有馬 忠三郎(ありま ちゅうさぶろう、1879年(明治12年… 有馬 忠三郎(ありま ちゅうさぶろう、1879年(明治12年)3月4日 - 1958年(昭和33年)6月2日)は、日本の弁護士、弁理士。法学博士。貴族院勅選議員。帝国弁護士会理事。 香川県大内郡丹生村(現:東かがわ市)出身。有馬米次郎の六男。1904年(明治37年)京都帝国大学法科大学独法科を卒業。1912年、分家して一家を創立する。 弁護士・弁理士事務所を開業し、後には第一東京弁護士会会長を務めた。1917年(大正6年)からは東京帝国大学農学部講師を務めた。1922年(大正11年)論文『不正競業論』で法学博士の学位を授与された。その他、高砂生命保険(のち三井生命保険)、復興建築助成各監査役や日本石油顧問などを務めた。
正宗 白鳥(まさむね はくちょう、1879年(明治12年)3… 正宗 白鳥(まさむね はくちょう、1879年(明治12年)3月3日 - 1962年(昭和37年)10月28日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、文学評論家。本名は正宗 忠夫(まさむね ただお)。別号は剣菱、影法師。岡山県生まれ。東京専門学校文学科卒。虚無的人生観を客観的に描く自然主義の代表作家として出発。批評精神に満ちた冷徹な境地を拓いた。評論にも優れている。戯曲も知られる。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 旧家の長男として生まれる。虚弱で、幼時からの生への不安が、後のニヒリズムの気質を育てたという。読売新聞社で文芸時評を書いたのち、『塵埃』(1907年)で自然主義文学の代表的作家に。
大西 正幹(おおにし まさみ / まさもと、1879年(明治… 大西 正幹(おおにし まさみ / まさもと、1879年(明治12年)3月2日 - 1951年(昭和26年)6月17日)は、日本の弁護士・政治家で立憲民政党所属の衆議院議員。 高知県幡多郡伊豆田村(現在の土佐清水市)出身。1900年(明治33年)、高知県師範学校を卒業し、小学校教員となった。1906年(明治39年)、日本大学法律科を卒業し、判事検事登用試験に合格した。司法官試補となるが辞して、花井卓蔵に師事して弁護士を開業。後に高知弁護士会副会長、同会長に選出された。また高知市会議員、同議長、高知県会議員、同議長に選ばれた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回衆議院議員総選挙でも再選された。
大野 守衛(おおの もりえ、1879年(明治12年)3月1日… 大野 守衛(おおの もりえ、1879年(明治12年)3月1日 – 1958年(昭和33年)7月18日)は、日本の外交官。神奈川県藤沢市長。錦鶏間祗候[3]。
小俣 政一(おまた まさいち、1879年(明治12年)3月1… 小俣 政一(おまた まさいち、1879年(明治12年)3月1日 - 1933年(昭和8年)9月2日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。医師。 山梨県北都留郡賑岡村(現在の大月市)出身。1900年(明治33年)、済生学舎を卒業。東京小児科婦人科院を開業し、東京府医師会理事を務めた。東京府会議員、同参事会員、東京市会議員、同参事会員を歴任。また『江東公論』の主筆を務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙(東京府第4区)に出馬し、当選。第17回でも再選を果たした。 1931年(昭和6年)、東京市疑獄事件(板舟権疑惑・青物市場疑惑等)により東京地方裁判所で懲役2ヵ月・追徴金1200円の判決を受けたが、翌年に東京控訴院で無罪判決が下った。
田邊 七六(たなべ しちろく、1879年3月1日 - 195… 田邊 七六(たなべ しちろく、1879年3月1日 - 1952年8月1日)は、日本の政治家、実業家。「カミソリ将軍」とあだ名されたほどの切れ者であった。衆議院議員選挙に7回当選。 山梨県出身。帝国拳闘協会会長で後楽園スタヂアム社長を務めた田邊宗英は実弟、第一勧業銀行理事の田邊加多丸も兄弟、阪急東宝グループの創業者である小林一三は異母兄である。一部人名辞典では「田邊七六は小林一三の義弟」となっているものもあるが、これは田邊と小林は兄弟とはいえ腹違いであることが事由であると考えられる。息子の田邊圀男も政治家で山梨県知事(第3代知事)を務めた。 立憲政友会→政友会革新派(中島派、革新同盟ともいう。総裁は中島知久平)→翼賛議員同盟→翼賛政治会→大日本政治会→日本進歩党
田山 卓爾(たやま たくじ、1879年(明治12年)3月 -… 田山 卓爾(たやま たくじ、1879年(明治12年)3月 - 没年不詳)は日本の裁判官。元・大審院判事。 1879年(明治12年)3月、埼玉県北埼玉郡東村に生まれる。1900年(明治33年)に和仏法律学校(現・法政大学)法律科を卒業し、1902年(明治35年)に判事検事登用試験に合格する。東京地方裁判所判事をへて、大審院判事に就任する。退官後、1923年(大正12年)から弁護士を開業する。正五位勲五等。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
丸山 弁三郎(まるやま べんさぶろう、1879年〈明治12年… 丸山 弁三郎(まるやま べんさぶろう、1879年〈明治12年〉2月27日 - 1957年〈昭和32年〉7月3日)は、日本の教育者、政治家。第5代長野市長、衆議院議員(1期)。丸山辨三郎とする文献もある。 1879年〈明治12年〉長野県下高井郡江部村(現・中野市)に生まれる。1900年〈明治33年〉、長野県師範学校を卒業し、下高井穂高小訓導になると同時に東京高等商業学校(現・一橋大学)付属教育養成所に入学。1903年〈明治36年〉に養成所を卒業し、長野市立甲種商業学校(現・長野県長野商業高等学校)教諭に就く。1914年〈大正3年〉には長野市立長野商業学校と改称した同校の校長に就任。「獅子は一兎を屠に全力を以てす」「燕雀安んぞ大鵬の志を知らんや」のスローガンを掲げ、全人教育で生徒に接した。
江藤 源九郎(えとう げんくろう、1879年(明治12年)2… 江藤 源九郎(えとう げんくろう、1879年(明治12年)2月25日 - 1957年(昭和32年)5月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。衆議院議員。 東京府神田区で江藤源作(江藤新平の弟)、はま夫妻の二男として生まれる。その後、父の転勤で奈良に移転。奈良県尋常中学校(現奈良県立郡山高等学校)を経て、1899年11月21日、陸軍士官学校(11期)を卒業。1900年6月22日、陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第38連隊付となる。1904年3月から1905年1月まで日露戦争に出征した。 以後、参謀本部副官、関東都督副官、台湾歩兵第1連隊大隊長、八代連隊区司令官、新発田連隊区司令官、歩兵第53連隊長、歩兵第38連隊長などを歴任。
草間 滋(くさま しげる、1879年2月25日 - 1936… 草間 滋(くさま しげる、1879年2月25日 - 1936年10月8日)は、日本の病理学者、細菌学者。医学博士(東京帝国大学、1914年)。 長野県東筑摩郡寿村(現:松本市)出身。獨逸学協会学校、旧制第一高等学校を経て、1905年に東京帝国大学医科大学卒業、病理学教室にて山極勝三郎の下で病理学を専攻、1908年に伝染病研究所に移り、北里柴三郎の下で細菌学・血清学を学び、実験病理学などの論文を発表した。1910年にドイツのフライブルク大学に留学し、ルートヴィヒ・アショフに師事。ハンブルク熱帯病研究所に転じ、熱帯病学の研究に従事した。1913年に帰国、伝染病研究所技師となったが、1914年北里研究所の創立に参画して部長に就任。
芝田 徹心(しばた てっしん、1879年〈明治12年〉2月2… 芝田 徹心(しばた てっしん、1879年〈明治12年〉2月25日 - 1950年〈昭和25年〉2月6日)は、日本の文部官僚。女子学習院長。宮中顧問官。 三重県三重郡四郷村(現在の四日市市)出身。三重県尋常中学校、第四高等学校を経て1903年(明治36年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、大学院で宗教哲学・倫理学を専攻した。高輪中学校教諭、順天中学校教諭、高輪仏教大学教授、日蓮宗大学教授、曹洞宗大学教授、第八高等学校講師、同教授・教務課長、愛知医学専門学校講師を務めた。さらに文部省督学官、第八高等学校校長、文部省図書局長を歴任。1936年(昭和11年)、東京美術学校校長に就任し、1940年(昭和15年)に女子学習院長に転じた。
二宮 治重(にのみや はるしげ、1879年(明治12年)2月… 二宮 治重(にのみや はるしげ、1879年(明治12年)2月17日 - 1945年(昭和20年)2月17日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。文部大臣。 岡山県出身。二宮成重の三男として生まれる。母は松平紀伊守娘の志乃。次兄に重友、養子に三郎(森定次郎の三男)がいる。岡山中学校を経て、1898年(明治31年)12月、士官候補生となる。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。1904年(明治37年)5月、歩兵第20連隊中隊長となり、1906年(明治39年)1月まで日露戦争に出征した。1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を優等で卒業。
神戸 絢(かんべ あや、1879年(明治12年)2月16日 … 神戸 絢(かんべ あや、1879年(明治12年)2月16日 - 1956年(昭和31年)2月23日)は、日本のピアニスト、音楽家、音楽学校教授。別名、神戸 絢子。 日本の洋楽界最古のピアニスト(洋琴家)として知られた。東京音楽学校 (旧制)を卒業後、母校で30年以上にわたって後進を指導し、従四位勲四等に叙せられた。 東京府人・梁田正直(元鳥取藩士族)の長女として、東京に生まれた。第百銀行監査役・神戸信義(元岡山藩士族・元藩主侯爵池田章政家扶)の養女となり、姫路水力電気技師長・神戸順三郎(明治3年7月生、神戸信義の養子)と結婚、長女貞子(明治34年3月生)をもうけた。一家は1914年(大正3年)に分家した。
沢永 彦四郎(さわなが ひこしろう、1879年(明治12年)… 沢永 彦四郎(さわなが ひこしろう、1879年(明治12年)2月15日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚・台湾総督府官僚。旧名太吉。 富山県西礪波郡福岡町(現在の高岡市)出身。第四高等学校を経て、1901年(明治34年)、京都帝国大学法科大学政治科、同経済科を卒業し、統監府属となった。1910年(明治43年)、朝鮮総督府属となり、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。その後、朝鮮総督府営林廠事務官、鎮南浦府尹、逓信局事務官・海事課長などを歴任した。 いったん退官するが、1929年(昭和4年)に台湾総督府総督官房会計課長として復帰した。1931年(昭和6年)、台湾総督府専売局参事となり、神戸支局長を務めた。
鈴木 榮作(すずき えいさく、1879年〈明治12年〉2月1… 鈴木 榮作(すずき えいさく、1879年〈明治12年〉2月15日 - 1940年〈昭和15年〉6月2日)は、明治・大正期日本の外交官。香港総領事や、シドニー総領事を務めた。 靜岡県出身。1900年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1902年外交官領事官試験合格、外交官補任官。群山理事庁理事官、ニューヨーク総領事代理などを経て、1908年シンガポール領事。1910年南京領事。1912年待命領事(外務大臣官房記録課臨時勤務)。1916年外務大臣官房会計課長心得兼務。1917年香港総領事、高等官三等。1921年シドニー総領事。1925年依願退官。 妻のふみは室田義文貴族院議員の三女。外交官の古谷重綱は義兄。
矢吹 慶輝(やぶき けいき、1879年〈明治12年〉2月13… 矢吹 慶輝(やぶき けいき、1879年〈明治12年〉2月13日 - 1939年〈昭和14年〉6月10日)は、日本の宗教学者・社会事業家。旧姓は佐藤。号は隈渓。 1879年、福島県生まれ。東京帝国大学を卒業。卒業後は宗教大学(現大正大学)教授となり、欧米に留学。敦煌出土の仏典を研究し、1925年「三階教之研究」で学士院恩賜賞受賞。勤労児童のための三輪学院を創設、東京市社会局長。1939年、狭心症のため死去。 長男は弁護士の矢吹輝夫(1926-2006)。
安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう、1879年(明治12年)… 安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう、1879年(明治12年)2月11日 - 1954年(昭和29年)5月10日)は、日本の政治家、陸軍軍人。軍人としての最終階級は中将。 太平洋戦争時の大政翼賛会副総裁、国務大臣、内務大臣。戦後、A級戦犯容疑者として逮捕された。 兵庫県で旧篠山藩士、鳳鳴義塾長で歌人の安藤直紀(内藤中虚の次男)の次男として生まれ、鳳鳴義塾中学を卒業。 1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年6月、陸軍歩兵少尉となる。1901年(明治34年)台湾守備歩兵第10大隊附となり、翌年、陸軍歩兵中尉となる。1904年(明治37年)10月、歩兵第10連隊中隊長となり、同年11月、陸軍歩兵大尉となる。
田村 西男(たむら にしお、1879年2月11日 - 195… 田村 西男(たむら にしお、1879年2月11日 - 1958年1月21日)は、日本の劇作家、小説家、劇評家。 東京日本橋生まれ。本名・喜三郎。東京法学院(現中央大学)卒。1903年より『文藝倶楽部』に小説を発表。1907年、光村合資出版より滑稽文芸雑誌『笑』を創刊し花柳小説を書く。『中央新聞』の劇評を担当し、劇界・花柳界の通であった。女優の田村秋子は長女。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
藤川 利三郎(ふじかわ りざぶろう、1879年(明治12年)… 藤川 利三郎(ふじかわ りざぶろう、1879年(明治12年)2月10日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 愛媛県に片山半三の二男として生まれ、藤川文造の養子となった。1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。大韓帝国政府財政顧問、朝鮮総督府書記官、度支部税務課長、平安北道長官、慶尚北道知事などを歴任した。 退官後は四国電力株式会社代表取締役、高松電灯株式会社取締役、朝鮮京南鉄道取締役などを務めた。
若月 紫蘭(わかつき しらん、1879年2月10日 - 19… 若月 紫蘭(わかつき しらん、1879年2月10日 - 1962年7月22日)は、日本の劇作家、演劇研究家、翻訳家、歌人。本名の若月 保治での著作も多い。 山口高等学校を経て、1903年東京帝国大学卒業。兵庫県洲本中学校教諭、石川県七尾中学校校長代理ののち、1908年「万朝報」の記者となり、1921年「人と芸術」を創刊。1922年万朝報を辞職、新劇研究所を設立した。 千代田高等女学校教諭、1928年東洋大学教授として国文学を教え、1933年千代田女子専門学校および帝国女子専門学校教授を兼任。紫蘭の号を捨てて人形浄瑠璃の研究に専念した。 1945年戦災に遭い帰郷、1950年より山口大学講師。メーテルリンクの『青い鳥』を翻訳した。
黒田 善太郎(くろだ ぜんたろう、1879年(明治12年)2… 黒田 善太郎(くろだ ぜんたろう、1879年(明治12年)2月7日 - 1966年(昭和41年)3月27日)は、日本の実業家。コクヨの創業者。 長男は黒田暲之助、三男は黒田靖之助。孫に黒田章裕、曽孫に黒田英邦、黒田卓也。義子に原信太郎。 20歳の時、故郷を離れて大阪市へ出て紙店につとめる。1905年、27歳で「黒田表紙店」を創業。表紙の質の良さなどで販売を伸ばし、基礎を築く。 1917年、「(越中)国の誉れとなるように」と「国誉(現在のコクヨ)」と商標を定める。1961年、社名を「コクヨ株式会社」に変更。和式帳簿を主体として出発したが、洋式帳簿を手始めに、現在オフィス全般の製品販売をこなしている。
井手 薫(いで かおる、1879年〈明治12年〉2月6日 -… 井手 薫(いで かおる、1879年〈明治12年〉2月6日 - 1944年〈昭和19年〉5月11日)は、日本統治時代の台湾で活躍した建築家。美濃国岐阜出身。台湾総督府営繕課在任中、台湾の官庁や民間建築を多く手がけ、その設計理念と風格は台湾建築界に影響を与えた。 1879年、井手今滋(いましげ)の長男として出生した。父の今滋は幕末の歌人・橘曙覧の長男で、山梨県尋常師範学校長、新潟県尋常師範学校長、岐阜県海西下石津郡長などを務めた。 第一高等学校を経て、1906年(明治39年)に東京帝国大学建築科を卒業(岡田信一郎、本野精吾、倉田謙らと同期)。同年辰野・葛西建築事務所に入り辰野金吾のもとで建築設計に従事した。
森岡 京次郎(もりおか きょうじろう、1879年2月5日 -… 森岡 京次郎(もりおか きょうじろう、1879年2月5日 - 1920年6月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 奈良県山辺郡出身。東京帝国大学政治科卒。森岡銀行頭取、日本紙業、玉造倉庫運輸信託各(株)社長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において奈良2区から無所属で立候補して当選する。選挙中に森岡銀行が取り付け騒ぎに遭って破綻したため、当選から間もない6月27日、預金者に申し訳ないとして短刀で自殺を図り死去した。
木村 彦右衛門(きむら ひこえもん、1879年(明治12年)… 木村 彦右衛門(きむら ひこえもん、1879年(明治12年)2月5日 - 1933年(昭和8年)3月31日)は、日本の商人(薬種商)、成見屋薬局経営者、薬学者。 正七位勲六等。薬学博士。大阪薬学専門学校校長。大阪府薬剤師会長。日本薬剤師会副会長。族籍は大阪府平民。 大阪府出身。先代・木村彦右衛門の長男。幼くして父母を喪う。博聞強記で、4歳の頃には百人一首の全部を暗誦した。1883年1月、家督を相続し先代を襲名する。1893年、大阪共立薬学校に入り専ら薬学を修めた。 1899年、第五高等学校医学部薬学科(現・長崎大学薬学部)を卒業。1年志願兵として入営。東京帝国大学医科大学に入り薬学を研究した。長井博士に就いて薬化学を研究すること5年に及んだ。
野田 三郎(のだ さぶろう、1879年〈明治12年〉2月5日… 野田 三郎(のだ さぶろう、1879年〈明治12年〉2月5日 - 没年不明)は、日本の篤農家、新潟県多額納税者、地主。族籍は新潟県平民。 新潟県北蒲原郡水原町(現・阿賀野市)出身。野田三郎の五男。1906年、家督を相続し前名・又五郎を改め襲名する。農業を営む。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は新潟県北蒲原郡水原町(現・阿賀野市)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
藤田 元春(ふじた もとはる、1879年2月4日 - 195… 藤田 元春(ふじた もとはる、1879年2月4日 - 1958年4月13日(79歳没))は、地理学者。 京都府美山町の神官の家に生まれる。1900年京都府師範学校を卒業、教員となる。1916年京都帝国大学文学部史学科に選科生として入学、京都帝国大学卒。小川琢治、内藤湖南に学ぶ。1925年第三高等学校教授兼大阪高等学校教授。1944年定年退官、戦後は山梨大学教授、立命館大学教授。1947年「日支交通の研究」で京都帝大文学博士。
臼田 亞浪(うすだ あろう、1879年(明治12年)2月1日… 臼田 亞浪(うすだ あろう、1879年(明治12年)2月1日 - 1951年(昭和26年)11月11日)は、日本の俳人。本名は臼田卯一郎(ういちろう)。 長野県北佐久郡小諸町(現・小諸市)に生まれる。小諸義塾に学び、1904年和仏法律学校(現法政大学)卒業。在学中に短歌を与謝野鉄幹に、俳句を高浜虚子に学ぶ。電報通信社記者、横浜貿易新聞編集長を経てやまと新聞に入社。 大正4年(1915年)大須賀乙字とともに俳誌『石楠』を創刊して、俳壇に登場し、信濃毎日新聞等で撰者を務めた。恩師高浜虚子の『ホトトギス』、河東碧梧桐の新傾向俳句を批判し、俳壇革正を目指した。松尾芭蕉、上島鬼貫を慕い、自然の中にこそ真の俳句があると唱え自然感のある民族詩としての句作を目指した。
玉屋 喜章(たまや よしあき、1879年(明治12年)2月1… 玉屋 喜章(たまや よしあき、1879年(明治12年)2月1日 - 1956年(昭和31年)10月17日)は、明治末から昭和期の実業家、政治家。参議院議員。通称・時次郎。 高知県安芸郡佐喜浜村(佐喜浜町を経て現室戸市佐喜浜町)で、漁業・玉屋能作の長男として生まれる。15歳頃から帆船(阪神へ薪炭を輸送)乗組となり、1900年(明治33年)大阪市の海士学館を卒業した。 海運業を始め、高知で紙問屋、大阪で事業を行うが失敗した。その後、関東に移ってから成功し、1923年(大正12年)総武銀行(現千葉銀行)頭取に就任。その他、台湾産業社長、大興紡績社長、共同生命保険社長、蓬莱閣ホテル社長、宮城電気鉄道取締役、成田急行電鉄常任監査役、玉屋産業海運商会社長、松田汽船社長、千葉合同無尽社長、千葉銀行取締役、千葉県商工連合会長、同県経営者協会会長などを務め、1946年(昭和21年)千葉商工会議所会頭に就任した。
赤池 濃(あかいけ あつし、1879年〈明治12年〉1月27… 赤池 濃(あかいけ あつし、1879年〈明治12年〉1月27日 - 1945年〈昭和20年〉9月10日)は、日本の内務官僚、政治家。静岡県知事、警視総監、貴族院議員。 長野県埴科郡南条村(現・坂城町)出身。赤池七右衛門の長男として生まれる。東京府立一中、第一高等学校を経て、1902年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入り、京都府属となり内務部第一課に配属。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1904年5月、内務属・大臣官房秘書課兼地方局勤務となり、以後、福島県参事官、同県事務官、滋賀県事務官・警察部長、愛知県事務官・警察部長、兵庫県事務官・警察部長などを歴任。 1913年6月、内務省本省に戻り内務書記官に就任。
佐藤 寛次(さとう かんじ、1879年1月26日 - 196… 佐藤 寛次(さとう かんじ、1879年1月26日 - 1967年5月31日)は、明治・大正期の農学者、農業教育者。農学博士。専攻は農業経済学。東京農業大学第3代学長。位階および勲等は正三位・勲二等。 古海三次の三男として山形県米沢市に生まれる。兄は同市議会議長を務めた古海勘三郎。親戚に海軍主計少監となった古海長義がいる。 米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)入学の年、富農の佐藤文太郎に見込まれて養子となり、近代農業の可能性を感得して農学を志し、1904年、東京帝国大学農科大学を首席で卒業した。 帝国大学大学院で農業経済学研究のかたわら、全国農事会(帝国農会の前身)で加納久宜幹事長のもとに会誌『中央農事報』の編集に当たり、プラット『英国農業組織論』やピョートル『田園・工場・仕事場』などを紹介した。
川口 義久(かわぐち よしひさ、1879年〈明治12年〉1月… 川口 義久(かわぐち よしひさ、1879年〈明治12年〉1月26日 - 1945年〈昭和20年〉8月28日)は、日本の衆議院議員(無所属→政友本党→立憲政友会)、日本大学学長(1933年就任)。 神奈川県鎌倉郡瀬谷村(現在の横浜市瀬谷区)出身。日本大学を卒業後、オハイオ州立大学で学び、修士号を取得。さらにイェール大学大学院で学んで、法学博士の称号を得た。帰国後、日本大学の幹事、講師、学監、理事、教授、学長を歴任した。 また清浦内閣で小松謙次郎鉄道大臣の秘書官を務めた。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、5回の当選回数を数えた。その他、川口製糸株式会社社長、瀬谷銀行取締役、日華学会評議員なども務めた。
上村清延(かみむら きよのぶ、1879年(明治12年)1月2… 上村清延(かみむら きよのぶ、1879年(明治12年)1月23日 - 1957年(昭和32年)11月1日)は、日本のドイツ文学者。現代ドイツ文学を専攻。東洋文学・思想のドイツ文学への影響を研究。 鹿児島県徳之島の亀津(現大島郡徳之島町)出身。東京帝国大学独文科卒。1943年「近代独逸文学と東洋」で九州帝国大学文学博士。第七高等学校教授、第一高等学校教授、旧制浦和高等学校教授、日本大学教授。1950年定年退任。墓所は青山霊園(1イ3-1)。 帝大時代には小山内薫、武林無想庵、吉田白甲らと同人誌『七人』を創刊し、同人の川田順によると、上村は樋口一葉に傾倒し、「にごりえ」「たけくらべ」は全部暗記していた。
宮島 清次郎(みやじま せいじろう、明治12年(1879年)… 宮島 清次郎(みやじま せいじろう、明治12年(1879年)1月20日 – 昭和38年(1963年)9月6日)は、大正・昭和期の経営者・財界人。日清紡績社長・会長、日本工業倶楽部理事長、東京市会議員。 栃木県安蘇郡飯田町(現・佐野市)に、佐野商業銀行頭取などを務めていた実業家・小林庄太郎の二男として生まれる。宇都宮中学(現・栃木県立宇都宮高等学校)時代は舎監いじめなど問題行動が多く、灸を据えるためか、10ヶ月ほど休学して東京の商店に丁稚奉公させられたことがある。この時の経験が、後に働く者の立場を重視する姿勢を涵養したものと思われる。 第四高等学校(現・金沢大学)を経て、1906年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、住友別子鉱業所(現・住友金属鉱山)に入社する。
佐分利 貞男(さぶり さだお、1879年〈明治12年〉1月2… 佐分利 貞男(さぶり さだお、1879年〈明治12年〉1月20日 - 1929年〈昭和4年〉11月29日)は、大正・昭和初期の外交官。広島県出身。妻は小村寿太郎の娘・文子。 佐分利家は備後福山藩士で佐分利流槍術を営む家柄であった。貞男は、1879年(明治12年)1月20日、父・好直、母・八代の五男として出生した。1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業、10月、外交官及領事官試験に合格した。外交官補として清国、ロシア、フランス在勤などを経て、外務省参事官、大使館参事官、通商局長、条約局長等を歴任。 1929年(昭和4年)8月、浜口雄幸内閣の外相幣原喜重郎に乞われて、駐ソ大使への出世を犠牲に駐支那公使に就任。
坂本 政右衛門(さかもと まさえもん、1879年1月20日 … 坂本 政右衛門(さかもと まさえもん、1879年1月20日 - 1942年2月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 1879年(明治12年)、高知県高岡郡宇佐村(現・土佐市)に生まれた。1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年6月、歩兵少尉に任官。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 1920年(大正9年)8月、陸軍兵器本廠付となり、1921年(大正10年)4月、歩兵大佐に昇進。同年7月、歩兵第55連隊長に就任。1922年(大正11年)8月、第8師団参謀長に転じ、教育総監部第1課長に移る。1925年(大正14年)5月、陸軍少将に進級し第3師団司令部付となる。
猪飼 たね(いかい たね、1879年〈明治12年〉1月18日… 猪飼 たね(いかい たね、1879年〈明治12年〉1月18日 - 1995年〈平成7年〉7月12日)は、日本のスーパーセンテナリアン。かつて日本国内最高齢かつジャンヌ・カルマンに次ぐ世界で2番目の長寿であった愛知県名古屋市出身の女性。 愛知県愛知郡寛政村(現・名古屋市港区寛政町)の農家の三女として生まれ、結婚後三男一女をもうけたが、子四人全員に先立たれた。 100歳ころまでは、杖を使いながら老人ホームの外へ買い物へでかけたり、レクリエーションに参加するなど元気であり、趣味の縫い物を嗜んでいたという。108歳の時には「長生きのヒケツは、病気しないこと」と語っていた。その後、何度か脳卒中で入退院を繰り返し、113歳の時に発症してからは寝たきりであった。
清水 銀蔵(しみず ぎんぞう、1879年1月17日 - 19… 清水 銀蔵(しみず ぎんぞう、1879年1月17日 - 1937年4月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。 野洲郡中里村(現・野洲市)生まれ。1902年東京専門学校英語政治科卒。愛国生命保険(株)に入る。その後、江州日日新聞社取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において滋賀3区から立憲国民党公認で立候補したが落選。1924年の第15回衆議院議員総選挙では革新倶楽部公認で立候補したが落選。1927年の補欠選挙で初当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙で滋賀県全県区から立憲政友会公認で立候補してトップ当選。1930年の第17回衆議院議員総選挙で当選。1932年の第18回衆議院議員総選挙では2度目のトップで当選。
寺田 三郎兵衛(てらだ さぶろべえ、旧姓・川上、前名・豊通、… 寺田 三郎兵衛(てらだ さぶろべえ、旧姓・川上、前名・豊通、1879年〈明治12年〉1月16日 - 没年不明)は、日本の商人(稲元屋、呉服商)。神奈川県多額納税者。 神奈川県高座郡藤沢町(現藤沢市)出身。川上九兵衛の長男。1892年、寺田満重の養子となり1917年、前名・豊通を改め1921年、家督を相続した。 稲元屋と称し、呉服商を営み、県下の多額納税者であった。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。住所は藤沢。 旧稲元屋呉服店は初代寺田三郎兵衛が弘化2年に創業、昭和初期には「湘南の三越」ともいわれていた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
前田 晁(まえだ あきら、1879年(明治12年)1月15日… 前田 晁(まえだ あきら、1879年(明治12年)1月15日 - 1961年(昭和36年)9月9日)は、日本の小説家・翻訳者。号は木城。妻は童話作家の徳永寿美子。
高橋 寿太郎(たかはし じゅたろう、1879年(明治12年)… 高橋 寿太郎(たかはし じゅたろう、1879年(明治12年)1月15日 - 1945年(昭和20年)4月8日)は、日本の海軍軍人。階級は海軍少将。衆議院議員(立憲民政党→国民同盟→立憲民政党)。位階は従四位。勲等は勲二等。 岩手県上閉伊郡千徳村(現在の宮古市)生まれ。東北学院を経て、1900年(明治33年)に海軍兵学校を卒業した。日露戦争の際には戦艦「富士」の乗組員として旅順港閉塞作戦や日本海海戦などに参加した。1912年(明治45年)、海軍大学校を卒業し、軍令部参謀、海軍大学校教授を歴任した。第一次世界大戦では青島の戦いで第二艦隊参謀を務めた。その後、海軍大学校教頭、海軍砲術学校校長、第一水雷戦隊司令官などを歴任した。
古宇田 實(こうだ みのる、1879年1月13日 - 196… 古宇田 實(こうだ みのる、1879年1月13日 - 1965年2月16日)は、日本の建築家、建築史家、庭園研究家。神戸高等工業学校校長を務めた。フレッチャー(Banister Fletcher)『建築史』の翻訳でも知られる。日本建築の研究者で東京美術学校(現東京芸術大学)での教職の後、関西に活動の場を移し、その研究を生かし奈良、京都、鎌倉などの文化財修復にあたり、また鐘楼の設計などを多く手がけている。こうした功績で勲一等に叙せられた。 茨城県の判事・古宇田義鼎の二男として東京に生まれる。1902年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、大学院に進む。庭園研究を師の辰野金吾に天沼俊一とともに勧められて始める。
新美 卯一郎(にいみ ういちろう、1879年1月12日 - … 新美 卯一郎(にいみ ういちろう、1879年1月12日 - 1911年1月24日)は、明治期の社会主義者である。幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。 熊本県出身。熊本県尋常中学校卒業。東京専門学校中退。 1907年松尾卯一太と『熊本評論』創刊。宮崎民蔵(宮崎滔天の次兄)によって組織されていた土地復権同志会に紙面を提供する。1910年の幸徳事件(大逆事件)で検挙され、1911年1月24日8時55分、市ヶ谷刑務所で絞首刑が執行された。32歳没。
手塚 縫蔵(てづか ぬいぞう、1879年1月12日 - 19… 手塚 縫蔵(てづか ぬいぞう、1879年1月12日 - 1954年8月16日)は日本の教育者。基督者。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)生まれ。長野県師範学校に入学し、信濃毎日新聞主筆の山路愛山からキリスト教に関する感化を受け、在学中に長野教会で高木信吉牧師から受洗する。明治35年(1902年)、太田水穂が校長を務める東筑摩郡和田尋常小学校に赴任。同37年(1904年)に休職して上京し、植村正久の東京神学社に学ぶ。復職後は上高井郡川田、須坂の各尋常小学校の訓導、東筑摩郡会田尋常小学校校長を経て、明治44年(1911年)長野市後町尋常小学校首席訓導に転じ、教師仲間と「東西南北会」を結成し、形式主義的な教育に対抗して、教師自身の人格を高め、生徒の個性や人格を尊重するという「人格主義教育」を唱えた。
神岡 一亨(かみおか いっこう、1879年〈明治12年〉1月… 神岡 一亨(かみおか いっこう、1879年〈明治12年〉1月10日 - 1924年〈大正13年〉11月21日)は、日本の医師、軍医。李王家御典医。広島県高田郡長田村(現在の安芸高田市)出身。最終階級は陸軍三等軍医正(少佐相当官)。
半澤 洵(半沢 洵、はんざわ じゅん、1879年1月9日 -… 半澤 洵(半沢 洵、はんざわ じゅん、1879年1月9日 - 1972年9月25日)は、日本の農学者・教育者。学位は、農学博士(北海道帝國大學)。日本学士院会員。北海道帝國大學名誉教授。市立名寄短期大学初代学長。北海道札幌郡白石村(現・札幌市白石区)出身。 納豆菌の純粋培養を大正時代に成功させ、納豆製造業の近代化に道を開いたことで知られる。 細菌学を研究し、細菌研究の先駆者にして、第一人者。特に、納豆菌研究が有名。半澤に拠れば「滋養に富み、消化良好にして、欧米のチーズに匹敵する」として、「半澤式納豆製造法」として確立した。従来の藁納豆に比べ、衛生的で、純粋培養の納豆菌の使うだけに高い栄養価も維持された。
長野 綱良(ながの つなよし、1879年(明治12年)1月8… 長野 綱良(ながの つなよし、1879年(明治12年)1月8日 - 1950年(昭和25年)7月29日)は、昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県大野郡戸上村長。 大分県大野郡、のちの戸上村(犬飼町、野津町戸上を経て現臼杵市)で、長野音五郎の長男として生まれる。野津高等小学校、臼杵の久保塾で学んだ。農業を営む。 戸上村会議員、同村長を務める。1915年(大正4年)大分県会議員に選出され、政治活動を本格的に開始。憲政会大分県支部常任理事、同幹事長を務め、同党の解散後、立憲民政党に加わり同党大分県支部幹事長となる。 1930年(昭和5年)2月、第17回衆議院議員総選挙(大分県第1区、立憲民政党公認)で初当選。
水野 直(みずの なおし、1879年(明治12年)1月5日 … 水野 直(みずの なおし、1879年(明治12年)1月5日 - 1929年(昭和4年)4月30日)は、日本の華族(子爵)・政治家。貴族院の院内会派・研究会の幹部で、加藤高明内閣の陸軍政務次官。水野宗家第18代当主。旧紀伊新宮藩主・水野忠幹の五男。養父は旧結城藩当主家の水野忠愛。妻は旧菊間藩主・水野忠敬の三女・貞子。教育調査会会員、臨時教育会議委員、学習院御用掛、鉄道会議臨時議員などを歴任した。 1879年(明治12年)1月5日、旧紀伊新宮藩藩主・水野忠幹の五男として東京府で生まれる。1884年(明治17年)10月に水野宗家第17代当主・水野忠愛の養嗣子となって同年12月に家督を相続する。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学卒業。
大場 信続(おおば のぶつぐ、1879年(明治12年)1月4… 大場 信続(おおば のぶつぐ、1879年(明治12年)1月4日 - 1964年(昭和39年)10月7日)は、日本の郷士家。農業土木技術者。大場家は源平合戦(治承・寿永の乱)に勇名を知られた大庭景親の後胤で近世では代々世田谷郷の井伊家領土の代官。信続は13代目にあたる。父信愛の長男として世田谷邸世田谷代官屋敷に生まれる。 東京帝国大学農科大学農学科に入学し、学生時代農科の端艇部ボート選手として紫友会に活躍。1903年(明治36年)卒業後、兵役に服し陸軍砲兵少尉に任じる。1905年(明治38年)大学院に進学。農業工学を研究し、また1年間大学主催の耕地整理講習会にも参加。その後、東京農業大学の前身東京高等農学校講師、農商務省嘱託。
牧野 輝智(まきの てるとし 1879年(明治12年)1月4… 牧野 輝智(まきの てるとし 1879年(明治12年)1月4日 - 1941年(昭和16年)8月29日)は、日本のジャーナリスト、経済学者。専門は財政学。学位は経済学博士(東京帝国大学) 牧野鼎藏の三男として熊本県に生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)を1897年(明治30年)に卒業して、熊本県立商業学校で英語や地理を教え、間もなく教頭になる。その後佐賀県立佐賀中学校、暁星中学校等の教壇に立つ。 同郷の大先輩である清浦奎吾が農商務大臣に就任すると、清浦の要請で農商務省特許局嘱託の農商務大臣秘書に転身し、清浦と久米金弥特許局長が創設した工業所有権保護協会の機関誌『工業所有権雑誌』の主幹も務める。
中井 励作(なかい れいさく、1879年(明治12年)1月3… 中井 励作(なかい れいさく、1879年(明治12年)1月3日 – 1968年(昭和43年)2月18日)は、農商務官僚、商工官僚、実業家。 熊本県出身。第五高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。翌年より農商務試補、山林局事務官、水産局書記官、広島大林区署長、高知大林区署長、東京大林区署長、大臣官房文書課長、会計課長、特許局長、山林局長を歴任した。1924年(大正13年)、農商務次官に就任し同年末に製鉄所長官に転じた。1934年(昭和9年)、製鉄所が日本製鉄株式会社に改組されると初代社長に就任し、1939年(昭和14年)まで在任した。