学講師・学生監、東京高等拓殖学校校長、拓殖大学教授を歴任した。東京市会議員に選出され、同参事会員に選ばれた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回まで4回当選した。 1946年(昭和21年)、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放の該当者となった。翌年4月8日死去。
大佛 次郞(おさらぎ じろう、1897年〈明治30年〉10月… 大佛 次郞(おさらぎ じろう、1897年〈明治30年〉10月9日 - 1973年〈昭和48年〉4月30日)は、日本の小説家・作家。大仏次郎(新字体)とも書く。本名は、野尻 清彦(のじり きよひこ)。 『鞍馬天狗』シリーズなど大衆文学の作者として有名なほか、歴史小説、現代小説、ノンフィクション、新作歌舞伎や童話などまでを幅広く手がけた。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。作家の野尻抱影(正英)は兄。 神奈川県横浜市英町(現在の横浜市中区)に生まれた。道成寺の山門の再建や本堂の修復などを手がけた宮大工・仁兵衛の子孫にあたる。父・政助は1850年(嘉永3年)5月27日、紀伊国日高郡藤井村(現在の和歌山県御坊市藤田町)で源兵衛の長男として生まれ、19歳の時に明治維新を経験して「狭いふるさとを出て、広い世界で活躍したい」と、和歌山市の倉田塾(吹上神社の神主・倉田績の家塾)に入り、その後日本郵船に入社し、勤勉実直な人だった清彦が生まれた時は単身赴任で宮城県石巻支店に勤務しており、その後四日市に移った。
光延 東洋(みつのぶ とうよう、1897年(明治30年)10… 光延 東洋(みつのぶ とうよう、1897年(明治30年)10月9日 - 1944年(昭和19年)6月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 岡山県高梁市出身。大阪府立北野中学校より海軍兵学校第47期に進み首席で卒業した。しかし海軍大学校甲種課程には進まず、ヨーロッパへの出張と駐在を繰返し、井上成美らにその常識的思考を高く評価されていた。 イタリアでバドリオ政権が連合国に降伏した際、スイスに業務連絡の為に移動。フィレンツェ北方のアッペンニーノ山脈を通行中にマンリーコ・ドゥッチェスキ(イタリア語版)率いるパルチザンの襲撃に遭い、同乗していた山仲伝吾海軍中佐は重傷だったが、光延は射殺され戦死扱となる。
山田 勝次郎(やまだ かつじろう、1897年〈明治30年〉1… 山田 勝次郎(やまだ かつじろう、1897年〈明治30年〉10月7日 - 1982年〈昭和57年〉6月7日)は、日本の農業経済学者、実業家。筆名は柏崎次郎。旧姓・蝋山。蠟山政道の弟、小山長四郎(美峰酒類社長)、蝋山芳郎の兄。 群馬県高崎市歌川町に、蝋山政次郎の次男として生まれる。新潟県柏崎の祖父母のもとで育ち、旧制柏崎中学校(現・新潟県立柏崎高等学校)、旧制第一高等学校を卒業。1922年(大正11年)東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業。同年山田昌吉(高崎商工会議所第6代会頭)の娘・とくと結婚し、山田に改姓。 東京帝国大学の副手・助手を経て、1925年(大正14年)京都帝国大学助教授となる。1926年(大正15年)から文部省在外研究員として1928年(昭和3年)までイギリス・ドイツ・フランスに滞在した。
園田 忍(そのだ しのぶ、1897年〈明治30年〉10月7日… 園田 忍(そのだ しのぶ、1897年〈明治30年〉10月7日 - 1986年〈昭和61年〉12月27日)は、日本の電気/電子物理工学者。工学博士(東北大学)。大阪大学・大阪工業大学名誉教授。 戦時研究会議元委員。輻射科学研究会元理事。マイクロ波立体回路の権威の一人。 専門は、電気/電子物理工学、電磁波工学・電磁気学・電波工学(特にマイクロ波)。 1939年大阪帝国大学理学部助教授。1952年工学博士(東北大学)。大阪大学理学部教授を経て、1961年大阪大学名誉教授。その後、大阪工業大学工学部電子工学科教授。1976年大阪工業大学名誉教授。 大阪大学理学部では電磁波工学において、岡部金治郎(日本の十大発明家でマイクロ波源とする分割陽極マグネトロンを発明、電磁波工学の権威の一人)と共に大阪大学産業科学研究所の運営やマイクロ波立体回路の研究推進に貢献した。
千 嘉代子(せん かよこ、1897年〈明治30年〉10月6日… 千 嘉代子(せん かよこ、1897年〈明治30年〉10月6日 - 1980年〈昭和55年〉9月7日)は、日本の茶人。茶道裏千家家元の14代千宗室の妻。 宮城県仙台市に生まれる。旧姓は伊藤。実家は造り酒屋と仙台平の織元を営む素封家。 1915年(大正4年)東華高等女学校(現在の宮城県仙台二華中学校・高等学校)卒。 実家が東北の有力な裏千家流支援者であったことがきっかけで、1917年(大正6年)、今日庵裏千家十四代家元千宗室(淡々斎宗室)と結婚。家元夫人として、茶道の普及発展とともに、国際茶道文化協会理事長などを務め、茶の湯の国際普及にも尽くした。また、文化活動にも尽力した。 今日庵理事、茶道裏千家淡交会名誉理事長、国際茶道文化協会理事長を歴任。
島津 季子(しまづ すえこ、1897年〈明治30年〉10月6… 島津 季子(しまづ すえこ、1897年〈明治30年〉10月6日 - 1982年〈昭和57年〉5月15日)は、日本の元華族。島津忠弘男爵夫人。宮内大臣・岩倉具定公爵令嬢。母は澤為量子爵令嬢・久子。 女子学院卒業後、島津忠義の六男・忠弘と結婚した。忠弘との間に一男二女をもうけた。長男の斉視は家を継ぎ、長女の弘子は農学者松平近義(伯爵亀井茲常の三男)の妻、次女の淑子は東宮女官長になった。 1982年5月15日没、墓所は東京都港区の瑞聖寺。
矢野 酉雄(やの とりお、1897年(明治30年)10月6日… 矢野 酉雄(やの とりお、1897年(明治30年)10月6日 - 1963年(昭和38年)11月20日)は、大正から昭和期の教育者、雑誌編集者、政治家。参議院議員(1期)。号・孤山。 福岡県三池郡上内村大字上内(銀水村を経て現大牟田市大字上内)で矢野巽の息子として生まれる。福岡県立八女中学校を経て、1917年(大正6年)福岡師範学校を卒業。その後、中央大学法科、日本大学高等師範科で学び、同年、福岡県三池郡内各尋常小学校訓導を務めた。その後、文部省教員検定試験に合格し中等教員免状を取得。以後、沖縄県女子師範学校教諭兼訓導兼同県立高等女学校教諭、鹿児島県第二師範学校教諭兼訓導、福岡県立嘉穂中学校教諭、同県実業補習学校指導員などを務めた。
白石 光治郎(しらいし こうじろう、1897年(明治30年)… 白石 光治郎(しらいし こうじろう、1897年(明治30年)10月6日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。平安北道知事。朝鮮総督府逓信局長。朝鮮総督府農商局長。 白石房次郎の長男として愛知県名古屋市に生まれる。1925年(大正14年)東京帝国大学法学部政治科を卒業し、朝鮮総督府に奉職する。平安北道、慶尚南道各警察部長、総督府事務官警務局勤務、平安南道内務部長、逓信局電気課長、総督府事務官官房外務部勤務兼任外務事務官を経て、平安北道知事に就任。1943年(昭和18年)7月、朝鮮総督府逓信局長兼高等海員審判所長に任じた。その後、朝鮮総督府農商局長に就任した。
田中 斉(田中 齊、たなか ひとし、1897年10月4日 -… 田中 斉(田中 齊、たなか ひとし、1897年10月4日 - 1966年12月27日)は、昭和時代前期日本の政治家、実業家、経営学者。衆議院議員(当選1回)。旧姓・鈴木。 1897年(明治30年)、愛知県東春日井郡坂下村(現在の春日井市)で鈴木実太郎の長男として出生する。名古屋商業学校を経て、1920年(大正9年)に明治大学専門部商科を卒業。1923年(大正12年)、ジョンズ・ホプキンズ大学大学院修了。 帰国後は母校の明治大学で講師を経て商学部教授に就いていたが、1925年(大正14年)に田中仁三郎の長女・とみ子に入婿する。仁三郎の実父は新愛知新聞社を創業した大島宇吉であり、外戚として同紙の経済部長に迎えられた。
田村 久三(たむら きゅうぞう、1897年10月1日 - 1… 田村 久三(たむら きゅうぞう、1897年10月1日 - 1972年3月23日)は、日本の海軍軍人、海上保安官、警備官。機雷専門。最終階級は海軍大佐、警備監(後の海将)。 栃木県出身。田村徳吉の三男として生まれる。(旧制)栃木県立栃木中学校卒業を経て、1918年に海軍兵学校(46期)を卒業。海軍大佐として終戦を迎える。戦後は、第二復員省、海上保安庁と警備隊(海上自衛隊の前身)で掃海作業の責任者として活動した。 日本海軍は、田村久三元海軍大佐を最高指導者として機雷関係のスタッフを揃え、米海軍司令部との折衝を続けながら、占領軍指揮による掃海作業の準備へ入った。まず掃海艇の整備を行うと共に、当時解散しつつあった海軍軍人の中から人員の補充確保に努め、全国各地に所在する掃海関係船艇合計360隻、人員約1,900名をもって新たに掃海部隊を編成し、1945年(昭和20年)9月から10月にかけて占領政策のために一時中断されていた掃海作業を再開。
引田 一郎(ひきた いちろう、1897年10月1日 - 19… 引田 一郎(ひきた いちろう、1897年10月1日 - 1973年4月18日)は、日本の経営者。宝塚歌劇団理事長、宝塚音楽学校校長を務めた。 東京都中野区出身。陸軍士官引田乾作の長男として生まれる。1924年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に阪神急行電鉄(のちの阪急電鉄)に入社。1933年10月に宝塚歌劇団理事長に就任し、1946年12月に阪急電鉄取締役に就任し、宝塚音楽学校校長も務めた。 1966年5月に藍綬褒章を受章した。 1973年4月18日、心不全のために死去。75歳没。
鎌田 逸郎(かまた いつろう、1897年(明治30年)10月… 鎌田 逸郎(かまた いつろう、1897年(明治30年)10月1日 - 1980年(昭和55年)9月4日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員。 岩手県稗貫郡花巻町で鎌田元三郎の三男として生まれる。 1922年(大正11年)岩手製綿を設立して社長に就任。1941年(昭和16年)3月、盛岡商工会議所常議員に当選。その他、下台土地建物社長、岩手被服工業社長、岩手県商工経済会評議員、同県製綿工業組合理事長、全国製綿工業協同組合理事長、花巻電気鉄道取締役、東北振興燐寸取締役などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から出馬して当選(補欠、任期3年)し、その後、緑風会に所属して参議院議員を1期務めた。
新庄 健吉(しんじょう けんきち、明治30年(1897年)9… 新庄 健吉(しんじょう けんきち、明治30年(1897年)9月30日 - 昭和16年(1941年)12月5日)は、大日本帝国陸軍(以下陸軍という)の軍人。階級は陸軍主計大佐。陸軍経理学校教官・支那派遣軍経理部員・企画院調査官等を歴任。情報将校としてアメリカ合衆国の国力を詳細に調査し、戦争の見通しについて報告書を作るなど情報分析能力が注目された。 1897年(明治30年)9月30日に農家を営む新庄竹蔵の三男として生まれ、京都府立第三中学校(現:京都府立福知山高等学校)を経て1915年(大正4年)12月、主計候補生となる。1916年(大正5年)9月、陸軍経理学校に入校し、1918年(大正7年)5月、主計候補生第12期として卒業する。
阿久津川 高一郎(あくつがわ こういちろう、1897年9月3… 阿久津川 高一郎(あくつがわ こういちろう、1897年9月30日 - 1972年10月20日)は、栃木県宇都宮市出身で高砂部屋(一時期は錣山部屋)に所属した大相撲力士。本名は永井 高一郎(ながい こういちろう)(一時磯野姓を名乗る)。最高位は西前頭筆頭(1923年1月場所)。現役時代の体格は身長170cm、体重98kg。得意手は突き、押し。現役引退後は年寄として後進の指導につくした。 1914年5月場所に初土俵。小柄ではあったが腕力が強く、「三角突っ張り」と呼ばれた独特の突き押しを武器にしており、速い相撲で鳴らした 。1920年1月場所に新入幕を果たすまですべて勝ち越すという順調な昇進で、なおかつ十両では新十両から2場所連続優勝をはたした。
那須 義雄(なす よしお、1897年(明治30年)9月26日… 那須 義雄(なす よしお、1897年(明治30年)9月26日 - 1993年(平成5年)11月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 熊本県出身。陸軍中佐・那須仙太郎の長男として生まれる。名古屋明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業し歩兵第33連隊中隊長に就任。 1930年(昭和5年)8月、陸軍戸山学校教官に就任。1931年(昭和6年)3月、陸軍省軍務局課員(兵務課)となり、1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に進級。
福西 清(ふくにし きよし、1897年9月26日 - 196… 福西 清(ふくにし きよし、1897年9月26日 - 1967年12月25日)は、阪神電気鉄道社長。奈良県出身。 広島高等師範学校卒業後は、一時教職を務めるが、九州帝国大学法文学部に入学し、1929年に卒業し、阪神電気鉄道に入社した。 主に電灯、電力部門の営業を担当していたが、1942年4月に同部門が関西配電に譲渡されたのを機に同社に移籍し、1944年に阪神に復帰した。その後は、庶務部、取締役、常務取締役を歴任し、1957年に阪神百貨店の専務取締役に就任した。 1965年に藍綬褒章を受章。 1960年5月に阪神に戻り、副社長を経て、1967年11月18日に社長に就任したが、同年12月25日に脳出血のために在職中のままに死去。
豊田 勝秋(とよだ かつあき 1897年9月24日 - 19… 豊田 勝秋(とよだ かつあき 1897年9月24日 - 1972年4月22日)は日本の工芸家、陶芸家、教育者。鋳造、金工の分野で足跡を残した。 1897年(明治30年)9月、福岡県久留米市に生まれる。1915年(大正4年)、福岡県立明善中学校を卒業し、東京美術学校鋳造科入学。1920年(大正9年)に卒業後、研究科に進む。研究科を修了後は、東京高等工芸学校金属工芸科の嘱託となり、1924年(大正13年)、同校助教授となる。 1927年(昭和2年)、帝展に出品して入選。1933年(昭和8年)、帝展に出品した「鋳銅広間用四方花さし」が特選となる。1938年(昭和13年)、東京高等工芸学校教授に就任。1942年(昭和17年)、活動拠点を故郷である久留米市に移す。
我妻 東策(あずま とうさく、1897年9月22日 - 19… 我妻 東策(あずま とうさく、1897年9月22日 - 1983年1月19日)は、農業経済学者。 栃木県上都賀郡今市町(現・日光市)出身。1923年東京帝国大学農学部農業経済学科卒、1924年同経済学部卒。1924年東京農業大学講師、1925年教授。1937年「士族授産ニ関スル研究」で農学博士。1960-1966年農学部長、1967年定年退職、名誉教授。1952年日本農業経済学会理事。農村の家族制度、農業政策などを研究。
倉石 武四郎(くらいし たけしろう、1897年〈明治30年〉… 倉石 武四郎(くらいし たけしろう、1897年〈明治30年〉9月21日 - 1975年〈昭和50年〉11月14日)は、日本の中国語学者、中国文学者。文学博士。東京大学名誉教授、京都大学名誉教授。 1897年、新潟県高田町(現・上越市)に、十三人兄弟の四男として生まれる。倉石家は地元の名家で、一族には漢学者の高田藩校教授の倉石侗窩がいる。 高田第二尋常小学校(現上越市立東本町小学校)、新潟県立高田中学校(現新潟県立高田高等学校)、第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学文学部支那文学科卒。一高時代は三木清や瀧川政次郎とともに岩元禎らの下で学び、東大では塩谷温・服部宇之吉・岡田正之らの下で学ぶ。卒業論文では中国天文学(英語版)を扱う。
田中 弘道(たなか ひろみち、1897年9月21日 - 19… 田中 弘道(たなか ひろみち、1897年9月21日 - 1975年11月3日)は、岡山県岡山市小畑町出身の政治家。 1897年9月21日、岡山市小畑町に生まれる。大西姓を名乗っていたが、後に田中姓となる。1918年、旧制関西中学校(現・関西高等学校)を卒業する。 1934年、岡山市会議員に当選する。その後、市会議長を務め、1939年、岡山県会議員となる。 1947年、公選による初代岡山市長に就任し、1951年まで1期務める。 退任後の1952年、播備商事を設立し、会社経営に尽力した。 活躍が評価され、勲五等双光旭日章が授与された。 1975年11月3日死去。享年79。
片桐 英郎(かたぎり ひでお、1897年9月21日 - 19… 片桐 英郎(かたぎり ひでお、1897年9月21日 - 1987年9月18日)は日本の農芸化学者。農学博士(東京帝国大学、1938年)。専門は発酵化学。 長野県下伊那郡根羽村生まれ。1919年旧制第二高等学校卒業、1922年東京帝国大学農学部農芸化学科卒業。東京帝大の助手から、1924年京都帝国大学農学部助教授、欧米留学から1927年に帰国後、1929年同教授、1960年退官、名誉教授。1963年から1965年まで日本農芸化学会会長を務める。1982年日本学士院会員選出。著作に「酵素化学工業」などがある。 乳酸菌の生化学、ラセミアーゼの発見、醱酵菌類によるビタミンB2関連物質の生産、有機発酵酸及び微生物の代謝に関する研究、繊維原料の発酵精錬に関する研究などで業績を上げた。
柏原 語六(かしわばら ごろく、1897年9月20日 - 1… 柏原 語六(かしわばら ごろく、1897年9月20日 - 1981年6月5日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。岡山県出身。 1920年(大正9年)中央大学法学部を卒業。1921年(大正10年)に弁護士登録。 1961年(昭和36年)4月に柏原が所属する会派から順送りで推されて、無競争のまま東京弁護士会会長に選出されて就任。会長に選ばれた時に「抱負は別にないが、弁護士の職域を広げること。正義の実現を旨とする弁護士のあり方は、もっと世間に受け入れられていいと思う」と述べる。 1963年(昭和38年)12月に最高裁判所判事に就任。1958年(昭和33年)と1962年(昭和37年)にも日弁連から最高裁入りを推され固辞したこともあり、三度目に了承したことになる。
後藤 猛(ごとう たけし、1897年9月20日 - 1982… 後藤 猛(ごとう たけし、1897年9月20日 - 1982年1月19日)は、日本の経営者。近畿車輛社長を務めた。 茨城県出身。1922年に東京帝国大学機械科を卒業し、同年に鉄道省に入省。 1949年5月に関東特殊製鋼常務に就任し、同年6月に近畿車輛専務を経て、1959年11月には社長に就任。1970年6月には相談役に就任した。 1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1982年1月19日、心不全のために死去。84歳没。
小野寺 信(おのでら まこと、1897年〈明治30年〉9月1… 小野寺 信(おのでら まこと、1897年〈明治30年〉9月19日 - 1987年〈昭和62年〉8月17日)は、日本の陸軍軍人、翻訳家。最終階級は陸軍少将。第二次大戦末期に、在スウェーデン日本大使館の駐在武官として、ヤルタ会談での密約(ドイツ降伏から約3ヶ月後にソ連が日ソ中立条約を破棄して、対日参戦するとの最高機密情報)を早い時期に密かに入手して日本に打電・通報したことや、その後、スウェーデン王室の仲介による連合国との和平工作を行ったことで知られる。 1897年、岩手県胆沢郡前沢町(現在の奥州市)において町役場助役・小野寺熊彦の長男として生まれる。12歳の時に熊彦が病死し、本家筋の農家・小野寺三治の養子となる。